2008年10月31日

商売訓

堅気の商売は一朝一夕で成り立つものではない。
世へ悪影響を与える生業で泡銭を稼ぐ連中の末路は必ず地獄の底であるのを見よ。

人間を智恵才覚で騙し上前を稼ぐ。
この如何ともし難い経済動物の行為が社会から許されるのは唯一、良い影響に満ちた商いだけである。

世のため人のために尽くす者を福が恵むのは誠に理の当然で、この逆に世の中に害毒を及ぼしながらひとり安楽な暮らしを企てる者は、身分不相応の金銭が却って急速な家計没落の切符なのである。

退廃生物圏

株式会社ビットウェイという東京都内の台東区にある会社、
同じく都内品川区大崎にあるNECビッグローブという会社、
さらに東京都港区三田にあるビービーエムエフという会社、
また都内の東池袋のパピレスという会社、
またまた都内の渋谷区神宮前にあるインフォコムという会社、
最早場所は言うまでもないがNTTソルマーレという連絡先は電話番号0570-000-539の会社
は、全国の未成年、善良な子女および一般市民いや人間みなに悪影響を与える卑猥な漫画の広告を、各携帯電話サイトのページに掲載してあぶく銭を稼ぐいやしい連中である。

天下の台所を目下にあれだけ日々自信満々の知事管轄というのもこの程度のものだと知るべきだ。誠に意地汚い連中め、カネのためならなんでもやるのだから。
最低限の品性も欠落し、非教育で低俗な欲望の塊を撒きちらす、一体、人間と呼ぶのにふさわしい連中なのだろうか?
奴らには書かれた言葉を読み取る能力もなければ、その内容が美しいか醜いかを見分ける才能も生まれながらにない。あまりに汚い都内ではそんなものが育つよしもない。

愚劣な連中に媚て票を稼いでもその虚栄は地獄堕ちの気っ風なのに。衆愚政、救い難い。

2008年10月30日

知識の審美性

科学理論、つまり知性認識は概念による自然の審美的把握にあるらしい。真理の中身は世にも希な概念という事だ。自らに属さぬものは持たない。

2008年10月29日

いえがらと遊びし沢を埋め立てしひとの心よ清き流れよ

桜の木

都市計画へ最大の教養を求められる長期計画には在野の賢者に指示を仰ぐべき場合もあろうに、官尊民卑の弊害は上からのクリアランス文化を未だに引きずり、あっという間に様変わりする下らない建物、場所へ金持ちになりたい一心で破壊に接ぐ破壊へ拍車をかけるばかりである。美しく咲いた桜の木を切り倒し、幹線道路を通した君達はワシントンの足下にも値せぬ言い訳ばかりだ。なぜその一本の木すらよくも遺せなかった君達に未来の安定があるだろうか? 足元から崩壊するバベルの塔に住まう心地は、その桜に一時留まる鴉より儚いのか。いざ誰が君達の故郷を守るものであろう。君達自身さえ風景を守る意志がなければ、匠の証拠さえ漫画の一話に綴じられ東雲と消え去るのみだ。遺すべきと遺さなくて構わないとを見分けられない君達は趣味の高が知れたもの。

2008年10月28日

ふるさと

ふるさとの烏の声はかなしけり

感情論

人類一般が幼型化の傾向を示すのは、彼らの性染色体の母系性から明らかに、我々自身の理知に対して感情がより優位になる経過をも示している。ある競争の限られた環境へ人類を囲い、この楽園かで自己進化させれば一層明らかに幼型化の洗練が現れる筈である。対して理知とは、彼らが大変に厳しく競争する地域に必須な習性なのであり、これは理性に対する知性に関してより顕著なことと思える。単に理性により仲間と協調するのみならず、より激しく他人を出し抜く必要がある場所では知性の充実が謀られる如くに。
 感情とは、ある安定して緩やかな協調のできる場所についての習性であり、決して人間競争の結果とは感じられない。従って、文明諸国ではその発展の恒久さが試されるに連れて、必ずや感情の洗練の程に最高度の品性の目安が見い出せるだろう。なぜならばこの文明社会の目的は、周辺を要領よく治め済う過程で、対外環境より対内環境の恒常性を高める生命体現象に比類できるのであって、我々自身が人間へより有益な種類の養生に事欠かない程、つまりこの国家がより緊密な紐帯で自らの繁栄の為に協業の度を高める程たしかにその神経系統としての個々の細胞すなわち個人には至微の高さが、性格の繊細さが要求されることになる。比較的粗野な人にとって、文明の環境で彼らが如何に複雑な神経を働かせて日々を立ち行かせているかは同じ種類から生じた現象とは信じられない位である。
 結局は人類自身から分岐してより広範な生態を生じるのはこの不眠不休の神経系統が身体全体に統率を与える能力について、と思える。理由は彼らが社会を形成する限りその伝達経路の拡充が情報化の結論に当るから、と言えそうだ。人類が遠い将来に、我々自身と何らかの近似を保った系統発生の証拠を短縮された胚割の間にのこすとしたら、それはおよそ間違いなく我々自身の幼型化の傾向としての伸長性、すなわち理知に対して感情知能の優先の傾向である。我々自身は大人にならない範囲について、成熟的諸形質の縮小として人間性がある一定の場に固有の速さで、ばらばらにではあれ進化するのを日々細やかで複雑な機構を築き上げる社会の秩序へ観察できる。彼ら自身が天敵に災いされない幸せな時代を続ける限りこの半ば孤立した星の中では独自に、固有の協調系として生態間の相互救済作用、共生進化の体系化の流れは避けられはすまい。すると、人間性に限度があるならそれはやはり同類間互恵制度の定式化を目指す経済人の理念に、好ましい程度の普通さを単に社会性一般の秩序型として求めざるを得ない。そして現行人類の課題とは、この福祉救済方法を単に同類のみならず彼らの看護可能な生物一般へ及ぼすことにあろう。ある習性を他の種類にとっての相利関係に置き換えていく人為的な工夫が自然の容量を殖やす方便なら、この巧みさは真に慈悲の理想を競争原理と調和させる経済感覚に由来する。

2008年10月26日

ティッシュペーパーの改良

ティッシュペーパーを二回引き抜いて使う場合を考えると、現行の二枚重ねの無駄を節約して「一枚型」を流通させれば、エコの掛け声にのせ相当成果があるだろう。

新規適所の開拓はこういう微妙な考え方の転換にあると思える。必ずしも技術志向である理由はないのだ。

2008年10月25日

新聞雑誌の品位

2008年10月25日朝刊、朝日新聞が意味も分からずセレブ等と俗語を用ゆ。有名の義を誤解させる将来推して知るべし。

2008年10月22日

文明度

文明は度合いにしか目的とすべき理念を持たない。この為に、それは地点として山頂の様に達成されるものでなく、絶えず登り続けられる山道の如くであるらしい。実際に、ある文明は圏域として、いつも比較によって辛うじてその有りかが知れるだけだ。文明度という理念は全く考慮に値する何事かであって、我々人類があらゆる智恵を動員して幾ら考えを詰めてみても、その段階という建築体系に行き当たるだけである。そして常にあらゆる人間生活を含むところのこの体系は依然、未完成だろう。天国に仕事がなければ話は別である。我々が完全に文明化しきるという理想はやはり、他の地域に比べてしか見出すことならない。

 すると人類自身が幾つかの国に別れて互いの土地を耕す限り、この市民秩序の偏差は競走の間にしか見つけられまい。結局我々が歴史から見逃して来たのは、人間競走には遅速の違いしかなかったという訳であった。ところでアキレスは亀に追い着かれはしない。これは比較文明論にとって絶対命題とすべき矛盾律である。従って先進後進という順序ではなく、単に人間界には目覚ましい市民秩序の達成に遅速があるに過ぎないだろう。アキレスの足と亀の足とではどうも長さ自体も違う。つまりは、連結する総ての世代で、相互の文化を最も摩擦少なく伝える方法論を備えた民族は、否応なくこの文明度の成長を他と引き比べて圧倒的とし、かつこの地位に他の民族が後から進むということは論理的にあり得ない。そしてこの固有の方法論は伝統と呼ばれる。考え方として社会は進歩するのではなく、単に先祖へ接ぎ木されるだけだと言えよう。文明間の競走には微視すれば差ほど進歩や退歩があるのではなく、その巨視的には社会体制に市民秩序の違いが次第に現れているというゆっくりした交易現象しかない。時間が相対的な様に空間も然りであって、例にたがわず文明や文化もこの夫々の違いをまるきり交換までもせず固有の系として保存する。熊と兎は各々の山路を経て暮らす。かれらの出会いは時たま起こる希な出来事であるが、この交差がどちらかの体系を吸収しても我々は進歩や退歩を考えはしまい。やはり社会はかれらごとに違う使命を背負う。
 文明に、競走が目的とはなりえないのがあきらかである。その度合い自体がつねに至るところ目的の形なのだ。これらの間にあまねく観られる遅速の偏差は、別途市民性として全く民族と呼ばれるに相応しい秩序足る。ゆえに人は民族間競合を実は殊更深刻に考える理由もなさそうだ。これらの文明度に見かけの遅速があるのは何ら、彼らの生活様態と無関係である。蛮俗の風習に恐れ入る人はその変哲な知識を以て百科辞典の頁に綴じる、だが彼らは永久に交わりはしない。答えとして文明度に於る普遍の意義はその系統であって、相互参照やお互いの文化圏への影響は民族間にとって誠に偶然に基づく仮の交遊としか思われない。彼らはもし相手の文化圏ごと自らの内へ摂取しうるほどに適当な間柄でなければ、やがて再び別れてゆき、自身家系の山道に入る他ない。誰もが仙人になるものではなく、彼らには途中の綺麗な畔の引かれた街や山奥の奇妙な踊りが特徴の部族を横目にしながら天の方へと、一途かつ自由に旅を続けるべき権利がある。この為に、最終的には地球の人間生息域には真に見事な文化系統樹が広く、育てられる筈。その各地気候の異なる山間へ旅する者は同じ種を蒔くにせよ。文明度に於て已、この人類世界という樹木の部品ごとの鮮やかな特長は、のちに注意深く社会学知識へ整理されるのだろう。根っこの堅固な保守組織を驚嘆に足る彩りゆたかで寛容な花弁の周囲の細胞と等価視できぬ者なら、その観察は全人類の麗しい互恵体が自然の合理性に由緒する事実へかなり冷淡と言うべきではないか。彼はこれらの緻密な細胞間の分立協業が太陽系の周期に、又その為に生ずる季節と風景に応じし規則立った移りゆきたる真理を、当面の人間競走へ夢中で従順な余り受験勉強に集中する結果、仕組まれた暗記計画でのみあると勘違いしていた。科学と科挙とは訳語は似てはいるが。

2008年10月19日

缶コーヒー

あきくれば缶コーヒーの赤くなり

2008年10月16日

村疇論

Gated community、柵村は独特の文化を育むにはそれなりの利点があるとして、その内部であらゆる野生さが消え去り平穏が訪れるというのでもなく、単位面積あたりの混沌化は逆に速まることからかなり早い段階でその人工的な内部秩序が完璧ではない、となんらかの含みある柵内犯罪の発生から証明されることになるだろう。たとえばオートロックマンションでもその自治意識がおのずと低い場合は、すみびとから如何なる悪意も排除しきれるものではない。なるほど厳しい山門検査により猟気は静まるとして、我々は絶えざる管理によってもつまらない規則違反が決して消滅しないのを、廊下に捨てられた詰らぬ煙草の吸い殻にも響き渡る音楽会にもしばしばお遊戯会にも見るだろう。
 ということは又、柵村は逆に、公的社会全体に対しては新しい混乱の原因。ありうるのは小さな村と大きな村だけであり、国という単位から見れば中で住み分けが発生していく訳。
 具体的に、どうやれば取り残されたスラムをことさら作らずに世を治められるか。
 専ら私有地を複数人へ分割して貸借する権利は合法である、従って柵村自体は全く需要ある限り発達し、のちには町そのものが柵されることもあるだろう。出入口を管理した柵の内部で異なる種類の人生が営まれる場合、国はこの過程を合法と見なす訳には必ずしも行かなくなる。彼らの権力がもし国全体より大きくなってきた場合、取り残した国民をなんらかの被差別化によって行政的に排除する危険もある。しかし大きな環境変動から事情が変われば、この柵村民が彼らから別称される「外の」浮浪より適性でないとは言い切れない。

 以上を考えると、柵村に代わる、少なくとも民主思想と大きく矛盾しない垣村がより現代化された集住形として遅速あれ認知される日が来るだろう。ヨソモノを敏感に捉えるのは全く農耕民族の本性であって、この高い主体的な文化意識がなければ、たとえ鉄壁で守られた城壁の中でもいついかにして土壌が荒らされないとも言えない。つまり共同体は共通目的のために、弛くか強くか協力することでのみ一定の恒常さを保たれる。
 外部からの出入をある程度自由にしておきながら、内部系の耕作民度を甚だしく正義へ向上させる方が、結局はより誇り高い秩序を長期に渡り維持する道筋を見つけ出せる。柵ならぬ垣を設けるのは透明さを外部の民族にも印象づけ、その独特の規則を文化理解する機会を外観や露ないとなみかたから与え、公益の模倣可能性に貢献する。それは現況の柵村に少なくとも管理されていない出口を設けることでも、漸近して行ける農村からの知恵だろう。勝手口がない場合、この主婦は姑の意向に帰依するために緊張を内部に向けかえ、胃腸を悪くするかもしれない。

2008年10月10日

ICチップの需要

電子タグを安価にかつ軽量にすることで商品へ貼り付けたバーコードのみで自動コンビニは可能である。
デビットカードを含む電子マネーが一般化するのは、その流通過程の省略から単に時間の問題である。

このタグは少なくとも需要の増大から大量生産に至るのが確実と思われ、輸送リスクのなさを鑑みて海外にというよりは地方にIC工場を立地させるのが、軽減した要員から成る国富計画には新たなかなめと思われる。

2008年10月4日

初頭数学の授業法

授業に応用として、優れた生徒へのインド式四則計算術のみならず、最も出来の悪い生徒へも賢明な加減計算の骨を掴ませるのに揃盤を使うのが古来の知恵だった。二桁以上の繰り上がりや繰り下がりを最短で行う手順は、ソロバンの玉を幾つ一緒に動かすべきかという慣れに等しい。たとえば15-7=8は、十五を作ってから五つの下側の溜まりを除いて、のちに二つをあまった十の玉から除くのがより良い。これはソロバンが足し引き計算の道具としては最も単純な5進の規則に基づくから可能な導き方で、手のひらの指を用いていた祖先からの恩恵とも言える。

純粋理論の独立

実学伝承と純粋学問とは相異なる理念である。技術を純粋理論型教養一般から分けて、実学へ徹した専門能力啓発の機能拡大に傾注することが高度産業社会の情報化にも寄与するところ多大なのは、我々の技術更新が急速に転換し続ける流動型時代にあればなおさらに、文化慣習を社会の現況と大きくずらさないままで時期に即した人材を開発するのにも必然の方角だろう。そして各種教育機関間での適材の実現を最大限妨げざるべく、中等教育程度の共通学力試験を通過すれば如何なる高等教育間での出入志願も単位互換性として解放されるのが本来である。理論のための学院、学部に対する技術のための専門学校が企業との共同型人材育成には最も適正となる。そこでは積極的に職場訓練・On the Job Trainingも取り込むべき。無用の用たる教養の涵養は屡々、或いは殆ど必ず商人の現実勘定とは違う原理に基づく限り、損得利害や実現可能性に縛られない自律した構想力の飛翔と啓発には、純粋理論の大学が飽くまで全体社会から独立した組織を維持出来ねばならない。我々の学問は如何なる現世の権威にも身を売らない者の高貴なる目的でなければならない。審理は政治経済に依存しては決してならない。我々の全時代を超えて、世界と文明の真実を一途追求するのは単なる目先の利潤を端睨にも構わず寧ろ、人類全員なべての知の終極形なのだから。

大学に於ける研究と教育

近代の知識大全型大学であるUniversityが風変わりなのはそこでは研究と教授とがほぼ一体化していることだ。教授と研究室が同じなのは不可思議な馴れである。しかし能率という面から、或いは教育適性と探究適性とが必ずしも同じ理念ではない事情からしても、将来に渡っては学院と学部とは異なる機関へと分業して行くのが道理だろう。常識に照らしても真実は事実とは異なる。前者は教授ではなく研究者を養成し、後者は専攻を中心とした教養を与える。そして教授資格という事も俄然、研究員とは別項に要請されねばならない。これ専用の実績および面接諮問が大学毎に設けられて良いと思われる。無論学問独立を考慮して統一国家試験は無理な事である。
 学ぶのに有能だからとはいえ教え方が上手いかどうかは、たとえば教員と学習塾講師との違いにも似る。我々は統合大学という理念を研究項と教授項とに分けて考える、より新たな習慣に至るべきだろう。各種の高等教育は民間の独学を含める国民の学問能率を高める為に絶えず再び整えも崩されもして構わない。知識の伝授を緻密に社会神経化する機関名が教育であるからには。

世風

勿体無いの次にはケチ臭いが流行語になる

両極を避けられた者は調度良さを身に着ける

事故米を捨てるのではなくバイオマス燃料に利用する者は

2008年10月3日

黒猫

天気の良いある秋に近付く晴れの日に閑な黒猫が歩いてる

2008年10月2日

18

夕暮れに混じった18の頃の匂い

2008年10月1日

ストリートビューの問題点

Googleのストリートビュー機能は我々の政治的不可侵性を徐々に弱める役に立つと同時に、少なくとも「観光都市」にとっては致命的な損害を及ぼす。
物珍しさの感じられなくなった所はわざわざ訪れる価値をみいだせないだろう。例えばディズニーランドの中身を全てストリートビューに詰め込むなら人は遠出する動機も失せる。

よって、『特に観光都市を自認ないし目標する行政は、このサービスを排除する様に勧告すべきである』。日本では京都、奈良、沖縄および北海道が特筆すべき当該区域であると思われる。
 対して政治都市を目指す国際的な開放の広範な地域ではこの機能によって透明度の高さから不信感を拭う役に立つだろう。日本では東京がこれに当るか。