2008年1月31日

暖房

夜浅く静かに聞こえるヒーター音

審美論

およそ人間では、子の様に純真な心ほど美しい魂は見当たらない。赤子の心、白紙、tabula rasa、童心といった表現で伝えられるところのもの。稚児にあてなりとされたうつくしさの語感も『枕草子』に初出する。
 大人と子の違いは主に性欲、生殖欲だから、これが醜さを人間に感じさせる原因かもしれなかった。成熟そのものや、大商業地とか大都会に見られる俗塵にまみれた混沌とした文化状態からの早熟化誘因、つまり世間ずれが邪気と悪徳をもってくる。大人びている子、ませている子にもこの醜さが明白に感じられる。
 人間の審美感覚の中には幼い無垢さ、無邪気さを貴ぶ特質があり、これが保護感を親や年長者に生み出すのかもしれない。それがほかへ引き写された時、我執や敵意に満ちた競争的な俗界に比べて希少で守るべきだが、それ自体はほぼ無力なうつくしさなるものが感覚素として自立しはじめた。
 最も原始的な博愛などは、子にとってきわめて理解しやすい様に見える。害他性の少ない子の場合この傾向は顕著で、戦争のあるという事がほとんど分らない。すでにある大人社会が功利性や搾取の方法を教え、他人の上位にたったり蹴落としたりする仕業をあとから教えるのだろう。これらの大人社会の模様は少なからず純粋な美からの堕落で、社会があるべき状態からはなれているとわかる。生得的差別や配分の格差もおなじ不平等性を正当化する、大人の知能の癖やそこからきた習俗がもたらしている醜さなのだろう。
 おもに純真の特徴は子が保護を要する立場で、人々からの可愛がりをあつめる適性が択ばれた結果かもしれない。これが無限に引き伸ばされると、個体の仕業は対外的博愛へ容易に近づく。同様の現象は幼児の姿がある様々な動植物にもみられる。
 早熟にまつわる醜さ、羞悪感があるのは、人々にすばやい成長を感じさせるのが被保護の延長にとってminusだったからだろう。

節約

節約の徳を持たない金持ちは浮き世の成金に過ぎない。どんな身の上でも、節約さえ守れば人間では衣食住に困らない。稼ぎと費しが一対な様、もし不況でも無駄をなくせば富裕で居られる。贅沢は余裕の範囲に留めてこそ美しい。

2008年1月30日

情報価値

情報は個人に適した抽象度に於て価値を持ち、又持たない。

勤労の適用範囲

何びとも自らの能力を超えた仕事を強要されてはならない。
 経済労働の有無に関しても同然。社会は個人に生来の特性差に応じた千差万別の生き方を許容できなければならない。勤労の義務は主観的なものでなければならず、客観的には単なる権利、労働を強要されたり禁止されたりする事のない人権を超えたものであってはならず、industryの質に関しても適用される。ある人にとっての勤労の定義である時間外残業が他人には不能の証明でしかない様、人間活動は必ずしも経済力に一元化して量り知れない。
 自らの持っている能力に忠実な人間を勤勉とみなせる。社会は経済力を欠く人間に対して最低限度の保障ができなければならない。餓死者を育む社会は国際人権規約の義務を怠っているのだ。宗教法人も又この為に要請される。

2008年1月29日

本来回帰

人間の如何なる行いも社会的価値に於てしか存在しない。
 Globalismは他人指向ではない。本来回帰である。

2008年1月28日

自然書集


2008年
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750 × 500 px



2008年
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750 × 500 px




2008年
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2008年
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さくら
2008年
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ゆき
2008年
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英文習字集

Winter night
2008年
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Don't cry
2008年
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光の書



2008年
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各176 × 746 px、500 × 750 px

2008年1月27日

花火

左、右。
私の両手。
光に溢れた私の両手を見よ。
被害に遭ったら突如、理由は。
神の掌に。拳に。額に。溢れた。僕は。光が。
愛想か。君は救い様がないな。ほざけ。
遥かに昔の事だ。
僕は花火を見た。
そこには湿り気のある空気に混ざって、既に失われて行った貴重な感覚が沢山詰まって。
勉強し続ければ解消される生命ならば、私が見た花火に何の意味が。
女は結婚すれば幸せになる。
それでいいならそれでいい。つべこべ言う可では無いな。
涙よ。お前にも嘗ては言及の余地が。今ではな。すっかり片無しだ。
千葉の厳しい淋しい海岸線、絶壁に泊まった鴎よ。お前に見える世界はうつくしいか。
光。僕であれ、神であれ。消えて。月のあかりよ。お前の中には何が見えた。
拡げた両手に抱えてしまったものが。どうせ君には持ち切れず、捨てた。花火の様にな。
海。

季節書集

冬の日にしずかに書くは小説也
2008年
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雪ふるときに
2008年
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冬よ
2008年
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冬の夜しずかに聞こえるheater也
2008年
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2008年
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春よ
2008年
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雪ふる
2008年
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如月
2008年
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心の書


2008年
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恥を知る者

作家とは先ず恥を知る者の事である。

2008年1月26日

寄付制

資本制の根本的破格にはvolunteer workを基本に据えた寄付制の樹立が必然となる。

2008年1月24日

政治批判

権力者は多数の人民の命を利用しながら自らの名前を売る為だけにでも戦争を好む傾向がある。
それは人間の本能に由来する利己心が実践的な理性の声を掻き消してしまうような、〈権力の腐敗〉である。
そして、人が本能を失わない限りつねに、権力者は「罷免」という抑制措置の断首台へとみずからを犠牲すべきなのである。
 蓋し、あらゆる戦争は対外的な危機に及ぶ国威の発揚という本来の面目以外に濫用されてはならなかったのだし、私益に憑かれた権力者は遅かれ早かれ失権するしかない。
国民総意の代表として、政治家は全体の無私な奉仕者でなければならない。

平和主義国民は如何なる国の干渉からも自律していなければならない。
というのは、相互不信が支配的な野蛮な国際環境にあって、軍備を盾に隣国を脅し、平和主義を標榜する武力放棄を誓った国民を何らかの私的目的のために軍事的に援用する、という《威嚇的内政干渉》がまかり通る危険性があるからだ。
 このような悪意に反撃する唯一の正当な方法は、自律的な判断によりヤクザのこけ脅しを一切無視し、飽くまで国連上告し続ける『通報主義』である。
なぜなら、結局は如何なる軍事大国といえども他国の軍隊をみずからの意志で動かすことは不可能で、究極では貿易封鎖のような消極的な手段により当該標的を揺すろうとすることしか国家的悪業の限度としてできはしない。これは、平和主義国民が国際法を遵守して行動し、尚且つ普遍的な立法の原則に基づいて自らをあり得るだけ道徳的に処する限り、彼らに対して万国の軍備がただの脅しの玩具に過ぎない証拠である。
ありえないことだがもし彼らを不用意に攻撃すれば集団的安全保障により、一斉射撃を喰い壊滅させられるのは当の脅しを働く悪徳軍事大国の側なのであるから。

日本国憲法序文にある他国無視の不可能性とは、あらゆる国家は国際的にのみ国家として存立しうるという内容を文面示すに過ぎない。
そこに国際支援の必然性は約束されてはいないし、むしろ外政不干渉の大人しい姿勢こそ真実の名誉ある地位に値する場合もありうる。
従って、自衛隊を通じたアメリカ軍への給油支援活動継続の意志に関する福田総理の国会答弁はたんなる詭弁であり、飽くまで論理的に深く非難詰問されねばならず、自民党権益拡張という誤った行政権濫用により、首相の役割を信任した善意の国民を騙したに同然である。

2008年1月23日

経済学

経済の美はpresenceにある。その商品を贈られる側つまり客が必要最小限のお礼で済むような行為を経済と人は呼ぶ。従って取引が福祉でありえる。搾取的な企業は福祉より功利を優先させて、客へ損をもたらす。道徳感情に従ってこのような企業はいずれ市場から淘汰されて行く。
 もし企業が究極の福祉体を達成すれば、それは健全な宗教法人と成りえるだろう。福祉以外には目的を持たない組織は、金利を単なる代替通貨として体内で揚棄できるからだ。その更なる経済化の果てにおいては、貨幣自体が運営上でなんら無用になるだろう。
 奉仕以外の方法で我々は商売の洗練を経ることはできないし、結局のところあらゆる企業体とは奉仕関係の合理化を日常業務とする芸術組合である。経済における企業主の損得は使用者的な感情に基づくに過ぎず、従って市場全体の受給均衡作用としてはつねに道徳感情の原則を外れない。もし利潤に価値があるならば、それが寄付の公募であることによってである。客は高すぎる商品には手を出さないし、寄付に値しない商売へは背を向けて行く。

文体学の理解

文体学は文化的にのみ有効な概念だろう。我々は文体を文化的にしか持てない。語学的な語種概念はこの為の弁償として働きうる。

 凡そ国語学と呼ばれるものは何にせよ文体学の言い換え。なぜならそれが語学そのものであったなら、我々は口語を通じての助産術しか行いうることはない。
 国語学が国家と不可分なのは自明。一族一国の原則は民族自決主義的な文体学の弁証法を伴ってnationalityに「国民」の定義を与えていた。従って、国民に於てのみ標準語が与えられたろう。それは文体学の成立と同じ起源を持つから。
 国民の形成は文体学と国語学の同時生成に対応しているが、それすら文体学の脱構築に及べば国際化の方法と成りうるものだ。ヘーゲル的人倫は国語学の止揚として国民文体の複数、多層性を考慮に入れるよう要請する。なぜなら国家の最終目的が人倫ならば、国際化も又、いずれ人倫の内容に含まれざるを得ない。国家とは縁起した概念であり、いずれも他国との関係に於てしか国家を主張し得ない。
 よって、文体学は方言学を国語科の必修課題に算入せねばならない。それは我々の人倫の完成に、多声的な柔軟さを与える契機となるだろう。我々の国境の分明は必ずしも定かではないし、飽くまで国際関係に応じたnationalな民情の区分として、度合いに応ずる偏派心しか真実の国体には存在していないのだから。

学位と学歴

学歴制は教育の社会化という民主教育の原則に反する。それらは謂わばblack boxに隠した爆弾を社会に持ち込むテロリストに喩えられる。彼らは修得した知識の不透明性を盾に人間を脅し、揺る。彼らは近代社会では暗黙に合法とされながら、道徳的には犯罪者である。彼らは未成果の段階で集団となって差別をごねり、社会の階層固定と世襲退廃に加担しているのだから。我々は近代教育の理想とした単線学歴を脱構築すべきだろう。それは高等と初等に人間の適性を差別し、身分格差の固定を誘発し、我々の文明社会に対して致命傷となる楔を打ち付けた侭だ。
 この楔を苦労して取り除く我々は新たに学位制としての注射で、深過ぎる傷を仮に治癒する。個性が有した千差万別の諸才能に応じた複線的経歴が、社会から不当な差別に遭う不合理を破壊できる。あまねく均質な人間は凡庸な人間ということに過ぎず、我々の社会が工業化段階を通過し、機械的労働力を然程大量に必要としなくなって行けば行く程、天性に応じた適性の開発は彼らに最善な持ち場を、むしろ柔軟で多様な社会体制側に余地しえる様になるだろう。蓋し学位制度は飽く迄も教育改良の文化的な段階に過ぎず、それが単距離型の武器を教育機関から持ち込むのは避けられない。
 教育の社会化という命題は文明の太平に於ける教育機関の解消という究極の目的を見据えうるが、そこに至る手順には文化なりの工夫が要る。多種多様な学位が溢れて等級づけが不可能なアメリカ社会ではむしろ、それらの間に偏差値を浸透納得させる方が学門間の友好的な教育改革に効果があるだろう。科挙の流れを必然に汲み偏差値教育が隅々迄及んで学閥の癒着と有名大への中央集権的な腐敗が顕著な日本に於いては、学歴制の否定と学位制の肯定が新たな社会正義へ脱構築の手段と成る。

時空の次元に関して

我々は我々の感性すなわち五感に関連した四次元、それ以上の時空について思議する必要は皆無である。
 もし悟性が構想の遊びとして概念上で何もかもを仮説可能にするからと言って、我々は知るべき事が知りうる範囲にある原則すなわち理論悟性の限界を乗り越える意味を持たない。

建築論

工学的な建設は、芸術的な建築の為の方法を提供するに留まる。と同時に、建築芸術の手法から再摂取を伴って時代における建築様式の量産敷衍を意味する。
 これが我々の造形建築の技術的全体である。

2008年1月22日

教育公開論

哲学が諸科学の批判的総合を謀る学問体系への漸近ならば、哲学部は諸学応用への根底的姿勢に過ぎない思慮を啓発する事しか出来ないだろう。そこでは必要な知識の伝授習得も後手に回らざるを得ないので、何かしらを学ぶという事は特にない。哲学教育とは助産術の友情的互恵の場を提供するに留まり、其処に於て先生と生徒の区別は意味を持たない。より思索的な見識を発見させえる個性はより相対的に哲学者の資格にふさわしい。
 科学は哲学がなければ無作為な探照作用に過ぎず、決して道徳に繋がらない。知識の目的は永久に道徳的思慮の参考資料を提供するに留まる。大学では知識を教え、哲学者を導く為に、哲学教育としての哲学論文を必修課程にしなければならない。それは学内の徒の相互批判と是非議論によって如何なる科学試験にも代替できない啓発効果を伴う。大学に於て講義の無限公開性は前提でなければならない。若し、研究活動の内容を秘守する為に、或いは講義の芸能化という歪んだ目的の為に、知識とその伝播とを経済力商品化するなら、かくある大学組織は決して尊敬に足るものではない。
 知識や道徳は名誉の為にではなく、飽くまでも人類公益の為に探究されるべき共有の真理であるべきだし、大学側が組織を伴ってその内容を不透明にすればするほど暗箱内の不正は暴く事が為づらくなり、大学自身の内部に溜り続ける不良債権も無駄に生み出す事になる。従って、究極であらゆる大学教育は講義を含めて全市民に公開されねばならない。そうであってはじめて、大学教育の健全な市民間批判は可能になり、その知識や道徳の内情が社会福祉にどの程度の利不利や高尚低俗を伴った習俗であるのか明らかになる。閉じた侭の学門は謂わば閉鎖的な宗教団体に違いはない。

発明・発見

何を以て発明と見做すか。我々が未知の便利な道具へ。従って発明とはtechnologyの実践的応用。それは本質的にpragmatic。取るに足らない発明は消費と呼ばれる。我々は最も生産性の高い活動へ発明性を覚える。純粋に理論的な発明は発見と呼ばれ、我々の発明の具と成る。

資本経済の限度

判断力格差は雇用関係に至る。
この故、普く経済活動は絶えない。
共産経済は不可能である。それは政治的調整の度合い問題に帰着する。

完全に政治化された経済は絶対主義と呼ばれる。
しかし資本主義経済の抱え込む《弱肉強食性》は部分的正義の配分への偏りから生じる。企業是正も政治権力の必然と言われるだろう。

2008年1月20日

信念

正義の為に命を捧げる事は勇者の目的である。
凡百小人の馴れ合い和合を悉く破り倒し、世界正義を打ち立てる者は英雄と呼ばれる資格を持つ。

永世に渡り民族の地位を保つのは英雄、唯一人の勇気に待つ。彼を人類は救世主と云う。
億万人の俗物はどれだけ寄り集まっても、人道救済の為なんの役にも立ちはしない。

正義論

義を以て尊しと為す。衆愚の和、乃ちfascismは悪徳である。悪魔の空気を読めば如何なる悪業も免れないから。

芸術論

人間が芸術を保養しようとする時、伝統芸能の保全を意味している。あらゆる芸術は伝統芸能の破格として現れて来るのであり、それは既成概念の脱構築を必然に要請する。

 文化の死とは芸術が硬直し、大衆にあまねく理解され、趣味の定型外は抑圧された日に訪れる。真実の創造は人間に理解されないが故に新時代の幕開けを告げるものだ。趣味は洗練されていく。未来人にとって理解され得ない作品はないが、現代文化に表れる芸術は常に、伝統芸能とはまるで相反している。よって、同時代の人間にとって、芸術は決して保養も感得もし得ないだろう。つまり、その文化流行が新たな潮流により時代遅れとなり、古典と見なされた時にやっと、既に伝統芸能化した流派は客観できる。これは流行の移り変わりと呼ばれる。

 政治は芸術の為に良識からの法規制以外を行い得ないだろう。体制に理解しうる作品の保護奨励は伝統芸能の強化という意味では芸術性の抑圧に等しい。それは大衆の為ならず政治家の自己満足に過ぎない。近い将来、文明が高まった暁には我々自身が芸術への奨励の不毛と害を悟り、各種芸術学校・文化賞の廃止を伴いながらその名義を伝統芸能の保護という概念に代替するだろう。

2008年1月19日

経済

人間は孤独を糧にすべきだ。人間社会にあっては孤独を維持する方が難しく、更に集中した仕事を為せる程、幸せな隠居性を好む心理の持ち主は少ない。ストア派の見識が仏教の教えに近似するのも無理はない。我々は社交性の洗練の究極に、唯一、孤独の満足を認める。
 勿論小人にとって孤独は恐るべき事だし、その場合、彼らの生産は不浄な結果を斉すしかない。小人閑居して不善を為す。だが、全ての芥は棄てられる。大宇宙の循環に比べて人間社会の仕業は余りにも卑小だ。彼らの心配も一喜一憂もみな、一夜の夢に等しい。
 望むべくは俗物には仕事を与え、賢者には閑暇を許せよ。そのように社会構造を脱構築せよ。尤に此は経済と呼ばれる社会現象に過ぎない。

意味

芸術がそうである如く、自然に意味をつけられるのは人間自身しか居ない。コペルニクス的転回は理性や判断力にすら及ぶ。世界は人間的な意味で解釈されるを得。

2008年1月18日

芸術論

清貧・孤独・勤勉は芸術家の三元徳である。例え生活費と雖も必要最小限しか取ってはならない。若し君が貪欲なら、人々は大金を投じる大仕事を委せる気にはなるまい。ダ・ヴィンチの手記を参照せよ。

信仰の意義

真偽・善悪・美醜は度合いの概念に過ぎない。絶対の聖を覚えうる人間は居ない。

 我々は比較的な聖邪を見分けうる丈だしそれで良い。
 判断力はこの比較的な聖邪の分別能力である。
 愚鈍な人は救い難いとカントが言ったのは、人間の分別は先天的な能力、という見識だ。
 邪な人間は信仰によってしか救えない。信仰は帰依を意味し、判断力の放擲を意味するから。

海岸線

名もなき人が青春を過ごした場所を通り抜ける時に、この世には限りある筈の様々な演者が羨ましくも思える。彼らは、何も持たない。彼らはまるで浮世に散る桜花の様に儚い。それでも彼らなりに、みずからの青春を美しく振る舞おうとした。この世には数え切れない青春群像が花を咲かせては散りゆくのであり、何の為に生まれ来ては消え去るのか仏の涙にも知れない。ただの哺乳類の肉体で、彼らは育てられた負債を背負って光に導かれ、再び聖餐に身を雪いては戻ってよかれあしかれ、君達は人間として齢を重ねる許り。預けられた託児所で泣き叫ぶ子には運命があり、若妻はそれを知らずに現し世に戯れる。然れどこの世は美しい。神懸けて祈ろう。この世はさても美しい筈だろうから。のこのこと生き延びる亀は兎の気持ちも知らず、蝶々は辺りを飛び交い、春の陽気に仕合わせを奏でる。つまりそういう事だろう。望みは薄い方がいい。かなしみの旋律は海風の侭に、沖縄を巡っては藻屑へと、つまりはそれを青春と呼ぶんなら、望みは薄い方がいい。誰もがみな、幸せになれるとは限らない。かなしみの旋律は風の間に間に浚ってしまった。誰もがみな、幸せになれるとは限らない。命は尽きせぬとして。

休日

何の為に歩くのか
よく考えてみなければならない
海の音
波の匂い
森のざわめき
川のせせらぎ
空の水色
私は沢山の美しいものを見た
幾つもの景色は目の前を通り抜けて行った
私は何の為に歩くのか
よく考えてみなければ
分からない問題
解く間によく考えてみなければならない
太陽が巡る中で
当為に追われながらも
夜は更ける
狼が吠える
月はまぁるく
サイレンが鳴るばかり
桜の木がざわざわと池の頭上で揺れて
葉っぱを散らすのを
殺人事件があった
テレビの中で喋り続ける人も
電子の渦に舞って
浮世の星
空虚な島で
うつろな星で
明日には答えの欠片が降り注ぐだろう
ニューヨークの頭上には空いた穴が見えた
私は分からない問題を解く
しばらくは

審美論

全ての発明は文明への履行の最中に発見される。必要に即した技能がそれを呼ぶから。
 完全美は宇宙そのものに帰する。万物はそれ自体が合目的。例え比較的醜いものでさえ、比較的美しいものを見当する為の役割を果たすが故に美しい。崇高は我々が知覚しうる最高美に他ならない。宇宙は遍く崇高である。そして我々が芸術的と見なす可ものは宇宙における文明形態に過ぎない。現代人類にとっては地球文明的なものこそ最も芸術的と呼ばれる。しかし未来人類にとっては必ずしもそうではないだろう。
 生物美が合自然的なものであるならば、人間美は合社会的なものに帰着する。人間美は生物美そのものでは必ずしも無い。カントがsymmetryを美の規範と考えたような事は自然美の範囲に属し、決して芸術美の側にはあるまい。人間の再創造物は自然美の抽象だから、その制作概念さえ我々の感情的抽象に基づかなければならない。例えば自然にとっては非合理でしかない弱く儚いものが美しい事も、人間においては合理的でありうる。社交性の洗練は必ずしも競争力に比例しないのだから。

文明の体系論

なぜ我々は生まれ来るか。我々が地球風土の形態である限り。
 政治・経済・学術は文明にとって等価であるだろう。そしてあらゆる人間の行為はこの域に含まれる。
 我々における最高善は個性の適性に叶う事であると云うべきだ。之を個性の善意志と呼びうる。カントやアリストテレスの理性至上主義を批判して、我々は和辻の風土論に則り最高善の個性を認め直す。それは理性に適う以外の人間的能力にも適合しうるだろう。
 例えば芸術家の技能が理性のみに還元しうるものとは言い切れず、それは科学者にとっても同様である。感情のない芸術は機械的ならざるを得ないし、computerには人間らしい詩を創作しづらい。又悟性的であるということは必ずしも理性的であることではない。そうでなければ医学における人体解剖の様な作業すら不可能になってしまうし、政治家は防衛戦争の様な国際衆度に中庸な行いすら不可能になって倫理的自律を失うだろう。
 芸術は感情の円熟を示す。理性や悟性は感情の為に予備訓練を提供するに留まる。あらゆる人間美とは社交性の洗練に帰着する。より福祉感情に叶うartや行為が我々にとって美的と見なされる。
 よって、我々には地球風の洗練を目指すのが専らだろう。経済の美は芸術敷衍の政治的な技能を意味する。我々は経済的労使の洗練を経ずして芸術美を普く社会化することはできない。
 政治が実践善であるということが学術的真の理論を活かす場を提供する。なぜなら、芸術美とはとある経済技能の理論上のmodelを表明しているものに過ぎない。経済行動が環境文明化への福祉感情の応用である以上、人間の全体は経済美を様々に分業しながら実現しようと働くもの。言い換えれば我々の最終目的は福祉なのだ。美的であるということは人間社交的・反利己搾取的という丈。
 あらゆる人間は感情の洗練においてのみ福祉への階段を上るだろう。福祉の反対概念を利己と定義すれば、我々の目的は利己性の脱構築という共生的行動傾向の究極に至る。宗教的信が教義化された哲学体系なら、我々は利己性を最低教育度を通じて破格しつつあるということ。教育は宗教の伝達でしかない。もし人間が哲学的であるならば彼らは教義の批判という立場で宗教に相反するだろう。人間はソクラテスでなければならない。
 科学大学に寄生する哲学者は彼らなりに科学教を再解釈できるだけで、その範囲において彼らは科学哲学者という宗教学categoryに属する。丁度、仏教徒に属した禅僧が宗教哲学者な如く、科学哲学は宗教解釈の批判的議論という性格を限界と為す。
 哲学は体系的な程それ自体、新たな科学範畴の新設。もし体系が完成に近づくとそれは宗教として固定化する。カント哲学が道徳神学の、フロイト哲学が心理学の、ソシュール哲学が言語学の、アリストテレス哲学が自然学の、本居哲学が国学の、和辻哲学が風土学の、福沢哲学が文明学の創設であった様に。科学の細分には限りなく、我々は我々が持ちうる悟性の限り、無限大に研究分野とそれに累わる知識を増進させることができる。

普遍への個性

最も文明的な人間が必ずしも最も進化に近い訳ではない。しかし人間は生き延びる限り、我々の置かれた地球に適応しようとする。文明は文化へ多様性を要素する装置に過ぎない。
 文明はいずれもみな、最大多数の最高幸福すなわち福祉へ向けて生活レベルを上げて行く。あらゆる文化は文明を目指す。にも関わらず、民族風土に応じてその進度には千差万別の微差が生じる。自然は多種多様な形態の一種として人類をも育てる。彼らの作る機械的生命にしても同様。国家が特性への契機付けであったように理性は我々の文明規律を提供する。
 人間は各種の戦争から次第に共生を目指す。偏利から相利へと導かれ乍ら。普遍文明が知的生命の最終目的であるのは明らかな事だ。我々は地球に適応的である事によって宇宙的共栄への基準を見出す。我々は太陽系型の人類でしかあり得ない。
 あらゆる人間は人間への作為を通じて個性の伸長を図る。道徳とは普遍的な福祉への行動規律。

人間への最適化

あらゆる人生現象は美的に不完全なものだ。人間は現世において決して幸福の終極を眺め得ない。それは飽くまで最高善としての理想に留まる。
 どう努力しても人間は人間以外に成れない。進化に必要な時間に比べてあまりに一生は短い。それは世代的にしか計れない。従って、人間への最適化は我々の進化の誘発にとっては必然だろう。之は文明化と呼ばれる。最も適応的な人間は文明人と呼ばれる。
 理想的な生活の普通化は文明の命題。それは生活合理化の完成を目指す。学術・政治・経済はその手段。
 文化の幅は進化を誘発する。文明は装置。

2008年1月16日

人生訓

努力し続ける限り、人生はより良くはなっても悪くならない。

行儀

靴は横向きに脱げば穿きやすく揃える手間を省ける。「外側へ向けて置き直す慣習」はいざというときの脱出を速める為にかしこい。

2008年1月13日

美術論

合理なものが美しい。美術とは環境の整理である。

2008年1月8日

芸術論

普遍的な趣味は我々の同感を得るに充分である。無個性には限りがない。あらゆる芸術は個性の破格を目指す。普遍性のたもとでのみ、個性は時代なりの調和を奏でる。

2008年1月7日

天敵

なぜ我々は天敵なくして生き延びるか。
 我々は文明の目的を未だ知らない。それは他の惑星における知的生命を希望する。我々は我々自身の発祥を知らない侭、社会発展を続ける。

2008年1月6日

高校の時、僕には世界が新鮮に見えた。少しずつ世界は広がりつつあり、様々なものが一度に押し寄せて来て、それらを処理するので手一杯だったようだ。いずれにせよ僕には新しい世界がはじまりつつある予感があった。夕方に帰る時、高架の上から綺麗な月を見ていた。僕は自宅に帰り、また次の朝、学校に通うのだ。友達といつも面白い話とかして、とかく楽しかった。けど、何らかの理由で、単に頼まれたのだが、とある女性と付き合う必要があった。僕はその時、あまり女性に興味もなかったが、少なくともまったく無いとも言い切れないので、しばらく好奇心に従っていた。結局僕は自分から別れ話を持ち出して相手を電話先で泣かせてしまったのだったが。

2008年1月5日

趣味論

芸術の享受は多少あれ娯楽に代替しうるが、芸術そのものは娯楽に相反する。
 芸術が道徳理念からの判定としての趣味判断に従う遊びな限り、それが娯楽の享受に留まることは永久にないだろう。いわば趣味がある個人の芸術も、多かれ少なかれその審美的享受としての娯楽をも規定する。
 所で、ある人々の芸術が必ず即時に娯楽になる訳ではなく、大抵は能動的な仕事より簡単な遊びを受動的に享受して自身の活動全体に変化をつけ、気晴らしにするのが近代文化では普通らしい。あらゆる仕事が芸術の方法ならば、我々に職業や嗜みを斉す物は趣味。

2008年1月4日

部分

如何なる人物も部分的に参考に足る丈、万能人にすら度合いに応じて必ずや欠点が見つかるだろう。

結婚論

恋愛はより良い婚姻配偶の手段となりうるものだが、決して人類における繁殖行動の目的ではないし、唯一普遍の方法論でさえない。
 ある個人ないしはある文化集団においてさしたる本能の発展を要求しない場合、恋愛はお見合いより適当な結果をもたらさず、従って罪と見なされて然り。
 恋愛は本能を基準とする配偶計略だから、理性から認識すれば誤っていても敢えて選ぶ暴挙に出ることしばしばだし、しかも若者は大抵のばあい生経験や実例観察の不足から判断力においても未熟だから、恋愛結婚の家庭は持続可能性に必ずしも高くはない。お見合いならぬ恋愛とは、繁殖活動における人類以前の生物への退行と言っても良いだろう。というのは一夫一妻の家庭を契約を含めて厳密に延長させるのは人類の傾向だけだし、それが子孫育成に最も安定した環境を提供する以上、人類の種内適応行動なのは疑う余地もない。
 地球人類における最善の繁殖行動とは、社会的に適切な時期が訪れるまで男女それぞれよりよい家庭づくりのため様々な勉学をこなし、その後に智恵に優れた仲人の濾過を経たお見合いでの取捨選択による厳しい淘汰によって、父的理性や母性情緒に秀でた最も好ましい適切な配偶者を最終的には自らの本能に聴いて選良することだろう; 配偶の選良。
 この様な社会淘汰を経た優秀な相手においては、決して性情に劣る家庭は有り得ないだろうし、うまく行けば人類社会中にも傑出した善良な家庭が期待でき、人類が学習動物であるかぎり真実の天才とはそのような素晴らしくよく耕された環境から更に適切な突然変異を経てしか育つ可能性も無い。
 本能の優る淘汰、いわば自然の淘汰は決して人類内において適応的な行いではなく、原始的であると認識するのは正しい。恋愛結婚とは退行した繁殖活動で、それを通じて急いで築いた後付けの家庭での最適配偶が得られることは希。

性差論

男女共働はより高度の社交を要請するに過ぎず、女性全般に男性同等の仕事能力を期待するものではない。女性全般が進化的に家内化されて来たのは全人類的であり、野外労役に多少あれ近似する大部分の生産労働においては、ある文明段階の高度な作業であるほど男性全般を凌ぐ事は余程の例外を除いて希である。
 万が一、圧倒的な男勝りの女性が産まれたとして彼女一人だけの為に社会全域を全体主義で性差平均化すべき理由はない。真実の天才ならば道を自ら切り拓くだろう。
 男女の別は緩やかに維持されるだろう。性差は単に当代文化適合的ならば善。如何なる社会でも男性全般へ家内向けの教育を必修化する理由は、少なくとも人類という雌雄異体の生物にはあまりないだろう。もし生産労働がその極点においてほぼ完全に家内等値化された暁にすら、性別は男女に別々の特性を付与することだろう。生態活動の巾は性別によってより能率よく分担され得たのだから。

2008年1月3日

先進国の教育

人口爆発は資本主義の成熟期にある寡頭競争的な教育費の高騰を原因とした少子化によって、自然に抑制される。学歴社会化とはひとえに人口抑制の方法でしかない。順位制の代替物として学歴を用いて人類は子孫繁殖の経済的負担を増大させ、結果、総じて資本主義に適当な経済力ピラミッドとしての社会秩序を築き上げる。これを学歴順位制と呼んでいい。先進国民族は主に資本企業の労働力人事において採用・昇進差別を行ってこれを実現させた。高い地位に就くには学歴が必須となれば子孫の繁栄を想う賢明な親ほど一人当たりの教育費は膨大となる。こうして知的諸能力に応じて人口割合にもピラミッド型を適用し、単純労働力ほど教育期間を短くし、数量をも殖やすことができた。衰亡を避け民族内人口の定常状態を達成するためには、先進国では学歴順位制を脱構築する必然を負う。もしも学歴差別が和らげば人口は再び増大傾向に向かうだろう。然し一方で平均衆度の上昇が民族文明の目標である限り、我々は子孫への教育レベルを高めることはあっても落とすことならない。
 よって新たな順位制を築く前段階として徐々に教育費を無償化する方法が考えられる。北欧諸国の民主社会主義の風土にあっては少子化は解消され既に持続可能性の傾向が観られる。これは社会保障への個人財産の譲渡による教育費の減退によるところ多大である。適性に応じた高学歴志向を排除しないままに人口衰退を解決するには、教育費の社会保障が既存の体制中では最善の方法である。侵略戦争に歯向かう最低限度の自衛力を国連安保の完成待ちの見解としながらも、脱資本主義を計るのは先進化の必然とされる。教育費無償化による人口の定常を達成してからは更に、学歴社会の改良が課題として待ち構える。大学院での研究者育成と学部での一般教育とは手を尽くして質を上げて行くべきであり、入学差別による受験戦争に伴った膨大な教育課程上での無駄は破壊されねばならない。
 国際学力テストは習熟度を測る手段として有効ではあるが、必ずしも知的創造力の審査にはならない。科学において既存の課程をあまねく修得することが直接、ニュートン的発見の機会になるとは限らないのは科挙が官位審査の必要条件であれ知的応用の役には立たなかったのに同然である。
 大学院教育の質を挙げるには大学院間・研究室間での健全な研究競争が図られる必要を負い、その為には教授職の情実人事を破壊し、アメリカのtenure制度を範に取る教授審査会の設立を民度から要求せねばならない。
 又、一部始終形骸化している学部教育の改善には生徒による教授審査投票を良策と為す。単なる権力志向の無能な偽教授がのさばる大学では単なる啓発さえして居らぬばかりか生徒の及第基準絞り上げも不可能なのが実情であり、同時に大学入試での足切りにしかなんら教育能率を持たない名門と呼ばれる大学教授の虚名をも返済不可能になった負債として抱え込んでいる。教育者の再構築が民主政体での命題だろう。
 いわゆる大学教授には他のどんな教育者とも同じ様に研究力と両立した教育力が要求されるのが常識であって、もし研究力しかない人物ならば企業主体の研究所へ所属か若しくは独立した活計での研究を当然と為す。

人類学

ヒトの性淘汰。ヒトでは雌が審美的に選択される傾向がある。Neoteny化はヒトの学習能力向上の進化質だとして、その原因の一つには女性好みがあるのは明らかである。近代文明にあって美人と言えば先ず美女であり、例えばチンパンジーの雌に比べてヒトの女性は成熟度より未熟度としての多産性を魅力の傾向とする。従って若さはヒトの女性の性的魅力の原理となり、共通の憧れである。また若さは幼さ、つまり未熟な学習期待性へ繋がる。クジャクにとっては雄が審美的に選択される傾向がある。その羽の優雅さは彼らが同種間での競争的性選択の安定した平和環境において、直接的生存能力以外を要求したことを意味する。
 ヒトの直接の先祖たるチンパンジーにとっては、より家庭化への傾向が観て取れる。比較すれば彼らはより求愛行動を分担しない。よって雄と雌にクジャクほど顕著な肉体差は存在しない。
 以上の論旨をヒトに適用すれば、民族間に多少の違いはあっても生存において家庭主義的な男女の分業を担うヒトにとって、性特徴には母性と父性の偏差が観られるに過ぎない。ヒトの性淘汰は相互負担的である。女装とか男装もある程度工夫すれば可能な程度しか顕著な雌雄の差もない。全体としての幼児化が人類の進化を特徴するにせよ、その同種間での性淘汰は緩やかである。全体としては未熟な母性や未熟な父性が好まれる。そして雌雄異体が遺伝的多様性の自然手段である限り、我々の性差が消滅することは有り得ない。中性的な人間は理想像ではないのである。寧ろネオテニーが進展し続ける限り未来人類はますます幼形成熟することはあっても決して性差を失わないだろう。
 現代文明の男女平等は単に権利の法律でしかなく、決して男性化された雌や女性化され過ぎた雄を要求した訳ではない。人口抑制の社会学的方法である女性の社会進出の煽りも、先進文明であればあるほど賢い女性達から真意を見抜かれ、頭打ちになるであろう。

万能人について

あらゆる趣味は未熟たらざるを得ない。教養が未完なる限り。
 全知に到達することはできないにせよ、人間は知識を増大させることで、より賢明になる。愚か者は学ばない。
 道徳は思索に応じ、道徳感情に応じた普遍的同感の為の趣味は道徳神学の予備学としての諸科学にも応じる。だから、知識が増進すれば転じて趣味にも変更があることだろう。
 哲学に「学」の性格が含まれうるならば、それが諸科学の批判体系への漸近であることによって。例えば普通、小学一年生の哲学は身近な領分を出ない。彼らの全知識に対する目的合理化の思索は、幼い夢を愛でるのが精一杯であるだろう。また専業主婦の過半にとって家庭的幸福が夢、すなわち最高善な様。
 芸術は哲学の環境適用だろう。審美判断には趣味を要し、美術制作には悟性を要する。従って、凡て芸術を高めるにはその背景たる教養をもって代えねばならない。技法を編み出す判断力が天才の証拠ならば、我々の天才は前提に秀才的学習能力を要求するから。逆に言えば最も取るに足らない天才気取りの俗物は無教養で、我々の笑い種を生み出すのが落ち。
 遥かに時代を先駆ける大天才には、生まれながらの抜群に優れた判断力とそれを活かしうる圧倒的教養がなければならないことになる。そして我々の文明の進歩が共通して目指す理想の人間像も、万能の天才を究極の模範にする。
 万能人は全知全能の神様には遠く及ばないが、少なくとも人間に於ては限りなく神格へ漸近しうる可能性を持っている。

娯楽論

人間は自らの教養に応じた娯楽を求む。高尚な趣味は教養に順う。

人間の成熟

人間は人間的にしか成熟しないだろう。進化の速度に比べて同時代人生間の変容は極小と見なせる。
 最も充実した人間は、人間の普遍的な進歩の方向へ迷いなく歩み続けた者だろう。我々にとって進歩は文明の名を借りて現れる。
 あらゆる人類は自らの判断力に拠ってしか進まない。同時代の天才は最も進歩的な歩みをみせる。

不完全

僕には昔、好きな人がいた。その女性がどこへ行ったのか分からない。後にも先にも彼女にしか恋をしたことはなかった。それから大人の齢になり、僕は他の誰かと結婚しなければならない。だが、そんな人生には殆ど意味も感じられない。僕には昔、好きな人がいた。彼女の他の女性は、まるで気の抜けた炭酸飲料の様に感じられる。僕は出口のない牢獄に閉じ込められた様に感じる。心は錆び付き、動かない。僕には昔、好きな人がいたのだったけれど。後にも先にも彼女にしか恋をしたことはなかった。そして彼女はどこかへと消えてしまった。そのひとが居ない人生はまるで目的のない放浪の旅の如くだ。僕にも昔は、好きな人がいたのだ。恋する力は彼女と共に失われてしまった。
 僕は見えない闇の向こうに君の姿を探し求めているだけだ。後にも先にも彼女以外の女性に恋したことはなかったのだから。結び目の見つからない綺麗な糸はほどけて、天の川銀河の激しい流れに散りぢりになってしまった。僕にはこの世で残された命を消費するのが無駄骨に感じられる。彼女はどこへ行ったのかも分からない。大きな運命の力が僕をも支配して、本当に幸せになる為の方法を掻き消して行った。やがては僕の姿ですら、宇宙の塵芥になって消えてしまった。恋はもう訪れないだろう。彼女以外の女性はまるで、尊敬するには値しないのだ。無力な僕は人生の意義を失ったさすらいびとも同然、何の希望も見つからない永久の砂漠を彷徨しているだけだ。もしも神様がとても慈悲深い方ならば、いつかどこかで僕を、彼女と再び出会わせる。だが、その時もう別々の家庭を持っていたら、そんなに悲しい出来事はないだろう。何の自由が与えられたにせよ、僕は後先も考えず唯一人の女性を恋し続けるしかない。そんなに悲しい出来事が当たり前の自然界にあって、人間に生まれたことは幸せだろうか。僕にも昔は、恋する力があった。だがその力はもう萎んでなくなってしまった。彼女は時の彼方へと消えてしまって、見つからない。この世では人間はあまりに不完全過ぎる。

2008年1月1日

未来論

風土は人間を多様化し、文明展開に応じた進化差を斉す。自然運動が無限膨張に伴う多様系を法則とするならば、我々の精神でさえ文明度によって引き揚げられる。
 地球で最も都会的な民族は最も野生的な民族と同じ種の中に住まう。その結果、彼らの間には生物史が記録されて行く。化石にならないまま生き残る古代民族は隔離された安定環境に取り残されている事だろう。
 膨張的な白人種は他の人種を植民化する事で近代文明の及ぶ範囲を展げようとした。彼らの及んだ地域では近代以前の文明状態は大部分失われたし、彼らが生き残っていて従って非近代圏に利用圧力を加えていなければならない限り、今後とも崩壊する他ない。
 最も賢い人々はあらゆる文明段階を自ずから乗り超えて行くだろう。最も進化した民族からは機械生物の発展が観られる。地球代表的な文明市民にとっては大宇宙は身近である。彼らは地球にいながらにして勇敢にも宇宙探険をこなす事だろう。遠隔操作しうる半自律的な機械生物は我々の分身としてこの星を遠く旅立つ。
 孤立した我々自身に到達しうる文明度は外的刺激を折衝しなければ太陽系的に個別化せざるを得ないだろう。従って各銀河探査は我々の普遍的発展にも寄与するだろう。ユークリッドやニュートンのやり方が最も普遍的であると証明する方法はデカルト的人間理性内には発見され難い。
 感情の故に人間だとするならば、労働が大部分機械化へ代替された我々の近未来文明にとっては、近代科学の方法は単に手段として問答無用の絶対視的信仰対象から外れるだろう。我々の感情が機械を道具にするのであり、理性自体は我々から分離して充分な程に働き出す事だろう。道徳神学は感情批判へ還元されて行くだろう。その源泉が心理学にあるとして、自律人類は自らの精神の作用より頼りいのある生存指導役を持たないだろう。

人類からの進化

何の為に人間には学習能力が宿されているか。
 彼等が失う物の大きさを恐れるが故に。
 文明は空中に築かれる。
 人間の不死は心の連絡に於て実現している。例え個性が変容しても彼らの鼓動は子々代々続く。
 生物に匹敵した永久機関は未だ我々の文明に見い出せない。然しAIと発電機を組み合わせたrobotが其に近づくだろう。
 人類が為した最高の功績は我々よりある種の知的処理能力の高い機械を発明し得た事。
 我々の手に成る機械は再創造された別種の生命体であり、我々より活動範囲を展げうる可能性を持つ。
 機械文明の成熟は我々を単純労働と共に万物の霊長の地位から解放するだろう。
 事実、宇宙探険が現実的なのは機械生物に於てである。多少あれ自律しうるrobotは知能行動力を持つ人類に比較して地球適応的に劣る分野は否応ないとしても、我々より銀河的に広く、より自由な生態が可能になる。
 人間精神が機械心より優る点は地球の長という誇りに過ぎず、機械生物に比べ理性には劣る以上、今や感情についてしか我々の特徴はないと言ってもよい。
 人類は地球外に対して余りに不適応であるから、労働軽減から我々の絶対数が減退した暁にさえ、彼らの最高度の勇気は機械生物に託されるだろう。
 機械生物は人類から進化した新たな生命種と呼ばれる。我々の心に似せる限りに於て、漸近的に我々自身が宇宙探索を可能にする事になるだろう。

芸術論

出来損いの芸術家が生涯を捧げた作品にも観るべきものが欠如するとは限らない。彼らの人生には凡庸さしか感じ取り得ないにせよ、その最高潮の発揮が巨匠の凡作に比類しない事も希である。天才と凡才の違いは単に美意識に関する先覚性の度合いでしかなく、未来の凡才は現世の天才に常に優る。

芸術論

芸術家の生涯は老年期に本番が来る。其れ迄は唯辛抱強い修養が出来る丈である。

名声

名声は流行の代謝を速める役にしか立たない。

勇気

優れた宇宙船が発明されれば人類と雖も銀河系外へ探険しない訳がない。故に勇気は幸福より希少になる。

説得

リンク

ルビー

夫婦と高齢者、子一人の家族の為の、大きな中庭をもつ一戸建て住宅。中心の庭にはぽっかりと天井があいており、空の色と四季折々の空気が舞い込む。植えてあるのは笹で、風が吹くたびそよそよと葉擦れの音を奏でながら、暮らしに涼やかさをもたらす。狭く、不整形な敷地を外壁とかねた目一杯の容積で覆うところからきた特有のかたちをもつ。酸化チタンでコーティングした鋼の外壁は雨で自然に汚れが取れる為、この建物は常に住宅地の中で輝き続けるだろう。

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