2008年10月16日

村疇論

Gated community、柵村は独特の文化を育むにはそれなりの利点があるとして、その内部であらゆる野生さが消え去り平穏が訪れるというのでもなく、単位面積あたりの混沌化は逆に速まることからかなり早い段階でその人工的な内部秩序が完璧ではない、となんらかの含みある柵内犯罪の発生から証明されることになるだろう。たとえばオートロックマンションでもその自治意識がおのずと低い場合は、すみびとから如何なる悪意も排除しきれるものではない。なるほど厳しい山門検査により猟気は静まるとして、我々は絶えざる管理によってもつまらない規則違反が決して消滅しないのを、廊下に捨てられた詰らぬ煙草の吸い殻にも響き渡る音楽会にもしばしばお遊戯会にも見るだろう。
 ということは又、柵村は逆に、公的社会全体に対しては新しい混乱の原因。ありうるのは小さな村と大きな村だけであり、国という単位から見れば中で住み分けが発生していく訳。
 具体的に、どうやれば取り残されたスラムをことさら作らずに世を治められるか。
 専ら私有地を複数人へ分割して貸借する権利は合法である、従って柵村自体は全く需要ある限り発達し、のちには町そのものが柵されることもあるだろう。出入口を管理した柵の内部で異なる種類の人生が営まれる場合、国はこの過程を合法と見なす訳には必ずしも行かなくなる。彼らの権力がもし国全体より大きくなってきた場合、取り残した国民をなんらかの被差別化によって行政的に排除する危険もある。しかし大きな環境変動から事情が変われば、この柵村民が彼らから別称される「外の」浮浪より適性でないとは言い切れない。

 以上を考えると、柵村に代わる、少なくとも民主思想と大きく矛盾しない垣村がより現代化された集住形として遅速あれ認知される日が来るだろう。ヨソモノを敏感に捉えるのは全く農耕民族の本性であって、この高い主体的な文化意識がなければ、たとえ鉄壁で守られた城壁の中でもいついかにして土壌が荒らされないとも言えない。つまり共同体は共通目的のために、弛くか強くか協力することでのみ一定の恒常さを保たれる。
 外部からの出入をある程度自由にしておきながら、内部系の耕作民度を甚だしく正義へ向上させる方が、結局はより誇り高い秩序を長期に渡り維持する道筋を見つけ出せる。柵ならぬ垣を設けるのは透明さを外部の民族にも印象づけ、その独特の規則を文化理解する機会を外観や露ないとなみかたから与え、公益の模倣可能性に貢献する。それは現況の柵村に少なくとも管理されていない出口を設けることでも、漸近して行ける農村からの知恵だろう。勝手口がない場合、この主婦は姑の意向に帰依するために緊張を内部に向けかえ、胃腸を悪くするかもしれない。