商いの第一の徳は、奉仕である。
この相手方へのサービス精神があってこそ、返礼を事前に省略しても店を富ませることに人間はためらわない。それが利潤として企業内へ分配されるのも至極当然の話である。
駆け引き上手ということは必ずしも正確な繁栄を約束しない。
そうではなくて、ビジネスに限っては正直が最良の策とはこの駆け引き自体を貫く普遍の真実なのだろう。
なぜなら客人は店主との間で見えざる契約を交換するからである。
この契約書面に必要なのは、少なくとも不文の信頼だけなのだ。
国際化した場所での取引に契約書面至上主義が蔓延る舞台裏に一歩入れば、その店の品がしばしば十分ならないこと、店主は客人が欺くのを前提にして金儲けする労力を省く努力を払っているのが明らかなことだ。
一定のルールが確立されていない環境ではやむを得ざる事情からこの種の契約書を必要とするとあっても、それが誠実の表明でなければ却って恩が仇となってやがて、店自体への好感を損なうに至る。
この種の契約書面至上主義はできるだけ暗黙のルールとして経営方針そのものの中へ繰り入れるべきなのだ。
即ち、「代金の順序」をできる奉仕より先にするか後にするか、という基本的な方針にたちかえって、その場所でよりふさわしい合理化を図る方がよい。
例えば同じ条件下で競争する二つの店舗があって、一つは前金制、一つは後払い制で同じ奉仕を提供する。
前者は雑多で様々な客種を、後者は地元客などの一定の客種を安定的に確保するのにより有益だろう。というのは、受ける奉仕が事前に予想できない場合、その返礼が手持ちでは気後れする可能性から後払いでは一時の客人の足はしばし躊躇するに違いない。その雑多な場所では客人側へより奉仕的となるのが前金制なのである。
松下は云う、徒弟時代に素うどん一杯の客を大事にしてくれた店にばかり通い詰めたと。
この様な、経験的な骨は取引の全ての局面に存在する。その場に応じて相手方の感動が最大限になる経営の仕方を選び取れねばならない。
もしこの勘を憶え易く要約すると『素うどん契約』と名づけられる。誠に奉仕こそは繁栄の源流である。