人類の知的行動がその最盛部であれ小売の繁昌に過ぎないのを見る事は我々自身の認識能力の過信を冷ますのにともあれ有効だと思われる。
自由人を自尊する有閑の徒にとってさえ、彼等業者の半生がそのまま惑星内で栄えた系の自然和の複合型であると知るなら、その教養の骸が単に商の片棒を担ぐ道具として用いられている事情にびっくりも、また浅ましくも感心させられる。実用主義哲学の適所では特に急速な消化により直接に、知見が検証されゆくのを目の当たりにできる。そしてそこではやはり、あまりに急流であるがため更新の速度が保存すべき記憶を消し尽くすこと、或いは消費率の為に形質の転換がその保守よりも急激で結局はなにものこらないのを見る。忙事を好む者は彼等の形質の専用性についての改良が生産者より相対的に劣っていることを隠蔽する為に集まりを作り、その集合的誇示に起死回生を賭ける。だが成功することは殆どなく、場合によっては世代を跨がず脆くも崩れ去る。
我々が理解するのは芸能というもの全般は、最終的には全くが諸形質の後進地域だということ。たとえこの派手な誇示に騙されて危うい綱渡りを物ともしない演者の毛並みを幾たびか集積したにせよその楼閣はいずれ砂上の幻惑に過ぎぬ。忙事とは、奴隷制に馴れた形態の面白おかしく演じている騙し合い化し合いの説明会である。彼らには暇があるという未来はなんら理解できない。
世阿弥の芸能論が「花」を一座の集約としたことはその中でたまさか生じる希な形態をめずらしく観賞する立場に基づく。
だから我々は忙事好みの芸能人が、結局はこの「花」についての適解を選択しようと永遠に叶わぬ願いを申し出ているのを見るのだ。そしてそれは目立つほどにかえって失われる出現率なので、実際には咲かず、単に獲得形質に於ける擬態を連綿と他者の模倣によってくりかえしては潰えて行く。
最も価値のある芸能はよって、咲かない花を演じること、いいかえれば蕾の技となるだろう。そしてそれは現実には花形と見える物を既に衰え出した形態と見せかける二重否定の擬態を本質とする。だが適切な対比によってのみこの技が栄える以上は、寧ろ忙事の多彩さは形質の希少価値を創造する場の条件とさえ言え、よって役者は敢えて百花繚乱の地点を微妙に外して生きながらえるものである。