2009年10月24日

分析哲学の意味について

日本語のなかで意味という語のいま占めている位置は決して高くなく、それはおよそmeansの訳として定着しだした半翻訳語に近しいが、語学の内で研究家の占める割合を込めて分析哲学の方法を定義にまつわる解釈論としてここへ適用すると、意味の内にはの、あるいはおもいあじわいの分断があると読み込むことはできる。さて一般に、哲学という営みの意義は科学者や知識人からは近現代の開発功績の少なさから疑い深い目でみられる。その学野としての重要性も次第に伝統芸能的な、時代遅れの古代の風儀としてしか顧みられる機会も減っている地域なり郷国もある。また道徳というその成果物の、効果の及ぶ遅ればせながらの時差的性質からこういう謗りはある程度やむを得ない。且つダーウィニズムを社会進化論へと応用したスペンサー理論を完全にのりこえる弁証法的手順を踏んだ批判たる社会哲学的反駁の焦点が絞り込まれて、社会思想内権威への劣勢を挽回しない限り、一貫した古代からの道徳論のいう弱きを助く正義というものが社会科学知識としての地政学的策謀のなりふり構わぬ採用よりも、再び高い地位を宛がわれる見込みとて考えにくい。だが同時に、経済活動の組織内規律づけへの援用に集中しがちなのだが、その手段としての意義は決してなおざりにされてはいない。かなり多重化した仁の規則、いいかえると二者以上の間の社会的慣習を複雑に合理化した倫理規律はもしそれが道具的知性か実用化された合理性を和らげるための緩衝材に使われるなら、おもとして言語の単位あたりの伝達内容に、完全に十分な分析哲学的でない語種と違うだけの意味、非対象語彙か若しくは純形式や半形式的分解語の重畳を可能とする。つまりもし道徳なる名で呼ばれている、集団が共有できる群生の効率的合理性のルールを集積するつもりならそこでは単なる理性の領分で、自然学の態度とは相異なる後学の為に定義の範畴を整理する事が大変能あるといえる。
 人類という生態が集団行動の幅をもつ理由は、この共有できた道徳観という言語的重畳性への一連の特殊さに依る、従って、道徳観なる不文律込みの文化素をあまり共通の認識でみたせない集団との迅速な協力行動には度々差し障りが多いし、究極では不可能か反乱に至る。現生人類が掻き集めることに成功した科学知識の惨めな程の情報量からいまだそれを反省的に総合する哲学万能論に陥るつもりなら時期尚早でしかないし、現実は知識の道具的価値が実用主義のうえで確かに調律されつつあるのだが、かりにフィロソフィの一訳語としての智恵という単語を慣用に当て填めてとものめぐみと読み下すなら、この漢語圏によく通る名詞が意味する所はまさしく協力的精神の本質なのである。だから西欧圏では功利主義の系譜ある、冷たい経済学傾向あるイングランド学派の純系を除いてかなりの支配力をもっている分析哲学という現代の脱構造主義以来の思想潮流の本支は、その原点に於いて詞なる単位がもつ意と味の関係への単位伝達能力に関する議論であるということなのだし、更々その帰結は知識によって得られた普遍性の高い意いについての味わいのゆたかさへ向けた変換慣習を組み替える方法の、比較文化内的考察だと考えるのが順当だ。ここで比較文化内的という連鎖した詞の意図している内容の訳は、現実には分析哲学の結果は翻訳能率の問題へと還元されるからなのであり、もしもその裏であるただの単一文化外的それ、乃ち鎖国的輸出限定思想への定義で済むなら語儀分析論という生業は文学と呼ばれているたちの、有り体の文言でさえも充分だろう。なぜなら解釈界の肥沃さではなく系内秩序のみを理由とした論説や随想はすべて本質に関しては既得知識の羅列に留まるのだろうし(客体的脱構築を除く。つまり科学書の単一母語系列あるいは教科書という目的観)、かつ近代日本語のなかで文学という出自の複雑な半学半術の用語が例文づけるその定義は、漢文訓読を裏から貫いている母系の底流をおしつける魅力で説明できるのだから。
 もし英米圏(正確なこの両者には独自の自由主義内変説の違いがあるが)での哲学の弱体化が理由づけられるなら訓読の魅了がその詩歌や会話調には文化内交易の手段として介在していないか、とてもしづらいからで、要するには征服か包容の土壌がなければ分析哲学によって言文間解釈界という豊饒な文語の世界を理性的領域へ営々と築き上げる定義者の道徳意志には、趣味の如何を語内で問う動機づけ迄とやらはまるでもしくはやがて存在しないのである。表音や表意ではなく表形の語学がありうる文化圏というのは書道やカリグラフィの文芸がはぐくまれうる基礎でもある。この幅や深みはどうしてある地方では文彩が多様に及び他方ではそうではないかを教える。それは構文の複合性が文士の知的修練に依存している以上、高い教養が定型語形の成熟には地政条件だからだ。絵画や音符と文字の制作可塑性の違いは文章制作に要求されてくる非感覚的な幾何哲学の教育か知識量に地域間か民族間偏差値があることの主要ではある一原因である。ところでよく知られた諺に、年長者と年少者がともに遊んでいた際に保護者によって彼らに掛けられる事の多い負けるが勝ちという逆説じみた対偶の数理様の教えがある。後輩は自制心や克己の達成にも自然遅れてきそうな訳合いから勝負事に遊びのルールを忘れて没頭し、つとに負けるのを嫌って劣等感の裏返しも手伝い強情を張りつづける傾向のあるものだ。当然強い立場にある主な年長者へこの際限ないしっぺ返しループの競争的負債増大を諌める本来の忠告を超えて、道理の面から特有の板挟みの事象を観察すれば、謙譲の道徳的深意とは実はそれによって相手の現に保有している道具立てを一旦開示させ、身の安全を先手を打った講和策で取り澄ましながら未詳文化の習得や奪還を拱くが為である。まず道を譲る方が観察入りの経験則面では数々の先例を集め易い。この手順がまるで無益なときは、換言すると率直の術数上最良なのは、実に手のうちを知り尽くしている身内に対してこそとなる。
 ゆえ美徳という極東系の称号を超えて、少なくとも英米圏と西洋圏ではどちらがこの民族間深慮の意図に適うかを問うのなら相対的には人という人なら概そ容易に推定されえてしまうだろう。更にその各国中にでも、夫々礼儀の厳しさがその侭ほぼ環境条件も地政条件も含む道徳観の涵養平均度の変移なのを見渡せるだろう。最終的勝利という有終の美の合目的性を、人類学といまは呼ばれている社会性をもった生物学内政治的配慮寄り分業制へ託つけて予測するなら、あなたは謙譲語こそ本来の意図たる礼節の尊重を超えて、つとめて保全と建設とを強固に基盤づけるべき最も優れた解釈界であると認識するにいたるだろう。そしてその智恵のありかはできる限り多くの文化系統を、とりかえがたい優秀さの許すまで繰り入れようとする甚だしい理想的試合計画への深謀遠慮窮まる打つ先手に求まる。文化間連鎖が途切れ易い神経シナプス間隙の様な一時的通り道か吊橋であると悟れば悟るほど、全勝や逃走への単純素朴な意図を包み込みつつ、勝敗後の関係設計に巧妙至極な算段がより偉大な文明への布石には前提条件となると分かる様になる。そして西洋での分析哲学下のソシュールによる成果解体以来の語学的側面とは脱構造主義的考察の部分集合であり、全体像としての地球星内哲学の潮流は実際には批評の領域や範畴を野生の構造と関連づけながら拡大しようとする口語中心の表音文化への疑義、より過ぎはしない。それは普遍設計にとっては西欧側による布石の一手でしかないからだし、全く以て他の地域での課題とは類を異にしている。だから夏目漱石の考えた如く西洋文化中心主義は覇権思想の近代版でしかなく文明化の結論ではないし、いわんや現代風改変プラグマティズムに基づいた資本民主主義の単独勝利とやらの論拠、後退した西欧圏での混乱した言語学分類の遅れた使い勝手への裏付けではないと言える。要するにのち使い古される事も予想できる文化間多元思想か多声思想は、より複合型の度合いを強める異文明雑食界隈に則った次進歩段階への少々混雑しだしたがなお新しい地平線なのである。美徳とは計算高い礼儀作法。手段兼尊重を基礎とした当人格主義内社会では殆ど最もよいたちの常識が高貴な試合の、必ずしも連戦連勝をのみ意味しない勝負強さの競技規則と一致する。フェアプレイの精神、礼儀正しさは友情を勝敗とは決然と分かつもののふなる美徳によってのみより強くはっきりと見い出せる。そしてこれは騎士道と武士道とを道徳的共通観で暗黙に結び付けている洋の東西を問わない倫理の帯である。但し、聖戦思想を至上命令とみなす中洋諸士にとっては保証の限りでない。
 つまるところ、社会秩序の内に計画された道徳法則の発見である意味を考えるということは、生まれ育ちきた文化の出来栄えを総合的な知識量の秤にかけることに等しい。結局、徹底的に意味深い究極の趣味の完成とはその生育のよさを美徳で満たすことの名義である。当然、他者の利点と欠点を批判的に、比較検討して打ち捨てつつ習い覚えようとする哲学の程度はこの完成度に裏打ちされる性格というものの焦点を意味している。これがどうしてmeansが智恵の道を通ってのみ修養されうるかの理由である。謙譲されざる勝負強さがありえない様に、郷士単独では単なる自然知識を越えたいわくは存在できず、する必要もない。
 故に、意味を悟る者だけが、しがらみに囲われた社会という一筋縄では行き様が無い多数決を正統視したがる猿蟹合戦式でたえなるいがみ合いの場所でであっても誰もに納得くらいならされる公平な手順をも践むことができ、また時期如何に拘わらず神ながらの計画の連鎖を辿って目的の達成をいずれ決定的とするのだろう。そしてこの最もよく知られた一般方法は既に得られた知識の定義をそれ以上は理論上詳細化できないほど綿密に考え直すこと、英語ではreasoning、相当広く通用する日本語に直せば道理を弁えること乃至は弁理だろう。分析哲学の実質可能性の極北はこの弁理能の開発にあるのだ。それを法解釈に適用することは寧ろ哲学流路の支流又は応用編であり、只の純粋な解釈界整理及び積算よりは優先順位は低いと云えるだろう。人生経験を上手くやってのけるに唯単に自然科学的でありさえすればよい、とする現代風の軽快か軽率な考え方は個人主義的進歩観が最初に芽生えた英米圏発のあけすけな社会正義にとってまったくの基調だが、この無闇に利口ぶった不躾な性格というのは世代間および異文化接触を乗り切った多元的経験則からの意味深な某謙譲道徳なる文体論か様式論の修養不足によって、多かれ少なかれ止まざる協力が為には余りに先んじた個性派への恵まれざる多数派に端を発したいわゆる嫉妬羨望の罠が待ち構えていると想わねばならない。この心配点の正鵠を射る認識は分析哲学の限界である不完全性定理の数理的基礎を超えて、もし極東のオリエンタリズムに依拠した受動の論理だと揶踰されながらでも国際間倫理哲学復権の核心として、外交上で今後とも重用性を益々重ねて行く筈だ。