我々自身が如何に学んだとしても、それは言葉の認識に留まると主張する現代の分析哲学の視野は真に尤もだし、それは全科学者が近代という時代に異常な応用的伸び幅への貢献によって技術者化の弊に陥り創造的全能を欲したとしても、理論というものの記号論としての限度を悟る迄はその神話が飽くまで認識でしかありえないという客観的真理を彼等の為し得る学習の自然依存性に託しておく他ないほどだ。科学知に於ける純粋な限度は、自然という創造物あるいは対象への認知度でしかない。結局それは純粋に記号論なのである。
芸術が何事かを創造か創作かしている様に見えたとしても、実はそこで行われているのは対象への操作に過ぎない。この対象(物自体)は改変不能でもあり、単にその組み換えを図れるだけである。そして経験の知らせるところによると、実際の芸術が審美的でありうる根拠とは対象の出現確率が場の有する混沌度の中で比較的低いといった主観の感覚的認識に由来している。花のめずらしさへの世阿弥の論拠はこの出現率のばらつきという対象への操作に本質的に関わっているといえよう。なぜならば、可逆的編入は宇宙に於ける熱反応系にとりその偏差分量を増大させる効果を持つ。
すると、技術なかづく科学技術と呼ばれる現象とは、物理学から分析すれば可逆系という熱量に関する偏差でしかなかったという事が知れるのである。だがこの認識は、我々が可逆系を自然のシステム群と引き比べて賎しめる理由にもその軽視にも繋がりはしない。可逆性一般は生物の秩序度反応が彼等の外部系へ斉す作用の総称であり、少なからず宇宙に於ける幅広い熱的偏差の一系統を為すからだ。
この可逆系はおそらく、今生人類程度の知能容積で最も純粋となったとき記号論を形成し、尚且つそれは数理論理学(或いは記号論理学)の分野へ一層のこと極度に集積され出した。何故なら数理記号(或いは記号式)の可逆性は人類が有した全言語の普遍性の中で最も原理的であるが故に引用可能性が高いからであった。だから数ある数学の中では、記号論理学が、さらにその中では記号式についての分析哲学が実際、人類といった知能行動を自信している不束な生命体にとっての学の先鋭であり、最も基本であるのだ。
我々がもし西暦2000年前後の今でいう小学生未満の幼児へも屡々、獲得形質の幸先として最も根源的な記号式、つまり加減乗除と是非且又を教えるのならその行為はきわめて的確であり、知性の促進にとっては最大級の効用を発揮するに違いない。