2009年6月30日

携帯電話開発案

純子供用携帯電話はできるだけはやく開発されるべきだ。着信ボタンと、親へ通じるボタンの二つだけを付けた丸っこいスタイルであれば済む。悪戯できないようダイヤルや電話帳は要らない。
そして、電磁波の成長期への影響のよしあしには疑問符がついたままなので、これは低電磁波W‐SIMによるPHSのシステムでつくられるべきだ。
すなわち、『通話可能ポケットベル』が開発されるべきだ。
 このシステムは老養や聾唖にも応用できるので費用対効果は膨大である。

フィルタリングには限界があり、そもそもが大人向けに開発されたものを子供へ直接もたせようとする考え方は鞄をランドセルへ代替させようとするのと似て浅はか過ぎる。

 参考例として、海外版firefly等が挙げられる。

2009年6月29日

芸能論

人類の知的行動がその最盛部であれ小売の繁昌に過ぎないのを見る事は我々自身の認識能力の過信を冷ますのにともあれ有効だと思われる。

 自由人を自尊する有閑の徒にとってさえ、彼等業者の半生がそのまま惑星内で栄えた系の自然和の複合型であると知るなら、その教養の骸が単に商の片棒を担ぐ道具として用いられている事情にびっくりも、また浅ましくも感心させられる。実用主義哲学の適所では特に急速な消化により直接に、知見が検証されゆくのを目の当たりにできる。そしてそこではやはり、あまりに急流であるがため更新の速度が保存すべき記憶を消し尽くすこと、或いは消費率の為に形質の転換がその保守よりも急激で結局はなにものこらないのを見る。忙事を好む者は彼等の形質の専用性についての改良が生産者より相対的に劣っていることを隠蔽する為に集まりを作り、その集合的誇示に起死回生を賭ける。だが成功することは殆どなく、場合によっては世代を跨がず脆くも崩れ去る。

 我々が理解するのは芸能というもの全般は、最終的には全くが諸形質の後進地域だということ。たとえこの派手な誇示に騙されて危うい綱渡りを物ともしない演者の毛並みを幾たびか集積したにせよその楼閣はいずれ砂上の幻惑に過ぎぬ。忙事とは、奴隷制に馴れた形態の面白おかしく演じている騙し合い化し合いの説明会である。彼らには暇があるという未来はなんら理解できない。

 世阿弥の芸能論が「花」を一座の集約としたことはその中でたまさか生じる希な形態をめずらしく観賞する立場に基づく。
 だから我々は忙事好みの芸能人が、結局はこの「花」についての適解を選択しようと永遠に叶わぬ願いを申し出ているのを見るのだ。そしてそれは目立つほどにかえって失われる出現率なので、実際には咲かず、単に獲得形質に於ける擬態を連綿と他者の模倣によってくりかえしては潰えて行く。

 最も価値のある芸能はよって、咲かない花を演じること、いいかえれば蕾の技となるだろう。そしてそれは現実には花形と見える物を既に衰え出した形態と見せかける二重否定の擬態を本質とする。だが適切な対比によってのみこの技が栄える以上は、寧ろ忙事の多彩さは形質の希少価値を創造する場の条件とさえ言え、よって役者は敢えて百花繚乱の地点を微妙に外して生きながらえるものである。

資本制度の家政的効率

社会生物学の概念としての隔離場が環境収容力の設定の為に階級分化の一定以上の規律を要する所は人類にあっても同じである。
 この事実を認識する者は、団塊の真似が不必要となればその基本となる階級分化規律も再び展開するのを診るだろう。そして同時に、階級分化の指標として来た公的差別の手段も無効となる。なぜならその旧式の規律で行動しつづける群は、自動的な市場の需給平衡の法則にしたがって職にあぶれて、結果として経済的に整理されていく、というのも異なる戦略を要する場面に於いてより効用係数の高い職階制を敷いた系より能率に劣るからだ。可塑化にくらべ最適化は最善ではない、という進化論の立場を会社組織規模へ援用してもいい。
 我々は資本主義への数々の矛盾点の指摘にも関わらず、やはりそのしばしば賢明すぎるまでの冷厳さを最大の功利性と認めるべきである。何故ならば、なんらかの社会主義的共産主義的あまつさえ急進派による極端に原理主義的な思想傾向は、福祉の最大化への流動資本の流路を、自然界と人間界の社会的に共有する法則である自業自得の原則によって隅々までおのずと確保させようとする資本主義の知性を上回るほど流麗ではありえない。すなわち我田引水の悪意はあからさまに人工ばった調整よりも、自然淘汰の力に任せておく方がより効率よく消滅していくものなのだ。我々は農村秩序の中でこの自然淘汰がいわばヤマト的全体社会として、悪分子への差別によって裏切り者の排除へつながる現象を観察できる。
 将来についていえば、日本国内に関する階級分化は確実に資本主義選好の順列へ倣うだろう。つまりそこでは各種の便宜上に発生する順位区別が資本能力順へ整列されていく。だがここでの行動規則は団塊の黄犬趣味とは大分ことなって(なぜならすでに固有の耐久消費家電についての膨大な国内需要が存在しない以上は終身雇用体系そのものが成立できない)、現実に有する資産の維持率ということになるだろう。大企業へ属する肩書きが最も経済的担保となってきた戦了直後場合とは、その家政にまつわる合理性が異なる。要するに身分より家財が、より精確に経済力の選好へ本質的役割を演ずる。以前の様な膨大な需要はもし宇宙開発等の増産場への開拓が起こらなければ多数にとっては見込みえない。よって多かれ少なかれ自由圏では家政にまつわる責任分担が世代間に及ぶことが確実視できる。
 さらにこの流れは事実上、地球規模で起こるものだろう。どうしてかなら、耐久消費財への供給率に限度があるという事情は人類が環境収容力という隔離場の条件に縛られている間はつねに一定だからである。しかしこの中途段階では勿論、貿易差額についての資財寡占の先後を通し、より先に高い比率の製造業の合理化を内部留保的設備投資の昂進によって謀った国家系がより有利に事を進めると予見できる。
 我々はこれらのことから結局、家の復活が割に合うという独特の伝統思想に、階級制度の本質的利点である再生産率の高度の形質分岐と分業への適応を見るのだ。いうまでもなく自然順位制への効用の観点からの逆転化が社会思想の根本ならば、又、家の制度にとってはなんらかの公的保障が充てられるだろう。別の言い方にすると地球内では実質はどうあれ、名分については家財とは違う公益的効用の面から国内外を問わず、かなりの社会保障が供えられるものだろう。そしてそれは上述の自業自得の原則へかなりよく叶うものだろう。

分析哲学の最深射程

我々自身が如何に学んだとしても、それは言葉の認識に留まると主張する現代の分析哲学の視野は真に尤もだし、それは全科学者が近代という時代に異常な応用的伸び幅への貢献によって技術者化の弊に陥り創造的全能を欲したとしても、理論というものの記号論としての限度を悟る迄はその神話が飽くまで認識でしかありえないという客観的真理を彼等の為し得る学習の自然依存性に託しておく他ないほどだ。科学知に於ける純粋な限度は、自然という創造物あるいは対象への認知度でしかない。結局それは純粋に記号論なのである。
 芸術が何事かを創造か創作かしている様に見えたとしても、実はそこで行われているのは対象への操作に過ぎない。この対象(物自体)は改変不能でもあり、単にその組み換えを図れるだけである。そして経験の知らせるところによると、実際の芸術が審美的でありうる根拠とは対象の出現確率が場の有する混沌度の中で比較的低いといった主観の感覚的認識に由来している。花のめずらしさへの世阿弥の論拠はこの出現率のばらつきという対象への操作に本質的に関わっているといえよう。なぜならば、可逆的編入は宇宙に於ける熱反応系にとりその偏差分量を増大させる効果を持つ。
 すると、技術なかづく科学技術と呼ばれる現象とは、物理学から分析すれば可逆系という熱量に関する偏差でしかなかったという事が知れるのである。だがこの認識は、我々が可逆系を自然のシステム群と引き比べて賎しめる理由にもその軽視にも繋がりはしない。可逆性一般は生物の秩序度反応が彼等の外部系へ斉す作用の総称であり、少なからず宇宙に於ける幅広い熱的偏差の一系統を為すからだ。
 この可逆系はおそらく、今生人類程度の知能容積で最も純粋となったとき記号論を形成し、尚且つそれは数理論理学(或いは記号論理学)の分野へ一層のこと極度に集積され出した。何故なら数理記号(或いは記号式)の可逆性は人類が有した全言語の普遍性の中で最も原理的であるが故に引用可能性が高いからであった。だから数ある数学の中では、記号論理学が、さらにその中では記号式についての分析哲学が実際、人類といった知能行動を自信している不束な生命体にとっての学の先鋭であり、最も基本であるのだ。
 我々がもし西暦2000年前後の今でいう小学生未満の幼児へも屡々、獲得形質の幸先として最も根源的な記号式、つまり加減乗除と是非且又を教えるのならその行為はきわめて的確であり、知性の促進にとっては最大級の効用を発揮するに違いない。

2009年6月28日

形而上学の人類生物学的保証

人類自身の大きな特徴は彼らが知能行動を活かして各種の協力的建築術へ秀でるところにある。本能のみを担保に最小部材で最大強度の巣を構造化する蜂は、高度の分業にも関わらず人類の如き意思疎通の方法を明白には持たない。そしてこの点で言葉という外部化された媒体を担保にしうる人類の協業系は意思伝達容量の面から比べて膨大となった。つまり遺伝情報のみに頼るのではなく、伝達系そのものを情報遺伝化することで獲得された言葉に載せられる内容量は世代間で事実上、解放された。これは脳という身体部位の増大と等しい経過だった。
 もし人類が言葉を持たなければその情報網は多少あれ鳴き声やその他の感性の遺伝程度に待たねばならなかったろう。イルカや犬笛等はこういう非言語伝達にとっての感性の主導権を今に残している証拠だが、言葉を定型発音ではやくに補い出した一集団はすべての面で他の類人猿より進んだ協力的合図を確立できた分だけ、複合化された術を手に入れることとなる。即ち、草原進出に渡る両手の解放が先ず身振りを、次にその際の喚き声を、遂には定音節の伝承を。我々は、特には本能行動の傾向が強い雌性の人類でもこの種の言語以前の発話起源を、感情の表出の必要な恐怖や驚嘆など原始的場面で奇声を発するところに観察できる。それは種に関わらず類の規模ではどれもよく似通っているのを見よ。
 文明を展開させた我々は記号論と説得論とをこの言葉の用いる典型へ次第に分岐させることになった。
 記号論はさらに分解され、数学となり、すぐに代数論の中でも選れて純記号操作へ特化した記号論理学を生み出した。そして我々が今日までに知識として到達した最も純粋な記号論はこの言語分析操作つまり解析の成果へ求まる。等号=を同値⇔と等価視させた者は、この宇宙に於ける最も根元的な平衡の規則を数式言語の上で発見したのである。それはもともと言葉では言い尽くせないものとしての無限への終止符であり、同時にその仕組みの規則性ある解読の式であった。我々は物自体を知れないかもしれないが、何か他の物との比較の上でなら性質を解析できるだろう、という希望的観測がはじめは実践的幾何学の中でぼんやりとしか知覚できなかった対称性を、言語にとって不可欠な類比という作用の絶好の比喩とした。もしこれらの数学論上での徐々に進められてきた選り分けの経過を注意深く辿る者があれば、彼は二つの物事の間の本質的等価性をかなりの幅広い記号順列で規則づけることに成功した科学が、最も合理的な知識体系の法則化へ先んじて到達する未来をも確かに予見するだろう。
 対して、我々には説得論の言語世界が遺ることを疑問視できない。というのは解析は単に自然の規則性を細やかに教えるのに留まり、主としては政治行動の方法論としての決定的倫理には至らない。お決まりのカント哲学に法り、やはり理念に関する究極的な総合は多数派ないし群れへ向けた説得力のある理性能、つまり考えることへの哲学的実践に待たれねばならない。アリストテレスが教養の不足を形而上学に於ける数学的厳密さの欠如への批判の用にあてたのはこの総合という観点の最も原理的なことわりであった。なぜなら、説得力を持たせる言い分にはその場なりの機知を要する以上、言い間違えのない緻密さよりも圧倒的な多角性や衒学的なまでの博識、よかれあしかれ雑学と呼ばれる広範囲の備えが用をなすのだから。
 これらの文旨を理解する者はまた、なぜこの世では哲学という自由人趣味、あるいは能ある営みが必要らしいかも自ずと悟るだろう。それは最大多数への知識欲の浸透、つまり啓蒙という説得の手段としてである。そして科学知識が相対的軽重でしかありえない限りこの伝統ある教育方法は無辺のあまり博物的にしか内容を網羅しづらい生物学に関する非数学性あるいは学問の双方向性を善用した、論理的説得力を持ち続ける職能となる。ダーウィンに博物学的裏付けがなければ荒唐無稽な理論は打ち捨てられるに終わっただろう。我々は人類生物学に関しては、最後まで己の合理化といういわゆる道徳の論理を保証してよい。なぜならその群生の規則と一致するからである。無知の知あるいは助産術という所謂ソクラテスの命題も、こうして、最も判りやすく現状の知識の限界を示唆するための有効な論法であったということである。そしてそれは主として論理学を悪用し、詭弁術へ転化させ、物知りぶった不正な知恵者の人気取りの道具へ適用しつつあった当時の堕落した風潮への警鐘だった。つとめて矛盾を教えることはそれらの相対知を絶対知であるかのごとく詐称する、家庭教師として道徳観の欠如した偏った知恵者たちを少しずつ駆逐して行ったのだった。彼等は誰も何も知れないとか、知り得ることはもう知った等と好き勝手を言い触らし教養という世界に縁のない人々の歓心を買い、市民から青少年の教育係として高い信頼さえ獲ていた。
 古代の原始宗教的な停滞とその中でのわずかであやふやな知識だけでの自己満足に馴れた人々にあって、誤って死刑を宣告してしまうほどに、幾世紀を超えて突如としてあらわれた無限探求可能な科学者の態度を勧める者はまったくもって異質でも異様でもあったのだった。たとえこれが奇行や頑固をものともしなかった古来の哲人の代名詞にさえなっているとしても。
 この狭い知識を売り物にする場合に対して決して専門的でない教師が森羅万象すべての事柄に関して判りやすい授業を行える場合、やはりかれは各種の分野間の総合的操作によって言語に於ける建築術と言われるべき中々有難いもの、知識という素材間の建て方について複雑な功績を果たし得ている筈であり、だがいやはてそういう人こそ現実に学園組織を率いる頭となるのに相応しい。
 究極の協業体としての哲人政治の理想がやはり理想的に過ぐというなら人は少なくともその原型のみを学園に求め、実際に学頭の総合知の許すかぎりでは、理想的学内統治は規模を問わずに実現しうる。解析の連鎖、つまり科学はこの棟梁的学問への素材間組立にとってのいわば大工の仕事として、職人作業の徹底した分業能率へ働くものだ。

貝殻のおと

われ独り喧しき世に灯を点しいにしえのひとの心へ習いぬ
まつりごと好むものども尽きもせず人気の蚊とりにたかりておちゆく
京なら宵口のまちに移り行く車の赤もとこなき夕暮れ
あきんどの欲しきお手柄ただそれもつかの間のはれと変わらず梅雨空
学んだと記す肩書きかさに着て女だてらにけちらす酔いどれ
かわらずにのこる命ならなにをせずとも尊きこどもよ
誰からもかえりみられず石を打つ家無しの手にも仕事ぞありぬ
かみながら一つのこころをうつしだす世にも見えるは変わらぬ月影
海原のうちよせるところしずやかに想う心のままにぞなりぬ
星屑のかけらにすぎぬ身の上はただしじまの波際へおりし貝殻のおと

外道文化

ゴミ組織NHK無収入の勤倹学生から金をむさぼり見たこともないゴミ大奥の退廃した豪勢ドラマセットに使う
ゴミ政府の悪徳老人連合あらゆる利権を守り切るため将来ある若者へ徹底的共食いに及ぶ
外道文化極悪東京土人星中で犯罪映像を撮りまったく裁かず大量複製して売りまくる悪業

社会人

ほら金を溜めなよ
そしてあの虫になるんだ
立派なこがね虫に
踏み潰されても気にもされない
一流の社会人に

2009年6月26日

海歌

明け方の町をのべていくうつくしい雲がお日様を照らし出してくれる
この世へ暮らすものへあまねく染み渡るあおぞらの色よ
どこからか迷い込んだ蚊のむくろを土へかえしていく手が
なにものも知らずに流れ去るのが祈りだとは知らずに
ただ一人であれ世の中のまことの姿を見よ
どこにでもあるそのいつくしみを
われらをのべたまいしもののまことのかしこさを見よ
なにひとつとして欠けたところのないあるがままの御代を
お前を生み出したものの底知れぬ深さを
そしてもし失われることがあろうと
その夢はさめて
ただ晴れわたるそらのあおさが涙の跡を
とこしえの海へ融かしこんでくれるだろう
なにもかもがおもいどおりになる
そう君が知れば
いつかの日暮れのなかで沈んで行った
誰にもわかりえない疑いごとでさえも
わかりきった答えのくりかえしのなかに
みつけられることになるだろう
だからおもいわずらうな
目の前の問いを捨て去って
ときのながれに身をまかせるほど
遠回りをさせる行いはないのだから
よのなかのせめぎあいのなかでつらいおもいをするほどに
ただ明け方の空のあかるさをからだにおさめることができる
人という生き物がみな去っていったあとでもやはりここには
底しれぬ海のしじまが誰か
そのかなしみを引き連れて旅をつづけるのにみちたりた汐の騒がしさが
まちがいなくわれわれをみちびいてくれる
尽きせぬ川のながれがある
それをたどっていけばかならず海へ出るのだから

心の手形

神を知らず、神を畏れず、ただただ金を稼ぐことだけに生き急いだ会社員、それどころか商人同然の公務員が真っ逆さまに地獄へ堕ちるのは「業」と呼ばれる宿命である。

おお、万物が神の手中にあるのも悟らずに畏れおおくもよく拝金教を信じられたものだ。金ぴかものは偉大な神がはじめ感謝の礼にとして渡しておいた、お前たち奴隷の免罪符だったのに、お前たちはそれを今度は神の代わりにしたて拝んでいたのだから。

至善にして全能たる神の掌から一つ一つ丁寧にお造りになった人の心よりもそのつまらない切手が大事な社会人とやら、お前には「業」として、大切な人の心ではなく、いくらなりともお望みの金を恵んでやろう。それはなんでもない、化かした木の葉でしかないのだが。

 神の名を知らぬ者よ。世界が何一つ偶然ではありえないのを見るがいい。すべては神の手中で遊ぶ因果応報の劇なのだ。そして人の心を失った獣になれ。真珠を知らない豚として、永遠に責め苦のうちを生きていくがいい。

出版社の没落

既にウェブページというほぼ無償で瞬時に伝達できる情報ツールが成立している以上、既存の出版業は遅かれ早かれ潰れ切るものだ。それは木簡業者が既によほど探さないといないのと同じ歴史の自然だから。

 出版業という生業活動は本という媒体を購入し、またそれを情報源とする層の衰微と軌を一つにして衰える。そしてそれはおよそ今後、二、三十年の間で完了する流れだろう。なぜならITリテラシーのない侭でなんとか生きながらえているのはこの遅延した購買力と重なる、社会的には引退した世代のみだからだ。

店頭でパソコンを知らずにワープロを探す世代がどう間抜けであっても、製造市場が変わってしまえばそんな醜態も見られようがない。
 便利な道具を持った新生物が既存の旧態種を駆逐するところは全地球で見られる、適者生存の規則に叶う現象と言える。二本差しの侍は銃の流布で敗北確定した。それは本と紙に頼る旧人とウェブを持った生物との圧倒的な能力差でもある。

 そして既存の出版社がウェブページを忌避すればするだけ、そのウェブログ蓄積分の少なさに応じて将来の閲覧印税収入を減らすことは今から予想できる先行きである。
(媒体販売に依存してきた主要音楽産業はこれに続くだろう。ダウンロードコンテンツの仕組みをいち早く有能なミュージシャンの囲い込みで果たしていた会社が必ず勝利を収める。)
これらの変化で、消費者(読者、リスナー)と純粋生産者(作者、アーティスト)はみな得をして損は何一つないだろう。単に中間搾取であぶく銭をかき集めてきた驕れる商売人とその家系が絶滅するだけである。良識のある市民には少女売春同然の猥褻小説を受賞させて浅ましく売り捌いていた正に‘下種ども’へ、まったく同情の余地を持てないので。

2009年6月25日

棚機祭詞

明快的真実、君且信念万物、森羅之采配。
往年季年行正味、趣採乃唯唯宏大無辺之海原。
吾豁眼観照万象迩、一二三準備後出現即時竹林鳴響。
折節臨手中、熊猫考白黒不可耳目的真実、添明星流麗。
私儚牟緩糸、夜中融解和暗黒之宇宙内。
直閉又御簾、微微。
海原懐胎万物生命、無限寛容无過客塵芥列也。
独居想性創造神秘的心奥、無恙願無它之休閑村子。
只独唱且設計図内園進行様子、文化冷却指数之行列。
祈際祭詞際、汎眞実現後生存。俳句風子喚靡月齢傾向。
棚機祭詞。

雷鳴録

雨、雨好尓淤而、毎毎而、雨、雨乃仁。
信沈中好牟而、已已雨而、郵政好馳。
此処向処対処而、雨散髪跳漫宴乃迅。
破格的構成不望則許可律詩、雨亦雨游心。
直線的進路不能繁茂乃沈、直塵埃濡黄砂之陳。
嗚呼理解呵熱帯陣、畭畭浸透駟雲来之雷条鳴琴。
淤與的潯、四方八方降土砂之雨、君称來而立百鬼食。

雀の子

降ったりやんだりする雨足の先行きを思案する雀の子あり
除湿することができれば有難い冷えた空気もマンションに住む
飽きもせず商う者のむずかしさ教えてみても小雨を売り買う
大川の流れの上に座りなす白鷺の羽をひろげる梅雨入り

公共惑星圏

即断不十無 而列島用例
財團壮烈儀 健勝邇近甍
技巧速修些 再拝神前稔
置去独行後 濟濟迷昧毎
多夢少既往 及時勉強已
若幼未想像 来設定在業
何如計画中 有心問折衝
願望抑制等 平和代幸福
何故公忙尋 夜半応月照
腐心儚一時 然別雖常星
空中楕円廻 惑星為依然

2009年6月24日

私学の隙間

私立の大学や各種教育機関で、少子化の煽りをよける良策はいわゆるセンター入試への一元化から離脱すること、独自入試制度によって集約的超有名校とは住み分けを図ることにある。敢えて平均値は問わず飽くまで多彩な人物を呼び入れる条件付けに急がねばならない。
 一部では入試時点での競走的排除そのものをかなり軽減し、米国式に内部での真っ当な単位認定競走を追求することにも希望がある。この場合、学風が何らかの専門に徹しており既に入学者数が減退している条件が挙がる。なぜなら目的意識の明白な向学志向層の、過受験闘争からの受け皿としての需要しか特には期待できない。この際の経営改革ではまた学ぶ側のニーズに応える教授評価制度が早急に導入されるべきだろう。そもそも人気がないと、回転率に先んじられねば以前よりずっと減退した市場規模では不利だから。
 更にこの経過では、しばし専門学校との統廃合が有利となるだろう、いわゆる専修および専門学校の幾つかは大学とは異なった職業能力開発へ明治以来、特化してきた長い実績と安定感があり、その就職求人率の定常性はオーバードクター問題を延長戦に持ち込むより深慮ある魅力としてよほど利口な側面をもつものだから。
 結局徹底して体質を個性化し、他のどの学卒とも異なる全く類例のない教育制度を確立できれば、その隙間への高度の適合に応じて次の定員増産時期までをうまくやり過ごせるだろう。要は隙間教育が必須である。
 因みに国立や公立では必ずしもこれは当たらない。なぜなら希望者ほぼ全入の時代からは、寧ろ多教科に及ぶ総合学力的受験合格対策への投資率の高い富裕層がこの寡頭の門をくぐりやすくなり、結果そこでの少なくとも入学時での偏差値は自然に維持されていくからだ。よって私学経営ほど急速な改修措置は必要ではなく、どちらかといえば安定路線へ甘えすぎて風紀取締の弛みと飽和した上位下達組織内部での各種の嫌がらせが暴発しないよう既存体制の管理に鋭く注意を向ければとりあえずは済む。尤も分派や学閥を脱構する学際化の努力はつねに利益があって損失はないだろう。これは先ず提携校つぎに国際全域へ単位互換制度と、場合によっては私学との間でも教授抜擢制度すなわち地方間の戦略的引き抜きによるより高い異動率を推進すべきと教える。

NHKの過剰権益

2009年6月23日、各種販売利益による収益で増長し始めた、公営主体であるNHKが埼玉県に本社を置くホテル事業者へ提訴す。今後民間へも暴威へおよぶ予言す。
 公益事業体が自らを善意で養う国民自身への共食いに及ぶところはまるきり拝金主義で堕落しきった似非公務員の地獄絵図である。NHKだけが各種テレビ局と変わらない内容を勝手に放映しながら、一度も放送を観ず画面すら映さない苛酷な税制で困窮疲弊した国民存在から、その暴利を貪ってよい道理はない筈だが。

選種誘因の文明史観

人類間の競走が文明系同士の相利関係へ至るか否かは単に客観的なそれらの間にある経済的平衡の有無で決まる。1が他より、甲が乙より膨大なら決して蛇は象と争うことがない。蝶と花とは両方が経済的に等価である稀な適所へ合致したその幸運を楽しむ。経済規模が文明系の資源となる。雇用する労働量の多さは同時に、彼らの定型的生産量を期待できるだけ国家の養える学者、技術者、芸術家の質と量とを増進させることになる。人口支持力は今のところ実証されている中で最も信頼できる国力の指標である。
 これらを総合すると、有する土地の広大さはその儘、文明系が発展可能な限度を示していると考えていい。地上を越えた宇宙規模へこの認識を拡げると、植民領の規模はその系が持てる人口支持力の限界と一致している。若しある文明系が何らかの事情でこの領分を限られているとすると、大体は隣国との境界によるが、結果としてその土地の持たせ得る経済開発の最大値へ至った後で人口は減衰し、社会生物はその場に於いて最も性特徴を特殊化させた環境収容力戦略の形質を淘汰させ易くなる。いいかえれば狭い国土では場の誘因が形質を特徴化し易い。仮にこの場所が極度に狭いとすると、そこでは極端に幼型化の進められた変種が生じる。そしてこの場合の適所を隔離場と名付けられる。
 逆に宏大な、ほぼ無辺に広がる大海、大陸の性格を持った居場所を主義とした形質は内的増加率の為に特徴化され易い。これは同一形質の増産、速い世代交代の高繁殖率の為であり、成程、どの生態にとっても途上的形態あるいは比較的低次の体制がこの傾向を一層強く持つわけだが、よってまた多産多死によるピラミッド型の人口分布を普通とする商業的集団をつくる。分解者の絶対数に対して生産量が膨大な土地では植生の繁茂が目を覆うばかりに烈しく観察できる。人類生態の中で目まぐるしい繁華街が生じるのはおよそこの過剰生産的場面である。しかしまた如何なる消費者も土地生産量に対して生計を秤打つ限り増産の場は長期に渡る文明の発展にとっては必然とも言える条件であって、どの人種も富士則に応じてしか形質幅の裾野を広められない以上、結局はどの小型の衛星国も大規模の帝国的文明系へ共生か依存してしか成立できないのが明らかである。
 比べて、我々が進化という現象、つまり形質上の決定的な転換が起こる適所を発見するのはこのどちらでもない第三の地域に於いてのみであり、そこは謂わば全く偶発に左右されつつある移ろいゆく時間帯環境として観察できる。結局、既存のどの形質とも全く次元の異なった極端に進歩的な形質の選好され急速に集積されゆくことになるのはこの進化の場にこそ託されている命題であって、そしてそれはまた時が代われば失われてしまう臨機応変型のものめずらしい隙間なのであっただろう。珍しい生物は珍しい地域からしか栄えない。そして我々が珍しさを覚えるのは常に多数派や少数派とは異なった的数派についてだろう。なぜならある数量以上のまとまりある団性がみいだせない生物についてなら、既得の系が僻地へ入り込み小集団として隔離されたことからくる奇形作用の増長という奇観、同型種数の極端な少なさによる異様の面の方が先立つだろうから。
 これらの社会生物学的法則の環を哲学的へ体系づけられた結論へみちびくとするならば、我々は衛星文明の進化誘因、しかも風変わりでも在り来りでもない合目的なめずらしさという系統の複合型への高度に周密な的数有意性を、所々の自然観照の視野へあまねく見つけ出せるのである。可能なかぎり雑種的でなお文化上開放されており、かつ強壮な帝国圏にとって衛星文明に属する稀な適所、そこが既存種及び人類以上へ変異した形質の決定的進化を喚びこむのに最も好適で、実際にそこからのみ旧態よりずっと優れたはっきりした新種は栄えの光を見ることができる。なぜならば、この文明系では各系統から選良された血統が周密積算され易い社会誘因が殆ど確実に生じるだろうから。

2009年6月22日

功利主義の趣味的批判

人間の大きな目的は決して快楽だけではないだろう。我々は理念の為、大義の為に殉死した祖先は山ほど知っているけれども、単なる快楽を得る目的で亡くなった者の名前はあまり知らない。金持ちが金を得る為に死ぬことはなく、それを失うおそれの為だけに生を省みないのである。つまり快苦は目的ではなく幸福を得る手段である。もしこの目的に背く様なら人は甘んじて快楽を避ける筈である。子孫の幸せを期す為に辛い労働へ勤しむ者は苦痛を避ける事が不幸だからそうする。同様に幸福と一致するか否かは快苦の源泉ではない。我々が苦痛を避けて快楽を求める様に行動するとしたら、それが偶々幸福観と合っているからで決して快楽そのものが目的とは言えない。質的功利性は理念に関する義務へ価値を認める。というのは、精神の快楽は殆どの場合、克己と云う様に肉体の持った本能を克服した理性の達成感に由来しているからだ。
 快楽は量的には肉体の、質的には精神のそれに求められると考えられていい。代表的功利主義者たるベンサムとミルに関する批判つまり論理的基礎付けは、ロック以来のイギリス物質論の上に築かれたが為に肉体と精神との二元論を拒否してしまった事の混乱へのそれに求まりそうである。
 最も単純な公理として「幸福とは肉体の平静さであり、精神の昂進である」と述べ上げるのは適当である。則ち、肉体的欲求の中庸を保つことはその過不足のない健康体の延長で得られ、精神についての快はこの逆としてのぞみうる最大級の興奮と促進とを類的活動中へ要求する。完全な功利主義はこの精神つまり知能と、肉体というそれを支える部位との調和に関する最大限度の合理的かつ倫理に昇華された批判を待つ。
 我々が趣味主義についての可能なだけ理に叶った引き出し口を持つものならば、量的功利と質的なそれとを最も適切な一点で高度に的中させるような習慣づけ、すなわち最大多数の最高幸福の追求へ向かっての理性的判断力を広く啓発させる事をその哲学上の趣意とするもの。趣味が悪い、と云われるならばその習慣はやはり多数へ向けてこの最高の精神的快を浸透させるためには誤っているのであって、主観の好悪を抑えてみずからの性向を批判し直さねばならない。たとえそれが実用性や当時の多数派にとっての快楽原則へ合致し大いに人気を買ったとしても、一人の賢者から批判される余地が少しでもあるならやはりそれは完全な美術ではない。
 もし完全な趣味が発見されるものなら、又それは常に時代の流行にとって的中を要する感覚的にすぐれた選択であるに違いないが、いついかなる世代から見ても彼はどこにも非難の余地がないばかりか、人類全体への福祉的意思の浸透という公益の観点からも最大の功利主義者その人と目されることになる。往年の徳川慶喜の様に、或いは幾度の挫折を通じてなお理想を貫こうとした多くの東洋の隠者の様に、決して世俗へ拘泥せず節度を保ちつづけた誇り高い趣味人を、我々はいずれ完璧たりえない生活という矛盾に満ちた経験をつとめて極めようとする求道者としてなお深く、敬愛するのである。

階級分化の人類史的帰結

人類が、少なくとも資本制度下にある同時代の彼らが、所謂経済力という財産の誇示に大きな人生内価値を見出だす理由は、そこでの社会誘因が団的審美化を極として営む多数派の明白な目的意思をそこへ導くよう洗脳させているからだろう。古書に於て不義にして富且つ貴きは云々の言辞をみつけられるところを鑑みれば、いずれの時代にあっても大衆はなんらかの中流の商業階級に属するものなのかも知れない。だがこの社会学の命題については十分な実証的証拠からの史的分析を要する。自由主義の最も明晰な指導は、自らの個性を分業制の内で最たる合理化の為に徹せよ、という利潤目的の個別化に求まるだろう。そして蒸気機関以来の工業文化の展開は、分業制の進展を機械率の導入で果たして行く傾向にあった。その絶えず技革内差延から剰余価値の引き出され得る社会では、資本獲得への最適化がおそらく、最も誘惑の力を発揮する様になったのだろう。概ねその目安として他の哺乳類と同然に人類に於いてもその民族か品種の性特徴は雄性形質でより決定的に現れ易く、この資本獲得の誘因は工業化中のどの社会系にとっても繁栄の象徴とされ勝ちになってくる。だが我々が歴史を振り返るとき、そこには古代文明の賑わいは既に消え去って、記憶さえ定かではないのを知るのである。辛うじて文物の記録か、貝塚や古墳などの遺された建築物かその一部である美術品に関してしか古代人の生活観を知る由もない。
 我々が現況として激しい忙事生活を余儀なくしたにせよ、後世の人間または知性にとってはそれらには余りかほぼ価値というものは認められないものである。換言すると政治や経済にまつわる忙事の生活とはそれ自体が瞬間消費的な演劇の部分和。巨視や微視ならずそれらの程々に庸視すると、これら忙事系というものは建設作業を詳細に述べたものだと考えるのが妥当。ピラミッドやワールド・トレード・センターを築き上げたものはまさにそれらの忙事系だった。政治というものはある覇権的一族が国家を詐称して境界線を設け、その内部へ労働量を囲い込む忙事の謂いだから実質的には経済反応の仮定にある一形態だと思えばいい。アステカ王朝がテノチティトランへ果たしていた役割はやはりその柵主がコルテスへ移った瞬間に崩壊した。征服者が覇権を持つ場合、忙事系は即座にそれに応じて目的とする都市の形態をも変化させることになるのはこの一族の儚境意向が違うから。
 従って、庸的観点を以て社会内競走や生活環の変容を省察すると、我々は国家とは集合誇示の一つの形式であったということをはっきりと理解できる。文明と呼ばれている現象はこの国家間の競合状態の際に観察できる系の潜在及び顕在運動量であるらしい。
 更に完全に生物学上では単純な概念へ還元すれば之は実に巣作りの盛んさでしかありえないだろう。人類へ適当な語句へ卸せば建築集合体という言葉におちつく。なので、もし或る時代にかなりの高度な産業上の技革があって、その風下で活発な建設作業がもちあがり結果、大衆その他の労働要員の階層で忙事的形質選好の傾向が生じてくるとなると、例えば社会性昆虫のうち働き蟻の階級に実際には不妊である理由も存在しているが、繁殖行動の有無だけがその階層が次期にも増大するか、社会淘汰その他で数量的に処分されていくかが示されている一つの局面である。
 今人類の社会では強い階級制度を敷いて来た系と、近代に家産制の増大を披瀝してその国家体制を革命させた系とが併在している。そして人口ピラミッドの予測値は我々へどの民族状態が、果たして近々の将来にこの中で資本獲得を誘引剤に繁栄するか、逆にどの系が階級分化を推し進めてその環境収容力の設定を変えて行くか予知させえる。即ち、ピラミッド型は繁栄し、釣り鐘型は階級分化し、逆円錐型は衰亡するだろう。これはある文明の学術能力に比例した技術革新の速度と、囲い込みの土地へ収容しうる定員の関係が労働人口の繁殖比に表れるという一つの史的認識から求まる社会性をもつ生物にもあまねき事情だろう。

技術革新と既得権益

われ最近に‘インターネットは馬鹿と暇人のもの’なる表題の俗書販売されるところみかけし。

 思うに、木簡業者が最初に紙媒体へ行った反抗は同然に不当で、愚かしいものだったろう。そして後進生の敗戦色が利器伝承必然の趨勢によって濃厚になったとき、まるであの職業軍人のように寝返った側へ誰より情けなく媚びへつらうであろう。負け戦へ士気を鼓舞した者は無謀と呼ばれるのだから。
 また、未来についても同様の変化があると演繹でき、我々はこれを‘負け犬の遠吠え’とか‘風が吹けば桶屋が儲かる’といった諺ごと整理して「持たざる者は既得権益」とまとめ述べることができる。この社会内技革進化の原則はいついかなる時代でもそちこちで常に生じているだろう。
 ウェブ上に万能の百科全書や検索閲覧自由な往古図書目録を備えた賢明な民族、ほとんどの流通業をネット経由に一元化して無駄な仲介料をどんどん省いていた賢い小売業界の中心地が地球内に存在しているまるきり同時代に、冒頭に書いたような愚鈍の窮みといえる無知者階層が遼か後方に取り残され、しかもその一時の既得権益を守り切れると信じて進取の世界観を飽くまでも誹謗していた。この歴史的事実には、人類という知的に十全とはいいがたい社会的習性を有する生命体の負の現実として、後学へ益するため記録しておく価値があると信ずる。

2009年6月20日

東洋道徳の世界史的分析

東洋人は伝統的に奴隷制度を大幅に採用して来ず、代わりに政治道徳を正当化してきた。徳治思想の本質は協働にまつわり最小の調整的摩擦で生産量を増大させること、いわゆる和を貴ぶ感覚は集約農耕民なりの功徳である。市場の囲い込みだけが儒学の目的とするところだ、と考えても遜色はない。
 有閑期を保ち得るほど合理化の進んだ設備的進歩を果たしながらもその生産至上目的の習性だけは一向に変わらず、過剰価格によってはっきりした過剰性能の製品を低利で大量生産し国際貿易における覇権を占めつつある経済的思想体も、この消費道徳の未発達或いは生産的徳の強調という東洋圏の大きな特徴の一つとして数え上げられる現象である。労働者にとっては、仕事は理性に縁の薄い忙殺を望むかれらの幸福へ寄与する。こうして、農耕民へ適切な徳を説いてきた東洋人達は原理的に、現代に於ける労働者仲間への指導役を保全する事に成功した。

2009年6月19日

文学の誤り

和文に存在する文学という言葉は全く不穏なものだと述べられていい。その発生時にはliterature(文物)の訳語として、science(知識)と混同されながら流布されたらしい。だが文学というものが有り得るならそれは辛うじて言語学の一種類でしかないはずだ。芸術という制作的営みと学問なかんづく科学という理論的営みとは混同されるべきではない。もしどちらかを取り違えれば、美的装いで着飾った体系的でない理論とか、あたかも衒学者の余技であるかの様に見せかけた似て非なる作品を審美的権威として偶像視させるおそれがある。それらは人知を混乱させる分だけ、なにかをさがして真剣に勉強する者の人生内で教養に割ける時間を無駄にする。
 日本語に於ける文学という言葉はできるかぎりはやく淘汰されるべきものである。我々は単に技芸としてしか評価されない天性の才能のもとづく文芸を学ぶという愚行を犯すことなく、それは娯楽と趣味の領域へ限って置き、代わりに着実な建設と積算によって学習と教育の可能な数学的知識を、すなわち科学だけをまなばねばならない。
 もし文について習い事ができるとすれば、それは過去に名文家として知られた才能の実例から辛うじて表現の手法を引きなおす程度ができるに過ぎないだろう。本歌取りをおこなえるだけの教養人は、にもかかわらず古人の精神を生まれ持たないとすれば胡散臭い小賢しさと見做されるに終る。心を感動させる短歌は生得的感性、つまり天性にもとづくのであり、決して習い事によって上手くも下手にもなりはしないだろう。

教育の供給率

我々が知性と呼ぶ性質は主として体系だった学習行動に由来する獲得形質である事を省みれば、教育の有無が殆ど実質的な社会集団の合理性を決定する。そして哲学、自ら学ぶ事の能力を考慮すると、倫理に関してもこれは真と言われ得る。だから、もしある社会が失業率の増大によって社会不安に陥るのを防ぎたいならその最も効果的な解決策は、かれらを教育組織の中へ吸収することである。キリスト教、仏教、イスラム教をはじめとした各世界宗教組織はこの倫理教育へ多少あれ特化した部分集合だと考えてよい。
 資本主義の社会で貧困層と無学層とが一致することがおそらく、そこでの最大の不幸である。そして経験が教えることによれば彼らの無知は就中、犯罪行動と結び付き易い。さらに不幸の連鎖として彼らの家庭環境の悪化は浮浪と暴徒を内的増産させやすいのである。これらを考えれば、我々が自己責任論という自由主義の抱えた一つの決まり文句に依頼することなく、少なくとも国立教育の無償化と定員増を進めることは資本経済の負債としての格差社会からの不安を逃れる唯一の療法となりそうだ。

蛍光電球のダーウィン的転回

シャープがLEDのリモコン可能な新型電球を開発した。

住宅は無論、各種の建築や街路灯に於いて電灯系のスイッチ回路の設置やその交換費用は馬鹿にできないものがあるので、それらをみな省力化できるこの地味な発明品は着実に、従来の全電球電灯を駆逐できるものだ。
 他社はこの模倣か改良版に努力しなければ近々、市場勢力図が一新されるのを受け身で見るだろう。

現代経済学からの公費分析

製造業の観点からみれば、その業種を主に三分野に分けられる。すなわち「衣食住」である。
(工業生産には軽工業と重工業とがあり、それぞれ衣と住の部品以上のそれに当たる。情報産業とは基本的に住宅の装飾に関わるそれであると考えられる。建材用の林業を除いて農業水産と食品加工は食のそれとなるだろう。)
これらの物資をもっとも経済的に供給すること、つまり最も安価で質量豊富に流通させることが製造業の使命である。

 先進国同時不況の最大の原因は、おそらくこれらのどこかの流れが堰止められていることに求まる。新自由主義の学説そのものが改めて洗い浚い批判しなおしているケインズ思想の‘大きな政府路線’への疑問符は、結局これらの製造業上の原理原則にもとづけばまことに正しいのである。
いいかえれば、大きな政府の弊害として可処分所得の流路をみずからの懐へ引き込もうとする我田引水の悪意がどこかに蔓延るということだ。そして一般の貴族政治がその階級の支配率をのみ優先して私腹を肥やした例は歴史にいとまがないので、我々には有効需要拡大の名分に隠れて各製造業界と癒着し議員票を稼いでいる様ないわば“賊議員の蓄財”を否定しきれるものではない。
 結論から言えばハーウ゛ェイロードの前提条件にはかれら賊議員の選良主義といった大きな欠陥が隠されていた、と言われねばならない。我々の採用している資本主義経済がシロアリに食い尽くされるか、その駆除を最終的な主人の決断とするかは国家の傾きが共産主義国家のそれよりも進かどうかに待つ、迄のぼんやりとした経済観では間違いなくジャッキアップした新興工業国の生協主義に鼻を明けられるに終る。純血種といえども競走中には油断ができないのはその勝敗が結果で決まるからである。

この様な訳で、先進国が現在の不況を完全に脱する為には誤りなく、可処分所得の回復措置として「賊議員の排斥」という選挙改革が必須となってくる。
賊と呼ぶのは、かれらが身内の利権を優先して不況の原因となる蓄積私財を肥やす目的で立候補するからであり、しかもかれらが殖えればふえるほど、現実に不良所得という単なるハコモノ行革用の資金が余るだけに終るのである。
なぜなら彼らは製造業にはなんら直接の貢献はできないが、我田引水だけは計って全体として国内経済に流通する流動資本の総量を減らしてしまう。そしてもし技術革新にも関わらず不当な物価高が続くとすれば彼らの私腹がゆたかな代わりに国民の実際に使いうる現金よりも製造品の市場価格が高すぎるからなのだ。
 我々がこの国家のシロアリを駆除するために必要な唯一の方策は、『公務員会計の全面公開』だけである。もし清潔かつ正直な動機で公共福祉へ奉仕している侍ならば、これで困るところはまったくないばかりか却って国民の味方としての名誉や揚げ句には好況による税収増大が見込める。

東京政権への諌言

防衛庁の増長傾向は、今後の日本国の舵取りにとって大きな邪魔物となるのが間違いない。

すでに平時にあってもかれらの上官の命令を無視しておのれらの非力な知能で暴力性の誇示を正当化する者が幕僚長をしていた危険きわまりない不良組織、というのがその本性なのである。また、人類史がはっきりと歴史上に示している様に、指令系統と軍事系統が完全に分離していない政体は早期に暴走し、国内では実力行使で威嚇しながら謀叛を企てて独裁制度を敷き、外国へはかならず出来合いのイデオロギーで武力侵略しはじめる。

有事に現防衛庁は首脳の命令をまったく聞かずにおのれどもの独断で交戦最前衛の武力進攻を進めるであろう。なぜならば、平時にあってすらなんの大義名分もなく、文官の令を批判し且つ根拠のない武備の強権を主張して甜として愧じぬのが事実のありさまなのであるから。

 私は一国民としてわが国府へ諌言する。
「防衛力のすべてを警察庁の内部へ取り込んでおけ」、と。
(なぜならば国内に最大級の二つへ武備を分けるということは、それらに事実上の争いを許可しているのに等しく、その止まざる競争心はしまいには必然に実力行使という最終事態に至るであろうから。)
 そしてもしこうしなければ武力のみを頼って生き延びてきた血統を持つ武官は、何度でも懲りることなくおのれどもの無謀さを‘野生さ’というアナクロニズムとなった性的魅力の挽回とするためだけにでも、機会を捕らえて国内外へ暴力行動を働きつづけるであろう。
そして同一種内のお遊びならず甘えの許されない異文明間衝突の世界史は、作戦上の知性に欠損のあるかならず敗北する国手へは決して繁栄の恩恵を与えず、場合によっては人類として最大の特徴である知能に劣った血筋ごとまるきり殲滅してしまうものなのである。
――カルタゴやインカ帝国そのものの地上からの消滅を見よ。圧倒的な科学文明からの征服へ無謀にも反抗したインディアンやエスキモーやアボリジニの致命的衰退を見よ。国力を文化差で果たした幾多もの中華帝国をとりまいた無数の異民族の名もなき興亡史を見よ。
逆に、我々は確実な勝利が臨めるまでは教養人による慎重な外交策謀と知者階級の公認のもとで国内武力を一握にした議会主義により代々国政を司ってきたアングロサクソンとその遺伝系統が、学術と経済の両面でさえ最も繁栄しているのを政治史上、現実に見ているのである。

2009年6月18日

慈愛の一線

この世には自力では生きていけない不幸な人が存在する。石原都知事の様に弱者切り捨てを我が物顔で行うのは未来の評判を気にしないなら結構だが、少なくとも国政では障害者支援の財政融資だけはけっしてなおざりにしてはならぬ。

もしこの一線までも経済優先でふみこえるつもりならば、我々は秋葉原や麻生財閥アニメの殿堂とやらを死に神の為の土地にしなければならないだろう。

サッカー学

集団防衛は得意で、体格で不利な日本代表サッカーでは、圧倒的な攻撃力に特化した帰化外国人FWを雇い入れるべきだ。

笹の葉の舟

ただ一人冷めた世に見るさみだれも音もなく降りつゆと消え去る
おのが身もつかの間おりてかえりみるいとまさえなく笹の葉の舟
七夕のお月夜に願う兎さえ静かに暮らす夢を見るのみ

関西系ゲイシャジャップ

国営放送で多妻の大奥報じる奇形人種南蛮ジャップ姦淫罪か幼稚な漫画販売しか目立った特徴なし

ごみ以下の退廃民族東京天皇系倭奴子供すら安売りの姦淫罪漫画で育てる発狂一家

姦淫罪小説頒布罪をよろこんで褒賞させる関西系ゲイシャジャップ生き残る価値のない死滅すべき歪んだ奇形種

国庫節税策

政府の節税の為に現行で最も効果あるのは「NHKの民営化」だろう。
競合相手が多数ある場合、この経営が(市場の寡占状態にあったJRや郵政のように)短期に堕落することはほぼありえないのだから。
 不況にあやしげな曖昧徴税を行うインチキ経営機関が国民から貴ばれることはない。その放送内容のすみわけは別の話だろうが、公営放送がドラマDVD等の販売で儲けている時点ですでに、公共料金徴収の実質は形骸化しているのである。

2009年6月16日

倭人の適所

倭民族を客観視すると、圧倒的に目立つ特徴はその異様な好色さだろう。全地球を見渡してもこれだけ異様な生態を現に長らく保っている民族は史上に存在しない。聖書の中で、ソドムの村やモルモン教徒等の小数の例外はやはり悪徳のために極めて短期間に衰亡している。そしてこれはおそらく、かれらの属した島が異常なだけ感性に好適な風土であることと無関係ではない。特別な季節場はその民族一帯を以て、感覚の鋭敏化へと性特徴を集める。

 西洋圏で最もこれと似た性質のある温帯的性格のイタリアでさえも、倭人ほど異様な頽廃にはとても耐え切れるものではない。キリスト教が国土に結局根付かない場合、根本的にこの民族宗教が世界標準の清潔な多数派から倫理面で大きく歪んでいる証拠となる。特に関西ソドム圏及び東京スラムの人は政府によって伝統的に猥褻文物や、性奴隷業、人身売買の姦淫罪の企業をあまつさえ擁護しさえするのである。古くは宮内猥談集である源氏物語から民俗の性行動を赤裸々に取り上げたとりかえばや物語等、遊女遊郎を民衆の性的好奇心を煽る為に大袈裟に描写する浮世絵や漫画等の創作のみならず積極的な美化や流布までを進んで施す。有名な芸者街である祇園から、中近世は江戸に吉原と呼ばれる場所へ性奴隷を集めて脱出不可能なよう掘りで囲んで多妻や畜妾を自ら行う政府高官が隔離保護させる、現代ではまさに夷狄と言われるが相応しい異様な野蛮人種の毒々しい淫行勧誘罪と公然猥褻罪の撮影と販売業に幾多の国民を平気で犠牲にさせる、姦淫ゲームという性犯罪の煽情集団の会社を罰さないばかりか大いに後押しで繁栄させ、何千何万もの青少年少女らを金銭的に売買された姦淫罪の犠牲にする。実際に世界に類例のないあの従軍慰安婦を召集した偏向した習性は、言ってみればこの世界のはての奇形人種にとり信じ難いことだが、平気なのだろう。
 彼ら倭人はしかしながら、この伝説的に頽廃した文化によって寧ろ効率よく華美過ぎる種を淘汰してさえいるのだ。あまりに多量な場合、様々な商業的搾取の罠によってその特産種の価格を下落させることは全体の形質幅を広げる為の方法であったらしい。

 そして未来について考えれば、単に遊蕩であることは決して雄間競争に優等な形質の傾向ではないので、在来の倭人種が他の有力な部派に押されて順次に地表から減退滅亡して行くとしてもそれは自然界の命令としてはまこと正当なのである。文明の名に値するなんの威厳もない好色で貪欲なだけの本性の曲がった奇形島の奇種変種という位置付けに彼ら姦淫の倭人が分類されるとすれば、知的な性質に生れつき欠けた侭で成長させてきたその場の誘因が「競争的駆逐」の為に最適化している確たる証明となる。或いはその宿命はほぼ同等の哀しむべき習性をもった東洋同類の朝鮮民族と軌を一にするであろう。
 つまり、なんらかの新種の侵入を受動的に摂取し、あわよくばその強壮性に取り入ろうとすることでしか隔離された異様な僻地でさえ近縁交配の永続的悪影響を根治しえないということになる。この点で自然界の配置計画が彼ら倭へ外部の目には明らかに被差別化されえるほどの異様な好色さ、姦淫の悪風、或いはよい方向へ無理して見れば過度の稔質性という拭い去れないほど癖のついた習性を与えておいたことは一つの古く、彼らの適所共同体なりの智恵であり理性であったのだ。

土着信仰の進退

神道の狂信が実質的に、倭人の弱体化の根源因だった。それは特殊な民族宗教でしかありえず、更には政教一致を伴う古代信仰の一種だったので、理性面では常に多数派を迷走させる混乱の種でしかなかった。特にこの狂信が政治的急進派と結び付くと結果は最悪になってきた。理性を麻痺させるこの僭主政の支配は、結局はいつでも古代信仰の復活という独特の退行に落ち着いてきた。

 インドに於けるバラモン教やイスラエルに於けるユダヤ教、アイルランドに於けるケルト信仰の様にこの土着の神道の根絶ということは日本民族が絶命し尽くさない限りはかなり難しいだろう。特に在郷の農民層は自然崇拝としての神道の方法を代々信頼しているので、古代信仰の名残りとしての汎神論的思想形態は改宗させられなければ取り残された様に、国土の奥地で生き続けて行くことだろう。 

国政の筋

麻生氏の鳩山斬りはまったく正しい判断だった。

自由民権の主義にとって最悪の血統をもつ‘負のサラブレッド’を仲間にしている内は政権に信頼感を醸成することは不可能、ともっと前に悟るべきだったのだ。

2009年6月14日

政術不一致論

芸術の文化とはつねに既成概念を破格する予想外の場所からのみ栄える物珍しい花、ということなので、歴史に幾つなりとも実例があるように、特定傾向のそれのみを政府が優遇して保護すると必然にその文化は頽廃し、衰微するものである。

 メディチ家が保護してからルネサンスの草花は一息に活気を失って即刻没落の一途を辿った。現代フランスが芸術の中心地としての地位を失っている最大の原因は、特定傾向の表現以外を異端として退けることを強要するための、古典模倣の大学であるエコール・デ・ボザールの確立に等しい。黄河文化圏では国家保護官僚のもとにある文人学者の正史以外は俗の芸事として斥けられた為、すでにかつての華々しい殷賑は跡形もなく不毛の涸れた土しか遺っていない。江戸幕府はキリスト教を迫害するために聖像をよろこばなかったので、この国内には如何なる天才的画工が存在していても永久に最期の晩餐や最後の審判は描かれなかったのである。ささやかな花壇へ植えるために外人からお世辞でほめられたブーゲンビリアの株だけを増産しようとした警護員が、庭園の主人、植木屋どちらからも受けた反対や警告を無視してその奇妙なよそ行きの移植種だけを優遇する。結果、土着していた真実にめずるべき世界中でここにしかなかったタンポポやアジサイはすべて成育を阻害され、揚げ句にはおよそ人文教養というものに触れたこともない見栄っ張りの海のものか山のものかもしれぬ警護員はそれらを抜き去ってしまった。あの外人がしばらくぶりに眺めてみれば、あとには笑って通り過ぎるしか価値がないだけの無惨な邯鄲の歩みが遺された。
 外交と国防にしか本来縁のない政治屋風情が無限の多様性と生態的秩序のもとにある繊細きわまる感性、底知れぬ自然愛が必要不可欠な文化芸術の耕作地へその生れつき野卑な土足で入り込むとこうなることだろう。何千年も戦場で過ごしてきたその鉄下駄の無遠慮な踏み足によって。

高速道路の渋滞軽減策

坂道の多い山がちな高速道路で、いわゆる窪地渋滞の影響はおおきな交通量の減退要因と言える。これを工夫で解消する最も良い方法は、坂道の勾配に比例した矢印の傾きを路面へ印刷することだろう。幾つかのコンピューターゲームで、路面にこの種の矢印が印刷されていることを擬似体験できる(F-zeroシリーズ等)。すると、不思議な加速度が体感できるのでなにも書かれていない場所よりも無意識にアクセルを多めに吹かす様である。

漫画悦ぶ

自民党老人ホームと漫画悦ぶ

2009年6月12日

月光書林

再生医療 並行緑道 縷縷明細 疾病不昧
來來未來 管管俯瞰 解体不昧 未然事大
啄朴睛睦 多士済済 出張未満 夢想併毎
続続再会 内外自在 再生賛成 未開地帯
速攻対外 適抗内按 緑青瑤禮 上段神階
独自書斎 向月省林 書稟整頓 古文読解

機械至言

於初期設定、人知可能解読之世界内媒体。
他方有能率、縮減宇宙系之雨中、澤山充分。
特徴設計乃、原型故実愉快的困惑、工学生徒乎。
今日開催中、亜細亜域外万博招來、和合協会式。
成夢中典礼、功罪相半的特記可否、君子之銘銘。
若漢代壮厳、殷代賑興様子即氾濫懸外富貴、汎不能屈。
裂郷国間乎、並居殺伐慨嘆堯季野向春、設定不十分。
於電腦通信、塵界不浄之生殺与奪風、悉皆自由直言乎。

2009年6月11日

冒頭の文言
大体がお馴染みの
ありきたりで使い古された
中身もなくなった
一つの親切が
ゆっくりと空をきり
間近になった運命を
浅瀬と共に洗い流すのを見る
止まない侭のすぐれた雨が
泡沫の今を海へと道曳く
考え深げに足を投げ出した後で
例外なく夥しい緩やかな速度を測る
校庭の砂場へ雨が浸す侭になっている
宿命の音符が操作できないほど
町中を湿らせて
特徴のない暗さを預けて行くのを眺める
既に時は近づいた
全てが終るのをじっとここで待つ積もりだ
もう明らかに世界が手遅れなのだから
一度動き出した星が
最期まで消え去りはしない様に
ただここからバラバラに崩れ去るあの城を
見守ることだ
人々が崖の淵に立って
夜の底知れぬ海へ流されて行くのを
どこまでも深い藍色の川面へ
願い続けるがいい

生産量

悪魔の様な人間達と
一緒くたに混ぜこぜにされます
それから塩と胡椒で隠し味で
あとはレンジでチンするだけ
簡単儲かる会社のつくりかた
さあゝなただって
そこのやる瀬ない君だって
お金が入ってくればきっと薔薇色の現し身が
快楽と幸せと成り上がりの哲学と共に
伝説になって郷国の碑に刻まれますぜ
旦那どうしたんでい
なにか疚しいことでもあるんさいな
どうせこの世は一時の夢枕
なにをかえりみることがあるってえことよ
少年は
東京の世界を冷たい眼差しで見つめる
そろそろ城へ帰らなくては
いつまでもこうした人達の
お遊びにつきあっていられる身の上ではない
視察のつもりが
とんだ遠回りになってしまった
おそらく何の道徳も持たない階層では
いやおうなく卑しい性格が必要なのであろう
少年は
客寄せに引かれて赤々と輝く盛り場へ釣り込まれて行く
数知れない人間集団を通り掛かりに見物していた
商売の為だけに命を真当するのであろう
それらの生産量を

倭人史

愚新聞アマゾンの木を切り倒し
先進国マンガ喫茶に入り浸る
消費税ナントカ還元で米価と首吊る天下り
官僚筋にたじたじで唯一絶対権力冤罪自慢
へいこら東大法学部卒お上様方えへらへら倭人史
利によりて行えば怨み多し徳は本なり財は末なれ
極東の傲岸不遜小国政府と奴隷化に馴れ切った均一愚民
鰯らしく一丸となりては天才奇才の偉大な個性を軽蔑
全地球人から余計にでしゃばってサラリーマンぺこぺこ
自業自得ますます奇異の目で見られる決定力不足で浅ましく空気読み
雑魚の群れ比弱な間抜けさで中田英を排斥
幼稚なチームワーク過信上意下達のせせこましき五人組

2009年6月9日

殉教

人類の一員が人類の一員として
果てしなくつづくつらなる旅を終え
何処か
とても広くて深い偉大な台地へ登り終え
そこでまるで大昔に見た
劇画みたいな我々を見下す時
大空から大鷲がやってきて
君へ忠告しました
スデ ニ タビ ハ オワッタ
アト ハ ユメ ヲ ミル ダケ ダ
そうして透き通るだけの空へ消えていった
進化済みの優良な個体である君は
もうあのおぞましい同類たちの影もなく
ほんのささやかな宴をひらいて
これまで旅を共にしてきた仲間と喜びを分かち合った
もう地獄の絵づらは
観るべくもない筈だったから
かれらは喜びの中で
宇宙の調和について心行くまで語り合うことが出来た
そこは天国かと思えた
大層な不穏は無く
あるとすれば小さな誤解とそれをからかう
害のない機知くらいだった
少年院でさえもかれらには
弱肉強食の世界よりは随分マシに感じられたのだった
大空を舞うカラスが
君達を眺めて意味も込めず鳴いた
代わりに研究室で親の金を使って
夜ごと酒盛りをする大学院生がふとした隙に
その足元の床はバラバラにほどけて
真っ暗な奈落の底へ
命ごと墜としてしまった
弱肉強食の社会の為にやはり殉教したのだ
誰からも省みられず
静かに
ページを閉じなさい
もう世の中のありさまは
見なくてよい

コマンド

息の切れる満員電車で押し合いへし合い
首相の次男坊だか坊ちゃんだかを担ぎ揚げる競走
日が暮れたらヘトヘトになってワンルームに辿り着き
忙しく身支度して就寝
隣の部屋の気違いが下手くそな歌で眠りを妨げる
道路には止むことのない車の列
君は夢を見ていた
どこか遠い綺麗な国で平和に
理想郷の中で楽しくお茶してる文明人とか
極東の旅人
君は理想を見ようとした
そして体よく裏切られ
長期的な損得勘定の犠牲になった
だれが同情してくれるだろう
又同情してくれたところで金を恵んでくれる者などないよ
この世は弱肉強食だ
あすからは人類を敵視して
足を掬いあざ笑い
嘘も方便報告社会
上司へ取り入るか一人で出し抜くか
場面に応じた最適化されたコマンドを弾き出す
ソウイウモノニワタシハナリタクナイ
南妙法蓮華經
南妙法蓮華經
南妙法蓮華經
南妙法蓮華經
南妙法蓮華經

あたまのよくなる体操

ノーベル賞万歳ノーベル賞万歳ほら
両手をひろげてくりかえし唱えてごらん
ノーベル賞万歳ノーベル賞万歳何度だって
ぼくらのあたまをよくしてくれるまほうのことばだ
どっかのかねもちが
罪滅ぼしにつくった道楽賞もらって
満面の笑みでさあ
舌をちょろって出して天才のふりすんだい
ノーベル賞万歳ノーベル賞万歳ほら
両手をささげてくりかえし唱えてご覧な
ノーベル賞万歳ノーベル賞万歳なんだい
東のほうに住んでるそこのちっちゃな子どうした
みんなに合わせてほら大声で歌ってごらん
決してわるいことにはならないから
決して偽善ではないからほら
あたまのよくなる体操でほら
人類を勲章だらけにしてまちじゅう練り歩いてごらん
あちこちでほらきみを崇める小市民どもがホラ
王侯閣下のめのまえでみたくホラ土下座しているよ

2009年6月8日

商売国賊

人口爆発国際飢饉には食い詰め逃げ回るだけの商売国賊
土は痩せ辺り一面手の付けようもない荒れ地と化するなり

地方制についての最小調整論

その集団が企業化する程、個性へ要求する費用の内容はより産業的となる。分業制による能率は会社集団の持っている変異の幅、且その専門度に基づく。有能な企業集団はこの協業過程について合目的性を達していると言える。だから勉めて企業性から学ぶ可だとすればそれは協業に関する効用の関数についてである。
 国民の中にちりばめられがちな地方色の在りかも、実際には文明の持つ演劇的美の術という目的の観点から分析すれば、やはり最大の企業式な効用の達成率へ向けて室礼えられる方が良いのだろう。
 秋田の県民性が土佐のそれとは大いに異なる所は犬の品種差が生じてきた由来と違いはない。特に国土の緯度や經度がかなりの振れ幅を存している場合にあっては、専門化した特産形質を夫々の地方分業へ必然な社会場づくりとして次第に洗い晒すことこそが結局はどの県民にとっても利益であり、経世済民術のもたらす行動最適化の効果に於いては多かれ少なかれ徳の完成と幸福へも繋がるだろう。
 最良の筋道を通ってこの目的を推し進めるのには、いわゆる自由放任の主義が基本となる。そもそも経済的合理の側面は富の分配をどこまでも最大の効用へ向けてひとりでに導いて行くものだ。ゆえ政府の介入は何らかの異常な不平が公益に関する矛盾としてあらわにならない限りは、最小限に留められねばならない。
 世継ぎの商人へ真理探求の学問を一心不乱に行わせるとか、雪で閉ざされる地域の職工へ外交のイロハを教え込むということは思慮賢明でないばかりか、中央政府の独断を全国民の奇習の形成へ向ける誤った分権の方途なのである。逆に、これら地域適応の結果として極めて安あがりで苦もなく働く陽気な取引業者の性格とか、ごく内気な県民性によって殆ど奇跡的なまでの完成度を持つ精密工業部品が器量よく仕上がるのならば、企業的合目的すなわち福祉を促進するという観点から、政府はそれらの極端な片寄りがおよぼしかねない特産成果の独占をなんらかの法的抑制か地方行政的な直接間接の調整措置により普く、結果的な協業化が計られる様に改善すべきである。
 しかしながら、この政治的調整はかならずや自然な地域社会生成からの後付けでなければならない。先を急ぎすぎる中央統制によって人工的につくられた社会主義都市のほぼすべては、世紀を跨がずに脆くも崩壊に至った。これは企業活動の繁茂が自発的でないところでは調度、気候風土に合わない移植された栽培作物の如く形質が場所柄へ根付かないからであった。そして神ならぬ人間の倫理分別が過不足のない生態系の調和よりも優っていることは殆どない。従って、土の成分まで相異なった真実の地政学についての我々の知識量の限界を思い知るならば、明らかに人為的悪意を持った公害の兆候が実際に生じるまでには、政府は地域間の諸々の格差が拡大しつづけるのをただ辛抱強く黙認しなければならないであろう。

2009年6月7日

芸術の場

人類が実在している範囲は決して普遍性の最も高い環境ではないか。今生宇宙の全体構造は展開速度について一定の埒を設けて置いたので、特にその周縁文明の発展に比べればバルジの内側のどの系も時間の上では後進性を余儀なくしよう。芸術に文化的貢献があるとして、やはりそれは交易の媒体として究極の基準としてだろう。やはり、というのは幾多の中間芸術の形相がこの決定的な役割に取って代わるが如き様を呈する中ででさえ、と伝統的理解の立場から。情報の通路としてどの粗野な段階の文化人も、最大の啓発後に達した芸術性をその共通の形態を通じて様式の比較へ感得できないものではない。抽象絵画を飾る近代化された空間でもそれが平面造形である、といった形式間の本質的互換性に於いてはどんな素人の中へも写実絵画との関連を語らせ得る。同等に、どの異文明系にある知性にとっても依然として壁面は何らかの装飾を施す技法の上で共有される空間方式。
 もし科学知識の面での後発性が、にも関わらず学習されうる遅れであるのなら、要するに暇の持ち方如何に依る前後関係の可逆的特質という獲得形ならば、この面では必ずしも形式的互換性は最大の命題ではない。とある文明人が持った数理公式は、必然に他の彼らに援用され得るし、尚更学習可能であるところが学ばれるべきである数学性なら。
 一般の道徳哲学は彼らの有する知識とその社会性への適用の度合いに求まり、この知識に応じて可変であった。ならやはり、道徳も知識の部分集合か少なくとも社会学野の倫理的特質に関する一定量の科学法則。人々が理念という言葉を持たない時、正義、公平、正直などの徳目には直観を除いて、やりとりの可不可でのそれにはやはり無知の侭だった。同然のことは万有引力や進化や有効需要についても運用できる。つまりいつも決まった言葉を持つということはつとめて後天的に学習できるらしい対象の性格、ということ。
 人類と呼ばれてきた類人猿の延長に見いだせる動物種は、彼らの有する芸術の本質的互換性に応じてのみ、彼らの外部に実在している幾多の文明系との取引を可能とも不能ともするだろう。そして不能な場合、彼らは生活している次元が四次元の外にあることだろう。文字種が全く異なっても、文字と根本的に等価な通信手段を持つ惑星外実在との通信は、責めてもの翻訳の為として言葉同士の基本秩序を時間内認識規則として普通に蔵しているにちがいない。
 だから当面の地球内知性が学芸のうち、きわめて基本となる形式に限って様式論を闘わすのは未来の文化地政的脱皮過程への準備を計る上では先見の明に啓かれた恭々しいなりわいなのである。学問それ自体が過剰に重視される時期には既につくられた鋳型へ後進が当て嵌めたに過ぎない意味論の方がずるがしこく正当化される傾向を逃れ出れないが、天文学知からの確実な視界として、将来に亙る未然の備えとしては芸術の形式の問題の方がより普遍性の高い文化であり堅実な仕事なのだ。なぜならこちらは知識の体系とはことなって、後生にも伝承を通じてしか容易には学習され得ない技法の体系なので、技は真似よりも伝達維持に手間取る分だけ希少とされ、その流通や貿易の為には先駆けて異文明間での目立った文物となりやすい。
 学問程度の有無は合理化または倫理化の具ではあれど、模倣の域値から一歩以上なりとも出られる分限にはない。独創はただ、芸術に於いてのみあきらかに顕現される。かく芸術一般の巧妙さの程度すなわち特産性の高い生産量が質的差異化の骨なので、地球内文化の中で最大級の特徴を持った芸術性のありかこそ実は、惑星の外側から眺めた際に中心圏と目され勝ちな共同体接触の定点である。芸術の場は実際には文明化の法則にとっては史的な中央区となりうるものだった。珍しさという概念が宇宙的展開間の先後を問わずに変化への適応として形態を可塑化していく道理と重なるのもまた当然と言えるだろう。そこは様々な生物にとっては極めて交信や流行し易い場所だから。

皐月晴れ

夏草の香りさえ古里とは斯く違うものかし都草
過ぎ去りし調度の跡は残りけり思い出の中で待ち居る季節と
一時も変わる事なく受け給う皐月晴れの空を仰ぐ目は青
午あとを過ごしてしまえばもう戻らずに梅雨の夕暮れ
我先に急ぐ目あても儚くは消えてしまうや虹時雨
東びと労うのはいとまなく造り替えらる戸ごとの雀のお宿かとぞ

2009年6月6日

泥船

最も古の
手足の始めから
世界ではきちんと
系統立ったルールが敷かれていた
或る日のことではあるが
その秩序が覆されることになる
第一に彼らは
正当な規則で
世界を等分割して行った
第二にそれから
嘘を真顔で作り出して行った
何もかもおそらく
永遠の昔から繋がり
永遠の先へと流れ去る
少なくともそれが運命だった
涙を拭いなさい
どうやら世の中ではもう
正義が実現されることはないのです
死に逝く人よ
この世をかえりみることない様になさい
何もないのです
既に世の中は
荒れ果ててしまったのですよ
ロールプレイング中の勇者が
町のなかの人に聞いた
囁き声でさえ
どこまでも連なる
中身のない空っぽの頭を持つ
さる達の騙し合いでした
目の前で起こるどんな事件も
それを作り上げた主が
暇潰しにした本のゲームですから
本気になって繁殖劇場に夢中って
いくらなんでもそれは
疲れ過ぎ
あの知能のかけらもないリーダー個体へ
追従してへつらい笑うあなた如き
居なくなろうと別に困る者はない
この意味の見当たらない世界で
一人のこらず人類が絶滅するのをただ
静かに希望していればいい
彼らには救済する方法がない
朝が来れば喰う為の分を奪いに
会社へ通うだけの苦行を背負って
獣類の仲間となったあなた如きに
助け船など要らないのだから
沈んでゆく泥船の中で
神へ祈りなさい

計画

救いのない社会で
僕は獣類に囲まれている
なんの感覚もない
貪欲なけものが
搾取せよ搾取せよと
教え込む世界に居る
生まれてすぐに
学校という檻に放り込まれ
朝早く叩かれて
愚鈍な仲間らと
頭の悪い校長の前に整列
貧血で倒れ込めば
すぐに手当されまた立たされる
金儲けできなければ家畜ではない
必修科目を詰め込まれ
分厚い眼鏡を何度も交換されながら
意味不明な自称講師の書いた
受験内容を丸暗記させられる
大学まで入れられたら
獣類同士繁殖の機会だ
下劣な仲間が性欲の話だけをする
下心を適当に隠さず
変な会合のあと性交しろと無言で煽られる
こんな豚小屋へ君を産んだのは誰だ
豚の両親がにこにこしながら
君を次の量産計画の為に
また早慶畜舎へ送り込む
僕は地獄の光景を目の当たりにし
単に目の当たりにするばかりか
嫌というほど何年も何十年も
豚どもと協力させられ
臭く気分が悪く不快な思いしかせず
協調性と服従性で身分を分けられ
また豚のやしろへ貢がされただけだった
神様は僕の遥かな頭上から
さるの末裔の末路を
冷たく見下していた
結論からいえば
生まれてくるだけ無駄な畜舎なのだった
あるのは永遠の業苦だけなので
君は鈍感でなんの知能もない
飢えたけものの一員として
学問の暇も剥奪され
好きな芸術も破壊し尽くされ
豚の糞に塗れた偶像の王様の足下へ
平伏す
もし逆らえば牢獄に容れられて毎朝
あの学校であったのと同じ苦役を背負わされる
この畜豚舎へ適応する為には
金儲けしかしてはいけないのだ
なにもない
世の中で僕は
真っ暗な場所を一人
捜し続ける
そこで静かに息をつき
誰からもどんなけものからも
邪魔されることなく世界について考え直さねばならない
神の計画を

2009年6月1日

種内進化

超急進的な突然変異が長く存続する確率の低さは、それが普及していないことから来る文化場の未整理と未熟とに求まる。適所さえあればどの変異もつとめて保たれるだろう。淘汰圧の解除が実質的な進化の要因として最も重要なきっかけといえよう。これらの理由は人類間で相対的に優る性能を持った種集団が彼らの内に存在した形質の性特徴の促進を、分業の為の囲い込みでどれだけ計り得たかに依存していると教える。階級制度に利点があるならこの点である。もしも最大の平等が主目的となった社会集団があったとして、そこでは内的増加率からの抑制要因がつねに、形質の特殊化に対する枷として働くこととなる。より人倫風の表現をとれば経済性の必要から、利己を量るこずるさがなければ決して生き残れないだけその場は形質の完成された均しさを変わり者より急速に淘汰しやすくなる。
 臨機応変型の社会集団は、おそらく全ての面で最も生き残りに勝るだろう。なぜならば形質の可塑性が最も高いのは、他のどの集団よりもこの個性派揃いの種集合だからだ。それゆえにこの集団が環境変異にまつわる適応力に最も富む。
 一般に、固定化した保存形質はその数に於いてのみ意義を有する。群れが持っている利点はどの個体もほぼ等価なので、本質的に交換可能であるところにある。頻繁に勢力関係の代わる群れの原理は又、そこがとこしえの模擬の舞台であり、他個体との鏡合わせの方法で自らの被保存率を上げようとする一つの生態戦略の必然的帰結であった。環境収容力はまさにこの正当な原動力である。単に数に関して進化が起こるという事例は見出だされなかったし、保存率を除けば決して群れそのものに意味内容がある訳ではないのは周知の事実だ。模擬するのは個体の変異が後進的で且つ改良に遅れているという事情から、多数派の偶然の生存に託して自己のどうにもならない形質をなんとか紛れ込ませようとする言わば便乗の手段である。仮に生まれながら優れている種であればかならずや個性を誇示するであろう。群性の強調はほぼ常に便乗を狙った後続者の最後の一手である。しかし窮鼠が猫よりも生存率が低いかは確定できないので、この行動形も社会型生物の中にはおおよそいつも一定数以上の獲得的プールとして残されて行くと思われる。

 人類にとって決定的な勝利につながる鍵は、こうして非社会集団の適所を如何にして多数かつ多様につくりだすか、という形質の進化の意図された促進の工夫次第に求まる。社会集団、とここで記述している内容は、少なくともこれまでに世の中に見いだされた在り来りな行動形のあつまりを指す。これの模擬は当然連鎖し、群れに墮するので結局は獲得的となりその生態的可塑性は固定化され、便乗以外の価値を持たなくなる。たとえば繰り返された流行歌にはもはやなんの内容もない。この鏡合わせは保存的で、代替可能である以上、なんの個別の価値もない。失われても構わないものは相対的に情報量が低い。
 これまでの人類史が示している様に、群れの勢力からの抑圧措置としての統制主義がはびこった社会集団は常に、殆ど法則的に敗退して行く。逆に自由主義が擁護されていた社会集団は上述の原則、つまり個性派の自己進化が保障されている分だけ綜合した協働効率の面で圧倒的だった。急進的な形質についての転化の解除が自然淘汰の命令に逆らってうまく行われるほど、その種集団の中で決定的に有意性を持った個性派が確立される場合も多くなる。家を成す、ということはこういう原因で実際には極めて効用ある社会進化の手段である。