人類自身の大きな特徴は彼らが知能行動を活かして各種の協力的建築術へ秀でるところにある。本能のみを担保に最小部材で最大強度の巣を構造化する蜂は、高度の分業にも関わらず人類の如き意思疎通の方法を明白には持たない。そしてこの点で言葉という外部化された媒体を担保にしうる人類の協業系は意思伝達容量の面から比べて膨大となった。つまり遺伝情報のみに頼るのではなく、伝達系そのものを情報遺伝化することで獲得された言葉に載せられる内容量は世代間で事実上、解放された。これは脳という身体部位の増大と等しい経過だった。
もし人類が言葉を持たなければその情報網は多少あれ鳴き声やその他の感性の遺伝程度に待たねばならなかったろう。イルカや犬笛等はこういう非言語伝達にとっての感性の主導権を今に残している証拠だが、言葉を定型発音ではやくに補い出した一集団はすべての面で他の類人猿より進んだ協力的合図を確立できた分だけ、複合化された術を手に入れることとなる。即ち、草原進出に渡る両手の解放が先ず身振りを、次にその際の喚き声を、遂には定音節の伝承を。我々は、特には本能行動の傾向が強い雌性の人類でもこの種の言語以前の発話起源を、感情の表出の必要な恐怖や驚嘆など原始的場面で奇声を発するところに観察できる。それは種に関わらず類の規模ではどれもよく似通っているのを見よ。
文明を展開させた我々は記号論と説得論とをこの言葉の用いる典型へ次第に分岐させることになった。
記号論はさらに分解され、数学となり、すぐに代数論の中でも選れて純記号操作へ特化した記号論理学を生み出した。そして我々が今日までに知識として到達した最も純粋な記号論はこの言語分析操作つまり解析の成果へ求まる。等号=を同値⇔と等価視させた者は、この宇宙に於ける最も根元的な平衡の規則を数式言語の上で発見したのである。それはもともと言葉では言い尽くせないものとしての無限への終止符であり、同時にその仕組みの規則性ある解読の式であった。我々は物自体を知れないかもしれないが、何か他の物との比較の上でなら性質を解析できるだろう、という希望的観測がはじめは実践的幾何学の中でぼんやりとしか知覚できなかった対称性を、言語にとって不可欠な類比という作用の絶好の比喩とした。もしこれらの数学論上での徐々に進められてきた選り分けの経過を注意深く辿る者があれば、彼は二つの物事の間の本質的等価性をかなりの幅広い記号順列で規則づけることに成功した科学が、最も合理的な知識体系の法則化へ先んじて到達する未来をも確かに予見するだろう。
対して、我々には説得論の言語世界が遺ることを疑問視できない。というのは解析は単に自然の規則性を細やかに教えるのに留まり、主としては政治行動の方法論としての決定的倫理には至らない。お決まりのカント哲学に法り、やはり理念に関する究極的な総合は多数派ないし群れへ向けた説得力のある理性能、つまり考えることへの哲学的実践に待たれねばならない。アリストテレスが教養の不足を形而上学に於ける数学的厳密さの欠如への批判の用にあてたのはこの総合という観点の最も原理的なことわりであった。なぜなら、説得力を持たせる言い分にはその場なりの機知を要する以上、言い間違えのない緻密さよりも圧倒的な多角性や衒学的なまでの博識、よかれあしかれ雑学と呼ばれる広範囲の備えが用をなすのだから。
これらの文旨を理解する者はまた、なぜこの世では哲学という自由人趣味、あるいは能ある営みが必要らしいかも自ずと悟るだろう。それは最大多数への知識欲の浸透、つまり啓蒙という説得の手段としてである。そして科学知識が相対的軽重でしかありえない限りこの伝統ある教育方法は無辺のあまり博物的にしか内容を網羅しづらい生物学に関する非数学性あるいは学問の双方向性を善用した、論理的説得力を持ち続ける職能となる。ダーウィンに博物学的裏付けがなければ荒唐無稽な理論は打ち捨てられるに終わっただろう。我々は人類生物学に関しては、最後まで己の合理化といういわゆる道徳の論理を保証してよい。なぜならその群生の規則と一致するからである。無知の知あるいは助産術という所謂ソクラテスの命題も、こうして、最も判りやすく現状の知識の限界を示唆するための有効な論法であったということである。そしてそれは主として論理学を悪用し、詭弁術へ転化させ、物知りぶった不正な知恵者の人気取りの道具へ適用しつつあった当時の堕落した風潮への警鐘だった。つとめて矛盾を教えることはそれらの相対知を絶対知であるかのごとく詐称する、家庭教師として道徳観の欠如した偏った知恵者たちを少しずつ駆逐して行ったのだった。彼等は誰も何も知れないとか、知り得ることはもう知った等と好き勝手を言い触らし教養という世界に縁のない人々の歓心を買い、市民から青少年の教育係として高い信頼さえ獲ていた。
古代の原始宗教的な停滞とその中でのわずかであやふやな知識だけでの自己満足に馴れた人々にあって、誤って死刑を宣告してしまうほどに、幾世紀を超えて突如としてあらわれた無限探求可能な科学者の態度を勧める者はまったくもって異質でも異様でもあったのだった。たとえこれが奇行や頑固をものともしなかった古来の哲人の代名詞にさえなっているとしても。
この狭い知識を売り物にする場合に対して決して専門的でない教師が森羅万象すべての事柄に関して判りやすい授業を行える場合、やはりかれは各種の分野間の総合的操作によって言語に於ける建築術と言われるべき中々有難いもの、知識という素材間の建て方について複雑な功績を果たし得ている筈であり、だがいやはてそういう人こそ現実に学園組織を率いる頭となるのに相応しい。
究極の協業体としての哲人政治の理想がやはり理想的に過ぐというなら人は少なくともその原型のみを学園に求め、実際に学頭の総合知の許すかぎりでは、理想的学内統治は規模を問わずに実現しうる。解析の連鎖、つまり科学はこの棟梁的学問への素材間組立にとってのいわば大工の仕事として、職人作業の徹底した分業能率へ働くものだ。