人類という生態が集団行動の幅をもつ理由は、この共有できた道徳観という言語的重畳性への一連の特殊さに依る、従って、道徳観なる不文律込みの文化素をあまり共通の認識でみたせない集団との迅速な協力行動には度々差し障りが多いし、究極では不可能か反乱に至る。現生人類が掻き集めることに成功した科学知識の惨めな程の情報量からいまだそれを反省的に総合する哲学万能論に陥るつもりなら時期尚早でしかないし、現実は知識の道具的価値が実用主義のうえで確かに調律されつつあるのだが、かりにフィロソフィの一訳語としての智恵という単語を慣用に当て填めてとものめぐみと読み下すなら、この漢語圏によく通る名詞が意味する所はまさしく協力的精神の本質なのである。だから西欧圏では功利主義の系譜ある、冷たい経済学傾向あるイングランド学派の純系を除いてかなりの支配力をもっている分析哲学という現代の脱構造主義以来の思想潮流の本支は、その原点に於いて詞なる単位がもつ意と味の関係への単位伝達能力に関する議論であるということなのだし、更々その帰結は知識によって得られた普遍性の高い意いについての味わいのゆたかさへ向けた変換慣習を組み替える方法の、比較文化内的考察だと考えるのが順当だ。ここで比較文化内的という連鎖した詞の意図している内容の訳は、現実には分析哲学の結果は翻訳能率の問題へと還元されるからなのであり、もしもその裏であるただの単一文化外的それ、乃ち鎖国的輸出限定思想への定義で済むなら語儀分析論という生業は文学と呼ばれているたちの、有り体の文言でさえも充分だろう。なぜなら解釈界の肥沃さではなく系内秩序のみを理由とした論説や随想はすべて本質に関しては既得知識の羅列に留まるのだろうし(客体的脱構築を除く。つまり科学書の単一母語系列あるいは教科書という目的観)、かつ近代日本語のなかで文学という出自の複雑な半学半術の用語が例文づけるその定義は、漢文訓読を裏から貫いている母系の底流をおしつける魅力で説明できるのだから。
もし英米圏(正確なこの両者には独自の自由主義内変説の違いがあるが)での哲学の弱体化が理由づけられるなら訓読の魅了がその詩歌や会話調には文化内交易の手段として介在していないか、とてもしづらいからで、要するには征服か包容の土壌がなければ分析哲学によって言文間解釈界という豊饒な文語の世界を理性的領域へ営々と築き上げる定義者の道徳意志には、趣味の如何を語内で問う動機づけ迄とやらはまるでもしくはやがて存在しないのである。表音や表意ではなく表形の語学がありうる文化圏というのは書道やカリグラフィの文芸がはぐくまれうる基礎でもある。この幅や深みはどうしてある地方では文彩が多様に及び他方ではそうではないかを教える。それは構文の複合性が文士の知的修練に依存している以上、高い教養が定型語形の成熟には地政条件だからだ。絵画や音符と文字の制作可塑性の違いは文章制作に要求されてくる非感覚的な幾何哲学の教育か知識量に地域間か民族間偏差値があることの主要ではある一原因である。ところでよく知られた諺に、年長者と年少者がともに遊んでいた際に保護者によって彼らに掛けられる事の多い負けるが勝ちという逆説じみた対偶の数理様の教えがある。後輩は自制心や克己の達成にも自然遅れてきそうな訳合いから勝負事に遊びのルールを忘れて没頭し、つとに負けるのを嫌って劣等感の裏返しも手伝い強情を張りつづける傾向のあるものだ。当然強い立場にある主な年長者へこの際限ないしっぺ返しループの競争的負債増大を諌める本来の忠告を超えて、道理の面から特有の板挟みの事象を観察すれば、謙譲の道徳的深意とは実はそれによって相手の現に保有している道具立てを一旦開示させ、身の安全を先手を打った講和策で取り澄ましながら未詳文化の習得や奪還を拱くが為である。まず道を譲る方が観察入りの経験則面では数々の先例を集め易い。この手順がまるで無益なときは、換言すると率直の術数上最良なのは、実に手のうちを知り尽くしている身内に対してこそとなる。
ゆえ美徳という極東系の称号を超えて、少なくとも英米圏と西洋圏ではどちらがこの民族間深慮の意図に適うかを問うのなら相対的には人という人なら概そ容易に推定されえてしまうだろう。更にその各国中にでも、夫々礼儀の厳しさがその侭ほぼ環境条件も地政条件も含む道徳観の涵養平均度の変移なのを見渡せるだろう。最終的勝利という有終の美の合目的性を、人類学といまは呼ばれている社会性をもった生物学内政治的配慮寄り分業制へ託つけて予測するなら、あなたは謙譲語こそ本来の意図たる礼節の尊重を超えて、つとめて保全と建設とを強固に基盤づけるべき最も優れた解釈界であると認識するに
つまるところ、社会秩序の内に計画された道徳法則の発見である意味を考えるということは、生まれ育ちきた文化の出来栄えを総合的な知識量の秤にかけることに等しい。結局、徹底的に意味深い究極の趣味の完成とはその生育のよさを美徳で満たすことの名義である。当然、他者の利点と欠点を批判的に、比較検討して打ち捨てつつ習い覚えようとする哲学の程度はこの完成度に裏打ちされる性格というものの焦点を意味している。これがどうしてmeansが智恵の道を通ってのみ修養されうるかの理由である。謙譲されざる勝負強さがありえない様に、郷士単独では単なる自然知識を越えたいわくは存在できず、する必要もない。
故に、意味を悟る者だけが、しがらみに囲われた社会という一筋縄では行き様が無い多数決を正統視したがる猿蟹合戦式でたえなるいがみ合いの場所でであっても誰もに納得くらいならされる公平な手順をも践むことができ、また時期如何に拘わらず神ながらの計画の連鎖を辿って目的の達成をいずれ決定的とするのだろう。そしてこの最もよく知られた一般方法は既に得られた知識の定義をそれ以上は理論上詳細化できないほど綿密に考え直すこと、英語ではreasoning、相当広く通用する日本語に直せば道理を弁えること乃至は弁理だろう。分析哲学の実質可能性の極北はこの弁理能の開発にあるのだ。それを法解釈に適用することは寧ろ哲学流路の支流又は応用編であり、只の純粋な解釈界整理及び積算よりは優先順位は低いと云えるだろう。人生経験を上手くやってのけるに唯単に自然科学的でありさえすればよい、とする現代風の軽快か軽率な考え方は個人主義的進歩観が最初に芽生えた英米圏発のあけすけな社会正義にとってまったくの基調だが、この無闇に利口ぶった不躾な性格というのは世代間および異文化接触を乗り切った多元的経験則からの意味深な某謙譲道徳なる文体論か様式論の修養不足によって、多かれ少なかれ止まざる協力が為には余りに先んじた個性派への恵まれざる多数派に端を発したいわゆる嫉妬羨望の罠が待ち構えていると想わねばならない。この心配点の正鵠を射る認識は分析哲学の限界である不完全性定理の数理的基礎を超えて、もし極東のオリエンタリズムに依拠した受動の論理だと揶踰されながらでも国際間倫理哲学復権の核心として、外交上で今後とも重用性を益々重ねて行く筈だ。