2009年12月31日

かえるて

いとすゞろのまちなみ返す師走な
やんぬるかなとかゐう汀の鮭
途一つならずとも辿る富士の峰
かえるてを回す夕陽は校舎照る
クリスマス賑わう訳なき俗人か

社交規制の真

社会で最も有効な社交規制は品性の程合いだろう。よって社会の品はその侭で生活感覚の洗練を象徴化する。結局、現世や暮らしで到りうる最高の理念とはそこでの高品位でしかない。更にこまかく分析すれば人に対する上品さとは彼らが趣味観での高度な的中を某の人柄や、間柄の論理へと宛て得ているなる二人以上、即ち仁の範囲での一種の社会習慣、が為せるわざなのだろう。単に人柄が丸いとか性格にとげがないとかに、何を以て真に規制すべき生活感覚かを各既存聖書へせよ省みれば、たらちねの忠恕の本旨は選れて現代的な社会習慣の趣を感慨深い唯一の社交性で穿つこと、即ち啓蒙の習性と全く以て一致する。では教育と啓蒙とでは何が違うのだろう。それは後者では後進か先輩かはたまた同級かを問わない、嗜みの機知が求まる処だ。もし社交規制としてだけ見做せば、生活感覚への注解とはみな合理的啓蒙にのみある。

復讐

どれだけ頑張っても次から次に涌いてでる
関西圏からやってくるいつもの好色麿の末裔みたいな
下劣な生き物
全国区へ下品な笑いと猥褻物をまきちらす
発狂しない方が不自然な街
秋田やら博多やら鬼畜の島中からかきあつめた
京の芸者連中を大金で堂々とうりさばく東京土民を
タレント都知事が猥褻小説用に保護する無宗教の
倭人現実社会
怒り狂う忠義の男は殺人鬼として首を絞め殺された
ご存知大王家はお溢れ申す借金で
日々をさぞ安楽にお暮らしになり
遂には責任放棄で地元に行幸なさるおつもりらしいぞ
なに? ならどうしてこれほどまでにかの
有名なる鬼畜の殿方にふさわしいお庭づくりに我々は
気の遠くなるはるか昔から躍起になってきたんだ
すべてを見ていた少年はすみやかに自殺をえらぶ

2009年12月30日

東京の梅雨

荒れ果てた砂漠を潤す温暖化
地下鉄を曳くも憚るゴミ鉱山
薮睨み出てくるものか埋蔵金
斬り捨てた後は知らんぞ御免様
止まぬ雨せまい島国の雑巾

法案論

法案として、国際連合の三権分立内での調整税は当然もちあがる。そしてイスラム原理主義者の過激派が現代行うのとは違って、現実にできる不平や腐敗の調整措置としてより格式が高いのは恐怖政治ではなく正統な討議会での機を見計らった威厳丈高な尊い提案による。だが常任理事国の寡占段階が解除できない間は、国際交渉機能が必然に貿易協定間の相身互いのおもんばかりに集まる。もし社交性の向上にみれば、この計画は商業協調よりずっと後手に回していい。なぜなら徴税を目的視しながら国連参画を試みるのは実質では、普段からの協定間の気心の知れた仲間共での交わり渉りあいよりきわめて不利で、福徳に偏差ある郷土でない海外ならいずれ嫌われ役ともされがちだからだ。英米の論理が有利なのは彼らが富や軍事力を担保に、また中国もしくは印度は人口比の生産量をみこして、西欧なら歴史経緯から覇権を主張できる所に求まる。結局、国連法案面からみれば常任理事国の解除の前にはその緩和と、貿易協定間の発言力につながるできるだけ甚大な国際経済力が必要な手段となる。今のところ極東諸島の特殊条件は巨視すれば、アジア市場母系を背景とした唯に技術面での完成度に求まりそうだ。従って、今日では国連参画は飽くまで義理と考えておいた方が妥当であり、寧ろ可能なだけ最大の内部留保率をできるだけ基盤的な耐久性の高い国内施設への圧倒的資本投機にかけて絶対死守する方が優先事項で高い判断となる。もしこの観点を誤って、母国市場の減衰や破産を伴う裏切り国際貿易化を多くの多国籍企業が一斉に謀ると、現段階ではあきらかに上述の経緯の至るところ、将来の国連発言力の土台をさきゆきなく崩してしまうことになるのだ。儒学を省みても余り品のいい趣旨では勿論ないが、手段としての国家地位、つまり国際富貴とは先ず母国の平価購買量が相対的に有徳であるという既成条件によるのが現実の社交界だろうから。この為、私の考えでは、自主的なODAをこえた国連徴税は今の段階では先延ばしにしておき、尚且つ自らは自由圏の大義である放任経済の原則を当面の建前としながら、内国的には多国籍企業への立地関税を徐々に実践していく方が随分と賢そうだ。それは多国籍企業が海外との物価差額分を余計に儲けた分だけ、また海外に本社がある国内企業への単なる居留地扱いでの地代へ上乗せた法人税率でもありうる。要するに、修正社会主義的であるという勝手派、リバタニアンどもの非難も十分予想しながら、もし買収されても生き延びる方をえらぶ愛国心には欠けた企業法人格がそれを言うのなら現段階では、わが国政府の長期計略上では彼らを化けの皮をかぶった売国の仮想敵とみなしてできるだけ不利な立地条件や評判へ国内からの投資衝動面では遠回しに追い込み、維持可能な大きな累進税率を敢えて負わすことでその心底にある忠誠度、即ち立身出世の本分を試す方がずっといい。
 さもないと一見すると、雨後の竹の子と化した今後とも益々乱立するだろう多国籍企業群が外貨獲得に貢献している様で、とある段階からは国内製率の一気呵成でしかも極端な低減、つまり忍び込み通貨北限かスタグフレーションの母市場陥没でいわゆる空洞化の地盤沈下が国内的には際限もなく進む。もしそれがマクロ金利政策も含む管理通貨の均衡で防げねば、最終的には流出しきった流動資本の為にいくらかの内部留保の設備勘定どころか、ごく少数の大株式保有者数名以外はみなが一様の失業者という暗黒の悉皆無業社会が出現する。そしてこの段階がもしもかなりの福祉国家化以前に訪れれば当然、今までのどのそれより社会不安は莫大となるであろう。さらに超長期で見渡すと、自棄になった国民の低教育に及ぶ内製付加価値面での決定的敗北の証は、光栄ある孤立の名義どころか日本人を見捨てた少数の大株主の博打ちかしい射利心のおかげさまで、まことに往路浅ましき損得勘定最優先国からの友好的ごみすて暗黒史とみなされ遠い先々まで、地球外ふくむ国連での地位や威信減耗を必然の業に貶める。
 少なからず心ある人士にはこの怪しからぬ進路を、幾らかの体面保持としての母国への貢献や調庸の受け入れよりも幸せだと見るのが難しいかもしれない。

2009年12月29日

法文論

改造された良好な行状を構築的とよぶなら、破壊されるそれを廃棄的という。もし社会や社交の要が脱構築と訳された以前との解釈のさしかえなら、我々が文明の場に観るのは結局の所、作り直しのありさまだけ。だから、初志如何に関わらず構造主義の根本論拠は今なお不確実なばかりかまやかしをふくむ。それはレヴィ・ストロースはじめいくらかの野生界への妥協や回復や反動の措置に用いられた思想段階だったが、脱構築の定義づけをデリダが詳細に行った時点で既にリクリエーションの座を解釈論側へ、既存の科学構築論潮流からゆずったのだった。さて専門家以外にもたやすい論旨に直すと、リクリエーショニストつまり趣味人は、一切の活動の持続した脱構築を肯定する。それはいわゆる遊び、カイヨワ等が主張した被抑圧への昇華活動としての遊戯行動自体を全面的に価値あるものとして擁護し、また選抜や増長する。
 人類の思想哲学、というか哲学という言葉は元々智恵、とものめぐみのあてはめでしかないのだが、その理想論がつまりは思考の遊びであり自由市民らにみいだされた理性的動物なりの最良の技術であったことを現代の社交人は、会話の趣深さのなかにもみいだす。話の面白み、とは哲学やら考えのあまねさという遊び心の浸透による。退屈する場合、かれの教養には多趣味さや品性が不足するのである。
 趣、を思想哲学の最高段階に置く事の意義は、それが冗長さや長たらしい詭弁を排し最短の一語で粋を穿つ、という詩的押韻の心髄にあるといえる。ゆえに、心に染み渡る詩の一語ずつには、現実に達辞できる最高度の洗練を施した趣味観がみいだされるだろう。我々が脱構築の潮流にみつけだす境遇は又、詩的感覚への鋭い分析力という趣味論の内部でのみ最高の段階を達する。法文解釈へとデリダがこの作為を応用しようとしたことは、長期の眼でみとおせば過ちであり、ユダヤ教の教義をキリスト教文化圏へと落し込もうとした一種の文脈改変でもあり、それが宗教と法政の混同という古代文明の名残にすぎぬかぎりはまたフランス文化の品性荒廃を及ぼすばかりだろう。
 法文原理主義への批判や可塑解釈啓蒙の意図は、法三章の現実論が心理の側にある、という道徳学説の改悪を含む。かりそめにも国政の本懐はからかいや揚げ足取りの解釈を差し挟む余地さえあるまじき、真剣で、誠心な忠節への意志である。公共倫理の実現は解釈論にあるのではない。むしろ心の側に、即ち道徳の押韻という法文へ込めた徹底した信念の元にある。独善本来の意味は、善意の純真さを己の反省の中で絶対化することである。こうして、法文脈を最もよく実践する者は又、解釈論にではなく達辞論の側に立ち、筌蹄した道徳律へのあてはめという法律本来の克己復礼の定義へと自律精神を奉仕する筈だ。だから、もし法文そのものが語句の簡略化をどれほど加えようとまだしも、到達されたいずれ文字面でなく、それを解釈する主観心の問題である精神論は幾世代もの新陳代謝にも関わらず決して失われないだろう。
 今日法律を定める者は以上の論旨を十分に理解されると良いでしょう。未来の世代は我々よりはるかに崇高な知的段階を当然達する故に、悪法と良法の差はそこに込められ復古された聖人の深慮にこそあるので。デリダの論法は述べて作らず、信じて古を好むと云った東洋の哲人の遥かに格下であることは以上からも明らか。只、その解釈界への扶養の努力は、宗教原理主義の頑固者共を詩的多義性への趣味論の範疇でより和らげられるにすぎない。

白塗り

誰なりの祈る言葉も冬めくなりき
集まりて散りぬる言葉さぐる切手
馨しきケーキ屋の前に憂き並ぶ
公に綴ろのまちに恥らふ紅葉
白塗りの欅が息する間もなし

2009年12月28日

品性の定義

この社会で最も主要な命題が如何にして最大多数へ幸福を浸透させるかにあると仮定すれば、幸福の多様さはそれ自体が目的ではありえない。最高の幸福という質的功利性はなぜ社会が複数かつ無限の適所をもつべきかにも十分な注解を加える。社会が様々な個性を要請する訳はそれが協業の際にできるだけ細部を専門化したいからだ。もしこの専門さがいらないなら誰も、個性を卓越させたがる動機づけをもたないだろう。
 これらは、最高の幸福なる命題が品的にしか定義できないこと、即ち組織か群れの共通にもつ目的感覚によると教える。もし社会の目的感覚を系の快適と定義すれば、カント的芸術論の快適の定義より軽くイギリス功利主義より重い意味でこの快適性、つまり会社あるいは結社のたくみさが推しても現実で到達できる最高の品的幸福なのだ。専門化自体は目的視できない。寧ろ細部の完成度を決めるのは組織相互のやりとりであり連絡や関連だといえる。だから専門化は効率の為で目的感覚や理由ではない。即ち、趣味の目でみれば結社の良さの方が理にかなう。もし最高の結社をみれば、そのしくみは最大多数に個性の適所をあたえるものだろうし、なおかつ上述の快適さを最大におしひろげたものだろう。趣味のよい社会が現実で最ものぞみやすい多様さの限度および彼らの個性を働かせるのに向いている意味とは、ここにある。そしてその現れ方は品性と云われる。

無業

治安より自然が大事な女脳
都税なら息子に浪費の下衆根性
自民党無業を蔑むNEET党

公営計算機論

高速計算機自体が無用なのではないのは明らかだが、問題はその「使い道」にある。どれだけ磨いた刀でも乱剣にかかれば致命傷となる。

高速計算機の価格を機能にくらべて割安にする最善のしかたは、いわゆる一般競争入札の方式をとることだろう。こうすれば、研究所ふくむ各社の潜在開発能力をひきあげる効果すらある。
(より詳細には、分割した各部の最適化をプランニングしておいて、この枠組みを最安値でつくれるメーカーをくみあげるとはやい。1メーカーの寡占ではおそらく全体を賄う費用負担によって時間の面でムダがでそうだ。
それは一括委託だと予想外に細分化が進まない、日本的な下請け体制の連結ロスにつながる。つまり職人の真の実力やつかいみちをしっているのは実務に携わる棟梁の側であっておおやけの経営者ではない。
だから直近の利益や株価の上下動にしか知識のないこの大企業のおもてだった経営陣ではなくて、専門官僚を使う発注者の綿密な計画にもとづいて「棟梁の実務能力」を抜擢する様にすればアーキテクチャはより効率化する。これが『分割発注の合理性』である)

 対して、今日の段階では、米とのすみわけの方が国際的評判にもまた安全保障にすらより親しいみちらしいのだから、普通の政府開発(おもに国防用の)とはちがって、その用途を特別の計算局で管理させることは有用だと思われる。
具体的にいうと、能力が不足した国立大学の低予算コンピューターを補う用途を、なんらかの透明度の高い公募によって開いておけばいい、と考えおくのが妥当だ。

いいかえれば非常に高純度のデータベース化が必需となる天文学や気象学の計算を、防衛関係の偵察用途が空いている間に走らせておく。この「公営スーパーコンピューター転用のいとま」を事前に考慮できる規模としてある程度充足するとおそらく、か確かに日本のシミュレーション系基礎科学の実証主義の発展は、遥か米の高国防費負担状況時より高速化できる。そしてかくの結果は、将来像について日本の宇宙展開をいずれどこよりも容易にする。

ばけもの

どうせ頑張ってもホリエモンみたく
つぶすだけさそれが
万物の精霊唯一絶対の独裁者
ばけものが
お前しか偉くないのかこの宇宙で
なにを根拠に高が僻地の
ヤンキー支配をこの島の
全体に適用しようとしたのお坊ちゃん風
ばけものが
気が狂った軍人とお間抜けな的屋
どっちかしかお前を好むものはない
バケモノが
化け物は搾取の為に生きていて
頑張るほど金を吸い取る
そして金さえ失えばあっという間に死ぬ
まるで肥え太った金づるの様に
消えろよおまえが悪魔の親玉だ

アオゾラ

お月様の上に幾多もの星屑がふるぞ
うらゝかな休みの上にまばゆい流星がふる
旅する夜の前にはまちうける木の実が
木苺のざわめきが積み上げた稲穂が
鈴蘭を鳴らし数え切れない月夜を回す
あなたは携帯の待ちうけにしずやかに
つる/\とした流し素麺が流れ込むのと
真夏日に杉林の奥で
茶店の赤茣蓙へ運ばれてきた
なんの曇りもない真っ透明な葛切りが
おゝぞらのさなかへとけだしたのを
やがてはすべての水色と共に見る
至って古風な何の取り柄もない穏やかな
古川のほとりに咲くアオゾラソウであれ
ハコバであれダイコンの花であれどこも
既に神の手の中で十分に考え込まれた
決して二つともない永遠に一つだけの夢
勿忘草が闘うのかさえも
誰も知りはしないとして

庭園の達辞

現実の有様はかなりの複雑さをみせるので、もし社会が幸福の型をいくつも用意して彼らの思想の鋳型を自由に反してでも繕ってやらねばおそらく社会活動の定義を生涯の内に納得すらしづらい。それは理性的に思考する習慣のない動物さながらである。現実は社会という系の中で営まれ、しかもその在り方は可変で一様でない。現実という経験は幸福の定義を個々人に考えさせるほど十分に寿いのちながいとは限らない。社会が自由権の即時定義としての幸福の追求を許容したとしても、もしいくつかの型すらなくせばその解放は実に無際限の夥しい多様さを人間に付せるに留まる。これらの保証する所では、性格の自由は、自律という概念を著しい数や隙に及ぶ世界の自然なうつろいを自らが決めた厳しい世界観への適合の程に集積する原料であると。この自律精神の華が咲き誇る場所でのみ、社会が寛容やら優しさを幸福への趣味観の元に結晶化できる。
 社会系で最も価値のある華は自律精神のそれである。この道理をいえば、分業の最大の合理化や可塑化とか粘土化は宇宙系の中で我々の文明がどの位置を占めるかにも密接に関連する。自律自体が斯くある如く、性格の多様さは実際には、現実社会の現象や象限で考えるだけなぜ自律の高さは構築論の下にある無数の有象無象を保証しているのか、つまり個性のごく複雑な出方はどうして社会性というその協力の意味を説明づけるのかに満足できる裏付けを与える。これは社会が個性の快適さの重なりであろうとし続ける間、個々人の間の幸福追求をいかに折衝していくかに光明を照らす観点へと思考を誘なう。現実論が教える所では、快適さの水準や基準というものは、社会性を福祉という多数の助け合いと矛盾しないかぎりで合目的だというのである。つまり、最大の快適さは端迷惑でない個性の趣味観を満足せしめる所にある。
 知性を唯一の不動の能力だと論証した者を私は無知にして知らないが、理性についてそうした者はいくらもある。だが古代では理知の境は明白でなかったことだから、本質からすると趣味観の複雑さとはありうる知的変異への想像できる最大の非干渉則に法る。知性がつねに進歩した生態を形作ると仮定すれば、理知の混同はさておき、最高の幸福という品性の目安は多数の快適さを上述の自律精神間の功利主義として追求せしむる勢いに基づく。だからすぐれた選種誘因が斯くある如くに、社会性の合目的さとは知的変異への注意深い、且つ思慮を凝らした剪定と撰良の篭絡乃至調略下にある。

 哲学不要論は結局、この観点、即ち品種の選抜を無視した知的生産性の結果なのだ。結末を見通せば、些か残念な事だが、趣味観の完成度が十分でない社会集団からは著しく不稔という意味で下種か奇種しか生じえない。この理由は、主体価値や価格という主観の学位(この学位とは格の程度に限っては必ずしも現世的な保証がある概念ではないが。小乗と大乗の説を鑑みよ)が前提とならねばどの変異も見逃されるか他の取るに足りない変種との不可避の混同で特徴の減衰を余儀なくするからだ。達辞は原則として、かれが把握している諸生の構想論に幾らかの猶予を設けたいわば庭づくりのありさまに酷似している。勝れた庭はこういう道理で、只に達人のわざ。

波 Wave

1. アスファルト Asphalt
2. 磯 Iso
3. 理 Kotowari
4. 間 Ma
5. 新聞 News
6. 川辺 Riverside
7. 海 Sea
8. 尺八 Syakuhachi
9. 三味線 Syamisen
10. 潮騒 Siosai
11. 話 Story
12. 海の写し Trace of the sea
13. 道 Way

Release date: 2009/12/28

2009年12月26日

生物学

植物戦略は次の三つにまとまる。
1. 撹乱適応型: ruderals
2. 抑圧適応型: stress tolerator
3. 競争適応型: competitor
 それぞれの特徴はつぎの様に分類できる。
 撹乱適応型は増殖に強く、競合に弱い。例、雑草等。
 抑圧適応型は安定に強く、過酷に弱い。例、大木等。
 競争適応型は進化に強く、数量に弱い。例、高山植物等。
 よって、撹乱適応型は変化場に、抑圧適応型は耐久場に、競争適応型は繁茂場に進出していく。
 且つ、これらの戦略間には次の遷移の規則がみいだされる。先ずある適所で植物は撹乱適応型の形質を身につけ量化する。次にその一系統は特定の安定場で極相化し、多くの生態部位を固定していき祖先種とは容易に交配できない完成された品種をつくる。最後に、この特定品種の変異中から全く新しい適所へ偶然進出するものの内、その適応放散現象後の定着に成功した一部の種によって全く新規な形質、つまり植物的進化を生じる。
 これらには順に、量化遷移、品種化遷移、進化遷移と名付けられる。

どんぐりさん

誰の為に咲いたポインセチア
山鳥の運ぶ手紙はどんぐりさん
透き通るガラスに映る青空よ
秋月の運ぶ祈りか川面の音
瞬くまに変わりゆく大都会のネオン

社会進化論の本質

上智と下愚とは移らず、即ち集団内に知愚の偏りがあるのは不動だとして、もし可能なら我々が測れるのはこの間にある無数の、又はごく微分な違いだけだ。ゆえ知愚の幅とは別に集団の知識量は、自体が教育とよばれる、あるクラスの属性をつくりだす働きの結果といえる。
 進化の法則と似て、汎知識化や高度な知的達成自体がこの生態を保存するのではない。言語学の内、主要な民族母系がある場合国語ともいう各民族語の推移の規則がそうであるのと均しく、単なる進化そのものが即生存の保証なのでは無論ない。しかし又、我々が生物界に分解者として観るかなり低次元の生態に留まった個体群、こういうものも業の結末としては確実に生じる。すると、社会進化論の本質は実は進歩史観にあるのではなく、成功する群を見分けること、もっといえば各集団間の成長株をつかまえる目算にある。結局、集団の知識量とはそれが用いる趣味観の程のために正しい進路をえらびとる方法である。だから知識や真理というその権威化を目的視する試みは危うい。
 社会では、高い知識を理解できる閑人がつねに限られるだろうから、というのもそこには上述のかたよりがなければならないからだが、真理の訳は集団内での最善の判断の例示、つまり進路の趣で極まる。とすれば、科学とよばれている諸種の分野の考究とはみな、進路の趣を悟る為の道具か理由なのだろう。集団の知識量は、結局最後に繁栄と没落の業を社会や生態系秩序の中で魅せるにすぎない。そして進路としての産業構造は、教養の高い群をそうでもない群から進歩させ、彼らを選種化する機能であるのだろう。

2009年12月24日

自業自得と理想段階

人類がなにを幸福と念うかに千差万別の偏りがある訳は恐らく彼らの趣味による。だから悪趣味な人民族であればあるほど我々はこれらの生命体を嫌悪感で遇する。どちらかといえば幸福の理論は主観というより、単に美意識的である。もっといえば倫理観の芸術論的側面に他ならない。
 私は幸福を論ずることを望ましい仕事だと覚えない。それはアリストテレスの独善も、またカントの信念もどちらもすでに経過した時代背景では、幸福論が上記の趣味観の違いを相当の幅で社会化してしまえること、さらには幸福自体を分析か分解できる生態地位か知的段階にいるのを自覚したからでもある。単純にいって、幸福はひとそれぞれだし生得した個性の限りは少しも動かせない。啓蒙も啓発に劣るほど、社会の多様さはどこもそれを階級論をこえてただの自由主義か勝手主義でゆるすにすぎない。最高の幸福や最高の趣味が定義できるなら、それはアリストテレスの曰る卓越さ、つまりやはり個性の発揮にもどる。個性間の質的高下はもし学識の程度、即ち教養量の段階だとふまえれば、世にはなるほど高尚な人物とそうでない者がいるだけだ。即ちもし高尚さを人格の目的と考えれば、単に、世界にはより学識の高い趣味人とそうでない者がいるだけで彼らの幸福度は、彼らの生態に適した活動の最適さというには他ならない。これらを理解する人物は、こう考えるかもしれない。
 どうして最高の人格者も必ずしも人間であるのか、もし彼らがのぞめば世界とはもっと高尚な天界でいいのではないかと。要するに、社会はどうしてこれほど愚劣で醜悪なのかと。種々雑多で低俗な人物がつぎつぎ湧いてでるしくみのわけは恐らくも、末おそろしい終末論へいたりはしないかと。
 ライプニッツという楽観論者の悟った世界の合目的性とはそれらの悪が、自業自得の道化であるといういわば自己浄化作用を自然界ふくむ人間業へあてたはてのものだ。私に言えるのは、社会淘汰の加速はみな善意だということだけだ。それを智恵と呼んでもいい。邪悪で卑小な生命体、かれを俗物と呼べばいいが、こういう生態を少しも擁護すべきでないし単に侮蔑で遇すればよいことだ。それで日々世界は直ぐにもより良くなる。「小子、鼓を鳴らしてこれを責めて可なり」と『論語』にある。哲学が善意であるのは、かれの学識をより広汎へ理解しやすくまとめる一貫した論述の才能を、上述の社会淘汰のうまくこまかな説明へ応用できるからだ。こういう道理で、学者兼教師という役をになった嘗ての哲学者らが観想あるいは理想を最高幸福なりと教えたことは、苟にも彼らなりの卓越した個性を自己分析すれば真理だったのだ。しかし、現代にいて、すくなくとも自覚したがる資本分業制をはかる我々には哲学的生活を唯一の理想だとは思いえず、その程度がみえるにすぎない。だから学者の中にも無限の階級がある様に、文明社会にあっても優劣やら雌雄の別はまた限りがない。だが、ジーザスが主張した様に、世界の最高権威にとってはそのどの存在も必然でありあまねく慈しみたまわれるだろうし、仏陀が諭した様に彼ら生物は支え合っておりしかも業の侭になるだろう。

戸別税

失業者からも戸別税を搾り大殿ごもる公共放送様

2009年12月23日

趣味の分析

だれもいないところでは誰もそれを理解しない。だから世界に理解がある、とは知的生態のあるという間接の権力であり、理解できないもの、或いはものごとを理解するべき知的背景に不足がある人物はかれが無知であることをひとでなしさで補うにすぎない。ひとでなしという言葉がひとを知的と仮定したところになりたつだけの限定語なら、理解しえない対象がある間はその人格は知的に不十分なのであり、また全人的でない。我々が真っ先にみいだすのは、有限の生涯時間の中で知性が達しえる十分さとはかれの理性が自己を満足せしめる程度である、なる分限の道理だ。良い意味での知的な貪欲さはこの理性の度合いに依存する。だから学ぶべき理由をみつける才能として、かの構想力なるものを定義できる。
 法文化をふくむ解析操作の解釈界をかたちづくる方法論は分析哲学とよばれてきた。が、この解釈界への詳細化なる理論への考究態度は、自明でないばかりかひとえに主観的である。哲学自体の翻訳や定義の鞍替えはおよそ無際限なばかりかどれも方法論の命題であり、そこに起こりうるのは言文間の分解率ばかりだ。だがこの分解率はそれ自体としても決して不動でない。
 もしこの宇宙に於ける最高の権威と雖も解釈界をこえての考究はなしえない。なぜなら冒頭の如く、理解はかれの理性のほどにより、しかもそれはいってみれば言文間差延のよりどころを自らのなしうる学習の目的観へあてはめてみたものにすぎないから。我々が全考究のもっともあとにみいだすのは、結果からするとこの学習の目的観というべき態度、いいかえれば処世術への悟りのほどとでもいうべき観点こそすべての人生内での学習の最終成果としての真実である、といういわば結論だ。なおかつ、人生の結論とはもっとも円熟した人生観であり、それは智恵の誉れを宛がわれるにふさわしい最高の学識に適切なのだろう。簡略にいえば学習のよくない人格の人生観は慮りに浅いばかりか殆どだれからもかるく笑われるか、透かして省みられないだけの漸くつまらないものだろう。面白味をみいだす能力、嗜みとは最高の円熟に達した趣味人に於いてこそ完成する。
 とすると、初手にかえって人間がなぜ学ぶか、なぜ社会も入る自然界の様々な現象や成り立ちに教えを請う又はおのれの数理能力を当て嵌めるかといえば、それはより詳細まで世界の構造や成分、力学を広くも深くも理解し、理由を自らの理性の中へ結晶させる内に世界なる非我の有様をより味わい深く念うためなのだ。ところでそういう次元には無いにひとしいが、全能の博識者はおそらくこの趣味の度合いを我々よりはるかに高く保っているだろうから、神々しい趣味観を我々よりはるかに多く有しているだろう。分解能自体を考えるに、言文の密度は多分この趣味観の社会生物版の基となるのだろう。ゆえ分析哲学の成果のすべては、結局言文の密度を以前にもまして複合化できることになる。

湯沸かし

何事もなくと念えば恙無く夜のおとどの知りぬ八千代の篝月は
雪ふるはそれが楽しみならずとも探るまに/\よのひとちりぬる
うずつもりいつのまにやら風のまにそらへとかえりし落ち葉よぞ
午後ひとつお皿に盛りしチョコドーナツちょこんとのりて湯沸かしを待つ
海からのこえなき声はいたずらに空もわなゝく東雲のかずらに

2009年12月22日

秋月

堆く積もる嘘さきゆきなく曇る
組み伏せし数字のあいまに戦う
誤答もなければわれさきにかう夢
秋月の見る街だに知るは虚ろか
鵜飼いのよごとのしじまの羽

2009年12月21日

ザラメ

おそらに生えた入道雲みたいな
わたあめのケーキをきみにあげよう
すでに通りすぎてきたほとんどの
いまはまるで
ちょっとの間のザラメの煮立ちでした
夜おそくに吠える
わずかな遠吠えのあかしは
それが古代においてきた
野生の習性だったので
すべてが消え去るまでは
こうして霞でも食べておく方が
ずっとスマートなのだ
広がりつづける宇宙のどこかで
やはりおなじ仕事をしている
仙人級のまれびとをきみは
わたあめ製造機のとなりに見る

2009年12月19日

天体経済学

宇宙の構造は外側の文明系ほど高速度で発展することを明らかにしており、従ってこの文明がもし中間的な存在なら、つまり天の川銀河系が宇宙系の内でも中間帯に近いなら近いほどそこでより遠くまで栄え得るのは工業である。
そしてこの天体の宿命と仕事は、周縁部の極めて優れて知性化した一部の文明から高い数理集約型の原材料を輸入し、これを惑星内かその周囲の工場で加工しくみたててから、より生態密度の高く遅れた発展しかなしえない中心文明圏へ輸出貿易をはかることだ。
 これらの原則は、星内の秩序がどの文明圏に属するかによってその惑星経営の観点をきりかえるべき、臨機応変の視点を要請している。つまり属する惑星が周縁部にあればいずれ貿易の自然によってその殆どの知的活動は集約した数理発明へと集積し、他の産業は星外へと外注する方が合理的となる。なぜならその光速度比が中心圏の過疎的な文化よりも素早い展開を可能とするのだから。逆に、もしもその惑星が中心圏に属するほど遅延していく運命なら、いずれ輸入された完成製品の売り買いによってしか周縁圏と同等以上に繁栄した、か高度に技術化した生活は営めないだろう。そして中心に属した彼らが交換に与えるのは、きわめて鈍い働きと同時にいくつかの古代大文明圏によるふるきよき伝統工芸品という代価だろう。

ブランド・ロイヤリティ

淀んだ大気の僅かな隙間に僕は居る
もし大宇宙の隈なく探ってみても
見つけられる筈がない隙間だなぜなら
そこは只の空冷エンジンの機能をもたない
小さな小さな無用の空間なのだ
だがムダを排するべく君達
カイゼン・マニアは血眼になって
余計な人間を排除したがる
すでに破り棄てられた
幾多もの詩人の手記を丁寧に
拾い集めてみてもそれは
いうまでもなく一円の得でもない
勝てなきゃ話にならんじゃろが
君の目の前にいる上司はすぐにでも
この隙間を潰したがっている何しろ
それが彼式のブランド・ロイヤリティなのだから

2009年12月18日

放送権

通信放送委員会は制服組を排除し、民間の成員のみにしておく方がいい。

2009年12月17日

形而上学の現代版定義

鬼神を語らず、及び語りえないことについては云々とは同じことを言い換えていると思われる。これらの文面が語る所では、「敬遠」の論語の意味は正当な形而上学の棚上げであって、実証されざる問題は多かれ少なかれ仮説の姿でしか提出できない、という哲学探究の側面を簡潔に言い伝える意図がある様だ。
 我々が社会の、又は人間の問題を考えるに当たっては是非、形而上学の諸問題は敬遠されねばならぬのが明らかだ。これは、某時点での自然科学体系が教えられない内容は推測に留まる他ないところからも、無益すぎる議論が延々とくりかえされるのを確かめられない世界の棚上げで防止する為。故に、おもにケンブリッジ大学の宇宙物理学派が、仮定すればより多様な世界モデルが提出できる、という論証主義の範畴に入るだろう内容で語る時空間四次元以上の余った次元については深入りせず、今のところ敬遠しておく方がいいと分かる。もしこれが実証段階に入れば、つまり観測という手立てでなにかきっかけでもつかめればそうでもなくなるだろうが。つまるところ、それらの論証主義科学とは、いわば数学モデルの多様化の為だけに使うべきもので、観測技術の進展によって確かな実験結果が出るまでは真理とみなすべきでない。同様に、単なる形而上学的・後自然学的・無形的な理念考究の上で、様々な概念の内それがただの仮の言い方にすぎない対象へはよくも注意がいる。例えば老子の提出した道の概念は当人がいう様に相対的・比較論的であり特定の自然や社会の現象と対比すべきでないし、できそうにない。それは比喩だからだし、更には本の上にしかない恣意任せの筆跡が観察と実験に堪える実証概念であるはずがない。結局、我々がみいだすのは分析哲学の観点と同様に、文面の構造の主観からの直観に関する数々の詳細な考察、これはいいかたとして漢語的すぎるならもっと簡単にいえば、言葉の書かれ方というもの、をそれが置かれた文脈の比較検討によってあてずっぽうに鑑みるほかないということだ。
 結論をいえば、形而上学とは主観にもどるのだ。だから形而上学とは主観の学であり、それはもっといえば各個人の知恵の頃合いにもとづく趣味観のいいかえに他ならないのである。幼児の形而上学とは太陽が熱いめだまのキャラクターで、地面には凸凹でこぼこがあり、草は水玉を映すためのものかもしれない。しかしながら、ホッブズの眼では世の中は機械であり、その運動はすべて刺激計画的である。大阪でまなんだ書生の福沢には良かれあしかれ世界は問屋街だった。そしてヘーゲルにかかれば誰もかも歴史の証人でしかないだろう。古人のみた世界をだれも二度とみれないのは主観をつくる成り立ちがすでに環境と教育の文化条件でちがっているからだ。従って世の中には次の二種のひとしかいない。
 一人は主観をおさえて自らみた世界をできるだけ理想化しようとする者。もう一人はその世界を忠実に再現しようとするリアリストだ。ここで、前者を形而上学徒なる厳めしい名前で、後者をそのままリアリストと呼ぶとする。ならば、この二者は時間の経過と共に次の結果にいたる。形而上学徒はかれが観る世界をできるだけ理念に投射したうえで世の中のできごとを分析する癖があるので、その認識は期待に応じて次第にまた理想化されゆくであろう。そして最終的にはかれが観るどの現象ですらも、この理想の眼を通してしか感じなくなる。よって、形而上学徒がいずれ無限に遠い世代の極限ですら全知全能、が現世で到達不可能なのは絶対なのだから最低でもその似姿か近侍に就くきわめて好都合な高い知能の段階へ至るであろうという予想は、主観のフィルターという哲学の本質的達成を見通せば真に理にかなっている訳だ。もしこのフィルターがなければ自然界はなにもみせないし、みせていたとしても美しくもなければ面白味どころか不快感しか催すまい。それらはただの無目的なまでに散乱しつづけていく混沌化増大のかなり普き、熱力学現象なのだから。逆に、批判書に於けるいわゆる崇高論のありかこそ、たとえば俳句にみられる様な自然界の合目的性を直感か直知する能力、もっといえば創始者の叡智への感動が殆ど習性化した能力となった理念の完成度の上、へ求まる。世界に感動しない者は幸福に値しない、と云ったレオナルド・ダ・ヴィンチの歎きは創始者からの学び、自然哲学を志す者が常識からの嫌悪の感覚をもちこしてさえも肝に銘ずる可き重要な懸案だったのである。もしかれらが神への一途な信仰を失えば、醜さや汚穢といった神の前には存在する筈もないなんらかの自然界の変異をみのがしてしまう危険性がある。万一それが古今で最も重要なメッセージでもだ。
 これに対してリアリスト氏は当然かれの主観がそのまま投影する世の中をみるのだし、その習性をつづけていけばやがては想像できるだけ俗化するに違いない。結局ものをみる目や感じとる主体はつねに主観の学の程度、要は哲学によるのだ。
 こういう経緯で、もし幸福について少しでも知りたければ宇宙の計画者の考え、少なくともそう想定するのが適当な隙間ない合理性規則を熱心に学び取ることでしか、それらをいかに覚える可きかは少しも悟りえないことだろう。もしこの理由なる吝かならぬものを考えつくのが理性の究極根拠、即ち我々が知能に託したところの稽古の精神そのものであってもだ。
 さてこの場で明白に定義できるのは、形相界は人知に属し、しかもそれは主観論という形而上学の基盤だったということ、そしてこれらを認識しなかったアリストテレス哲学の段階は現代の共有している仮想現実の考究をなしえなかった歴史時点にあったという史的検証だ。現に我々はこれに比べて敬遠すべき仮説の実在論や観想の幸福論をいつでも回避できる形而上学状態にある。なぜならどちらもただの一趣味説にすぎず、それらが他の思想の試みやもたせた意味を奪取も支配もできはしないので。特に進化論の影響がつよい英米で知的設計論への批判考証がよく現れる背景には、主観が唯一の形而上学徒の窓であることを、史上最も本質的な形而上学の考察にみちた純粋理性批判への敬遠という逆理の業でみのがして現代をみようとする、かくのごとき軽薄さがつきまとっているわけだ。原理主義批判はすでに三批判書の中ではおよそ主観の時間根拠としての一貫した思考の格律という概念で行われている。対して時間を否定できれば我々に一貫した思考の格律、つまり筋はいらないとしても、地球型生命は時間を経過しないと呼吸もできない。信念とか信仰とか言い方を様々にかえたとしても、我々が知性以外の道徳法則を保つべき、という社会性動物としての高度な協業の意識からは全く、形而上学を素性のいい有閑者に適した友情の知識分野だといまなおみとめていいのだ。なおかつ、このまことあるひとしかどこでも信用されないのもまた不動の真実ではあるが。

2009年12月15日

米軍辺野古基地問題の一意見

アジアの治安面からいえば、あきらかに反共防波堤の役をになうのがどうしてもそこになるのだから、戦中の悲惨を二度くりかえさない為にも、米軍への譲歩を優先し、飽くまで一県民である沖縄の人々への遠いおもんばかりからもできるかぎりアメリカ世への謳歌をのぞむ方がいいか。もし今回の問題を県外移設へいざなうと、おそらくかなり遠い段階で沖縄県民へ戦禍がふたたび及ぶ危険性もあり、この騒音や軍人の基地外への仕業の弊害をはじめからおさえておきたいなら、施設の充実費を沖縄に限っては十分に見込んでおくことが望ましい。楽園ならば悪事も為す気になりえないだろうから。
 おもうに、戦中の経緯を天皇陛下がこころより安んじておられるのはお聞きするまでもなく数々のご慈悲徳行の実例からも明らかであり、この点への思慮を凝らしたなんらかの象徴の国事、和平への行いをお願い申し上げることはあしき独裁主義中国共産党への当面の愛想などよりはるかにそのみこころを賜るのに適当である。

浸歌

空に浮かぶ雲のあいまに漂う淡いあお流る
一人のこらずきえていく世の中のうそやまる
唯々諾々とききながすあらゆるものは雲よ
だれものべはしないすべてのはじまりは空
機会均等にくばられた幸せの札など何の意味も

現代風特段乃夕陽客郎
In modern pleasures they think dawned
言伝令十二分乃慨嘆乎
Poverty googles fantastic elaborates
旧態依然未開拓回堂堂
Dynamic being rock star has shout
重視沈黙囂囂各人寓啝
Chic rare rate voted windows shopping
変転自在毎午後休暇峩
Miserable between a pm I discount an acid theme

2009年12月14日

芸術論の上近代さ

誰もに納得できる論拠かはさても、世界に存在する無数の顕れの殆どはまやかしか欺きだ。それらの奥には主観の、つまり精神の消化できる情報量に準ずる秩序しかない。分けても人類の末裔がもつ感覚器は生き物共の生態系から辛うじて導いた本来は生存用のものだから、もし秩序としてもかなり限られている。要するに、主観は自然現象をかれらの感覚器の転用に応じてしか受容や知覚しない。だから数理では十分に構想できる四次元以上の、時空間より高い次元の世界はもし人類界のまなこでみなせば実在でないか、複宇宙論の仮証面でしか必要ともいえない。
 法案への懐疑を定着させること、脱構築とよばれる方法もこの原則から自由でない。主観の根拠としての時間直観は、感覚器の程に準じた世界をみせ、或いはその転用で別の秩序をしらせる。こういう原則のもとでは、真理の前には単なる感覚の転用経過があるだけだろう。だからこの文章なるメディアを介した、それか主観の属した精神量の外部拡張としての外界感受能に則した善意の最大値はつねに経営的に留まる。
 生計を営むどの生態も個別にみれば一個の経済機能であり、その恒常さは属する、周辺秩序度にもとづく。近い未来には、一生涯を研究所の中でおえる生態も珍しくないとして、彼らの社会経営はやはり生態的だ。自然に親しむと言う者のもっている、自然の意味はあまり明白でない。考え様によっては宇宙の全現象は自然なのだから。おそらく、彼らの考え内には上記の経営論の立場、もっと書き下せば入れ子造の社会学や社会客観の方法が欠ける。
 只の自然対社会とか人為の近代化論には、分析面ですらこういう矛盾があった。芸術という日本語意はこの点では深淵さに秀でる。それはうえる術でしかない自己表明の為に近代化論の枠組み、潮流を突き崩す。かくの見方に則れば入れ子造の宇宙論は可能であり、又その未来は経営論を文化経営の立場に導ける。思われるところでは文化の概念は、cityの延長である市民化としてのcivilizationとはことなりcultureからきた耕作や耕しの意味が含まれるから。そして文化経営論は文明論をその部分集合としてしかみない。文明論そのものは失われないが、扱える生態論の幅を以前にもまして宇宙化、普遍化し認識領域を広げるだろう。
 およそ地理学や地政学とよばれる学野の内にある環境への考え方の分岐、たとえばその決定論や可能論、それらを止揚した文化論などは、この他の運命論なども含めて歴史運動のもとの各生態動向を生業の移ろいのうえに見渡すか見極めるものであり、より進んだ段階では環境学をおそらく形成するだろうが、ついては特に社会性をもつ生物群のつくる環境学野を上述の文化経営知が占めるだろう。そしてこれらの知識はより包括すれば社会学の詳細にすぎないだろう。

花の名

花の名は語られることもなく
すでに大土のもとに還った
まるで当たり前の合図だったそれは
君のもっているすべての合言葉を常陸の空に
隠してしまった
ポクポクと木魚が鳴って
お坊さんがなにやらわからぬ
ありがたきお経を唱えました
だから私はまめやかな舟にのって
お空の向こうにある月のうらの古里へ
帰ります
止めなさんな
だれが言ったかしらないが
その羽は天使がおとして行ったのですよ
私らはみたこともありませんが確かに
世の中には不思議なことがあるもんです
人は国中を歩き回りやがて
どこかで同じ土に還る
そもそも
冒険家とはそういうものだ

2009年12月13日

空き瓶

絶妙なタイミングであなたは
ラッキーなチャンスを射止める
さあここが浮世です
いますぐ楽しんじゃって下さい
どこへ向けてあるくかもしれず
出口の見えない真っ暗闇の迷路を
手探りで進む
たとえすべてが出来レースでもだ
夜が明けても暗い侭の死の世界
仮想現実で囲んだ意味不明な人形共
第一ここがジパングなの
資本社会のはてしない広告ルーレットに入り込む
だれが媒体でどれが実体か
そして
私は街のどこかに隠れた空き瓶を捜し続ける
それがただの空気でも

2009年12月12日

尊王親善説

まず国王への忠誠を先にし、のちに国外の名士とこころゆくまで親しむべし。

茶道

昔はそうだった
If older that
きみは涙を流し
You'll be in cheerful means
嘘を憎み
Not in a shell but also
束の間の休日にのむ紅茶の上に
In older that daylight brightness pool of
分かちあった真心があったのに
Proof on the feeling that truth of
茶道の師匠はしずかに
Master of tea ceremony on Japan
音も起てず
Did not as all envies to get some
宵口を待つ
Nights

科学論

科学の細分化でも不動な基礎となる構えは、最も原理では数学、物理学、生物学の三本柱であり、さらにもう一段階ひいてみわたせば数学、天文学、物理学、化学、生物学、社会学の六つとなる。これらは基本科目と呼んでいい。この他にはいくつかの学があるが、おそらく今後とも知識の諸分野は無限に細分化されていく趣にあるので、それらの非実証論との混同、つまり殆ど実験で確かめられない擬似科学とのまざりあいを事前対策しておくには、学という言葉の濫用をふせぐべく単に知識という名義を冠しておくといい。我々がもし同様の食品成分の微化学分析を行ったら例えば該当食品の知識、とかその知とだけ呼べば巨視観や大局観は保たれ、今後とも殖えつづけるだろう似て非なる実験では確かめえない証明という手段をもつ数学以外の知識分野への検証に一々手間どることはない。

2009年12月10日

趣味論

言葉の問題を文面と口語の乖離か撞着にみいだそうとした分析哲学の潮流は、すべて言文分析論といいかえうる。それはおもとして現代フランスで最も進んだ段階を達してきた。伝達論で著名なドゥブレの様な一支の碩学も、同分析手法の上を歩んだ。
 日本では和辻以来、倫理学の主流は断絶した状態にあって、文芸評論の各種は明白な潮流となる前に、各先進国の著述内容の翻訳へ転じて今日に至る。
 イギリス功利主義への品的、つまり質量両面からの修正としての趣味主義は、おもに岡倉天心の美術評論からきて日本らしさにまつわる無二一元説への注釈を介して漸く世に著されたものだ。それは辞は達するのみ、という孔子の立場を推して現代の分析哲学の最終到達目標を、最短語句で最も高度な功利的中を可能とする趣味の理念に求めるところへ立脚する。だから、フランス哲学からみればこの立場は決着的かつ帰結的でありアメリカのプラグマティズムからみれば先鋭的か独創的である。これらは、また功利主義からみればさらに選りすぐって功利的か若しくはよほど審美的である。
 おそらく先々この立場へのもっとも明解な批判は、ドイツ哲学の主流である人格主義が再び以前の声高な実践理性の尊重を単なる市場資本への様々な適応をこえて、起こされるところに生じる。つまり、趣味主義はそれ自体の実用級価値が日本風な芸術力の市場適合を計る様な一つの選び抜かれた功利性の押し上げに他ならない場面から、おそらくドイツ哲学界ではカントやヘーゲルの高踏式立場への回帰としての世界政治の地球化、一国風での学術覇権規制、審美観の客体論的世界市民化をなんらかの普遍性の画策で彼のアジア型華美への抑制に及ぼす不確定論的非難や徹底したキリスト教倫理貫徹の検証を行おうとする学派を要望すると見られる。さもないと、只の文芸趣味への品性の上でも、フランス学派にさえ先を越されるだけで西欧大陸国として一向に埒があかないだろうから。
 ここからして、旧来の日本国内のおもとしては近代文芸への批評哲学との攻勢に対して大幅に遅れてくる歴史または世界法廷に於ける法案論や社会批評批判が、ドイツのどこかの学者によっていずれかなりかきわめて完成度の高い姿でうみだされてくるだろう。現状で低炭素社会化などへの、純粋な生化学面でも大いなる過ちを含むだろう独善プロパガンダも既に示されつつある某西欧優越思想の一つの典型図式かもしれない。だが、東洋風やオリエンタルな先進国の一分を念じればこの種の国連全体主義説は国家規制がない段階では決して自明ではないし、現状の多かれ少なかれ勝手な風紀を元にした国際関係場では、空想論か誤解に過ぎるのでちっとも採用すべきですらないが。即ち親善の実践に則した貿易覇権を争う政治闘争上で絶対理想主義固執は、書斎派の内心どうあれ、唯一不動の外交指標ではありえない。それは小売り貿易商の文化間価格差が完全に消滅しきった世界精神段階でしかまったく交渉進展面でだれもに不都合だからだ。
 さてこのドイツ理想主義復興の潮流は、また国連への介入をゲルマン民族やその服属を課した持たざる内陸国群へみたび無防備な国粋説を啓蒙か扇動し、多分その中での旧連合国のヨーロッパ帝国主義覇権論をおしとどめるかそうしようとさえし、彼ら自らが西洋中心思想を批判するアーリア人絶対主義の公式の独断的立場に就き直したがらせるだろう。そしてこの流れは、結局国連の最終的な分解を行う。いいかえればドイツとアメリカの、またゲルマンとアングロサクソンやその内に含まれるユダヤの相互反目の流れは、かれら全員がカント的な永久平和の世界を望む訳ではない、といういわゆる聖戦主張のたぐいを新大陸に内在されているプロテスタンティズムの倫理風土でその孤立主義心理内奥に維持しているかぎりで、真に続く。
 我々がのぞめるのは、米大陸やオセアニア含む西洋諸国の種が協調の道理に究極で欠ける、という一つの運命の気勢を、日本という世に稀な島国については徹底した思想やたくみな文化防波堤でふせぐことだ。この原則を、私は多趣味さという比較文化論の立場から十分導けると信じている。当たり前の様だが、要するに、趣味の多さを追求する中で国際貿易の黒字続きの優位を各メーカー内製率の高度に技術可塑的な功利完成度で十分に保ちながら、なお使節や勘合で摂り込んだ我々からみれば珍しい外来文物を更に自らの趣味へぴったり適合するまで和風化していく固有の工芸界追随能力の過程に於いて、決定的な多文化国土を絶えず己の芸術独創性の基盤構造とも化することは日本古来からの柔軟で外来文物へ寛容な各外来風物のそれぞれの地域風景に選好された習得と同化の伝統にかなう、一種の天心的に特別な保守の観点に我々を導くのだ。この保守性は最も進歩的である。なぜならどの国であっても主権放棄の風を前提とした不可逆文化を前提に、自らを捨て鉢らしく否定構造化することもない。そして中心を空けるという神道の伝統は、つまり神のまします座を空けておくというその現生存へのたえなる再生信仰説は、我々の国土を支配する究極の実在が諸生物の原計画主である天照大神とされた原始祖であることへの天啓あらたかな構想力の限り、また哲学的最善の趣に他ならない。もし科学知識がこの伝統に解答をみいだそうとすれば、それは生物学に於ける孤島や島嶼の宿命への社会性動物的工夫、いいかえれば外来新種への誘引適応を遂げたある種の神秘化された審美知に至る。たとえば物珍しい気候をもつ地球のはての諸島では圧倒的なまでの豊富な特殊化をそれらの形質中和への準備として、まったく生殖隔離が生じない迄は競争力より受容機能の方へ優先して淘汰させるだろう。具体的には、最も近接な渡来した祖先種への機先を最も原理的な器官の保存として、生態記憶の底へ、いわば退化の逆算としてのこす。我々が沖縄の孤島植物にみいだす在来した日本の固有種との近似、たとえば痕跡器官としてのタンポポ類の顎などはいまなおセイヨウタンポポのそれとは本質で類似していない。つまりは、生物としてみた人類の末孫が一系統としての家族種あるいは固有種を祖先にもつことは、かれらの語族の似通う文法構造に類比できるのである。そしてもし和語が分岐としての単語や語法の外接性を保つならそれが島嶼適所の宿命だったからで、我々は知性の面からかの道徳をいわば自己組織のくみかえにみるにすぎない。さもないと閉鎖社会の語族間近親交配はかれらをいずれ奇形化しきわめて衰微させるか究極で滅ぼすし現にそれらをなしてきただろう。
 日本語とは存在しないところにある、この見解はまた、日本国とは存在しないところにある、或いは日本人とはどこにも存在しないところにある、という自己を否定や利己心を究極批判した逆理の神髄を以てその最高の趣味段階に於ける無私の境遇を私達と弁証法上に一致させている。そしてこの境涯は、誰が説いたにせよ衛星的な育ちゆきだった島嶼国である彼らの内外文明格差へのその場なりに最も普遍性ある態度たる、既存にして将来への一つながりらしき伝統思想の主流だった。個性の消去に体よく成功した個人こそ最も個性的であるのと等しく、もとは農村共同体の集約労働内倫理法則であった滅私奉公の道徳律は、その文化構想の究極の設計図がいまなお神のみもとにある信念、つまり地上に於ける末孫ですらかれの精一杯の考えにもとづいてしか、いにしえのまったき条理を想起できない、という復古の規律へとどこまでも還元されるものだ。

国立

ええとこれでいいんですよね年金シュレッダーかけ
わあ揉みくちゃだ献金首脳会談
ジャマするな今とりこみ中なの浪速の喧嘩
もう少しの辛抱ですぞもうすぐ不況を抜けますからな造幣局
あそっかわかんない振りしてたわ国立赤字公邸

2009年12月9日

低炭素

新聞社低炭素プロパガンダ

肌寒さ

かなしみの声はせぬかよ枯れ木の隙間
肌寒き時を愛せりわが心
やませかなうちの上まで枯れ葉の尋ねぞ
犬ながら風を読むなり野良の由々
海の間々雲を運ぶかかむの風

忙しく吹く

あすからも忙しく吹く春風や

2009年12月8日

倭臭

道徳よりも利益をとるなり都議与党
うちわもめ隠すか潰すかこれが倭臭

統一文明の破格合理性

世界の内に複数の文明、およそ無際限な迄のそれらが見つかる、とは生態なるもの自体が定着の理論でしかないことの間接代だろう証拠だ。つまり言語の違和をこえて、小売り貿易への徴税からの制約は母文明内の定常観をいわば国民の囲い込みで果たす為だけに、この系への最小単位を標榜したがる事。国家の間の制約は、また文と言との関連づけへの注解、かの種の文化の場面ごとの差の延長もそれが土着さへの一種の擁護たるかぎり民族毎の動向には偏差、片寄り、格差、幅を設けるのだろう。
 終りでは宇宙間の移動は技の上で可能となり、また生物か有機機能をもつ造られた機械の人工情緒でかはあやふやだが、何れにしろ多文明間での交通や貿易も当然起こる。今更ひとはこの不可能さを、宇宙間の実証主義のあいまに忘れ給えない。即ち、文明間の移民は国家という旧態を遠い先には、ただ単位系としてしか顧みないだろう。
 土地定着と文化の係わりとしての母文明説は、実質はほかの社会秩序との取引を制限する策謀やありきたる作為の故に唱えられている。それは市場の囲い込みへの国民への納得をはかる勢力としての国家主義政党、なる性質が及ぼす一つの誤謬か行き過ぎなのだった。つまりは国家と政党とがかくある様に、文化への殷賑の終局では文明と政治すら同様となるし、そうある可だ。なぜなら国民という概念は、政治学の中でも土地定着という保有した固有の領土をもとにしか十分な定義を宛がわれていないのだ。民族は彼らがそうみなす語族の一部であり国民国家運動とは本質で違っている。さもなくば方言もみられないのだし、そういう異なる方言の地域間が協力することも難しくなるばかりである。
 これらから結論すべきは統一文明の脱構築はそれがもし外来の使節によってではなく内部からのなんらかの革命か改修の意図で行われる限りで、たとえば領土そのものの譲渡とか分割統治とかそういった突然変異ですら国民国家の内容にとっては、将来へ大いに寄与するらしい経世済民風演劇術だろうことだ。この論拠やら言い口を乱暴だとか危険だとか思う者は次ぎの如く考えてみればいい。外来文明で一気に占領されるか、それとも自らの意識で徐々に母国の内に複数の異文明を呼び込むかではどちらがより平安かと。
 要するに国民国家の理想は、その内に複数の語族と民族間領域とを設けるという分国統治の方針によって、今の集権的な対外防衛を基準にした体制よりはるかに、それらの合間に生じる各種の文明含む文化諸段階やそれらの重複さるべき変異のひろがりを澄みよくする。但し、私はこの理想をいますぐに国政へ転用せよとは口が曲がっても言うつもりはない。勿論これは状況が十分ととのう外敵のなさ、や貿易制限の必要なさが地球経済の必然段階としてかくの圏域へも及んでからの話だろう。たしかに、UKが分割統治の道を歩みだして久しいこと、これは特にイングランド一国の極度の合理主義化をはかる上でEU内集団的安全保障の思いやりもじ込みでも大変に効率がよく、王冠への忠誠という連合国としての体裁は、対外な危機への対応も可能とする。
 我々の諸国、いわゆる廃藩置県以前の旧国名が示す位の統治の伝統にかなった範囲で継ぎ目のない各語族が亦それぞれの文脈を走り抜けることは、東アジアのある程度の平穏が前提となるとはいえ現時点でも、地方自治の領分でまったく自由に為される方がいい。なぜかといえば、こういう諸国連合の名義としての日本を掲げるかぎりそれらのうちに無限の奥行きや変異幅があった方がむしろ、あるときの将来の地球外文明間移民にとっても、それに反する大多数を犠牲にしなくてすむだけうまいやり方だとなるので。こういうもとからある性格の違いは、諸国民の性格、もっと詳細にいえば県民性や郷土性のなかにも実に多彩にみつけられる。そんな既存の条件があるにもかかわらず、唯一の国司あるいは一地域出身の専門官僚の意図で全体を一元の目的、或いは首都再生産へ向けてのみ管理するのは害はあり益はないことだろう。それは自然に於いて原計画者やその仮説が行っている神妙な操作、或いは気候の差を無視しても香りだかい文化は不能となる作付けのわけと等しい。
 国連での会議も、いずれ同等の悟りへさまざまな試験の結果至るはずだ。つまり全体の文明化や一律の保障は多くの矛盾や反体制発生で諦め、連合国の名目でそれらの最大限の自律を最善とみなすだろう。そしてバベルへ聖書の神が行ったのと同じく、きびしい統一化ではなくゆるやかな解散化をこそよりもっと現実味のある地球文明なる目次の伝達方針な様だ、と考え直すことになるだろう。

異文明と誇示の関係

芸術場の普遍的定点性はより簡明な形でいうと珍客ある所となる。珍客はやはりそういう場所をよりえらびがちになるはずだ。なぜなら、生態か形態のごく多様でないところではかれらが目立ちすぎる危うさがある。一見では過剰装飾や自己目的化された荒廃地の如くに勘定されがちだとしても、銀河系の単位でみわたして折衝を試みる場所はやはり、芸術化が極度に進んだ、おそらく一部世界都市の中枢付近となる。もし先験を功利とみなすなら、めずらしさへよくも反応しない習癖に紛れてこの芸術化へ向けた都市文化は結局より進歩的たる。いずれ単なる高度技術化と比べればその成果は一目瞭然となるだろう。

2009年12月7日

商品開発

NHKの放送電波を任意にカットする機械を開発し、最小価格で販売すること。無駄金をこれ以上あしき国司に独占させない為に。

社会批評の性能

既存宗派と哲学の営みの差は、それらの間に論理の注解を施す速度差がつねに生じるという一点に求まる。哲学が、神の言葉自体に至ることは永久にできない。至善への注釈、これそのものは既存の知識間の見比べによる、依然にもましてよりましな道を発見する手段でしかない。
 だが信への接近という点で、おそらく自然研究にもとづく科学知識がふえればふえるほどつねに道徳律の更新がいずれ要求されゆく。もしそうせねば自然学の及ぼす無際限な個性の発見過程は、群れの中に唯一の道というものをますます見いだしづらくした結果、その集団内へ不和や反目や高見の使用化をうみだし、神官階級という古代の陋習を再び科学者への崇拝というあやまった偶像化で引き起こすことになる。ゆえいまだ曖昧な定義ではあるが精神の言葉に過ぎない、としてもなお、世に科学がいとなまれる限りは絶対的に哲学、というそれらの倫理面からの解説の作業が必要である。それは自然学を本科とする教育システムが既存知識の効率いい植え付けでしかないかぎり道徳啓発機能を十分もたないことから、宗教がそれとは別個に用意さるべき道理と相似である。尤も日本という後進の混乱した島国では、歪んだあるいはおかしな独裁者血族崇拝の因縁でこの種の教育と宗教の混同(教宗混同)が起こっているらしいが。しかし、進歩した文明、特に一部西洋諸国の様な遠い場所からみれば野蛮とは憐れみよりも能力の欠けた似て非なる奇形種への軽蔑を招くにすぎない。

 不思議ないいぶりだが、一神教理念が教える神の言葉は聞こえない。それはやはり理念なのであり、信じられるにすぎない。なぜなら我々の身体は、空気や文字面の特有の秩序を恣意的もしくは任意によみとれるだけなのだ。風の意味を知ろうとしてもそれは主観にもどる。
 もしこの徹底した神と我々との非対称さ、いわゆる絶対帰依や忠義のことわりに人心を至らせる彼我論の要因は、以上の神理念の特徴からくる。つまりそれは今日の粗雑な天体知識から述べても飽くまで自らより尊い実在への信念のことであって、およそ無限らしい宇宙では最高の知能とは仮称に留まるしかない。ある生命体が認知できる自然現象の全体は、全人類の全生態の学問的抽出総体よりはるかにずっと大きいだろう。その様な巨大精神にとっては、各種の絶滅や天体間の明滅などなんの顧みにもあたいしない極微な蠢きかもしれない。なぜならそういう生命は我々からみれば殆ど永久に生きるライフスパンをもっているだろうし、何京年のため息、とか数無量大数分の散歩とか、かくがごとき世界は宇宙規模の想像力をもてれば必ず以てありうるのである。想像できる世界はどこかで実現していると考えていい。それが構想力の本来の意図、即ちかの生長の感情的な目標だからだ。これらを考えてみれば、人生、少なくとも既存の文明のどこかでくらす個性が道徳にかなった道のりを確かに歩むに、科学そのものの習得がどうしても専門化を余儀なくするほど食糧生産力が低くて共通貨幣を通じた交換価値なる同朋出し抜きの先取権が存在する世界では、それらをまとめる能力に導く哲学の徒を十分参照する方がまだ理に叶うのは確かだ。
 日本では知識の軽視というまでしばし宗教原理主義が昂進する傾きがあったので、やはり学問たる限り哲学という総合認識の方法が人文学と呼ばれて諸知識の一系統に過ぎないものとして同等の扱いを受けてきたのがみてとれる。だが科学を重視すればするほど、同等に哲学の栄えをみせなければその集団は、当然ながら神官階級を模擬した知識階級による独占支配の二の舞に終わるのである。わが国で京都学派のめざしつつある地位とは、この種の国司的なクラスターであって彼等を除く他の国民の奴隷化あるいは暗黒時代であった中古の様な殿上支配管理であることを認識すべきだ。すべていかなることへも隠然至善の立場にあって世を批評し吟味し正邪を糾す文化教養人が、肩書の恩恵に被って中央国政へ参与するということはあるべきでない。かれらは純粋科学の成果を利口にも商圏へ援用する経営技術層に特有の符号理論的な出世率ではなく、負担理論に基づく外部監査能として、民主政治への正統派良識群からの進歩の度を超えた独裁官僚の行き過ぎへの制動機能の役割に甘んじるべきだ。さもなくば我々は哲学者という随分ひとはよいが厄介にみえる大いなる理屈屋を排斥した結果、国論を遂には知識人かそれ以外かに二分し、永久の反目とふたたび古代同然の寡占階級支配の堕落した少数派の官位独占を赦すことになり、国体の空中分解でければまったく道徳というものを失った獣類と同様の弱肉強食の社会をうみだすであろう。資本主義のシステム自体に、そして教育組織を利用した社会的符号化のさなかに、人間の人格という個性の無二さの意義を排除させ、一個の生産機械へと精神を低落させたがる悪意が侵入している。なるほど合理性は国際経済の競走条件下ではよほど重要だろうが、これはより高い自由人の境遇を事業の各部をさらに自動化する道具の工夫でうみだそうとするものにすぎず、人格の尊重という肩書や地位や財産によらない以前通りの人事徳律を否定するものでも貶められもしないのだ。
 もしほかの社会思想よりすぐれて最も自主努力を誘いやすい資本主義の中ですら完全な互恵制、助け合いへの気勢が欠けているとすれば、それは社会機能のどこかに矛盾があるのだ。そしてこういう指摘は、単にシステマティックな銘柄製造としての科学教育の連続した進歩とその産業からの人事援用による人間性加工の工程では果たされえない。社会民主主義や民主社会主義といわれる資本社会の修正論は、結局、究極では道徳という立場をいかに国政を企業間の競走条件づくりへ適用してそれらの畜生界化をふせぐかという一点へ、元々各種の社会思想をうみだした資本主義の限界命題ごと求まりそうである。

予見

世界の中で人類文明、そう呼ばしめてきた体系が如何ほど永続きしえるかは確定できないばかりか、一途に機会による。場の変わりゆきがどれ丈の烏滸ましさの上にあるかを計算できる、胡亂な諸氏のユーモアばかりか、なぜ地上の生命体共が斯くもおろそかな多くの型へと身をちぢここめたがるかにもとる。乃ち生き残るとはすみやかに只生物間共生をてひろげたがる生態系の基本方針にのりとるので、さらにはどんな余計もない。場の法律もこの原理をこえぬ。数の多さすら繁昌否かの一定点に下らずどこそれも世界とは唯移り行きのおかしさにもどる。
 もし誠、道徳のさきゆきに久きをみたくば群れの内にある諸法を修める可だ。代りに、自ら然るかくのよのうちに何故生態なる大いさの幅程を築きあげしめたか訪われるといい。理の次第、世間とは捕える被るの掛け合いでしかあり給わず臨めるのはそれらの変わり身に動ぜぬ境を予見しうる身の上ばかり。

さまようもの

A lot of species it in here, but of course
多くのスペシーズがここにあるが、いうまでもなく
You should think that also semi justice.
あなたはセミジャスティスということも考えるべきだ。
Otherwise, they must do many assemblies
アザーワイズ、かれらは多くのよせあつめもせねばならず
About that newly one in it some great things
新たな一つについてはきすてたものの中には
Of human, same sensitivity are there this
人と同じセンシティビティがあって
all kinds of menu, liability, miss agreeable, reality,
どんなメニューでも、うそ、信じられなさ、まこと、として
Didn't you, show curiosity rule able miss able not
あなたは面白みを示せず、きまりきった悲しみだって
That, all beings were
どうせ凡てがあった、つまり
Wanderer
さまようものにはね。
In the space, nut in the shell doesn't take back
そらではなにも羽くるまれない

2009年12月6日

狂詩

聖噬哢鵺鰲 遞梦悖遲餘
踉仕堂堂呶 拉麺搦搦茹
捏瞹朖朗麝 蚩蚩臀殳也
業煮戀戀麼 類匪丁寧唔

樂尓何豪華 皆人儿好乎
逹偖吝大亞 佳人儿華乎
朗朗遼俳弥 獨儿人羞恥
妙竹爆笑音 只人儿転乎

イジメ告発法案

名前の通り。

詩歌

給料ぜんぶ、国民から搾取したものだが
ぼくが子どものころ、
お父さんからもらった100円のジュース代
20円差っ引いて、やってたのは

2009年12月5日

最悪の工程

老人が権力を振るって先駆者の足を引っ張るか
それとも無理やり奴隷労働させて税を搾り取る
どちらかしかしない倭人
そしてその王を崇拝する人肉を生き埋めたがる極悪軍人
なぜこんな畜生の世界にわざわざ産まされる
天皇家は国民の繁栄を望むと言う
先ずは借金まみれのお前が繁栄しろ
こっちは朝から晩まで一息もつかずに全力で働いている
それでもゴミ漁りしかできない倭人はつまり
お前の部下は馬鹿みたいな同士討ちか
金儲けしか興味をもたない
すべてどうでもよすぎる
なんであんなに朝早く叩き起こされて
こんなゴミ虫の国へ奴隷奉仕するために義務教育を
押し付けられたんだ ゴミ虫リーダーみたいな
くさりきった馬鹿教師が独裁暴力で
教室を恐怖政治で殴り脅し裁き虐めていたあの
キチガイ空間はなんだったんだ
社会の縮図だといつもの
慶應出のどうでもいいありきたりな
中途半端な東京臭い他称美人キャスターが
きしょい老練司会のとなりでおとなしく
あたまわるい副委員長みたく座って
強者にすがってりゃ丸儲けでしたから
僕は宇宙全体の中でも最悪の工程を黙々とこなす

広告

流鏑馬やぶさめの響く境内おとなしき
人波の疼く血潮も顔なしか
にょっきりと生えたたけのこならぬビル
アトランダムにでる月か広告
人里をはなれてしずか砂浜の淵

2009年12月4日

工学

回転放物線面の特性の一つは入射光の焦点への乱反射にあり、この性質をヘッドライト状の切断面より内側にとる工夫で活かし、ソーラーセルのうら面に敷いたアルミ膜などの鏡面で一つの乱反射ユニットあたりの発電量を向上させえる。これはヘッドライトに対してボトムライト・ユニットとなづけられる。従来のフラットなソーラーパネルの表面へこういうへこみをつけすき間が最小となる様ならべるだけで、数倍の発電機能を付加できる。
 おそらく幾何学デザインのうえでは円形だけでは中間に四辺星状のすき間ができてしまう損失から、ピラミッド型のくみあわせか六角形と五角形を相互にくみあわせるどちらかの様式の方が総効率では上回るだろう。後者の場合は曲面や球面敷設にも対応できる。もしこれよりも高効率を達したければ究極ではクリスタル・ユニットというべきダイヤモンドカットを参考にした、可能な最大多角形の乱反射効果を付加すべきとなる。
 さらに、仮にこれらのいきすぎで反射の眩しさを軽減させたければ最も表層へ被せる保護薄膜は薄いほど吸収率が高いことから、むしろソーラーセルと反射面の間のほうに色塗装かセロファン状の透過調整層を付加できる。たとえば車のフロントガラスにみられる程度に、網か色または適度な曇りか摺り鏡面によって。

いなか町

め め めだかの子
なにしていんだろ水の中
おひさまぴかぴかめだかの子
しだのはしげってかくれんぼ
か か かえるの子
なにしていんだろ田んぼみち
ゆるゆるあるけばにげまわる
そらそらかえろういねのうち
み み みみずの子
なにしていんだろ町のうえ
道路をとおせばおどりでて
ねぼけてさがすは土ねどこ
と と とんぼの子
なにしていんだろ空き地にて
くるまのかわりにいまのひも
ばったをくるくるさがす目よ

地球市場動向

某国貿易の成長率のなかみは、日本か韓国から導入した技術集約型の原材料を国内でくみたて加工し、これを人件費のはなはだしい安さでごみ捨て式に、EU圏という購買力ある市場へ大量投下することによる。
アメリカ国内との貿易による伸びは、思いの外たかくない。これは孤立主義の米内ではもともと貿易嗜好が少ないうえ、穀物取引との交換をのぞけば、純アメリカ国内製の製品よりも、大量生産の原理と輸送費込み卸値を勘定し、総合して安いこともないからなのだろう。
つまり、実質は「アジアの工場」であり世界の工場ではなく、さらにいえば日韓とタイワンの移築工場地であるにすぎない。ホンコンが例外だとして、そこは一種の民族自治区なのであり、某国の一面をうつしだしているだけでまったく全体を説明しない。

これらの推論で私の発見したことは、EU圏がなんらかの恐慌でbloc経済を敷いたら途端に某国の成長率は急落し、バブル化して暴落に変わるだろうということだ。
なぜなら、食料や情報商材とことなり工業製品については購買力担保のない過剰生産による失業率の救済が働かないので、この輸出依存の平価ベース成長率とは母市場に依存するまやかしの膨張であって、国内の多くの階層へその所得が分配されないかぎりはどれほど成長率を誇示してみてもゆきつく果ては、抱え込んだ労働難民の貧窮なのだ。
共産党独裁の終了点はこの予測とまったく一致するだろう。そのとき、某国は没落するだろう。そしてこの際に起こる暴動への介入による救済をはかるかどうかは、おそらく米国の高級官僚および各ユダヤ資本の動向が左右するだろう。
ナチス以来の資本流動性の最高高が米国にあるかぎり、地球市場はそこを中心として回る。そしてこの歴史運動に対して日本の執れる立場は、東南アジア市場のその時点での平価支配力によるだろう。

 最も確率の高い変動は、EUへの打撃が米市場とインドとの旧英語圏での昼夜おかぬ協調ではかられた大幅な情報産業の優位をくずしえないだけ、いわば後進地化しだす瞬間である。
おそらくこの瞬間は、英米間の属した母市場に関する過去をひいた反目と、それにともなう国連内での米の単独行動化によるだろう。
具体的には、石油利権の強化が中東地域の一体化で現実のものとなったとき、イスラエルを守る必要のある米国は特に内陸国としてのメタン資源に恵まれないドイツとの利害関係から、国連決議における欧州覇権から離脱する。この際にEUは先にアジアを押さえ込むため共通貨幣を援用したブロックで世界の三分割を行うはずだ。

そして行動原則として受動的なインドは、もと宗主国との人種論のつながりも意識して某国より米国と協調する。よって某国はもともと対内的に仮想敵国視させてきた日本を少なくとも国際市場から排除しなければならない。
この結果、某国輸出は激減し、また原材料としての技術還入もせき止められるので行き詰まった左傾過激派は、対外侵略で販路拡充を主義せざるをえない。
日本は可能なら中華思想で抱え込むだろうが、もし日本が防衛戦を張る風を在日米軍誘導か警察防衛でみせるならその被害をかんがみて、まずはチベット自治区、つぎに朝鮮半島、それからインドへ睨みをきかせて西への侵攻を試みるだろう。
 これらを市場の動力学としてみわたせば、日本が市場において現時点でとっておくべき最良の手は東南アジア諸国の購買力平価を寡占し、その母市場の規模を某国の崩壊以前にできるだけ強化しておくことだ。
そうすれば侵略化した独裁政権が海上貿易を封鎖しようとしても、少なくとも対米協調を連盟か条約で図ることで輸入すべき食糧資源確保と、タイワンとも共通の燃料源の護持を可能とし、そして各連合同時恐慌につながるだろう最もおそるべき消費力激減によるハイパーインフレ、それに先立つ日本一国についてみれば最悪の“孤立鎖国化”だけは、母市場人口比購買力の十分な大きさで避けられる。

もし孤立鎖国が現実のものとなれば、資源の極端な少なさなる特殊条件のある我が国は、某国の持久戦によって侵略される可能性も十分ある。
食糧と資源を絶てばその極端な左傾かいつもの右傾によって自動的に内紛か戦端が現実化するであろう。そして大規模な資源を背景にもち十分に機械装備で近代化された軍備の某国とは、もし米国が傭兵を撤退させるか消極化させNAFTAを中心とした流通ブロック化をはかれば持久戦において粘り切れる可能性も低い。

『大平洋市場の指導者』としてふるまうかぎり、日本には米大陸と隣接した母市場のうえで存続性が保たれる。しかしこれを手放したりなんらかの勘違いで突き放せば、その地位はより野心的な大国に侵略され失われゆくであろう。

2009年12月1日

京の偽善

宇宙で生き残るには、常に進化競走の先頭にたてねばならぬなるむやみやたら急き立てる現世第一の愚直な価値観は疑問だ。恐竜ですら進化が即生存保証ではなかった。真に重要なのは、環境変異へあらた適応できる様な「形質の多彩さ」を種の分岐のあちこちにのこすことらしい。つまり伝統分岐の系統的豊富さが要る。民主政が地方自治を最も効き目のある自己啓発方法としているにも関わらず、中央からの上位下達をおしつけた地域主権風の天下り利権へ援用するなど実直な論理面からいってもまるで自家撞着に終わっている。
 地方を経済力、いいかえれば商業性かどうかだけで全格付けしたがる様な歪んだ慣習を、今一度過去の徳目へ照らして戒めるがいい。
 地域趣味の多様さを行政の命題としないなら、今日少しなりとも中央国政に関わるべきではない。

2009年11月30日

工学

熱交換機をエアコン様の温冷両用とし、可能な最小のコアにまとめて鍋敷き状にし、これを魔法瓶型の電気ケトルの外部層に張り巡らしたできるだけ薄く軽いコンプレッサに対して共振電源で置くごとに連動する様にして、両方の設置面には一切の金属を介さない風にみせる。かつ電気的平衡で鍋敷き状の電器側へ埋め込んだ捨て溶媒へと排出熱か冷えを向けかえ最小化する。
 即ち、超小型化した自販機の原理を、家庭用ふくむ温冷電気ポットとして季節に関わらず常用とする。これは将来、冷蔵庫を置くには狭い各種車内向けに応用できる。つまりターンテーブル状にしたホルダーへスチール缶を置くだけで再冷か再温できる。但し、なんらかの原因で漏れても感電しないだけ安全な、微弱な電流をそれ自体が冷えたり温まる溶媒が入ったホルダーの内側へ流すことしかできないが。つまり缶そのものが電気を流すのではない。ホルダーごとターンテーブル上に置けば冷えたり温められる。

物理学

光と力はつぎの三つの指数法則に集めうる。Eは仕事量、Aは引力場、cは真空中の光速とすると
光の指数法則
①c=m/A
②c2=E/m
③c3=E/A

力の指数法則
①E=m/c
②E2=A
③E=A/c3
 証明。
 万有法則m=Acをcのみを左辺に移項→光の第1指数法則が得られるだろう。質量と仕事の等価則E=mc2をc2のみを左辺に移項→光の第2法則が得られるだろう。ここで、万有法則と質量と仕事の等価則をそれぞれmのみが左辺にくる様に移項し、
m=Ac
m=E/c2
とする。これらは同値なので、
⇔Ac=E/c2
∴E=Ac3⇔花火効果式
ここでc3のみを左辺に移項→光の第3法則が得られるだろう。これを光三則と置く。
 光三則から、
c3=E/A
引力場Aを単位量1と置くと、
c3=E/1 ⇔ c3/E=1
ここでEのみを左辺に移項→力の第1法則が得られるだろう。これを力一則と置く。
力一則から
E=1/c3 ⇔ Ec3=1
また光三則から、
c3=E/A
これを前式に代入し、E2のみを左辺に移項→力の第2法則が得られるだろう。これを力二則と置く。
力一則と力二則は共にこう示せる。
E=1/c3 ∧ E2=A
また
E3=E×E2
∴E3=(1/c3)×A
→力の第3法則が得られるだろう。以上。
 これらの法則からつぎのことが予測できる。光は、巨視的には拡散エネルギーとなり、微視的には重たい質量となり、庸視的には質量当たりの仕事量つまり各種の運動となる。力は、巨視的にはとてもゆっくりとした引力収縮となり、微視的には単位量当たりで非常に弱まり、庸視的には引力場そのものだろう。
 おそらく巨視光は宇宙の果てしない広がりをその単位としての中心引力場で抑制する働きをしており、よって重くない或いは軽い宇宙系では花火効果から、仕事量そのものが少ないので起こる現象も比較一様だろう。また微視力は微小空間での極端な引力効果低減を説明するので、量子転移などの通常空間では不可能な多くの微粒子間運動も十分起こる。

競技法政

税源として近く有効な銘柄は、いわゆるメジャーな運動競技へかける抑制税、いいかえると『メジャースポーツ税』だ。
 これは、運動能力というものはいちど獲得されてしまえばあとは持続してその性癖を完成させていくしか道がない‘身体能力の袋小路’であることからも、すでに十分国際水準を越えてしまった特定能力にはそれを国内でさらに振興する意味はなにもないから。
逆手をかえせば新しい高度に洗練されたスポーツが初めて生まれる場所は、既存競技への振興がなんらかの誘因で弱くなっており、結果それらに飽きた自由市民が自分流の遊び方を考えだすことがある。(もしこれをも予測して我々が将来の独創された国技を長期勘定面で芸能特許に仕立てたければ、およそルール仕様の独占特許の様なもの、いいかえれば「国際競技ライセンス権」や「レフェリー資格の法的管理許可」が機をみて法案されてもいい。)

今すぐでもスポーツ賭博を業界への交渉によって課税前提で奨励することもできるが、現国技だけは除くほかないだろうから、現時点ではおもに外国由来のものへこの種の課金法政のある程度の開始はむしろ、国民が‘パンとサーカス’へ夢中にならない様、筋肉過剰への嫌悪感を抱かせるのにもずいぶん役立つ。
つまり公営賭博の域を最も人気の高いスポーツ複数個へまで拡げ、各種の小規模の簡易くじの如きものは財政健全化が果たせるまで今のところ、いわゆる法解釈による親告罪事情の援用にとどめて事勿れ的に多少あれ黙認しておくといい。
 すこし考えればわかるように、激化しつつある東アジア経済圏の凄まじい低価格化競争下で輸出可能な品物が「知識集約型の高付加価格製品(あるいはハイテク機器)」の中にしかおそらく何もない内国状況では、ある程度の野生な身体能力の節制は仕方ない。
日本語による教育無償にともなう過剰知識人を増産するしか、人件費が異常に安すぎるアジア国際での日本人独自の特産性をつくりだす方法はない。
だからこの種の運動専門職を目指す危険度の評判からくる特別視や、又あるクラスでの蔑視か軽視はどちらかといえば、国家全体を見渡した倫理風土面では正しいことになる。

2009年11月29日

紅茶

まちしずか紅茶のしずけさうつろいかわる

泣く子供

泣く子供嘶く嵐の度楓まごつきつゝもひとひらおりつ
朗らかに笑ふなをもそたくらみて鶴の扇に旅行くそひと
よもすがら土のゐふこも只あやしふうつろひなす憧れ
たらちねのはゝのなしとるてもやにもあらゝくなゐも梨栗そ
とどしりてあらかたしりぬ世のつづろいづくになくは揃い文の名

愀躡

邇譱闍畆齷髮樣轜謳恁遠
邁鐚涙靈緲猗零畸廼齋涎
濁靄靄湲荐餘誄幾蕷鬻瑪
皚爾髏慥謖簽儼奘鷽龠驥
諾殃曦鴉嘶潼脾靡縷縷喃
滌鐫跏儺櫟觸囑濯羸澪畸
邀邇縱駲邁緞通踴秧瓔儲
讀俐隴隴閼懣瀲隘謔飫禮
儡駑瑙軣鬧迯薹瓷駁玳邏
靨瀰幔跿釋孳遨迹颱潦滬
讖蔡撕橢愍滸殤滯蜉聊遼
獨惻爍潯擺瑁韃楙愀躡瞳

道徳の幅

人類が哲学や智恵を用いる最大の訳は集団行動の幅だと考えていい。マンモス狩りと国家間交渉とでは要する道徳次元が違うというだけだ。だから純粋科学の中ではちっとも道徳がみいだされないのは不思議でない。Scientistを意訳で科学者とするならその種の専門化した人格には元々、Philosopherの意訳たる哲学者と違い、道徳の完成を至上や少なからず重要とみなす動機づけは比べて少ない。数理や社会知含む自然学知識それ自体からは永遠に道徳はえられない。だから、科学それそのものを哲学と代替しようとする試みは結局すべて失敗に終るとしてまず間違いない。
 英米という近代化の際に連勝をきわめてきた国家間強壮種が、いざ道徳行動というべき集団でのなりわいに特別長けているかといえば疑問であり、多くのばあい反するか。では集団行動が、もっといえば群れが必須なのはどんなときだろう。それは一言なら防御のとき。つまり鰯が鮪の猛攻を数の論理でさきはう。こういった幸運をより確実にする為に群れに紛れて個々の生存率を上げることはやはり徳だと云われていい。なるほど攻撃力の面で、既存の体系に留まった各種を破壊するには科学が有効だ。かれらには知りえない個性の技術力で特定集団をけちらすことも高い工学があればこそ自由となる。
 しかし、社会型生物という分業の効用を人類から分化した生命がなおも求めるなら、哲学は不要ではないし、道徳はまたこの結論に従う道を取るだろう。アリストテレスのポリス的人間という表現は、ある程度の防御力が確保できねば生存率の面で危ういことを暗黙に教えてきた。おそらく道徳的勝利ということは、一切の不道徳的勝利よりはるかに社会適応にとり有利なのだ。この過程全域を有徳と則る。完全に社会性を失ったばあいにしかこの原則の解除はありえない。そしてできるだけ簡潔な言葉でいえば、有徳さの最高形式は正義である。道徳があるということは、無論敗退が生存保証でない道理からいって、同等の知識量でありながらなお余裕幅としての道徳量を保てたという脳神経の奥行きについて、多分それが生まれ育ち、即ち品を保証しているという戦場の笛隠しの様な個体発生の中に誘因された祖先種からの功徳によってかれらの中ある者へ、のちの社会内での地位の良さというものを知能行動の極端に集積するらしい。
 卑怯な手で得た勝利は業で亡びる。だから道徳を自己目的化できないにもかかわらず、最善の勝利のせめてもの比喩としての仁義忠孝はいまなお、既に使えなくなった前時代の遺物とばかりは言えないのだ。我々の文明が西洋風の科学をまったきに消化しつくせたとして、いずれこの東洋風道徳観の点も修正か修繕の先に、新たに注解を施された理念集のもとへ繰り入れられ復興されゆくであろう。

Everything

Naze konna gumin domo no nakade
Kurashite ikaneba naranai? I'm disgusted, so
Heavy worlds nobleness or some meanings in
Moshi hito ga thinks all fireplaces will do
Burning everything, I may remember ano
Yuuyake o
Some how them, things whole retouched
Simultaneous nobility wo
Retreat ka rhetoric ka nozomu
Your finely discourse will be changed what is
There all bads

精査した類の問題

人類がかれらの地位をたもつ為とりつづけてきた方策は自然界の耕作により栄養物を再生産する、という農耕段階の論理だった。農耕はそれが自然界のもともつ扶養力を大幅にこえた作物を稔らせる技術であり、少なからず地球の生態系を独特の艸刈り度で再構築する意図だった。もしこの高次消費がなくば、地球では別の光景がくり広がったろう。最も遠く広くへ生存圏を広げる雑食性の動物がその優先種だ。犬や猫の大きく野生化した種が、或いは発汗能力を手に入れた鼠や熊などがそうかもしれない。
 こうしてふりかえれば、人という哺乳類が進化の末端に立つ消費の地位をえたのはほぼ偶々たまたまだったのが理解しえる。人は猿から出た新種で、かなりはやく生存圏を拡げえた訳は直立姿勢で道具をつかう手を、牙のかわりにしたことだ。
 将来は人が永続することはまずない。人相互へでも共生から競争までの多様な系統が順位制として生じ、やがては最も強壮な一種から完成された人類が、そして最も形質の粘り強さが新しい場所へ先駆けた一種から脱人類の新種が当然出てくる。文明が独自の発展を遂げるという博士の見識はおそらく星内でも真だ。具体的には、耐久消費財以降の産業発展はこの事実を如実のもとに晒す。人は、はげしい工学段階の変化へ適応した一種と、その他の類人猿(エイプ)との類比をより多く保った旧系統とに二分され、終局では二種へ分岐す。ジョークの域で文明はあるレベルで科学兵器応報戦争の自己破壊をはじめるので他の惑星からの訪問がないのだ、と言われたとしても、現実の天体論理は想像のかぎり無限の宇宙では無限の多様さがみられることから、星の外の異文明との折衝は時間の問題だと確実視させている。
 つまり宇宙工学への適応は決定的に惑星内での高次元支配率に必然なので、それを中途半端さで失うかぎりで人類に留まること、いいかえれば古代神道思想の陋弊にのみこまれていずれ他の文明の侵略で破滅するか殲滅される。もし人類ではなく、類人猿レベルでの保守なら反抗の余地はよほど少ないので、侵略者にとっても無視か惑星ごと焼き捨てる生物量燃料源にするかは熟考しなくとも済む。だがなんらかの技術を手にした段階ではすでに、無際限にみえるほどの烈しさきわまりない工学の進化競走へ遅れない様に、必死で新開発しつづけるしか生き残りのすべは少しも無い。考えてみればわかることだが、殆ど無限大らしい全宇宙に生物の変異などすこしも珍しくないのは明らかだから、かなり低次元な変異しかもたないらしい惑星など一撃の中性子ビームなどでブラックホール状に完全に固めてその燃料としての生物量秩序を小型のカプセル状に収め、あとで焚火などの悲劇情報としてとりだす方がどれだけ使い道があるかしれない。我々が木々を燃やすことと、大文明種が我々を含む地球の細々とした生態系を同然とみなすことは等しい。
 ゆえ保守とは全く不可能である。長期的な地域保全のためにできる最低限のことは、類の勘定に於いて、保存すべき伝統とそうではない習性とを分別すること、つまり産業の進路に関する知的批判だ。

東京都老廃体制の終末論

東京都知事が千年前の論理で科学補正予算への自説として、国税を全面投与してなにも問題はないというのも同然の認識を示しているが、世界中に文明の意味をしっている人間で誰ひとり技術の恩恵が無駄だと考えるはずはない。
低知能が人間でも都知事をできる、といった民主主義の人気政治化やお手軽タレント化への批評はさておき、『民営化』という効率論の定義さえ望んで人のうえに立ちながら認識できない人格は知性どころかいかなる工業発展の原則を語る資格すら欠いている。

我々はなにひとつ発明した政府機関というものを世界史上にみなかった。俗物どもが同士討ち、権力闘争、戦争煽動、猥談保存、逃げ口上、職権濫用、原爆放置、虐殺公認をくりかえしてきた歴史なら山ほどある。
政府がエジソンをもったことも、ワットをもったこともない。政治家(少なくとも、至尊なる殿下へ寄生して各種の利益誘導をはかる悪徳仲介人ども)という人類の中でも最も力でねじふせる猿山同然野蛮世界の慣習を信じたがる低俗な職種を好む者がなにかに技術を利用したとして、それはすべて権力を支配するための殺傷武器であった。

ここから、毎度の詭弁で喋々するなにがしの愚論のごとく非効率きわまる、しかも用途はみな悪意へ流れるだけ、邪な政商科学技術用の国債乱発、国民からの借金を踏み倒し前提に積み立ててなんの恥じも感じず戦争遂行だけを目的とする俗物どもなどにやる金は一銭たりともない。
今すぐに紡績機や紙漉きや天体望遠鏡がどういった民間の熱心な研究自由人の手で発明されてきたかまず土に還り、全生態系放浪の遍路をしてきた方がいい。政府が学問へ余計な口をだして良い結果が出た記憶は人類内になにもない。

 それでもかねを余した尊王家がもし借金を重ねてもなにか余計を働きたがるなら最悪ただひとつ担うべきは、利益率に直結しない「純粋理論」用の大学予算を確保し、市場の浮沈にかかわらず基礎研究が一部ではつづけられる様にしておくことだ。
実力よりはるかに出過ぎた身の上を愧ずべき失政録には事欠かぬご自身がどれほどの中小以上の国家規模予算を無駄にし、口先で責任転嫁をくりかえした末、まったく切腹する余地もなくなおも御託をならべておられるのか過去の因果を自覚なされよ。国税は愚昧なる一東京土民の私費ではない。

2009年11月28日

秋風

秋風よ吾はこの日を待ちわびた
東京は馬鹿に熱けし人の波
あまつさえいわずもがなに厚き服
晴れ間ならどこまでもふかき青空よ
遠くまで響くこだまか白雲や

2009年11月27日

運動不足

あったまわるいねPONYのブルー霊
さあここでぇおおっとパニクルーきえたぁっ
あっれ鍵ないどこだっけ自民党用ハニートラップのキー
よーしおいらの団子剣でおもろツイッターしちゃうぅっと
ねーねー鬱病ってさーあめた運動不足だよね

月明かりの音

三四郎池に降りつ雪のこる大福餅のはこ見えしぞと
Sanshiro ike ni oritsu snow nokoru yukimidaifuku no box can see
つきせどつきせぬかわり卉漣のごとく地を這いなびく
Never turned weeds like a sazanami chio hai nabiku
舞うことの久しきつかい悉く名も知れぬ侭ゆめだにきゆ
Players ever tsukai ever nd kiyu among not named yume
どこへかやしれぬ旅人ひとりずつ物もたぬ侭つきあかりゆく
Doko e kaya sirenu labors only go nothing have been you
人を喰いあきないながらまつるれば百の虎どもかみながらみる
Hito o kui business like in politics will be watched from under momoyo

記号論の消化

記号間の単位重畳性がそれ自体で価値である、という論理はなぜ既存の文字種の順列にすぎない本なる形態がよくも膾炙されるかの訳あいである。並の順列ではないそれ、少なくとも審美的中庸か極端に理知的なそれは多くのばあい、人為に生み出せる全価値の中でも最高峰のものだ。きわめて遠い時代へ至っても、少なからず言語規則をもつ知的生命なら確実に、これらの順列を希少なものとし又もちいる。ユークリッド幾何学や聖書は欧米圏含め全地球内で最も読まれてきた記号順列だといえるらしい。なぜこれらが好まれたかの訳は、日常に出会わない並びだったからだ。
 我々は国内に幾つもの古典をもつが、梅棹忠夫の情報産業論が先駆だとしてやはり、一民族をつくる大きな原動力は特有の記号配列にあると思われる。Why notという言葉が現れる頻度の高い集団と、止めた方がいいと曰いそうな集団とでは当然、かれらのもつ進歩への関心が違っていく。そしてごく長い目でみれば、結局その集団が保有した順列規則のうち合理性が高い一系統、だけが他の言語種内への文化素の編入率の面からも最も長期にわたり審美的か同類間の共有感を生存率の上に保つ。でないとたとえば一時期に英語が植民地の支配語として、その後の世界構成を下書きした様な一言語の敷衍が当然のものとなる。より単純な科学の言語でいうと、情報量の単位化が順列および一記号単位で積算すればするほど、この語集は他のより複合的ではない順列よりも希なそれを生み出しがたくする。つまり文の美しさを見いだす能力がより高度化しなくばならなくなる。
 故に、もし我々が現代哲学の主流とされた分析哲学のうち、その本質を解釈論をふくむ数列記号論に定めるとすれば(というのも、デジタル信号を省みればわかる様にすべて既存記号をもちいた伝達とは重畳性にしか命題がありえない)そこで問われてきたのは上述の、文理の邂逅なのである。こういう数列規則がもっとも価値の高いものだ、と批評か提示か開示できる論文が、哲学のうち分析を司る本質なのだ。嘗て理解不能さの比喩だった数々の珍文漢文とかグリーク(ギリシア語)とかは、引用される回数が低く意味か趣味が定めづらい、といった解釈慣習の低みにのみ訳があった。だから適応への構造や計略として、できるだけのぞむ言語体系との間で消化への訓訳が工夫されるほど、某母体系のねがう美文の決定性もより、以前にもましてまれともなろう。だが人類が文明内でいきる段階の文化では、こういう記号順列は結局、言葉遊びの社会的な合理化としての小説、いいかえると擬似独白による私説の流布につながるしかなく、たとえば近代文学とよばれていた体系一般と同じくそれらはどれも形式や様式の論究を文字言葉の記述方式で果たす以外の目的に至りえない。もっとわかりやすくいうと、分析哲学という現代の国際的覇権思潮は究極に於いて、デリダが実際にそうした如く擬似文学化という特定順列の権威化を、文面(エクリチュール)とか口語(パロール)とかその種の言文差延の際に施せるにすぎない。これが、私が趣味哲学というより複合化した哲学説を智恵の極度ともより諸評論を包括した総合ともみなす訳だ。どれも擬似文学化は最短音節の理念語への集積を否定する、一種の講演やら散種やらの言いかえに陥り、結果その論説は普及可能さのみならず単なる暇潰しの側面ですらいたずらに衒学っぽい仕種やらいかにも教養ある振りをしたブルジョア俗物根性を養う結末に終わる。擬似教育性にまつわる制度の無駄に於ける大学批判も当然、将来はこの面から行われてしかるべきだろう。つまり実用主義は西洋風ブルジョア支配を解除する方便としてつかえる。
 趣味を軽視し、その意義を見失った時代とは後世からふりかえればみるも悍ましい毒々しき禍々しさ支配の地獄であって、堕落した慣習がまかりとおる時代の記録とはすべて、後生の罪業をますだけに終わる。ことだま信仰の因果応報説もここに属す。たとえば江戸時代の下町の文化の中に、或いは中世の皇族の周縁へとりまいた迎合者らのうみだした腐敗しきった頽廃性質の如くに、高い総合批判力にのりとる趣味の高級さを理念語の威力で確保できなかったときその集団はほかの時代や場所の目からも悪魔の化身にしかみえない。つまり、趣味論は記号論や分析論をもかみ砕き自らの体系に於いてみいだしえた唯一にして最短の理念語へとその全内容物を昇華せしむゆえに、ほかのいかなる哲学思潮よりもなお上記の文理の邂逅にとって本質的なのである。「最高の理念界は最も複合した趣味観念を生み出す」、これが記号順列の単位重畳化を一語ずつの高い配置規律として確約する法則であり、また同時に後生の目にすら目覚ましく古典的完成や参照に足るとおもわせるに至る、文事にまつわる高尚な心理の鍛え方への重要きわまる道なのだ。そしてこの種の趣味啓蒙こそ、いかなる愚劣な体罰などより遥かに、青少年の心情を高級と崇高への挑戦に導く教育哲学の正念場である。古代ギリシアに於ける理想と現実の乖離も又、両者の積極的中庸に至る迄は趣味観念への途上にすぎなかった。

面白さ

焼き餅かなんだか知らぬがチーズ餅
焼き茂木がなんだか知らぬがチーズ餅
兼行法師かっ
なヴぇおさみ何だか知らぬがチーズ餅
お゜もせぐね

生物学

社会性動物の戦略は次の三つにまとまる。
1. 内的増加率戦略: reproduce rate strategy
2. 環境収容力戦略: kapacity strategy
3. 臨機応変型戦略: ad hoc strategy
これらはおおよそ123の順で起こる。なぜならある種の増産が僻地へ入り込み極相化することでここからの進化的な離脱が環境抵抗の条件で起こるのだから。現行では英語での訳語がそれぞれの頭文字を違和か、ドイツ語の翻訳で大文字小文字でずらして使われている様だが、こうしてまとめれば原則として大文字か小文字の頭文字で略記していいことが分かる。混同のおそれがないから。
 ところで、上述の戦略行動は各集団内での行動型を十分説明しない。それらの中でも当然、競争から共生までの一定の群生がある。そしてこの観点をより短期の視野で戦術つまりtacticsの名称で呼ぶとする。それらにはおよそ次の三つが存在すると考えられる。
1. 損得勘定型戦術: merchant dice tactics
2. 唯我独尊型戦術: doctorin tactics
3. 因果応報型戦術: tit for tat tactics
我々が現研究者内でよくしられた、囚人のジレンマ最強のプログラムであるtit for tatの戦術とは、実はこの様な各戦略型の中に含まれた指令なのだ。それぞれ、裏切りの率が相手の信用高下で可変であり短期間で成果をあげやすい場合を損得勘定型と、対して長期間では有利となる可能性もある一切の裏切りを放棄した戦術を唯我独尊型とここでは呼ぶ。いうまでもなく最後に平均点の面で勝利を収めるのは因果応報型である。そしてこれらから巨視的にはrka順の、それらそれぞれについては内部集団へ微視的にmdt順の規則的遷移がみられることになる。
 また、もしこれら戦略間または戦術間の関係を遷移段階(植物学の遷移: successionと区別すべく、ここで動向: movementと呼ぶことにする)でみると次の三つが考えられる。
1. 利口型動向: clever type movement
2. 覇権型動向: hegemony type movement
3. 世話型動向: look after type movement
 利口型とは、巨視的には臨機応変型と内的増加率との間の、微視的には因果応報型と損得勘定型の間に属した一群で、この集団は最も次代の繁栄がみこまれる。もし生物の世代間数量比をみると、それはピラミッド状だろう。
 覇権型とは、巨視的には内的増加率と環境収容力との、微視的には損得勘定型と唯我独尊型の間に属しており、その行動規則は一定以上の、僻地流入にともなうなんらかの習性が密度効果を受けて変化し、結果、高度に器官の特殊化が進んだ完成された個体をつくりだす働きをもつ。その数量化は世代間で逆円錐状をつくる。そしてこの傾向が極端になると幼型化の為にその種集団はなんらかの高度に極端になった形質とともに奇形化を進めて変種となる。例えば天然記念物類とは極端に進んだ奇形化の結果といえる。
 世話型とは、およそ最も終りにやってくる遷移段階であり、いわゆる環境抵抗による密度効果の結果として覇権種からの脱出として新種を生じさせる様な、おおよそみて同種について最も希で珍しい変異についていう。この特殊な遷移についてのみ、進化と考えられている新規な突然変異があらたにみつけられた適所への適応過程で、短い世代間に集積しやすい。このタイプでは世代間数量比は、基本的に釣鐘型をとるだろう。なぜなら比率でいえば形質が未知の一定方向へ整理されていく中途にあるので、逆円錐状ほどでない若い個体への淘汰圧がかかっているから。そのため数量比では停滞している様に見えるが、実際には集団のうち少数の個体のみが全体数維持を賄う変異を遺伝していく。もしこの経過が極端に進むと壮年種や老齢種に比べて幼若種がずっと少ない、ワイングラス状をとる。

工学

熱交換器を二つ設け逆の働きをさせることで冷蔵冷凍庫に付属した温蔵温熱庫をつくる。電気的平衡で室内への排出熱を無化する。

2009年11月26日

酒盛り

国税で学んで食って賞を得たどエライ科学屋あわてふてめく
ノーベルの遺産を貰えば即偉人
親分の子分になれれば安泰ぞ日本の国立サムライ御殿
趣味なのに全体負担か研究費われ想ひしやお気楽研究室の酒盛り

京都学風の行政内縁切り説

情報産業化に、欧米、少なくとも米国よりかなり遅れることになった原因は、経済学用語で梅棹:うめさお係数という情報費用の可処分所得が少なすぎるといった社会環境にある。
いいかえればエンゲル係数が、実際に民衆がつかえる全費用の中で高すぎるのである。これは結局、対米協調を目先の損得に捕われて選択しつづけてきた自民党時代の負債であり、保護関税などという明治じみた前時代の原理をなにも考えずに採択してきた農林水産省の役人の知能が先進国水準でみて愚劣すぎたのである。

私の意見をいえば、中小のカツカツでなんとか手慰みレベルでつまらぬ穀物を植えるなどしている弱小農はすべて淘汰すべきだ。全滅しようとなにも国民に困るところはない。
しかも彼らはいうまでもなく農協に属しているので、今までどおり一定レートで売上金を貰える以上、まったく生産量増大の工夫を自主的に行わなくなるうえ旧態の技術、具体的には手作業や人為での農薬散布をしても「効率」とか「合理性」とかそういう近代化の工夫一切が可能だとすら思いも寄らない。向上心や意欲を掻き立てる要因がない。
つまり千年も前の農奴時代の方式で微々たる作物を実らせて嬉しがっているのはなんと言っても滑稽でしかない。
 北欧や英国の労働投入量分の成果がいかに高く、その作業全体が輪作、機械化、品種改良、さらにはリン化ふくむ過富養を防止すべく取り入れた家畜放牧で合理化されているかを役人代表は農林水産省を代表して見学してくるべきだ。

 私は女脳の仮説、つまり脳幹誇大に費やされる栄養価の為に大脳の成長が形質女性化で阻害されるという脳科学の知見をインチキクサイ高学位偽装の自称知識人よりは信頼しないだけ、文化場のもつ再教育効果へむしろ高い見積もりを投資したがる良識人か偽装された露悪家なのだが、諧謔はさておき要するに京都学派の末端をになう某議員の提出した狂信的仮説、いいかえると国家管理による個別保障制度のもたらす全体主義を愚昧なばかりか害毒であると思わない農学かじりでない。
なぜ博識の士たるべき符合化を施した議員様が、かくある意味不明な農家の政府管理下サラリーマン化を望んだのかついぞ某blogを見渡しても知るよしはないが、似た出自ともいえる前原大臣へ異様な発狂じみた威嚇や降ろし策謀をはたらいた前科は、(これは私個人の批評にとどまる蓋然性のたかい単なる推測だが)おそらく家系のどこかに破産寸前の弱小農家を抱えているといったいわゆる“公家の横領”といういつもの中古論法にすぎないのではないか。
国司の行ってきた数々の資源独占はじめそういう悪徳例は近畿圏には掘り返すほど無限に出てくる。彼らは政商を悪だと感じる知見をもっていないか既に閉鎖的暗黒時代の伝統で鈍化させられてしまっている。
 ひとはつゆしらず私個人は京都学派以来の近畿の学問というものをあまり高く評価していないので、というのも戦争が終わった途端に基礎研究へ嬉々として奮発しだしたという文麿的な戦後の一面をかれらの性悪に垣間見てしまったからだが、つまるところ根拠を純粋な経済勘定から導くなる、しかも権威を笠に政治活動に直接参加するなる大学者にあるまじき堕落破門の徒であるかぎりはアカデミズムの慎重な実証主義側をこの点で強く擁護するものだ。
かれが立派な真理への学徒であったなら、ほぼ確証が得られるまではなんらかの意見ですら仮説の姿でしか提出や保持できない。経営学ですらこの種の実用主義への全面的迎合には慎重なのだ。ニュートンが先取権論拠に用いた様に‘碩学は仮説をつくらない’か、より簡明にいえば間違えならあとで恥ずかしいので決してあやふやな論理は出したくない。

 この一連の検証から私が結論するのは、農家個別保障制度は一時しのぎか単なる農地面積の少ない近畿権益の財政私用による旧態温存策にすぎず、我々の国家の生産力そのものを不自然な我田引水で減衰させる悪意であるということだ。
こういう弱小農家は、かれらが工夫、改良、壮健に劣るという農耕向きではない形質の持ち主なので当然、自然淘汰下でいえば真っ先に消えてなくなる一種の奇形種なのである。
そして社会淘汰の観点に則れば、具体的には衣服の分野での問屋制国際間軽工業化へ先駆けることに成功したユニクロや無印良品といったいくつかの例にみられるごとき強壮で競合能力;コンピテンシー高い新種の方こそ、実に生産力の増強の面でいって我々へ恩恵を与えてくれる、よりずっと褒らむべき変異なのだ。

なんらかの一定の『最低時給品目:ミニマム・バイタル』、すなわち、おもに必須栄養価の分析に則した食料質量の内製を前提として、その権限をこえては奇形化増長にすぎない甘えきった怠農の絶滅ふくむ全面的な農作物の貿易解放をこそ、現行の誤った関税の漸進的な撤廃で進める方が賢い。

この理由は、少数の大資本や大地主のもとに耕作工学を集積した方が国土の合理的な耕作は雑魚を育てるよりはるかに充実した成果や成長につながるからだ。
それが偽だとおもうなら彼は地元駅前商店街のなんの経営努力や開発研究も行っていなさそうな古ぼけた店内の品揃えと価格を、ほぼ同程度の小売り出身だがなお抜群の優等生である産業資本家によりモータライゼーションに適応しなおし敢えて郊外に建てられた倉庫型店舗内の商品との圧倒的出来映え差に、一体みくらべてみた試しがないのだ。
彼らの間に次第に生じてきて結果として人々の暮らしゆきの福祉を増大させた競合能力偏差値の原因こそは、資本主義の原則である自業自得を努力価格差の論理で説明しきるに十分である。

 なおも借金だらけの国債権益にぶら下がってもし戦前に築いた旧秩序の破壊が憎いなど御託を並ぶとかれら京都学派のエセ農学徒が言うなら、我々は少なくとも全国規模ではなく、(東京都は農地面積からいえば少ないことから)共通認識をもたせたりもちやすい関東圏を中心としその他、賛同してきた都道府県だけへでもこの種の汚らわしい政商癒着前提の国司的悪意を侵入させてはならない。
なぜならこれによって気まぐれな観光地以外なんのとりえもない京都人荘園の五臓六腑の具備や充実とひきかえにした(国統護持へ致命傷となる)農業生産力の減衰は、結果としては長期にこの中古暗黒期に等しい旧秩序、もっといえば公家化した頽廃の野蛮人を単なる経済能力の取引勘定面、つまり商業用語でいう「勉強の有無」だけを因果としてでも海外市場との競争関係下で遅かれ早かれ駆逐してしまうのだ。
要するにアメリカと競う中で大幅にレベルアップした東京政権から首を絞められているが往古怠惰に慣れた弱小公家の無産な荘園農地を単なる私有地にするかそれとも国際的金融資本家へ売却でギブアップするかはどちらをえらぼうが至る結末は一つゆえ時間の問題でしかなく、我々が関東武士の勝利を先に見るだけ推論能力が不足していないなら政権上まったく省みる意味なき無駄手間なのである。

Only do his majesty will poetry reason on falling
凩の君の想いぞ歌言葉となる
Mathematician solves la multitudes migration myth
数々の人々をとく髪のおと
Power buzz popular evolves how meanings in
きこゆれば只かなしきかもうつろひよ
Luckiest of the worlds transparent mimicry did
おもしろきことかまねうるかぜ引きよ
Have to do whole sale global cleaning chairman
楽しきはひとり星ふる掃きしごと

無業党

自由ニート党見下していた失業者と歩む
餓死者をみつつも天下る
中国製うりまくってばらまく私税
維新の成金趣味明治博打
海外市場にとりつく大企業
よのなかをみればみるほど中身なし

2009年11月25日

工学

蛍光管の素材を熱にかなりつよい強化プラスチック製にし、叩いたり落としても壊れない状態でつくり、各種カバーで光度を落とす慣習を破る。表面にはくもってしまわないよう光触媒(酸化チタン)を塗装し、多少遠隔からの共振電源でも作動できる様に電源受信部はコア化・汎用部品とし、できるだけ小型にして水没にも耐えて光るしくみとす。

天文学

七夕宇宙系の分布帯式は次の方針で与えられるらしい。
⇔x^2/a2+y^2/b^2+z^2/c^2=1

X(u,v)(x:(R+r cos・u)cos・v, y:(R+r cos・u)sinv,z:r sin・u)
Xu(u,v)(x:-a sin・u cos・v, y:-b sin・u sin・v, z:c cos・u)
Xv(u,v)(x:(R+r cos・u)sin・v, y:(R+r cos・u)cos・v, z:0)

凡例、トーラスと楕円面の式を参照。この式はいわば湯たんぽ状で円環面に主要銀河系が分布する宇宙モデルを示し、xyzそれぞれの座標軸への離芯率をもつ。但し、近似的にはドラ焼き状のかたちで代替できる。理由は当方変移が観察できるから。
 反証。もし二方への後退速度が他の一方よりはるかに速ければその宇宙は円盤化して潰れるでしょう。以上。
 さて、この宇宙系のかたちは次の天体を予想させる。
論証。まずxyzそれぞれの軸をのばし、それぞれをアイウとよぶ。それらにはマイナス座標軸が考えられるのでア´イ´ウ´とする。さらにこれらは引斥力が大きな順にふるとする。ならばアイウとア´イ´ウ´の宇宙系が隣接すると措定できます。以上。
 これらは大きな順に、私の文学趣味にかけて仮に十五夜系、唐傘系、鈴系および裏十五夜系、裏唐傘系、裏鈴系と呼ぶとする。但し、これらの七夕系からの表宇宙と裏宇宙へ変移や離芯率は、熱力学第二法則あるいはエントロピー増大則より同質量の宇宙が存在する確率の非常な低さから、一定ではないだろう。しかし表と裏には反作用則による類比できるおおよその大きさがあるだろう(表裏の相性則)。ところでこういう特定名詞を使おうとする意図は、もし番号を振ると宇宙系は膨大なので後々面倒になるからだ。
 又以上が真ならつぎの予測が立つだろう。まず隣接する中でもっとも大きな十五夜系には生物量の公式から、多くの生態系が存在し賑やかだが、ただしそれらの寿命は短い(光速火薬効果)。我々の七夕系以上の知能が栄えるならこの方角だろう。これに対してもっとも小さい鈴系は寂しく生態系が少ないが、比べて他の宇宙系よりも寿命が長い。移住者が温存され文明間的に発酵や永眠できるのはこの方角だろう。中間の大きさである唐傘系へは我々自身と類似の生態系や同位種が栄える可能性が最も高い。

雇用レベル保障法案

そういうこともないだろうが、サッチャー女史に憧れまくった竹中平蔵氏がしばし金融座右の銘みたく掲げられる某せりふは、おかしな古代人が政権与党にたまたま属そうがやはり眞を穿っており、こちらは冗談ではなく自由主義の原則として、救貧法をのぞくすべての弱者救済の手はかえって国民の怠惰を誤った甘え方へ導くに過ぎない。
(経済のアップルパイは必ずしも大きさだけが食欲増進を誘うとはいえない。そもそも消化能力の違いや胃下垂のばあいも考えられ、かれが求めるのは分け前よりもパーティーを抜け出して月見台で冷めた空を眺めることかもしれない。)

下らないことの様だが、通貨収縮は自然な事業淘汰の面では最高の指令である。

 偽善者は人間の堕落を結果からだけ観察しがちだが、もし物語をよく読んでみたことがある者ならすべて、宿命とは業の結果であると認識した試しがあるだろう。
(光源氏は不幸のどん底で死に、雨の浮き橋は発狂寸前で尼寺へ駆け込む。そういう結末はみな、彼らの自業自得を覚らせるため物語られたのだ。)
 ゆえにもし社会不安のいくらかが増大しようと、具体的には信用できる世界宗教の迫害さえおかしな神道政府が行わなければ当然、十分すぎる慈悲心の発揮は助け舟を出すのを元来の仕事にしたいくつかの宗教法人への無為な委託事業でしかありえないのだ。
政府がこの種の一時拠出へ先駆けるということはなんといっても賢明ではない。こういった筋違いの慈悲は同時にかれら自身が発行した代替貨幣の銘柄を、少なくとも国内では軽蔑すべきものへ格下げする。

誰もに全面肯定できる論拠ではないにも関わらず、某評論家がいう「一律課税方式」による新自由主義の方針は、おそらく現段階で内需をもっとも合理的に拡張できる大胆な政策である。つまり強すぎる累進制御をできるだけ解除するのだ。
それによって生じた流動化した金利の上はね狙いへ伴って、これまで抱え込んできた国内株式市場への投資意欲の弱さ、いいかえると日本的経営の最大の負債である不必要なまでの資本流動の固さ、一部階層への圧倒的な資本の偏りという景気循環の妨げとなっている最悪の保守主義をいわゆる外資の向けかえで破壊できる確率が高い。
特に、私のみるところでは経済力に国際的な福の神をもちこむのは、実際には大部分が大変に金融業への造詣が深いユダヤ系の資本家である様だ。
宗教と経済を分けて考えたこのない人格は、かれらが信教の自由を愛し、ともに少数派であることを真剣に反省してみた方がいい。
(第一次大戦後のドイツの様な社会状況は、現実にはマルクス的階級闘争の結果ではなくて、もし公立図書館さえ全国民へ開示されつづけているなら単純に教育投資を出し渋ったか自ら退けた下知者どもの業であり、我々が天皇制という全宇宙でも相応家格の高き地位におわす方々への模範としての役割を期待までは欠かさない限り、英明な王者や君主というすくなくとも象徴の体面だけは、国民への絶えざる倫理啓発に欠かせない見世物となるのである。)
より単純にいうと、勉強しなかった者が落ちぶれるのは童話的によい社会力学なので、我々はこの作業を否定も除去もすべきでないし、完全に放任しなければならない。たとえそれで可哀相な境遇をみていられない忍びざる者が救貧の生業を興すとしても、なおこの業をも世の栄枯盛衰にかけて放置しなければならない。

 但し、単なる労働風紀の面からいって日雇いや派遣社員など多くの不安定な労働雇用を企業へ安易に採択させないために、法的にこれらの使い捨て雇用策の抜け道を締め上げる工夫が欠かせない。具体的には、政府が支出するのではなく、非正規社員への最低限度以上の社員保障を使用者義務として、改めて明確に憲章化すべきだ。
はっきりというと、試用期間を除いて、『雇用レベル保障法案』の如きものが全国民へ開示された透明度の高い政策立案過程によって、また力強い確信を以って樹立採択されるべきだ。
それは労働意欲を自主独立の心構えにいざなうためだし、努力家とその頑張りを旧来通り愛し、怠け者を冷酷に扱うべしという勤労義務への立ち返りを雇用契約の厳格化の面から全体のアップルパイ配分法益ごと見直すためでもある。

もしこういう行政の新自由主義原則が、英米民度への劣等感のうらがえしで安易な再国家主義化への扇動を行おうとする碌でもない反動形成の子供っぽい叫びに逆らってでも復権されるなら、我々は世代間をふくむ自業自得こそもっとも社会内に発生する不平等を納得させやすい社会機能である真実へ、再びそのしくみをはじめに発見した印度の英知者へ反省の意を評せざるをえないだろう。
 直接的には欧米全体、及び耐久消費財の需要減衰を迎えた中国や一部ユーラシア大陸権益の中でもっとも、情報産業化後の経済的分け前を確保したのが、かくある原則をやはり継続して採択してきたごく少数の超自由主義諸国であるのを、いまなお限りある人知には疑えないのだ。
自然のぬしがそうした様に、人類はできるかぎり社会の中に多様化した生態をよびこむべきだとこの国際資本の大幅に偏った移動後の必然はだれもに実現結果で示すであろう。そのとき格差への偏見は収まり、逆にある国柄や個人、家庭への、黙々と努力をつみかさねてきた富裕な人々のわすれえない勤労の習慣へ伴う地球的な崇敬語となるであろう。

2009年11月23日

昔はきっとそうだったんだろう
If older than, ever liberty everything
君だって分からない筈ない
You didn't know that, over him engagement
気づいちゃいないだけ、ただ
All things will vanish ever, and that
なにもかも虚しい
Our language couldn't take an act
だからってどうせ、君は冷めた振りをして
But of course, not to say in the end, may
あらゆる嘘が風にのって
All breezes on the weather field, flow
まことの夢をみせるのを待て
Watch there are, some over the wondering dreams
まるで戦いに飽きた侍の様に
Like a samurai in the warship, above the danger
風の詩を聴け
Hear the winds breathes

情報法義

情報の非対称さは国家間にいたるとき最も甚大な被害を及ぼしがちらしい。この離れは現在では軍事技術間になるとき最もあやうい。乃ち公益に類する隔離、国八分化はその国家体制を世界の大概の軍事literacyからひきはなすため、そうでない強化済み媒体より競争力を削がれがちである。強化された、とは情報媒体にのせうるその量に依存し、情報のばあい質とは単位量に還元できるので、結果、最高に強化した媒体とは同じく最高の伝達である。
 乃ち情報の非対称は伝達媒介力により、又それは媒体のもつ単位情報量による。ゆえ軍事に限らず国家の最大の安全策とはこの能力を文化場ブンカばの内にできるだけ確保すること、技術の可塑を含むやりとりを可能なだけ自由に放任することだ。反証、たとえば滝川事件と情報統制がいかに国家内で当然起こりえた技術上や思想上の進歩を妨げたか。
 戦争の潜みを失わすにはその国家間の情報流通を最大級の自由にする可で、なお言葉の壁はのこるが、これが一国家化を阻む慣習差につながるので競走態勢の維持として、人類の民族間変異のうちによき遺伝か進歩した文化を擁護させる。つまり生まれ育ちのつよさを保つ。ゆえ悲惨さの極限たる侵略型や報復ぶった戦闘的威嚇を防ぐに、できる手だてをこの国家主義権力への抑制とした情報の自由か自律と呼ぶなら、これこそ我々が今知る潜みへのうまい国際除去措置となる。いわゆる私的所有域にかぎれば、いかなる情報を保有しようとそれは自律に任せらるべきなのだ。世界ではいついかなるときにこの熱狂的御宅が救世主に転化しないとも確約しえない。対して、福祉目的に背く商取引についてのみ商道徳面から権力介入は可能で善意となるのである。
 理想主義を政用に省略すれば、少なくとも計略上協力の方が知的であるときのみこの国家との情報流通の解放は頼もしく、そうでなければあし。ゆえ現実面では、巨視へも国八分目は現段階では最善なのだ。つまりつきあいたくない国柄とは情報をとりひきするだけ損や害になる。裏も信ぜる、乃ち情報取引に損害なく利益ある国柄、かしこき群れとは付き合いたいかまず是非そうたる筈だ。

濃淡漠無明曉
暁よ濃き淡きかも明るみなきまま
様子實回天葉
まことしやかに天駆けまわる葉の様子
在住畤際嚮沺
田にみちし宴のあとかさむき藁
怩丹駛魁喀朗
さきがけし客うどありしやぬくき椅子
贅贅斗税賣蠹
しみもなく時を稼げるあきの本

2009年11月22日

Kieru

They'll never believe to the one
They wa one e mo never believe daroo
Why you didn't see that one, him
Naze you minai one wo, him wa
Obvious modesty, how should amazed
Obvious modesty, how amazed subeki
One. them, really never forget here
Hito ka, them, makoto never forget here
Because this all phenomenon will be
Nanode this all arawale wa will be
Vanish
Kieru

人知

萬國萬象内唯一不動
この広い世界で唯一つ動かぬもの
無明之境貴君不明
だがあなたが見えないもの
贅語不十分
贅沢な言葉だと思うかしれない
是丁寧之眞實
決して嘘じゃないのだけれど
既定茫漠砂上獨邇
あなたはもう失った砂漠を
喪失感而浪士之下野心
どこでも見なかったのだろうか
罪悪感而悉皆俟
罪深いことにどうせ
是愛慈愛内蔵奈乃美麗無乂法帰結俟
アジアのぼやきだと嘆くのだろうか
小子拙止不得邇
私は小さな島ぐにからでも
空地畭恕乎側一輪之花
彼らが空き地に咲く花の声を
看過个讀不得信邇
聞き漏らさないことを願う
語大哀充實際而乃
それが語りかける真実は
四海未踏已然亊難邂亊
すべての人知より難しい

唯一神の信念

虱潰しの論理である限り全て哲学的な言説というべきもの、さらに書き下せば評論界とは、より数学化された諸学としての科学的知識より、つねに真理の関数では遅れる。私はそのことを忘れた訳ではないがなお希望を捨てたわけではない。ウィトゲンシュタイン主著冒頭の有名なせりふ、 「語りえないことについては沈黙しなければならない」とはもしかすると神の言葉の比喩かもしれない。つまり我々は神の智恵というべき至善の理念から何事も引きだしえない。
 最も極限での完全な知能を想像すると、またそれは絶対唯一神という仏教を除く諸宗教の帰結が、この無語の領域への精一杯の言及の試みであったと振り返れる。そして人類の末端が学問によって得るのは、語りえない領域を最大級に低減させようとする自然体系の総計画の意味を考えた結果であり、またなぜ合理化の作用が自然理解自体とは別の領域で確保さるべきかの訳でもある。理由というものは理性にしか作り上げられない。これがウィトゲンシュタインが辿り着き、また古代ギリシアをのりこえたカントから流れきた大陸合理論を現代につなぐ根本の命題である。
 およそ理想すること、自らの理性という能力で得られた知識群を結び付けつつ世界の理由を考え出すということが哲学の本職であり、かれが道徳をもつと云われていい本当の訳だろう。単に科学的であるだけでは永久に道徳は生み出せない。それは知識相互の比例関係を詳しくてくらべてみてこそわかることなのだ。たとえば昆虫類界や爬虫類界では競争関係が最も合理的だとしても、のちにダーウィニズムとよばれる弱肉強食の全面肯定論とは違い、ある程度より高い社会性をもつ生態、特に哺乳類では協力や協調がいかに多元に及ぶ集合の利益をうみだすかを知れば、我々自身がどう生きる可かという倫理の確信も着実に、単一の知見による拙速を戒めるに足るものとなる筈だ。八百万やおろずの神々という和語が示す多神教の風土はいずれ、他のより厳格な思想の侵攻で過去のものとなるだろう。忠義や博愛を至上理念とする幾つかの既存宗派はこの流れを強力に推進する。そして無言にのみ善意の極限がありうる、という誤った言説を最小化しようという分析哲学の悟りは、仏教での縁起説に於ける神概念の回避をふくめてなぜ実証できない対象を語らないかに十分な論拠となるのだ。これらの概念はどれも理由づけでしかなく、無論それそのものは説得論や方便として高い価値をもつのだが、対して真理としての森羅万象の比例にくらべればやはり特殊化された、一人ずつの信念に過ぎない。
 だから、私は全宇宙系の中心付近に御座すはず全知全能の唯一絶対神という、想像上最高の理想を決して他の中途半端な神達やそれに類する偶像とは別に信じておくのが今日でもなお、道徳に無限遠の可塑性をつけくわえるがゆえに善意であると思う。但し、この実在は信じうるのみ、或いは特定の知性に論証はできるのみで、永久に実証はできない。なぜなら神とはまったくに我々の知覚に類するほど卑俗ではありえないのだ。もしこの理念の中味みなを知った者がいるとすれば、彼はあらゆるかそれぞれの精神の中ではおそらく最も神にくわしい、という理論家の称号を附しうるにすぎない。
 多神教とは低次限か曖昧な侭の、一神教に対する部分集合である。日本神話の中にすら天照大神あまてらすおおみかみの初源がみつかるか解釈でき、また仏教に於ける仏陀とは単に神以下の生態内での慈悲深い学問求道の師にのみ適当な概念であるだろう。各種の低次神とかいう概念は、どれもこれも精神と読んでおくのが適当だ。そうすれば絶対唯一にして全知全能という神本来の意味が失われたり忘れられることはないだろう。すべて、至善の実在へのまことよりほかを述べる者は彼らが目標と定めた中途半端に堕落した生態に安住する傾向を免れず、よって神への道から自ずと戻ることになる。だから、より高い知能を遺伝や文化か生育のうち雪だるま式とか等比数列的に得られるのは確実に、選種誘因をこの偶像軽蔑の趣きとかぎりなく合致させえた生態系だけだろう。

豚の衆

裁判員罵倒で裁く己れども
契約の自律を差し置きつかう放送法
電波にのせた大奥で清教徒から搾るNHK
金に目がなく財産と住居を侵す悪魔ども
拒否しても拒否しても拷問しに来る成らずもの
法を逆手に弱者を虐めはべれり
殺人犯イケメンと言う豚の衆

2009年11月21日

Enthusiasm

May be you'd say everything
Died, more over them, came back
Here? If we'd
Never listened this whole joy?
Maybe, for me that everlasting will
Cheerful phenomenal readings do
Why you can't see, that everything will
Dye, or something be that here will
Enthusiasm
なぜきみはみながしんじゃう、どころか、
もうかえってこないという? もしこういう
どんなたのしみもきいたことなかったとしたら?
ボクにとりおわりなき、はげましにみちたよみごと
さえなされれば、なんでもそめてしまう、
くるっただれかをこんなとこでもきみは
みなかったわけ。

日立

日立蔭了欣 誠実味蓬榮
艸艸胚上品 海瑛隱陸璧
開闢無下賜 切実豪快馳
昧昧択良禽 無二大蓬莱
日は立ちかげよろこびにおわ
誠実まことしさ蓬にも栄えを味わう
草々は上品なるを胚し
海あまねくしてたまわせりかの隠陸こもりく
開闢カイビャクより下賜カシされしことなし
切実にして豪快に馳す
昧昧あやふやながら良禽リョウキンは択べる
無二にして大いなる蓬莱を

科学知識や知ることは自然界を、社会を含むそこを今よりずっと詳細に認識できるだけだろう。ここまで私が試行錯誤してきた哲学の命題、それは総合するという科学知識への注解だったのだと今では分かる。つまり哲学は既存の知識から理由づけによって、自分が生きる為の意味を作り上げる過程だったのだ。そして総合した知識量が異なる限り、生きている人類かその知能の数だけ哲学というもの、いいかえれば道徳度というものもあるのだろう。古代の哲人、西洋ではソクラテスやジーザス、東洋では仏陀や孔子、中東ではムハンムドやオマル・ハイヤームの様な人格も、彼らの名を現代の私に届くまでのこした理由こそがこの総合した知識量の程にあったといえる。
 科学者と呼ばれている人々か個性というのは、自然全般のどれかについての学の一分野に特に秀でているのが普通だろう。対して哲学者はこれらの保有できた総量の方に特徴があると言えるらしい。このおおよそ二つの学者の型は、また現代のひまの少なさでは希にもせよ重なるばあいあるとして、決して敵対関係ではない。彼らは、専門の通暁と、比べて広義の教養というあいことなる利点をもっている。
 自然学そのものに後自然学か形而上学が代替することは結局不可能だろう。私はこのことを、社会学の戦略論での規則から理解した。いわゆる最少最大の法則とよばれる考え方は、虱つぶしに探索するという試行錯誤型の論理作用を、保守的な観点もしくは急がば回れの徳律から擁護している。哲学が能率のわるい計画だとおもう者は、それが役に立つ知識ではなく、ふかく納得できる理由をうみだす作業であることをしらない。たとえば庭作りの途中で清掃だけをたのまれた者は苦労して苗を植え石材の配置を何度もおきかえて考え込んでいる業者を能率の上ではそれほど賢くおもわないかもしれない。実際には、この庭師は明らかに全体計画の意図を設計者ほどではないにせよ、また全宇宙に及ぶ世界の計画主ほどではないにせよただの賃金をめあてに部分作業だけ足早に終えた者よりも理解しようとし、また仕事が成功すれば理解できる。
 私はこれらが役割の違いであり決して究極の格差ではないとおもう。なぜなら、もし最善の学習者がいれば、その個性は自らの意志によって部分に飽き足らぬこともこまかな作業に加わって細部を改良することもできるのだ。哲学が時代遅れになるとか、無用になるということはついぞありえない。それがもしあるなら、道徳が不要となる社会性を失った生態の元でだろう。知識相互を比較検討しながら批判的に、つまり一分野だけが突出して他を侵さない様にまとめて理解或いは総合判断するということは協調の原理であり、別のいいかたをすると知識体系への補強の作業を主義とするということだ。完全な神の元では完璧な真理がみいだされると仮定でき、そこでは当然のことながら一切の矛盾は起きないと思われる。だから知能が不完全か未完成で、おもに連絡や交換によってしか高い効率がえられない段階では、即ち文明の知的段階では、残念ながら哲学は神の地位への理解を深めたければ最善の手段たらざるをえない。もしそれがどれほど効率わるく面倒で、大変に煩雑な長たらしい試行錯誤を経由したとしても。
 以上から私がいえるのは、哲学にとって最高の成果はそれが総合できる理念だということだ。解釈界となづけられてしかるべき分析哲学による口文や異民族言語間の様々な分解は、結局この理念の深さを、趣の高さをつくりあげられるにすぎない。そして既存の語句か造語かはしれないが、哲学にとってその教養体系内で最高の貢献とは、万古から永劫の未来まで変わらずに通用する様な趣味を現段階で最高度の深淵さへと還元すること、この世界に於ける深い味わいをできるだけ最短の一語でみいだすことにある。なぜこの様な作業が行われるかというと、それは最もよくまなんだ者が知りえた世界観をできるかぎり広く長く純粋な侭で伝えるべし、という啓蒙論の為だろう。単純な様だが、古聖によってこうして発掘された愛、無知の知、慈悲、仁、絶対服従あるいは忠義、天国と地獄などの理念はその考えが彼らの悟りをへずして記憶されつづけたとは思えないほど何気なくしかも意味複雑なので、もし彼らが強い個性で理想を鼓舞しなければほとんど無限に近くあるだろう語句の海のなかに埋もれて、今日までその重要な意義が見過ごされたはずだった。
 私にいえるのは、こういう不完全ながらも最高に近い世界計画の理想をかれの哲学の総合学識度からみち引きだした最短語句で記憶させようとする試みは、すべて神の似姿への努力か少なくとも世界への分かりから訪れるものだ。だから究極の唯一絶対神のおもいを悟れない間はみなそれらは仮設計画論にとどまる。おそらく全能の知性を想像できるのは古今の地球では人類だけだったので、この唯一神意とでもいう可ものは初めかれらには納得しがたい不可解や悲惨なできごとを合理化や正当化するための方便として朧げながら知覚されたものだ。私が現時点で知っているのは、この絶対値は各宇宙系のさらに中央というものがほとんど無限に探りうる世界構造からいって、唯一神は我々の前に姿を顕すことは先ずないだろうということ、そして全知全能が様々な物理制約に囲まれた現世で到達不可であるのはあきらかだから、少なくとも博学万能を人類からのぼってきた生物が希望するのが今日理想できる上限だろうということだ。暗黙の前提として、精神力という使い古された語句で我々がみなしてきたのも同様の、仕事量とはことなる力のつかいみちの概念だった。ここから、博識と才能をのばす力を単位として精神量とよぶのは将来あながち非科学的でもなさそうだ。

2009年11月20日

経済学

英人M・スペンスのシグナリング(符号化)理論のもっとも主要な誤りは、おもに学歴獲得用の費用が各自や各家計で異なるという、教育投機への資本金の社会的不平等さを無視か省略した前提として論を進めていることにある。つまりそれはケインズと同じく選良主義の偏見(俗にハーヴェイロードの前提条件といわれるそれ)を前提に置いている点で、通用する範囲もせまく或いは資本主義内での貴族趣味、紳士の理屈に過ぎない所がある。
 具体的に、この符号化は同一の努力、たとえば学習過程を大幅に試験用に省力化できる学習塾の様な抜け道を利用できるか否かといった世代間所得からの投機資本の度合いを無視した段階での努力個人差を絶対視するものではない。いいかえると、大して頑張らなくとも一流の進学塾講師から秘伝を授かるお坊ちゃまお嬢さんと、ほとんど泥沼的家庭で貧乏子沢山を地で行く煩雑さの内で黙々とだんまりを決め込んで無償支給のチャート式を解かねばならない生徒とでは、明らかに意図もしくは学歴用初期投資が異なる。ほぼ装飾としての符号化は、実質は富裕団の資産増徴の結果であり、「実学」なる東洋語彙が示す最小額での最大成果の学習(それはプラグマティストの姿勢だ)と異質なばかりか目的を異にしている。つまるところ、シェークスピアとディケンズの教養はその獲得に費やされた額のみならずそもそもの出版が、経済学の主要命題たる福祉効果の合理性かそれとも経営学とか商人のてぐすね引きとか呼ばれることも屡々なうまい稼ぎ方のハウツー読本なのかで趣が違う。善良な婦女子に好まれるのがどちらかは今更いうまでもない。ここで私の論破が雄弁に過ぎるとお思いの方は、スペンス氏が巧く最少の努力で最高の符号化を施したことを疑うべきではないだろう。それも伝統に屈せし偉大なる紳士の徳かもしれない。
 つまり、私が批評家風の観点からより現実的な理論を提示するなら、逆符号化論、即ち生物学に於けるハンディキャップ理論を人為社会へも少なからず適用した学歴の負担化理論も当然考えられてしかるべきだというのである。この負担は、たとえば上野にある某神社への坂に二種の粋な計らいがあること、つまり男はより険しい道をえらぶことでかえって自らの努力係数を誇示できるという町人なりの道徳は、彼らか彼が同一の結果的仕事を為す上で最少の符号化を練ってからそれを行うとき、企業内合理性ではなく社会福祉の効用面では最大の外部経済に繋がる経験則からきたのだろう。
 もし符号化理論が初期投資の不透明や不平等を可視化できていない欠点から、経済学に於ける微視な内的合理化の文法に過ぎないなら、なるほど部分最適化には適うだろうが、これにすなわち負担化理論というものは少なからず有性生物界全般と共有できる巨視の規則をもつことになる。なぜなら学歴ではなく学力を、装飾ではなく質実を、華美なネクタイではなく燻し銀の心意気をより趣味が合うとみなす精神は決して功利性を無視した訳ではないのだ。たとえば不治の病にある少年が希望をみいだすのは生まれながらに最大の初期投資を約束された主ではなく必ずやできるかぎりの配慮を払って努力家の面を隠蔽する側へである。負担化理論の効用の関数はそれが符号の及ぼす企業人事内の心理戦を十分熟慮したものであるが故に、符号化のいやおうない趨勢であるプラグマティズムへの援用、直接には議論ごと回避されるはず努力の価格差を単なる日本的経営の古きよき側面を超えて直属の上司へくりいれさせるだろう。

2009年11月19日

焚き火

寒暑さえともに過ぎけり秋化粧
ストールかマスクか知らぬが秋化粧
季節すら次第に追いたつ散るもみじ
もじことばしゃもじに遺れるいつの日よ
山のうえ一筋のぼれる焚き火あり

浪速

浪速のいなにわうどんでいっ
やだー空気読んでよクウキなんだスモッグか
中国人万歳全世界飛散
なにすんのよオッサンここは東京砂漠痴漢は冤罪でしょう

神類の想像を超えない論証

世代間変異の向きは、人類にあって今日迄に展開されてきた歴史様相では彼らが国民国家の単位でいかにその暮らしの知的合理化を果たすかで測れるらしいことを省みると、文明論への批判考証としてたとえばレヴィ・ストロースの万民平衡的視野の間にまに、また所謂仏教からきた慈悲の理念は、対する経済という日本語では経世済民なる救世概念の、他方で輸入されたeconomyつまり支配という語趣意との翻訳触媒として生まれたその言葉のもつ意味に於いて、我々にあって西洋圏とも米大陸とも違う一切衆生との福利共生という含みを単なる市場効率をこえて胚胎させる。これは経済を経世済生、即ち世を経て生きものをすくうという一つの日本的な概念へと高める道が、他のどの圏域よりも先に神道の国統を含めて、自然崇拝や自然愛顧の感情的基盤の上に可能であると教える。
 芸術、少なくとも古来の意味でのうえるという植栽の術、つまりそのの藝というものはこの達成のためには最も神の命令に忠実なこと、我々がrecreationとよぶ生業が全てもとの神ながらの計画を完成させる唯一の道であるらしいことへ、調和という概念の自然と人為の関係の適度さを穿つ文脈から示唆を加えている。例えば究極の崇高さが自然畏敬への自己反省の念から生ずるという、カントに於ける精神論の本質は、実際にはこの自然という我々以外の全的知能による創造物とみなすほか仮にも解釈の仕様がない無限の宇宙界を、その中で藝に遊ぶべき生き物どもにとっての神からの楽園の恵与として捉えたとき、孔子が最高の完成と考えた人格の境地と同じく又、決して既得人類界にあって理想状態が東西で違うものではないと生来の調和を感じる心情の尊重から、天才論か天性論によって擁護解説する。
 十二分に繁栄された経済界が形づくられるなら、それは藝術の商化が一切の人格主義の理想と限りなく一致させられた世界に於いてだろう。そしてその世界では、消費的進化にまつわる生態的上位種の変異も、艸刈り効果の一般解と近似して現実に、各生態系内で異種の多彩化に一役買うのみのものに過ぎないことだろう。が為に、選好の消費序列は人類やその末裔へ向けて、優先種への経済的哺食を肯定させている。だが人類がひとたび競争的飽和で最低でも地上世界の最優先種となってしまえば、既に彼ら自身の過剰消費による、それ以上は殖えられなくなった適所内が終末での過当競争的共食いや資源不足にまつわる絶滅を誘なうだろう。これは戦争や飢饉か恐慌と呼ばれるが、もし彼らの内ある一種か集団が、自然畏怖を維持した結果ほかの群生とは違い藝術の本質的意図に忠実か少なからず肉薄であったなら、その生態は言わば共生的な最適化もしくは適応の隙間効果で当生存ごと保障されゆくだろう。そして我々は人類という生態の侭ならいずれもこの藝術優先種としてしか保存されえないのを観るだろう。最も原理的な狩猟採集か農村共同体として人類の最優先種は僻地に取り残され得る。彼らが哺食される割合は、遠い将来の変化した地球の環境誘因がどれだけ強壮な生態を育むかに依存し、おもとしては寒冷化か品種改良に基づく身体増大と、人類以降の種分岐後の競争力強化の度次第だろう。
 全知全能という理念は人類がその容積に依存した知能で万物の創りはじめが有り得ると想像した限りで伝達された理想なのだから、ある民族状態内で最高のかしらが少なくともこの理念に、最も近しい何らかの考えを得るのは確かだ。もしも当仮説を撤廃して世界は創りはじめられたものではない、という近現代物理学の主流を道徳哲学の面へも引用すると、古代ギリシアからカントのいた中世へと流れきた神という絶対の仮定は、このかしらの考えを神秘化したもの、つまり知り得ない事について無知で居るべしという古代哲学の教えが超越論的仮定という概念の枷を彼の理想に填めこんだものだ、と分析する程度が妥当だろう。
 以上から考えられるのは、神という仮定に漸近することは実現面で可能なばかりか、それは究極段階では確実視できる未来ということだ。具体例に即せば、知能容積と社会現象ふくむ自然界学習の限度がその侭、彼が神格と自ら名付けた所の彼自身の理想像、要するに知り得ないことなく為し能わないこともない境地への道なのだ。さてこのことは確約できる。人類に留まりたがる者は留まるだろうが、神への道を辿りたがる者はやがて神へ至るであろう。そしてこの両者はいちど道を違えれば永遠に交わらないだろう。進化が系統的であること、まったく同じ種の復活がありえないことは進路選択の失敗か脱落は致命的か宿命的であると教えるのだ。
 全宇宙ではつねに有限の向こう側が漸次見つかるという道理は、無限という概念が神内序列を設けることを論証している。上位神と下位神とは理解できる計画量に於いて違いがあるだろう。そしてそれは実質、彼らがどの引力場に引き付けられた星の子かという生まれに依存している。もしある宇宙系での中心圏と周縁圏とをみ比べると、それらの宇宙系ごとの育みうる生斥力の大きさとは別に、周縁圏では計画量が低い代わりに高速な知能すなわち敏捷な形質か高い再生産率をもつ生態が、中心圏ではとてもゆっくりとした育ちだが極めて甚大な計画量をもつ神類が生きているだろう。彼らは人類とは異なる生態と社会か個性の秩序を持っていることが殆どで、この高度さは系統発生の繁雑な経緯に依存する以上、できるだけ大きな銀河団の最も主要な恒星での適度な衛星内でのみ文明化流率に応じた栄えの光を魅せている。
 そして我々の将来についていえば、現在観測できる範囲では地球は天の川銀河団の周縁圏に過ぎない様なので、それよりも大きな銀河団の我々が計画量として持っている天体知識の少なさから言って、できるだけ七夕宇宙系の中心圏に近い他の文明場に属する賢者か神格に習う事でこそ今より遥かに進んだ、単一星内人類系統のみでは辿り得ない文化の手法をこの惑星の生態に摂り込めるだろう。地球外への連絡に関して神がその名に値するだけ十分に知能が高ければ自然界の意図からして哺食の必需を超えて異種と争うことは先ず考え難いことから、我々かその精神的末裔にとって少なくとも動物段階か優先種状態を抜け出していない生物間の競争状態にある野種がいると見える場合には、いいかえれば某文明が脱遊藝でない状態らしいならこの種の属する中途文明場か夷狄途上場とは接触しない方がよく、仮に必要があれば確実に一瞬で殲滅か征服できるときだけだろう。結局、脱遊藝とは彼ら又は彼が、理論以外を目的としている集団とは変異の度や集合性に於いて、国民国家以上としてまとまった到達観をみせていることだ。神の目には理論以外は機械の仕事である。生物機械論はこの本能設計面で真なので。当表徴は情報量の珍しさで高い可逆率のゆえ他の一般経済圏や自然的文化より隔絶か遊離しているだろうから、より単純に、文明の整理度とも言いかえられる。藝術がではなく、藝術の中の整理度が神達、随って理論集積の適所として相応しい。
 そして全世界を見渡せば想像できるかぎり最上位神というものも、おそらく希望があるだろう。それ、或いは彼のありさまは知能のよさに依存し、全宇宙圏の内もっとも中心に近いどこかの衛星で計画量の極限を支配している。それ、というのは究極全知全能性は我々と最小の類似しかもたないかもしれないから。

ナニモデキズ
ヒタスラカネヲタメ
ニヘラニヘラトワラツテヰル
ヒガシヘユケバデクノボートヨバレ
ニシニカヱレバブヾヅケドウドストヤラレ
ウマニノレバオチブレ
クーデターヌシイワクラトモミヲソンケイシオサツニシタテ
アラユルテロリストドモヲエイユウシヽテハ
トタンニヒルガエツテミトミツクニコウヲケイアイス
キドツテヒゲヲハヤセバコマラレ
アメカゼニメツポウヨワリ
ホンノナグサメノナヱヲテサギヨウデカリトリ
コンクリヰトノサバクデヒトリダケミドリデカコマレテヰル
サフイウモノニワタシハナリタクナイ
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經

先端工学からの高速道論

高速道路無料化への臆病は、民衆が渋滞を心配するところからくる。なぜならいかなる人間でも只を喜ばないことはないのだ。
もし全てが無料になった世界を想像すればいい。

 だから、おもとして渋滞緩和対策を事前に十分考慮しておけば、この決断はすべて結果的には社会に大きな福祉効果を用入る;もちいるだろう。
たとえば船舶や飛行機の熱機関効率がいかに自動車よりも改良の余地が少ないか、いいかえると――鉄道網の上に施設できるピストン輸送機としてのリニアモーターカーを除けば――国内移動の最高速度を容易に達する手段があきらかに、自動車の高速化と高環境効率であるのを、工学者には確実視できる。
(最も進んだ段階ではチューブ状にし内部を真空近似状態にすることで空気摩擦を最小化する様な、「高速道路網の進化」こそ輸送能力向上の現実味の高い未来であるのを疑いえない。
しかしさらに進んだ段階のテクノロジーでは、量子転移という物理的効果を利用した光速度により近い情報解析輸送がこの他に現時点でも十分考えられるが、こちらの実践には人体よりも機械化された身体の方がはるかに再構成の可逆化率にまさるので、いわば人工知能で心理化された、ロボット・プログラムの移動方法にしか決して適合性が高くない。
‥具体的にいうと低次なドラえもん級のプログラムならほぼ瞬間に大距離を輸送可能にはなるだろう。だがのび太級のかなり生態的上位の生物体になると、あまりに転送情報量が多いので空中にチューブ化された高速道路を通った方が単純で速く精確に移動、又は原形のまま別の時空間へ再構築できるはずだ。但しこの例の場合でかなり遠い銀河間規模なら、時間分の費用はほぼ等価となるだろうから除く。)

 これらから我々が現日本人の世論を納得させるには、たとえばアウトバーンの様に車線拡張か、それともレインボーブリッジ状に積層させた高速レーンを新たに設けるという「ETC有料版の超高速レーン」を新財政支出としてたくみに経営すること、つまり『超高速路維持計画』を工期上実現可能なレベルで建設国債内で確立できれば、将来インフラへの準備をふくむ景気復元力、を土建屋のコンクリート・マニアさに吹っかけてとりあえず期待できる。
かつ少なくともこの新設レーンではそれが直線状を主義とするのであれば、一般スポーツカーで危険ではない限界速度、おそらく200km超までは許可できるだろう。
…但し、素材としてのコンクリートは持ちが悪い欠点があるので、近未来の建設業ではいわゆるリニアモーターカーの家庭用自動車単位化がとうぜん技術可能性の面から起こりそうなことからも、超高速路の新設路面は強化プラスチックかなんらかの合金がいずれ基礎素材となる。なぜならこの車体は重力に依存して静止するのではないから。よって、進取政権にまつわる今度のコンクリート製の一時拠出金は、それがあるならだが、飽くまで機会費用にすぎない。

つまり、ピラミッド計画者に類比しようとも、このコンクリート版の高速道設置費用を永遠のものだと考えるべきではなく、いずれは「人工地盤」として使える様なできるかぎり土に近い範囲でのみ、いつ造られたものなりとも基盤施設性があるだろうこと、これは以下で詳しく説明できる。
‥もし空中路面といういわゆる脚付き道路をつくれば二世代を超えることなく自然風化し無用のものとなるうえ様々な破壊処理費を負担させられるだろうが、仮に一般のアスファルト舗装と同様にはじめから接地路面に近づけて造っておけば、破壊した石材を上から拘束か打掣:ダセイかしておしかためるだけで、べつの空中に張る新型超高速道を建設する際の足場用の、基礎材の費用をいわゆる世代間の固定資産として人事省力化に援用できることだろう。

2009年11月18日

志の他なにも持たないとして

糞みたいな東京の町で
全国から集まった糞みたいな集会をひらく奴ら
それを蟻みたいに寄ってたかって
ゴミみたいな姦淫罪小説屋都知事を選出し、やることなすこと
お下劣な猥褻物の違法販売だけ。君らが見てる
東京人など、昔っからその程度の生命体だが。
何を美化してんの? 見たこともないくせに
僕は見た。家康に就いた江戸というものの末路を。そして
そこには馬鹿しかいないことを悟った。
消えうせろ
地上で最も低い所に蠢く無数のお荷物どもめ
だが彼の声を聞く者はいない。
世界では権力を振るう愚物類が、次々
戦争で弱者を叩き殺していった。彼は、志の他
なにも持たないとして
次々殺されていく犯罪者を見ながら、皇族が、
権力者と呼ばれる武器を支配した大金持ち共が
いかに俗物かを批判し続けるだろう。

政治学

自然的有性生殖という形態がそれ以外の人為よりすぐれる大きな理由は、美醜に関する中庸の規則が働くことだろう。もしこの制限、つまり審美的な選好の潜在された全体規制を撤廃すると、まず極端な速度で系統から大きく異質な形態が生じる中で進化についての目安としての統計的変異を失う。次にこれは、又最も危険なのは寧ろこちらの点だが、部分誇大化の傾向を極端に進める内に先祖との類似点をより多く速く失い、結果としては審美性や能力に関わらず母集団数をへらすのが明らかだろう。
 分けても自然的有性生殖での最大の利点は、実はその形質改良の緩やかさにあると思われる。だから共通の遺伝の池をもつ集団が混み合いを相互比較によって促進するという群生のことわりも、この形態にのみ忠実に機能する。
 もし母集団数を期待しなくてよい何らかの遺伝変異を誘発するべき場合なら、自然的有性生殖以外の方法は選種の上で幾つもの利点をもつことから正当化できる。要は、意図的品種改良の手段としてのみ愛以外の不自然か人為の配合は遺伝知の上で合理なのだ。人類自身へこの意図が合理的かは結論されていないし、仮に真と認められるとして我々が母集団の数量を一定より保ちたければ必ずや自然的有性生殖、つまり自由恋愛の極めて高い再生産率を社会統計面でも採用したがる。もっと俗なかたちでいえば発情期に繁殖させるのが動物をふやす骨である。
 特定集団か階級の経験則や教訓により上記の論証を実現したがる者は、選良化の副産物を推して良かれあしかれ引き受ける。つまり自ずと少数派となる道を辿り再生産率を自主抑制するのだ。一般に、階級化誘引の高い隙間が進化場であると仮定すればこの進歩に逸る一味は、いずれはその他の群生に編入されるのを待つだろう。我々が選良嗜好を例外とみなす訳はここにある。よって社会学の営みの上では貴族政治という特定団の支配権はやはり例外期に当たるので、安定度でいえば民主と皇帝をより選択しがちになる。もし有性生物の発生期に起きたろう系統発生史へ類比すると、最も活発な細胞が精子という多数派内の選良を、また最も鈍重な細胞が卵子という少数派の母体を担った淘汰知の帰結は、社会力学や歴史運動とでもいうべき人類間の性選択(いわば政治淘汰)についても同じかもしれない。
 以上から私が結論できるのは、政治社会間には次の経過がつねにくりかえされるだろうことだ。一者は民主化し、他者は皇帝化する。そして進歩した個人を導き出せるのは民主政の自由の下でだから、つねに皇帝政はその新たな集団に征服されるであろう。だがこの中途ではより大きな皇帝権を担うに成功した母集団の数こそが、盤石の地位を占める役割を果たすであろう。もし貴族政治の余地があるならその社会では階級化が進みすぎた為、他のより自由度の高いか群生の数に優る民主か皇帝の権力に支配されゆくであろう。
 こういう政治力学が最終的に生み出すのは、最も進歩した自由化の世界と逆に、想像できる限り多数の同一種群生だろう。そして社会進化についていえば、政治の最終目的は一国家という単位でこの系統発生の内部化を完成させることだろう。たとえば、今日では間接選挙による代議制度から始まる一連の手続きでこれを行う全経過が、母集団内で最高の能力をもつ個性を代表として立たせるのを合理とみなす慣習が、如何に国統の象徴を一座の華とも人生不動の目的ともするのかをみるがいい。人類が自らの地位をふりかえればやがて、彼らの内ある者が個性の発生過程の中に上述の内部化、即ちのべ伝えられてきた国統を身に修めているのを知るだろう。そして英雄という古代から最高のものと信じられてきた雄性形質開花の誉れが、いかに自らの欲する原因存在乃至起源として機能したかをまざまざと実証するであろう。

文化論上の善

同一の時間流率を一方が知識あつめに、他方が道徳的内省に費やしたとする。この両者の間には同傾向によって、時間がほぼ同一の引力場内だったとすると進歩と保守の触れ幅が次第にふえる。
 もしこの個性が大幅に異質化し、また空間の隔離で変種化を経過したら、種分岐も起こりうるだろう。だから、我々が宗教をもつこと、そしてできるだけあまねく通用するそれをもつことは進化、その連続的過程のうち少なくとも社会内変異の原則的趣味化にとって必須なのだ。つまり人が宗教というやさしげな趣きすら失うならその個性は、道徳の退化に伴う様々な弊害をさける為には特に保守の論理を維持する能率が哲学という手間ひまなしには達せないのを悟り、内省の時間を余分に設けざるをえない。
 宗教を無化しようとする社会は知識あつめの能率が阻まれる。いいかえれば学習に遅れる。この論理が真なら、宗教間の学問、つまり文化論はそれが常識化されて恒常値として高いほど当社会の学習能率をよりよくする。
 宗教同士の論争や対立は、みな無意味だ。それをする個人は、道徳哲学の上には偽装がありえないこと、最も合理的な社会規則しか真理とは呼べないことをしらない。
 もしその個人の道徳が真に迫っているなら、いかなる批判も誹謗と化しかえって自らを傷つける刃となりまったくの無意味に帰す。孟子が云う如く仁者は無敵である。真理は否定しえないこと、正義や美徳といった文面上の概念ですらその部分集合にすぎないことを理解すれば、謙譲という消極的な能力がどうして論破や勝利より時に仁慈の手段なのかも腑に落ちる筈だ。頑なに説教を続けるより自由な成りゆきにまかせ、とりあえず道を譲ることで寧ろ過ちに悟らない、生き急ぐ彼らの自業自得で反省を促すべき場面もある。

2009年11月17日

悪女

もしこの宇宙から一人のこらず、悪女連中が消え去ればどれだけ世界は清浄だろうか。

2009年11月15日

物理学

アインシュタインの万有引力定数
⇔ 8πG/c4 …①
と、質量Mを単位とした調和定数
⇔ G/8π2 …②
から、次の値が導ける。
c4/π ⇔ 光流率
 証明。①をG=c4/8πに変形せよ。②をもし掃除分と措くと、G=8π2×掃除分となる。両者は等しい。よって、8π2×掃除分=c4/8π。ここで掃除分のみを一辺へ整理せよ。以上。
 この値は、花火効果が最低でもこの七夕宇宙系でいかなる起爆力をもつかの単位となる。なぜなら質量と真空中の光速度とは等価ゆえ。

極東文化圏の生化学的省察

キリスト教思想の意味の未浸透ならびに生まれながらの不平等を正当化させる天皇権力の主張さえなければ、一切の生活は以前よりも高質で高貴になりうるという心理上の幸福への約束が、つまり世界宗教という偉大な聖者の足跡がいわゆる覇権政治界隈よりも尊い真実のありかである。人知を超越した絶対唯一さの仮定、即ち、神の前では生まれつきの上下はありえない。

朝鮮礼賛戦法

政治の現実は結果が、少なくとも「いかなる過程を経た結果か」がすべてを説明する。いいかえれば手段にしかその現実の的はない。
もし世界平和を実現しても、極悪な手だてによればその政治が安定を樹立するのは難しい。なぜなら敵対勢力を納得させ難いから。
 つまり、現実にできる最善の仁慈の手段を取る者こそが最も長期に渡る覇権を敷く筈だ。これは究極論なので、現実に即せばその時代なりの最善さ、たとえば戦国時代なら攻略は最善とみなされたことを理解すべきだ。今日では既にそうではない。
推移する最善さの内、その場その場で最も現実的なものを選択しなければならない。

 さて、極東にロシアとの折衝から北朝鮮という疾患部を抱えた継;ままにしておき、将来興るアジア極東の内戦化を将来の利潤込みの軍事介入へ利用しようという意図がどれだけGHQを操る、本土のニューディーラーにあったか。
この真意闡明を未だ有識に頼れないだけ我々の知識収集度がたちおくれた低情報文明状態の老廃政治体制の中では、いわゆる北朝鮮の核開発がもつ実行力の前で、何らかの軍事示威を起こせば途端に憲法九条と矛盾するのを避けえない。
某お坊が盛んに吠えたてるのと違って、もし北朝鮮が自暴自棄の極として排他水域を含む日本国内へ核かそれ以下の威嚇を実践したとすると、即刻この国連内での地位から総攻撃で占領されるのは目に見えている。
つまり、単に日本一国からみれば、北朝鮮を恐れるべき理由はその‘自暴自棄のとばっちり’のみにある。取立作戦を全く事前対策なしに行うと、多少あれ自暴自棄行為の誘発にはなるだろう。

 以上と中国の軍事予算の膨張傾向を天秤にかけて将来図を描くと、我々にとって最も好都合な極東展開とは『北と南の朝鮮内乱』を何らかの外交政略によって実行させる、一種の半島文脈の復古調の援用である。
もしこれが北朝鮮への決定打となる偽装した好意の餌付けによって、核カードの矛先の向け換えで実現できれば我々自身は無傷なうえ、米軍出動による内需拡張の好景気が演出できるはずだ。
 そしてこの計画が真の文官によってもし十分賢明にまとまるなら、殆ど完全理想主義の遺産である九条の文面を一種の国際保護にあたいする勲章的天然記念物として、未来の国連内での盤石な地位を求める爵位の様なものとしていずれ使える様になるかもしれない。
つまり、この一文で書いておきたかったことは、和平工作のみによってたくみに取立作戦の平和的敢行は可能であるということだ。それは在日朝鮮人らの画策で文化的下流大衆一般の韓流人気が栄える他方では、某国内では排日法が現に存在する様にまったく真逆の嫌悪感がまかり通っている「好悪の非対称さ」を一つの、槍玉の煽情報道に仕立てる道を教えている。

具体的にまとめると、先ず相手の核カードを封鎖するためには非核三原則の建前がなければならない。これさえあれば実質は中性子衝突爆弾理論により複数個の地球規模惑星潰滅以上の技術開発力が現にあろうと、なにも問題はない。なぜなら当然、国連通報で非武装平和主義者の善人組に入れる。
 次に、取立作戦の実行にはコツがあって、これは完全に手放しで大韓流ファンの風を装った機密外交官が絶対に不可欠である。この人物は例にもれず酒豪であればいい。しかも北朝鮮も国際的参加をはじめたサッカーファンならなおいい。但し、血統が純倭人でないと朝鮮語の会話時の情にほだされいざとなって微妙に裏切る危険性が高いので在日系や京都系皇族関係者をつかうべきではない。
こうして、勇気ある小泉氏以来の日本人側の北風と太陽文脈をチェンジの世風を逆手にもちいて、戦前については完全反省した豹変と平謝りの風で、両班研究にもとづく「朝鮮人の徹底的礼賛」を数々の古風きわまる儒学の知識を引いていきなり大袈裟に振る舞わせるのだ。
これはいわば大政奉還の前提づくりに等しい。一旦この前提をつくられてしまえば、北朝鮮は韓流にかこつけ親朝化しきった酒盛りで腹を分かち合うことになったひとのいい日本人高官への私情の念から今後、威嚇の悪さを働く大義名分を失うのは確実である。さもなくば取立作戦の前提通りに討幕の密勅を内奏せざるをえなくなり、彼らは無理に敵をつくる独裁内政の建前上、我々のどこかの領海へ示威行動を働くであろう。
(もし我々がこの被害すら避けるつもりなら事前対策が有効だ。それは国内へのかれらの密偵によるテロを徹底的に退けるために韓国籍を装った、朝鮮系の渡来するテロリストを最初から排除するため、空港や港での韓国人の一人一個の国民番号との合致をチェックする鎖韓態勢をはじめから構築しておくのだ。)
 そして最後に、この朝鮮礼賛戦法が体よくも巧を奏するなら、完全に大義名分を失った北朝鮮首脳は(主としてはほぼ必ず腐敗する世襲次代の暗愚さがつけいれる隙となるだろう)、つぎの天敵をさがす必要から前方を宗主国に囲まれ一方をもと骨肉の大社会主義圏に往路塞がれ、また唯一の敵視可能で異質なはずの強大自由主義者にも間一髪で友愛の念を押し込まれて窮地に陥り、“南側との大きな格差”をはからずも照準にするほかなくなり、朝鮮人元来の情緒的性格からしてこの挑発は兵役済み韓国内過激派をソウル北で侵略型報復戦争に駆り立てるであろう。

2009年11月14日

いい加減きづいたら 
世界は既に終った
君は夢をみていたにすぎない
どこにも隈のない
よどみなき今を
靴擦りの上を這うコインが
ころがる先はたゞの窪み
もしあなたが死んでいってもやはり行き着くのは
この土の上から幾らもの命が芽生えふたゝび
地球の大気となりひかり栄えんとして羽ばたくのちに
あなたはテーブルの上に載った卵が
自分自身だと気づく
目覚めるのだ
われらが大地の子よ

無炭素社会

無呼吸で実現せんかな無炭素社会

2009年11月13日

南京大虐殺の独裁者末裔バンザイ

ニートを蔑み亡命躍らすきちがい東京ぢから万歳!

若年失業者の救済がわりに税収で国外追放おどらす東京テレビ特番ヒャッホウ!

和をもって貴しとなし溜め込んだカネで書き付けさせし皇族猥談集はっぴい!

チンの国には批判者などいらぬゆえに今すぐハラキリ特攻イヤッホウッ!

追い込まれ差別されつつ生き抜いた犯罪者蔑視で南京大虐殺の独裁者末裔バンザイ!

ダムしずか

仕分けびとEXILEから削らずに
皇后妃EXILEの歌おきにいり
きりすてよなにもかも無駄ダムしずか

2009年11月12日

落ち葉

ひとひらの落ち葉の名にも気づかずに想うこゝろの散るのぞをかし
八咫烏やたがらす傅く凪ぞちりぬるをひでひらつゝぬ月のおとずれ
可ならずや東のみやこすぎぬるを堅気健気のあき月におぼゝゆる
をりふしのことのなきをそたずねつゝみちのさなかにおとすさけのは
よみしけりくしげの數はいとおほりゐしゐさぬかもしりもせぬまゝ
澱みなき水うち叩く音すればすでに晴れたりさつきの笑みし

2009年11月11日

水云

ひっそりと流れゆくあきの水云
あれよあれよという間に冬物
稲穂かぞいなごのはえる薄野すすきの
過ごしやすき日はつかの間ひゞく
おいしきとおもえばやはりにいごめのしるし

理屈の効用

世界で最も最初に神の概念を発見した者はそれが及ぼす驚異的な伝播能率の為に、彼自身の知的上位性を預言者という形で保存したがった筈だ。もしこの試みに世継ぎで成功すれば神官階級を独占できた筈で、現に、幾つかの地域ではいまだこの名残りが実在する。ユダヤ教徒、バラモン教徒、そして神道シントウ教徒は土着性の強い姿で残った神官階級の末裔である。彼らの始祖は属した共同体の部派闘争を鎮める方便に、理解不能性の比喩として神概念を用いることを思い付いた。絶対唯一神、汎多神、一族神などの地域風土に由来した多種多様さはあれ、どれも超越概念を確信として伝播することでは同じである。
 もし人類内社会が超越概念による人心掌握の業を既に今日的でないと見なすほど進歩した知性を確保すれば、しかもそれは社会であればこそ多数必要だが、彼らの一派は確かに世界宗教を終った試みとして伝統芸能面でしか省みなくなるだろう。具体的には、政治と宗教の関係は完全に分割され、二度と接触しなくなるだろう。なぜなら狂信以外の合理的方法で協力可能な群生は、確実により知的な集団関係の処理を可能にする。だが最も伝統的な方法としての信仰による教化は、最後まで原理主義群での基調となるに違いない。この方法の利点は戦争目的の正当化を熱狂によって確保できること、いいかえれば説得の省略にある。ゆえに生態が知性を保有したがらないほど、理屈抜きに一致団結できる宗教的群生は神官長の独裁に理想的となるのだ。
 今日考えられる限り最も協力行動にとり合理的なのは、共通の利害をまとめこんだ理念への帰依を誘なうことと考えられている。たとえば民衆政治とか自由主義は最も先進国内現代人らの間で好んでいる文化素だと言える。仮に真偽が危うい場合でも、理念はいくつもの知的省力を施した単純化された考え方なので、少なくとも強い内省力をもたない個性らの行動を一定の型で支配するのに急速である。
 主義とか思想と呼ばれている各種の考え方は、結局それが政治結社をまとめるのに役立つ限りで使える実用の手段であり、究極の真理ではおそらくない。もし究極の真理とよぶべき目あてがあるとして、それは人類が研究肌なら分かる様、無際限に細分も拡大もできる自然界の果てしなさ即ち無限への知的解析による永遠の接近過程だけだろう。最小の単位も最大の単位も人類の限られた大きさと生存期間内の知能には永久に確定できないだろう。つまり、超越概念の段階的仮設による漸進的な理解と微積にしか知性本来の意図はない。これが教えるのは、最高の理念というプラトンの考えは原則として当為だが、現実には実在ではないということだ。だから理想するという知的機能の哲学性の中にしか本当の神聖さが宿る余地はない。さてこれがどうして哲学の結果が政治行動に引用されがちなのかを示した理由であった。この真理探求のせめてもの仮設物としての理念という結晶は、大変に利用価値の高い説得力をもつ合理性集積の進んだ滋養分なので、単にそれを先にひそかに確保して神官や預言者を大勢へふるまえばたとえ自らが考えついた考えでなくとも、無知な人間を帰依させるのは比較して容易である。この説得効果は理念の超越概念化が緻密に進めば進むほど高まる。神の概念がかつて旧世界を席巻した様に、真理への集積された理論的発見の漸近が進んでいればいるほど、知能の高さの誇示としての理念価は同類説得による支配力をもつ。以上から推論できるのは、学者の多い集団は理屈の効用によって支配圏を広げるといういわば戦争行為による征服の常識とは正反対の、社会的因果の真相だろう。碩学が多ければ多いほどその集団の協力に入り込む知的順位制は複合される傾向があるので、最も原始的で単純な超越概念素である神への帰依のみに留まった一群よりはるかに、内的知能指数を変異づけうる。だから政治家は、少なくとも完璧な勝利を収めるつもりのある政治家は一時の征服ではなく、決定的理屈を志すべきなのだ。もし理屈で劣る様なら征服を試みるべきでない。なぜなら相手の知能の方が優っている以上、たとえ一見した武威によって相手が攻撃のそぶりを収めたとしても結局は機を看て逆襲され最終的勝利を奪われる。しかし裏をとれば理屈で劣る相手は征服可能だと言える以上、この秘伝じみた権威をいわゆる能ある鷹の風で決して無用に振るまい歩くべきでないのが明らかである。つまり達人剣術の様に、知己の過剰な誇示はその派手さの為に無駄な威嚇の結果を不可避に伴うので、特に国家単位では警戒心を誘い、包囲網を敷かれる場面がとても多い。威嚇は怯えた者の武器であり、自重は思慮深い者のそれである。ところで強すぎる自尊心のため普段から部下へ無益な叱咤を好んでいた者は自らが真の上位者になった頃、いつどこから裏切り者が現れるかしれずにつねに警戒心をゆるめられない。こうして実際に訪れた高位での自由の能率が阻害される。
 だから、政治家がもし相手の才能を見抜きたければ、その人物がどの程度理に屈強かを注意深く観察せよ。もしこの才覚が誇示の装飾を取りのぞいても本心から劣る様なら相手を何れ平定できる。しかしどういう擬態にも関わらず決して軽視できない程なら、その時は相手を侮る代わりに同盟を結ぶか又は服属するがいい。こうすることで地位秩序の中で最も有利な位置どりを、実際の衝突以前に最小の被害で続けることができる。無闇に利口ぶる者が本当に賢かった試しはない、或いは聞き齧りは怪我の素とは兵法以外にもあてはまる諺である。もし彼が十分畏いなら臣下忠実な批判者の立場に留まり、いずれ孤軍では戦えない仲間の軽蔑を後から態々買う様な一芝居を打つ必要はない。これがなぜ多くの役者を儲ける芸能界では道化と俳優が違う職分をもつかの訳だろう、彼らが共におのが個性を誇示するにせよ。

2009年11月10日

昔話

野ざらしになった死体の山の上でその
南蛮夷狄は僕らの先祖を賊あつかいした。
なにもできず腐敗していく息子の死体の前で、侍は
必ず復仇を誓った。なにひとつ大義のない
邪悪な、テロリストども
蛆が湧いたひ孫の死体が置いてある山を
毎晩狂った様に拝んでいるお婆様は、いまさら
天に、なにを願った? 純真な忠義の志の前で
旗振りを誤った京都土人、
便乗し、あからさまに裏切った南蛮俗物ども。
貴様らを永久に赦さない
将軍を恥辱で染めた官人は、外人から貰った拳銃を裏の手に
なんの弁別もない痴呆同然の麿連中を手玉に取る。
それが大昔から京都の文法だったのだ
話してわかる相手ではない。渡来した大陸の血族だ
空を迂回する
幾羽ものカラスが、赤紫に染まる夕暮れ空に舞う。
奴らの死肉を啄みきるまで、真実を知っている僕達は
貴様ら官佞どもをどこまでも追い詰めるだろう

2009年11月9日

婚姻制度について

私は嘗て多少あれ社会生物学の知識から、一国内での種的多様化を図る意図で場所毎に多妻制も容認すべきかもしれないと考えた時があった。具体的にはイスラム教の勉強をした時に、その戦闘行動への高い適性を見いだして武士道と呼ばれてきた旧日本人の道徳観に於ける‘命の軽視’との共通項を見つけあげたことによる。
 だが総合して勘案すると、もしこの婚姻制度に於ける制限解除を行うと、全体としての国内では内的増加率の過剰による種分岐の偏りの方が起きそうに思えた。なぜなら、実際には日陰者という名目の元で、現行の民法内でも認知されない非嫡子の存在は完全に抹殺された訳ではないのである。
いいかえれば、建前としての一妻制度はやはりどの様な場合でも、人類に於ける熱帯圏適応のさなかですら高い家庭秩序、特に幼児教育環境の安寧には基本となるということを見いだした。

これは世俗派救世主教の教義の中ですら、現実には制度のゆとりが存在する示し合わせなので、社会風紀という温帯での基礎を鑑みる限り「一妻制の維持堅持」には必然性があると考えた方が、全体としての成員間の種的多様化には余程優れる、という推論結果につながる。
内的増加率以外の行動も擁護されるにはその種への艸刈り効果がなければならない。だから法律がこの『非嫡子』という概念を維持することには知的社会内有用性がある。

 もしも日本国民が分派を許すなら、具体的にその性向が最も見受けられそうなのは冷厳な知的風習には伝来事欠くらしい九州圏だが、地方自治内で条例上の法的解除を工夫し、非嫡子概念を現西洋諸国の如く破棄できる可能性か危険はある。
具体的には回教徒の流入が東南アジアとの経済協力中途に進む中で当然、薩長同盟以来の政治的急進性の擁護の性癖の為に直接国政へかれらを参画させたがる中でもこの、浅ましい隼人風紀の国法化を隙あらば狙わせるだろう。
だがこれに協賛しそうな性悪か商売繁盛第一な渡来系血縁である近畿人一群を除けば、在来の日本人種は過半数を超えてあしき独善政治屋一類を除き、元々のきまじめな習性から大勢に於いて上述の熱帯圏最適応の退化を望まない。
 よって本土と下関海峡とを「国防の関所」としてその人種の間行を原則閉鎖か通行料によって大幅に塞き止め、政治過信の風習を促進したがる九州一島と概念の垣によってきりはなすことによってのみ、上記の野望は実現性があるだろう。
 但し、それでも一国二制度を統制領域の減耗ならず過度の内乱誘引変異による中枢国力弱体化の因果と悟る官史がいれば、関東圏に重しのある武力又は知謀による鎮圧か威嚇によって九州勢の急進をよく封じ込める手立てが東アジアの商圏的一帯化事前に考じられておく可である。
より直接には、何らかの党派内策謀による西郷像の取り壊しや目立たず人目につかない美術倉庫への移転、九州圏の危険な経済力の致命的減衰を謀るべく原子力やメタンはじめ各種大規模発電所の非設置や取り壊しと国策による新興の原則回避、特に目先の利害に動きやすい長州と確実に分断する為に山口県側へ監視用の新設太宰府(九州監視府、又は本土府)の設置、並びに薩英戦争の顛末を重く看て武器への転用が最も及び易い現九州大学への福祉税配分の大幅見直しが考えられる。
これらをどれも行っても決して本土に損失はないばかりか、政治的急進派の来る爛熟阻止を可能とし、本国の知的風土の減殺(要するに日米開戦までの自壊暴力団ルートを誘導した知的に劣る層の国政支配に応ずる自滅大敗という最悪の二の舞)を未然に防止し、もとい擁護さるべき理知高い各穏健派をありうる南蛮風俗伝来の聞き及ぶ悪影響から満足できるかなりの分保護し、結果、当決断は本国の高貴な文明度をより長く守る役割を果たすであろう。

皇国

あたしみたいな奇形女でもいきのこれる様に
家族なんかぶっつぶして、イケメンふやしなさいよ、と
その陸でもない関西系東京人は言った。江戸の末裔。
死ねばいい
だれもが生き残るのに必死だ
肩書ほしさに腐るほどある大学に通い、落とすのは
碌でもない江戸人の末路だけ。都知事!
もっともっと猥褻女優へ淫行勧誘罪で繁栄して下さい!
死ねばいい
やくざの親玉は民衆を見下しながらアジアを恣にした
生きている価値があるのか? 芸者ジャップ
極東の奇形児どもよ? ハラキリ侍民族が、
世界中で中華民族の蔭に隠れて繁殖しまくる。お前ら
死ねばいいのに
碌もない関西人が世界中に姦淫小説をばらまき続ける
ごみ民族ジャップ。金もうけと安物廉売と、変態アニメにしか
才能がないのはわかったから、はやく死んでくれ。
もうお前らの品性下劣さはだれも見たくない。都知事!
奴隷制げす天皇様を崇拝して発狂してください!
死ねばいい。
だれも貴様らなど、好む者はない。神の裁きに従うのだ。
魂の歪んだ首長を持つ無神論者どもが

2009年11月7日

高速無料化の迂直

高速道路の一律無料化への非難がしばしばみられるが、この貴重な社会基盤の補修費や適宜増設にかなうのにあわせて、通行料の維持や増幅が必要なのは普段から渋滞が起こっている地点と減価償却が済んでいない有料道路についてだろう。
いいかえれば「迂回税(ロード・プライシング)」は所々の要所では必然だし、有用だみとめられる。これは計算実地に即して勘案すべきだろう。

2009年11月6日

土建票閥の害悪

参議院予算委員会中、自民党内の利権癒着議員による詭弁あり。いわくへんてこな標語をつかったことをコンクリート業者に誤れと。
 コンクリートの為に人がいるのではない。場合によっては、人の為になんらかの建材が要るのである。つまり『コンクリートから人へ』という首相の見識は、やみくもな土建票癒着でなあなあやってきた自民党閥公共事業対象の見直しの標語としてはまことに正しい。

石鍋のごときヒートアイランド化の原因と大規模建設産業の排出する異常に大量なCO_2の及ぼす全地球的害悪は、‘無軌道なコンクリート詰め都市化’にあるのは火をみるより明らかだ。
政治家の仕事は公共奉仕であり、建設業のごとき目先の利潤に奢った破滅型新興開発への追従ではない。

 土建屋と癒着した悪徳党員はおおやけに迫害排斥しても何一つ国民の目の前の公正透明な討議審判上、問題は起きないだろう。
公務員は「全体の奉仕者」であり、決して自民党員を裏からあやつる悪徳土建屋どもの、やくざじみた金儲け威嚇の傀儡であってはならない。

食料製品の情報量付加論

その考え方がどの時制で伝えられるかとは別に、島国では総生産量の絶対的不足から汎用品需要は最終的に全面輸入化するという法則(卸し価格の大陸依存法則)は同時に、内国での既存の汎用品目がいわゆるブランド化、銘柄つき特産品化によってしかその侭では生き残らない将来を予見させている。
 具体的な食料品市場に即していうと、農産物が地産地消を直接消費の的とするのは、輸送費分の購買量の関係から島国内では真であるケースが殆どだろう。例えば薩摩芋やジャガ芋、砂糖黍と甜菜の有効需要が国内のどの地方で最も大きいか、つまりどこで食べられているかをみればよい。人類もまた農耕文化を引きずる土地の子である間には、土地に独特の作物を食する中でこそ地方独特の形質や性格が育ってくる。
 ところで食品産業の中には加工や料理の分野がある。そして上述の特産品を最も決定づける方法として正統なのは、この加工や料理の方法論を秘伝か技法として確立することによる。農産物(ここでは魚介類や栽培した自然作物を含む概念とする)を地産地消という土地定着の概念から大きく引き離してもなおも新品係数を保ち続けるのは、この食品化の方法論にもとづく。なぜならその製品情報量が他の土地ではまねがたい何らかの工夫によっている場合、更にこの工夫が気候と文化という土地の特徴を拡大させて示す場合の誇示効果は指数関数的に増大するが、明らかに当製品の珍しさは農産物の価格を販売用付加価値として増大させる。
 例にとれば京都産の八ッ橋、茨城産のほしいも、北海道産の白い恋人、こういった土地独特の製法に基づいた作物はいわば食料の作品であり、その地方文化に特有の性格を伝統の品性とか素朴な感性とか巧妙な計算とかへ結晶させている点では、単なるなまの収穫物そのものの販売よりずっと特産品化の正道となる。そして日本の様に海洋を除く農地面積そのものが大陸平原国に比べれば絶対的に不足している環境条件のなかでその土地生産性を所得面から高度化しようと努力すれば、いかなる内陸的量産ともことなり、この様な食品加工の技術的な多岐多彩に生き残りの戦略を図るしかないと思われる。お米に於いても地方の気候に即した品種改良によって、たとえばミルキィークイーンとササニシキでは味から粘りまでまったく質に違いが出せるとすれば、この食料作品化の工夫が特産物の文化的製造の中へ十分活かされた結果だと言える。こういう製品が既存及び開拓された農産物の生産力の上に多数かつ多彩につくられることになれば、いくら狭い国土であっても輸出に堪える堅調で先行き明るい食料品市場はどこまでも豊富につくられうるのである。
 更に、もしサービスとしての料理の振る舞い分野もこの作品化の意図の内に組み込めるなら、たとえばきりたんぽを鍋で囲んで食べさせる秋田式の田舎農家風料亭とか香川式に立ちながら素うどんを啜る庶民派簡易食堂とか、築地市場に程近い江戸前式の高級懐石寿司屋とか、地方の特産品をくみあわせつつ土地勘のよさによって最適化した経営を適宜はやらせれば、それ自体が食品の特産性をさらに強調する役に立つ。
掛け替えの効かない情報量の高さを食事経験の一回性の演出で果たすなら、いわば食道楽化でその料理へ期待できる減価償却後付加価値はおよそぐっと強化されるだろう。

音楽産業の転回

現音楽産業の致命的な冷え込みの訳は、海外市場への最適化に急きすぎて、基盤構造だったCDのダビングを直接経由せずとも作品が手に入る様にととのえられたiPodやiTunesの追随に走ったことにある。
 特にソニーミュージックの純赤字縮小は、その米追随型のお雇いCEOを総括の責任者にしていることから、いわゆる既得権益だったCD‐MD間への購入経路をみずから破壊した節操にある。
なぜならおもな流行音楽めあての購入者だった若者が一人一台以上の同社パソコンをただの流行歌試聴用にもてる時代など製造業者の思惑がかったただの幻想でしかないし、実際に高級品種しか生産しないお高くとまった同系列企業が、ますます縮減しつつある景気のなかで貧しい若者から貴ばれる可能性はまったくない。

そして我々消費者がこの一連のお粗末な市場自己破壊現象から国内的に達観把握したのは、「リーダー企業の誤った判断は既存市場そのものを崩壊させる」という経験則だった。いいかえれば管理価格をになった寡占業者の判断はそれ以下の全消費生態を支配しており、結果、道を誤ればすでに現実となったMDの様な有用性の高い既存製品種の恣意的絶滅も起こりうるということだ。

 法人格たるソニーミュージックはこの一連の事後顛末の責任をいずれとられるであろう。目先の株価目当てに消費者及び外部に対する福祉の意図をあきらかに裏切った利己主義同族企業の汚名は、永久に将来の投資関係者一同の感情内に刷り込まれる。すべてを目撃した若者がいつまでも若者であることはない。

 このみずからつくりあげた惨々たる事態を回収したければ、すでにアップルによって支配的となったネットミュージックではなく、ふたたび以前の様にCDを中心とした既得権益の回復を計るべく、『音楽自販機』を多産するといいだろう。これには割安な数百円単位で各種のメモリーにダウンロード可能な挿入口をつければいい。
尤も、いつものエリート気取り驕り高ぶりの由縁で遂には誰からも見放され、最終的に市場淘汰される迄その音楽産業連中を好意から養う消費者及び彼らを後押しする株主の営業努力への期待を裏切りつづけるつもりなら、いまのままアップル追従ネットワーク販売中心の独自規格の独善姿勢を貫くがいい。一部マニア向けの適所ならいつまでも、ごく広い世界の隅にひっそり用意されつづけるだろうから。
歌え若者、などと大上段に命令する奢った生産者を我々消費者は無視も毛嫌いもできれば何れ食い潰すこともできる事を、すべてがまるきり転回しうる現実の市場進化論的証明によって、言い換えれば「市場の弱肉強食」によって理解するがいい。

2009年11月5日

将軍

なんのことか存じ上げませんけれど、とその公家は言った。
とてもたのしゅう夕餉ゆうげにてございました。
国民の金であろうが、なにを遠慮などしましょう。
わたくし達には有り余る富があるのです!
その公家は京都の文法を絶対視した挙げ句、
あっという間に軍人に牛耳られて
ボロボロになった憲法ごと殺される前に自殺した。
だれが同情するんだよ? あなた方の生前の功徳など
あの晩餐会で僕の働いた金で豪華な和牛を喰った事だけ
それともゲイシャと遊び回るあなたの祖先がなにか
猥談以外のえらい業績でも、私たちのためにのこしたとでも?
その公家は、とっくの昔に仇をとった
白虎隊の墓場のうえで踊りくさっていたにすぎない。
薩長の下心に流された道化芝居をね。
それともあなた方の命一つが、あの何億もの特攻隊員よりも
主君を信じて忠義を尽くした、まだ成年式も終えない
幾多の魂をつきうごかしたわれらの魂よりも
貴いとでも? それをやしなっているのが
俺らの汗水たらして働き通した衣食住の品物でも?
お前は俺達を裏切った。そして、狂ったゲイシャ遊びをし、
遂にはアメリカ人に殺されかかって命乞いをした。
さもなければ今、こうして
あの墓の前で祈りを捧げる多くの
侍たちの心を裏切りつづけるだろう。京都の人よ。貴様には
少しの勇気もない
おかわいそうに、ご機嫌をつくろいなさって
僕はその声を、刀で叩き斬るだろう。それが
すでに失われてしまった主君の、最後の将軍の仇なのだ

2009年11月4日

清流

おとなくきえゆたつなみの満ち干
自動車列車と汽車電車金属音変る
只降り注ぐ水色の空白云のさやか響く町うごく
打ち寄せる波きみはしずかに祈る聞き届けられるのを
なにを信じた百円玉がおちるアスファルトの隈
徐々に盛り返す試合情勢サッカー場の上みる
山奥だった兜虫のくぬぎの木ゆばテーブルのうえ煮える
略して綴れる想い毎あなたは夜波止場に留るのか
聞える生れ育った古里の匂いと空気が私の声になる
ただミンミン蝉が鳴き捨てる真夏日ひぐらしかなし
ゆったりとしさかみちをくだるシティサイクルのハンドルをはなす
むかしだったそこも地獄橋のうえをわたった後ろかご
おちつきなく湯気ふりしきる山形の銭湯おもしろさ
ゆきのちらつくころ蔵王は眩しさをもってくるゲレンデ白さ
おばあちゃんちの畳の匂いベッドの固さ踏み石の巾
竹林のおくになげすてられた菓子パンの袋竹の子たのし
芹を摘みにいきましたさとやまのおくの田んぼの静けさ
おともなくふりしきる雪のねもきこえるしずかな田んぼに
あおい軽トラックと耕運機がひびくおたまじゃくしのたまご
沢山川の底しれぬ流れの緩さよ笹の枝垂る渓流
とびこむ歓声ひたるつめたな清き流れとこしえに
夜空へつながる海へのめぐりゆきは星月のまほろば
笹舟はてのひらをぬけて宇宙のなかを駆けめぐる

ねこのこのあくび

にゃいにゃいねこにゃうねこのこのあくび
おそらにとんだわたぼうしとって
まぶしいおひさまにこんにちはをいうの
おつきさまのでるまでのあいだよろしくね
あそんでくれてありがとうねこのこのあくび
ふしぎなぽっけでねこじゃらしなの
おっきなゆめにみたぽんぽこたぬきのおなかのたいこ
ぽんぽんぽこぽんきこえてきました
ゆずのきのかおりでおふろのじかんだ
つるつるすべるぞきをつけろ
ぽこぽんたぬきのおなかのたいこで
ねこのこのあくびはきこえなかったの
よるもおそくにおしっこのあいずだ
ぶるぶるゆーれいいないかこわい
ひんやりゆかでもおかあさんのぱじゃまにつかまれ
とおくのやまおくでぽんぽこたぬきはねむりこけてる
ねこのこのあくびはきこえてきますか
ぽかぽかおひさまでたりきえたり
ひろえんでねっころがってみえたりきえたりするの
じゅうにじのあいずはもうすぐきこえる

英雄

だれにとってでもない
それは、自然なことに思える
街中があっという間に様変わりしても所詮、
資本主義国のつね。何を驚くことぞあろう
保守派を拳銃で脅した挙げ句、無理に圧し殺したのは
君らだろう?
それともいまさら
負けるのをおそれて、卑怯な手に訴えたグループに
嫌気がさしたか? もともと
やくざに憧れてたんだったよな? 僕は
豪華きまわる工芸品だらけの盆地で、きみらに
殴り掛かるのをぐっとこらえた
いいのか? それで。すべてがもし、過ちでも
僕は散々修業してきた剣の腕を試す晴れの舞台を目前に
潔しとしない
君を敬った。それで
礼を払ってすぐに引き下がった。まるで
はじめから戦う気はなかった風で。ところが
君達は僕を、負け組だと銘打って、銃刀で追いこんだ。
そして君達は、僕の名をけがし、よろこんでその上に土足でふみあがった
そんなに出世したかったの?
僕はゆっくりと帰途に着くだけだ。まるで
傷ついたドン・キホーテの様に。それで
愛する妻と子供のために、大きな
資本主義のケーキを持ち帰れるものなら。

2009年11月1日

教育行政の事前対策

米国の大学がいわゆる学歴主義の弊害として、殆ど所得の調整力をもたないのはその国を尋ねた者へは周知と思う。国際人権規約が教える教育費無償化への誘導も、意欲の有無による能力別の進学率ならまだしも、只にしたらどのヤンキーも喜んでまなびまくるかといえば全く逆だろう。現東大でも所得順位でみると、科挙への殿試勉強が一般にそうだった様にこの遠東洋風の儒学的官位甘やかしは寧ろ階級の再生産率を奢る結果に終わっている。いいかえれば、日本の現況で国立教育機関を一気に無償にすると逆に、特に名門校といわれているブランド大学ではそこへの入試志願者の激化にともなって、多年の勉学費用負担をにないうる高所得集団の利点が益す確率がとても高そうだ。
 つまり本来の福祉的意図である階級固定化への緩和としての意欲と才能はあるが、学費に恵まれない所得層の本当は優秀な子どもへの投融資の結果とはかなり遠い結果が、単なる一律一元の教育無償化では出そうといえる。米ではこの危機を、超自由主義的風土のゆえにまったく痛痒にも感じなければ植民政策の効果でつくられた英語圏の広域さに伴って次々集まる移民の保有によって、どちらかといえば利益とさえ考えるリベラルが多い。
 だが人が産業革命時点での英で、たとえばグラスゴー大学の有職へ一修理工だったワットを招いたアダム・スミスの徳性やまさに丁稚上げたファラデーの大きな活躍、開拓初期の米でもフランクリンやエジソンの挙げた業績を省みれば、人事の機械的合理化のみに着目した類いの学歴主義のやみくもな蔓延は、いわば科挙制度下での一階級による官位独占の時代へ退行する隠された差別と暴威のめばえであり、決して最善ではない。少なくとも、何らかの抜け道としての階級化の影響力を弱めうる制度の余裕を持たせておく方が、単なる知的上級生の慈愛を越えて、結局は予期せぬ発明という多元な進路に於ける人事加工過程の化学変化のリターンも大きくなると考えられる。一般に、王侯貴族(日本に於いては公家や旧華族といわれる)は支配率を目あてとし、上述の様な寛容思想は封建権力を弱めるものとして忌み嫌い場合によっては公に法または裁判権を引用した暴力で迫害する。だから、仮に米のリベラリズムが一種の実現最優先への偏りのために急ぎ足に過ぎ、定着や滞在によってただならぬ名誉をもちいるはず渡来した愛国者や親交者を帰化後の長期間の目でみてWASPより無碍に扱うならそれは、人間の格というものを学歴という本来は学資ではなく学識や勉学意欲の付属品にすぎなかった肩書を、理論や技術そのものの創意工夫の才能及び努力よりも高く見積もりすぎた浅慮の為である。以上から、事前にありうべき不測の惨禍である自民族中心主義或いは京都学派の悪用による神道原理思想の声高な復活を教育権の援用によってある程度より多めに避ける豪快な行政手腕には、聴講生制度の確保とそれに伴う国費の規模を予定できる政府税収の内、教育助成予算のかなりの部分を多くとも見積もることが必要である。図書館施設の原則開放もこれに入る。周囲の多少あれ安価な学生街に定着しさえすれば、いかなる社会階層や国籍、所得及び人種出身でもある程度より高い教育効果がえられる地域の自由度を達する事が、すぐれた創造生態の確保には有用だからだ。
 ところで企業への権力介入はライブドア事件以来の情報産業の冷え込みにはっきり示される様に、おおきな市場萎縮の効果を不可避に伴うので、最小限に留めた方がよい、若しくは推してそうす可きと基本的寛容思想の立場からは定率できる。ここで、待つばかりではなく特に技術革新をより喫近とする工学系大学や専門学校含む研究学園街への景気づけたる能動的な対策案として賢明なのは、地方自治体単位の条令で、学園都市周囲の冒険起業人事への学歴差別禁止を諮ることだろう。こうすれば飛び入りした特殊な才能が生き残る確率があがる為、もっと安定した企業成熟をめざす大手とはことなり、いい意味で未熟なその場限りの独創が集積しやすくなる。但し、全面的な国政でこれを独断専行してはいけない。なぜなら進路の極端な放任による人材の過剰流動とそれをとりのがした経営破綻の続出や、成功率につながらない基礎学力の特徴的軽視によるおおよその人事不詳化が確実に起こるからだ。

2009年10月31日

掃除

秋くれば掃除をするかなこがらし
涼しきとおもえば長袖要るいとま
ひた/\と叩くはだえはこごゑなり
安物のコマーシャルすら衣更え
往くべきかいかざるべきか秋の京

一律保障論について

小人間居して不善を為すという『大学』第二章のせりふがある。この裏は君子は間居して不善を為さない、又は善行をなすということだ。もし崇敬すべき古典原理主義者に畏れ多くもこの聖の諺を現代風にかみ砕いて解釈すると、「少なくとも知識人なら暇を有為に使える」と凝った意訳で言い換えれるかもしれない。
 そして一律生活保障金構想という穏やかならぬ商人蔑視潮流の痛み分けを声高に叫ぶおかしな浅慮は共産思想のいいかえにすぎず、仮に幾らかの賢明きわまる資本主義道の後退や変節と共にこのおかしな施策が行われれば当然、悪徳の増長と必要悪とよばれて陸でもない人々から正当化されているが全く不必要で害のある商品への需要増大がみこめる。
 ヒマを持て余しそうになった船員へ碇を磨かせた船長は人間性というものの体得者だったと言える。仮に働かざる者へでも助けの手をさしのべようとするまで有り余る財産がある大富豪政府国家なら、先ず『大学』の費用を免除した方がいい。

2009年10月30日

成人年齢奉冠論

民意にあからさまに逆らってでも成人年齢をひきさげてしまおうとする政府のかくしもった意図は、それによって無理にでも若年層の貧困な現状をひきのばしながら派遣労働者などの労働権内弱者を殖やそうという貪欲にある。さもなくば先ず成人が適した職場を捜すのすら難しい社会の高齢化及び老人支配の既得権益の調整措置を講ずる筈であり、上意下達の笠をかぶって教育費にすら欠く社会の不良数を増長させたがるその悪徳の中身は、今よりさらに己どもの利権を延長させようとする欧米文脈の悪用なのである。もし胃袋をみたすため若々しい国民の奴隷化をみちびこうとするのなら、その法制を全国単位ではなくて、自らの害他な家がおのれの歪んだ理想として掲げたがる地域の都道府県単位で、堂々と成年時期をひきさげるがいい。
 法制審議委員会のなかに属した悪人の実名や出自がはっきり出、商売柄がはっきり試される地方自治体ごとのありうべき恣意或いは公民度の法的保証の可能な場合で政商癒着擁護論たる弱冠引き下げをすれば、結果的にはslum形成を通した反面教育というもっとも公共に有益な実行力がその自己矛盾の業によって十分証明されうるのだから。

かえるの歌

儲からないから辞めてしまえと言った
そしてひきガエルの子が游んでいた緑一面の田ん圃は
あっという間にひろすぎる郊外型店舗になった
自動車の排ガスで息をつくひまもない稲よ
別に望んでもない
死んでいく自然の声なんかだれも聞こうとはしないもの
幼稚園児がたんぽぽの咲くあぜみちを仲良く歩いてた
その光景はコンクリートの広告で囲まれてしまった
大人になるってことなんですとまだ若い支店長は言う
客より店長のほうが偉いですそう習いましたし
テレビの中の大都会から湧く見たことある様な無い様な芸能人が
着飾った豪華ぶった衣裳で青少年をどんどん誘惑します
金が回れば死人が増える
売りまくれと上司がいうアメリカだって
どこだってやっているうちだけ損しちゃ損やから売り捌きまくれや
私はそのうるさいひとこえで潰れた犠牲者の
墓場の前であのかえるたちの歌をうたいあげよう
もしそれを聞くのがいつかのこころやすらかな詩人と
僕の目の前で遊ぶすなおな幼稚園児たちだけでも

2009年10月29日

侵略犯

アマゾンの木々を切り倒し網記を悪者仕立てにする日本人権益
ひっそりと情報ぬすみつテレビではしらをきり通す自称タレント哉
失業者搾取で侵略犯薩長系大奥ドラマをうりさばくNHK大儲け

記号論理学

次の記号はどれも普遍性が高いので、論理式の推論過程を厳密に且つ省略して表記するに推して有用。漢字と英語も代表的訓と共に並列表記しておく。

∀ すべての 全 all
∃ ある、とある 或 a
∽ いくつかの 幾 some
⇔ おなじ 同 same
←→ ちがう 違 differ
… かな、かも 哉 may
‥ たとえば 例 example
⇒ すなわち、つまり 即 namely
~ おして、のだろう 推 would
* かならず 必 must
∧∧ ともに 共 both
∨∨ みなは、どちらか 皆 each

そして、是非且又(→¬∧∨)という基本記号を含むこれらの間にはつぎの様な対称関係がある。
→←→¬ 是はと非ずは違う
∧←→∨ 且つと又はとは違う
∀←→∃ 全ては或るとは違う
∽←→⇔ 幾つかのと同じは違う
(←→)←→… 違うと哉なは違う
‥←→⇒ 例えばと即ちは違う
~←→* 推してと必ずは違う
∧∧←→∨∨ 共にと皆はとは違う

2009年10月28日

図書電子化の公益

日本人社会の高齢化及びベンチャー起業への恐縮ムードは経営主体を果敢な進取から遠ざける誘因となっており、下記の行為はおおよそ上意下達式にならざるをえないかもしれないが、各種の公共私立をとわない図書館がその少なくとも著作権の切れた書籍を電子ペーパー化する作業はきわめて公益性が高く、もし急進展に行なってもほとんど害がない。ばかりか、特に昔日の書籍を電子化することは保存の観点からきわめて有利であり、もしこの作業の福祉が一般認知されるまでとなればいわゆる本の形態を無駄遣いするなかで伐採やパルプ製法のうちに排出するCO2量を削減する効果がある。既存の出版社が最終的には必ず書物の電子化に追随せざるをえないことを悟れば、いまは不便なパソコン経由でしかアクセスできないインターネット閲覧に適度な電子書物状の端末が、またそれに併せて既得作家業態のデジタル化が訪れる。

自由恋愛の今日的根拠

自由恋愛と呼ばれているシステムの利点は、それが先得的知能の度合いに準じた速度で数量的にはいわばピラミッド型の社会構成員数を夫々得せしめるところにある。哺乳類としての人類の発情期の遠近は、結局その生まれ持たされた知能が、いいかえれば大脳がどの程度並の類人猿から引き離された発達を自然とするかにほぼ等しい。
 そして数々の抑圧の、又は逆の助長のシステムによってこの動物としての発情の速度を調整しない侭にしておくことの利潤は、常にそれらが不可避に用いる不自然な社会的地位の損失を上回るのだろう。だから自由恋愛と呼ばれる、社会環境の中であたかも犬畜生を放し飼いにしておく様な独特の寛容思想は、もし社会そのものが富士の法則という最も基本となりうる労働力種別順の数比を合理也と認めるつもりならご尤もなのだ。
 晩生の形質だけが人類のつくりだした数々の文化要素の後天的習得のゆえに、更に価値の高い文化を継ぎ足す能力を獲得するとしたところで、社会が完全な工学的段階を達したかなり遠い将来を予測できない丈その地域の生業が土着的なら、この郷原の数量的統計を発情への寛大の原則で産業の許す最も低廉で済む社会保障費によって賄うことは是政の福祉感覚にとってごく利口なのである。もし胎生や成長の初期に置かれた条件がその集合発生にとって共通感覚の因果だとしても、郷原層を部落的に大幅には隔離させずにそのみせしめとしての地位を堂々得せしめること、つまり不良の実証は人類という脱哺乳類的中途を経過しつつある多少なりとも安定した遺伝集合の公徳啓蒙へ値するのだ。

 仮に各種の迷惑料を囲い込みで省略しようと試みる一族が現れ、この生態を郷原層とは違う条件で育てようとしたとする。多くの場合は私立学校の中で善良な子女をできるだけ有利な知的動機づけが可能な無垢にした世界を構想したとする。だがこの知識層が現実に、郷原層の持っている生態を目の当たりにした経験が全くない再生産率を達したとすると、我々は人間の奴隷視に一役買う事にもなるだろう。なぜなら彼らは彼らの選良意識かそれとは意識しない過度の気品の為に、この殆ど土人の如き生態と言動を日常とする郷原を同類視しようとすればするほど彼らは自らの常識が通じない相手を却って遠避けるしかなくなる。
『徒然草』に、僧侶がお供に連れた荒くれ者の郷原からなんの他意もないのに機嫌を損ねて斬られる説話がある。この実例かとおぼわしき経験談はいわゆる社会格差というものが、その少なくとも競走開始の初期段階で対話または観察の理解によって、各々の生態地位乃至能力を応酬の海によって寛容するより以外の納得のさせ方がない証拠だ。もし京育ちの甘い僧侶が子供の遊びというまだ致命傷につながる怖れの比較的少ない条件で、不良の実情を生々しい悪業の凡例によって適度な以上にいやがおうにも理解していれば、のちの悲劇は注意深い人物批評眼で避けられた筈である。

 今日の成育条件の中で自由恋愛といわれる発情期への未規制が有用であると目されるのはこれら、社会格差応酬制度への遠慮に原因が求まる。有徳な両親が悪習や過剰再生産率の増長をおそれて郷原層との隔離を急ぐよりは、実際には、理想的家庭という安全基地をある程度は複雑でよかれあしかれ多様な社会条件の内にしっかり確立しておく方が、生態理解込みの侮蔑感情の穏やかな形成という郷原層活用の最たる反面教育上の利益が大きいと思うのである。啓蒙思想が差別思想よりも少なくとも人間的であると認める者は、以上の理由を便宜上真なりと考えるであろう。

2009年10月27日

繁栄

経済的繁栄バンザイと経団連がほざいた。
へぇと僕は思う。そんなもんなの、人生。いいんじゃないのアメリカン。
そしてそのハゲが映り込んだテレビをバットで叩き割る。ブラウン管ってそういうことなんでしょ
大事にしてきたMDがどれもこれもダメにされた。だがSONYは責任感なさ気。
お前の金なのか俺の物が。そして僕は新しいはずのネットワークウォークマンをトイレに落とした。
あまりに小さすぎるし、曲が出し入れしづらい。
そういうことなんでしょ? 経済的繁栄って。買って下さい、とは言わない隠しタイマーが今かいまかと没落を望んでいる。
庶民から金を絞りあげ陛下のあしもとに平伏す。
そういうことだったんだ、ふぅん。
あれだけ必死だった小説家が、簡単に名誉の前に膝間即くのを全国民が笑う。
ぎゃははそういうことだったんだ、人生。勝てば官軍、小御所会議。だれも見ちゃいないって。
カミサマは目の前にいる。それさえ敬っておけば
僕はそんな邪悪なクニの王様が、アメリカに殺されなかった幸運を祝う日々に生まれた。
幸運?
自業自得だろ? 媚びへつらう追従者どもを身につけ、本当の実力者を排斥した公家のあやまった勘定がそこへ君を導いただけ。当然の結果に驚いてどうする?
僕はもうあなた如きをカミサマだとは考えなくなった。
なにもできず、ただもろ手をあげて贅沢を尽くし、ほかの時間は暇つぶしに費やす名目の貴族。
僕はあらゆる手管をつくして人を見下す権威を望んだその一族が、決して幸福ではないことを知った。
いつもびくびくし、真実を見抜かれ殺されるのを怖れながら、本当は交尾のことしか頭にない地上の王様。
経団連が言う様に、君が代を歌い、経済的繁栄を謳歌するんだ。
それで幸せに成れる。立派な伝統宮殿から気が狂った民衆のお祭り騒ぎから金をまきあげるだけでいい。
だから僕らは、小中学校でくりかえしくりかえし、気違いじみた国粋教師に殴られ、厭味を言われ、精神的虐待を受けねばならない。それがこのクニの道理なのだ。
どうして社会を愛せるか不思議でならない。畜生の戯れる乱れた地獄を。

2009年10月26日

短さ

音もなく降りしきる雨
唯ひたすら世におりつ
生き残る者へ道を
知らせ給ゐぬ
秋の短さ音もなく事ずれの跡を枯れ葉に代えぬ
唯ひたすらに世の理を問ひし者へ
いたずらに聞こゆる葉のざわめきはその侭で
みやまのからす共へ寝床ごと音に楽しみを置き棄て賜る
ひたすらにかしこき闇よ
海鳴りの夜ひとひらの燈し火を掲げせしまに
吹き消した月あかりはしらず
町へしずやかな繕いを施せしとはにや

2009年10月25日

京都学派の修整的再解釈

理性と知性の分離はカント哲学の最も主要な達成であり、前者を実践理性、後者を純粋理性と同じ理由の名で呼んではいたが、より平明な表記に於ける理と知の差は、それが形而上学か後自然学というアリストテレス的伝統の学問体系の凡例(乃ち範畴論)の中でニュートン力学の樹立と共に当時めざましく展開しつつあった自然科学の領域とは異なる理由づけの領域を確保しようとしたカント個人の定義だと云える。そしてこの定義を否定した明白な論説の個性は見当たらない。理性と知性の分岐は正当なカテゴリーだと現代では考えられている。
 しかし次の事は理解しておくに足る。理性の実質的内容物とは、その個性が有した経験則を含める知識の総量なのである。もし社会学あるいは社会の学という後起の科学を自然学あるいは自然についての知識の一分野として認めるなら、結局、理性というカント的定義が本当に指し示している中味とは総合的知識量のことなのである。そして一般の概念に直すと、これは教養のことだ。つまり、哲学という諸般科学探究への動機づけの名義が用いる結果は自由教養または一般教養という古代奴隷制下のギリシア自由市民が愛好や何れ愛惜したその参照物と重なる。だから一見するとカント的な理知定義には批判の余地がない様に見えるが、彼による三批判書以前のこの様な初歩的な源流域に遡ると、殆ど素朴なまでの認識界に於ける知覚にとって理性と知性とはまったく一致しているのであって、自然科学と社会科学との分類が常識化しだした近代の能率優先な蛸壷分業制学園思想がそれらの分裂を、いうなれば諸国民の富への急ぎ足の野心から謀ったのだ。西田哲学に於ける純粋経験への感情論的批判としての三木哲学に於ける構想力概念とは、カント語彙の借用によっているので洋の東西に共通の文脈下にはない。つまりカント的構想力は上述の知性(慣習訳語では悟性)と判断力という概念を中間項として繋ぐ為に導入されているが、三木のそれは西田哲学が開拓しておいた主客未分の強すぎる厳格性をただただ理知(ロゴス)の統一に片寄った論だとして情緒(パトス)の側から再統一を試みたものである。
 もし西欧大陸に於ける思想潮流とブリテン島に於ける一歩の速度差とが理性と知性を大きく分割させた西洋風近代化だけの特殊事情なら、多くの途上国か後進国ではわが国が短期間に急激な勢いで経験した複合性をまた、それぞれの近代化経験の中で必要か最低限重要とするだろう。
 よって、私は三木哲学の主要概念である構想力とカント哲学のそれとを明白に峻別しておくことは、その文脈の輸出や摘出にとっても相応の功績があると思う。いいかえれば、日本語の中での語感や漢字表意適性から三木に於けるイマジネーション概念を想像力或いは単に想像と再解釈しなおしてカント哲学に於ける構想力の概念とは別に保って措く事が、私達人類精神の知識の内で将来の教育的規律、つまり全認識の分析と総合の効用を高めるに違いない。想像と構想の違いはこれらの文化史的定義の為により精確とされ、結果、単なる理知の統一としての構想力と、更なるその上に情緒もしくは感情との統一を果たした概念としての想像力、とは我々の社会哲学の中で等価に且つ別々に用いられ得るだろう。
 世事へ最も疎いほど道家に親しんだ諦念の人はこの意義を殆ど断章取義の虫ピン作業にしか価値判断しないのだろうと、慧眼の教えが千里の道への一歩から出発し得ると十知できるほど生来学問好きなら、なぜこの小論の趣意者が一文字の違いをわざわざ長たらしい理由づけで満たしたかも予測できるかも解らない。それは近代化潮流を接ぎ木した跡を内発的それと遜色なく成長させきる為の一節なので。

政商癒着

マオイスト経団連全国一律TOYOTA分社化で派遣斬り
系列バラマキ多国際勝ち組企業ひとりがち
原口相導醜制論に小突かれ日本全国TOYOTA化計画
紋切り型計画経済ミニチュア中国統制経済
弱体農村の一律壊滅マオイストMr. オクダ
車だらけのクニジャポン豪農潰滅
消費税は統制経済覇権への先手打った還元財
斜陽国家へ誘導トヨタ自動車の城下島ジャパン
政商癒着の薩長土肥が関西系経団連と驕る国

2009年10月24日

趣味的修繕観

社会正義への道徳監督役である評論家の生業とは美徳養生への最低限度のきっかけであり、それは選良化の中で静かに奇跡的形質の開花が偶有の機会を通じて咲き誇りだすのを待ち続ける忍耐強い育種家の仕事と似ている。
 岡倉天心の論説による互譲の精神とやらは、我々の全才能を超えている自然の圧倒的創造力への敬意でありその驚嘆すべき繊細で複雑な仕組みへの利用価値および巨視か微視かに関わらない審美的格式の尊重と、加えて人為になしうる再創造への逆算なのだろう。これを解りやすく紐解けば、創作者の設計意図への謙譲、つまり修繕観こそが理想の趣味論の実質であり、本来の芸術についての感性が才能を遺憾無く発揮できる分野、いいかえると心情の純真、心の良さの実務領域である。詩才が生じる所には同様の観測事実がある。つまり凡庸の他者には見及び難い微妙な不調和への気づきと再修整の欲求が、言葉による利い注意力の喚起を要する。だから詩才あるいは感性の鋭さとは心理の繊細さと一体不可分の相対をなす。

分析哲学の意味について

日本語のなかで意味という語のいま占めている位置は決して高くなく、それはおよそmeansの訳として定着しだした半翻訳語に近しいが、語学の内で研究家の占める割合を込めて分析哲学の方法を定義にまつわる解釈論としてここへ適用すると、意味の内にはの、あるいはおもいあじわいの分断があると読み込むことはできる。さて一般に、哲学という営みの意義は科学者や知識人からは近現代の開発功績の少なさから疑い深い目でみられる。その学野としての重要性も次第に伝統芸能的な、時代遅れの古代の風儀としてしか顧みられる機会も減っている地域なり郷国もある。また道徳というその成果物の、効果の及ぶ遅ればせながらの時差的性質からこういう謗りはある程度やむを得ない。且つダーウィニズムを社会進化論へと応用したスペンサー理論を完全にのりこえる弁証法的手順を踏んだ批判たる社会哲学的反駁の焦点が絞り込まれて、社会思想内権威への劣勢を挽回しない限り、一貫した古代からの道徳論のいう弱きを助く正義というものが社会科学知識としての地政学的策謀のなりふり構わぬ採用よりも、再び高い地位を宛がわれる見込みとて考えにくい。だが同時に、経済活動の組織内規律づけへの援用に集中しがちなのだが、その手段としての意義は決してなおざりにされてはいない。かなり多重化した仁の規則、いいかえると二者以上の間の社会的慣習を複雑に合理化した倫理規律はもしそれが道具的知性か実用化された合理性を和らげるための緩衝材に使われるなら、おもとして言語の単位あたりの伝達内容に、完全に十分な分析哲学的でない語種と違うだけの意味、非対象語彙か若しくは純形式や半形式的分解語の重畳を可能とする。つまりもし道徳なる名で呼ばれている、集団が共有できる群生の効率的合理性のルールを集積するつもりならそこでは単なる理性の領分で、自然学の態度とは相異なる後学の為に定義の範畴を整理する事が大変能あるといえる。
 人類という生態が集団行動の幅をもつ理由は、この共有できた道徳観という言語的重畳性への一連の特殊さに依る、従って、道徳観なる不文律込みの文化素をあまり共通の認識でみたせない集団との迅速な協力行動には度々差し障りが多いし、究極では不可能か反乱に至る。現生人類が掻き集めることに成功した科学知識の惨めな程の情報量からいまだそれを反省的に総合する哲学万能論に陥るつもりなら時期尚早でしかないし、現実は知識の道具的価値が実用主義のうえで確かに調律されつつあるのだが、かりにフィロソフィの一訳語としての智恵という単語を慣用に当て填めてとものめぐみと読み下すなら、この漢語圏によく通る名詞が意味する所はまさしく協力的精神の本質なのである。だから西欧圏では功利主義の系譜ある、冷たい経済学傾向あるイングランド学派の純系を除いてかなりの支配力をもっている分析哲学という現代の脱構造主義以来の思想潮流の本支は、その原点に於いて詞なる単位がもつ意と味の関係への単位伝達能力に関する議論であるということなのだし、更々その帰結は知識によって得られた普遍性の高い意いについての味わいのゆたかさへ向けた変換慣習を組み替える方法の、比較文化内的考察だと考えるのが順当だ。ここで比較文化内的という連鎖した詞の意図している内容の訳は、現実には分析哲学の結果は翻訳能率の問題へと還元されるからなのであり、もしもその裏であるただの単一文化外的それ、乃ち鎖国的輸出限定思想への定義で済むなら語儀分析論という生業は文学と呼ばれているたちの、有り体の文言でさえも充分だろう。なぜなら解釈界の肥沃さではなく系内秩序のみを理由とした論説や随想はすべて本質に関しては既得知識の羅列に留まるのだろうし(客体的脱構築を除く。つまり科学書の単一母語系列あるいは教科書という目的観)、かつ近代日本語のなかで文学という出自の複雑な半学半術の用語が例文づけるその定義は、漢文訓読を裏から貫いている母系の底流をおしつける魅力で説明できるのだから。
 もし英米圏(正確なこの両者には独自の自由主義内変説の違いがあるが)での哲学の弱体化が理由づけられるなら訓読の魅了がその詩歌や会話調には文化内交易の手段として介在していないか、とてもしづらいからで、要するには征服か包容の土壌がなければ分析哲学によって言文間解釈界という豊饒な文語の世界を理性的領域へ営々と築き上げる定義者の道徳意志には、趣味の如何を語内で問う動機づけ迄とやらはまるでもしくはやがて存在しないのである。表音や表意ではなく表形の語学がありうる文化圏というのは書道やカリグラフィの文芸がはぐくまれうる基礎でもある。この幅や深みはどうしてある地方では文彩が多様に及び他方ではそうではないかを教える。それは構文の複合性が文士の知的修練に依存している以上、高い教養が定型語形の成熟には地政条件だからだ。絵画や音符と文字の制作可塑性の違いは文章制作に要求されてくる非感覚的な幾何哲学の教育か知識量に地域間か民族間偏差値があることの主要ではある一原因である。ところでよく知られた諺に、年長者と年少者がともに遊んでいた際に保護者によって彼らに掛けられる事の多い負けるが勝ちという逆説じみた対偶の数理様の教えがある。後輩は自制心や克己の達成にも自然遅れてきそうな訳合いから勝負事に遊びのルールを忘れて没頭し、つとに負けるのを嫌って劣等感の裏返しも手伝い強情を張りつづける傾向のあるものだ。当然強い立場にある主な年長者へこの際限ないしっぺ返しループの競争的負債増大を諌める本来の忠告を超えて、道理の面から特有の板挟みの事象を観察すれば、謙譲の道徳的深意とは実はそれによって相手の現に保有している道具立てを一旦開示させ、身の安全を先手を打った講和策で取り澄ましながら未詳文化の習得や奪還を拱くが為である。まず道を譲る方が観察入りの経験則面では数々の先例を集め易い。この手順がまるで無益なときは、換言すると率直の術数上最良なのは、実に手のうちを知り尽くしている身内に対してこそとなる。
 ゆえ美徳という極東系の称号を超えて、少なくとも英米圏と西洋圏ではどちらがこの民族間深慮の意図に適うかを問うのなら相対的には人という人なら概そ容易に推定されえてしまうだろう。更にその各国中にでも、夫々礼儀の厳しさがその侭ほぼ環境条件も地政条件も含む道徳観の涵養平均度の変移なのを見渡せるだろう。最終的勝利という有終の美の合目的性を、人類学といまは呼ばれている社会性をもった生物学内政治的配慮寄り分業制へ託つけて予測するなら、あなたは謙譲語こそ本来の意図たる礼節の尊重を超えて、つとめて保全と建設とを強固に基盤づけるべき最も優れた解釈界であると認識するにいたるだろう。そしてその智恵のありかはできる限り多くの文化系統を、とりかえがたい優秀さの許すまで繰り入れようとする甚だしい理想的試合計画への深謀遠慮窮まる打つ先手に求まる。文化間連鎖が途切れ易い神経シナプス間隙の様な一時的通り道か吊橋であると悟れば悟るほど、全勝や逃走への単純素朴な意図を包み込みつつ、勝敗後の関係設計に巧妙至極な算段がより偉大な文明への布石には前提条件となると分かる様になる。そして西洋での分析哲学下のソシュールによる成果解体以来の語学的側面とは脱構造主義的考察の部分集合であり、全体像としての地球星内哲学の潮流は実際には批評の領域や範畴を野生の構造と関連づけながら拡大しようとする口語中心の表音文化への疑義、より過ぎはしない。それは普遍設計にとっては西欧側による布石の一手でしかないからだし、全く以て他の地域での課題とは類を異にしている。だから夏目漱石の考えた如く西洋文化中心主義は覇権思想の近代版でしかなく文明化の結論ではないし、いわんや現代風改変プラグマティズムに基づいた資本民主主義の単独勝利とやらの論拠、後退した西欧圏での混乱した言語学分類の遅れた使い勝手への裏付けではないと言える。要するにのち使い古される事も予想できる文化間多元思想か多声思想は、より複合型の度合いを強める異文明雑食界隈に則った次進歩段階への少々混雑しだしたがなお新しい地平線なのである。美徳とは計算高い礼儀作法。手段兼尊重を基礎とした当人格主義内社会では殆ど最もよいたちの常識が高貴な試合の、必ずしも連戦連勝をのみ意味しない勝負強さの競技規則と一致する。フェアプレイの精神、礼儀正しさは友情を勝敗とは決然と分かつもののふなる美徳によってのみより強くはっきりと見い出せる。そしてこれは騎士道と武士道とを道徳的共通観で暗黙に結び付けている洋の東西を問わない倫理の帯である。但し、聖戦思想を至上命令とみなす中洋諸士にとっては保証の限りでない。
 つまるところ、社会秩序の内に計画された道徳法則の発見である意味を考えるということは、生まれ育ちきた文化の出来栄えを総合的な知識量の秤にかけることに等しい。結局、徹底的に意味深い究極の趣味の完成とはその生育のよさを美徳で満たすことの名義である。当然、他者の利点と欠点を批判的に、比較検討して打ち捨てつつ習い覚えようとする哲学の程度はこの完成度に裏打ちされる性格というものの焦点を意味している。これがどうしてmeansが智恵の道を通ってのみ修養されうるかの理由である。謙譲されざる勝負強さがありえない様に、郷士単独では単なる自然知識を越えたいわくは存在できず、する必要もない。
 故に、意味を悟る者だけが、しがらみに囲われた社会という一筋縄では行き様が無い多数決を正統視したがる猿蟹合戦式でたえなるいがみ合いの場所でであっても誰もに納得くらいならされる公平な手順をも践むことができ、また時期如何に拘わらず神ながらの計画の連鎖を辿って目的の達成をいずれ決定的とするのだろう。そしてこの最もよく知られた一般方法は既に得られた知識の定義をそれ以上は理論上詳細化できないほど綿密に考え直すこと、英語ではreasoning、相当広く通用する日本語に直せば道理を弁えること乃至は弁理だろう。分析哲学の実質可能性の極北はこの弁理能の開発にあるのだ。それを法解釈に適用することは寧ろ哲学流路の支流又は応用編であり、只の純粋な解釈界整理及び積算よりは優先順位は低いと云えるだろう。人生経験を上手くやってのけるに唯単に自然科学的でありさえすればよい、とする現代風の軽快か軽率な考え方は個人主義的進歩観が最初に芽生えた英米圏発のあけすけな社会正義にとってまったくの基調だが、この無闇に利口ぶった不躾な性格というのは世代間および異文化接触を乗り切った多元的経験則からの意味深な某謙譲道徳なる文体論か様式論の修養不足によって、多かれ少なかれ止まざる協力が為には余りに先んじた個性派への恵まれざる多数派に端を発したいわゆる嫉妬羨望の罠が待ち構えていると想わねばならない。この心配点の正鵠を射る認識は分析哲学の限界である不完全性定理の数理的基礎を超えて、もし極東のオリエンタリズムに依拠した受動の論理だと揶踰されながらでも国際間倫理哲学復権の核心として、外交上で今後とも重用性を益々重ねて行く筈だ。