2008年1月4日

結婚論

恋愛はより良い婚姻配偶の手段となりうるものだが、決して人類における繁殖行動の目的ではないし、唯一普遍の方法論でさえない。
 ある個人ないしはある文化集団においてさしたる本能の発展を要求しない場合、恋愛はお見合いより適当な結果をもたらさず、従って罪と見なされて然り。
 恋愛は本能を基準とする配偶計略だから、理性から認識すれば誤っていても敢えて選ぶ暴挙に出ることしばしばだし、しかも若者は大抵のばあい生経験や実例観察の不足から判断力においても未熟だから、恋愛結婚の家庭は持続可能性に必ずしも高くはない。お見合いならぬ恋愛とは、繁殖活動における人類以前の生物への退行と言っても良いだろう。というのは一夫一妻の家庭を契約を含めて厳密に延長させるのは人類の傾向だけだし、それが子孫育成に最も安定した環境を提供する以上、人類の種内適応行動なのは疑う余地もない。
 地球人類における最善の繁殖行動とは、社会的に適切な時期が訪れるまで男女それぞれよりよい家庭づくりのため様々な勉学をこなし、その後に智恵に優れた仲人の濾過を経たお見合いでの取捨選択による厳しい淘汰によって、父的理性や母性情緒に秀でた最も好ましい適切な配偶者を最終的には自らの本能に聴いて選良することだろう; 配偶の選良。
 この様な社会淘汰を経た優秀な相手においては、決して性情に劣る家庭は有り得ないだろうし、うまく行けば人類社会中にも傑出した善良な家庭が期待でき、人類が学習動物であるかぎり真実の天才とはそのような素晴らしくよく耕された環境から更に適切な突然変異を経てしか育つ可能性も無い。
 本能の優る淘汰、いわば自然の淘汰は決して人類内において適応的な行いではなく、原始的であると認識するのは正しい。恋愛結婚とは退行した繁殖活動で、それを通じて急いで築いた後付けの家庭での最適配偶が得られることは希。