社会生物学の概念としての隔離場が環境収容力の設定の為に階級分化の一定以上の規律を要する所は人類にあっても同じである。
この事実を認識する者は、団塊の真似が不必要となればその基本となる階級分化規律も再び展開するのを診るだろう。そして同時に、階級分化の指標として来た公的差別の手段も無効となる。なぜならその旧式の規律で行動しつづける群は、自動的な市場の需給平衡の法則にしたがって職にあぶれて、結果として経済的に整理されていく、というのも異なる戦略を要する場面に於いてより効用係数の高い職階制を敷いた系より能率に劣るからだ。可塑化にくらべ最適化は最善ではない、という進化論の立場を会社組織規模へ援用してもいい。
我々は資本主義への数々の矛盾点の指摘にも関わらず、やはりそのしばしば賢明すぎるまでの冷厳さを最大の功利性と認めるべきである。何故ならば、なんらかの社会主義的共産主義的あまつさえ急進派による極端に原理主義的な思想傾向は、福祉の最大化への流動資本の流路を、自然界と人間界の社会的に共有する法則である自業自得の原則によって隅々までおのずと確保させようとする資本主義の知性を上回るほど流麗ではありえない。すなわち我田引水の悪意はあからさまに人工ばった調整よりも、自然淘汰の力に任せておく方がより効率よく消滅していくものなのだ。我々は農村秩序の中でこの自然淘汰がいわばヤマト的全体社会として、悪分子への差別によって裏切り者の排除へつながる現象を観察できる。
将来についていえば、日本国内に関する階級分化は確実に資本主義選好の順列へ倣うだろう。つまりそこでは各種の便宜上に発生する順位区別が資本能力順へ整列されていく。だがここでの行動規則は団塊の黄犬趣味とは大分ことなって(なぜならすでに固有の耐久消費家電についての膨大な国内需要が存在しない以上は終身雇用体系そのものが成立できない)、現実に有する資産の維持率ということになるだろう。大企業へ属する肩書きが最も経済的担保となってきた戦了直後場合とは、その家政にまつわる合理性が異なる。要するに身分より家財が、より精確に経済力の選好へ本質的役割を演ずる。以前の様な膨大な需要はもし宇宙開発等の増産場への開拓が起こらなければ多数にとっては見込みえない。よって多かれ少なかれ自由圏では家政にまつわる責任分担が世代間に及ぶことが確実視できる。
さらにこの流れは事実上、地球規模で起こるものだろう。どうしてかなら、耐久消費財への供給率に限度があるという事情は人類が環境収容力という隔離場の条件に縛られている間はつねに一定だからである。しかしこの中途段階では勿論、貿易差額についての資財寡占の先後を通し、より先に高い比率の製造業の合理化を内部留保的設備投資の昂進によって謀った国家系がより有利に事を進めると予見できる。
我々はこれらのことから結局、家の復活が割に合うという独特の伝統思想に、階級制度の本質的利点である再生産率の高度の形質分岐と分業への適応を見るのだ。いうまでもなく自然順位制への効用の観点からの逆転化が社会思想の根本ならば、又、家の制度にとってはなんらかの公的保障が充てられるだろう。別の言い方にすると地球内では実質はどうあれ、名分については家財とは違う公益的効用の面から国内外を問わず、かなりの社会保障が供えられるものだろう。そしてそれは上述の自業自得の原則へかなりよく叶うものだろう。