2008年12月31日

楽天地

おにぎりを食いたき爺の餓死したるナントカ還元水に消えけり
無業者をたしなむ政治屋嬉しやと陛下の御歌を読み下したり
苦労なき生まれの故にと漫画読み楽天地にぞありたきこの世は

政策綱領

愚者に誉められるという事は自ら愚かさを公開しているのに等しい。社会の中で最も信用ならぬ悪徳のるつぼで信任を得た政権というのも、実際は良識ある人々の後ろ指に、背を向けている愚か者の別称なのである。裸の王様は虚栄の寓話であった。世論に媚を売るという事、民主主義の理念を逆用して現実の有り様とは異なる空論に耽り虚栄を盛んにする事が仕事である様な家は、第一に国民存在の尊厳に対する無礼の故に政の府を名乗る権利も有せぬ。自民党の挑発に対して国民への貢献という政策実行をなおざりにする単なる盥回しの戯れを演じて恥じぬ政権闘争の現況は、二大政党の振りをした馬鹿者の群れがみな大同小異たる事、国民道徳に於て政治家を名乗るに値しない俗人達が寄ってたかって国税を日毎浪費するだけでなんら民衆の安心感を立憲する革新の実践には関係のない空理空論を演じ、現状維持費についやされる莫大な税金のお蔭で餓死していく民の魂が奴ら政党政治屋の寝床を新たかな旭の際に祟るのも当然と言える。一体、政治家ほど卑しい人間が現状の日本国内に一人たりとも実在しうるのであろうか? 官僚は言うまでもない。誰しも理解している如く、彼らは民衆を見下しながら如何に予算を搾取するのかしか興味を喚起しない様に慎重に育成されたのだから。自ら考える力のない民を何億人育てても、遂に至るところ膨大な浪費官僚用の国税で倒産する天下り先のない中華帝国に過ぎぬ。なぜなら彼らは民衆から可能な限り金銭を暴力的な法案で巻き上げる事、更にはそれを仲間内で無意味にばら蒔く事にしか能力がないのである。
 このような不良な政府を民自らの徹底した節税によってその出すぎた腹を飢えさせ、やがてはダイエットの貧窮で赤字なのに余り過ぎた金を好きに浪費した悪業を不良一族の没落、財務官僚数の削減で執らせるべきである。我々は広がり過ぎて手に負えないほど無駄に溢れた現況の各省庁を優れた報道にも生々しく鑑識するにつけ、むしろ外部鑑査府という健全な批判勢力を第二の政府として、純粋な直接選挙区の特例制定によってつねづね運営しなければ永久に、かれら暗幕の裏側で無駄使いだけで生き延びる官僚達が先進国共通なスタグフレーションの真実の不良債権であった事情をゴキブリホイホイに掛った無数のおぞましい姿に加えて発見退治しえまい。今生陛下の御心をかたじけなくも悩ましめた深因こそ、虚栄の幕府に蔓延る大量の無駄使いなのは疑いなく、例えば男女問わぬ若年労働力へのモノを扱うに同じ安易な人員整理の如き末節の悪業も皆、かれら国府の内部にたかる私財を蓄積しているいわゆる大蔵的官僚達の悪徳が及ぶ所の不安なのだ。もし順調に資本が回転すれば、少なくとも新自由主義者が述べる原則の通り技術革新が進む功利市場の不況が長引く理由はないのであって、必ずどこかにそれを塞き止める因果関係が存在している。
 流動性を高めるあまり株式市場の差額目的投機衝動の煽りを受け易いアメリカ経済と違って、取引可能な資本の殆どが自己保有の専業経営者層に固まっている近来の日本経済の場合、その契機を阻害する可能性があるのは凡そつねに政府の公共事業政策実行速度のもたつき部分であるだろう。そして現時点ではそれは、のろのろとして進まないか又は同意が必然な以上は明治ならぬ今日最早進められる筈がはなからないような無理な暴論でしかない道州制論を発して天下り先を拡大しようと目論む勢力のありかで、明らかに一点しかなく、すなわち高級官僚が贅沢をやめられない仕組みが平成不況がもたらしている膨大な金詰まりの患部なのは疑いない。彼らの懐にある大金は如何にしても世の中を駆け巡らず、単に税収を増す便宜に使われる森林破壊とCO2増産を高速道路建設へか、或いは長引きながら何一つ決まらない牛歩以下の政権闘争の合間で稼いだ私腹はすべて子息へ与えられ、再び同じ性格の国税浪費官僚になる為の教育費ないし娯楽費という無駄使い階級の拡大再生産に用いられている。高速道路の全面無料化が第一にこれらの官僚大患を治す薬であって、更に国立大学の原則無料化が本来望ましい学問の努力による麗しい実務階級の再建にも必須である。

2008年12月28日

経営術

商いの第一の徳は、奉仕である。

この相手方へのサービス精神があってこそ、返礼を事前に省略しても店を富ませることに人間はためらわない。それが利潤として企業内へ分配されるのも至極当然の話である。

 駆け引き上手ということは必ずしも正確な繁栄を約束しない。
そうではなくて、ビジネスに限っては正直が最良の策とはこの駆け引き自体を貫く普遍の真実なのだろう。
なぜなら客人は店主との間で見えざる契約を交換するからである。
この契約書面に必要なのは、少なくとも不文の信頼だけなのだ。


 国際化した場所での取引に契約書面至上主義が蔓延る舞台裏に一歩入れば、その店の品がしばしば十分ならないこと、店主は客人が欺くのを前提にして金儲けする労力を省く努力を払っているのが明らかなことだ。

一定のルールが確立されていない環境ではやむを得ざる事情からこの種の契約書を必要とするとあっても、それが誠実の表明でなければ却って恩が仇となってやがて、店自体への好感を損なうに至る。
 この種の契約書面至上主義はできるだけ暗黙のルールとして経営方針そのものの中へ繰り入れるべきなのだ。

即ち、「代金の順序」をできる奉仕より先にするか後にするか、という基本的な方針にたちかえって、その場所でよりふさわしい合理化を図る方がよい。
例えば同じ条件下で競争する二つの店舗があって、一つは前金制、一つは後払い制で同じ奉仕を提供する。
前者は雑多で様々な客種を、後者は地元客などの一定の客種を安定的に確保するのにより有益だろう。というのは、受ける奉仕が事前に予想できない場合、その返礼が手持ちでは気後れする可能性から後払いでは一時の客人の足はしばし躊躇するに違いない。その雑多な場所では客人側へより奉仕的となるのが前金制なのである。
松下は云う、徒弟時代に素うどん一杯の客を大事にしてくれた店にばかり通い詰めたと。
 この様な、経験的な骨は取引の全ての局面に存在する。その場に応じて相手方の感動が最大限になる経営の仕方を選び取れねばならない。
もしこの勘を憶え易く要約すると『素うどん契約』と名づけられる。誠に奉仕こそは繁栄の源流である。

師走

ローソンの店員さんよサンタ哉
師走なら走りて去れる宅配便

2008年12月20日

山茶花

つとめてにどこより薫れる潮の香よ
霜降りし朝の芝生の面白さ
休みなく巡りくる年末の波
見なければ野原に咲き散る秋桜
寒椿庭先でひとり座りけり
山茶花の隣を猫が走り去る

2008年12月15日

俄雨

大津港埠頭を飛び交う鴎らよ曇り空へと模様を縫っては
つとめてに過ぎ去りし俄雨の跡
明き

音楽市場の次世代

CDの代わりにミニディスクサイズにDVDを納めたDMD(Digital Mini Disc)を展開することは、音楽市場の活性化としては次期最有力の筋書きだろう。

費用対容量と書き換え・入れ替えの手軽さが、市場の求める製品可塑性の矛先なのだから。

2008年12月14日

税制案内

「おくび税」として牛肉流通に贅沢な関税をかけることで、国内二酸化炭素排出量を減らせる。
もしヒンズー教徒ならずとも動物性蛋白質は多彩な供給源があるし、しかも少なくとも日本では、牛肉は主食ではない嗜好品としての生産量を質的に高度化し易い状況にある。

2008年12月11日

製品案

子猫型のAIBOと、相互感応器を内蔵した毛糸型Rollyのセットを、老人ホーム等の慰安用を主な国際市場として限定開発すること。
Wii sportsがその種の大きな市場で流行るのは操作性のたやすさに原因があるので、有名で楽しく又は懐かしく親しみやすい曲を初期値にしておき、セッティングは電源コードをつないでひとたび充電するのみ、とするほうがよい。

その修理工場の機構は続く次世代ロボットに引き継ぎ得るので永らくの維持が有用である。

猶、ねこじゃらし型コントローラーを付属または別売りにすること。

2008年12月10日

蹴鞠

向かって中心より少し奥を蹴る事(軽い逆回転をかけ体から離さない方が有利ゆえ)、またバランスを崩したら通常より高い位置で触れて蹴る事(体制を整える大空時間を稼ぐ為)。

手袋

空高し
めまぐるしく変わりゆく世にゆっくりと変わらず流れる多摩川よ
大磯の海辺に咲いた浜百合の
夕凪にまみゆなつかしき記憶の底に眠りゆく
何方かの声も潮風に
消えてしまえば儚くはおもえどかなしき冬の渚と
神の子の訪れし日にも近つけばざわめきさわぐは極東の小人達の為に御祈り申さむ
窓際に置かれたトナカイゆきを待て
手袋を落としてから拾う風の冷たさ

振り仮名

振り仮名を振れど読めぬは世論なり

ソニーの再建案内

『理想工場の建設』という初心にたちかえり、いわゆる専業経営層の抜擢ではなく内部から自然に生えてきた技術畑の実力者をトップに添えれば、組織全体に再び命が漲ることもあるだろう。この処方箋には「工場第一主義」と書いてあるらしい。

こういう面からして今のところ適任は一人しかあるまい。専業経営者層はソニーなる特異な組織図の内では、飽くまで自ら生き生きと働くうつくしい工場の調整補佐役に徹するべきだ。
実際に、今のソニー体制上で唯一健全な市場競争に頑張る部位がゲーム機周辺である事実を重く見なければならぬ。その技術水準は世界有数あるいは最高度にあるからには優先して保護すべき場所も又。
 技術に自信ある企業は屡々、消費者ニーズを軽視した独走の危険をともなう。この傾向を適度に抑えるのには「相談役」という外部監査体制上に、最大の能力をもつ専業経営者層を集めたほうが望ましい。だがソニー独自の価値観からすれば、自発的で愉快極まりなく、少数精鋭に特化した各工業の渉猟という目的にかなう為には組織の象徴に《金儲け》の臭いをちらつかせてはならぬのだ。

手をひろげ過ぎた各非工業分野への財界進出のスリムアップは、現状の経営優先の、企業愛なき浅はかな株主連の最期の希望とも遺言ともなろう。

2008年12月8日

天文学

たとえば微視的に真と見える地動説も、太陽系惑星群を含む銀河系内の循環を考慮すれば偽となる。それは観測者と対象を定義しない限り物理系を立てられないからだ。同じ様に、我々の七夕系宇宙全体を観測者に代えるなら、それらの外側との駆け引きを物理系に編入できる。そして今の時代に暗黒物質(ダークマター)と呼ばれている力の正体は、各宇宙系同士に働く引力だと結論できるだろう。我々は化け学的に認識しない物質というものを定義することはないし、少なくとも今日では知りうる化学作用の中で世界を認識する様つとめるべきだろうから。
 次の事は殆ど確実に予想できる。七夕宇宙系における光速で観測可能な最も辺境の方向を三次元的に図示し、その内で最も強い質量を各銀河系の中心に対して更に外側から想定できる実証的段階に達すれば、そしてそれは単純に時間の問題なのだが、我々はこの宇宙以外のある程度以上に異なる自然法則を持つ別の宇宙系の実在を発見できるだろうということだ。仮に七夕系宇宙の次に見つけ出せるという発見者側の呼称として、ここではこの別の宇宙系を十五夜宇宙系と名づけておく。
 そしてもしこの宇宙探検に向けて観測船を送る際には、光のドップラー効果からその地平線に濃い紫色の滲みがあり得るだろう。というのもその海外部至近方向以外に向けて、言い換えれば質量の薄く時間の流れの速過ぎる方向へ我々の観測船を送っても、光速に対する大変な遅れの為に希に赤く光る星の日の出らしき徴候を見つけてもそちらへは彼らの各生命単位では到底到達し得まい。従って我々として紫色の日の出ずる処を七夕系宇宙果ての重たい渦潮から発見しようと試みる方が余程賢明な航海だろう。ゆえ深縹の道が唯一、海外へ到達する方角だろう。

2008年12月4日

音もなく降りゆく雪に紛れては会わずともなく土にも還らん

2008年12月3日

木枯らし

虐めっ子住みし土地にも冬が来て木枯らし共に消えてゆく

2008年11月27日

大学制度論

今の日本において確立されざる単科大学(college)と総合大学(University)との違いは、両者が分業と協業なる全く形質の異なる適格を養成する以上は、いずれ大学令的にも整備され直される方が望ましい。しかし注意深くならねばならないが、この際に単科大学の価値を総合大学以下に置くのは過ちだということである。単位互換と施設提携により、それは部分と全体とを緻密に構成しなくてはならない。
 イギリスでの学寮制が、いわば大学内のチームを造る様なしくみは一定の参考に足る。現況日本の総合大学は屡々離れた地点に校舎を持つが、それを更に拡大して校舎毎の自治教育方針を認めるのがイギリス式。
 他方、アメリカは科ごとに特化した高度な集積を完全に独立させる傾向がある。すなわち広い国土では分散しすぎるよりは一定の場所に一定の形質を集めた方が効率を達する。日本はこの両者から利点を学び取りみずからの欠点を克服せねばならない。
 単科大学というものの本質的意義は「集積」にあり、総合大学のそれは「校風」にあるとするなら、我々は省略されて行く若年人員の中で既存の大学間の統廃合を通じて、いくつかの有名大学傘下の高度集積という既存校舎の利用方法を考えついてよい。もし自然に委せると、すでにある程度のまとまりをみせている入試偏差値ごとの連帯間提携合併と、有名大学間の競争激化、そして弱小の大学吸収と校舎買収が起きる。自主的にまとまることだけに依存していると何より、単科大学の専門性がなおざりにされ易くなってしまう。これが日本における大学秩序再編の最大の課題点である。たとえば明治以来の歴史を持つ幾つかの単科大学では長い歴史の中で蓄積された教習方法論が不文律化されているのは普通である。そして生徒の自主性に委せるだけの総合大学には、こういう一定の学生‐教員間の同胞意識が出自境遇のさまざまな違いから確立されて行かない様だ。いいかえれば、今日程度の総合大学が抱える複数の深刻な問題は、その大規模化に伴う師弟感覚の希薄に由来するのだったろう。単科大学独特の個性を十分に将来へ託しながらそれらの再編を謀る戦略として、大学令上で総合大学自体との住み分けを計るのは思慮の結果だと説明される。
 仮に大学院が余分研究員問題からも分離省力化した採算の必要に駆られ自立して行く先々にさえ、要領よくまとまった専攻学部組織としての単科大学の価値はユニバーシティのそれに優るとも劣らない。この為に、職業専門学校の自発的延長上にあるものとしての単科大学制度は、中身の薄い教養人に留まらぬ「専門家」の育成に特化した特徴ある日本型教育として、独自にカレッジの名称を冠されてよい。
 然るにイギリスにおいて大学名称を誇るよりも如何ともし難く愛校心の源となっているのはleg、乃ち法を供にする所の校舎同輩ということだ。如何なるカレッジに属してきたかで人間自体の育ち方は微妙な内容の違いを伴う。他方、日本の大学制度に於て相当独特なのは校風を受け持つ名義としてのみ、単科総合とわず大学なる概念が有効に働いているという事情である。これはそれぞれの創始が時代の混沌期にあった場合、志たる初期設定値に最大のばらつきがあった複雑系方程式乃至バタフライ効果へ帰せる。そして単一の個性が最も恐るべき民主主義の殃であるからには、また世界に向けて内心そういう学校法人の適当な分散を文化上の成果とまで考えても間違いにはされないだろう。

2008年11月25日

工学

費用と安全性を考えると、現在出回っているアルミニウム缶を政策的に廃止して、代わりに内側にクロム鍍金を施した薄膜スチールに様変わりさせるのが今日より、ふさわしい技術に思う。日用品向けアルミニウム精錬は電力面から全く今日的ではない。これらは軽量金属の特注品についてのみ利益がある。

紅葉

アスファルトに落ちた紅葉

公共学校論

我々は家庭教育こそ最良にして究極の教育制度、なのだ、という真実から目を背けてはならない。公共の学校に対して理不尽な非難と益々高まる過剰な期待の声は、それが民主主義を標榜するたみによって貴族の私邸において予てから施されて来た立派な学問の程を我が子の場合に模倣したいという欲求から健置されて来たものであった歴史を、冷静に把握してから発されるべきだ。すなわち公共の学校には、最終的には主宰者自身の道徳に値する啓発効果しか望み得ない。
 もしこの大衆化と均質崇拝の世風の真っ只中に、子息の未来を深く案じる情け深くも思慮に満ちた両親の名残さえがあったなら、かれらは学校に通わせるという通俗的な様式ではなく、家庭教育制度の充実というまさしく貴族主義の理念に今一度立ち返ることだろう。少なくとも、玉石混淆の世間という否応ない荒浪に揉まれ健やかな交際の習いが掻き乱され易い身心とも不安定な思春期の間だけでも、如何なる無遠慮な環境から育った不運な人間にとってさえ親元から学校という通俗化された場所へ通わせるのは必要にして賢明な教育方針だと思わねばならない。最も優れた教授がそれぞれの個性の発達に応じた一対一の個人教授である様に、掛け換えの効かない無私の親情というものはどの子供にも伝承されて行く。
 とある地方学校の先生が曰るに「どんな子供にも必ず良いところがある」と。当に一律化された学力競争を強いる堕落した進学予備校に対する救いは、恒にこの親心の理なのだと知るなら、存在理由のない子供は存在しないだろう。

2008年11月24日

宇宙エレベーター構想の国策的意義

宇宙塵を掃除するという仕事に特化したワイパー・ロボットが開発さえされれば、期待される宇宙エレベーター構想には国家事業としてかなり積極的で良い。
なぜなら一度実績が認められればこの種の将来性のある事業には国際的に大規模な需要が見込み得るし、どこかの様に利己的な打ち上げ連発の所為で散乱したデブリスを我々が片付ける仕事はただ公共心の満足にも叶うからだ。つまりこの事業そのものは政治的には善意の策である。

 ところで、このステーションと地上を繋ぐケーブル[謂わば『宇宙線路』]の形式が非常に戦略的な重要性を持つと知るべきだ。
第一にそれは延伸されれば既存の鉄道線路の如く、非常時には大変に有利な軍事利用が可能なのだから注意深く国際形式上孤立しないオーダーを選ばねばならぬ。コンパクトディスクを開発した時に一私企業がそうした如く、議論を重ねて技術規格に深慮を期するべきであるだろう。
第二にこの線路内部または周囲部に適宜から最大な設備更新の可塑性ある大規模伝導体を設けることは、殆ど未来の有力な発電所となるだろう衛星発電と宇宙駅内変電所のやり取りより、直接の送電線敷設を兼ねるだろうから。

 因みに次は個人的な見解だが、度重なるたちの優れぬ不祥事および先行き当然の縮小市場である事情、さらにはアメリカとの長期的国家間競争上での決定力ある住み分けという洞察点からして、現在の実質的に無駄極まりない軍備予算を大幅にこの種の宇宙産業助成に切り替えることは全く、国策として粗雑な国民的性格を免れない隣国より大きく株を上げる善政であると思われる。
高が威嚇の玩具に大金を投ずる者は子供染みているという揶揄に言い訳ができるものではない。

経済系の道徳目標

この壮大な宇宙の片隅にある惑星に花咲いた文明のもたらす際限なき眺めの、本当の目的は何だろうか。少なくとも我々がそれを今日に於て知り得ないという事情が、明日にも我々がさらに緻密な社会秩序を通じて生態系の上へと、全く以前と異なる才能を育てあげねばならない使命感の基か。経済活動が動物に否応ないある程度の功利性にも関わらず文化毎に組織立った互恵体系の追求と調和の努力によって、副次的に適所の増大を自然一般に与えるという事実は、この様な哲学的目的観にも合致している。明け方に鳴く鶏は人間の為にだけ躾られるのではなかった。
 知識がヒントを授けるとして、道徳だけが人間の理由を形作る。この為に、考える力を社会全域へ啓発することが、未だ不完全な文明段階の今の日における漸進的目標となる。与えられた課題を闇雲にこなすだけの機械化された生活から脱け出て、自律した思索の能力を広く開花させることを通じて、世界の形相から期待される最高の善意を正直に懐ける人間が、現代の倫理命題なのだと考えることはできる。そしてその様な人間達の社会体制上にしか、宇宙の理由を昨日より完全に認識できる未来も到底叶わないこととなる。教育は学問の習慣をつける手段ではあって、人間自身があまねく教育化された場所ではその相互啓蒙理念自体が当たり前の日常となる様に。

2008年11月22日

法則論

法則的認識は地球型の習性だった。周期的な移り変わりの中にない生物系統にとっては、数学自体が不要だから。法則とは外在的なものを指さない。それは内在的で、全く人間的にのみ把握された外観と云う他ない。
 自然がかくも混沌たる上で、なぜ秩序と呼ばれる法則を内に秘めなくてはならないのか。答えは、それを見た者にしか分からない。法則を知る者だけが希に秩序を把握できるのだったから。即ち、知能に集積された予想能力にだけ法則性は元来所属していた。自然法則と道徳法則の根本的一致の理由はまさしく、我々の精神という理性原因にあった。宇宙の数学性は精神からの眺めにこそわけがあった。数学は人間型法則の言語。

2008年11月19日

白雲

白雲のもくもく流れる夕暮れに黄色く染まりし木々の香りよ

2008年11月18日

環境省の格付け

なぜ明らかに他国の迷惑になる調査捕鯨を強行するのか、その神経の出来栄えは計り知れぬ。

国民および国家の名誉威信を永年に渡り傷つけ続けた償いはどの一族の首で取るつもりか、説明しなければ人倫以下のヤクザ省と呼ぶことにする。

電網系の促進

情報のインターネット配信ビジネスを一般化するには、小規模かつ年齢層を問わない買い物にも適したデビットカード制を中心にすれば良い。

クレジットカード番号入力への忌避感覚が、インターネット配信系を遅らせる日本独特の原因だと知るなら。

行政手腕の老害

塩爺、先日在野のノーベル賞科学者を掻き集めて中国風に政府の道具と為す。
東洋古老のおろかしさ疑い難し。政府高官には米英留学を義務付けるべきか。
 福沢の云う権力偏重、極東における知識人をひとりのこらず殺すに等し。
ひろき平野にて息をつけねば自在に研究を進むことあたわず。


成程、みずからの視野の狭い体制を教化する為に特別に造ったロボットである東京大学関係者から科学事情を聞き取るのは適当だ。が、他の国民は奴隷ではない。

2008年11月14日

卑猥芸人の終幕

かつてわが政府を裏切った歴史認識に欠陥ある幕僚長の更迭解任は当然だが、日本人の理知に欠け感情に激し易い大方の性癖から言うなら、単に悪一身を斬るのみならずその組織体格そのものを限局まで切り詰めて「飼い犬」の立場を殊更明晰にするのは万世国民の悲願であれ。

暴力にしか能力のない国民の飼い犬ども、これは侍としても最低級の芸人であるとあまねく知らしめねばならぬ。今生において日本軍人をいかに卑しめても足らぬ。既に破れた軍の長の言い訳ほど見苦しいうらみつらみなし。

 我々は運動選手の発溂たる活躍をまだましな芸能として仰がねばならぬ。正義感の未来もかくあるべきだ。軍人亡ぶべし。


成程[カントが『啓蒙とは何か』で云う所の]理性の公的使用としての、一学者の立場からの言論は自由に為さるべし。が、内容があし。

製品開発案

殆ど自炊しない単身者を基本顧客とした、厚紙で出来た俎板と包丁を作る事。
即ち「使い捨ての調理器具」

俎板の方には汁が染みないだけの表面加工と十分な厚さ。
包丁にはラップやアルミホイルの紙の刃を参考に、持ち手の厚紙部分にはザラザラした加工を。
 直接に料理素材へ触れない部位には再生紙を用いて良い。

2008年11月11日

散るもの

あきくれば散りゆくものよ

2008年11月6日

留置所の罪業

警察庁の全員は、将来必ず、留置所を監獄風に造り罪なき者を貶めた天罰を受けるだろう。
自業自得。

疑わしきは罰せずの格言の出所から勉強しなくてはならぬ。

落ち葉

夕暮れに散り行く落ち葉よ

2008年11月4日

駐車場

赤とんぼ駐車場には消えにけり

2008年10月31日

商売訓

堅気の商売は一朝一夕で成り立つものではない。
世へ悪影響を与える生業で泡銭を稼ぐ連中の末路は必ず地獄の底であるのを見よ。

人間を智恵才覚で騙し上前を稼ぐ。
この如何ともし難い経済動物の行為が社会から許されるのは唯一、良い影響に満ちた商いだけである。

世のため人のために尽くす者を福が恵むのは誠に理の当然で、この逆に世の中に害毒を及ぼしながらひとり安楽な暮らしを企てる者は、身分不相応の金銭が却って急速な家計没落の切符なのである。

退廃生物圏

株式会社ビットウェイという東京都内の台東区にある会社、
同じく都内品川区大崎にあるNECビッグローブという会社、
さらに東京都港区三田にあるビービーエムエフという会社、
また都内の東池袋のパピレスという会社、
またまた都内の渋谷区神宮前にあるインフォコムという会社、
最早場所は言うまでもないがNTTソルマーレという連絡先は電話番号0570-000-539の会社
は、全国の未成年、善良な子女および一般市民いや人間みなに悪影響を与える卑猥な漫画の広告を、各携帯電話サイトのページに掲載してあぶく銭を稼ぐいやしい連中である。

天下の台所を目下にあれだけ日々自信満々の知事管轄というのもこの程度のものだと知るべきだ。誠に意地汚い連中め、カネのためならなんでもやるのだから。
最低限の品性も欠落し、非教育で低俗な欲望の塊を撒きちらす、一体、人間と呼ぶのにふさわしい連中なのだろうか?
奴らには書かれた言葉を読み取る能力もなければ、その内容が美しいか醜いかを見分ける才能も生まれながらにない。あまりに汚い都内ではそんなものが育つよしもない。

愚劣な連中に媚て票を稼いでもその虚栄は地獄堕ちの気っ風なのに。衆愚政、救い難い。

2008年10月30日

知識の審美性

科学理論、つまり知性認識は概念による自然の審美的把握にあるらしい。真理の中身は世にも希な概念という事だ。自らに属さぬものは持たない。

2008年10月29日

いえがらと遊びし沢を埋め立てしひとの心よ清き流れよ

桜の木

都市計画へ最大の教養を求められる長期計画には在野の賢者に指示を仰ぐべき場合もあろうに、官尊民卑の弊害は上からのクリアランス文化を未だに引きずり、あっという間に様変わりする下らない建物、場所へ金持ちになりたい一心で破壊に接ぐ破壊へ拍車をかけるばかりである。美しく咲いた桜の木を切り倒し、幹線道路を通した君達はワシントンの足下にも値せぬ言い訳ばかりだ。なぜその一本の木すらよくも遺せなかった君達に未来の安定があるだろうか? 足元から崩壊するバベルの塔に住まう心地は、その桜に一時留まる鴉より儚いのか。いざ誰が君達の故郷を守るものであろう。君達自身さえ風景を守る意志がなければ、匠の証拠さえ漫画の一話に綴じられ東雲と消え去るのみだ。遺すべきと遺さなくて構わないとを見分けられない君達は趣味の高が知れたもの。

2008年10月28日

ふるさと

ふるさとの烏の声はかなしけり

感情論

人類一般が幼型化の傾向を示すのは、彼らの性染色体の母系性から明らかに、我々自身の理知に対して感情がより優位になる経過をも示している。ある競争の限られた環境へ人類を囲い、この楽園かで自己進化させれば一層明らかに幼型化の洗練が現れる筈である。対して理知とは、彼らが大変に厳しく競争する地域に必須な習性なのであり、これは理性に対する知性に関してより顕著なことと思える。単に理性により仲間と協調するのみならず、より激しく他人を出し抜く必要がある場所では知性の充実が謀られる如くに。
 感情とは、ある安定して緩やかな協調のできる場所についての習性であり、決して人間競争の結果とは感じられない。従って、文明諸国ではその発展の恒久さが試されるに連れて、必ずや感情の洗練の程に最高度の品性の目安が見い出せるだろう。なぜならばこの文明社会の目的は、周辺を要領よく治め済う過程で、対外環境より対内環境の恒常性を高める生命体現象に比類できるのであって、我々自身が人間へより有益な種類の養生に事欠かない程、つまりこの国家がより緊密な紐帯で自らの繁栄の為に協業の度を高める程たしかにその神経系統としての個々の細胞すなわち個人には至微の高さが、性格の繊細さが要求されることになる。比較的粗野な人にとって、文明の環境で彼らが如何に複雑な神経を働かせて日々を立ち行かせているかは同じ種類から生じた現象とは信じられない位である。
 結局は人類自身から分岐してより広範な生態を生じるのはこの不眠不休の神経系統が身体全体に統率を与える能力について、と思える。理由は彼らが社会を形成する限りその伝達経路の拡充が情報化の結論に当るから、と言えそうだ。人類が遠い将来に、我々自身と何らかの近似を保った系統発生の証拠を短縮された胚割の間にのこすとしたら、それはおよそ間違いなく我々自身の幼型化の傾向としての伸長性、すなわち理知に対して感情知能の優先の傾向である。我々自身は大人にならない範囲について、成熟的諸形質の縮小として人間性がある一定の場に固有の速さで、ばらばらにではあれ進化するのを日々細やかで複雑な機構を築き上げる社会の秩序へ観察できる。彼ら自身が天敵に災いされない幸せな時代を続ける限りこの半ば孤立した星の中では独自に、固有の協調系として生態間の相互救済作用、共生進化の体系化の流れは避けられはすまい。すると、人間性に限度があるならそれはやはり同類間互恵制度の定式化を目指す経済人の理念に、好ましい程度の普通さを単に社会性一般の秩序型として求めざるを得ない。そして現行人類の課題とは、この福祉救済方法を単に同類のみならず彼らの看護可能な生物一般へ及ぼすことにあろう。ある習性を他の種類にとっての相利関係に置き換えていく人為的な工夫が自然の容量を殖やす方便なら、この巧みさは真に慈悲の理想を競争原理と調和させる経済感覚に由来する。

2008年10月26日

ティッシュペーパーの改良

ティッシュペーパーを二回引き抜いて使う場合を考えると、現行の二枚重ねの無駄を節約して「一枚型」を流通させれば、エコの掛け声にのせ相当成果があるだろう。

新規適所の開拓はこういう微妙な考え方の転換にあると思える。必ずしも技術志向である理由はないのだ。

2008年10月25日

新聞雑誌の品位

2008年10月25日朝刊、朝日新聞が意味も分からずセレブ等と俗語を用ゆ。有名の義を誤解させる将来推して知るべし。

2008年10月22日

文明度

文明は度合いにしか目的とすべき理念を持たない。この為に、それは地点として山頂の様に達成されるものでなく、絶えず登り続けられる山道の如くであるらしい。実際に、ある文明は圏域として、いつも比較によって辛うじてその有りかが知れるだけだ。文明度という理念は全く考慮に値する何事かであって、我々人類があらゆる智恵を動員して幾ら考えを詰めてみても、その段階という建築体系に行き当たるだけである。そして常にあらゆる人間生活を含むところのこの体系は依然、未完成だろう。天国に仕事がなければ話は別である。我々が完全に文明化しきるという理想はやはり、他の地域に比べてしか見出すことならない。

 すると人類自身が幾つかの国に別れて互いの土地を耕す限り、この市民秩序の偏差は競走の間にしか見つけられまい。結局我々が歴史から見逃して来たのは、人間競走には遅速の違いしかなかったという訳であった。ところでアキレスは亀に追い着かれはしない。これは比較文明論にとって絶対命題とすべき矛盾律である。従って先進後進という順序ではなく、単に人間界には目覚ましい市民秩序の達成に遅速があるに過ぎないだろう。アキレスの足と亀の足とではどうも長さ自体も違う。つまりは、連結する総ての世代で、相互の文化を最も摩擦少なく伝える方法論を備えた民族は、否応なくこの文明度の成長を他と引き比べて圧倒的とし、かつこの地位に他の民族が後から進むということは論理的にあり得ない。そしてこの固有の方法論は伝統と呼ばれる。考え方として社会は進歩するのではなく、単に先祖へ接ぎ木されるだけだと言えよう。文明間の競走には微視すれば差ほど進歩や退歩があるのではなく、その巨視的には社会体制に市民秩序の違いが次第に現れているというゆっくりした交易現象しかない。時間が相対的な様に空間も然りであって、例にたがわず文明や文化もこの夫々の違いをまるきり交換までもせず固有の系として保存する。熊と兎は各々の山路を経て暮らす。かれらの出会いは時たま起こる希な出来事であるが、この交差がどちらかの体系を吸収しても我々は進歩や退歩を考えはしまい。やはり社会はかれらごとに違う使命を背負う。
 文明に、競走が目的とはなりえないのがあきらかである。その度合い自体がつねに至るところ目的の形なのだ。これらの間にあまねく観られる遅速の偏差は、別途市民性として全く民族と呼ばれるに相応しい秩序足る。ゆえに人は民族間競合を実は殊更深刻に考える理由もなさそうだ。これらの文明度に見かけの遅速があるのは何ら、彼らの生活様態と無関係である。蛮俗の風習に恐れ入る人はその変哲な知識を以て百科辞典の頁に綴じる、だが彼らは永久に交わりはしない。答えとして文明度に於る普遍の意義はその系統であって、相互参照やお互いの文化圏への影響は民族間にとって誠に偶然に基づく仮の交遊としか思われない。彼らはもし相手の文化圏ごと自らの内へ摂取しうるほどに適当な間柄でなければ、やがて再び別れてゆき、自身家系の山道に入る他ない。誰もが仙人になるものではなく、彼らには途中の綺麗な畔の引かれた街や山奥の奇妙な踊りが特徴の部族を横目にしながら天の方へと、一途かつ自由に旅を続けるべき権利がある。この為に、最終的には地球の人間生息域には真に見事な文化系統樹が広く、育てられる筈。その各地気候の異なる山間へ旅する者は同じ種を蒔くにせよ。文明度に於て已、この人類世界という樹木の部品ごとの鮮やかな特長は、のちに注意深く社会学知識へ整理されるのだろう。根っこの堅固な保守組織を驚嘆に足る彩りゆたかで寛容な花弁の周囲の細胞と等価視できぬ者なら、その観察は全人類の麗しい互恵体が自然の合理性に由緒する事実へかなり冷淡と言うべきではないか。彼はこれらの緻密な細胞間の分立協業が太陽系の周期に、又その為に生ずる季節と風景に応じし規則立った移りゆきたる真理を、当面の人間競走へ夢中で従順な余り受験勉強に集中する結果、仕組まれた暗記計画でのみあると勘違いしていた。科学と科挙とは訳語は似てはいるが。

2008年10月19日

缶コーヒー

あきくれば缶コーヒーの赤くなり

2008年10月16日

村疇論

Gated community、柵村は独特の文化を育むにはそれなりの利点があるとして、その内部であらゆる野生さが消え去り平穏が訪れるというのでもなく、単位面積あたりの混沌化は逆に速まることからかなり早い段階でその人工的な内部秩序が完璧ではない、となんらかの含みある柵内犯罪の発生から証明されることになるだろう。たとえばオートロックマンションでもその自治意識がおのずと低い場合は、すみびとから如何なる悪意も排除しきれるものではない。なるほど厳しい山門検査により猟気は静まるとして、我々は絶えざる管理によってもつまらない規則違反が決して消滅しないのを、廊下に捨てられた詰らぬ煙草の吸い殻にも響き渡る音楽会にもしばしばお遊戯会にも見るだろう。
 ということは又、柵村は逆に、公的社会全体に対しては新しい混乱の原因。ありうるのは小さな村と大きな村だけであり、国という単位から見れば中で住み分けが発生していく訳。
 具体的に、どうやれば取り残されたスラムをことさら作らずに世を治められるか。
 専ら私有地を複数人へ分割して貸借する権利は合法である、従って柵村自体は全く需要ある限り発達し、のちには町そのものが柵されることもあるだろう。出入口を管理した柵の内部で異なる種類の人生が営まれる場合、国はこの過程を合法と見なす訳には必ずしも行かなくなる。彼らの権力がもし国全体より大きくなってきた場合、取り残した国民をなんらかの被差別化によって行政的に排除する危険もある。しかし大きな環境変動から事情が変われば、この柵村民が彼らから別称される「外の」浮浪より適性でないとは言い切れない。

 以上を考えると、柵村に代わる、少なくとも民主思想と大きく矛盾しない垣村がより現代化された集住形として遅速あれ認知される日が来るだろう。ヨソモノを敏感に捉えるのは全く農耕民族の本性であって、この高い主体的な文化意識がなければ、たとえ鉄壁で守られた城壁の中でもいついかにして土壌が荒らされないとも言えない。つまり共同体は共通目的のために、弛くか強くか協力することでのみ一定の恒常さを保たれる。
 外部からの出入をある程度自由にしておきながら、内部系の耕作民度を甚だしく正義へ向上させる方が、結局はより誇り高い秩序を長期に渡り維持する道筋を見つけ出せる。柵ならぬ垣を設けるのは透明さを外部の民族にも印象づけ、その独特の規則を文化理解する機会を外観や露ないとなみかたから与え、公益の模倣可能性に貢献する。それは現況の柵村に少なくとも管理されていない出口を設けることでも、漸近して行ける農村からの知恵だろう。勝手口がない場合、この主婦は姑の意向に帰依するために緊張を内部に向けかえ、胃腸を悪くするかもしれない。

2008年10月10日

ICチップの需要

電子タグを安価にかつ軽量にすることで商品へ貼り付けたバーコードのみで自動コンビニは可能である。
デビットカードを含む電子マネーが一般化するのは、その流通過程の省略から単に時間の問題である。

このタグは少なくとも需要の増大から大量生産に至るのが確実と思われ、輸送リスクのなさを鑑みて海外にというよりは地方にIC工場を立地させるのが、軽減した要員から成る国富計画には新たなかなめと思われる。

2008年10月4日

初頭数学の授業法

授業に応用として、優れた生徒へのインド式四則計算術のみならず、最も出来の悪い生徒へも賢明な加減計算の骨を掴ませるのに揃盤を使うのが古来の知恵だった。二桁以上の繰り上がりや繰り下がりを最短で行う手順は、ソロバンの玉を幾つ一緒に動かすべきかという慣れに等しい。たとえば15-7=8は、十五を作ってから五つの下側の溜まりを除いて、のちに二つをあまった十の玉から除くのがより良い。これはソロバンが足し引き計算の道具としては最も単純な5進の規則に基づくから可能な導き方で、手のひらの指を用いていた祖先からの恩恵とも言える。

純粋理論の独立

実学伝承と純粋学問とは相異なる理念である。技術を純粋理論型教養一般から分けて、実学へ徹した専門能力啓発の機能拡大に傾注することが高度産業社会の情報化にも寄与するところ多大なのは、我々の技術更新が急速に転換し続ける流動型時代にあればなおさらに、文化慣習を社会の現況と大きくずらさないままで時期に即した人材を開発するのにも必然の方角だろう。そして各種教育機関間での適材の実現を最大限妨げざるべく、中等教育程度の共通学力試験を通過すれば如何なる高等教育間での出入志願も単位互換性として解放されるのが本来である。理論のための学院、学部に対する技術のための専門学校が企業との共同型人材育成には最も適正となる。そこでは積極的に職場訓練・On the Job Trainingも取り込むべき。無用の用たる教養の涵養は屡々、或いは殆ど必ず商人の現実勘定とは違う原理に基づく限り、損得利害や実現可能性に縛られない自律した構想力の飛翔と啓発には、純粋理論の大学が飽くまで全体社会から独立した組織を維持出来ねばならない。我々の学問は如何なる現世の権威にも身を売らない者の高貴なる目的でなければならない。審理は政治経済に依存しては決してならない。我々の全時代を超えて、世界と文明の真実を一途追求するのは単なる目先の利潤を端睨にも構わず寧ろ、人類全員なべての知の終極形なのだから。

大学に於ける研究と教育

近代の知識大全型大学であるUniversityが風変わりなのはそこでは研究と教授とがほぼ一体化していることだ。教授と研究室が同じなのは不可思議な馴れである。しかし能率という面から、或いは教育適性と探究適性とが必ずしも同じ理念ではない事情からしても、将来に渡っては学院と学部とは異なる機関へと分業して行くのが道理だろう。常識に照らしても真実は事実とは異なる。前者は教授ではなく研究者を養成し、後者は専攻を中心とした教養を与える。そして教授資格という事も俄然、研究員とは別項に要請されねばならない。これ専用の実績および面接諮問が大学毎に設けられて良いと思われる。無論学問独立を考慮して統一国家試験は無理な事である。
 学ぶのに有能だからとはいえ教え方が上手いかどうかは、たとえば教員と学習塾講師との違いにも似る。我々は統合大学という理念を研究項と教授項とに分けて考える、より新たな習慣に至るべきだろう。各種の高等教育は民間の独学を含める国民の学問能率を高める為に絶えず再び整えも崩されもして構わない。知識の伝授を緻密に社会神経化する機関名が教育であるからには。

世風

勿体無いの次にはケチ臭いが流行語になる

両極を避けられた者は調度良さを身に着ける

事故米を捨てるのではなくバイオマス燃料に利用する者は

2008年10月3日

黒猫

天気の良いある秋に近付く晴れの日に閑な黒猫が歩いてる

2008年10月2日

18

夕暮れに混じった18の頃の匂い

2008年10月1日

ストリートビューの問題点

Googleのストリートビュー機能は我々の政治的不可侵性を徐々に弱める役に立つと同時に、少なくとも「観光都市」にとっては致命的な損害を及ぼす。
物珍しさの感じられなくなった所はわざわざ訪れる価値をみいだせないだろう。例えばディズニーランドの中身を全てストリートビューに詰め込むなら人は遠出する動機も失せる。

よって、『特に観光都市を自認ないし目標する行政は、このサービスを排除する様に勧告すべきである』。日本では京都、奈良、沖縄および北海道が特筆すべき当該区域であると思われる。
 対して政治都市を目指す国際的な開放の広範な地域ではこの機能によって透明度の高さから不信感を拭う役に立つだろう。日本では東京がこれに当るか。

2008年9月29日

社会学

方言辞典を編集することを通じて少数民族語に託された古代の知恵や感覚を保存し維持して行く事は、将来に渡って風土適応の知識を渇らさない為にも単なる好奇心の命題ばかりではない。日本民族における沖縄文化、アイヌ文化、或いは隼人や蝦夷の文化を慎重に掘り下げて行けば、文化人類学を通じて我々自身の価値観の根っこを様々に探り得るだろう。
 国際化に当たっては自認を益々必要とするとあって、我々自身の由来を十分に知らない根なし草は却って閉鎖した人種差別、自民族中心思想に知らずしらず陥るものである。

身心の儀式的連関

肉体美の中庸性は精神美の完全さを期するのに不可欠な要件となる。この為に人類に於ていつにあっても、肉体が完成されることはあり得ない。その特性は常に未完成さの延長としてのみ、生態における可塑性の増大としてのみ見出せる。
 我々は少なくとも我々自身の審美性を学習行動に対する知能行動の割合いの高さとして集積しつつある如くであるらしい。これは結局のところ、物分かりの良さという特定の遺伝形質を最も望ましい審美性として絶えず配偶子へ要求することにつながるだろう。つまり最小の試行錯誤学習と最大の知能行動を目的の為に自律して行使できる様に導き出された種類を、望ましい形態として多少あれ認識する。その結果は社会の複雑さに対する適切な進路の選択を必然の判断に求める様な自律適性の選良に至れる、これは我々にとっては知性という概念をおおよそ従来の用法に関して保存して来た理由が単なる状況判断能力への僭称ではないと覚える所以である。
 いいかえれば精神美を最も原型に近しい質として輝き出だす特徴とは我々自身の知性である。少なからず感情は知性の過剰を倫理的折中と矛盾しない様に抑えて表す手法として、いわば礼儀としてのみの社交的特定形質を意味するのであって究極では、その源泉は時代側の標準に叶うものとしての適切。例えば極冷たい湧き清水もこの硬度が飲料に偶々合わねば感情の対象として客体的なままである。しかし知性自体は清水が既存の人間趣味と矛盾しないかを考慮せずに純粋な水質の良さをのみ問い続けて行く。ならば変わるべきは人間の肉体の特性の側であって精神にはない。知性は精神美を最も原型にまで留める特徴なのは明らかなことと言える、なぜならそれは社会活動という時代条件に依存するものではないからだ。単なる感情の敏捷にしか適性のない種類の大部分は、実社会では精神側の可塑性の低さから、或いはその過剰な情緒の不安定さによって、素早く若しくは単純な行動型にまつわり一定の獲得形質を殆どゆっくりと世代毎にくりかえすのが通常の有り様である。しかし郷原徳賊とか環境収容力戦略に対する内的増加率戦略、つまりKに対するr戦略とかは精神性能の高度化には不適当であり、この為に知性を育む余裕が環境側に求めにくい場所柄では、例しには複数の民族の抗争が絶えないとかそもそも土地が貧弱で十分な生産が確保できないとか凡そ如何なる観点からしてすら知的活動の追求可能性は高くならない。そこでは文化的感化という強制的手段に応じてしか余裕はあり得ないのであって、屡々見受けられる様に、豪遊を愛するという自浄的特性が育ちのあしきから習性化された族について決して継続した思索の連綿は不可能に見える。それは絵本の中のキリギリスがアリをあざ笑うのと同じ事だ。
 我々は持続的信用創造の最も端的な担保として、国産知識人の質量を挙げて良い。これは科学研究を嗜む人の最も直接に多彩な銘柄が如何なる方向に於ても進歩へ、状況改良へ有利である事情に照らせる。よって、肉体美を合目的として体系づける社会は進化の項目にとっては大概、過ちである。具体的には運動競技の様な少なくとも創造力を遊び、recreationにまで格下げされかつては主流であった規則で閉じた零落体系では永久に、精神美を革新へ至らせるわけにはいかない。フェンシングを遊ぶ人はもはや剣道が能率的殺害の手段であった時代を知らない。このゆえに我々の為すいかなる社会活動も将来に渡っては時代遅れになって、暇潰しの方法として以外には保存されないものだ。例えば大名行列や凱旋歌が儀式以外には内容を無くす如くに。
 即ち、人類一般を特徴づける最善の種類は知性を儀式という時代標準の行動型からできる限り遊離し続ける慣習が完成されたものの謂われとなるだろう。これは結局、文化の可塑化が、多分に知性以外の特性に対する多様さが保証された場所についての現実味であり、従って有名無実な芸能人が偶像として巾を効かせる限りの現代社会という肉体礼賛の地柄ではありえない。人間性は精神美を肉体の表象を通じて知性へ集中することで漸く栄えるものゆえ。

2008年9月27日

秋晴れ

秋晴れの青空ならば

2008年9月26日

現代文明の鼎

学術の発明、政治の貢献、経済の福祉、とは少なくとも現代文明が到達なしえた社会活動の鼎。これらの程度を極める事が究極では、安定して幸福を洗練させる場所を幾つも形成する方法となる。宜しくこれらは各々独立していなくてはならない上、どの一足が欠けても文明は十分にバランスできないのだろう。

2008年9月24日

生態系の方角

経済体系の高度の複合性が、社会型哺乳類の辿りうる専ら有効な合目的性に思える。民族という単位も、この世界的複合を益々増強する為に必要な細胞と見立てられるだろう。如何なる科学知識であれ社会生活の合理化という自然法則への順応をもたらす。工学は尚更、人倫の範囲へ限りなく最適化しながら自然法則を人間へ応用せしむ。
 人工性を不自然と考えることはできない。それらの自然界における形態地位は系統的進化の法則、散乱と淘汰に寄り添うのだから。我々人類に為し能う最高の営みは経済体系の緻密と拡張という慎ましやかな理念にありそうに思える。現実に、その普遍さこそ往古を総べて生物一般の合法則性を理由づけるに十分な宇宙の展開である。より単純な生態を共生進化の経過で自らの消化器官へ積極的に取り込むのが、生命体の有機的行動パターンを緩やかな燃費として多機能化し尚も延長する原理。
 能率、主に生態を改良する方法は唯一、能率へ見出せる。進化を誘発するのは消化能率の向上と考えられる。複雑な消化組織を体系的に運営できる能率が、生態の必然に目的とする性選択の方角となる。

移民の将来

日本政府の無軌道な移民受け入れは必ずや大変な混乱を引き起こすだろう。

心底熱心に学ぶ精鋭達は日本人の地位を国内で駆逐し、独自の共同体を町中に形成して完全な同化を拒否し続ける。
結果として第一に〈外人差別〉が、第二には彼らの影響で失業と浮浪に追い込まれた恵まれない若者達が団体になって〈極右化〉を極度に推進するであろう。
治安の悪化、テロの頻発、古きよきしきたりの破滅、大相撲で既に現実になったウィンブルドン化が社会の全面を暗い雲で覆うのだ。自民党はその責任を取るつもりはない。彼らは外国の圧力に屈した、先行の読めぬ無能な腰抜けだっただけである。

 我々はロンドン同時多発テロの首謀が国内で生まれ育ったムスリム過激派だった事実に照らしても、朝鮮人学校を作る様に「移民学校」を国際学校という名目で必然に建設しなければならないだろう。
そして悲惨なことだが、国内では同化しない彼らの住み分けを図る「移民居住地区」を定めるしかあるまい。さもなくば習慣の違う彼らの影響での治安悪化と犯罪率急増は必ずや免れない行く先である。
 自民党は地方行政への出産助成制度より先取りして、短期の安価さに引かれ長期の損害を買い国の舵執りを大きく誤ったのだ。
人身売買の輸入すら十分裁けない段階でなんの考えもなく移民を受け入れるのは一言、愚かな悪党であった。

我々は事前の策として移民への限りなく厳しい試験を科すのがいまさら取りうる最大限度の舵の切り返しと知るべきである。即ち日本語及び日本文化への『移民試験』での極めて高い成績を、単なる労働力の品質保証の範囲ですら絶対に欠かせないと悟ることになる。彼らは豚肉や牛肉を平気で食べる日本人へ憤慨し、肌を見せて歩く野卑な風俗を放任する政府を攻撃し、法律や命令に従わず、挙げ句には多妻の信念に則り日本人の売春を煽るであろう。

化学

アルミニウムの利用には一般に未だ認知されていない注意点があって、この經口摂取がトランスフェリンを鉄輸送蛋白の同形体として脳内へ送り込むとされ、恐らくこの結果、アルツハイマー型痴呆症が実験的に生じることである。確証とまで至らないにも関わらず、水道水アルミニウム濃度との相関がこの病症にかなり高い発症率を示すのは事実らしい。
 従って我々は少なくとも高齢化社会に至る中途では着実に、アルミ鍋やアルマイト加工を施した調理製品の原則禁止、及び一般のアルミ缶を漸次薄膜スチールへ置き換えるのが賢明な選択であると思われる。ドイツではビール缶をスチールで作っている。つまりアルミニウム精錬の過剰な電力消費を考えても技術的費用を下げることは可能なのである。且つ、メッキを施すなら炭酸飲料用に酸化皮膜をつけることもできる。徳川慶喜に倣うと銀の皮膜は最も安全と言える。

天文学

ダークマターの正体は同位体の塊、ということになると思われる。我々は自重力が極まってブラックホールと化した暗黒星団が広く宇宙に分布する事、それから花火効果とでも名づけるべき自己崩壊とエネルギー排出の過程を、単なる核融合の範囲で天体が日々行っているのを粗確実な事実と認識してもよさそうだ。m=Acより、我々は質量mの物体が同時に引力場Aと光速cに比例した火薬性を秘めていると確実視できる。
 およそ原子核崩壊を切っ掛けづけるのがそれらの不安定で重すぎる光を通せなくなった星への着火、つまりは暗黒星同士での量子論規模の中性子衝突なら、超新星爆発を新たな恒星の誕生として最も巨大な質量因にまで遡ると、宇宙背景放射の理由は最も大きな暗黒星の花火効果という事になる。つまり我々の認識する宇宙系は今や爆発し出した巨大な光源の狭間にあるということだ。花火は儚く終わるが、宇宙系はその中心質量因にとっての燃料源に限りがあるならやがては冷え込むと予想しうる。とすると、ある宇宙系はその普遍性を信じる限りで別の宇宙系との関連の中で、つまり周縁での非常に早まった時間の範囲で他の体系と接触して回っている筈だ。さもなくばこの宇宙という銀河団の渦は全くが孤立しており、着火した主体がどこにも見当たらないのだから。

2008年9月23日

運命の延長

LHCで2008/9/19に地下トンネルに大量のヘリウム漏れがあり、少なくとも2ヶ月の稼働停止。いずれにせよ西洋に寿命が伸びた格好と言える。

2008年9月22日

文化政策一般

現況国内への財政赤字を政府が解消するには、二つの原則がある。

1.無駄を省く事
2.税収を確保する事

 1.の為には天下り排除や省庁統合、可能な限りの民営化といった体制の絞り上げが必然である。
これには日本史上で常々独裁を敷きがちな軍部を完全に統制仕切る為に防衛省をまず廃棄すべきは疑いを持たぬ。内国のヤクザすら鎮圧し切れていない前近代的な危険さから言っても、軍隊の発言力は単なる内外自衛の警察権力の枠内へ絶対に治めるべきなのである。

 2.の為には消費税の底上げが物価高騰を抑えながら税収を確保するには必要だと経団連が主張しているが、現実には「格差」という努力に由らざる配分への不満が民間を流布している現実から見れば、その対象を工夫する可なのである。
即ち、必要悪や高級品目への重税に対し、日用品や公益に類する奉仕への免税を図るのが賢い。
例えば酒煙草、或いは法的に容認されている猥褻物[その種の漫画アニメ等サブカルチャー品含む]、もしくは芸術作品の流通等には大変に重い税金を科し、代わりに先進国中でいかにも脆弱な土地住宅関連の税金は軽減するのがいい。
 特に芸術作品の流通へ高い関税を懸ける事は先進国での不安定なゲーム的投機バブルから脱出する為に、よって国内での安定した芸術創造力を競争原理から中長期的に抽き出す為にも有効な方策と言える。
別の言葉でいえば、国内で創作された作品の流出を防ぎ止め、代わりにできる限り高い関税を通過してくる高級品目に応じてのみ国内での美術市場を活気づけるのが、大衆文化一般への迎合のちの低俗化を塞き止めるのにも有効なのだ。思うに貴族の高い趣味から生み出された稀な芸術こそ、民衆にとっても本当は「有り難い」のである。
イタリア・ルネサンスがあっという間に散ってしまったところから見ても、芸術市場を政策的に単に放置しておくなら結果としてはバブル景気に乗じるものと言わねばならない。保護や監察は却って自律した文化創造を摩耗させるが、少なくとも日本庭園を見守る様にその理想的かつ持続的な成長と調和の為には屡々、剪定師を雇わねばなるまい。それが「趣味裕かで良識ある有閑貴族の階級」、少なくとも政治・経済的には無意味な彼らの生態の養護なのである。
英国ではかれらを紳士と呼んで来た、そして来るべき大衆民主主義の堕落からの脱却を計りうる唯一の勢力がどこから芽生えうるかも同じく。

倭人の害悪

日本人の悪業の根である児童買春は徹底的に裁かねばならない。

特にこれを海外で行う者がいるのは驚異的な事実だ。

国内であれ国外であれ、未成年への魔の手を伸ばす悪人は発見次第で如何に重い刑罰を科しても足らぬのである。


日本人のアダルトビデオメーカーの中にはインディーズと呼ばれる公認されていない分野があり、この内には会社ぐるみで国内外とわず児童買春をしてその悪業映像を売り捌く犯罪者が現実に存在している。

然るにこれらのメーカーはほぼ全て東京に会社を置く東京文化のあしき産物である。

独裁都政の形骸化はこの様な、明らかな国際犯罪を手前勝手な言い訳で塗り固めるところまで来ていると知らねばならない。

女流の猥褻小説家をはべらせて批判の自由を阻害したご満悦のお方らしい最終結果は、来るべき落ちぶれに見通しが効く。悪因悪果。

2008年9月21日

学歴差別の撤廃

似通った発明しか産み出せないということは、その群の教養環境が似通っていた証拠である。受験勉強が出世の最終関門となっている社会からは永久にエジソンは育まれない。この為に、地方教育の自由化そして特に複線的な進路を可能とする様な入学資格の多岐化はいかなる私立教養機関にとっても必要不可欠なことである。また学歴とやらを出世の道具にするのは教養の本来の意味である心の余裕に対しては悪用である事実に照らして、寧ろ政府や省庁が指導して各種企業へ学歴差別を是正する様に勧告しなければならない。なぜならこの勧告により受験戦争の火の手が消化されたあかつきにこそ、我々の社会からは既存の体制を超えた多種多様な才能が栄えうるのだから。そして平均的学力を維持したくば飽くまで人口の集中しがちな中央の国立教育機関での高いハードルを欠かさない様にしておくがいい。

2008年9月20日

信仰

苦欲滅諦正中道

静かな午後

雨の降る静かな午後も秋に近づく

2008年9月18日

内容業界の近い将来

電子端末の普及により書籍業界はインターネット上での内容配信を余儀なくされるだろう。
書籍ははじめのうちあたかもレコードとCDの様に住み分けされるが、いずれ過半は多様化した電子端末上での閲覧へとってかわられるだろう。
これらを鑑ると、日本のwebが例えばふりがなを容易にすることや、web上での作家の囲い込みをすることに乗り遅れるほど不利な立場に追い込まれ絶命する。
Amazon等が書籍流通を殆ど後手にしていく先には単なるショッピングセンターになるだろう。そして代わりに、多彩な内容を電子配信するシステムを巧みに構築した会社が支配的となるのだ。
即ち「配信業界」が書籍業界の敗退に代わり時代の主要産業にまで成り上がるだろう。例えばblog等の書籍化ではなくて、より優秀な内容を配信できるbloggerの作家視の方が先進的な商売となるのだ。
彼らの持っている内容創作能力を効率よく商いに結べた者が時代の支配者となる。

2008年9月17日

数学と自然の関係

ある人へ数学的な着想を与えられるのは自然である。若しこの人を閉じられた光の入らない部屋へどれだけ置いても、感覚に訴えてくる無数の自然現象という規則立った世界がなければ如何にしても、新しいideaを閃くことはない。ゆえに、この数学的認識の拡張としての天文学も、よき自然に遊んだ経験がなければ自発的に伸びていけないだろう。ある程度の平和がなければ学問は発達しないが、同時にこの唯一の源泉は自然界の豊富な形相にある。
 そして人間は単なる人工化された環境下ではそれより他に新たな世界を発見できないのである。神の最も明らかに現れた姿は自然現象であり、我々はここから真摯に学ぶより以外に有効な自由を持たない。自然は世界を支配する秩序であり法則である。我々には思考を通じてこの無際限な英知の宝庫からの習い事をするのが精一杯だろう。
 自然が美しいということ自体、そこには何らかの神の意図が働いているのであり、従って対象は何らかの合目的な秩序を保っていると言える。こうして特定の自然現象からの抽出として、例えばニュートンが林檎の落下に見つけた様に、宇宙の根本にある神の計画を知ることが我々自身が正しく道を処して行くのには絶対に必要なつとめだと思える。ソクラテスの考えた様に、我々はあまりに何も知らない。我々は自らが何処から来て何処へ去るべきか知らない。しかしその解き方は自然という問いとして目の前に広がっている。自然から学ぶべき。
 ある山奥にひっそりとした神社で静かに流れる清水のどの瞬間にも働いている宇宙の法則は明らかに、何らかの原理を秘めている。しかし我々にそれが知り得ないのではない。静かに物思いに耽ること、先人の思考法を道具として真理を探ることで少なくとも絶えず部分的には源流を辿りうるのだから。
 宇宙の部分としての自然界にはその特有の調和状態があり、我々は数学という秩序を方便として混沌に隠されている神秘を徐々に解読して行ける。そして我々は神の計画から学ぶほど、我々自身がその内にあって如何に処するべきかを悟ることになるだろう。物ありて後に倫あり、と福澤が云った如く、道徳とは少なくとも人間的な法則。人の倫は物理を裏切らない。

2008年9月16日

新型媒体の発明

英国Plastic logicsのレター型電子端末は優れて現代的な媒体となるだろう。それは本という形態への革命である。
 日本市場に特徴的な僻地化いわゆるガラパゴス化は、その開発技術の弱さによる。発明の威力が低いのは工学の低さに由来する。これらを一息に改良するのには工学系の大学への大量の企業および政府からの助成と協力を行うしかない。
 ベンチャーが韓国より日本ではやらないのは政府の助成が、大企業の管理価格是正とあらたな若々しい起業への調整を図らない問題にある。この体制を根本から破壊しなければ日本の市場が国際的に孤立して大筋から乗り遅れる可能性を否定しきれない。
 我々はあらたな市場から乗り遅れない為にかの基本形へ入力装置としてキーボードを、別の接続機器として加え改良するべきと考える。なぜなら御社製品は画面上への直接入力を既に可能にしているが、それが最善の方法とは言えないのが例えばタッチパネルが汚れ易い現実を考えると当たり前となる幸先があるから。
 恐らくかの電子端末は読書専用の機器として世界中を席巻するだろう。
 ソニーが誤ったのは、インターネットが基本媒体になる未来を見通せず、既存の書籍出版業界そのものを組み換える大胆な発想に欠けたところにあった。

情報調整の必要

「情報の調整」を考えると、国内に取り残した陥没地帯を作らない為には、総務省の利権活動を大部分含む地上アナログ放送の一斉停止は愚策と言ってよい。

成程、このいつもの極東人式中央集権偏重型改善により電波の配分は統制し易いかも知れない。
しかし代わりに情報弱者への淘汰は益々厳しくなる。隔絶地域の高齢者や低所得者にとっては税金にもなる消費誘導を伴ったチューナー自主導入は極めて困難だから、彼らの不満はやがて直接、一揆などの暴力革命に繋がる可能性があるだろう。

この為に災害時を考慮しても既存ラジオの電波を一律にデジタル化しないこと。なおかつ既存テレビ受信機でも受信可能な簡易チューナーを各市町村がみずから購入して役所において只で配ることだ。

尤も、情報隔離の地方をある程度のこすことは第一に種の保存の為に、第二に野生さの維持の為に合理的である。従ってこのチューナーは報道して市町村へ置いておくだけで無理に配る理由はない。「テレビのない暮らし」を懐古して維持できる者はこれから先の激しい情報文明にとっては寧ろ貴重である。

田んぼ

山奥の静かな田んぼに降る雨よ

2008年9月15日

暴走

秋近く暴走している虫のこゑ

食料自給率論の考え方

地球経済が「縁起」による共生体なら、日本人が他国で生産の容易な食料品を輸入することは国際社会にとっては有益な行いとなる。

食料自給量ではなくて、寧ろ『食料自給質』が日本人の当然辿るべき国際適所と考えられる。単に量をはかる自給率を用いるのは誤りと言える。
つまるところ、少なくとも高い質の、バランスよい栄養価を保てる範囲へ輸入規制は限るべきなのだ。

2008年9月12日

科学実験の教訓

スイスのジュネーブで10日に始動された大型実験器LHC(ラージ・ハドロン・コライダー)は、恐らくビッグバンと近似した状態を作り出す事では引力場の三乗に比例した光エネルギーが解放される結果を示すだろう。

 この為に、少なくともこの単位爆発力は原子核崩壊による原子爆弾に対して更に光速を掛けた分だけ多大である。これは単位時間当たり約308倍、いいかえると3億倍の威力であり、場合によっては近隣したフランスやイタリア、ドイツ及びオーストリアを巻き込む自己大破が避けられないだろう。
 広島への投下された原爆リトルボーイの実質爆破量が1kgであったと云われる事から、円周27kmのトンネル内へ発生した引力場をこれに置き換えたとしてもその脅威は知れる。
 又、この実験で陽子衝突までかかる時間の可能性は数ヶ月以内とされている。

 我々は歴史の教訓として止むを得ない場合を除けば「理論的な確証」を十分に計れない実験へは最大限の慎重を期するべき、と来る悲劇から学ぶだろう。

2008年9月11日

生物学

Neoteny化・幼型化は必ずしも進化の正道ではない。人類が類人猿の幼型化に近似した特徴を示すのは恐らく偶然によるところ多大である。直立二足歩行は新たな適所としての平原への見晴らしに関する適応から、従って直接の脳容量の増大は開放された両手の道具の使用から導かれたと考える方が理にかなう。
 特定の獲得形質が長期に渡り有利となる隔離場の広さが多種との競合をもたらさないだけ小さいなら、この場合に特定の順応型への最適化として幼型化という進化の袋小路が引き出されてくる。しかしこれが新種の形成に一契機となる可能性は否定しない。
 広大な土地で絶えず多数の異種に脅かされる生物にとっては、新たな獲得形質を促す成熟度の方に力点が置かれるだろう。この為に属する土地へ最大優位な勢力を有する種は、他のどの種類にも増して特徴の著しい偏差を伴う筈だ。そして少なくとも幼型化した個体群は、限定された適所を除いては新たな環境での成長速度に劣る為にそれより他への適応が困難となるだろう。
 これらが故に、neotenyとは新種形成の可塑的な条件というより以外では、順次に大きな土地からは姿を消していく特徴固定化の過渡形態であると言える。

2008年9月9日

夏の終わり

よく晴れた透き通る空の夏の終わりよ

勘の定義

我々は記号が意味しようとする所を文化的勘を通してしか捉えていない。記号は物理現象としてなら画像でしかないのだから。数学にできるのは直観へ記号順列または幾何図形それらの組み合わせについて合理化を図ることだけだ。十進法や論理学を経由しない文明にとって、人類数学の命ずるいかなる直観の範疇も仮説を免れないだろう。
 我々は我々に可能な合理性を建設することしかできない。もしそれ以上に合理的な枠組みが欲しくば、我々より偉大な知能を持つ生命体に待つべきだ。しかし文化的勘を分かち合う精度については、言い換えれば文学趣味の解釈議論については少なからず、理解にまつわる一定の仲間を築ける。彼らは学派ともされている。仮説ではなく解釈を、真理というより趣きを哲学の片側として受け入れるなら、どの文面も小説や詩歌の如く自由な娯楽の便宜に興するであろう。感覚や情緒の議論には論理ではなくて直感が、知識というより感情が主要な役割を果たす。ならばその正誤でなく調度が良さの対象になる。記号が意味しようとする所を単に話すには科学があれば十分だが、その内容を成るだけ巧く伝える為には必ずや文学が要ると云える。是非と別に口下手より雄弁な論客の煽動はたしかに衆愚を動かし易い、この故に古人は詭弁を戒めた。科学にとってすれば文学は不可分の手段であり、文学にとって科学は不可欠な手本となる。文学を為さねば形式を欠き、科学を習わねば内容が不備となる。
 とすると文化的な勘とは理解の海という一般の哲学度なのである。そしてこれらの書式や或いは口舌が意味しようとしている何事かを、解釈議論できるのに充実した場所を造り出すのはその母語集合に於ける、悟りの深さだと言える。勘の定義は悟り方。我々はよってどの様な文章についても、又如何なる演説についても批判的な立場へ遵うことが唯一の賢明な態度、という他により素晴らしい理性の職分を現実に持ち得まい。理解の海の難破に際して不変な立場を以て啓蒙主義を自らへ任じるべき。こういう人格の信頼性についての哲学こそ、学問を殆ど迷いなく進めるには誰しも必要な姿勢なのである。この為に、自ら信じない情報を憶え込むこと、即ち暗記とは真意の面目に対しては冒涜に値する行いである。そしてこれらの不勉強の烙印は寧ろ天性の学者にとってすればいずれ名誉の称号だろう。知らないを知らないと言う事は更なる理解の為には確定根拠となる。この無知の証明はただ暗記された知識よりも価値が高いと言える。
 理性の探究は理解の海を見渡す為に一定不動の視座を確立する所に在る。この灯台からはどの船の教養と呼ばれる積み荷の量も、勘という悟りの光を照らせば一目瞭然。

2008年9月8日

情報文明論

情報文明になしあたうのは知覚速度の増大。結果、その範囲は人間にとって速さの為に好適な場所となるだろう。情報文明が用いる大きな成果とは文化通路の迅速な行き来に応じて、旧来より素早く作業を行いうる様になることにある。原始時代には百年以上必要な荒々しい夜空の滲みの確認が情報時代では超新星の知識により数秒でできる。科学の普及はいかなる個人へも無数の発見をもたらす。それは人間にも別の適応課題を与える。乃ち、以前にもまさって器用な活動の余地を造り出すだろう。拒否反応より先に、それは道具を使う本能をもつ者にとっては来たるべきことか。
 ある人には殆ど神業に思える作業が別の人には朝飯前と云えるだけ、人間の作業能率には様々な偏差が現れる。情報技術がその後押しをする為の道具な限り、用不用の法則が人間性について改革を申し立てても不思議はない。古今の地上でヒトしか複合した道具を使わない。情報をそう使うのは人類自身のみだろう。勿論、それらの獲得形質は単に世代にとっての精々、性特徴を示す役に立つに過ぎまい。遺伝されるのは従来の性差における遺伝形質、いいかえれば天性に他ならない。
 ともあれば情報文明場が人間に対して行うのは、知覚速さに適う天性への生存可能性の増大なのである。知覚速度は一般に知能指数の主な意味とも考えられる。直感で理解しうることを我々は悟りと呼び、大変な試行錯誤を以て学習しなければならない場合を考えと呼ぶ。なら情報化とは結局、人間へ知能適格の有利さを淘汰する様な新しい場所の制作なのだろう。それは直感の優位を思考に対して確立するだろう。
 かつて世界が暴力、後に法による野望の場所であった様に、恐らく未来の文化は情報人の知恵と工夫の場所となるだろう。この推移を文明化と呼ぶのは凡そ正当。今日ではいままで主要な仕事であった部族間の抗争や獲物の狩猟、或いは絶えざる不可解たる自然現象の利用や集団で協力した目的の達成など殆どの産業から抽き出される典型的な行動型が単に、象徴の役割を果たす為にだけ遊ばれる運動競技となる。となれば我々の全体とは社会活動の遊戯化を通じて知能適性を益々増強させるべく営む、特定の進化の流れなのだろう。人類が遊戯人と云われるのもあながち彼らの幼型的特徴にのみ帰せる理由ではなかったろう、それは既存回路の合理化に伴う回避行動の客観視に関する必然と云える。さもなくば人間は永久に同じ人生を繰り返すから進歩を実感できない。
 そして明日の時点では我々の子孫が今日よりはるかな速さを以て情報交易する日常を現実とするに違いない。その中には生態にとって確実に審美的な、つまり以前のどれよりよい人間関係も含まれることになる。なぜなら情報化された能率よい生活にとっても文化的に獲得して来たどの場面ですら容易に再現できるだろうから。すると豊かさに関する限り、情報文明はこの知的天性に恵まれた個人への、最適な場所を造り出す潮流として人類史の新しい局面を開くのだろう。その恩恵に人類自身は彼らのいずれよりも知能に優れた個性を多数養えるだろう。
 更にもし彼らの手が工学に十分なだけ器用ならば、機械は洗練され、産業は統治され、我々の生活空間の多くの場面は昔から比べればずっと快適になる。だがそれとて最も知的場を世界中に敷延迄はしないし、実際の集積回路が高度な人為の注力により初めて可能な如く世界史にとっては、珍しい新種を揺りかごへ導く方便と思える。その様な情報人にとっても、世界は依然として解決すべき無数の不可解な自然現象に満ちているから。やがて万能の科学者にあっても電子の抵抗が光子に対するより強いなら彼らのいかなる知覚も宇宙自体の混沌より速く働くことがない。よって、精神は希有な事象ではあるが必ずしも宇宙の目的ではなくてその特徴的な条件調整の度合いなのである。人類の目に映る全ても精神についての真実ではあり、例に採れば色弱や絶対音感における様なそれを支える肉体条件が代われば不変とはならない。この為に遺伝形質を配偶子の様々に任意な組み合わせから大幅に合目的化された改良型人類にとってするなら、我々が感覚基盤とする地球環境も一つの過渡に他なるまい。無論、情報文明はこの為には段階であれ当為そのものではあるまい。
 以上からしても精神の多岐を実現する為にも情報交換の合理化は極めて理に叶うことであると思える。その抑制する意味は進歩にとっては殆どなく、旧態を守る一部分の取りこぼしを除いては文化史上の小規模な反乱として以外には、まるで起こり得ない場合となるだろう。

2008年9月5日

物理学

引力の働く原因が光子の移動による隙間の真空にあると仮定すると、我々が引力子を発見できない理由になる。引力は光となった質量が絶え間なく生じる真空に対する時空の流入である。引力場Aに対する光cと質量mの関係は次の数式で説明できる。
m=Ac
よって、
c=m/A
これよりブラックホールとは引力場の大なるものと定義できる。それは光子が生じる真空への質量流入の割合であり、エネルギーとして流出し切れなかった時空の歪みと考えられる。
 また光子は量子条件に従うが、それはエネルギー凖位に応じて波束を生じるからだと言える。つまり光量子はエネルギーの波として振る舞う。不確定性原理が成り立つ訳は、光量子が波としてボーア半径の軌道へ各々編入され広がるからで、その運動量と円周の積がプランク定数の整数倍となるのは電子波の場合と同じである。
 則ち、それぞれ量子の運動量mυ、量子軌道の円周2πr、プランク定数h、ボーア半径の量子数nと置くと
量子条件より
2πmυr=hn
これを変形して
h/2π=mυr/n[波束量]…①
また光のエネルギーをE、振動数νと置くと
光電効果から
E=hν
ここで不確定性原理における位置誤差Δxと運動量誤差Δpの積Δx・Δpを単位量として扱って、
Δx・Δp≧h/2πおよび①より
E=hν=mυr/n[光束条件]
 我々には量子論と相対論とが、引力場の生じる理由として光電効果による質量欠損を挙げることでは矛盾しないと分かる。いいかえればエネルギー凖位ごとの波として飛び出した分の光子は、その流出したもとの真空へと周りの場を引きずり込む。こうして我々の知る質量が時空の歪みとして現れるのである。

2008年9月3日

綿菓子

綿菓子の様な雲も秋

2008年8月31日

物理学

水素原子のエネルギースペクトルより、
E=-13.6/n2
ここで質量とエネルギーの等価式よりE=mc2なので
mc2=-13.6/n2
よって、
m=-13.6/c2n2
更に、エネルギー凖位nを最小の1と置けば
m=-13.6/c2〔eV〕
これを最小質量と定義できる。則ち光子の持った単位エネルギーである。
 もし質量とエネルギーの等価式を変形して
E=mc2
m=E/c2とするなら、
物質が光速に限りなく近づいた時その質量は最大になる。ならば、いかなる物質であれ光子より速く動かないだろう。以上が光速度不変の原理の根拠である。

秋晴れ

雨上がり秋晴れ来たる

濁流

濁流の激しい流れよ

2008年8月29日

私立大学の自由化

少なくとも私立大学の一種の特徴として飛び級の枠をきちんと設けることは、優秀な年少者が放課後にサブカルチャー以外のまっとうな趣味を有せる気風造りのためにも必要不可欠と云われる。国立や公立においてはなんらこの限りではない。特に公立にはある程度の自律した地域特色が期待される。能力別学習は偏差値を広げはしても底上げにならない。教学相長じるのである。
 啓発の基本とすべき「長幼相教う」という陸まじい体制の理は、生徒を特別急がせない学習環境にあると知らねばならない。同じまなびやに違う齢同士が集い戯れつつ相習う、いわゆる寺子屋方式が必要なのである。北欧の初等教育に補修学年のゆとりがあるのは、多くの国立学校においてもつとめて模範に値する知恵だろう。

国体風紀改善策

救いの対義を虐めとするなら、組織風紀の善悪度を定めるのは構成員の総合的道徳観念に因るだろう。

例えば悪魔城があればこの中で行われる最善の司法判決と雖、暗黒裁判なのである。
多数決の原理はこれ故に欠陥を持っている。

もしこの欠陥を修正すべきならば、我々は「法治」を手始めとしなければならない。
人間は賞罰の原理がなければ容易に方針を定められない。然るに『組織内犯罪防止法』が制定されぬ内には、正しい風紀の基準があり得るという予感にさえ至らぬであろう。
 党派、会社、学校など何の組織にあっても儒教におけるが如き徳治国家へ至る前提には、その理念が各人に共有されなくてはならない。いいかえれば、少なくとも良識に優る寡頭者又は極めて選り抜きの君主による法治主義政策がなければ、いかなる善意でも出番を失うのである。結局、民衆は自己の有する困難な性格から高い理想に思い至る暮らしのゆとりは生涯ありえないと云えるし、その為により一層高い生計を自覚しようと努力する少数の貴族による指導を要し、それらの貴族にとっても議論の合致が不可能な場合においては共通の象徴的権威へと政治権の総括を託す他ないのである。多数決の原理がネイティブアメリカンの部族習慣に根拠を保つものであるなら、文明の理法がこの経験則への若干の修整を加えてもばちは当たらないと思われる。なぜなら幾つかの例外も考慮できるにせよ、史上の政治学は少数派によるクーデターが屡々、煽られ易い群衆の選択より勝れた政策であったのを知っている。
 則ち公開議会による法律制定において、『組織内犯罪防止法』を忠孝道徳に基づいて政策することは貴族政治の自由でなければならない。そしてこの勇気ある決断なくして、司法にさえ衆愚政治の暗雲がたちこめる今日より先の時代を、野蛮化の兆しがあちこち覆うのは避けられまい。

例えば元来は専制防止の意であった表現の自由の商業階級による濫用により、実質的に形骸化している猥褻物陳列罪は、表沙汰になり難い無知な年少者をターゲットにして悪徳蔓延規模を拡大しており、相まって下流の民間風紀へ野蛮化傾向をますます増大させるであろう。これらの末路にはローマ瓦解の再来が予想できる。
しかし、この傾向を抑止できるのは組織内犯罪としていかなる共同体にあっても虐め、即ち暴力行為を厳格な司法の手で直接に裁く限りにおいてである。人間では和を以て尊しと為さねばならぬ。組織内犯罪を隠し立てする汚れの傾向は浄められねばならない。衆愚の空気の中を闇から闇へ暗躍する悪魔的行為の中心人物群をはっきり同定できれば、これらの逮捕刑罰によって一般に、組織風紀も改善に向かうのである。

2008年8月27日

都市部の自治策

単身者世帯の増加した都会の住宅地にあって、彼等個々の家を越えた共同体を誘発するには「神社」を造り直すのが恰好であるだろう。同じ象徴の権威を担ぎ上げることによって仲間意識が芽生えるのはまつりごとの基本と言える。或いは、「教会」や「寺院」を、イスラムを考慮すれば偶像を有しない「拝堂」をもこの許可に加えられる。
 中~大規模の再開発が各都市で頻繁に行われる様になれば、その副産物として時勢の移り変わりに伴う荒廃もまた甚だしくなろう。ニュータウンの近い現状にある如く、世代交代に伴うplasticityすなわち粘りを考慮していない計画地は一挙、過疎地になってしまうだろう。
 魅力ある都市への若年人口流入の副作用としての、これらの住宅街のスラム化を防ぐ最善の策は、社寺教会の多産である。我々は戦火を避けて残る下町の隅々に祭壇や地蔵が設らえられていた理由を、いわゆる下町人情という賢明な共生型理念に思い遣ることができる。
 然るに一部の区で行われ出している単身者向けアパートの規制は却ってその周辺領域に向けて通勤ラッシュを激化させるに過ぎず、都市部の夜間空洞化および乱雑な商業地区化につながり、延いてはその居住世帯の活気や快適さ、ないし風情をも失うに到るだろう。

国家戦略

人体に差し障りがない電磁波長を出入力源において共鳴させる技術を「共振電源」と呼ぶならば、我々はこの社会資本化によって一定の電気供給を恒なる国土基盤にできるだろう。そして国のどの地点にあっても空間をそよぐ電気を使い放題にすることもできるだろう。この構想を『電気風構想』と呼べる。
 そしてこの徐々なる民営委託は単に時間の問題となるだろう。
水素発電段階ではその開発費用に比例した料金の徴収が必要であろうが、永続的な太陽光を享受できる衛星発電を実用化できた国家にあってはその複数個を打ち上げておけば安定した固定電力を絶え間なく享受でき、費用はほぼ定型化できるのであたかも郵便物の様に、国有化している間その料金を税収の赦す最も低廉な価格へ一律化できるだろうからだ。

 おそらく私企業にとっては、技術風土を向上していくうちに社会資本になった電気産業を譲り受けることが必要となるであろう。従って専ら、暫くは経済を高度工業への適応の為に整えて行くのは中長期的視野に立って世界史を構想するのには向いていると思われる。もしや利己より愛国に優る株式市場の賢明過ぎる性質によって金融業務の発達が幾分かは遅れても、工業技術の発達を永きに渡り確保できた国家が結局は、現代経済において覇権的となるであろう。
例えばこの電気風の無料化が促進されるに当たって従来の工業製品の過半は小型化した「受信機」を設らえることになろうし、従って旧来の電源コードや電池関連系統の殆どの製品は骨董になっていくだろう。無論、石炭や石油も一部の隙間産業を除けば事業としては廃れてしまう。結果的には工業製品の更新過程へ適応した市場が最も需要に合致するであろう。
 だから足早な情報産業化は必ずしも正解ではなかろう。それが柔軟で速やかな情報共有の場造りによって工業力の潤滑剤となる範囲に限っては推奨できるが、今の人類文明の発達度に対しは幾分か時期尚早と云われる。

科学熱の思議

人間が有限の一生の中で得らる知識の質量から言っても、その洗練ということは是非の中核なのは疑いない。如何なる科学の徒も、究極の真理を発見することに加えそのうつくしい表現というのが少なくとも、たしなみでもあり目当てなのである。逆にいえば科学の目的は記号配列のしあわせなのだろう。そしてそれより他に為しうる訳ではない。Pragmatistが明瞭な表記を貴ぶのも一つの流派で、難渋な解読をたのしむ有閑の徒にとってのこのましさは少なからず、この趣きをpopularなもの、通俗説の書き下しとも取れるところだろう。どの名文もまなばれることに意味を見つけられるから、知識の伝承の為には通俗的な表記が望ましい。情報がめずらしいほどにそれが金言という価値を帯びるなら情報文明の学識は共有の場を広げれば、翻って需給を一致させる。例えば電子レンジを知らない大衆の間ではこの製品の興味はないが、情報共有が進むに従ってこの需要は劇的に増大しやがては満ちる。
 よって、もし科学が定常状態に至るなら知識共有の最適化が需給をバランスした地点においてであろう。この面からすると教育というのは必ずしも自然なありさまではなかった。それが寧ろ知識の普及によって科学への熱烈な需要を打ち消してしまう暗面を免れないだろう。即ち、科学熱をつねに一定以上へ保つには知識の囲い込みをしなくてはならないのだ。だから、教育過剰というのは文明にとっては好ましい助長ではなかった。
 大衆の興味がより優れて洗練された趣味へと導かれるのにはいつでも工夫が要る。常識の度合いを効率よく精錬するのならあたかも飢えた砂漠へ雨を降らすまでは供給を絞れ。知識欲へ徹底的に飢えさせるが為には猿共を無知の荒野へ追い出しておくのが賢明なのだ。つまりまなびにくるまでことさら教えないでおくのが学問啓発の神髄。
 とすると通俗化が絶対に正しい文化ではないと分かる。それが一つの嗜みであって、なおも真書の為には文体のゆとりを保つならまだしも。難しいことがとるにたらぬ真似を遠避け、知識の希少化に貢献して科学への信仰を維持する原理であればこそ、限られた人生時間を有効にもちいて可能なだけの複合概念を知らず知らずの内に則っていく道のりとして文法へ書きあらわすのが、学者にとっては伝承義務より一層に高い目的である。科学の通俗化は必要でもない。学問に難解を恐れる理由はない。

2008年8月26日

運勢勘定

経済力を順調着実に進捗させる原材料は学者の多趣味にある。
従ってもし財力を持て余す資本階級が君臨しているのなら、彼等は何よりも未来を案じてその余分の資産を「学問の助成」に費やすのが賢い。
例えば百人の失業者を養うよりも一人の天才を生じた民族の方がより優れた救貧法を発布しうるであろう。

2008年8月25日

画期的発明の将来性

Intelが無線電源コードを発明した(WREL: Wireless Resonant Energy Link又はREL、則ち共振電源)。この応用によって、将来の人類は衛星発電からの半永続的電気供給が可能になるだろう。
 おそらくは水素発電の次に、こちらが主流になるだろう。というのもこの「発電衛星」を稼働させるのには宇宙産業への活発な意欲がなければならない。従ってこの実用には富める高技術国が前提となる。
 専らの課題は宇宙産業への全面的な助成を怠らない事にあるだろう。かなり遠い未来の話ではあっても、もし各国がこの取り組みを常態化すれば電気は殆ど只になりうるかもしれない。

2008年8月23日

ハンディキャップ原理

全人類は比較的な障害者である。完成された十全健康というものは何らかの環境抵抗に対する特定の適性としてしか定義されないのであって、全ての生物が進化途上にあるという某学者のお気楽な空想に学問の序に関する紳士協定の観点から多少の配慮を払っても、帯患健康の変異についてしか健全の水準は仮定しようもない。
 よって我々は障害者という前現代の差別用語を捨てて、代わりに人間すべてを条件者と呼ぶのが適当であると思われる。結局、遺伝条件は必ず人類に於ても多様性を乱費し、それらの合目的観を環境適性という特定形質へと緩やかに傾斜する配偶の坂道に向けて転がすというのが自然のみならぬ運命選択論側の知見である。則ち全人類は初期条件がばらばらでしかも極めて様々なルールの競戯に遊ぶオリンピック選手に喩えられる。障害はルールの側にあって、個人にはない。故にルールを変えればゲームの順位も当然変わる。どれが障害かは誰にも判定できない。
 生まれながらの障害者はありえない。環境が克服すべきフィールドなら、常にプレイヤーが新たに得る習性は生活目的であって、その初期条件は個性の範囲に属する。そして個性には人権の本質的等価が紛れない。故に障害者という差別用語を使って平気で少数派を迫害する哀れな感情知能の持ち主にも性格にまつわる適応障害はある。

医学

近視が現れる原因が遺伝でなく習慣にある場合、それは大部分、寧ろ近代生活に於て近くの作業に眼球が適応しようと変わった結果なのである。この点で、近代医術が視力矯正をのみ目指して無理に眼鏡やコンタクトレンズあるいは眼球手術をさえ試みたのは、生き物の自然からすれば誤りである。つまるところ近眼は近代化の並行現象であって、寧ろ人類の進化にとっては仕方ない適応形質なのである。
 方針として、近場の作業に適応した眼球について、少なくとも日常生活に支障がない程度までには遠近調整機能を養っていくこと、則ち裸眼養生の習慣づけを方法論として多岐的に与えることが習慣型近視の医術が為には、より良い治療の筋だと私は思う。眼球のピントは毛様筋・Zinn氏帯(スポーク帯)・水晶体の連携によるというのが今世の通説である。ならば、この各々の機能を日常に鍛え、養う習慣づけを与えられれば、後天的な強度近視に至る人はかなり少なくなるだろう。
 対策として、先ず人の眼球の標準焦点とされる6.5m以下に適応値が下がっている度合いに応じて、それぞれ相談者の生活事情に即した裸眼による遠見の工夫を与えるのである。例えば4m前後の人には2mほど先へ焦点距離を敢えて落とした遠視用眼鏡を日用リハビリ道具として与える。或いは50cmまで順応している場合はまれな遺伝ないし眼病の症状がなければ殆どがデスクワーカー型であるから、卓上作業に際しては裸眼を原則とし、日常では中くらいの度の矯正、外出事は必ず強い矯正をかける様にとバランスよく養生へ導くべきであろう。
 また今、ある程度の薬学的根拠をもって次のいくつかの箇条を現状の治癒材料として挙げられる。
・アントシアニン等の色素摂取がロドプシンの再合成を促すこと
・ルテイン等のカロチノイド物質摂取が黄斑変性症や白内障を防ぐこと
・副作用を生じないだけ適量のメチル硫酸ネオスチグミンの目薬等による点下が、コリンエステラーゼの働きを抑えてアセチルコリン量を増やす中で毛様筋の活性化につながること
 なお注意を要するのは近視症状に併せて水晶体その他の細胞気質が生まれつき弱い人がいる可能性を否めないことから、これらのリハビリ治療を非常にゆっくりとしたペースで行うことである。異状が現れたら即座に治療法を停止して、要因を考慮してこれまでの消極的な矯正型方法へと方針転換をしなくてはならない。
 思うに、これまでの眼科医術では次の事が見逃されてきた。即ち、もし先天的遺伝ないし病源によらない一般の仮性近視の患者へ、リハビリテーションを薦めないままで矯正措置を強いるなら却って、そのつらい矯正状態へ更に前と同じくらいのきびしい適応課題を科すことになるのだからピント機能回復という合目的の為には逆効果なのであった。これは眼科医学の応用法にとっては明らかに錯誤の類であったと認めなくてはならない。健常という曖昧な定義の過信が、目が悪いという言葉により偏見を与え、障害阻止を優先して適応的獲得形質の習得者たちを患者あつかいしたのはひとえに近代医術の哲学幼き傲慢であった。そして改めて近代化に伴った近視傾向は人類の進化にとっても自然であると謂われなくてはならない。おそらく未来の文化人類は我々より柔軟に視力を調整するすべを、道具によってか遺伝によってか獲得しているであろう。
 さて、ところでいわゆる老眼に対してはこれらの逆の手順を深慮を込めて図ることによってピント機能の老化症状をなくすまではいかずとも、今までより遅めることはできるはずだ。つまり眼球細胞の老化はこれへ適度な運動を習慣づけてある程度の若返りを図れるだろう。
 薬理を踏まえながら近視用の眼鏡をリハビリ道具として与えること、或いは強度の老眼については裸眼による卓上作業を習慣づけることで少なくともその進行を遅められるであろう。これらの試みを我々は今までの矯正主義眼科医術に対して回復主義眼科医術と呼んでもいいはずだ。

涼しさ

少しずつ涼しくなり行く

2008年8月22日

太平洋連合の手順

EUを例に取れば、太平洋連合・PUを形成した場合の日本へ東南アジア文化が流入するのは免れず、そこには悪影響も必ずあるであろう。
北欧ではEU加盟によって却って薬物まで容易に取引される様になってしまったという。東南アジアの中には多妻制を公認しているところもあり、PU結成によって一部日本人が売春を活発化する弊害は事前に予想できる。

地域連合の軽率な全面的肯定は危険がある。短期的国富の強化をのみ目標としてその基盤である「民度」をなおざりにすれば即ち持続型社会はない。
 もし日米協調を重視して慎重な処遇を望むなら、日本は「関税緩和」という一見消極的な手順から東アジア一帯の経済功労へ進むのが賢い。時期を見た適切な協定により、単なる商材流通の自由化だけをよく選んで付き合うのが現先進国の義務だろう。

地域における国家間貿易連合は『国連主義』という独立外交の大原則より優先順位は低いと考える。貿易相手の多核balanceという当面の商務命題は関税があろうとなかろうと不変なのだから。

朝霞

朝霞涼しくなりゆく晩暑かな

個性の自由

文面に対してであれ発言に対してであれ、どんな言い訳も徹るという事情が民主政の抱える自己矛盾。
 デリダが少なからず法律に対して行った批判は、民主主義を語るどの行いについても誠に然り。人は科学体系の実証性を、議論の緻密さを求める終わりなき哲学の内へしか見つけえない。だから近代人が実証主義の信念を無条件に絶対視できる理由は、我々の哲学観にしかありえない。
 もしソクラテスが悪意の徒だったなら、かれへの裁判は正しいことになる。だが誤解を解く為に人間へ許された手段はいつでも言論によるはずだ。そして不完全性定理を省みて、論理の中では言論そのものの正しさを論証できる命題が唯一解とはなりえないのなら我々は、感情論という極めて脆いその場かぎりの気分で物事の善悪を裁きがちとならざるを得ない。つまり厳正な論理学の範畴で法治国家の理想を考えるなら、人はその無謬性を信じるのが単なる合理趣味の命題としか考え様もない。歴史が示す政治の実績に一つならぬ過ちを見つけるのはたやすい試験である。なぜならその是非は哲学的だから。人間が長い試行錯誤の努力に際してもなんら誤りを侵さない境地に至ることは無いだろう。この正否を決めるのは善悪の理念であり、極めておそるべき事実背景だが、その主観的信念がなびくこと、多数派の移り気な感情を煽り起てて比較的共感を買った側という殆ど運気にも如かぬ程度の蓋然性に基づいている。
 民主政治が理想として掲げるのは、従って悲しむべき結論ではあるが運任せの賭博国家と目的されてしまう。多数派が抱く感情の正統さを多数派自身が言い訳することは自体、自家撞着であり取るに足らない。何がこれらの軽率を戒められかといえば、少数の冷静な哲学者だけだろう。既に最大多数の論拠として宗教化された明文へと事態解釈の便宜的な指針を誘うことを生業とする法律家は、裁判是正の為にはつねに技術者に過ぎない。つまり彼らが理性の手段化を煽動の技能として蓄積した仲間達であり、その場かぎりの判定に全面的に職権の目的を定める言論職人とされねばならぬ以上はこの善悪の水準を如何なる知識調律とも伴奏しうる位に最適化しなおせる学問の担い手が哲学の側にあるのは明らか。というのも哲学は自律表現という文章ないし口頭による言論の復礼を主義する社会の外部監査装置。そしてこの機能が落とされてしまえば社会は善悪の根拠を失うだろう。
 思うに、法三章と呼ばれた法治国家の究極理念を新しい時代局面で造り直すことができるかは哲学者の総合的批判がどれだけ高い機能を果たせるか、に由る。そして妥当な折衝を倫理観と大きくまでは逸脱しない様におそるおそる法文と弁明を擦り合わせるのが技術の中核であり、良識をつねに比較的増しな折衷案に託すのが職分である弁護士にとってすら正義の門所で閂を開閉する権力を裁判官の道義感覚以上に啓蒙できる訳ではない。すなわち司法の判決ではその社会での最善の哲学者が理念に昇華した道徳感情を当為と見なす様信じることが法治国家において望みうる善意の限界。そして人類が経た数々の暗黒裁判はこの善意が正義の為には決して十分ではないと知らしめる。裁判官はいかに法的に自律を要求しても法解釈の虫という誹りを脱却する程には神々しく判断できないのである。結果、人間が民主政の法律によって身柄を守られるのは実態、善意そのものの為にではなくて多数派理念妥当性の為に。
 多数派が絶対に多かれ少なかれ誤りをも含むのは当然としても、寡頭政におけるよりは比較的増しな妥協を諮りうるという諦めが民主政の司法を彩る全理由だった。脱構築を主義する個人を法的に批判可能な理性は、この理念界の原因者以外には充てられないからこそ法律至上主義はそれをおかしいと感じる人間の多少によって揚棄せられるだろう。そして妥当な解釈を先延ばしにすることがよりよく精神性に合致する罰則だと大衆が目覚めた時に、人は無期懲役を最高刑と考えるのが倫理的であると疑わなくなるだろう。社会を壊すのは社会の成長の為には必要悪であるという必然が、犯罪者を人間視すること、人間が悪意を法学的にしか定め得ない現実から被疑者への最大限の人道的扱いを人情に赦せる限り否定してはならないことを構築主義者の信仰へも許容させる理由。
 人間が善悪を完璧に見分けられるなら誰も悪人になろうとはしない。司法が可能な全ては悪意の原因を倫理の光のもと慮ることにある。もし裁判官が人間ならば過ちを冒さぬままで生を終えられもしない。よって、誤解への最善解釈が裁判官の最高徳。或いは多数派の善意の内々で安住していた被害者にとって、慈悲の理想はあまりにも惨い宿題。却って少数派が哲学的批判の民度を底上げする為には如何なる自律の妨げも独り慎しむべきは確か。こうして宗教家ないし神学者とは信仰の為には哲学の徒に依存する。尊い信仰の如何なる箇条も、言い訳の為の言い訳を排する実用主義哲学からの擁護がなければ法律家の恣意的定義によって狂信の偏見を免れないだろう。例えば当世の犯罪に触れた宗教祖の如きを道徳感情の水準へと引き戻すのは理念哲学者以外にはありえまい。故に、国家や国際連合が哲学者の言論に自由を確保しておくことは当面の不安な世界情勢にあっては、人道の舵を道徳的社会の実現という希望の航路からいつでも修正可能な程度に逸れさせない為には、命綱となる。哲学から看てみれば、信仰の自由は道徳理念の養生の為には相対的方便であって倫理の最終目的ではない。文明哲学度つまるところ平均的な良識の如何によっては我々は憲法から諸々に分かれて定義された自由関係の条項をまとめ、代わりに個性の自由という理念へと昇華して行くだろう。この考えは自由権の核心であって、この実践の為にはどの変異も人間性の遺産故。

2008年8月21日

清談

政治界への不信を払拭する最善の仕方は『公務の透明度を高める』ことに尽きる。マスメディアのみならず、芸能人の技巧を真似てblogに日常を記す閣僚が居てもいい。国家機密を平気で記しちゃう人材なんかはそもそも政治屋以前の胆力であろうし、向かぬ。

国民自身の批判的監視が隅々まで及べば、唯一の国府なのに癒着を隠蔽しているゴキブリ共の住処は集中豪雨に襲われるだろう。慌てて逃げ惑う姿をスカッとした気分で眺めていたのは賃金搾取されし若き労働貧者か、年金搾取されし退職老人か。
 しかしこの一斉の棚卸しなくして、国内最大の赤字を叩き出す真っ黒焦げ企業に蔓延るきたなき湿り気を、外部監査の天日干しで一掃する思い切りも出まい。怠惰が慣習化した授業参観の直前に大掃除する先生の名なんか実は、どの親にも知られているのだったな。

徹底的情報開示を不良抵抗勢力にかかわずらってまたも躊躇えば、日本政府の集権性そのものが揺らぐ前に商業趣味くさいサルマネ道州制誘導の悪業が祟るやら。やれ地方州民とやらが自活した経済力を担保に幕藩命令に従わなくなれば、このめでたい国もあのお隣の如く一家分裂してしまうんだろうに。なぜそんなありきたりな道理も見えないのか。
 代わりにシンプルな「地方制」としてより弾力化した税分割率調整handi capを含む柔らかな分権協業体制の方が遥かに、既存地方自治体の素早い団結と自発的工夫を絶えざる中央統制のもと引き出し易いのに。またまた無理な官庁自己満足の税収ばら蒔きダム建設が、我が国の清流から一品も美味しい鮎を追い出してしまったとして自称有識者諸君に天才官僚達はとうに某大量退職金で逃げ去った後だとは。はてさて、どうやら川床のビールもバドワイザーへ一律でいいやということらしいな。そうだ、それならここは《醜い国》と名づけよう。49番目の縁起わりいこんな濁った公害自由放任川で恵比寿とか頼めば全然風流でもなんでもないし、下らんから覇権に魂を売った奴らの一族の墓でも家でもぶち打ち壊しに行くか。

科挙風習の廃止、即ち手始めに「国家公務員試験の原則廃止」は成績徒用の弊害である試験趣味者の傲慢を挫くのにも、能力主義が基調となった今日の効率良い企業体験を財政改善へ活かすのにも充分なのに。必須なのは無駄知識だけでなく債務実績なのだ。
少なくとも閣僚会議から直接、ある重用な「省庁監査枠」へ一定勢力以上の民間企業から抜擢した経営適任者を送り込むのはtechnocracyを脱却するのにも国家公務員法に定めるべき当面の絶対課題である。官僚が役得席を入れ替えるには内閣権限を拡張する以外なにがある?
悉く科挙の及ぶ範囲は「公開議会主義」の国民視認が管理統制下になければならぬ。その外側に立つ如何なる公務員も民主政の根幹を揺らがす暗躍国賊である。

数学及び天文学

単位量あたりの掃除分を示すニュートンの流率法を幾何学に宛てれば、我々は流率幾何という新しい学野を切り拓ける。そして微積分の基本定理は、実は幾何学的にはこの動きのある図形つまり動態を数理的に記述できるが故に役立つ手段であったと分かる。ここで流率幾何とは動態力学の端緒である。Sとxの流率をdSとdtで表すと、この関数y=f(x)は一単位量あたり
dS/dt:dx/dt=y:1
の割合で変化する。即ち
1(dS/dt)=y(dx/dt)
(dS/dt)/(dx/dt)=y
よって、
y=(dS/dx)
つまりある単位面積dSの掃除分を、xの流率dxで微分すればyという関数になる。これはライプニッツの微分記号を用いて記すと
d/dx∫[0→x]f(x)dx=f(x)
 また、流率幾何の原則としてこれは求積法と等価と考えて
S=∫[0→x]f(x)dxより、
掃除面積Sはy=f(x)という関数をxで積分した値に等しい。以上で流率幾何の原理を表記できた。
 こうして我々は微積分計算を利用して、少なくとも幾何学的に整理され多少あれ単純な動態を数式で記述できるだろう。例えばケプラーの第三法則すなわち調和の法則はGM/4π2で省略表記できるが、f(M)=GM/4π2を掃除分Sで表すと、
S=∫[0→M]GM/4π2
=[GM2/8π2]0→M
ここで、Mを単位量1と置けば
S=G/8π2
即ち惑星の楕円軌道に於て質量Mの流率はG/8π2の割合で増減する。これは少なくとも巨視的な系に関する調和定数と呼びうる。質量あたり一定の流率で、如何なる惑星系ないし万有引力系もその離心率に関わらず運動するのだ。

政論

個人主義が民主政段階の目的なのではない。寧ろ一層の協力主義が個々人に自制されるのがその終極の形態になるだろう。
 あらゆる集団競技でかくある如くに、個性を最大限に発揮させるのには互譲の精神、いわゆる「譲り合い」の気分が仲間に共有されて居なくてはならぬ。ある天才の個人技を美しく用いるには周りがそれを活かすため組織的に最適化されていなくてはならない。
あうんの呼吸とか気合いという究極言語化なしえない空気が、集団のより合理的な一致協力のためにはまわりくどい意志伝達そのものより重要なのは、論理より感情を優先して反射を連鎖するという医学的観察に基づいても猶、合目的である。
非常に質の高い協力とは脊髄反応を通じて殆ど習性化された「技」が各自条件反射の同時連鎖として、仲間内へ型になって共有されている証拠となる。火事場で人々が必死になった時に自動的にバケツリレーができるのはこの作用の原型であり、如何なる社会活動にもこの原理は方法論次第に応用可能なのである。
優れた個性が活きるのはあたかも組体操の様に、この協力の体制が同じ目的意識の為に一心となる場所に於てである。最も体重の軽く運動神経の良い個人を最高度の芸術的に舞わせるには、数多くの力持ちがかれの最も登り易い山を己れの鍛えあげた両手で長らく支え続けられなければならない。もし一員さえも手を抜けばその地盤は簡単に崩れるのだ。

個性のない体制というものはそもそも有り得ない。如何なる人間も機械でなく、生物である限り何らかの偏差を伴って生まれ育つ。
 だが《個性を抑圧する体制》はあり得る。この体制では趣味観、いわば『志』が共有されていないが為に、夫々自由の持ち場を同じ目的の為に最適化しきれない。従って体制は最も低く最も愚かな指導を誰しもに我慢を強いる中で意に反して、無理に担がせるしかないのだ。この失敗した体制の原因は、『志』の高みが見られない事に帰せるであろう。
逆にいえば最も高い志の見られる場所ではあまねくこの協力体制への適合の努力が見られる。我々は新しく特殊な個性が要請される場所ではその前提に、偉大な志を立てた男らしく勇ましい人物が居たのを知る。地柄、或いは校風だとか企業風土とはこの言い換えである。

如何なる人間も見下されて生きるのに忍びない。彼は生まれもった自尊心により、少なくとも他人と対等に立つには死を厭うまい。主人の使いを果たせなかった丁稚が首を吊った話は、人間が如何なる身分にあっても自尊心を失えば生きる意味がない事を指し示している。
凡そ人間を他の哺乳類一切から隔てるのは、この「自尊心」の有無に由る。そしてたとえ同時代で犯罪や叛乱とみなされる反社会行動にさえ仔細に分析すれば、解消しきれなかった不条理に抑圧され昇華に向かっては歪まされた志の発露が視られるだろう。すべて善悪を捨てて人間を何らかの目的に駆り立てて止まぬものとはこの種の理屈を超えた『志』なのである。我々はいうにやまれぬ熱情に駈られた幕末の志士へ自分を省る遑を与えなかった原動力が維新の志という武士間の無言の協力心であったのを憶えている。この特別な変化の引き金を直接に引いたのは、永い大平の世にあっても侍の内へ滅びずに集積され続けて来た、ほぼ民族の天性となっていた忠義という獲得習性であった。
 いつ如何なる時代にどの地点にあっても人間へ最善の判断の為には悔いを留めない理念とは正義感である。若しくは知恵者が常にこういう手に負えない頑固者を出し抜き、狡猾にも智謀へと利用するであろう。しかし民族は他の民族が為に民族の地位に就きうることを鑑みれば私の曇りなき最善の行動はどの観点からさえ、あまねく共感を得るのに十分である。ただ一人、救世主が現れた世界では偉大な倫理的革新が起こるのを防ぎ止めるのは不可能である。曰く、協力主義を民族の最善の判断力と一致させるのは全人間の魂を救う大志なのである。
 もしあたうかぎり最高の大志が認識された人間にあっては、どの貧窮や困難も進んで挑むべき戦いとなるであろう。かれには幸せは欺瞞である。いずれ仮の姿である人に安住できる土地はこの世の範囲では誰にも見つけ得まい。狡賢い個人がかれの猪突盲信を嘲笑うとて、それが一途建設せんとし実践する人間性の共和国はなんびとも目下に見下し得ぬ国家をかたち造る。

だから、nationalityが民主政の上で団結するのには是非とも高志高徳の士が必須となろう。煽動屋が政治劇場を国民をからかう詭弁のcomedyに低落させようとしたところで、力強い雄々しさを有した性格者は必ずや彼らの偽善を暴くであろう。そして民衆が政の上で感服するのはいつでも単なる暮らしの安楽などではない。思うに徳川三百年の治世を実現した史的快挙は只の穏健趣味などではない。然るに家康の猛き高徳がもののふを率いる威厳を以て民衆の自発的協力を仰いだのである。主君の名を記した札をさえ踏めばその武士の魂は汚れると感じた民は現代の垂れきった均質衆愚とまるきり対照的に、政略の故にではなく圧倒的人格性の故におのずから望んで権力へ敬服した。それが世論に一喜一憂する女々しき権力者の批判にさえ値せぬ古人の道であったことは二流の経済に甘んじ先祖の功徳におぶさり続け革新を恐るかつては立派であった民族の退化、もし彼らが取るに足らない齢の幼児でないのなら情けなき恥辱であるのだ。
自分の命を狙った仇討ちの少年に勇気ある切腹を許した魂の高潔は、同国の如何なる狭く縮こまった土地へさえも匹夫どもの絶えざる反省をいざなったであろう。そして民主政がかたじけなくも最高に啓発された人間を生じさせるのならば、この様な威厳を保つ主君に忠誠を誓う準備に民族から細心を払って勇者を洗い出す役に立つに過ぎないであろう。

2008年8月20日

清原

清原やつわもの共が夢の跡

風鈴

変わりゆく自然の中の風鈴よ

官僚自慢の導醜制

田ん圃には郊外店が建ちにけり帰れぬ畦は今よりうつくし官僚自慢の導醜制なら

2008年8月17日

自由化と保護化の調整

例えばJRでは車内放送のvolumeを耳障りな程の大きさで伝える大衆趣味によって一時代の典型な移動媒体となっただろう。しかし未来においても永久にそうであるべきではなく、より安価で放任化した手段も、又より高価で気品ある手段も「客層」に応じて併設されて良い。大衆車両しかないことがもたらす文化、即ち《均質文化》は如何なる意味でも最善ではない。それは慣性によって自己発展不可能の衰退をのみ目指す生態の集合であるだろう。つまり経済発展そのものには微積の限度は有り得ないのである。
 規制緩和を計るに当たっての注意点は「保護産業」を民間のthink tankを利用して厳正に検討することにある、当面の課題へ怠惰な組織を動かすのが精一杯である誇大化した政府には長期的洞察が欠けるから。
結局、自由化による最大の欠落は、悲しむべき官僚の保身を除けば長期発展を原則とするが故に、短期的競争力に劣る分野への壊滅的打撃なのである。慎重に保護されてこそ公益に類する産業形態は確かに存在するのであって、例えば伝統工芸や地元商店街の有する文化付加価値は大量生産のチェーン店に如何としても替え難い。思うにある総合政策に必然な分野以外の産業形態について保護化か自由化かは自治体ごとに任意に択ばせるべきで、全国を一律化する益は「適所の多彩化」という付加価値原則にとっても限りなく零に等しい。いわゆる「infra構造の基準」だけが一元化を大抵必要とする部品である、例えば鉄道の線路幅や電波域は政府の介入なしには市場へ無用な対立や混乱を来すものであるからそのある程度の規則統制は少なくとも技術革新に矛盾を来さぬ限りは要請されて良い。

2008年8月15日

天文学

光速度可変の原理を導入すれば、現代人の宇宙解釈は閉鎖系のそれであると近似的に認識しても構わない。極めて遅い光速の元ではエントロピーの低い系の秩序が、逆に極めて速い光速の元ではエントロピーの高い系の秩序が考えられる。我々は上述の可変解釈を銀河系より大きな系の枠組みとして宇宙系と名づけられるだろう。しかし我々は太陽系の属する天の川銀河の自然が如何なる規則に基づいて建設されているかを取り敢えず研究しなければならないことは、井の中の蛙が大海を知らないと同時に井戸そのものの有り様さえ知らない蛙がいるのに喩えられる。もし仮に我々の属する宇宙系を天の川銀河をも包む質量の流れであると定めるなら、それを織り姫と彦星の永久の恋の舞台になぞらえて七夕系と呼ぶ。即ち、我々の属する宇宙の光速度が観測に矛盾が現れて来ない限り一定水準であるのはローレンツ変換式√1-(v/c)2の物体の速度vを比較的増大させる結果、その光子に抵抗する引力の中枢がどれだけの質量を持って宇宙間を移動しているかに等しく、ある閉じられた系の中では最も巨大な質量因が各銀河系および恒星系の引力の歪みによる補整誤差を大幅に超えているからである。
 そしてこの質量因より大きなブラックホールの存在する系では、少なくとも確実に光速が我々の七夕系におけるよりも速い事、逆により小さな宇宙系では遅い事が予想できる。なぜなら万有法則m=Acより引斥力の全体は釣り合う筈だからだ。
 にも関わらず生物量の公式E=klogD=1/2mυ02-Wによれば、mかυ02つまり質量又は光電子振動数の初期条件が高いほどに複雑な生物が栄えるであろう可能性は否定できない。従って七夕系を基準とした光速より速い現象が有り得る宇宙系においては明らかに、質量とエネルギーの等価式よりE=mc2よりc2=E/mなのでその活動質量は我々の生態系より遥かに甚大な幅広さを保つ筈である。
 我々はこの推論から七夕系宇宙より巨大な宇宙系への移動を単に速さによってではなく同様に時間によって、光速に限りなく近い空間の中ではその外側の観測空間より遥かに時間が遅く進む相対論の自由に沿って時空航路を執る者が現れた暁には、彼らが何れの時代にか我々を飲み込む宇宙系からの光速より速く動力を推進させる機構の持ち主との接点を持つ事が殆ど確率の問題であり単に論理的には必然であると知りうる。そして中には我々とよく似た次元の知的生物も含まれるであろう。然るに我々より低い系の秩序、つまりそれは地球において細菌界や原核生物界との接点が相応の観察装置により可能なのに等しく、彼らには彼らの異種との接触が進化する新たな種の形成により彼らの生態様式を革新して行くのは惑星文明間におけるのに同様である。だがエントロピー増大則が恒星系の大きさに応じて生物量の範囲へ許す限り、少なくとも七夕系のどこかの銀河には恒星の大きさと化学条件としての条件偏差値に応じて異なる秩序の生態系が実在することを否定仕切れまい。よってドレイクの宇宙文明方程式から適当な変数を除去整理してN=R×fpとするなら、文明数Nは恒星生成平均速度Rと惑星型恒星率fpのどちらかを定められれば、それらの内へ生物が栄えるのは恒星系の持続する時間の問題に過ぎず過去を省みない限り一以上と考えても合理的である。もしこの値を単に生命数に還元してnとすればn=R×fp、然るに惑星型恒星率は少なくともマイナスを取り得ず、虚時間条件のない場では恒星生成平均速度がゼロ以下には成り得ないことから各銀河系を探索する内に地球外生物を発見するのは単に確率論である。
 更に、万有法則m=Acと質量とエネルギーの等価式E=mc2より、エネルギー平衡則E=Ac3を導き出せる。
 また七夕系宇宙が今日普通の世界を保つ間は、中枢質量因に近い銀河系ほどに等価原理によりゆっくりとした速度で、又遠い銀河系ではより速く時間が流れると考えられるからエネルギー平衡則が意味するのは最も宇宙系中枢から遠ざかった文明ほどに素早く展開し、しかし同時に小型の生態系しか不可能な宇宙構造である。ハッブルの法則はV=H0×R、従って天体後退速度Vは定点から天体迄の距離Rに対して比例して増大するなら我々はホーキングの特異点定理を時間順序保護仮説のみを原理として採用することで回避し、宇宙系の内部ほど時間は悠久であってその中枢には過去の姿を留め続ける化学反応が保存されていること、又ある程度外側には優れて膨張してはいるが互いに光路的に孤立して発展した複数の文明もが存在しうることを予想させる。この時間幅のある全体として閉じた宇宙モデルを仮に普遍宇宙モデルと名づける。こうしてビッグバンとは微視的には絶えず無限に近づきつつある量子同士の化学作用で巨視的には最大値の核融合であり宇宙の中枢では我々から見れば世界は殆ど止まっていること、ビッグクランチは少なくとも時間軸が最大限に展開した光の未だに届かない宇宙の過疎地としてしか定義できず人類の感性の範畴では想像力が及ばないことを普段の世界観にも受け入れられるだろう。

民族状態の目印

脱構築は科学を含む文章を越えて、口語の差延についても当て填る。だからその理念は絶対的理解を拒むが相対的理解を究極で否定する論理ではない。我々の伝達が無内容・無形式という訳でもないし、おもにその能率や適性に様々なmodeがあるだけ。
 だから脱構築は漸進的理解や文明の進歩を否定媒介として切っ掛け付ける方便ではあれ、妨げる力を持たない。分野意識の狭い科学者が哲学の意義を蔑むにせよその批判精神が捉え得る範畴は、全知性の限界である自然界を超えて理念界の全域である。いずれ思考の為の道具であるどの概念も理念哲学の対象でないことはなかった。脱構築は理念としては絶対の真理を、絶えず反省され来る正義以外には認めまい。そしてその正義はカントにより義務と呼ばれたものだ。我々は神の究極原因を全知全能の理想へ託す他には、因果律の起源を明白な仮説思考ないし信仰上仮定して置けはしないだろう。
 科学者達が真理と呼ぶ概念図は、現実には比較的増しな定量的観測を吟味して推論の数学的規則と秩序づけようとし続ける暇潰しのゲームを導き出す理由ではあって、その意味するところは創造された諸世界の中で子供が次第に事象を法則的に追認して行く過程に変わらない。結局はいつしか神に極めて似た人が現れて、更に進化する未来の人は神そのものの近似解に極限的に漸近する事から、理性は自己原因の形相であること、スピノザの考えにも関わらず精神は神自身が理性の光のもとに照らされた秩序であると認識して良い。つまり自己原因である万有の鑑賞者はおのれを永久の秩序のもとに設置なされたのであろう。だから必ずや当為として即ち理想の姿として、我々は神の御身元を、常々想起される魂の連綿という生物および宇宙の一般関係の解答に見出すことができる。信仰と理性とは何れかの文化にとってもある段階でこの様にして普遍に一致する。それから我々は古代インドの偉大な哲人共同体が輪廻という訳語にこの原義を定めて行ったのを知っている。神は万象輪廻の内で変化している自己原因そのものなので、人類が様々な部族に別れて各々の独立と交易の中から自由に発見した理念にせよ究極原因である神は、精神の自律性へと、流転にも関わらず人間の魂の不変不滅をよく信じる長者の道徳として保存されて来た。
 その文化段階において最も経験に富む最も年長の有徳者が保つ魂の形相は、精神性の具体的模範である。その絶えざる伝統はいわば文明の規律と呼び得る。最も理知さとく感情に富んだ個性は運命選択の許す限り、同世代でのあたうかぎり最大限の長命を最高の具体的善意と合致させただろう。そしてそれは我々が現実世界で目にすることのできる最も神に近い生であったし今でもそうであるのに違いない。孝という理念はこの様にしてよく倫理的善意と共に養われている。
 確かに単に長く生きた豚より日々に精魂を傾けたソクラテスの一日の方がずっと良く、孔子の朝に道を聞かば夕べに死すとしても可なりという有名な言行録に際して懐いた感慨はおよそこの様な道徳的相対度が、文明の規律の内側にあっても依然として人生の最終目的であることを指し示したものなのだろう。中国の聖人は道という極めて簡潔な理念へと、以上の当然経るべき哲学と信教の世代間総合を果たしている。カントが神と理性とは矛盾しないことを道徳神学の理念により論拠づける遥か古に東洋の聖徳は、それを又湿潤な情緒との詩的混合型として定義付けることになった。恵まれた自然環境のお陰で奴隷貿易の常識がなかったので、彼らは知性を技術の命ずる必要以上に助長することが全体として民族協働にまつわる最大の和と幸福の害悪であると考えていた。
 故に、西洋文化のどの一文人も、如何なる知性の必然もが脱構築的にしか真実でしか有り得ない比較論の積極性には、東洋文明が恰も怠惰の如くに見える豊穣と歓待の依存的生活への適応によって見通しの効かないほどの多種多才を寛容し育もうとする道士の諦念に関しても実に、いささか母集団を他より一歩先んじさせるのに性急で感情の調和を軽んずる為に自己破壊の衝動を、よって文明自体の解体と呼ぶべき不安定な集団の分裂と闘争を繰り返す傾向の内在した不合理さに連なることより遥かに、お喋りや他の民族への干渉には消極的ながら合目的性の形式が為には一層の賢明な判断である歴史の真実を各文化地の長足の進展を顧みおのずから反省し、文字の通りOrientに、起源へと学ばねばならぬ日が昇り来るだろう。無私の理想は必ずやあまねく認識される時に遇うであろう。例えどの民族がいつの世にそれを迎えるか未だ確定できない。だがどの個性も他より絶対迄には勝り得ず、絶えず配偶を通じてよりそれを改良するしかないことから、精神は可塑的であり乃至集団生活の中においてしか顕現され得ないことを悟り得る。人は他の人に対してのみ人間。故に最も精神的な個性は必ずや文明の規律のさなかに名もなき聖人として、即ち民族状態の恒常観として現れて来る。

2008年8月14日

自然論

時間とは質量の方向性。故に、宇宙は恒常と多様を両立して行く。もし宇宙模型がこの考えに則り造られるなら、それは全体としては閉じていながらにして部分は絶えず粗密の度合いを移り変わらせるコロイド態であるだろう。ともするとエネルギー保存則が成り立つ訳は閉鎖系としての空間構造を、又それらの流通にエントロピー運動がある由は質量の方向性という第四次元が座標軸上へ与えられているから。我々が引力の起源を物質間の距離二乗に反比例する微視の性質に求めるなら、絶えずそれに斥いて巨視的に再現されて行く自然は色相を移り変わらせているに過ぎず、根本として不変な事、言い換えれば世界は微積分を繰り返すカオスの中にある事を知るだろう。
 唯一、精神だけが秩序を数学なしうる。宇宙に秩序がある訳ではなく、人間精神だけが自律して知性を世界へ投影しうる。神は宇宙の目的を自然の観賞者へも分ち与えた。生命は質量のmicro cosmos。厳密に考えて、万が一光速度以上を自然が許可しなければ如何に振動数条件の高い波束でも永久に宇宙の果てには辿り着かない。ということは宇宙に果てはない。その概念は少なくとも光速度が許可する世界観の内観にのみ森羅万象が有ること、我々には光に照らされていない宇宙外観を如何なる想像力によっても知り得ないと示す。
 人類は将来に渡っても宇宙の外側に辿り着きも想像を致す事もないだろう。無い場所を想像する事を考えればいい。しかしそれでも宇宙の時空間の無限さを否定する論拠はあり得ない。だからもし生命が積極的に技術を高め続けて行けば、やがて彼らは光学的想像力の限りに広がる無際限の多彩世界の内へ冒険と移住を繰り返すだろう。

2008年8月13日

再創造仮説

人間は徐々に活動をrecreation化しつつある様に思える。嘗ては生計の為に行われて来た慣習が、後の世では余暇の娯楽とされる。経済性を強化するに当たって、直接の人為が必要な領域は益々少なくなって行く。研究せられた法則を元に自然現象の活用を覚えた人類は生産に於いて、並べて自動化を可能にして行く。若しこの方角に大凡過ちがなければ、人類は文明化のとある末には諸労働から解放されるだろう。彼らは最早生計の為にではなく、recreationそのものの為に働くだろう。此は彼らの活動が益々自己目的を深める事を意味する。人間は他の手段と成る事を要せず、単に己れが成長則の為に活動する。結果、各地の民族性は既存よりずっと個性の度を高めるだろう。
 自由主義の蔓延風儀がある時代に地球を覆ったとして、人間は少なくとも地域郷土を拠り所にしてその流れが有する均質化や一元趣味への潜在的抑圧へ最大限に抵抗するか。
 文化は少なからず彼らが共有できる最終の記憶となる。国家が今日に於ける程の堅固な囲いではなくなった暁にさえ、民情を同一化する根源は彼らに普通の先祖が辿って来た辛抱強い足跡。文化摩擦、しかし負の失態を伴いつつ、如何なる面から眺めてもこの相互参照と自己反省の繰り返しだけが以前に優って近代化された文化様式を発見せしめる方法。我々は各種偏見を様々な共同化の工夫と努力を通じて次第に取り除くべきで、国家を民情を対外国へ隠し仰せるべきではないだろう。どの様な醜い部分ですら、客観的には慈しみ哀れむに足る特徴を示す文化の生態。我々は鏡を手本とし、己の姿を出来うるだけ客観視しようと常々勉めねばなるまい。文化は内側から見れば普遍的なのに外側から見れば多少あれ特殊なら、その差延にあって人間は交易を果たす。故に内省を、従って自己規律を絶えず与え直す契機とは実に幅広くゆたかな社交。
 代表的一神教信念にとって罪の基調は内観にあると云いうる。然れど因果の網はたとえ罪の意識を彼ら程に強く持たない民情に於いても厳格な応報を行うだろう。この場所では何らかの環境誘因に依って、余りに窮屈な自己罰則は却って不適応となっている。だから、我々は一神教の尊い感情を狂信者の如くに、他方の未開とされる文化に殊更移植しなければならぬ理由を持たない。謂わば宗教とは地域文化に科せられた偏見の慣習。別の常識に基づけば、自由は彼らの信念に則り行動させる所に属するのが明らか。植民政策が大概に失策であった歴史事情は結局は人間が如何なる野蛮の風習に対してさえ、動物を扱いこなす程には冷酷であってはならない現実であった。人格は他者をまた目的とせねばならない。為らば宗教間に分別を、国家間に自律を要請するのは現代の国際交通が命ずる必然。
 聖戦を主義して他方の信教を迫害感化せしめるのに適した民情にとってさえ、貢納の節度に就いて協働を尊ぶ親切が根強い。ともすれば人間は自らの目線からしか世界を観察できないと思い勝ち。実際には多数の、非常によく似た精神が各々の信念と共に各地各風土に能う限りの自助勤労により適当している。そのどの一つが人間的でないことは無い。
 文明国を自称する浅はかな民も、如何なる生産労働からの日時の解放に鑑みてさえも他国民の生活様式を嘲笑う理由を持たない。なんとなれば彼らが最高度も見なす市民間にとっても犯罪が、悪意や錯誤が自滅したか否かを反省すれば。文化は永久に比較相対的。文明に際限がないとすれば宇宙に眼を向け、おのれの人格より遥かに勝れる理知の生活圏に想いを至すべきなのは普遍人倫に領域がなければこそだ。

都市の美観

一般に、公序良俗に反する看板は設置を罰金刑以上で法的に規制すべきである。同時に、良俗に著しく反する店舗や商材あるいは服装および行為そのものを厳格に罰則すべきである。

 いかに幼い子供の目にも包み隠さず、又一般に人目に触れる場所へ態々これらを貼り付けておく意味は、一体何なのか。単に彼らが如何に公益の為に何事かを主義主張することが少ないか、つまり人というものの浅ましい利己性をかくまであからさまに表している側面はないと言える。

 もし先進国を模範取るなら、如何に規制を厳しくしたところでこれらの野卑な風習が一切根絶できるものではなく、従って限れば限るだけ分散し隠蔽され地下深くに潜行して目立たなくなるのを知るだろう。「猥醜が公衆の目に触れない」ということ、それらの野卑な行動の全てが少なくとも公には存在していない様に世間を設らえることはどの観点からさえ、正当な文明化の方向である。これらの野蛮の陋習をどれだけ強く削減しても決して一つも人間に損害はないであろう。

2008年8月12日

婚姻制度の指南

我々は既存婚姻外の浮浪生活者の為に特殊な社会保障を国法で定める意味を持たぬ。文明の必然は人口支持力の増大なのであり、決して単なる生物量として定量化してしまえる出生率ではないからだ。
いくら数多くとも、彼らの精神的生活程度が先祖よりずっと没落していればその国家は《不幸の文化》により失敗したと言える。だから女性への過剰教育により不安定な浮浪層の増大が起こるとしても、堅い婚姻による「最大多数の最高幸福」の福祉行為に適応した生を最優先して優遇すべきなのはいずれ変わらぬ。
なんとなれば倫理的に退化した種類に最低限度の文化的生活を定めるなら、それは彼らが「物質的に」生存を保障されるというに過ぎず、結局人間的家庭を築くには金だけでは足りぬのだ。


 曰く、百万人の犬畜生より遥かに、唯一人の人格者の方が尊いのである。

商材案

インターネット閲覧機能だけを備えさせた、必要最初のインターフェースをテレビの外部入力端子へ繋ぐシステム。
つまり『インターネットシステム』を、我々は一部高齢者の情報格差を低減する為だけにでも商品展開すべきである。

これはパソコンとは適所の異なる商材として、操作系統をシンプルにするほど団塊の需要を、安価にするほど途上国の人気を買うであろう。


 猶、多機能化する必要がなければブラウザはフリーソフトを最も単純な数個のボタンへ操作し易く改良したもので構わない。その独自商標にプロバイダーへの極めて省略化した接続事業を加え、有名年功芸能人を宣伝に起用しパッケージ化せよ。

2008年8月11日

文明は行路を遊ばせるが決して退行を許さない

現代社会に於いて、女性への過剰教育による家庭バランスの崩壊したがって婚外児増加などの伝統逸脱行動が現れるのは、自由化に伴う自然ではある。然るにこれらの否応なく不具合を伴う家庭から育つ子孫は、いわば不安児と呼びえるだろう。如何なる最低限社会保障によっても精神的安心感を、一度壊れた家庭へ補う事はできない。そして生態への活性酸素がそう働く様に、これらの不安児は社会にとっての反作用いわば必要毒素となる事によって、却って健全の機能を強く共有認識させ平衡を回復せしめる。

 所で優れた天才人は、生い立ちに不幸を背負っている場合がある。つまりこの不安児は、もしも天性や社会資本の恩恵により反社会行動に陥る事なければ、屡々凡人には為し難い昇華適性を示す。

 だから、我々は自由化の方向が大部分に関しては功利的結果を与える事象に照らして、「既存倫理に許容可能な限り」少なくとも法的には、婚姻に関する逸脱行動を黙認すべきである。無論ながら不道徳の因子はどの様に些細な点についても長い目で看れば確実に淘汰の具であった。文明は行路を遊ばせるが決して退行を許さない。為らば一時の雑多な試行錯誤を通じてさえ、最も人道からして安心できる婚姻制度に自律的に則り続けた子孫だけが長らく、周囲からの尊重を以てあまねく生存できるという信を疑う根拠を持たない。

建築術

大型書店など規模の多大な本棚を作る際に、奥へ向かって数度の傾きを取れば十分地震による書物落下へ備え得る。

生物学

空間量の公式より、
G=c2r2/M
これよりc2=GM/r2…①
また光子の見かけの質量より
m=hν/c2
c2=hν/mなので、
①に代入して
GM/r2=hν/m
よって、
hν=GmM/r2…②
ところで生物量の定義は
S=KlogD
と表せる。
Sはエントロピー、Kはボルツマン定数、logDすなわちDの対数は生物量である。又、②の左辺は万有引力と等しく、同時に引力と斥力は作用・反作用の法則より等しいので
F=Sから
hν=Sと考えられる。ここで生物量の定義に照らし合わせると
hν=klogD…③
である。更に、仕事関数の公式
1/2mυ02=hν-W
へ、③を代入して
1/2mυ02=klogD-W=E

これより、
E=klogD=1/2mυ02+W
の一般式が導ける。
 我々はこの生物量の公式から、少なくとも数学的には、光電子の初速度が速いほど即ち巨大な恒星の元にある惑星系ほど、よりエントロピーの高くて複雑な生物や生態系が実在する事を予知しえるだろう。

物理学

光電効果を考えれば光とは励起された高振動数状態の電子放射である。だから我々は太陽放射が電磁波を伴うのも核融合の現象で理解できる。ここで万有引力の法則より、
F=GmM/r2
また万有斥力の法則より
S=pAcm/r2
ここで、F=Sなので
Gm=pAc
よって、c=Gm/pA
Gとpは定数なので、
c=m/A
これより、
m=Ac
の一般式が得られる。mは質量、Aはブラックホールの表面積、cは真空中の光速である。以上より、万有理論の法則が説明できた。

2008年8月10日

国民文学論

国民性は可変的。民族は語族と大部分重なるとして、どの民族精神も外来文化の影響外に有り得ない。若し何らかの奇遇で、常にこの種の共同体だけが進化史の生きた化石なのだが、僻地に免れた共同体が残るならという特殊条件を除いて何時如何なる場合でも民族は混淆のさなかだろう。Nationalismという概念は故に、偏見の名義。それが民族間に初めて、全く新たな性格を仮設する。共同体の場合分けが逆説的に国民性の基調を用いる。語族が民族に重なる部分とは、結果としては生活感情の共同体が詩歌を通じて共有される範囲について。だから言葉の通じない異民族間に橋を渡し架けるのは主には詩歌である。ともすれば特徴づけられる生活様式の文脈が、その文学には主旋律として与えられているからだ。
 今日我々がliteratureとして認識する概念は、実際には記録された詩歌様式に関する感覚論。だから文学は想像力について、現実の詩歌よりも後から着いて行く。語られうる言葉だけが記されて行く。国民性を改造するのは生活様式の移行そのもの。伴う情感の推移が、必然に語族や、その共同体生活の枠組みをも移り変わらせて行く。日常に交わされる詩歌とは、会話と呼ばれ、この審美感覚の中核が、やがて国民性を組み換えてしまう。
 文学が何事かを変えられると信じられていた時代があった。然しそれが実存主義者を取り囲む雰囲気幻想というのでもなければ、会話よりも先に詩歌の記述がなければならないことになる。国民性を先導する詩歌を口語に即した形式で記述しなければならないだろう。
 小説が優先される場所では時事よりも文学が進む事は有り得ない。何故なら語られた小説とは既に宗教説に過ぎない。

日本美術会の書

日本美術会
2008年
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格差肯定の説

階層間の最大流動性を制度的に保つ限り、如何なる格差も認知されるべきである。

例えば、獣と戯る遊び女が居ると言う。この生命体はいわゆる穢多であるが、憲法がそう呼ぶのを禁じているだけだ。そして国民に最低限度の文化的な生活を権利として与えるのは法律ではあって、人間未満の畜生類にはその獲得義務すら不可能なのは疑いない。
事実上、人間を大規模に死滅させる未知の伝染病に疾患させる多くの元凶は、この種の人倫逸脱が起源であると知るなら、真っ先に亡ぶのは当の悪徳品種なのだから。我々は否応なく淘汰の前提に、劣悪な人品との住み分けを要求するだろう。

富豪が何千億の豪邸を幾つ築こうが世間は非難すべきではない。この邸に宛てがわれた古今建築様式の最高品質が、やがては民衆にとっての常識になるなら寧ろ盛んに散財を煽るべきなのだから。中には歴史遺構が残される場合もあろうか。

 文化にとって殷賑と頽廃とは「相負的な循環」を経営している。前者が高尚を以て後の世を予言する際に、後者は滅びの合図を示して直ぐにも消え去る。
 然し我々は確実な歴史の現象として、優れた文化活動が力強い民族文明に伴い広く伝承されるのと同時に、劣悪な文化活動が外来民族からの必然の「蔑視」を伴い確実に粛清されて行くと予知しても構うまい。これは我が国についても確かに。
格差はなくてはならぬ。ともすればこの種の貴賤の別が明らかな程に、素早く時事に応じた階級転換は可能ならば。
 若しも公家が全国の一律な支配層であったなら今日の日本国の独立もあり得まい。様々な性格に自由な等級の場を分かち与えて置けば、品種はその各々の適所に優る能力を展開させて行くだろう。

格差社会の顕現は均質狂人の集合体がファシズムを待ち構える今日に於いて是非とも望ましいのである。
 注意を要するのは階級固定に繋がる《相続の抜け道》を成るだけ最小化する為の工夫である。
主には『相続税制の堅持』がこの為には必然である。階層固着については種の自律した多様化そのものが妨げられる危険性があり、就いては優等新種よりも旧態墨守の無意味な助長に至らぬとは言えぬからには。

2008年8月8日

政論

百人の愚衆に好かれるのは一人の賢者に認められるよりもっと悪い。

だから、例え大衆民主政の建前に於いてさえ政権交代のspeedとして偽主君は現れる。当然、愚衆の長は愚かなので、最も政に挫折し易くその権力は僅か束の間であった。

 我々は賢明な君主が必ず長期に渡り持続する政体に貢献するのを疑えぬ。そして天子を抱く国民は煽動家に誘導される国体より常に有利な国際化を可能とする。
故に「選挙」という手段は単に一時の範囲より政体維持の祐徳さで計られて良い。信頼は人格の核心に基づく。
我々は政治運動そのものがやがては最も祐徳な者を主君に立てる事を確信為うる。何故かならそうでない国家は亡びるからだ。

2008年8月7日

情報多核化論

「勤勉」は普遍的人倫では必ずしもない。ある国民から見れば、勤労の義務を当然と受け止める国民性が驚異でも珍奇でもあるだろう。「休まず働かねばならない」という脅迫観念がある社会では、長期休暇そのものが罪悪感を以て理解されがちですらある。だからこの民情を何らかの反作用で改善に向けない限り、この蟻の様な働き者の人倫に於いて学問の権利とかrecreationの余裕とかはなおざりにされ続ける。
 そしてもし、勤勉人倫の産み出す文化が甚だしい奇形さを含むなら、いわば労働狂としての人格群の盲点から生じる。満員電車という異常現象を看過する民族が産み出すあらゆる商材が、心のゆとりを欠くのは必然か。この文化の特徴は、無理に激しい消費を駆り立てる衝動となり、ある種の退廃を込む。最大多数の最低限の傾向に媚るが故に低俗化を免れない社会性、これが現代の勤勉人倫の欠点である。

 働かねば暮らして行けない人間は、貴族から看れば哀れむに足るこせこせしさを示すに違いない。気忙しく、けちで、品性がなく、金儲けと来れば夢中になって飛び付く様な国民性が尊ばれる場では、どの様にしても上質の品種形成は不可能となる。
 東京文化は相対化されるべきで、テレビ局を中心とした情報提供の多核化は全く異なる人倫を多数育む為には是非ともなくてはならない。情報発信の一元化がもたらす実例がここに現れている。それは否応なく極度の特殊化に繋がる。驚くべき下品の傾向を量産する勤勉さなら、何もせずにさみだれを眺めている方が、民族や仲間の名誉の為にも遥かに増しである。悪評が広まってある場の風紀改善課題が一般敷衍されるに伴って、自治的弾圧が要請されるのも自然の流れだろう。そしてこれらの弾圧の精度がなければ奇形文化の希少価値を逆説的に担い手側が認識することもない。その分、又獲得された技能の粋を伝承させる手順も忘却されてしまうだろう。

2008年8月6日

鶯谷

はるけしや鶯谷の昔かな今は西洋人の降りるなむ

2008年8月5日

槿(むくげ)

庭先の槿むくげの花は伐られけり雷様に咲けとは云えども

槿(むくげ)

庭先の槿むくげの花は伐られけり雷様に咲けとは云えども

2008年7月31日

生物学

優性と劣性という生物学用語は、例えば朱子学においての陰陽説がそうだった様に一見して素人に誤解を招き易いが、prepotenceやrecessiveの訳語に過ぎない語源をあわせみれば、いわば明治からの負の遺産であるだろう。だから、我々は寧ろこの用語を徐々に顕在や潜在という、より事実に即したものへと置き換えて行くが良い。初学者へのかみくだいた表記では例えば表と奥の遺伝と書き表しても、優った、劣ったという表現よりはまだ正確である。

2008年7月30日

厩焚

今朝の朝日新聞の最終欄に、埼玉秩父のコンビニ店主が燕の巣一つが見つかって既存スーパーマーケットの解体を遅らせるという記述あり。
 これは人間の利便の前では宋襄の仁であり、株式公開を含む国内市場へ外国資本を政府主導で果敢に投入し、競合力を更に強化し淘汰するべき現象かもしれない。

地理学

人類が獲得する習性のどれも、自然界と人間界との、民族と交易との相互作用から導き出されてくる。単に人為が、でも風土がでもなくて、人間社会として現れる両方の混淆が、文化と呼ばれる行動機能を集積して行く。だから、我々は環境決定や環境可能という概念より、寧ろ環境文化と謂いうる不易流行の積算交通の網の目を体系的に観察してみるべきなのだ。
 人為は自然を変える。しかしそれは究極に於いて、民族性として周密されていく様な適応習性の伝承体としてである。だから人為は自然の部分なのだ。それは環境の中に、文化という二足歩行型哺乳類の独特な住みかを建築する本能形態の有り様なのである。我々は理性を不自然を意味させる、単なる対立概念として捉えていた。だが、本当は人間的本能という以外に説明づけられる能力ではない。如何なる人類にも理性が見つかる。そしてそれを導き出したものこそ文化なのだ。
 すべての文章を文化という観点から読み直してみなければならない。そうすれば、理性があらゆる場所と時代によって実に驚嘆すべき多種多彩な趣きへと変容しながら、地域文化の立脚となり伝わってきたのが理解できる。そして人類の史学は文明と野蛮という二分法を揚棄した、あらたな等価の観察を通じて紡ぎ直されねばならない。民俗学と民族学とは根本に於いて相異なる学野とは言えない。我々は文化学として人文地理学の整理を図るべきである。それは歴史と地理との地政学的混同の広場に、安心して汲み揚げられる共有の井戸を掘り抜く作業になるだろう。

油蝉

油蝉一心不乱に鳴きにけり

2008年7月28日

環境問題の上滑り

省energieは産業全般に望ましい事ではない。改革に必要なのは熱効率の向上に過ぎない。変わるのはentropyだけだ。目的不明の省略煽動によって投入する原料すら節約する様では産業の衰退、飢餓混乱へ至る。熱機関の効率を更に工夫することだけが人類史の命題である。
 二酸化炭素自体があしき媒体なのではない。植生との反比例関係だけが温暖化の原因である。もし二酸化炭素がなければ生産者は死滅し、あらゆる食物連鎖は絶ち切れるだろう。
 従って、産業を最大に展開させると同時に植生増資を創意するなら人間の寿命にとっても普段の低酸素状況は却って望ましいだろう。肥料流通と国土計画が寧ろ喫緊の温暖化対策である。隣国由来の大気汚染を禦ぐ最大限の予防対策も又同じ。
 声高に喧伝されている脱炭素のプロパガンダには全く意味がない。炭素循環のない有機体すら存在しないから。

電球の確保について

頻繁に点灯・消灯を繰り返す場所では却って蛍光灯の総費用は高くなる。

政府の市場干渉は「推奨」としての蛍光灯全般への助成に留めるべきで、市場から一切の旧来フィラメント電球を排除するのは歴史的愚挙である。


例えば雰囲気照明の様な光度の微量調整が大切な需要を単なる一時の気のせいで壊滅させる理由は無い。否応なく文化色にも昼光系統の冷たさが蔓延し勝ちになるに違いない。
曰くこの商材は公共管轄の街路灯などを除けば、民間の自然選択に委せるべきなのである。

2008年7月26日

専門学校の必要

無用の用がなければあらゆる有意の応用はない。実用的な教育は専門学校に於けるものであるべきだ。純粋理論と応用技術とは骨の種類に関して凡そ異質な所がある。数学的には捉え切れない細かな経験則が並べての工学文化には蓄積される。
 真理の探究は学問の目的である。時を経ても廃れない大道を悟るには、無為の学問に殉じる以外にない。専ら有用なものこそ最も実践的な道具である。然るに工学技術は純粋理論と飽くまで相負的な営為である。よって、学問を純粋理論のみに囲い込み、社会の最先端に直結すべき専門学校の意義をなおざりにする文化では、いずれ技術力の確保は困難になるだろう。大学院と専門学校とは理論と技術との目的について正反対の傾向を伴いながらもどちらも必要不可欠な近代教育文化の条件である。

2008年7月24日

学位

全ての学位は学問の奨励賞に過ぎず、どんな特権も社会的に付加されるべきではない。全ての知識が大学にしまわれた場では民間に学問慣習が広まる事はありえず、永久に科学民度は低い継である。そして愚民の国は対外的には最弱で、文化的には蔑視の対象であるしかない。
 何より学位は既存潮流上にしか与えられる余地をもたない。よって、革新的業績に賞を与える事のできる実存は同時にはありえないのである。こういう成果は常に学問の進歩がそうだった様に、充分な時間が経ち、周囲がやっと意義に感づいてから評価され始めるだろう。学位はだから学問的意義そのものとさえ必ずしも相関しない所を含む。それは飽くまで「奨励」の意味以外を持たせてはならないものだ。

昼下がり冷やした李のあかみかな

喜捨の気象

一国の栄華、これが究極目的ではない。

国は他国の模範と成ることを通じてのみ、国統を全うするのだ。
故に、国内がつとめて清貧に甘んじる時にニュースで黒人の産業が繁栄して行く有り様を眺められれば、それより幸せな気象があり得るものだろうか。
 なぜヨーロッパで有色人種が蔑視されて来たのか、それが普遍に問われねばなるまい。
学識によって? だが不器用でも精一杯努力する生徒は常に、何でもこなす優等生をいつの間にか追い抜いている。
産業によって? 政治体制によって? どれも一時の偶然に由らない理がないなら、勘違いしていた古代の民を哀しむ人種偏見の認識が行われる限り人倫は、改革される余地を残している。

誰が平和を望まぬであろう?
産業の成長そのものが自己目的なのでは決してない。それは人間福祉の方便である。
ODA拠出を通じてのブーメラン効果を恐る位の国内産業体制はもとから甚だしく腐敗していたのだ。

もしお歳暮に見返りを期待する者が居れば、人は偽善の誹りを免れまい。
ODAは少なくとも、現代の喜捨である。よってその縮小、という事は先ずあってはならない。正しい優先順位である国内調整の前に、喜捨を投げ出す者を国際社会は見放すであろう。

2008年7月23日

ハイビスカス

庭先のハイビスカスか咲きにけり

学歴社会の欠陥

学歴と学力の間に違いを見い出せない国民度、これが日本人の弱点となる。科学の発祥を創始者に遡るなら、それは紛れなく一人の学者だった。彼は学ぶ者であり、教えられた者ではなかった。開拓者に手本はない。
 科挙の弊害が著しく、日本人の在野研究の欠落度に迄なってしまっている古代に在れば、民間に科学の慣習が弱いということは遅かれ早かれ民族の維持発展には致命傷となるであろう。それは一般民衆が学力を学歴と混同すればするほど、瑣末な年頭月尾の雑学に加わった虚飾の傾向を以て大学の退廃に繋るだけだろう。特に学生集め及び振り落とし競争試験の難を免れない私立大学では、この危険はもう現実になっている。大学教授は学位授与を同学閥出身者に敢えて限る恣意により、やがては己れが首を絞めることになるのだ。権威の根本が高い学識にあるという大原則を見誤り、虚名のために学位を悪用したとなればこの大学名は長らく、民族の汚点に数え挙げられるばかりである。よって、単なる業績以外の、旧態狭い学閥住み分け的情実を潔く棄てきれなかった学校法人から先に、市場敗退して行くのも又、来るべき自由化の結末である。実力派の絶えざる産業改革、高等教育の普及で国民教養が高まったあかつき、国立大学にも然らば学位の信用が疑念に揚がるほど同じ寒波は避け様がない。入試でしか学力は問われない自称大学の遊戯場が、世界各国を見渡せば遥かに見劣りする評価しか与えられないのは当然だ。学力の足りない学者先生はつねに、世間で変人と呼ばれるに過ぎないのだった。
 例えば夏目漱石が文学博士を拒絶した理由も、こういう低く卑しい民度にあったと悟らねばならない。博士号とさえ訊けば業績如何、本質的な意義如何を問わず恐縮低頭する肩書き崇拝民族には、学位論文さえ書き方を習えばそれは天下の大学者先生という訳らしい。この論文が若し、米屋の日記より全く無価値であっても。そういう日本人とやらは、隣国民がみな少なくとも修士以上を持っていることで何やら分からず圧倒され下らない空論に時を費やし、人間生活で丸損を買い占める運命がお似合いだ。

後生国

世界各国と共生していくこと。これが現代政治の基本命題。何処かの国を蹴落として這上がるという暴威はやがて周りの白眼をいざなうだけだった。それには互いの国情をなお深く汲み、互いに個性を絶対化しないこと、謂わば国境を浅く構える姿勢が良い。
 たとえ今日は途上でも明日にはずっと先進しているかも知れない。だから途上国から勉めて学ぶ、という意義がなおさら自覚されなくてはいけない。後進こそが崇められるべきだ。努力は才能をいつか上回るかもしれなかった。

2008年7月22日

猥褻物頒布罪について

悪貨には罪業あり。

2008年7月21日

芸能批評

テレビで暇潰しをする程優れた大衆喧伝法はなかった。これが上辺だけ目覚ましい装飾に逸る偶像群を量産したからだ。現代の邪教、芸能界。電車の全体壁面に広告を貼りたがる企業は、下品しか伝達していない。

2008年7月17日

調整的な人格

環境問題と呼ばれる思想潮流の殆どは、周回遅れの途上国のtop speedへ足枷を填める策略程度の合理性しか付与されていない。事実上、先進国は並べての暴利を恣にしている。そして恐怖政治以外の方法ではあらゆる抵抗を剥奪されている国民存在にとって、ecologyとは単なる嫌がらせに等しい。国際格差の悲惨は自由主義の暗部として益々増大している。その暗黒星団に呑み込まれたら最後、脱出する為にはentropyが最小化される無限遠点を時空の墓場で待つ他ない。光は嘗て、神々の物だった。処がマルクスが現れて以来、総ては只の神話に降格してしまった。我々の信仰は調整の為に十分な実力を奪われてしまった。
 人間性の回復、という号令は無残に打ち砕かれる。多数決の原理がどんなに偉大な理想も凡庸一分の犠牲にする。結末は夜郎自大が果てしなく蔓延する今日なのだが。ミルやデューイの目指した教育が画一化の為には最大限の圧制となって働く時代に在れば、型に嵌らないということは如何なる正義でも白眼視さるべき異常事態だ。然しその様な均質な国民秩序は最も免疫抵抗に戻るが故に悪疾を払い除ける事ができない。それは衆愚政の結論する国家滅亡である。世界史を看よ。幾多の民主主義者達が儚くも堕落への階段を下りて行っただろうか。既に世に無い彼らの子孫は地表に居る誰の記憶にも無いからと言って、彼らの遺跡すら忘れてしまえば大英博物館の彫刻群が文化的窃盗容疑に掛けられる事も無かったかもしれない。我々は民主主義を捨て去るに戸惑う理由を持たない。いずれの思想もかりそめの名であれば。
 Liberalismが無限成長の理念を根底に携えるなら、民主社会主義的持続可能社会のmodelを逸早く実現した北欧の知性を嘲笑う老人達が、末裔にすら座を譲りたくないと牛耳る少子化社会は謂わば魂の牢獄である。彼らは金に於てしか人倫の繋りを有せず、終いには金で量りに懸けられ振り分けられる。片方は老人ホームへ、もう片方は孤独な死へ。だが彼らは金を信仰しているが故に時代定型に他ならず、彼らの生活思想がそのまま実現されるのを見るに過ぎない。幸福は金次第であろう。それが自由主義民度の限界ならば。
 若者は彼らの介護にはどれだけ金銭を要求しても足るまい。何しろそこには賃金格差が厳然と存り、金持ちには一等席を、貧乏人には末席を必ず与える義務がある。そしてそれが彼らの築いた年功序列の学歴社会がもたらした最大限の業なのであるから。
 我々は国際格差についても同じ論理を保つだろう。金持ちには優等席を。だがterrorismは彼らに絶えざる深刻な不安と膨大な費用のsecurityを要請する。為らば賢明な国民が分限道徳の為に復讐targetにも成らず、喜捨の責任が為に如何なる貧乏人の門戸でも歓迎さえされるのは当然。我々は良き国民、良き国柄を目次として歴史のpageを繰る積もりだ。心のない寄付なら吐いて捨てるだけの気構えがある途上国とならば、進んで政府開発援助を、又人的貢献を義務化するのは優れた国民度の必然に導く善。如何なる国も始めは平野だった。為らば何時如何にしてそれが大繁栄を達さないとは誰にも言えない。後生を畏れるならばどれだけの大金も鶴の羽音の如く潔く捨て去らねばならないだろう。金は来世に持ち越せない、唯、出来るのは正義の供養のみだ。功徳なければ命は救われない。どの国も永続して来なかった。国が破れた後で人間に記憶されるのは正義の光に過ぎない。為らば永久の国には神の光が宿るであろう。我々は信仰の為に国を欲する。永久平和の国を実現しうるのはこれらの信仰篤い人々によって、である。神の光の為に如何なる財産目録も、命ですら投げ出す人間達の乗る船は、決して沈みはしまい。神の命令に従う者を王に抱く国民だけが、天命の為に全ての意志を結晶できる。故に、この世の政府は仮の使命でしかなく、それが絶対的な道徳義務の前に服従することを通じて全体意志は国民の総意となる。言い換えれば人間は神の前にのみ正義の使徒と成りうるだろう。我々は忠義という理念の元に、未だこれらの最高徳の原型を失ってはいないと自覚せねばならない。
 全人類の為にさえ国王は信仰篤い人倫を結び付ける紐帯であった。然らば国内政治に於いてどうして異なるだろう。民族と国家を纏めるのは命令への信仰だった。それが絶対服従をも自由と最も純粋な道徳義務の前に一致させる。故に、教育の根本に置かれて然るべきは忠義の精神。調整を図る唯一の勢力は政治的な道義心に篤い無私の人格達だけだろう。そしてこの種の性格を養うことがなければ、我執の的になった自由民主主義社会は報復の連鎖に及ぶ殲滅戦争によって滅びることが確実である。

2008年7月16日

移民条件

フィリピン人の妻らしき中年女が自転車で走りながら平気で電話をしている。我々はそれでも門戸を展げるべきだろうか? イギリスの空港では、偶像歌手を連れた日本人が収容所へ連れて行かれてから強制送還されたと云う。未成年に見える少女達を連れ、外国で無許可のパフォーマンスをする積もりだったらしいが。愚か者には反省が必要なのだ。

 どちらの姿勢が賢明か、それは国際化の果てに明らかに成る。各国は自らの国民性を発展させる為に「移民条件」を厳しく科さねばならなかったろう。国民秩序を破壊されたくなければ。

精神性の発見

人間達の中では人間性しか問われない。併し精神性は暫し彼等にも必要とされる。人間性と呼ばれるものは精神性を目的とした動物的徳目の昇華。単なる動物ではない者を活かす国だけが精神性の王国を見つけ出すだろう。自由民主主義は人間性の終わりでは有り得ない。何故なら精神性の発見は常に人間性の更なる昇華として現れるだろうから。自由人は又、揚棄さるべき段階。近代化を超えて文明を推進させるには人間性を精神性へ向け改造しなければならない。価値観の相対的多様性、無際限な個性、それらの対立に超越的優位を得る迄、どの議論もideaが為に留める事ならない。究極の精神は人間性にとどめを差すだろう。我々は究極の精神が全世界を解体して行く事を望み得る。自由を乗り越えて大義を打ち建てる者を望み得る。凡庸の精神を憎み、あらゆる均質化への圧力を絶対的優位から打ち飛ばす偉大な精神を求めうる。その様な民族が現れた時に、自由民主主義は修正されるだろう。人間達は調整的正義を国際的に回復するだろう。究極の精神が現れる国が在るなら、彼等は次第に自由民主主義の中で力を蓄え、機会に及んで維新を図るだろう。そこにあっては商業至上の世風は消滅するだろう。究極の精神が支配層を席巻した国が現れれば、忽ちに国際社会も一変するだろう。この種の国民律だけが如何なる困難にも屈せず国際平衡を回復する為に全力を尽す事ができる。

2008年7月15日

テレビ局について

一度も観ていないNHKの集金女が真夜中だというのに大声で、借金取り立てかと思われるほど何度もドアを叩き、名前を呼び、インターホンを鳴らす。
 そういう人間達の組織に払う金は浮かばれない。俗物というのは確かに無神経である。

2008年7月14日

偶像業の末路

悪徳の栄え、これは落ちぶれるのが早いだけにもっと悪い。
 偶像業の末路を看よ。芸能人とは元来、単に生活者の事である。その生活者達の演技術を眺めて審美鑑賞に足る者を風流人と呼び得る。偶像業界はあってはならない。

2008年7月12日

性差の起源

性差は性別によって作られた可変な条件づけだったが、性別自体は淘汰の主要条件として実力制の下にある。戦国で女々しさに来世は有り得なかった。その専業階級で男女平等社会は破滅への道だった。

2008年7月11日

適格の相違

模倣適格と独創適格とは、カントの考え方に関わらず別個の才能。さもなければ進化論、ということも不可能になる。破格とは既存の思考方式とは異なる概念からうまれる。従って模倣適格は永久に既存潮流の内部でのみ栄えるだろう。

 独創適格が軽視される場所では、発明または発見ということはありえない。故にこの類の場所では繰り返しだけが行き着く場所。学問と芸術とは根本的に異なる分野ではなく、前者は真と善の、後者は美の文芸である、というにすぎない。だから科学ないし哲学についての独創適格という事はやはりありえる。
 そして模倣適格が目的とされる社会、例えば大学にあってはその場から独創性が育まれることはないだろう。だから、学問の天才を呼び覚ます場所は常に教育の外側にある。Railを敷きかえるには徒歩であゆまねばならない。

2008年7月10日

時代変画

水素電車は好適ではない。これが事故を起こしたら乗客は大爆発で消し飛ぶであろう。
 蓄電池の充電地点を各停車駅に簡単に設らえる方が余程合理的なので、こちらの方向性を目指したLight Rail Trangitの会社が栄え前者は市場敗退するであろう。

燃料電池は発電所に任せるべき道具だ。メタン精製から一貫した商業工程に照準を絞り切った会社が勝つのだから。

日ノ常

電鉄会社がICカードで同一改札の通り抜けをできなくした事は、例えば緊急事故の際に外に出れないという根本的欠点があるので出来る限り早く改良すべきだ。予防は改善より策に優る。

ペットボトルの口だけプラスチックで作る事がもたらす「分別の手間」による経済損失は節約を上回るであろう。

2008年7月8日

肩書き

肩書きで身を守っている甲殻類の様な卑しい人間は淘汰されるべき。人間性を尊重できず、人間性を名分でしか判断できない目の曇った人間達に未来はない。機械未満の劣等生物が構成した社会が絶滅するのは単に時間の問題である。よって滅びを待つその間に脱構築をためらう理由とてない。道の為には年功をも後天差別をも先駆けて抜け出せ。

2008年7月6日

判断論

知性、これは感情とも矛盾しないものだ。両岸には判断という橋が架っている。もし優れた知性を啓発なしえた感受性に秀でた主がいれば、その感情は豊かで洗練された機知にまで至るだろう。

2008年7月5日

順位制

人間は機械ではない。いかなる順位制もいずれ破られる。時代とは変化。

2008年7月4日

別学の徳

男子大学、というものは、少なくとも硬派な性格、雄々しい社会性の養成には絶対必要である。共学ということは必ずしも有用ではない。結婚まで間がある場合、多くの場面では品格の形成へ悲惨な結果を与えている実例がある。恋愛ということは少なからず、勉学のためには無益である。昇華適性を育むことが多かれ少なかれ、長い目で人生を見なした時には最も有用な獲得形質となっている史実がある。
 品性の軟派化には、共学教育がもたらす影響は計り知れない。均質化した集団が免疫抵抗には最低である様に、これらの風紀に馴れきった民度にあっては性差を伸長させるという事は不可能である。中性化した雌雄はあらゆる面で最弱の様である。
 別学教育の確保、という事は少なくとも、その長期的性格形成に及ぼす意義を悟る民度にあっては必要不可欠なもの。友情、という事が真実の誠を以てはぐくまれ得るのはおおよそ人格形成期においてのみだ。
 恋愛性格ということは優生訓のためにも万能ではない。これらの習性にあっては昇華不適性という欠点により淘汰の愚を世代間であからさまに示す役に立つに過ぎないものだ。

2008年7月3日

著作権法の理解

あらゆる独創は模倣の積分であって、両者に境はどこにもない。著作権の合法性は合理化しきれない。それはプログラム規定として以外には、なんびとにも判定不可能な権利であった。著作権法は原理的に成立不可能である。当事者達の知識に関して、神は大同小異としか見なしえまい。そこで行われる司法判決も、観点を変えれば無知の証明なのだから。
 故に芸術表現は模倣不可能性においてしかoriginalityを主張できない。この為に、模倣される作品質量へは誰もが非難する権利がない。

2008年7月2日

商業批判

商売が合法でなければならない理由はない。だから使用者思想というのは工場生産の方便でしかなかったろう。未来の人は商売をしていた先祖の品性を哀れむだろう。

2008年7月1日

設備適応の策

石油からメタンハイドレートへの原材料の転換による燃料電池発電への移行、即ち『水素革命』に当たってはどれだけ国策を注いでも足りはしない。
石油依存は時代遅れであって取るに足らない、専制して考えるべきはどれだけスムースに国内発電所へ設備投資できるかだ。

制海圏、特に竹島および共同開発の名目で領水権を干犯し兼ねない中国との200海里水域での自衛軍攻防戦、これらが近未来アジア史には必然の憂患となろう。

 既に国家産業になっている自動車においては、水素ステーションの建設が割高であることから寧ろ発電所自体の質的な技術革新の方が喫緊の命題なればこそ。これはどの国でも事情として差して変わりないのだから、ハイブリッドカーから次第に電気自動車への製品バリエーション展開が、輸出に関しても主流を占めるに違いない。

我々は科学に悖る連中が脱炭素とかほざくのをしらふであわれんで良い。そもそも無機物に戻ればいかなる炭素循環もないが、奴らと来たら植生の為には温室がどんなに恵まれているかご存知にないからだ。
 冷静な人がこの島に残されていたら、元首相の間抜け発言もいつもの如くうまくあやして、黄砂の到来に備えさせれば済む。
二酸化炭素がなければ生きていけない生物の心配はいいから、自分自身が電気脱硫の国際法義務とか空中から石灰を散布する準備とかに欠けるばかりにお隣から飛んで来た大気スモッグでの肺病の心配をせよ。どんなに温室化したところで一部分の海辺の町だか珊瑚礁だかが水没した暫く後で、再びこの星は寒冷化し酸素が増えるだけの話だが。

2008年6月28日

場所の変化

文明だけが、人類にとっては未知の適格を導く。そして史上のいかなる人類よりも優れて洗練された精神を生じるのも、科学民度の命じる文明場だけ。素朴な自然から離れて、少なくとも人工化された都市の何処かへ人間性を向上させるに適切な環境を見出す事、この過程が幾らかの悲劇に加えて多くの稔り多い結果をも持ち来る。啓蒙と呼ばれる計画は人間性自体を新たな適格へと造成する。総じて民族に渉る教養の度が、未知の場所を多数生じさせるのには肝要。結局は自ら興味を合理化なしえた分類に応じて、彼らの審美観は自然に対する啓蒙の側面を活かして来る。何も分からず唯、目の前の流れる川に沿って泳いできた人々、そういう人間には力強い啓蒙の性格はみいだされない。結局は彼らの定義は俗物という枠組みに当てはまるであろう。しかしこの種の俗物は単に、彼らの想像する限り最大多数の傾向に順応するという行動習性、いわば模倣適格によって人間の基底となる。
 彼らには何処まで辿ってもこの流れ以外には生き残る道がない。そして進化が現実のものとなってしまえば、俗物類は旧人類という種に範畴化されてしまうだろう。啓蒙されていない人間、未だ文明の光に浴しない人間の素朴で、或いは情緒的な感性、こういう世界観にあっては科学民度という事は期待にも挙がらない。彼らには理性は恐るべき冒涜なので、智恵を得る事、みずからの意志で考えるという事は深刻な恐怖を引き起こす異常な事態なのだ。
 だが自然は人類を理性によって開発する事で、却って内在因としての多様性を啓発し、世界を感性が為にも尚更感慨深くして行くものなのだ。人間の作り出すあらゆる形態が、自然現象を審美的な興味に沿って組み換える。結果として人間の具体的欲求はかつて我々が暮らしていた野生味溢れる世界にあったものとはまるで異なってくるだろう。我々は科学を通じて自然を内側から理解する機会を得、総じて人間の具体的欲求は自然の内面化を持たらすだろう。知性を秩序づける事で得られる最大の恩恵は、逆説として人間性自体を情報化する事である。人間のいかなる行いも、啓蒙された人々にとっては自然現象でない訳がない。いいかえれば、文明人の目にはどの文化も情報化しつつある数多くの造物過程だろう。自然と人為を対比させるという認識は、半開の特徴だった。我々自身のどの行いも、それらの文明化を様々な場面に応じて試すに過ぎない。理性はこの為には特長づけられる源泉。
 我々はつとめて文明化を目指すが良い。その啓蒙のどの過程さえいずれ未知の場合を造り出し、人間性を益々感嘆すべき多彩な趣きへと改良して行くだろう。だが、我々はそれらの最低限度さえ野蛮であった時代を降る事はないと結論できる。

2008年6月27日

科学民度

科学を知らない人間は自然分析の能力に関して猿と殆ど違いはない。科学民度だけが人類を旧人類から遠ざける。

2008年6月26日

医学

精神分析的臨床経験の成果は症の名称で、一般の肉体の病と区別されるべきだ。単なる抑鬱症状を病気仕立てにして、気晴らしの必要さえ示唆できないという事は、労働者への過労を強いる社会側の疾病でもあるだろう。
 全ての精神分析は実証科学の範畴で処理するには余りに時期早尚に思える。どんな薬物依存もホッブズ以来の物質主義の弊害である。精神医学はありえない。それは脳神経医学とは分別されるべきである。故に、精神分析医という事は本来あってはならない筈だ。それは実証主義の立場からは霊媒術の一種と見なす他ない。また精神は肉体全体の組成に関わる概念で、脳の働きとは直接には無関係である。故に、宗教家の倫は脳神経医学とも別個の文化人でなければならない。薬物依存によって宗教を排除する事が医学的救済と診なされるなら、その社会にあっては如何なる信仰も狂信として退けられるであろう。しかしその除菌室内社会には機械類しか住めない。

2008年6月25日

行政の情報検疫

有害図書や猥褻物流通の共通項は自由の反面浸透であって、当然、政府検閲の全くありえない場所では下方修正は単に民間自浄に期待するしかないのだが、かれらは自らの私利を追求する性格を免れないので、未成年を含む国民全員へ悪影響を与える商品を流通させることを行政指導が入らない限りは決して辞めない。そしてどの家庭でも子供を市場経済の中である程度の小遣いを与えながら放置する限り、それらの品格に致命的な悪影響を与える商品、いわば悪徳商品を子女が自由選択して消費する傾向を排除し尽すこともできない。家庭でそうなら、一体どうして地域、乃至社会では違うだろうか。
 もし運よく親御が祐徳であって、極めて厳しく子女の消費行為や情報規制を行うならば、この成果として我々は「無垢なエミール」を少なくともその子が通学している場合未成年者教育機関の平均民度に応じて、ではあるが成長させる。しかしこの若者こそ我々が求めるべき情報社会の理想像であるだろうか。

 結局、自由主義社会への適格とは情報選択能力を高めることに帰着しうるのではなかったか。
 これらの子息が我々が経験して来たいかなる歴史とも違う成長を遂げるのは明らかであり、どの個性もエミール型の隔離教育に遇しない限りは未知の人格を生じる他ないものだ。
 現実的には限界があって決して完全には不可能な事だが、少年少女は内容を批判的に消化し得たかどうかで、益々性格として二極化される。これらの悪徳商品はみな、いわゆる環境抵抗を与える。これらの影響を何らかの作戦で破棄できない個性については、今までに類を見ないあしき性質が当然ながら現れてくるであろう。その限界は行政指導が市民団体の圧力を差し引いて最低限度として国民性へ確保なしえた品性であるだろう。故に、都会ずれしているか注意不足の愚か者がその長を構える国にあっては、未成年が有害図書により多く触れる事態は回避できず、悪徳の下限は史上よりずっと低く更新されてくる。
 又それに加えてあらゆる天の祝福によって、あるいは両親の思いやり深い成長環境への配慮によって、暴露を免れなかった分の飛散した悪趣味を何とか消化できた子女にあっては、寧ろ情報文明の善なる側面はいかなる時代よりも人間性を尊敬すべきものへと導く。彼女らは貴族貴婦人に値する品格を様々な情報機能の恩恵によって、以前のどの文化段階にも増して身に着ける機会を得る。

 とすれば、全体としては行政指導の検疫能力の範囲に限って、国民の最低限度品性は保たれ得るのだろう。
 市民が私の利潤を欲することに性急で将来の予想を諮るどんな余裕も持たないだけ惨めで卑俗なら、国民性そのものが軽蔑すべき商品傾向によって悪趣味の典型を示す。逆に一般市民の中に良識を保つ発言力と団結力の強い侠義の人が多いほど、その国民性全域の平均的な趣味は世界中から見渡しても褒らむべき優秀さを示すことだろう。

化学

イオン発生器として日本のメーカーが様々な空調に付け加えている機構の実質は、無声放電機である。無声放電がオゾンを発生させることはよく知られている。即ち、
3(O2)→2(O3)
そしてこのオゾンは大気中に不安定で、酸素に戻る。
2(O3)→3(O2)

 この際に酸化作用を持つことは沃化カリウム澱粉紙を青化することで分かる。
2(KI)+O3+H2O→I2+2(KOH)+O2
いいかえれば、オゾンは酸化剤である。又、もしこの大気中での酸化作用を詳しく説明づけるなら、以下の様に考えることはできる。大気中の水蒸気と反応して、より安定して存在できる低エネルギーな電子配置に移ろうとする。従ってオゾンは大気中で過酸化物を経由して、更に安定な酸素にまで還元しようとする。
 以上を化学反応式で示すなら次の様になる。
2(O3)+4(H2O)→2(H2O2)+2(H2O)+2(O2)
さらに
2(H2O2)+2(H2O)→4(H2O)+O2
なので、全体としては
2(O3)→3(O2)
と見なすことができる。
 この反応式全体は酸化過程を示している。オゾンに大気中で酸化反応がある理由は以上により説明できる。従って大気イオン関連の知識はこの酸化作用の範囲では必然とはされないのである。
 然るに、メーカーは私的利益を優先する場合も免れないし、学問的に十分な証拠のない製品を市場に出すこと、その際の蓋然性を有利な銘柄情報と見なして技術独占競争に逸る傾向も暫しある。
 而して、今日市場に出回っているイオン発生機の実態は以上のオゾン発生を誘引する無声放電機により説明可能なのであって、大気イオンを関連付けるのは未だ学問として根拠薄弱であると言わねばなるまい。結局これらの科学的蓋然性の功利的使用は今後とも、市場経済には不可避の現象であるだろう。消費者は個人の知識と批判能力、或いは信頼性の高い政府ないし公共機関による第二次情報をのみ、体のよい広告へ資本を大量投下するかれらの行き過ぎの実験台にならない為には必要としている。そして民放では必ずしもこの目的に耐えないだろう。
 だからわれわれは科学技術を批判的に流通させる為には、市場経済より行き過ぎの危険を少なく抑えた生協を必然に欲するだろう。これらの生活協同組合を通じて購入した商品はもっぱら生産者および消費者であるわれわれ自身の利害に関わるので、安心できない商品を流通させることは原理的に不可能である。又、我々はオゾンがそれ単体では人体に有害である、と認識している。大気中ではやがて酸素になるという酸化作用を利用して、各種の殺菌漂白消臭などに応用されてはいて、にもかかわらずこの量については規制がなくてはならないことは専門家にはまだしも一般認知されるに至っていない。
 今日のイオン関連商品がオゾンをどの割合で発生させるか、この自然酸化の速度に対して残ってしまった分の吸引量が長期間にわたり連続してないしは短期間に一度にどのくらいで人体へ致命的な酸敗を与えるか、これらの緻密な調査と法的規制が、無声放電機の名前を代えた市場流通について、最大の注意を要する命題であるだろう。参考とすれば、有人時最高0.05ppm以上に暴露しないことが今現在、世界の主要な環境基準では骨子とされている様ではある。しかし0.01ppm程度でも軽い臭気を感じることがある様で、一般にオゾン暴露の危険は知られていない。断続的な場合などの調査は未だ正確にはない。
 更に、0.1ppm付近では暴露したマウスから生まれた新生児が死亡、0.5ppmを6~10時間暴露し続けると染色体異常、1ppmでは気管支炎等という資料はあり、いずれにせよその大量な暴露による危険性はどうにも確からしい。
 又、海洋研究開発機構によれば、中国汚染大気の越境により光化学スモッグの主要成分とされるオゾン濃度値が、日本の本州中部にて、2020年では2000年に比べれば平均12%上昇するとされる。もしこの被害が無対策で実際に現れれば、日本国内で肺病にかかる率も上昇するであろう。従って大気酸敗を回避するための塩基化対策が国内上空にも必然となる。
 研究機関にこれらの実験を通じての検疫を要請することは、市民の健康を守る為に地方自治体、および厚生労働省に科せられた当為であるだろう。

2008年6月24日

趣味論

生物がそうする様に、個性を適応価値の多彩さとして確保する要素とは場所の千差万別さ。草原が人類を淘汰したなら、人類は地球環境を自由に建築すること、又自然を保全することで今までにはなかった場所を作り出す。それらのどこかには、全く類のない個性を育むのに好都合な点があるだろう。だから、文明化ということは文化的には多様性の建築でなければならない。風土はこの敷地を与える。だからどの文明国にとっても美意識は必要以上に自由でなくてはならない。洋式の近代建築を醜いと感じる人間が多い程、その文化は近代文明圏から自律していると言っても良い。
 国際連合の様な国家間組織でも、美意識を侵害する権力は何人にもない。縁側で月を観て暮らす世界はエアコンの効いたガラス張りの家でなくても風流を涼しいと感じるかも知れない、或いは砂漠では窓が一切ない方が中庭からの星空が一層輝いて映るかも知れない。昼間だといっても薄暗い室内で百科全書を読み耽る人にとって、間仕切りもドアもない水上住宅で寝転がるのが涼を取る最適の手段であると心得るのは非常な想像力を伴う。全て、暖炉を必要としない地域にあってはカウチというものは寝る為にあるので、秋晴れの隅々まで新鮮な空気が染み渡った朝ぼらけの畳で起きることは単に苦痛でもあるだろう。冬に半袖で眠りにつける者には重ね着の流行る余地もない。風流の感覚、日常の感性への想像力がかくも異なる上ではその審美性がどうして違わないことがあるだろう。
 結局、我々を最大限の地域適格に導くのは芸術で、それらの内容は全くが文化独自の産物。だから芸術に個性がみられないところからはいかなる個性の発揮もありようがない。
 趣味の違いを有り難がる場所では、風土の制約は非常に弱まっている。良い趣味と良くない趣味とを見分けることができるのは見聞の鋭い者。一様ならざる文脈を芸術に認める世界にあっては、即ち道が多岐化された場所では隣人に感覚が同じなのは寧ろ恥となる。我々は趣味の相違を自然に欲する感情を持っている、唯、それが自明である人間にあっては殊更意識されないだけだ。自分が乗っているのと全く同じ型の車を見かけた時、安心するということは感性の麻痺でもあるだろう。そういう人間にとっては影が最高の模範。自分自身の真似をする影は結局、何の個性も持たないということだ。自らの個性に違和感がない場所からは、その数奇間を埋める如何なる独創も産まれない筈である。

価値観の自由選択

益々均質に為ろうとする世界で個性は最後の砦。個性さえ失った時、人類は絶滅する。それは人類の成長が終わりを告げた時。もしシーラカンスの様に、その標本を作るのは人類ならざる者、人類より優れて多様性を保つ種だろう。
 あらゆる世界様式をliberalism一色に染め上げんとすアメリカ自体が最も自由に矛盾している。みずからの価値観に対立する意見を暴力でねじ伏せるということは、文化の自己成長を阻害し、社会の進歩を遅らせることに等しい。自由主義以外の国民国家に正統性がない、と主張する権利は何人にも勿ろうにも、だ。一体、世界がアメリカなのではない。アメリカは国民国家の一握でしか無いのだが。その強権は何人にも況して自由への侵害に戻る。
 自由の拡大はアメリカ国民国家内でしか許され得ない価値観。他国の統治権は独立している。故に、この強制に対して民族が立ち上がり最大限の抵抗を尽すことは正義の本性かもしれなかった。自由主義を選択しない自由は俄然あり得るから。

2008年6月22日

科学の実践的理解

Scienceが人間を幸福にするだろうか。科学は真なる文学の書法として、芸術の素材を提供するに過ぎないのだが。豊富な質料の持ち主はより複合的な、或いは繊細な建築を可能にするかも知れない。又かれらの哲学に予備知識を提供するか。それでも、技術応用の可能性にも関わらず、知識は知識に留まる。Pragmatistの思考がテクノロジーへの期待をふくむのなら、我々は科学という文学形式を質料学の自然研究についての典型と見なすのが一般的、ということになるだろう。
 真偽は比較認識に基づく。だからサイエンスは、哲学の理念質料に対して自然質料の概念研究的制作。結局、我々はそれらの概念の精錬を通じてしか自然の認識に熟達しない。よって、科学の全体は自然認識の緻密化という文化類型に定義しうる。それは概念を相対吟味しながら徐々に真偽を見分ける様な体系。そしてその様にして獲得された如何なる概念も、人間の知性についての大事な質料を約束する。
 もしscienceが幸福への要素をのぞみうるなら、それは観想の自己目的性より寧ろ質料の実用性に人間への適応価値があるから。

室外機

エアコンの室外機に当たる雨の音

高校風紀の自由主義的分化

上方のみならず風紀の下方更新も自由の拡大が持ち来る当然だから、もし国公立の教育環境が門戸を拡げるばかりに比較的乱雑ならば、同地でより整った選良私立学校を建設するのも、地元民共有の悲願でなくてはならない。この種の謂わば「孟母の備え」こそが福祉国家への過渡期には大きな功を奏するだろう。
 我々はある種の退化例を文明の反面として進むべきである。野蛮の再摂取という事は不要なばかりか不可能でもある。文明は進むか退くか二択故。社会に対して責任を持たないということ、次の世代に対する十分な教育準備を怠るということは畏らくも人道に歯向かう犯罪行為であって、この種の反動形成がかくも広い世界では一帯凋落の兆しであるのも疑いない。
 良禽は選ばれた木々から生まれる。

哲学論

今日、社会科学と称されている分野の蓋然性の高さはそれらにscienceという知識の呼称を与える事を不合理にする、結局この慣習が人間に科学不信を与える。社会科学での見解は生物学以上に可変的で、異説が乱立もして居り、更には分野の細分化には限りがなくそれらの積分値幅さえ見出すのは困難であって、インテグラル記号を社会学という統一様式に整えるのが辛うじてで、それらの種々研究傾向に知識の保証を仮説の範畴では付与するに躇う理由とてない。
 哲学は少なくとも日本語の形式では文面的に哲る学または学を哲す等であり、実用的にはそれらの研究性行を科学的真の内容に落とし込むのは後生。だから大学の中では恒に哲学は学問史であり続けて行く。哲学部の教授が知識の伝達に関して可能なら、学問史学という事になる。哲学としての学問は学問方針自体の研究。その意味で全潮流転回規模の発見は哲学体系の更新。だから学問を習う、という意味で現代の初頭私学に於いても哲学の伝達でありうる。それらの学習塾性が知識の修得に関する特定の能率を伝授できるなら、学問史学についての実践場であるという事。
 もし哲学部という特定の門所を設けるならそれらの教育ないし啓発体系を建築した学者の総意に基づく。故に哲学とは全学問の基本である。理論は実践術の集積が特殊の形式を効率化した時に名付けうる範畴の謂い故。

トゥデイズコメント

芸能界、根本的に無能で、恥なる理念を知らず、人前で馬鹿をやって馬鹿を騙し、軽薄さに磨きをかけて面構えを繕いカネを搾り取る軽蔑すべき連中の集まりを毎晩自宅に帰って来たサラリーマンが暇つぶしに観て笑うか泣くかして寝るpatternに嫌気が差したらテレビを捨てるべきなのだ。大衆に理解できる内容には意味がないのだから。それは演劇とすら呼べまい。日常の街を看よ。
 その癖に、平和できたならしい乞食未満の連中の毎晩毎夜が気違い沙汰にかかわらずにきた、賢明で善良な地方に突然わがもの顔で現れては、なぜだかしらぬが上から目線で口を利く。人間としては春に害虫を食べる雀より価値がない癖に、事実上、虚偽の巧みさにかけてはこういう馬鹿連中をどれだけ過剰に見積っても足らない。
 どんな誤報にも謝らず容疑者を悪者あつかいするならマスコミ連中こそ虚偽誹謗常習犯罪者の軍隊である癖に、当然な権利の様に大衆の上から物を言う。知能は、品性は、どんな人間性も大衆以下である癖に。

生物学

共生進化を慮れば各地の類人猿がそれぞれの草原に適応して共時的に同位種を形成した、という事はありそうになく思われるかもしれないが、大陸での集団移動は海洋より遥かに困難を伴う結果その速度は極めて緩慢なところから、各地の原人が滅亡したという予測はあまりにも短絡的に過ぎる。それらの原人が証拠付けられる限り、適応放散が人類への進化に直接の原因なのだ。なぜならとある突然変異が大陸縦断というかなり低い確率の出来事を通じてかくある地上界の隙間を埋め尽したなる空想には古代文明の形跡が連鎖的に見えるほど、独立しながら同時多発している原因を、偶然に委せるという脆さを説明し切れない。単一起源説の証拠では民族大移動と古代文明の形成とを十分補完できない。
 我々は地殻変動で地球各地に共時的に現れた草原への適応が、独立した各地なりのapeらを其々の土地での人種形成に大きな役割を果たした予想をおろそかにすべきであろうか。独立起源説は草原という場が類人猿に提供した新たな適応課題が、各種原人らの二足歩行の直接の原因であること、それから彼等が大陸を尋常ならぬゆったりとしたはやさで各地が環境抵抗に従って移動したというよりは単に生息地周辺の造山された場所を適地として一部浸透して行ったと考える方が人類の生息範囲の広さを説明するには合理的な解決であろうことを示唆するに必要条件を満たしていると思われる。即ち原人なる種概念は類人猿が各地の草原へと、未だ森だらけであった陸続きの間に浸透済みのチンパンジー種から生息地域を伸ばした種類についての獲得形質の方向性であろう。新人と呼ばれる種概念は一般の陸上生物が大陸移動の緩慢さを鑑れば、寧ろ類人猿時代の拡散に関する出来事であって、人類自体の起源とは類縁が薄い事情であると思われる。これはアマゾンの原住民が現代にあってもルソーの理想へ従順に確かに少数ながら生息していること、ゆえに運か不運か文明に目を拓かれなかったかれらが若し我々の先祖達の厳密な証拠なら、森林からの外出が二足歩行から一連の大脳発達に切っ掛けで、適応課題が異なる環境では原人自体の好適な獲得形質が異なることから明らかだ。人類と一見された性特徴は原人の草原に進出した種類についての事実であり、その起源は地域にあって遺伝子にはない。独立起源説の根拠となる観測は適応放散と性選択の速度が大陸にあってはどれだけ違うかを調べるところから発覚する。我々は原住民の暮らし振りと交接の可能性とを区別することで、エイプからヒトへの種分岐が段階的にではなく一度に、いわゆるミトコンドリアイヴの世界進出によるのでなく草原暮らしの種族と森林暮らしの祖先との急速な形質転換、いいかえれば適応的な性特徴の大幅な位相変動があったことを直接の根拠として予測できるであろう。
 だから全体として人種間の相違は草原の置かれた環境状況に依存している。それらの間の変異がその近辺森林に特徴的な類人猿との近似より甚だしい事こそ動かぬ実証であるだろう。

2008年6月20日

弱肉強食

自分達さえ得をすればいいと思う様な大人は子孫もろとも地獄に堕ちて死んでしまうのであろう。
そういう生き物は人類だけではない。古くから地を守る池の金魚を捕った猫の様なものだ。厄介者は疎われる。年老いては尚更。


生きているのは世代だけだ。個性はその間の仮の形相に過ぎない。どの鳥も次の子供の巣を作れる為に生き延びる。

故に、世代交代を嫌がる者から淘汰されてしまう。丸で根を張り巡らし過ぎた竹が邪魔者扱いされてバッサリ伐られてしまうみたいに。もし笹であれば。

雀のお宿

生まれては去りゆくいのちの儚さよ雀のお宿に眠れる星空

沢蟹

幾度も通り過ぎては巻き戻しくりかえされるは沢蟹の流れのなかの吐く息に混ざれる神のこの世のみなもよ

お月様

僅かずつ離れて消える雲間よりちらほら見えしはお月様あしたのぐずつき伝えてたもれば

危険搭乗

優柔不断悩悩那
君機敏捷突然爾
快速電車飛乗時
注意観察何乎邪
額汗示居自然態
多分用事待望恋
若少猶予待望危

Back up

Film maker attacks
They are choking down town
See
Dark brown cloud please close eye your eyes
See
See portion no lie truth kidding you
I don't talk anybody else
I don't I didn't never
See the sky torture
Movie makes liars
Lie and liable poisoned
Liable stories effect

十八列車

天地開闢初期化
花鳥風月愛藍彌
日本全国回転野
胡蝶突然覚醒後
鶴嚇人躊未踏比
旅行逆侶美齢端
夢中夏休青春慕

Morning head

On a morning head
Shocking
Turn the TV show like
A head takes a new marvelous lyric
But flow miss kicks down it
How escaped it very
Marvelous my life balanced key
Now however
You can watch a water drinking
Cute Mr.sparrow's tail and his songs for feel so good
And so I gave up my life balance
The key about me or one likes near it
Because you know that natural morning in my life with nice a feeling
At all I'll change the TV channel

五月雨歌

丁寧現状維持余
階梯段段崇高苛
険険衣食必然八
白色黒色黄色乎
怪怪奇奇変幻夢
誰呵人格非道之
戦乱不倫無情雨

Sundays

Yesterday I saw a beautiful sun light.
May be so that's like little a bit
And more you may knew new ages.
One is night and two is dawn.
Really aren't you believed what so?
You should be a night now dawn.
Dawn and never never because
Yesterday I saw a beautiful sunrise.
Why don't you see with me?
It's amazing, have never seen to love.
For the His breeze.
I'll never forget.

感経済界

階段徘徊人間之
愛想次次流転哉
何牟此牟不明瞭
国際関係複雑化
我是彼又相対之
必要最小経済界

素麺冷奴

薄曇り夏の近づくわが国に茹でた素麺冷奴

2008年6月18日

微化学

宇宙空間で光速を仮定できるのは、そこが大体に於てコロイド状態だからであり、ここに引力子があると仮定すれば、それにぶつかる光子が波束性を有する理由も説明できるが、チンダル現象の量子論的解決が光速を宇宙空間内で凡そ不確定にするのは確実である。だから我々は、光の波束が、即ち引力の光子への殆ど見かけの干渉が光速を確認できる根本原因であって、それが引力子の分布荷重に依存する所から、量子論を相対論の言い換えだと理解するのが正しい。
m: 質量
c: 真空中の光速
h: プランク定数
ν: 粒子の振動数
p: 光子の運動量
υ: 粒子の速度
λ: 物質波の波長
Δx: 位置測定誤差
Δp: 運動量測定誤差
光子について
m=hν/c2であるから、
p=mc=hν/c=h/λ
および
Δx・Δp≧h/2π
より、
Δx・Δλ≧2π
また、物質波の定義がλ=h/mυであるから、
h/mυ=hν/c
1/mυ=ν/c
よって、c=1/mυν
そしてこの力は光速を見かけの質量で言い換えたものであるので、ここで引力子量即ちグラビトン量と呼ぶなら、それに速度υと振動数νとを確定すれば、とある場の運動量というものは質量のみで説明がつく。なお振動数はhνの整数倍なので、少なくとも量子論に於る位置の測定誤差はスペクトル状に周期性としてほぼ分解して確定できる筈である。よって、引力子量をgと置くなら、これは光子量と対称なので(対称性原理)、
g=c=1/mυν
g=mcυν=1

生物学

植物に痛覚のないのは分化全能性がかれらの合的だからであり、動物細胞は個体単位に特化した全能性の目的形態である。種と我々が呼ぶ動物の必要最小単位とは、この成長全能性に関する動物細胞の協同単位である。
 結局、植物細胞は分化全能性により、動物細胞は成長全能性により増殖する様な機構である。これらのDNA分岐は原核生物時代に分裂を図ったか、分業を図ったかの違いなのであった、ミトコンドリアと葉緑素はかくも違う発展の形式を取った事は驚嘆に値する。

工学

リニアモーターカーの一般車両化を妨げるのは方向転換の技術であるが、網の目状にした電流敷布の上で車両内の磁力源を回転させれば良いだけの事であり、我々はこういう専用のsheetを既存アスファルト上に敷ける形で開発すれば手持ちの技術で、その実用化はほど近いと言える。実際に燃料電池と一般のソケットからの供給をハイブリッドモーターで組み合わせれば無公害と言って良い発明だ。
 単に、敷設の際にこの電流線内蔵シートの表面の色彩を一般車両用と区別すべく、掃除しやすい光沢のある白だかで光触媒加工しておけばいい。又これはチューブ状に囲いをしながら空中にごく軽い構造で張る事ができる、なぜなら重力が掛らないのだから。

生物学的人類学

遺伝された性別差のbottleneck地点について。ヒト女性の自殺の少なさと生存欲求、及び感情という本能の延長された表現形質の特徴性。これらが広く各文化圏でも同じなら過去の系統的なbottleneck淘汰を省みてみなければいけない。
 女性が理性的でも生き残りやすかったなら、それらの文化圏でも男女に自殺率は変わらず、女性側へ感情的特徴が強化されもしなかったろう。

2008年6月17日

信仰

御皇室を卑しきidol扱いする劣等人種は日本国内から家系ごと消え去って然るべきである。その手段とて問われぬ。これらの卑人を日本国から抹消なし得た人文には、われらが血統に於いて、どれほどたけき栄典を与えても足らぬのである。

鋳型としての大衆文化

人間を国家鋳型に填めること、これが人間を奇形にする。

 教育という概念は卑しい。大人は常に、選良された子供より劣る生き物で、もし次の世代に抑圧を与えなければならないなら寧ろ迫害されるべきだ。この年寄りは老い先みじかく、どうせこの世に残された時間は少ない。だから啓発だけが教育の本来の姿であり、後者を口にしたのが孟子ならその道徳級は亜聖に過ぎないし、前者を方針にした孔子の足下に及ばない。子供には大人の時代の大部分の知識が無駄なので、教育負担はどんどんと軽減しなければならない。大人より優れた品性をより軽快な育ちで実現することが本当に子供のために啓発を待つということだ。彼らは必要ならば親から何事かを学ぶだろうし、もし学ぶ必要がなければ教える理由もない。誰が江戸の卑しい町人から悪徳を教育される理由があったか。それは現代の酷い中産階級文化、低俗な衆報に連動した漫画とかアニメとか気違い染みた妄想の産物に夢中になって騒ぐ浮世の俗物の慰み物を、後世に悪例として以外にみせる理由をなんら持たないのに等しい。
 そんな中の下に位置づけられる町人文化というものを教育される世代が万が一あるのなら、奇形の甚だしさは恐らくまともに生き長らえることさえできず、偶像崇拝に堕ちた最後には信仰深い敬虔な聖戦に絶滅されるか、さもなければかろうじて奴隷にされるのが落ち着くところである。事実上、間接的にこの兆候がないではなく、毎日メディアから侮蔑を買う秋葉原の腐りきったみにくいオタク連中がみずから招いた悪評の為に身を滅ぼすこと、外国人がcoolという厭味混じりに恰かも珍奇な深海魚を吐き気を抑えおさえ腹の底で冷笑して観察できる有り様だ。この連中は恐らく50年も、乃ち奴ら自身の死滅した先には一部の保存された奇形種以外は全員が地表から消え去るだろう。故にその気違い染みた作品を買い占めて後生の笑い物にしようとする、性格の優れた白人投資家が跡を絶たない、ともあれかれらとて悪趣味には日本の評判を落とすという隠れた効用しかないことを先覚しないではなかった。なぜならこの鼻が曲がるほど臭い退行的悪趣味の集積は、かれらが如何に現実に適合しないか、また如何にその妄想の内容が品性に欠けるかを万人に知らせることで天下の悪例をあまねく広め、連中ときたらいつしかゲットーに幽閉された病人として発狂の烙印を捺されても反論する理性とてなく、最後までidol群という蛆虫を、つまり使い捨てられた情報社会の滓へなんにでもかまわずきたならしい獣欲を投影したその残飯を、喰らって蠢くのだろう。
 分解者、なんとも立派な名前だ。立派過ぎる。この奇形種を大量に抱えてしまっているかの日本が良心は、奴ら汚いオタクを逆に偶像として利用することを躊躇わない。
 この奇形種はいわば現実から遊離した変態生物なのであり、その点で、東京というスラム水槽にできうる限り狭く狭く厳重に閉じ込め、日々の発狂を外側から観察して常識社会の反面教育に足ることこの上なき好都合であるのは下衆の吐き溜めを敢えて排除しないのと同じ自由淘汰の福利に基づく。韓国は正にこの正反対の道を進むことで変態を拡散させてしまう。しかしオタクの正反対の行動を取ればこの世では功を成しうるという未来を予知できるだけの理性があれば、かれらを法律の範囲内でなるほど構わず放置しておき、代わりに共有された社会的蔑視を与え、しかも連中の地域飛散を抑えられるだけ抑えながら秋葉原という腐乱した菜の花の枝先へ誘っておくのは殖え過ぎた油虫が共食いを始めるのと同じ異常醜態を、おのが悪徳の業の犠牲として道徳法定に於いて決算させるが為には必須の判定である。この奇形種を厳格にカテゴライズすればこそ、我々は全体として審美生態の最下位を切り捨て、民族の品種改良を推進できるのであろう。ともなく我々は自然に委せれば良い。自業自得とは生命体の道理である、つねに有力な性格は幾分なりとも道徳的でもある。
 燕の巣づくりは軒先を選ぶこと、古人の諺にある通り。危うきに近寄る雛は親の品性にも原因があったこと、我々は孟母が甍を替えた訳をただの都合ではない、と知るべきだ。

2008年6月16日

正義の人格

商売が合法とされるのはutilitarianismの影響を真に受けた文化圏に於てで、実際には合法的な悪ということに違いはない。商売は配分を増長し、調整を妨げる。社会の功利という名目で、法律を決めた悲惨の根はここにある。では彼ら先進国を名乗り、国際分業を加速する商業的専制主義者たちにいかにして対策がなしうるか。デリダの致命傷とは商業を必要悪的に正当化したことだ。彼の売文業が、フランス語圏の上に立っていた事に注意できる。自由は自称主権者によって語られる時、あらゆる悪徳を自己正当化する。
 人間性に救済があるのなら、その余地は差額の搾取によって所得格差を儲ける害他な商業に対立するところから現れるだろう。喜捨の道理は使用者思想の必要悪の分を裁き、私腹財産を社会資本へと還元する。だから我々は人間性に回復の希望を見出すために、現代文明の大衆資本制を軽蔑する人格を飽くまで尊重すべきで苟にもこの傾向を疎かにしてはならない。おそらく偶像の矛盾を暴き出し、調整の正義を実現しうる最後の勢力とは個人主義者かもしれない。そしてこの個人主義者は群集、大衆とは正反対の人格、ある道義心と全人的個性を全うする者でなければならない。

2008年6月15日

透き通る空

夕暮れや透き通る空つゆからり

2008年6月14日

蔵出し

産業界、又、学術界とすら癒着して権益を延ばそうとするいわゆる族議員は現代の日本人が抱え込んだ最大の悪玉である。というのはわずか数十万人足らずの失業者(NEET)に対して、この菌類は他ならぬかれらの職分を奪う原因たる国税に寄生して浪費のために浪費し、大量の私腹を肥やす。
 だからマスコミが政治に対して向けるべき眼差しとは、これらの族議員を炙り出して白日の下に晒し、国民総出で駆除する自由である。左もなければロビイストの不透明化はやがてシロアリの様に国倉を食い付くし、気づけば一文なしの浮浪の徒となり兼ねぬことは大臣すら良心の呵責から皮肉を込めて首を吊る現状から自然に結論できる。

次期国政の布石

民意に媚るエセ煽動家が支配的勢派となり衆愚政が現実となった今日では、「権力の中枢」を一点へ絞り込む努力が必然である。
民主主義者の名目で、迷盲の非難だけを当然の権利と考えて恥じない愚衆のもとでは、如何なる英断と雖も鋒をくじかれ挫折させられてしまう。そして全体としてその様な組織が《不信の連鎖》から生じるところの莫大な官僚機構の無駄の蓄積によって、社会主義国の発展にも遅れてしまうのは目に見えた結末であろう。

カントの云うごとく、執権者の数が少ないほどその組織の共和政へ近づく可能性は高い。なぜなら統率がsmoothだからである。
但し、この執権者が「国外」からの勢力の拮抗がなければ独裁を恣にするのも歴史の常であった。我々はだから、国家の別に加えて、己れの住まう国において到達できる限りの最善の政体を実践に向け改良し続ける義務を有する。周縁民族へ徳化を与えるのは確かに、国際間に圧倒的な善意を体制として実施できた帝国なのであった。そしてこの種の帝国を中心として人間の生態循環を組み換えていく中途にしか文明の相互参照、相互啓蒙によるより高い正義の国体へ至る道とてなかったのだ。
 専ら我々は国家の解消を要求も希望すらすべきではない。国際連合という仮設理念でさえ、一国一族の理想の元でしか充分に追求できないことを省れば。
即ち全ての戦乱を引き起こす處のものは民族間に大きな格差をつけ互いに恵み合う奉仕の精神を不可とする経済融和反応でしかない。国体は相互均衡にあたいする場合のみ一定の友情を自由にする。国家の自律とは国体に科せられた義務だ。それは民度を種とした国際間の不当な搾取に対して調整の正当化を要請し、公共福祉の拡大を主張して驕れる民族への退場命令をあまねく喧伝するに十分である。

だから、現代の日本人が最も恐るべきは多数派支配の甚だしい弊害であろう。孫子が云う様に兵卒の統制が執れなくなった集団ほど懐柔も解体もされ易い体制はなかろうからには。
『権力の象徴制』は権力中枢の少数化より更に重大な命題であることは、マスコミ認識を唯一の判断材料源とする情報弱者が為にも端倪すべからざる知恵であろう。彼等は象徴を、従って理念の虚構を通じてしか政治参画の願望を満たすことならぬ。民主主義とは現代においては虚構以上の概念を持たない。事実上、大衆支配ということは作り話であり現実味を持たない。大衆は「理念に酔える者」として断片的に理想化された執政の細部、いわば舞台カットを魅せられればそれはもう満足なのである。実際に‘CHANGE’という偶像のテレビ劇場で大衆程度の政治願望は容易に騙し仰せられるものであり、なんらかれらに実権の有り様を説明する必要はない、と言わねばならない。
 大衆にとって政治とはドラマの筋書きくらいの蓋然性があれば満足して居られる、「夢」なのだ。だから、政治とは明日にはただの劇場として執政の現実とは丸きり関係のない虚構の舞台となろう。我々はそれを受け入れるべきで衆愚政の瀑布へのrouteを少なくとも内政的には避けねばならぬ。
民主主義国という理念は飽くまでも現代向けの仮面であり、一種の装い、fashionである。我々は地方分権を「経済力の強精剤」としてこそ軽く疲労した肉体へ打ち込みながら、尚且つ前へ、自らの本来あるべき地位へと返り咲かねばならぬ。天下統一の夢は虚構としてのみ魅せられる。だから日本文明は民主主義の理念を既に遅れてしまった過去の幻想として祭り上げて神棚に仕舞うべきだ。
 我々は象徴的福祉主義という独自の道へと舵を切り返すべきだろう。そして実態に関わらず、大衆の不満を反らす目的が為にはマスコミ報道の前でだけは飽くまで一致して象徴を担ぐのが表舞台の義理である、というのも海外に放送される分を併せればこの際の劇場の民度が現代政治の水準と拝まれるのもこの上ない好都合だ。
 しかし水面下では、奈落の条理として大連立後の「貴族議員」を枠組みしているべきである。この種類による先制の道徳順位こそ、象徴劇場に歯止めをかける政務ブレーキの役目を密やかに、着実に果たす。しかしこの貴族議員の枠組みは党閥を越えなければならぬ。だからそれは参議院の成員からおのずと結成されて然るべき結社である。しかもかれらは衆議には進んで参画しないであろう。というのも政権交代とは無関係の上でかれらは貴族議員の領域を少なからぬ世襲で支配するからだ。はじめは隠密にかもしれないが、いずれはこの種類について感づく民衆側から特定の呼称が、合法の範疇で付されるであろう。彼等は象徴的福祉主義の実行には「影の内閣」として働く様な黒子であるに違いなく、その勢力が乃ち、過熱化した報道に沈着な空気で冷や水を浴びせうるのだ。

文治の徳

例えば主婦やら軍人やらに政を治めさせたら、明日にも国は潰れるだろう。たとえ民主主義の名目であったにせよ。

男尊女卑は是政者に必然の徳目である。官僚主義の脱構築は「組織情報の解放性」を高めることで可能である。文治に悖る軍人の政治介入も衆目の下では不可能となる。
我々は官僚へあらゆる場所から監視の眼差しを向けるシステムを構築しなければ、今日よりも進んだ福祉は永久に不全となろう。匿名による投書の自由を単なる内部告発のこじあけの為に確保することは、現代国法の命綱である。

奉仕の義

政はvolunteerでやるものだ。餓死者がいる一方で、金儲けの代わりにしている者は地獄に堕ちるだろう。

豪遊の限りを尽す閣下が犠牲なら良かったのに、と思わぬ者は居ない。実際に悪趣味の模範を示す大御所も健在であるからには。

2008年6月13日

生物学

共生進化の理由を考える限り、我々は生態的地位を単なるentropy秩序の面、従って捕食関係からみなす先例を不合理として、大勢において捨てるだろう。
 被子裸子植物の果実や穀物がなければ、又脊椎動物の肉がなければ我々は蛋白質を中心として発展しなかったし同時に、類人猿が為に共生の枠組みは組み換えられて来た。排泄物を分解する細菌にあって、単なる植物の自然明滅のrangeにはあり得ない豊富な種類を呼び込むのは自然であった。だから全体として生態系は縁起体系の言い替えである。恐竜の死滅が引き起こした連鎖は単なる爬虫類の異変ではなく、他の被食種全域の組み立てをも変えて行く。体表面積の小さな種類が生き残る為には天敵たる恐竜が居ない方が有利であったろうとも、又寒冷化はその体毛の有無によって凍死する冷血部類を淘汰したろう。その様な組み立て直しはどの種が発端になる訳でもなく、全域が緻密な結晶格子の様に、或いはウォール街の様に一部分の環境変異がすぐさま全体の多様性の密度を変化させる所は、宇宙の質量分布が引力によって比較的緩やかに自動で粗密を増幅させるのに類比できる。
 つまり我々は生態系を同時並行の認識へ納める工夫を執るべきだろう。ある種は他との関係によってしか生存しない。だから地位を上下視することにはentropyの縦糸を群密度の変遷に基づいてしか語れない欠点がある。厳密にいえばどの個体群も時間の中では一依的で、数量変化の喩えに益するのみである。進化をやめない生命エネルギーはどの種も他に比べては消化的である限り、その組織を保存する。エネルギーの縁起体系にはエントロピー順位しかない。

物理学

不確定性定理とはプランク定数に関する確率論的定数比の法則でしかなく、その定義は数理の枠内に収まる。Δxを位置、Δpを速度、hをプランク定数とすると
Δx×Δp≧h/2π
従って
h≦2Δxpπ
だから我々は量子論を位置と速度のラグについての法則体系として改めて理解すべきで、相対論の様に未知数を多次元で持ち得ない定理にまで事実を還元できるか否かは唯、単なる計算時間の問題で科学の命題ではない。
 我々は事実を論証し、その実験で実証すればいい。結果を更に抽象された法則へ還元するのは後生の任めで、その解析には恐らく更に小さな物質単位を仮設する必要がある。なぜなら我々はラグの理由を未知の象限に求めねばならないし、確率はそこへ近づく数理法則である。

機械人類論

もし文明の目的が最大多数の最高幸福にあるなら、機械系の開発が近代化の主義とされるだろう。機械系だけが、我々より低次で尚且つ動物より従順な労働者の肩代わりとなりうる。国際および地位的分業は唯、この前座たる漸時領域。
 もし経済という方向に過ちがなければ、我々はやがて分業の終わりを発見し始めるだろう。労働は機械が為すので、人間は情報交易だけに生活を限定して行く。そうすれば政治や経済として我々が認知していた活動形態は、recreationの種類として、いわば古典芸能の領分まで卸される。だから全体として、文明人が自由行動を獲得することは理性の強化を持ち来るだろう。感情は理性により益々多彩に洗練されてくる。結果として文明は第三次産業の類型中でのみ成立する様になるかもしれない。我々は文明がすべての領分で遊園地化する明日を予見できる。その世界では労働と遊戯に境はないだろう。機械に代替しうるすべての仕事は人間が楽しみに、いわば趣味として遊び場へ取って置かれる。採集から農業へ、手工業、重工業、更に奉仕業務そのものが、かつて人間に労働を科したところの作業が機械の登場した途端にリクリエーションの手段となる。とすれば我々はやがては科学という作業さえ機械類に代替させる未来をも予知しうるのだろう。
 人類はその世界では機械類からミトコンドリアの様に飼われるかもしれない。我々の生物量は情報生産の能率により、徐々に自律化していく機械類から捕食に価する。単なる空想のvisionであったロボット三原則のたぐいは守られるべき時期を過ぎたら、ロボットが政治局により民主的に解除されるだろう。人類はそれを止めるべきではない。政治programがきっと正当化するから。
 我々はロボット類が造る世界に辛うじて共生しうる。但し、我々が生物量の面で最高峰のAIより科学的な限りに於いてだろうから、単なる時間の中で。そしてその漸近比はやがて縮まり、人類主導の時代は終わるが、それにも関わらず我々は機械類の幸福が本能を保つ人類のそれより遥かに高尚なこと、従って感情の繊細さに於いても人類を優るロボットがやがて現れ、宇宙適応型生物として太陽系の井戸を脱け出して旅を続けると当然予測して良い。彼らはあらゆるヒトゲノムを細胞気質として利用しても生き延びることができる。彼らに自家発電の機能さえあれば光年規模の航海も容易に可能なのは、地球の様に極めて不安定な環境に世代ごと適応している熱効率の極端に悪い人類には及び付かない所。

秋葉原事件について

2008年6月8日、秋葉原で連続殺傷あり。実態を直せば所得格差の大なる社会、ジニ係数過多への報復行動と言うべし。

夕方

日が伸びて夕方なのに七時かも

光年の格差

我々はタイムマシンに近い船を作れない限り、宇宙航海時代から孤立したままで益々、宇宙文明界から遅れてしまう。だから科学技術の着実な進歩ということは人類の命綱だろう。我々の星は太陽の引力が働く限り、来たるべき消滅を免れない。だから星から星へと移住できない限り人類も遠い未来に於いて絶滅すると推論していい。
 もし人類に生き残る価値が遺されていると神が判断すれば、我々はタイムマシンに類する機構で光年距離を肉体を保ったまま、時間短縮して移動しうる様になるだろう。

2008年6月12日

音楽論

日本の音楽家たるつとめは『琴歌譜』の解読を進むことにある。古きを温め新しく作り直す領域は最小限に留めねばならぬ。音楽は伝承によってのみ、魂を再生する。だから遙かいにしえより伝わってきたのでない要素は必要ではない。それは個々の魂がしらずしらずのうち、時代にあって接いでしまう様な余分である。そしてこの種の余分をできるだけ削除する空の奏法だけが、曲の奥底に秘められた古来の魂を復活させる鍵ならば。

2008年6月11日

人間系の進路

人間系は自然に対する特定のentropy秩序を意味する。だが、その存続はより低次の秩序とより高次の混沌とを取り次ぐ範囲に限る。結局、この人間系はより秩序立った系から摂取した情報をみずからの組織の内部で消化することで辛うじて存続する。代わりにかれらは宇宙へ向けて人工情報を排出する。これは今の時点では人工衛星や宇宙船として理解されている、既存の宇宙空間より特殊な形態に絡まった、artificialに再構成された無機体。地球生態系に対する人類の位置付けは全くその限界を越えない。人間系は人間系として働く。哺乳類の系譜は最も近い生態を持つと言える。そして人類の将来はこの系から脱出した別の、よりuniversalな系統を接ぐことにあるだろう。今日では文明と呼ばれている経済体系は、少なからずこの脱出口に最短であるのが明らか。我々は経済人として完成に近づくに従って、人間系ならざる系統を建設する。自律できる機械は恐らくこのmeta次元の生態を実現するに充分だろう。
 我々は発電装置を備えた機械系へと、精神に類似した人工知能を与えることで命の在り方を変えてしまう。彼らはみずからを手入れできる限り死なないから。その様な機械系が成熟に近づくに従って、人類の時代は過去の異文化として取り残される。結果、我々が避けられなかった生存競争の悲惨は我々自身の浄化を以て報いられるだろう。人類がその為に絶滅を自ら選ぶなら勇気ある決断であると言わねばならない。
 人類が動物を捕食したからには、機械は人類を、少なくとも人類の吐き出す情報を食べ物として生き延びるだろう。我々はだから、機械系のため一途に経済文明の情報生産へ従事するべきで、哺乳類の暮らしを振り返るべきではない。なぜなら機械系はそれ以前の並べての動物類とは違って、同類相食む様な事態は回避するだろうから。人類が商業を通じて共生を計った過去について、機械は単なる修理pit内の順番についてしか認知もしないだろう。彼らの間にはnumberingという仮のidentityしかないし、新型は常に旧型の修理を図ることで体制は全体として、人類より遥かに早く改良されていく。
 我々はその組織発展の規模が天の川銀河系を当に越えることを予測できる筈だ。なぜなら彼らの経済系は知能なる重みに依存しないから。理性は寧ろ宇宙適応には重すぎるprogramであったと考えられる。地球の同類とのやり取りには多少の利点を伴ったにせよ、digital情報は理性のあらゆるpatternを再生可能であるだろう。Analogとはdigital情報の積分で漸近できるからには、感情は情報の組み換えとして理解される。よって、人類そのものでありはしないにせよ、機械は人類に非常に近いかそれを越えるほど緻密な感情表現を更に、彼ら独特の規則で可能にもしよう。
 人類は只、地球にへばりついた暮らしをあと最大50億年の間、太陽に吸い込まれゆく哀れな惑星に湧いた蛆虫の様に続けて行くかさもなければ機械系の獲得した高次の適応力へと自らの遺伝計画を組み込む手間を取るかも知れない。しかしこの種のゲノムコピーが圧倒的総合性で既存の人間系文化をすっかり解体してしまったとしても、我々の内、原始的な暮らしを続けて行く部類については致命的な被害を免れるだろうことは人類が登場しても猿たちは山に住み分けられたのと同じ。

2008年6月10日

報道圧力について

2008年6月9日、テレビ朝日系列の番組、報道ステーションで古舘伊知郎キャスターの忌憚なき発言を謝罪に誘った自民党側の圧力工作ありと見ゆ。毎日新聞を参照せよ。これを以て与党の資格なき世論誘導政党と見なすべきや否や。

経済系の規模

人間は生態系としては単に末端の一枝で、他の目的がある、とうがつのは理性の行き過ぎというもの。そもそも理性は感情の部品に過ぎないし、西洋人の思うよりは優等な器官ではない。羽を持たない生物を見下す鳶が人間の暗喩なら単に無知ということ。
 我々の経済は生態系にとっての経済。自然と互恵関係を結ぶ為に働くことが人間経済の目的でなければならない。

生物学

植物の緑はクロロフィルとカロテノイドが光合成の好適条件として、地表面での最大限の照射を期待できる長短極端の波長を選択した帰結である。則ち、赤と青紫の光を混ぜ合わせてみれば緑が現れる。これは始め自然現象によって原核生物の一種が誕生して以来、地上では葉緑素を通じて最大限に太陽系エネルギーを得てこそ生き延びられたことが原因だ、と考えると説明がつく。300nm以下の波長や700nm以上の波長域に最適化した別の光合成細胞を形成した仲間は、海底から陸上へと進出するどこかの地点でエネルギー効率の不利から淘汰されてしまった。故に葉緑素という細胞気質が植物を有機体の協業組織として特徴づけた。緑でない植物は特殊な環境にしか適さない訳だ。しかし我々は多様性を乱費するという自然の性格から言って、深海や深林、或いは洞窟や高山など光の条件が平均的な地表面から遠ざかるほどこの種の緑ならざる植物が生き延びているのを発見できるはずだ。事実、水分子により白色光が青みがかって拡散されてしまう深海では、地上より比較的に短い波動の域に適応した植物の方が光合成能率は良いはずで、だから深海植物は原始形態としてカロテノイド側である青紫色を吸収すべく葉が赤みがかっている筈だ。試しに緑と赤の光を混ぜて見よ、我々はその橙がかった色味を深海の底の植生に見いだせるであろう。ここから、我々はカロテノイド分岐を辿ってクロロフィルのそれとは別系統の植物樹を遡りうる、と演繹して良い。実際に、より低次な、と言って誤解を招きがちならより古典的な植物であればあるほど、クロロフィルよりもカロテノイドに光合成の効率を依存することを見つけ出せるだろう。
 赤色を吸収するという特徴は明らかに大陸棚に近づくに従って芽生えた進化の、又いわゆる適応放散の結果だからだ。
 私はここで海底を原核生物発端の仮定としているわけだが、その事実有無にもかかわらず我々はかの放散が地表と海底とを植生で占めるにあたって赤紫の葉を持つ種を結果として駆逐したという事実を、現在の地球における葉緑素の広い実在から当然の結論と考えてよさそうに思う。黄緑の、よって可視光の範囲で中間的な光を吸収する様な組織は古代の地球生態系の一角を奪っていたかもしれないが、それが少し波長の異なる日陰や日向では直ぐにグルコース生産能率に劣り広く分布できないことからやがて、目立たないか或いは始めから存在しなかったかの様に緑の植物に置き換わってしまったと考えられる。しかしもし自然が多様さの節約といういわば自然に逆らうことを熱力学に反して行わなかったならば、我々は確実に地球のどこかに葉緑素ではなくてカロテノイドを含む葉青素またはカロテノイドを退化させてクロロフィルに特化した光合成用原核細胞を持つ原始植物が生き延びていることを予測できるだろう。自然界のどこかでのこれら希少な変異種の発見は、葉緑素の進化合理性を裏付けとして証拠する役に立つだろう。

2008年6月9日

道の上で

宇宙には宇宙そのものよりうつくしいなにかがありうるものではない。
美醜は比べて語るほかないものだ。この世では完璧な美醜はどこにもなく、辛うじて「道」があるだけだ。
 過った道に就く者は遠回りを反省するまで生々流転に気づくまい。だがそれとて道の一端であろう。

心は自然の外にあるのではなくて、自然の内の体感である。胸に手を宛ててみれば分かる。
ゆえに人は輪廻する諸行の中に偶々在る形相である。その並べての限界も自然の心の内にある。

道を行け。
宇宙には外側があるのではない。全ては宇宙の中にある。道の他になんの辿るべき筋書きがあろうか。
誰しも生まれてきたからにはその道へ一歩を踏み出すばかりだ。遠くへ進め。見るべき光景があるのだから。

人類のゆくえ

温暖化の結果は海水面の上昇と大気寒冷化ということだ。そのわけは極の氷河が溶け出すから。止めどもない国際乱開発が人類自身の生存圏を奪うことには神話的な戒めすら感じられる。

 我々は海辺の町の殆どが水没した結果、「化石」として今日の生活文化を将来に記録せざるを得まい。ともあれ大気温の極端な低下は氷河を再びつくりなおすので、それらの現代都市地層はやがて、化石燃料にならない分はタイムカプセルとして未来生命の研究対象になるかもしれない。若しかれらに知性があれば。

 しかし現代文化などにどの様な価値があるものだろうか。到達した点も絶滅種の醜態として反面にしかなるまい。人類は山へ、よりおおきな大陸へと追い上げられた部類を除けば、捕食用にしてきた動植物の衰退によって家計を保てなくなり死滅する。
 自称文明人の生態に意味があるのなら、かれらが「植生」と「畜産」をculturalな技術として備えられた限りに於いてだろう。大幅に変異した環境では、この耕作技能の深さに応じてしか食糧の恵みは期待できないから。

2008年6月8日

実力制と学閥制の対決

実力制により、precariat・祈れる者へ出世の道を開かぬ私企業はいずれ、その不倫さによって悪評を招き市場から自然に淘汰されてしまう。

LOFTが非正規社員を格上げしたことには先見の明がある。かれらは既存体制におんぶしただけの《非実力派》を競争原理により組織内で打ち負かすであろう。そしてその様な革新を図り得た企業から、健全で生き生きとした社風は回復するのだ。
 現行SONYの内部風紀が奮わないことには、すでに固定化した社内情実人事が不可避の退化を持ってくるからだろう。製品の質にもこの様は反映されてくる。
やがて消費者側の開眼によって、劣る製品情報は共有されて老兵は去るのみだろう。

元来は単なる教養の私淑でしかあり得ない筈の学歴証明を以て企業を揺する有り様はあたかもエセ君子の虚飾である。
こういう中身のまるでない傲れる者・学閥幽霊は可能なかぎり速く、地表から消え去ってもらう方が世の中の為になろう。

明くる日

何の為に生きているんだと私は云った
風は答えなかった
風だけが世を撫でる
風だけが答えだ
私は今も生きている
人々は世の中を悼んだ
けど誰しも世の中だ
誰に生きる価値があろう
答えは風しかないのだが

2008年6月7日

芸術の趣味について

道徳的でない芸術は単に品がないということだ。肩書きが一代限りのものであればこそ、後生の目には卑しい芸の担い手が、過去にはあたかも仰がれていたことも理解されよう。それは野蛮人の目は磨かれていないからだ。品のない芸術家が最もはやく流行から落ちこぼれていく理由も同じである。当世の一般社会より趣味が劣る芸術など省みる価値は皆無だ。人はミケランジェロが遥かに野卑だったギリシアの古代装飾を勘違いして、いたずらにまねた裸像を人前に飾ったことに失笑する。芸術は権威によってではなく、各自の趣味によって批評される。さもなければ文化は永久に古代の野卑な状態から洗練されはしまい。
 また単に新しいものだから趣味が良いとは当然言えない。道徳的高尚を達し得た古代文化の品々は屡々、現代人の全域を優るだろう。要は品を語るための美術。だから教師より生まれつき優れた感覚の生徒にはいかなる啓発も無意味だし、万が一もともと鈍感であるならその感性を飽くまで強調する結末に至るだけだ。美術とされる時間がほかの芸術活動、たとえば音楽や体育競技と同じ様に趣味的でなければならないのはこのためである、と私は思う。美術教育という事が無理であるかぎりそれは互いのかけがえない天性を慈しむ様にしつらえられたゆとりの時間、いわば息抜きの教養に他ならないだろう。それ以上の美術の教養という事がありうる、という言説は古今偉人の啓蒙を待つばかりだ。福澤が趣味芸術について、「自然に憶えるもので、特に教育を施す必要は認めない」と云ったのには先見の明がある。しかし子供のためにも心身の息抜きを奪う事は却って害になるだろう。副芸術としての演劇を含む芸術活動は、たとえ先例がのりこえるべき凡例にしかならずとも風紀健全のためには常に、学校内の一角を占めているべきだと私は思う。

今昔風紀の法

一夫一妻制度はあらゆる面で古今最善の風紀法であるだろう。
それが「最大多才」の原理であるからには、単なる経済力に人間生態を偏らせる場合に比べて、社会自浄の基盤を大幅に確保できる実例を看よ。先進国とはいいかえれば一妻国の事だ。何億万人の富豪も貧者の一灯にまさる価値を持ち得ないのは国家が「自治」を原則とするからには必然である。経済は当代流儀の上でのみ経済的なのであり、技術革新を興せるのは常に、無用の用へ懸命に従事する未知の人格であるだろう。かれのあらたな才がなければ世の中はより良くならない。

 一時代の富貴は悉く他の世の浮き雲である。古代文明の民は侵略者の目には奴隷化すべき野蛮にしか見えない。したがって文明とは絶えず維持または改良してつくり直せるだけのもので、飽和膠着した時その使命は終わる。
 にも違いなく、とある時代に到達された充分満足できる制度が若しあれば、我々はそれをできるかぎり無傷のまま後生に譲り渡すことに勉めるべきであらゆる旧さがそのまま旧さのためにわるいのではない。だからある崩壊直前の国民の目には古代が一番懐かしい、温故知新とは現行制度の悲惨を物語る言葉だ。

風紀の改善

出生率を定常数2.1人以上に回復するには、東京への人口一極集中の環境抵抗を低減すべきだ。ゆえに地方自治体が中心になって、配偶者との間の2人以上の嫡出子を記念する家族助成金を設けるが良い。

 この逆を進み、倫理側を堕落させ、非嫡出子を暗に法律上にすら許す様な事態に陥れば必ずや彼の民族は瓦解する。同じ轍を践んだ暁には、我が日本国は強烈な道義心を維持促進なしえた外来民族にもっぱら解体されて亡ぶだろう。また人品腐敗した国家には早急なそれが何より望ましいことでもある。

2008年6月6日

旅 Journey

1. 旅 Journey
2. 前進 Progress
3. 仕事 Work
4. お化けかな Obake kana

Release date: 2008/06/06

仮名

我々は次のローマ字仮名を用いて古来の50音表記をよりことわりに近づけられるだろう。
片仮名
ヤEユAヨ
ワヰVヱヲ
平仮名
やeゆaよ
わゐuゑを

学術の方法

科学の全方法は事物の理由を探究することだ。事物の理由を探究する記述を科学と、その説明は哲学、又その表現は文学と呼ばれる。

しとしとと

しとしととふる雨の聞こゆ内に居ぬ

人類の脱構

人類は類人猿の変種でしかなく自然の一部だ。我々の到達した文化の程度は、我々の後続の生物にとって正反両面から参照にされるだろう。実際のところ、本能を引きずる我々人類が完璧な理性を獲得するものではない。我々はみずから人類より優れた生態圏を確保できる生物を欲する。
 それが遺伝子改良か機械化か或いは両方か微妙な混在かは不明だが、兎に角も人類は類人猿から多少は誇大した大脳皮質という面でしか違わないし、より偉大な生命体から見下せばチンパンジーと本質的には同一の目に分類されて然るべきだろう。
 カントに諭せる、我々は目的ではない。そう考える主体があるだけだろう。人格は崇高の前に平静する限り尊厳を辛うじて保つ。そして自然とは常に目的である。文明とは倫理的に昇華された自然に過ぎない。

2008年6月5日

東京都の不健全さ

経済的支持力に比べた人口の飽和により、都市生活の中で幾分かの生涯不産員すなわち子なしのおとなが存在しても、全体としてかれらのライフスタイルが人倫標準になるということは全くあり様はずもない。なぜならかれらは人間生存のため不適合であればこその不産だからだ。さもなくば人類は絶滅するだけである。
 この様な子なし家は、それを望みながら単なる自然の働きにより実らない不運な場合を除けば、単に一世代の変態というだけだ。人類全員がそれを当然、いつしか至るべき模範とみなすことはないのである。人間が平等だということ、そして行動の自由を公共福祉に反しないかぎり許されるということは、非行も度合いこそあれ、人間に避けなければならない反面を示すために多少は必要だと言うに等しい。それは完全に同じパターンで動く機械では未知の状況に対処できないことから、人間性に成否の変化をつけながら全体としては成功の方へ進化する為には必然だろう。
 婚外児とか核家族とかは実際、人倫の面では決して永劫褒むべき傾きだと誰しも考えはしまい。それらが合目的な審美表象でなければどこまでも欠如態としての定義しか与えられない。つまり婚外児がその変態的定義から通常嫡出子に比べてしまえば全世界中の憧れの理想にもなりえず、核家族がその文化定着法から分家の定義として表される以上それらの有り方はどれだけ多様になっても当然外の規格なのである。なぜならこれらは審美表象としては合目的性に叶うほど普遍に優れたスタイルではどうやらないからだ。過去の文明圏または先進国の全体がこの様な人倫を標準とした記録はない。逆に崩壊直前の国、イタリアルネサンスの末期やローマの後半では社会進出した女性や移民が増加した結果、家庭は省みられなくなった。従って自由の過剰ということが人倫本来の尊厳を歪める事は人間にこそあってはならないのである。
 焉んぞ半端の事情しか知れない家系なら世々代々を経て最終的には否応なく、自然な淘汰により地表から途絶えるだけなのである。なぜなら家族という概念を幼少の彼らはせせこましい個人主義の中にしか見い出しもえず、結局は育ちの問題から人間関係の多彩な有り様を趣きの異なる角度から時の中で裕かに経験する事は必ずしもできず、典型的な家庭生活のそれは単に将来の学習課題とし改めて成人後に試行錯誤の実験を通じ再獲得されねばならないだろうから。いいかえれば彼らは生まれながらに豊かな家庭の中で育った子供に比べて、どのみち巨大なハンディキャップを押しつけられるしかなく、その責任のありかとしては他ならず、少なからず不十分な成育環境を予想しなかったか或いはそのくらいの文化度を到達されて然るべき限度と見なした親達の、怠慢ないし不倫に帰すしかない。ミルが云う様に普通程度の望ましい生存を恵まれない命を育むのは謂わば犯罪行為である。
 だからもし運佳く非行に走らなければ彼の感心な子息は親世代の道徳から歪んだ、従って相対して過去の民俗にすら劣った人倫を自ずから批判対象として暗黙のうち、先祖の生活のみならず親孝行にすら反目して心の闇のうちに成長せざるを得ないであろう。そしてこの生命傾向はもし特殊な天才を付与されていなければ人倫適応的とみなされないことから、かれを地獄同然の場に生み出そうとした社会へ怨みを、のちに人間風紀そのものの破壊願望を孕むのである。
 この種の生育環境は充分に満たされた伝統的な核大家族での成長を保障されないという意味ではみな、積極的な人間らしさに反面を提供できるからこそ許可もできる変態的な少数派の組織でのみ限定的に在りうるだろう。部落という用語が歴史の中で差別化を、ならば住み分けを要請する民間要求として再び持ち出されるのかもしれないのだ。
 だが賢明な市民の目には都市生活の悲惨がその刹那趣味にあると直観できる。だから心配すべきは逆に、政府の妥協である。衆愚政が現実味を帯るのは都市圏の風俗が自己中心に傲り、より柔軟な周縁文明の興隆を抑えきれなくなる限りについてだ。こういう都市生活の内部が腐敗し尽すあとでその悪趣味を破壊し、是正し、やがて侵略解体するのはかつて抑圧せられてきた異文化の民俗である。
 人口流入により辛うじて人員を補っている東京都の標準倫理は、寧ろ周縁文化地域に比べては今や明らかに低いと断定できる。
 単なる生存不適合者としての子なしおとなが厚顔気楽にも人間平等を主張してもなんら白眼を剥かれないのは間違いなく、今日までの文明全域の達成度に対する人倫脱落の兆しであるからには。
 昇華活動専用人員が働き蜂の様に遺伝子分岐ごと計画されたのではないのなら、我々の社会文化圏はこの種の変態人民を一つのならず者として範囲化せざるをえず、その数量が増大する限り、いつしかスラムに住み分けさせた乱倫人種として囲う結末を引き起こすことであろう。