2019年4月30日

最高善と究極の幸福は中庸に求まる

原始人は幸福という言葉を知らなかったが、そこには快苦はあった。動物も同じだ。未来からみれば現代人も未知の概念を知らない。言葉が幸福を義務かのよう法で意識を変性させた。実際、幸福は義務ではない。単に生物は本能に殉じた快を探求するのであり、人が理性と呼んできたより冷静な、上位認知を含む意識状態でも同じだ。
 自分が幸福と呼べない、十全な理想状態でない、といかなる人も上位認知せざるを得ないし、もしそう思っていない人がいたら寧ろ向上心がないに過ぎない。だから幸福は当為でしかない。しかもその状態は主観的なものを含み、個人単位で大幅に異なる。
 ミルの自伝での彼の立場が幸福を気にするなというものだったのは、ミハイのフロー理論と同質の内容を含んでいる。つまり幸福の定義には没頭が含まれていて、上述の自己の不完全さに対する上位認知が機能しなくなっている状態が必要である。この意味での幸福は本質的に、上位認知の追求を目的視したアリストテレスの定義と違っている。ミルやミハイの幸福を没我的幸福とすると、アリストテレスのそれは理性的幸福といえる。
 究極の幸福は人体機能の殆どに変更がない以上、原始人にとっても同じだった筈だから、人類は特定の快楽をそうと認識していたのであり、しかもその一部を幸福と呼び始めた。しかもこの幸福には色々な意味があてがわれ、物質的な過不足のなさ(この意味での幸福を客観的幸福とする)や主観的自己評価(この意味での幸福を主観的幸福とする)を含めた幸福度の概念などにも応用されてきた。だが定義自体が違う以上、特定の幸福をそうと認識するには、言葉自体を変えなければならない。そうすれば、或る幸福には適合しないが、別の幸福にはかなうといった判断ができる。そして我々が諸幸福の中でも最上のものと見なすべきなのは、哲学用語でいう最高善である。最高善自体が人によって違うにせよ、その中で最も普遍的な部分が究極の幸福と一致する。なぜなら最高善を達成していれば、その人は幸福を含むあらゆる状態で最上といえるからだ。
 人類は他の動物と類似で、単に繁殖を繰り返すだけの存在としてできているから、この基本的本能を満たされる場合、最も原始的な幸福を得易い(原始的幸福)。一方、最高善は社会的動物として文明の総体を含むものであり、他の全ての幸福を含みつつ、その上位にある概念である。したがって最高善と最高の幸福は、本質的に達成可能な中庸にあてはまるといえるだろう。十全な理想状態が当為のままであり続けるとしても、現実に於いては諸々の徳目は中庸で発揮されると知られているからだ。

自殺は社会的有害さによって、死の恐怖は世代交代の無知によって悪徳

自殺を現実逃避の手段にする人は社会にとって有害な利己性を発揮する。自殺によって社会的有益性を発揮しようと考える人は、それに伴う弊害を十分考えていなければ、生きていながら社会貢献に殉じていない分だけ非難される余地がある。
 死を恐れる人は元々新陳代謝の為に固定化した機能を個体が失うことを認知していない。

有能さは非競争性といいかえられる

簡単に成果が上がる方法と、困難で成果が上がり辛い方法がある時、無能な人は後者を択ぶ。なぜこの人が無能かといえば、人生単位で赤い海を泳ぎ、そこで勝ち残った競争性を成果一般と勘違いしているからだ。有能な人は基本的に青い海で非競争的に同等以上の成果を出している。そして革新性の本質も、元々この種の非競争的なものなのだ。

思考停止や忙殺を無能な人々は自ら好む

無能な人は暇を奪われた方が良い。なぜならそれは有能な人の命令に従って、少なくとも無能ながらも何か社会に有益な仕事をさせられることを意味するからだ。
 ギリシア自由市民が奴隷制を必要としていたのは根本的に有能な人々が自己正当化していたからだ。また資本主義で労働者が実質的に奴隷化されている(又は自ら奴隷志願している)のと同じ意味で、無能な人々は自由や暇を蔑視している傾向にもある。教育がこれらの原因でないのは普通教育の機会均等以後は明らかにも関わらず、自ら考えることを嫌う人々がいる。彼らは世俗的価値と見なした他人志向によって、他の労働者に群れる自己奴隷化を進んで選択していく。つまり無能さの究極形態は、思考放棄、思考停止だといえるだろう。

前衛性は最初のペンギンを積み上げる形で美術史を記述する必要から出てくる真の美術評価機軸

マネとカバネルのサロンにおける関係、『水浴(草上の昼食)』が風俗画であって『ヴィーナスの誕生』が神話画であるという、裸体画の伝統解釈に前衛と後衛の差があったこと、しかも今日の目からマネはサロンの規則を破った点で広く知られているがカバネルは当時成功した画家であったとみなされて多くの弟子を抱えていたのに他の作品も含め殆ど知られていないこと、これは過去のみならず現在でもとにかく常態的な対照性だ。恐らく未来でもそうだろう。我々は『オランピア』が娼婦の官能性を世俗的に描き出したもの故に当時も非難の嵐に巻き込まれたという前提なしに、教科書等でも美術史的に常態的にこれを学ぶが、上述のカバネル作品は神話画の模倣として官能性を利用しているという意味で習う。つまり当時のパリの市民階級がどの様に彼らの表現を見ていたかさえ知る結果になる。裸体画の伝統的規則であった神話という建前を破った事件性、いいかえれば画題のコンセプトからの世俗化が、マネのもっていた同時代的成功から彼を遠ざけた前衛性だったのだが、我々はこれ自体を文脈化された美術史としてパリにいた前印象派の近代画家の一部として習う。
 未来の画家が私のこの記述を読むこともあるだろう(例えばリヒターもノートで保守的サロン画家と前衛画家の違い、加えて現世的成功と死後の名声の対照性を指摘している)から、参考となるだろう意見を書いておく。
 この種の構図は時代の変化を捉えて時系列的に流行を記述する美術史の書き方に由来すると同時に、同時代人らの殆どの批評眼は真新しい表現には適合しない保守的な慣行に倣うことを示している。実際、私と同国の同時代人、しかも同年齢でも恐らく後世が調べれば分かるかもしれないが日本のサロン作家の典型というべき写実画の日展作家がいるが、彼の商業的成功は高級車に乗り回すといった類のものである。しかも日本の保守的鑑賞者らの基本通念は、洋画(狭義で油絵)とは明治時代に西洋から輸入された写実絵画、または印象派と考えられていて、その中でも写実絵画が主で印象派は亜流とされ日展(官展を色々な経緯でこう呼んでいるが、いわゆる日本政府の開く公募展といっていい)の中でこれ以外の作風は排除される。なぜそうなのかといえば、この日展で互いに権威を与え合っている一定の集団は、もともと大学等の美術教育を受けておらず、どちらかといえば近代以後の理論をもっていない。いってみればアカデミズムの王道を外れた人々が、自らの市場価値を賞の権威で捏造する為に、素人にも分かり易い表現方法を追求した結果、写実表現に辿り着いたといえる。その上、モダニズムの影響を受け前衛表現によって美術史に残るといった方向性にもなく、現世的商業に最適化している。つまり前衛主義とはミームの評価を未来に先延ばしする戦略であり、美術史の知識を応用して意識的・無意識的に伝統規則を破った上で、論理的必然性を伴って新規表現をおこなう傾向である。一方、後衛主義は同時代の理解者を最大化しつつ伝統的な模倣表現を繰り返し、合格者の少ない美術・芸術大学や、公募展等での競争優位を誇示して権威づけを行い、一般大衆がその作品を購買する為の参考情報をよりどころとして金儲けする方法である。両者の中間をとる中衛主義といった傾向もあるが、巨視的には現世で死の直前発見されるまで全く自作を公開せず新規表現をしていたヘンリー・ダーガーの様な例や、そもそも商売以外でなく絵を描く週刊誌の漫画家の様な例があるのを除けば、大抵の作家は前衛・後衛の濃度があるに過ぎない。各作品で両者を使い分けている場合もある。しかし究極のところ、前衛主義以外の絵画は歴史化される理由がない。なぜなら最初のペンギンを捉えて記述する以外では、過去の模倣を繰り返す画家らを記述している限り、余りに数が膨大になって美術史自体が不可能になってしまうからだ。この意味で前衛性を評価する観点をもちだしたグリーンバーグは近代以前の美術史も覆った論点を出していたのであり、未来においても同じ法則が適用できる筈だ。

無法の帝

蛙啼く無法の帝非難して

違憲退位

違憲なる天皇退位おこなえる腐った独裁人治国家

公徳抜きに世襲君主や教祖を祭り上げるのは単なる政治的怠惰

世襲君主や天皇などの象徴王権(天皇やローマ法王の場合、教祖を兼ねる)抜きの共和政を望まない主権者は、いわば自分達が政治全体に詳しくなり、自力で判断するという知的負担を背負うことを面倒臭がり、代わりに専用の封建階級にそうしてもらい自分が楽したいだけなのだ。ところがこの代行には致命的な欠点があって、時に自らが奴隷化されてしまう。政治的怠惰の形態が天皇制下の日本やバチカン市国の様な教祖の統治した神聖政治空間だといっていいが、少なくともバチカン市国は世襲以外による統治を繰り返す形式をとっているので徳に応じた統治が可能だが、日本の場合はふさわしくない人物の悪政が容認されるので独裁政治の最も堕落した姿だといっていい。元々単独政治が自分より公徳の高い他人に公共の問題を代行するものであればこそ、この公徳以外の何かで単独支配者を祭り上げるのはただの過ちというべきだ。しかも世襲の政教一致体制の場合、幻想の公徳をそれをもっていない教祖にあてがおうとする為、名実の矛盾は甚だしくなる。
 内心の自由に過ぎない宗教観念で信仰の違う人を貶める政治が不正だという面で、政教分離できない人々の思慮が浅いのはいうまでもないが、更に共和政をとりようもない人々は、元々何らかの意味で知的に怠惰だといえる。

ブランドは詐欺を意味している

他人を肩書きなり属性で判断している人は、常に詐欺にあっている様なものだ。しかしこの種の当人の中にある思い込みや偏見、差別感に他人をあてはめなければ、人の判断ができないという脳の単純思考さがかなり広くみられる脳固有の性質なことも確かであり、いわば人は前例抜きに他人を判断しづらくできている。当人らの過去の経験(学習を含む)中からなんらかの共通項目を使って、ある人の性質を類推しようとする働きが、その種の判断の誤りをもたらす。しかもこの誤判定、誤解は後光効果など心理的偏見を含むので、更に詐欺にあい易くなる。ブランド志向は全てこの種の詐欺業界を意味しているといっていいだろう。

2019年4月29日

警視庁の使ったとされる思想犯概念は内心の自由に踏み込む天皇制ファシズムの復活

週刊朝日によると、警視庁関係者が「ほぼ間違いなく思想犯」という内心の自由に踏み込む特高警察やナチスの概念を使って悠仁脅迫犯を定義しているらしいから、これが事実ならできるだけ早い段階で国連側に警視庁や日本政府の行状を英語等で通知し、今後の皇室と日本政府の動きを逐一報告すべきだろう。この皇室と日本政府は、既に74年前に同様の天皇制ファシズムの元で、大量の人権侵害、或いは極刑を含む思想の表現弾圧と国民虐殺を行っていたのであり、今後も先祖がえりする可能性は、共謀罪の成立以後、十分に有る。国民側にも注視がいる。天皇制ファシズムの元で自ら特高に服していた連中だからだ。
 国連による日帝への抑止がなければ、天皇一門と日本政府、日本国民自身による思想・表現弾圧の蛮行は更に激しく悪化していたわけで、今回の事件対応にみられる思想犯概念の復活は、ファシズム復活の明白な証拠といっていい。
 警視庁は単なる東京都警だから、もし思想犯発言があったとしたら、単なる一地方警察の蛮行というに過ぎないにせよ、事が皇室絡みなだけに、天皇制ファシズムの再現といえるだろう。

歯医者等の病院に土日・祝日に当番医を置くことを義務付ける法案

ゴールデンウィークに営業しない歯医者は本当に反社会的存在といっていい。商魂がないのを超えて、全人類に害悪。医者と呼ぶべきではない。御用医師と呼ぶべき。
 同調圧力で、歯痛の人を放置して遊び呆ける歯医者どもは全員、反社会的存在でしょ?
医者に関しては土日・祝日に何らかの当番医を置く義務を法律で決めるべきだ。

日本人の一部は先進国程度に賢い

内閣サイバー(注意・警戒情報)(@nisc_forecast)が「海外でのテロに際し恐怖や悪名を拡散させず、幸せでほっこりする内容を投稿して」とかいって、それにいいねしまくる人らがいる一方で、冷静に「言論統制だろ」「先ず現政権の悪政を正せ」とかいってる人らもいて先進国になるだけの民度あるなと思った。
 日本は決して馬鹿なだけではないね。一部の人が賢い。

愚民

天皇に国税貢ぎ国民に原発おしつけ愚民かな

2019年4月28日

悪性者を矯正する為にも学の本質に触れる為にも初等教育では道徳を中心にすべき

生まれつきの愚者、生まれつき性格が悪い者、或いはサイコパスに通り一遍の科学教育を無理やり施すと、大抵、とんでもない利己主義者ができて、差別とか搾取とかにその能力を悪用しはじめるのであって、科学教育自体がその人達にとっては有害なのである。悪性者に与えるべきなのは道徳の教育なのだ。
 そもそも利他性は知能の中で他人の気持ちを推し量る能力、そしてこの共感性を応用した人助けの習性に依存している。サイコパス度の高い人物を頂点として、悪性者は共感知能が低く、他人の心の痛みを逆に喜ぶ習性を身に着けている。しかも幼児の時点から差があるのは共感知能に遺伝要素があるのだろう。共感知能のどの程度の部分がどの様に遺伝しているかは脳の研究を待つが、もしそれが遺伝しているとしたら、性格の違いがほぼ同じ教育を受けていながら生じてくる理由が説明できる。つまり性格の中でも利他性に遺伝要因がある可能性がある。悪性者は最初から正義を偽善的に、利己性の部分としかみない。
 悪用できる道具を多数身に着けている悪性者と、少なくとも道徳教育によって利他性の高い振る舞いをするよう矯正されていて悪用できる道具も殆どもっていない悪性者がいた場合、人類一般にとってより公益的なのは後者である。だから公教育は道徳教育を科学教育より先に、初歩的な段階にするべきである。
 日本の伝統的な教育の中でいえば、先ず儒教、仏教、或いは武士道、場合によってはキリスト教やイスラム教等の伝統的な道徳体系の中から、最も普遍性をもっていると考えられる部分を抽出し、その知識を子供の段階で教え、試験し、ここで体系的に正しい選択をとれると判断されたら科学教育に進むのだ。
 そもそも自然科学は社会科学の中でも形而上学(後自然学)として最終的段階である倫理学(倫理哲学)の前提となる小知識であり、それを使いはじめに教えられたところの伝統的な諸宗教の中で程度こそあれ普遍性をもつ部分は、当時の水準の自然・社会科学によって徐々に変更が加えられていくものである。いいかえれば、伝統的な道徳倫理を理論から変更するには、自然・社会の全科学の質的変化を理解している必要があるが、単に自然科学、又は社会科学の部分だけを身に着けている人にこれは十分なしえない。これが不道徳な人間が、今日の教育を経ても存外生まれてくる理由である。
 文科省の教育課程では道徳・倫理教科が副科目扱いされている。これは明治以後の日本政府の近代科学や工業への劣等感が原因であり、ノーベル賞崇拝や科学と技術(工学)を一体の物として捉える偏見にも繋がっている。だが既に述べたよう悪性者を矯正できねば、マッドサイエンティストが増えるだけだ。
 また文科省の歪んだ教育を受けた者で哲学的思考力を欠いた人、或いは国際的な意味で世間知らずな人は、国内の公教育課程全体を知性と混同していて、そもそも道徳性を全人格的教育の目的と少しも思っていない。これは哲学を知らないこと、つまり何らかの学識の部分しか知らないことによっている。
 更に、資本主義社会は人々を商人に、特に多数を占める労働者にしたてあげようとする同調圧力を中流以下に無意識に加えたがるが、これは教員自身が政府か企業の被雇用者であり、その自文化中心主義をもつことによっている。だが経営的進歩は差異化によるので、商人自体にも多様性が必要である。すなわち生徒を商人かそれ以外にするかを問わず、教育が既存の労働者一般の再生産過程を歯車的に繰り返すのは、単なる思考停止に過ぎない。市場への媚びとして生徒を労働者の家庭から好まれる就職予備校扱いしている私立学校の場合、余計そうである。多様な生徒を輩出する方がよりよく市場的だからだ。

天皇家は自分の中国人先祖を神とする統合失調症の家系

天皇の先祖はいわゆる精神疾患(恐らく統合失調症系)の狂人であって、自分の先祖が神だという妄想を本気で信じていて、その精神の病に、当時の経済力の印であるコメを集めて権力が加わったので周りの暴力団の手先に神道教義を植えつけた。1400年後、平成末、その狂人の末裔と聖槍で戦う人が出てきた。ところがこの天皇という中国神話の神を名乗る狂人一家の暴力は、日本政府を名乗るほどに拡大していて、その暴力を恐れ、また神道に洗脳された衆愚側は、聖槍で暴力団教祖と戦う人を逆に狂人扱いし、天皇権力を使って逮捕・刑罰しようとする。王権神授説を本気で信じている愚民とはこういうものなのだ。
 麻原彰晃は天皇の模倣者で、天皇の方が暴力をより大規模で使ったに過ぎない。自分を神格化する為に暴力を使っているだけなのだから、麻原は天皇との政治闘争に敗れただけで、もし麻原が最大の暴力を得られたら天皇に置き換わったろう。そして日本人愚民側もすぐに麻原信仰を自明の前提にし始めたろう。
 神道政治の信者・擁護者は、疑いを暴力によってかき消そうと日帝を作り、或いは天皇の側近や支持者となって正常な理性の持ち主らを暴力や集団圧力で迫害してきた。奈良や京都、東京などその主要舞台でこの邪教集団は中華思想に耽り、殺人集団を形成し、その体制外と見なした世界を差別し搾取してきた。

馬鹿向けメディアは肩書きで世間を騙している

某御用学者のネット・テレビ芸人が50万以上の報酬を山口県からもらってたという記事読んでわかったけど、ネット右翼的な人らとか、ネット文化人みたいな人らってなんか怪しいなと思ってたけど買収されて適当なことをほざいてたんだね。薄っぺらい言動しか言ってないのにメディアに出るのはそれなのか。
 馬鹿は肩書きが好きだから、東大だの早慶だの肩書きがついてたら適当に擁護してもらえれば愚民に対し箔づけになるという、実に下らない計算で、金渡して馬鹿メディアがそういうのを呼んでるんだね?
 テレビ・ネット芸人の側は金欲しさに変節する、妻子だか夫子だかが居るただの商売人だから、志操も何もあったものではないと。要するに資本主義者であって金になって売名できるから、メディアで恥知らずな安倍擁護だか、馬鹿の癖に偉そうなふりして世間を騙しているんだね。

皇室が今日絶滅しても日本国は問題なく続く

皇室が今日絶滅したら大発狂してもう日本国は存続できないとかいう狂信者は、天皇渡来以前数十万年の間最初から日本にいたわけじゃない(少なくとも天皇が先祖と主張する神武天皇のよう、或いは弥生民族のよう途中から渡来してきたとしても、その途中で天皇と共に暮らしていたとも言いがたい)のだし、そもそも飛鳥時代以前には国内に天皇を自称する人らがいたでもないのだから、中世の蛮風を絶対視してるだけ。女系天皇だろうが天皇廃絶だろうが無問題。
 日帝がなんで天皇制ファシズムで敗戦まで継続したか色々原因が語られてるが、日本国民全般が愚劣だからという結論でよさそう。平成時代を分析すれば確信できる。戦後も馬鹿は死ななきゃ治らなかった。

ロンギヌスの槍で悠仁を脅迫する犯人の思想は神聖政治への象徴的否定の可能性がある

アニメ『エヴァンゲリオン』のロンギヌスの槍に似せた刃物を、悠仁の机に置いて、キリストの受難を象徴させるという脅迫事件。確かに中国神話の三皇の一人であるところの天皇を名乗る一門は(神武の中国大陸からの)渡来以後、日本人らを大量虐殺し奴隷化してきた訳だが自ら神聖政治ごっこをしている。犯人は王権神授説の否定を、アニメの概念を使って象徴化していると。それでリテラというサイトが煽ってたからヤフーのコメント欄をみてみたけど、どうも一般国民側はまだ天皇の王権神授説を全く疑っていない。つまり犯人の意図は伝わってない様で、ただの猟奇性の脅迫罪と見ているだけみたいだ。
 それで考えたが、もし悠仁が暗殺されたら女帝になるか、最低でも憲法改正に繋がるので、安倍陣営にとって表向きいわないだろうが好都合なんじゃないだろうか? つまり犯人の思想内容が右翼の可能性も十分ある。
 反天皇的なものに安倍ファシズムも含まれていて、一部が天皇制ファシズムと対立している。安倍ファシズムは長州閥がスコットランド商人の武器で国内外を侵略開始してから、マキャベリズム的な暴政が至上原理となっているものの延長にあって、権謀術数によって松陰イデオロギー、即ちここでは中華皇帝制的な一君万民論を推進するのが目的である。一方、天皇制ファシズムはただの世襲独裁だ。長州閥及び安倍ファシズムは皇室が自らの権力に服する限りで天皇を祭り上げるが、それと矛盾するなら天皇制に改変を加えたり、究極のところ天皇を否定する。実際、長州藩士は蛤御門の変で御所に発砲したり、二度の長州征伐で天皇軍(当時の幕府軍)と戦っているし、松陰も最後に天皇を否定していた。
 で、天皇の側は単純に自分の権威権力を世襲で最大化する為に権謀術数を駆使する。この悠仁脅迫犯の思想内容がどの様なものかまだ分からないが、少なくともその天皇の聖性を象徴的に否定している。いわばジョン・ロックが329年前に『統治二論』でやったことを、オタク言語で政治犯罪としてやっている。安倍陣営は他の長州閥同様、天皇の主張する聖性(宗教権力、或いは権威。自らの中国系の先祖を中国神話の三皇の一人と同定させようとする神道イデオロギー)を幕末期から、自身の権力を補完する手段にしている。この意味でリテラ的な反安倍・親天皇の文脈が、尊王論の変種として出てくるわけだ。
 一方で、ヤフーコメント欄にみられる一般国民側はこの様な政治・宗教的な文脈を認知できず、悠仁がただの子供で将来の天皇だという前提に立ち、御茶ノ水中学より学習院の方が警備がましだった、また下種の勘繰りで紀子のせいだ、眞子の小室との結婚が呪われている、文仁が悪い等と妄想に耽っている。
 他にフェミニスト側は、国連と同意で、明治天皇制の延長にある現憲法下の天皇が男系相続のみなのは性差別と考えて然るべきだから、極端な反天皇論者でなければ悠仁暗殺を容認まではしないだろうが、憲法改正を名誉または国民の自由を自民党が制限可能と考える安倍陣営同様、暗に都合がいいわけだ。しかも天皇家には女帝が8人10代いたのみならず、尊王論者かつ妻が皇族でも光圀のよう万代一系論をとる立場からは、男系相続に限るとした明治以後の皇室関連法は、右翼の中でも意見が分かれ、いわば不純なものに過ぎない。なぜなら女性天皇、女系天皇いずれも認めず天皇廃止より存続がましだからだ。
 こういう神道政治全体の流れを思うと、悠仁が或る政治犯によりロンギヌスの槍(磔刑後のイエスを突いて死を確かめ、キリストの聖性を否定した遺物)で脅迫されているのは、象徴的には、政教一致と政教分離の戦いといえる。前者は現日本政府の国家権力、後者は安倍陣営を部分的に含む革命勢力なわけだ。一般国民側には小室圭氏の資質が皇族に適わないと見る、いってみれば神道や世襲政治にかこつけた人種差別主義者が大勢いるのは、リテラやヤフーのコメント欄が指摘する通りであり、ここには政教一致を存続したいとする保守的願望が含まれている。眞子や佳子は秋篠宮家の教育方針で世俗化しているのに。天皇を神聖君主に偽装させようという一般国民側の願望は、眞子の世人ならよくある事例に過ぎない小室家との婚姻を強烈に否定させたがっている。特に小室家の借金問題は、結婚代として国税を使って返済する結果になりそうなので彼らから非常に嫌われている。つまり今の一般国民は政教一致主義者なのだ。
 文仁は民主主義を皇室の為に尊重するのが是と考える世俗化志向の持ち主であり、故により一般国民に近い存在に自らの子供を育てようとしてきた。そして実際に眞子の配偶者選びによってこの成功が明らかになった訳だが、逆に一般国民の皇族への神聖視願望との矛盾と軋轢が発生してしまった。悠仁もまた眞子同様、秋篠宮家の世俗化教育と、一般国民側の神聖視願望との摩擦に巻き込まれている。特に今回の事件は政教分離派の中でも過激な部類の政治犯罪といえるが、本質的には未来の天皇の聖性を否定する目的がありそうだと類推できるので、一般国民側にとって神聖政治継続への危機に見えると。
 更に巨視的には、他先進国で政教分離原則はジョン・ロック以後かなり長期に渡って検討され、解決済みの政治体制なので、一般日本国民が何に世惑っているかほぼ理解できない筈だ。まさか日本人一般にとっていまだに天皇や皇族が神聖性を帯びてもらう教祖だとは、一般的な外国人には信じられないわけだ。悠仁がただの子供なら、聖性を否定する遺物の様な脅迫装置などを机に置かれるべくもない。彼がもし単なる世俗的な君主の末裔で、次の象徴的な王であったとしても、わざわざロンギヌスの槍で脅迫されはしなかったろう。非近代的な神道政治の根本原理が脅されているのだと見て間違いないと思われる。

卑しい人は不幸をまきちらす存在

卑しい人とわずかでも接すれば常に不快な目にあう。だから卑しい人とそもそも関わらなければその人の暗愚さからきた悩みや解決不能な悪業から逃れられる。

都会の低俗で偏見と悪意に満ちた情報を見聞きするべきではない

頭の悪い人を賢くするには一生では足りないのだから、その種の人々が大勢たかっている都会に近づかないこと、そしてそういう人達の発信する情報を見聞きしないこと。

潮風

潮風
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学歴差別主義者の分析

学歴差別をしている人達は、自らの知性に劣等感を持っている人達な場合がほぼ全体である。自分の見てきた彼らは、自らの知性がなんらかの重要な秀才または創造性の高い天才に比べ劣っている経験を繰り返しするか、育ての親からその種の劣等感の裏返しで名のある大学の学位または入学・卒業歴を短い期間で習得するよう当人の意志に逆らって強制された経験をもっている。そしてこの種の人達は学歴差別という偏見を自明の前提とする様になり、他人の知性の一部または全体を学位なり入学・卒業歴なりで推し量ろうとしてしまう。また自分が他人よりそれが上と考えた時には、他人に対し内心または公然と優越感を主張する様になる。
 こういった学歴優劣感の持ち主は知能全体を自らの妄想の中で競争的舞台とみたなんらかの教育的学習過程で類推し、その枠組みの外にある人物を全く前提なしに評価できないので、常に対人関係不安を抱える様になり、自らの偏見の枠内に居る、決まった相手としか交際できなくなる。実際この種の人々は人格とか芸術・運動・対人関係知能といった知能の多様性の中ではほぼその科学教育上の定規を役立てられない上に、秀才以上の存在や独創的天才、科学習得の前提自体が自身の受けた集団教育の類型にない知性について全く判定できない。その為、この人達は知性をなんらかの創造的役割(つまり単に模倣的でない知能)を担う本来の能力から逸脱して考え、特定の決まった科学教育歴の中で効率よく知識を習得し、また往々にしてこれらの人々は労働者になっているのだが、同じ階級・集団を再生産する為にあるものだと思い込む。だから彼らはしばしば人間の知能を「スペック(仕様書。specification)」と呼んでいて、労働階級の拡大再生産の中で型にはまった学習過程を繰り返す機械、或いは歯車と矮小化して捉えており、しかもその一生を至上の幸福と妄信してもいるので、経営者・資本家・皇族含む政治家側のシグナリング理論を背景に合理化に耽る。
 結局これらの人々は科学教育を俗事、特に労働階級の再生産に応用する為に使った結果の一つといえるが、本来の科学が真理の探求だったことからも、知性の矮小化の一種、科挙的な現象といえる。彼らは多重知能説(知能の多様性を含む知能の捉え方)以前の世界観に生きており、しかも産業革命以後に商人のうち労働階級の再生産が工業時代の型にはまった作業に最適化していた時代の価値観を絶対視してしまっていて、それ故に差別的学歴観を合理的なものと見なし疑おうとしないのだが、文明の進展が自動的にこれらの人々を不適応としていくのが必然である。工業的優位さは国際貿易中で或る国の或る労働者集団を駆逐してしまうし、それは経営上の創造性を軽視なり無視していると革新的製品を生み出せず日用品の赤い海に落ちるからだが、同時により安価な労働力に溢れた国々との地球的競争で自動的に高費用な教育課程が無用の沙汰になるからだ。

偉人を作る働きについて

社会の大部分は凡愚が作っているので、そこでは同調圧力という合理化(自己正当化、いいわけ)の働きで最も凡俗でとるにたりない人間を標準視させようとする差別的圧力が働く。一方、何かに傑出した偉人は常に、或る標準的な能力を大幅に逸脱し、しかも特定の能力が飛び抜けて高い人物だ。いいかえれば凡愚は偉人の正反対の集団で、それら諸属性の中央値に近づくほどますますそうである。
 偉人を作るもう一つの働きは、特定の能力以外が平均値より低い方が有利である。なぜなら何でも卒なくこなしてしまっている限り、凡愚の同調圧力はその人を平均化しようと圧迫を加えてくるが、欠点が明らかであるほど凡人は足手まといとみなし、その人を同集団に加えたがらなくなるからだ。 この為、偉人は一般に重大な欠点をもっていて、しかもその落ち度が逆説的に長所に転化している。裏を返せば偉人は自身の欠点を利用して特定の傑出した能力を高めるのに集中できた人である。

2019年4月27日

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冒険

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銀河を旅する

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アートの終わり

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大衆芸術の技

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2019年4月26日

資本主義を内的に否定していたのがミニマリストでありニートでありネット右翼でありバイトテロリストだった

他人より金を儲けることは、比較によって他人を貶め、自分の地位を誇示する顕示的消費の一形態になっている。蓄財自体が馬乗りの方法になっているのだ。だから資本主義自体は常に他人を貶める悪意の総体に過ぎず、この信仰に堕ちている人は生涯、苦役から逃れられないし、又他人をも忌避させる。現実に金持ちがおちぶれると我々は嫉妬の解消で痛快さを感じるのであり、根本的に富裕層は憎悪の対象なのである。しかもこの儀式は恒常的に体制化されているので、累進税制により一般国民は絶えず嫉妬の解消を試みている。
 労働者(会社員や自営業者)全般がどれほど自身の努力を誇示しても誰からも同情されず、逆に恨みの対象になっているのは、そもそも金儲け自体が他人を搾取する悪行だからである。 往々にして経営者や大資本家(株主や不動産主)、政治家(議員)、皇族らの分け前の方が多くなってはいるが、労働者自身が搾取の体系に加担しているのもまた事実なので五十歩百歩に過ぎない。つまり資本主義を信仰している集団で最善なのは、そもそも商活動を行わないことでしかない。それは消費の面でも生産の面でも流通の面でも同じである。(美術用語から音楽用語を経由して、経済的な個人思想に適用された)minimalistと呼ばれる考え方の持ち主らが清貧さを正当化しているのは、根本的に資本主義の欲深さを否定しているからなのだ。そこには原始仏教やキリスト教(清教徒思想)など伝統的な宗教との類似性は見られるが、単に資本主義的生活様式の中から、非正規雇用者やフリーターなど不安定雇用下で十分な収入が得られない人々が増大した結果、高収入と顕示的消費を現実に行い得ないため逆説的に、バブル的に派手な生活を否定する役割を演じる方が合理的となったのだ。
 実際、嫉妬を羨望の駆動力として顕示的消費に奔らせる、資本主義の消費喚起のしくみに乗らず、他人にねたませる類の消費を行わず、しかも蓄財自体もしていない人に、資本主義信者自身、軽蔑こそすれ、ねたむ理由はない。だから経済的ミニマリストが増加し、総生産を低下させればさせるほど、資本主義信者自身、その集団で搾取する相手をなくすか、当人達へ集まる憎悪から居心地を悪くする筈なのであり、究極的にはニート(NEET)と呼ばれていた若年無業者も、巨視的な怠業(sabotage)により最小生活を営むことで資本主義の競争誘因を否定していたのである。いいかえれば共産主義とは別の方向から、資本主義の邪悪さを暴露し、内的に反抗し、闘争してきたのがニートであり経済的ミニマリストだった。彼らは現代経済的な前衛だったのだ。
 最終的に総生産の極端な低下で資本主義秩序が維持できなくなり、社会主義化が進展するという流れを、更なる搾取対象である奴隷的労働者として移民を導入して自民党員は経団連企業ともども解消しようとした。現時点でこの試みに、労働者の側が多少あれ反旗を翻しているのがBrexitでありトランプ政権、そしてネット右翼の排外主義やSNSなどを使ったバイトテロ、或いは加藤智大らによる直接的なテロ等なのだといえよう。すなわち経済的階級闘争は、大規模な組織による全共闘の挫折以後、密かに或いは公然と怠業や排外主義、テロ活動によって行われてきたのであり、持つ者たる資本家・経営者側は皇族含む日本政府の自民党体制に追従することで彼ら持たざる者を抑圧して今日に至る。非正規雇用法を小泉政権下の御用学者として通して以後、人材派遣会社で一儲けした竹中平蔵氏らはいわゆる政商だといっていいが、持つ者に寄生する中で私腹を肥やしてきたのである。

資本主義的な生産消費活動を極力行わず生きることが現代の適応性

解脱を悟りの一つとしたガウタマは、生存競争自体を否定しているのだから、この意味で原始仏教は資本主義の金儲け暮らしも当然ながら否定している。他方、スマナサーラ含む日本仏教の世俗派、具体的には法然、親鸞以後の俗坊主らは、今日の創価学会も含め俗世での輪廻を肯定する立場にたっているのだから、解脱そのものを否定している。即ちガウタマの立場を現代にも適用すれば少子化や国の衰退、皇室滅亡、日本国民の絶滅は正しい結果であり、解脱によって空虚(dukkhaの訳語として)から逃れた必然的な高徳さの証明となる。
 神道の世俗性が、皇帝ごっこの延長上に皇族が奴隷化した国民を洗脳し、搾取し、納税させるという封建的儀式を国家と一体化させているのであり、この悪しき体制下で人は苦役を逃れられないので、神道信者を国政から排除しない限り、皇族との対比で人種差別や余分な税負担を受ける。資本主義自体を否定し、労働、営業、経営や投資を含む搾取活動を行わずに暮らすことが、皇族排除以前の日本国で涅槃的、無欲という意味で適応になるのはこの為だ。若年層が性自体を忌避しているのは仏教的に正道といえるだろう。

俗受けは不幸を背負うこと

俗人に親切にするなかれ。彼らは搾取を恥じるほど道徳心をもっていないし、そもそも利己的で記憶力のない人達に恩などありえないのだから。俗受けしている人達は全て不幸を背負っているに過ぎない。

説明について

物事を世人に分かり易く説明する能力は、実際、教師以外にとって無用だ。或る仕事が高度であればその様な手間は無用なばかりか仕事自体の進捗を遅くする結果にしかならない。つまり怠惰だ。

低俗さ

大衆性や商業性は低俗さの印である。

愚かさが偏見を生む

自分より愚かな人は相手取る必要がない。そして相手の愚かさが卑しさを含むときは、相手取るほど結果が悪くなる。
 凡そ人がなんらかの偏見を身につける原因は、その種の愚かか卑しい他人の誤った考えを知らずしらず覚えこんでしまうことによっている。だから朱に交わると赤くなるといわれるのだ。
 全ての人間がなんらかの偏見をもっているとしても、自分と比べて暗愚なこと、不徳なことが明らかな他人を避けてくらすのが、最低でも無用の偏見を身に着けない為に必要最小限度の生き方だ。 多くの悪徳は偏見の集積によっている。暗愚な相手を説得しようにも相手はそれを正しいと思い込んでいるのだから、当人に反省力がない限り、自業自得に過ぎない。だから単に愚かな人を避けて生きる方が遥かにましなのだ。

他人の悩みを引き受けるなかれ

他人の悩みを我が物として引き受けてはならない。他人の悩みはその人自身の愚かさに付随しているものだからだ。他人の悩みを解決することはできない。当人以外が違う脳であればこそ、当人の愚かさは当人自身の学びと成長によってしか改善しないからだ。

非世俗的価値

人は世間から認められるかとか、金を得られるか、地位を得られるか、結婚相手を得られるか、子供がいるか、性関係があるか、親友がいるかなど世俗的な価値づけに囚われている人ほど低俗で悪徳に満ちている。そういう人達は結局、非世俗的な価値を認識していないか、俗物として生まれ育って世俗的概念しか脳内にないのだ。
 裏を返せばある人が尊いのは世俗的価値から離れた価値をもっているからだ。そして当然ながら資本主義は世俗的価値についてしか覆っていない。金銭取引自体が世俗的なものだからだ。

自由を放棄した者が自ら奴隷に堕ちる

自由に耐え切れない人は、自ら奴隷に堕ちていく。自由を享受できる人は少ない。殆どの人々は自らの頭で考える能力もないし、その種の主体性を得るまで物事を学ぼうとしなかったのだ。

主人

他人に奉仕する必要がなく、単に奉仕される者が文明において主人というべきなのだから、人は対価の為に誰かの奉仕者になるべきではない。たとえ皇族などの寄生階級が完全に居ない共和国でも、資本主義の金銭取引を主体にした社会秩序は常に他人の奉仕者となるよう鼓舞している。いいかえれば自由な人は他人の為に生きてはいけない。常に自分自身が、その良心を含めて正しい行動ができるよう生きねばならない。

商人には元々卑しい人しかなれない

人は商人になれないことを思い悩む必要はない。なぜなら商人達は他人を搾取するという不幸にしかなりえない生業によって、無限の競争を行っているだけなのだから。その種の生業が幸福でありえるだろうか。商人になれないのはその人が尊い思慮の持ち主だからに他ならない。

ゆとり世代一般の思考回路は封建時代の階級差別を焼きなおしたもの

他人の属性を世俗的価値で上下の階級視し、下位とみなした者を差別することで自身の地位が高いと妄想しようとする悪意は、ゆとり世代一般が中世級の封建的思考回路しかもっていない証拠でしかない。

一般大衆の観察は無意味

一般大衆を見ることはほぼ役に立たない。なぜならそこに徳の面で賢明な存在は先ず見当たらないからだ。見聞きしてわずかなりとも役に立つのは徳の高い人達でしかない。

有害な他者

人は宇宙の中で生物の末裔として生まれて死ぬのだが、その途中で下らない情報を見聞きすることで世の中に絶望するが、畢竟その全てが悪徳に満ちた愚物に由来している。つまり人を苦しめているのは有害な他者に違いない。この世で憎むべきものはこの意味で常に自分に有害な他者の存在である。
 キリスト教的な博愛は、有害な他者の存在をみなかったことにしようとするなんらかの勘違いに基づいている。我々が全人生を通じ、戦っているのはこの有害な他者なのだから。

資本主義社会での解脱

人が他人の為に何かをしようとするとほぼ確実に間違える。他人は自分ではないし、他人の求めなど永遠に分からないからだ。一方で人は他人の助けなしにはほぼ何もできないので、金銭によって他人を動かそうとする。こうして資本主義社会は人類を不可能な作業に誘導し、その中で他人を手段化しようとする悪意の総体としてできている。そこでの有能さとは他人を搾取する、自称付加価値の貪り方であり、いわば他人を欺き貶め掠め取る能力である。しかも労働者を含め資本主義社会への参加者らは他人を顕示的消費で貶め、自分の方が上位で豊かだと誇示しながら、最終的には貧民を虐殺することに満足する極悪人達といってよく、彼らがもし寄付や慈善をするとしても節税か自分の名誉の為、最善でも良心の満足の為といった風で、結局、定言命法的な利他性を欠いているのだ。
 人は資本主義者としてこの市場に参加する限り常に他人から搾取されるのだから、少しも安心できないし、絶えず苦しむ。そこで貪り方が激しいが故に優越感を得ている人ですら同じである。終生彼らは競争をやめられないし、相続税惜しさに死後の名誉の為に慈善ごっこをして済ませていることもある。即ち資本主義者の利己心は究極のところ悪意でしかない。だから資本主義社会とは悪意の体系なのである。そこで最善のふるまいは付加価値・搾取に加わらずに暮らすことでしかない。いいかえれば資本主義社会での解脱とは、金銭取引を拒否して生きることだ。

解脱は人類界の否定

「愚かな人と関わるな」という『ダンマパダ』での仏陀の忠告は完全に真理だが実行は難しい。なぜなら自分より賢い人がほぼ見当たらない国では、人は誰とも関われないからだ。それゆえ「孤独を楽しめ」という言葉がついている。ガウタマと同時代人が彼と同程度以上に賢かった可能性はかなり低いのだから、これらは彼の経験則に基づいた徳目だったのだろう。そして彼からすれば解脱こそ、古代インド社会の野蛮さから逃れる最後の手段だったのだろう。解脱はこの意味で現世否定のみならず人類界の否定だった。

資本家・経営者の原罪

現代文明で行われているのはマウンティングの合戦に過ぎないのではないか? そして顕示的消費の究極形態が大金によって貧民を虐殺なり見殺しにするという資本主義者の蛮行である。当人らはそれが正義だと狂信しているので恥じもしない。要するに資本家や経営者の傲慢も労働者と別形態にせよ同等に搾取の罪悪を誇示しているに過ぎないのだ。

労働者について

私は労働者になっていく商人の或る女を観察した。この女の子供の頃虐められていた云々の話から、学生時代に逆にネットで荒らしをし数多の人々を虐めていた経歴、自殺願望やら作家願望やら、日常的に嘘をつき親の金で贅沢三昧をしている日々。元公卿の家系だなどと嘘をついたり殺人教唆を繰り返していた。会社員になってからは急に俗物さを発揮し取るに足りない軟派男に発情し下賎極まりない言動をとっていた。差別をまきちらし、労働者自慢を繰り返す。
 この女のこれまでの一生を見ていたかぎり、私はサイコパスと呼ばれる人々の一種がどんな業を行っているか見知った訳だが、同時に労働者と呼ばれる下級商人を本当に軽蔑せざるを得なかった。この女が労働者の代表かは分からないが、少なくとも連中に同情の余地がないということは良く分かった。この女はいうまでもなく、労働者になろうとして実際になっている人達は自分の金だか見栄の為にそうしているのであって、社会貢献がどうだの就職時にいっているらしい言動は全て嘘なのだ。ではなぜそんな下賎な人々が尊いというのだろう? 嘘をついて生きている、金欲しさに行動しているだけの悪党が、なぜ自分は偉いといいながら経済弱者を差別して生きているのだろう。こうして省みるだけでも労働者一般が絶滅していいということは疑いがない。そこに同情の余地などありえない。

労働者の気持ちについて

労働者の気持ちは労働者以外にとって理解できるものではない。労働者がなぜ自ら労働者になるかも当人らに固有の理由があって、外部から窺い知れない。それは労働者自身の無知から来るのかなんらかの目的があって志願されているのか? 労働者にとって商業活動に加担することが正義と混同されているのか? だから共産主義者や社会主義者が労働者の生活向上を目指すといっているのは、実は全く意味がわからない話だ。被雇用者である商人自身はその生活に満足したり、誇りに思っている節さえあるし、当人らは時にその生活形態以外を差別していさえする。つまりは資本家側の妄想なのだ、左派の善意というのは。労働者自身が労働収入や労働者内での競争を至高教義としているのだから、自由主義者の是の方が彼ら自身の幸ですらある。
 本質的に労働者を下流階級とみる考え方を、労働者自身はとっていない。これは労働者を下流と見る右派にとっても同じだ。労働者自身の脳内を十分に観察すれば分かるが、彼らは金銭を労働によって得る生活以外がありうる、と想像だにせず、単に機械の様に育てられ周りに合わせて子供を生んで、労働階級を再生産して死んでいくのだ。そしてその一生を合理化している。たとえどれほど貧困でも同じである。結局、社民主義的な北欧社会と、自由主義的な日米社会を比べた時、後者の労働者は公共意識が低く、利己的な為に、自らの取り分が減っていても気づかないのである。そして後者は労働収入の枠内で一生涯、ラットレースをして死ぬことを望んでいるのである。

搾取を生業にする商人

他人を搾取する能力の優劣で判断し、より他人を差別する地位があるとみなした相手に寄生する女。こういう女が搾取を生業にした商人と同等に卑しいのは明らかではないか? そういう寄生階級が絶滅すればするほど、人類全体の功利性は増すのではないか。

西日本に於ける属性による差別

私がみた関西人・関西圏の大学・西日本出身者の相当数が、身分差別の手段として学歴とか職業とかの属性を使っていた。飛鳥時代に天皇が出現してからの身分差別文化の延長上に、この属性情報を使うという慣行が、西日本のかなりの家庭にあるのかもしれない。

ネット右翼は無垢なふりをして愚民を愛国ファシズムに洗脳する極悪人

なぜネット右翼の一部は小学生女子のふりをして、愚民を騙そうとしているの? ネット右翼全般が幼児性愛だかなんかの持ち主と重なると推測しているの? ネット右翼はおつむの足りない秋葉オタクみたいなやつらだといいたいの? 幼児の女子だと右翼全般に共感されやすいとおもってるの?
 ネット右翼関連アカウントって見てるだけで頭が悪すぎて腹立ってくる。
 右翼は進歩を拒否してるくせになぜか明治近辺の社会に回帰するつもりという薩長イデオロギーの権化で、それ以前の国をなかったことにしているし、全国民、全人類の足を引っ張る極悪人のくせに偉そうで、しかも自分をひいきして当然とかいう自集団中心の排外主義者という差別的犯罪集団なのに無反省だ。どこの国でも無能な人間が自分を自集団の中でひいきさせる目的で、さも共同体の代表者面をしているのだろう。そしてその愚図連中が群れて保守と称するのだろう。根源的に右翼と呼ばれる人々は全人類に対して公害以外何者でもないのだが、当人達は単に利己のため全進歩を阻害しつつ、社会的犯罪をする。
 天皇とか皇族とか名乗っている殺人邪教祖一族が、日本国にとって公害の第一の存在なのも明らかだし、この極悪人連中にたかっている愚物ときたら原爆投下だの南京虐殺だの全国民搾取だの遺伝差別だの冤罪での死刑だのありとあらゆる悪業をしながら狂信して恥じない。完全に気が狂った狂信者連中だ。
 小学生女子のふりをしてネット右翼を煽るネット右翼アカウントって、一体どれほど陰湿な悪意でそうしているのか。子供のふりをすれば馬鹿を騙せると思って、悪徳を広めている? 子供のふりをして、しかも女子のふりをして、オタクのような頭の足りない人間を騙そうというネット右翼のアカウントがある。アニメ絵で小学生女子のふりをして、ありとあらゆる悪意ある言動をとっている。それにネット右翼が群れていいねだのリツイートを連打している光景。極悪人っているんだな。子供のふりをすれば差別的言動だの、排外的言動だの、殺人教祖を崇める言動だの、違憲立法・不正行政ばかりしている反日違法政権を強化していいと思ってるのか? 某アニメ絵で小学生女子のふりをしてネット右翼の扇動している極悪人アカウントは、完膚なきまでに地獄に堕ちるがいい。何しろファシスト政権の悪業に、頭の足りない連中を協賛させるなど、その時点で極刑相当の大悪事なのに加えて、子供のふりで馬鹿を騙そうとするなど純真さへの冒涜なのだから。
 今まで見た政治的悪意の中でも、幼女のふりで馬鹿を騙し、しかもファシスト政権の悪政を全面擁護させるとか信じがたいほど醜悪だ。これほど愚かな人間が同じ国民に居るとは信じられない。どこでどう人生を誤ったらそんな極悪行為ができるのか。どこかの外人に操作されてるんだろうか? 日本を滅亡させる目的ならよくできてるかもしれん。愚民の中のオタクの部類を亡国ファシズムで洗脳する目的なんだろうからな。日本国民を自滅する方へ扇動する目的で、幼児性愛者を洗脳する目的で、アニメ絵で小学生女子のふりをし、ファシスト政権の暴走を擁護させる。これ自体、本当に馬鹿げた話だが、実際そんな児戯未満の(小学生ですら「ばかじゃね」となる)アカウントにわんさかいいねだのリツイートする衆愚が大勢いる。愚民の中の下等な部類がどんな教育受けたか、どんな思想を身に着けてきたか知らないが、アニメ絵の小学生女子がファシズム扇動してるのにいいねだのしてる人間は、もう笑い事どころじゃなくて本当に近代人と呼べないでしょ? 一体お前は日帝だのナチスだのをどう思ってるのだ?
 ツイッター上で幼女アニメアイコンでファシズム政権を煽ってるアカウントがあったとしますよね。「うわーばかみたいだな」と思いますよね。そしてしばらく観察しましたと。排外的言動だの、神道狂信の扇動だの、伝統とほざきながら明治美化だのしていると。そのアニメ絵が純真ぶってるのが冒涜だよね。純真な子供を、その純真な子供のふりをして、下らないアニメ絵で、天皇制ファシズムに洗脳してしまえ、って、大人ならよほど悪意ないとできないでしょ? 一体どこからそのアカウント運営の金が出てるかって恐らく自民党のネットサポーターズクラブだのが国税でやってんだろう?

安倍・皇室と米国政府を仲違いさせるべし

凄いアイデアみつけた。
 安倍内閣って現実には世界一反日だけど、反日と指摘しても当人達は悪意で反日行為をしながら二枚舌で愚民だましてるダークトライアドだから全く動じない。
 が「安倍内閣は反米だ」という世論誘導をしたら、即死する。なぜなら安倍は米政府の傀儡となって保身してるからだ。ついでに「皇室は反米だ」という世論誘導もすれば、同時に皇室も国政から排除できる。なぜなら天皇家もGHQ以後、米政府に助命を頼んで生き延びたA級戦犯の末裔なのは安倍晋三家と同じだからだ。命を握ってる米政府に都合が悪い存在が皇室であり安倍晋三、という風に世論を流せばすぐ倒れるのでは?
 安倍や明仁・徳仁・文仁・悠仁って、いってみればボスぶってるけど米政府の大統領とか官僚に首根っこ握られて生き延びた雑魚キャラだから、裏ボスが怒ってるよというだけで震えて眠れないんでしょ。できるだけトランプとそれ以後の大統領・米官僚・米の日本操縦者と、安倍含む自民党・皇室の間に亀裂を深めてやれば、簡単に倒せるはずだ。
 とりあえずマスコミは円安誘導してる安倍内閣は、トヨタに有利な貿易環境をつくって米国から搾取してることを強調してトランプの面目を潰してみよう! それから皇室が男女差別の権化だと国連に通知しまくろう。BBCとかにも皇室は政教分離できていないヒトラーよりひどい狂人だ、それどころか宮内記者会とかいう記者クラブの起源になっていて報道を統制しているという事実をどんどん教えて、世界中で皇室の評判を悪くしよう。

絵が描けないという人は言いたいことがない

今から身も蓋もないことを書くが、絵によしあしなど本質的にはない。そこにあるのはいいたいことか、絵の構造自体に象徴されたそれしかない。つまり絵は発言なのだ。発言をあとづけでよいとかわるいとかいう人がいるだけで、作者の側は単に色を塗りつけ、なにかを象徴させ、発言する。絵を描けないとかいっている人をたまに見るが、全く意味がわからない。それは私が絵を描けるからではなく、なにかを発言したがっていないのは当人ではないかと思うからだ。単に色を紙かなにかに塗りつける作業ができない、鉛筆でなにかを模倣するなり、濃淡をつけられない。なぜだろう? 意味不明だ。目が見えない人が偶然なり手先の感覚にあわせ、なにかの図像を紙に塗る。それは描けないとは別の問題だ。
 或る女が私にいった、スランプがどうと。全く意味がわからなかった。漫画家の世界と誤解しているのだろうか? 絵画制作で同じ様式の反復に退屈することはあっても、描けないのはありえない。特に、一番単純な様式というべき写実絵画については、単に目の前にある人物なり風景なり、写真に撮られた図像なりをそのまま模写し、陰影なり色の濃淡を画布に写し取ればいいのだから馬鹿でもできるし、その作業ができないなど全くありえない話だ。単純作業すぎて馬鹿以外は飽きるというだけである。写実画はほぼ何も考えずに、単純作業を繰り返せば誰でもハイパーリアリズム風の絵に近づく作業なので、器用でなくとも慣れればできる。だからこの作業の無意味さや馬鹿らしさに気づくのが遅い人が居残っているだけの分野である。何しろ写真なら一瞬で終わるのだから、インスタグラマーの方が利口だ。
 では、絵を描く人とそうでない人が出てくるのはなぜか。それは発言したい内容があるかどうかだ。これは欧米絵画の形式主義という専門的ルールと全く別に、或る発言したい感情なり感覚なり思想があって、絵などの形で表現せずには居られないかどうかだ。ゆえに芸術家と職業画家は種類が違うのである。職業画家というか職人の人は、世間的には芸術家、しかも成功したアーティストと思われているわけだが、そして当人達も色々ご大層な肩書きを着け、そうと偽装しようと必死なのだが、現実には単純作業を繰り返して換金しているだけの人物である。絵以外でもそういう作家がいる。発言内容が空っぽなのだ。以前私の親友が予備校でいきなり左手でふにゃふにゃした線で絵をかきはじめ、それを講師達がべた褒めして賞だかなんだかやってたのだが彼は普通にその年も受験におちていたわけだけど、私は全部みてて「? そういうことなのか?」と思っていた。だってそこには内容がないのである。発言内容がない。
 例えば商人達はなにかを売って金を儲けようとしている、そしてそれが仕事だといっている。勿論、そこには発言などは要求されないから芸術とはまた違う作業だ。あきんどの発注した建築装飾だのもそうかもしれない。職人がパルテノン神殿だかなんだかに神像を注文制作する。それは内容が独立していない。勿論広義ではこれもアートになるわけだけど、私がここでいおうとしているのは、近代以後でいうところの作品は、発言内容が必要だったという話で、作者が顧客から独立しなにかを語る、という詩的な構図があるのだ。山上の垂訓みたいに。この意味では独白が多いほど多作になるわけだ。
「私は言いたいことがない、だからそのことをいう」とリヒターが誰かを引用してどこかに書いてたが、これは黙ってた方が増しだといえるだろう。結局、芸術と呼ばれている能力の本質にあるのは、発言力の高下で、或る人の精神というか脳内で世間なり世界へいいたいことがマグマ的にあるかどうかなのだ。例えば『ゲルニカ』を描いた時のピカソが、彼の全人生で最も必然に絵画表現を必要としていた筈で、それはキュビズムという形式と関連づけられ発言されたにせよ、彼があの絵で是非とも言わなければならなかった内容は、我々の眼にも、当然それはいわないといけないよね、ってものなわけだ。もし『ゲルニカ』をあの様式以外で、例えば詩だとか小説だとかで表現していたら、また全く別のものというか、回りくどかったり悲劇性を子供には分かりづらく説明してしまったり、普遍性をもった形になったかは疑問で、絵であればこそキュビズムの破壊的印象と調和した一見してわかる表現にできたと。
 で、我々が村上隆の絵を見て「下らん」と思うなら、それはこの内容の面がそうだからなのだと思う。文脈主義は分かったよと。内容がオタクを茶化してるだけか、漫画家を挫折した男の似非アニメなら、「それはあなた個人の悩みかもしれないけど、我々としてはどうでもいいことだ」と、発言力がないのだ。
 絵が描けないという人は、そもそも心の中に是非とも言わねばならないなにかがないのである。ピカソがふるさとへの空爆にぶちぎれていたとき、彼は絵以外の何かでその悲しみと義憤の丈を表現できたろうか? 近代の芸術家は注文制作をやめたから、詩人のよう自力で内容を語れる。いいたいことがあれば。我々の人生には無視できない発言というものがある。それは人生の神髄を突いている発言だ。「人は死ぬ」とかだ。我々の個人的人生の中で忘れがたい絵が出現してくるのは、そこに象徴なり表現されている内容にも、立派で典雅な様式以上に、無視できない発言があるからである。
 1985年11月13日のリヒターのノートに、(多分、ジョン)ケージの発言の引用で「私にはなにもいうことがない、だからそのことをいう。」と書いてあった。リヒターの無思想、非イデオロギー絵画は全て無題といいかえてもいいが、結局これはAIに作業させてるのと変わらないといえるだろう。

ツイッターは人間嫌いの触媒

ツイッターの所為でどんどん人間嫌いになってくる。人間(ツイッタラー)ってこんなに頭が悪くて卑しいのか、と驚く経験がほぼ全て過ぎる。ただ眺めてるだけならまだ差が分からないというかテレビ感覚でみてたんだけど、実際参加してみるとあまりに愚劣な人が多すぎて、死ぬほど気疲れする。
 元々人間が愚かに見えて嫌いだったけど、ツイッターに半年参加したら千倍くらい嫌いになった。今年中にやめたい。
 もう少し正確にいうと、ツイッターをやる前は愚かな人にさほど悪印象もってなかったのに、ツイッター経由でその人達と直接会話してみると国語が全く通じないとはっきり知ってしまって、愚者を軽蔑する様になった。元々愚かな上に義務教育後も国語が読めない、しかも悪解釈したり誤解ばかりするなんて。もともと失読症か知的障害なら話は分かるが、単に国語を読む訓練をしたのに読めない人がいて、しかも偉そうな肩書きをつけてテレビだのネットだので大勢のフォロワー集めて金儲けて東京で威張っているなんて知らなかった。
 あと卑しい人の存在も薄々気づいていたけど、ツイッターで直接会話してみるまでその人達の心魂の吐き気がするほどの醜さについては知らなかった。自分とは全く違いすぎる種がいて、その人達の脳内に詰まっているのは本当に下らない事で、しかも色んな偏見や差別で思い上がっているとは知らなかった。なぜ親友や恋人、親が労働者にならないよう私に忠告したかが大分わかった。確かにその労働者になっている人達の心魂をよく観察すると到底自分と違うし、しかもそれは彼らの方が徳の質が低いという意味で落差がある。いいかえれば労働界はあまりに卑俗すぎるから清浄な自分に参加させたくなかったのだ。一般大衆がやってることを好む或るネットで知り合った主婦がいて、その人や別の労働者になった女にあわせ、一体大衆がどんな趣味をもってるか荒野行動とかいうゲームをやって覗いたりしたが、本当に馬鹿みたいな人達だなという感想だった。やはり馬鹿になるのは不可能だ。馬鹿は生まれつき馬鹿なのだ。
 馬鹿が考えることは、本質的にそうでない人の考えることと違っていて、しかもその差は日々拡大こそすれ永久に縮まらないので、時の経過と共に全く違う人間になっていく。私はこの数年で商業について学ぶ過程で大衆側の脳内を知ろうと努めたが、完全に無駄だった。馬鹿の考えは馬鹿以外にわからない。

サブカルチャーは永遠にメインカルチャーになれない

ツイッター上に天才論をしてる人がいて、その人は自分が天才でないとか天才だとか色々いっているのだが、この様な考えは完全に間違っている。天才とそうでない人は元々遺伝子が違うのだ。そして自分が天才側に生まれてみれば分かるが、一般大衆は全く違う種族に見える。サルにしかみえないのである。ただの凡人が天才になることは永久に不可能で逆もいえる。だって遺伝子が違うのだ。漱石が芥川に手紙で「馬鹿になってはいけません」といっていたけど、こんなの天才だったらいうまでもないことなのだ。だって馬鹿にあわせるというのは、人が猿の一員として生きていけないのと同じ話なのだから。
 現実の天才側は、人類界に最初から違和感しかもっていない。だから周りにあわせるのは完全に意図的に、わざとしかできないのであって、一般人になど永久になれない。そういう経験がない人が、私は天才になりたいんですとか私は天才だと思うんですとかいっているのは、概念自体がおかしい。
 ところでこの世には知的障害とか、精神障害と呼ばれている人達がいる。この人達は、凡人には理解できないので、天才と誤認されている場合もある。しかし天才と知的障害、精神障害者はしばしば重なるが、基本的に違う。天才性とは必ずしも知的障害でも精神障害でもなく、単に脳が凡人と違うことだ。美術界でいうと、ダビンチが天才信仰の起源になっているのではないか。じゃあ彼が天才だったかといえば確かに当時の人達とは随分違っていた。だから天才だったのだろう。しかし彼は知的障害であったわけでも、精神障害であったわけでもないだろう。際立った個性があり、有用性が高いと天才と呼ばれる。
 単に独特なだけの人というのもいる。芸能界に多いと思うが、体型が異常とか見た目が極端に中庸で美人扱いされているとかだ。こういう人は脳が天才というわけではないが、見た目が普通や凡庸ではないので、個性を認められている。天才の概念を限定すると、独特な脳を持っている人というべきだろう。美術界では個人業者が独特の作品をかけがえのない様式で表現していると、その人の名が歴史に刻まれる傾向があったので、天才信仰がある。これは独創性への疑義としてベンヤミンの複製芸術概念以後は幾らか懐疑されてるが、ブランドの差異化という意味では複製的な流用手法を含みながら現役である。
 なにがいいたいかというと、遺伝からして天才的な人物が、全力で頂上決戦してる舞台に、そうでない人が参入して勝てるかといえば絶対に勝てない。だから「生まれつき人類全体に違和感しかないんですよ」って人以外は、美術界に長居しない方がいい。中途半端な偽物として歴史から忘れられるからだ。逆にその種の違和感しかない人の中で、しかも美術に幾らかの覚えがあるなって感じの人なら、できるだけこの作業だけやった方がいい。独特さを美術的文脈に乗っければ、必然的に差異化されるからだ。こういう意味で生まれつきの才能が必要という直感は完全に正しいのだ。後天的にカバーできないのだ。
 私の経験上は、どっかの美術っぽい高校から自信満々で予備校に来てた様な輩は、周りの方が巧い(この巧拙という概念自体が当人の妄想した脳内にしかないのだけど)とかいう意味不明な劣等感で消えていく。その人は「他人と違う」ことを努力で捏造していたのだ。最初から遺伝子が違う人ならありえない。逆に「どう頑張っても、自称普通とか言ってる連中がサルにしか見えません」とか「人類って全然共感できないんだけど」と私みたいに感じてる人なら、個性が強いほど認められ易い世界に参入した方がいい。いわゆる空気を読めても読みたくなさが激しいほど、特に芸術界に有利といえる。
 芸術家イメージというのがあって、不思議なことに、世間と違うほど有利なのである。これは近代画家らの活躍があって、奇妙なふるまいをするほど作品も独創的に見えるとかいう心理的効果すら確認されている。素人からしたらダリとかピカソがイメージ作りでやってた色んな演技を素で信じているのである。村上隆が著書でいってたけど、「(芸術的な達成という)光を見て気が狂って死んだとしても、それは全くOK」と。これは極論にきこえるが、天才にとってすればどんな死に方をしても、或いは常識はずれなことをしても、芸術家の枠に入ってれば世間的にはなぜか肯定的に評価されてしまうのである。
 あと、挫折という概念についても書き残しておく。この挫折というのは俗的には凄く忌避されていると思う。特に日本人一般の中で。でも他の分野の成功者もそうだけど挫折した方が劇的な人生になるわけだ? 即ち挫折は過大な目標に挑戦した結果だからすればするほど望ましい。芸術家についても同じだ。例えば小磯良平の人生と、ゴッホの人生を見比べてみよう。我々は小磯の絵をみても「へえ~」ってなるが、ゴッホの絵をみるときは多少とも緊張してみざるをえないわけだ? 流石にマニアからするとゴッホも冷静にみるけど、「こいつ発狂自殺したよな」って先入観は素人の100%がもつ。挫折が益なのだ。挫折を演出していたタイプの芸術家もいる。デュシャンとか。でもそれも含め順風満帆に比べ情報量が多い。だから失敗続きですよって人の方が、天才の証明になってしまうことは疑えない。凡人は大きな挑戦もしないからそもそも挫折しないので。この意味で失敗し易い人の方が有利な分野があるという話。
 こうして考えるとやはり芸術知能の優れ方というのは学問のそれとは全然違う。だから芸術家の才能なり能力を学問的経歴、学歴だの学習歴だのではかろうとしているのは完全に素人のふるまいというべきだろう。だって失敗や挫折の方が高評価になるのだし、しかも模倣性や学習性が低評価になるのだ。
「こいつは明らかに気が狂っている」「どうみても発狂後の作品にしかみえない」「全く理解も共感もできない」「世間を馬鹿にしているのか?」「腹が立ってしょうがない」「なんにもできない無能」「死んだ方がいいのでは」「無視しよう」とか、これは芸術家からすると肯定的評価なのである。
「いいじゃん」「うまい絵だね」「素晴らしい」「美しい!」「私にはできない」「面白い」「いいね」「欲しい!」「かっこいい」「クール!」「なんて凄い絵でしょう」「感動した」とか。これは芸術家が受ける評価の中では最低のもので、要するに鑑賞者と同次元なのである。無視されている方がましだ。
 或る作品の芸術性が最上の部類の時、一般人が言う最高の感想は「理解できない」である。「わけがわからない」。これはその作品がその鑑賞者を超えているからで、その人の既成概念の中にない何らかの表現形態をとりえている証拠になる。しかもできるだけ全人類がその無理解を示していれば傑作になる。
 漫画の大部分というか全部が、次の時代ではごみとして捨てられ、誰からも忘れられていくのは、人は完全に理解しきった物は消費してしまうからだ。アニメもそうだが、分かり易い表現であれば同時代の凡愚は次々消費して捨てている。逆に純粋美術は時を経るほど観客が増えるしくみになっている。理解できない絵は、そこに当人の知識の範囲では把握できない何らかの工夫がある。私は高校生の頃はそういう絵がかなりあったけど、今はもう1個もない。だから自分でそういう絵を描こうと毎日頑張っているけれど、要するに無限に謎かけし続けているのだ。自分で自分に。同時に、未来の人類のために。
 今説明したところで、サブカルチャーが永遠にメインカルチャーになれないのは理解できる筈だ。だってサブカルチャーは俗受け金儲けが目的だが、メインカルチャーの中でもハードコアなファインアート(純粋美術)は、普通に無限謎かけで未来に備えているのである。サブカルは消え、美術は飽きられない。例えばロスコの抽象画はただの色じゃねーか、と漫画オタクからすると意味不明かもしれないが、ポロック以後の抽象表現主義や奈良美智と関連づけられ、オールオーバーの理解ができる展覧会を構成したら、「はあ、なるほど」となり、しかも崇高さを生じさせる視覚効果の説明を受けて「わかった」となる。この理解が及ぶまでの期間は、岡本太郎的感覚論でうろちょろしている一般大衆は、池袋のドトールの壁にロスコの複製版画かかってても素通りしている。私と親友が西口のドトールで実際見た話だ。つまりはそれだけ時間差が用意されているのだ。時限爆弾性が長期にわたるほど偉い画家となるのである。

日本の大学一般は全共闘以後ただの娯楽施設になってしまった

学業に精を出すべき身分の人間が、豪勢な服を着てる意味が分からないので、日本の大学がレジャーランド化した根本的理由から問い直さないかぎり、本当に日本側の大学の質が下がり続けてしまうのは確か。

主観的な賢愚は自らと類似の知性との微差

人は理解できない人を判断できないので、主観的な賢愚の範囲は自分の知性との類似性によっている。よって自分より非常に賢い人や非常に愚かな人をそうでないと勘違いし易く、同時に、自分と知性の種類が違う人(自然科学者が倫理哲学者や芸術家を判断する際など)についても一般に正しく判断できない。

2019年4月25日

ノーベル賞原理主義は単なる迷信

日本のマスメディアが一般大衆と祭り上げているノーベル賞原理主義(主としてノーベル賞を当然の権威かのよう報道し、受賞者を特別扱いする教義への絶対的狂信を煽る言説)は、科学教への妄執なばかりか、特定国の科学学園を至上視する点で虚構に過ぎない。名誉欲を真理探究に根ざす批判精神より優先的に褒めちぎるのはそれ自体が哲学への誤解、或いは悪用からくる非科学的な態度に他ならない。

無限に続く夢

無限に続く夢
2019年
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どぶねずみの東京都

浮浪者を放置しながらどぶねずみの落書きにたかる東京都

安倍内閣が日本経済復活の障壁

日本経済をよくするアイデアが幾らあっても、安倍内閣の間は口に出せないよね。だって政治的な面で最悪の独裁者だからもっとわけの分からない法律通して悪政を維持してしまうものね。一刻も早く安倍内閣を潰してくれ。そしたら経済を改良するアイデアなら無数にあるから、本気で。

天皇攘夷論

天皇のせいで意味不明な10連休になって、迷惑こうむる人が大勢いる上に日本経済に対しても大打撃なので、天皇自体が公害なのだが、なんで殺人教団にすぎない神道信者なんかのために関係ない人が犠牲になるのか。いい加減、政教分離して天皇を政府からたたき出していただきたい。
 叩き出したら叩き出したで、今度は東京都民だか京都市民だかが天皇皇族を箔付けに利用するばかりだから、中国へ永久の国外追放がいいのではないか? だって元々中国の神の名前で中国から移民してきたのだから、日本に何の関係もないではないか? 右翼なら天皇排除から考えるべきだろう。天皇攘夷。
 ちなみに私は右翼でも左翼でも中道でもない上にノンポリでもないという超然者なので、別に天皇攘夷派でもないけどね。保守と称する右翼なら天皇だの神道といった中国由来の多神教は排除して当然の筈が、なんでそうしないのかを問うている。飛鳥以前、古墳期~縄文期以前に天皇も神道もなかっただろう? 保守というなら日本の原始共産制、つまりは身分も差別もない共和政を目指し、そこに神道とかいう多神教も不必要なら天皇という古代中国神話の存在も無用だし、しかも宗教があるとしても自然崇拝であって、今の天皇に支配された日本政府は革命して倒さないとでしょ? 多神教は中国から入ってきた考え方で、日本の縄文時代以前にあったのは自然崇拝だよ。アイヌを見たらいい。擬人化した神々という考えは古代中国の模倣であって、当然ながら天皇の先祖にあたる中国人、朝鮮人、モンゴル人、アフリカ人などが特別の神ではないよ。寧ろ汎神論的に自然全体を崇めていたのだよ。
 天皇廃止は、内閣が突然やってしまえばいいんです。そしたら国民はそれに瞬時に順応する。何もほかにいらないよ。

儒教を否定すればいいつもりになっている思考停止について

儒教は「仁」と呼ぶ他者との対等関係を前提にした道徳体系だから、身分制度の起源にするとしたら天皇の先祖(中国・朝鮮からの弥生時代の一移民の系統)を頂点にした、神道でしょ? 儒教の何らかの道徳律を、倫理的な観点から否定するならまだわかるけど、よく知りもしない朱子学全体を非難とかされても、「ばかなの?」としかいいようがないんだが。格物致知を知ってていっているのか。で儒学含む明治維新の起源というべき水戸学を否定してるなら明治以後の全ての日本政府(皇室含む)も非難しろよと。
 アメリカに戦争で負けたからアメリカが全て上で、道徳もそうで、儒教は中国から来たものだから否定するとかいう赤狩り的脱亜論でいってるのだろうか? つまりは「日帝に戦争で勝ったから」儒教より実用主義と思ってんのだろうか? そんな福沢諭吉級の単純思考でよく中国経済・政治に負けてるよね。儒教を否定してアメリカ追従してるくせにアメリカの属国奴隷で、天皇に奴隷化されてる二重の奴隷じゃん。儒教否定して何がしたいの?
 儒教の代わりに今度は科学教だか資本主義だか民主主義だか神道政府だか自民党だか皇室だかを狂信してんでしょ? 要するにGHQだかアメリカの作った色々な宗教を、中国由来の思想系統より信仰しはじめましたと。アメリカ教か神道だよね、それ。吉田松陰の一君万民論だって中国思想なんですけど。
「天皇」は古代中国の神話上の神様の名前であって、それを背乗りしたのが中国人の末裔であるところの現明仁だの徳仁だの悠仁だのなわけじゃん。古代中国移民が偉そうにする為に、中国の神話の権威を借りていますと。それが皇帝だの教祖としての天皇なわけじゃん。じゃあなんでそれは狂信してるの?
 アメリカが偉いなんて思ってるのは日中韓くらいでしょ? 欧州の人らだの中東の人らだの南米の人らに聞いたらいいよ。アメリカを馬鹿にしてるから。だって植民地に移民してきた人らが威張り散らして世界中を侵略しただけの話でしょ? それで日本も被害を受けましたと。どこが偉いのか。金儲けして。天皇と自称している殺人教祖さんが移民してきて威張っていますと。それが1400年間、孤立した島国で続きましたと。だから威張っていますと。夜郎自大というんだよそれは。だから米軍に潰されてびびってますと。それが儒教より偉い? 意味がわからないね。暴力が偉いんですかね。

資本主義教義は単なる一宗教

資本主義に適応するとは根本的に世俗的商業に与することなので、その枠組みでの労働(巨視的には投資も知的労働とみなす)に協賛している。共産主義の搾取概念は、資本主義の付加価値概念を政治的調整の立場から再定義したものだった。同じく労働概念は資本主義の中では奉仕と定義される。
 金銭取引を介しない労働や奉仕があることが資本主義の矛盾であり、これは共産主義の旨とは全く別の意味で資本主義の限界を示している。無償の奉仕なり、全く非奉仕的な自由は資本主義教義の中に組み込まれていない。いわば資本主義は商業の理屈でしかなく、そこに最適化した人は実に労働を極端に狭く解釈し、金儲け以外の広大な生物・無生物活動を抑圧するなり収奪対象とみる様になる。この点で資本主義は常に邪教でしかない。
 資本主義教義を逃れ思考し又行動できる人は、近代以後の文明で最低限の知的水準をもっている証になるだろう。なぜならその枠組みは正に近代の思い込みで思考の牢獄だったのだから。

下衆は知らなくて良い

下衆の生態を知る必要はなく、知らない方が幸福だ。彼らの悪徳の有様をみればみるほど悲惨な印象しか得られない。
 下衆に謗られたとて一々思い煩うな。連中は常に邪で、善悪や尊卑を取り違える愚物なのだし、天に唾を吐き自滅して行くに過ぎないのだから。
 ただ自らより優れていて、より尊い人とのみ親しめ。その相手にとってすれば迷惑に過ぎないとすれば、自らが彼らより優れた点で貢献する他ない。それ以外で望ましい人間関係はありえない。交際が多いほどその人の下劣さは明らかだ。
 下衆を救おうと思うな。それは不可能だし全く無益有害だ。下衆の役割は悪例なのだ。ただ貴人の一員となり一般大衆を避けて生きよ。下衆として100年生きるより聖人として1日生きる方が優れている。

仏教の大乗化は往々にしてガウタマの教義の改悪でしかない

大乗仏教は明らかに劣った教義であり、真理を歪めて解釈したものでしかない。ガウタマが『ダンマパダ』でいっていた通り、そもそも俗人が解脱しようがない為に悟った人と違うのだから。
 一般大衆が救われ得ると述べる以後の偽仏教は、中道をも世俗化している。この点でスマナサーラも同じだ。元々ガウタマは同本で「法による商人として暮らすな」と教えを説くことによる収益を否定していたのであり、いいかえれば乞食(今日でいう生活保護や社会扶助)での消極的餓死の方が商業活動より正しい中道と見なされていた。後世の仏教教義は世俗的職業を容認しているが、ガウタマの段階でのそれは輪廻に与するものでしかなく、否定されていた。中道は苦楽のいずれにもよらない行を意味する概念なので、近代の言い方にすれば功利主義を否定している。
 スマナサーラは日本人へ世俗的職業の中で中道を追求するよう説いているが、これは法然の易行や、親鸞の悪人正機説、創価学会流の日蓮宗と似た過去の日本仏教的な大乗化でしかない。ガウタマ自身の立場に基づけば、世俗的職業を離れ生活保護を受けるか、さもなくば放浪し餓死するのがよいとなる。実際日本人の苦しみの大部分は天皇による搾取の体系である世俗的職業の義務から来ているので、その内部で中道を追い求めても苦行や輪廻から逃れ出られる筈もない。
 ガウタマの根本的な教義は世俗的職業の否定にあった。それどころか現世での経済的成功や、物質的快楽追求をも否定していたのだから、米英的な功利主義、資本主義の社会秩序を最初から拒んでいる。神道教祖の天皇は日本政府に寄宿し、米英的な金儲け社会の搾取の頂点の地位を、自ら諸々の手練手管で維持しようとしているが、この意味で単なる国家政府と癒着した財閥に過ぎない神道の一切が神聖政治ではありえないのだ。

2019年4月24日

冤罪処罰法

共謀罪その他の冤罪で罪のない国民を起訴並びに有罪にしようとした検察官、警察官、裁判員、裁判官、皇族、その他の国民を極刑に処する法律を定めねばならない。

幸福とは卑しい人と接さないこと

人生の主要な不安、不満、苦しみは明らかに自分より卑しい人がもたらす緊張によっている。俗人を見聞きしないことは究極の救いといえるだろう。
 他人を利用しようとする悪性者に関わるほど、人は不幸になる。だから都会に暮らして幸福になりようがなく、仮にそこで幸福だと思っている人がいてもその幸は何らかの質の低い快楽に過ぎない。
 利他的な人、徳の高い人はそもそも限られた存在だから、その種の人とのみ関わりうる環境は実に限られる。人と接する機会の少ない場所であって、少数の優れた知人しか居ない必要があるからだ。
 SNSで自分より悪徳に満ちた、或いは思慮のない人と接する機会が最小化されていればいるほど、その人の人生は幸に満ちているだろう。

死と芸術

何か立派なものを作り出そうとして
俗人に無視され無一文で死ぬ
後世が仮にとりあげたとして
自分のなきがらを見舞う者もない
では純粋美術とはなんなのか
愚物に囲まれ大衆芸術を売り
有頂天のあの俗物になりきれと
神がきみにいうとでもいうのか
偉大な芸術など目指すこともなく
ひたすらごみを売りつける
或いは俗受けしながら
かねを手にして芸術家気取り
偽物であふれたこの世で
きみのいう理想など無視され
結局残るのは死だけだというのに

借金皇族

皇族の見栄はる借金払うべく今日も働け右翼の愚民

極東の奇習がはびこる島民が普通ではありえない

諸々の奇習が支配した極東の孤島で自称普通といっている愚民を帰属集団からきりはなし、単独で海外を放浪させたら、途中で不安で発狂して死んでしまうのだろうか? 自称普通の右翼日本人を単独で世界放浪させる人体実験をみたい。

卑しい人を助けると損害しかない

卑しい人を助けるのはやめた方がいい。なぜならその人は恩知らずなばかりか、得た利益を悪用するから。

ゆとり世代の大部分は思考停止した衆愚に自ら堕落しただけ

ゆとり世代の大部分は、空いた時間を通俗的娯楽に空費し、思考を放棄した奴隷に自ら堕ちることを選択した。彼らは社畜なり公僕として、上位者に管理される一生を理想視している。この意味で天皇制ファシズムや自民党支配、資本主義といった過去の秩序へ自ら臣従し、しかも思考停止で進歩性を排除する。

奴隷であるところの労働者の再生産はちっとも美しくない

労働者の再生産の過程を親の一生涯から子がまた再生産して同じ過程を繰り返すまできちんと観察してみるといい。そこに何も尊さなどないから。すごく馬鹿らしく見える筈だ。自分はその全過程を幾つか実例や逸話つきで見たけど、何も同情というか共感できなかった。だって何も考えていない動物なのだ。労働者全般の繁殖する理由は、「発情したから」「性欲で」「周りが性行為なり結婚なりをしていたから」とか、本当に稚拙で下らない理由である。しかも殖えても同じ過程を繰り返すだけで何度みても似た様なふるまいであり、言ってみれば二足歩行のサルでしかない。事実がそうなのだ。
 ではどうしてこの労働者と呼ばれる集団を、人類は何らかの理屈をつけて美化しているのだろう? いや、していないかもしれない。その生態しかないと思い込んで自己喧伝している東京都内のマスメディアだかサブカルチャーだけかもしれないし、実際そうだろう。町人商人の自己正当化でしかないわけだ。
 多少なり知性をもっている個体が、たまたまこの労働者の再生産過程にまぎれた場合、彼・彼女は余りの馬鹿らしさに反出生主義なり解脱なりを目指す様になるだろうし、それが仏教信仰だった。神道は奴隷の再生産の為に富国強兵イデオロギーで国民を洗脳したが、仏教はこれと対極にある考えだったのだ。神道の目的は天皇を自称している殺人狂一家のダークトライアドさを満たすことで、オウム真理教とやっていることは何も違いがないが、暴力規模が大きいだけだ。その配下の暴力団は日本政府を自称しているが、元々は奈良県のやくざだった。だから皇室の下で公務員になる者は邪教の手先に過ぎない。

殺人教団に過ぎない神道を崇める愚民の方が排外に値する

天皇は中国朝鮮から古代に入ってきて、散々日本人を大量虐殺しながら自分の先祖を神と称する、本当に頭の悪い邪教を広めてきたトンデモなのだから、そんな一門に洗脳されてる愚民の方が排外主義を主張するのはどうしてなの? 馬鹿な方が居残ったらもっと酷い邪教がはびこってまた明治みたいになるよ。

フェミニストの言うとおり仕事を女全般におしつけるべし

女差別がいけないとかいってるやつらがいるから、女は全員労働者にでもして、男は家で主夫やってりゃいいじゃん。いかに主夫の方が楽かすぐわかる。何にも都合悪いことはないんだからそれでいいだろうに、なぜ反対するのかが全く分からない。仕事なんてやりたいやついるのか。下らん。女が仕事したいといってるんだから全員外で働かせまくって自分は家でネットゲームでもやってろよ? それが主婦が現にしてきたことなんだから。家事は機械もあるし半日どころか数時間以内に終わるのはやればすぐ分かる。慣れればもっと効率化できるから1日何もせず交尾だけしてりゃいいんだからな。
 自称フェミニストの頭の悪そうな人達が、女に労働者させたいといってるんだからその通りにすればいい。なぜそれに右翼? だかわけの分からない人が反抗するのか。女が仕事したいならさせればいいではないか? 仕事したいならすればいいししたくないならしなければいい。何が目的で女をかばうのか。
 これまで男が嫌々やってきた大変つらい仕事を、欧米フェミニストのもてない女が仕事に活路をみいだそうと極論で自分達にもさせろといってるわけで、その欧米追従しかできない無能で勘違いした頭の悪い倭人がぎゃあぎゃあ騒いでいると。じゃあ日本人女を労働者にさせて男はイタリア人みたいに遊べば? 男は朝からカフェで甘ったるい飲み物頼んで一日中広場で駄弁を弄し、政治だか文化だかを語って古代ギリシアみたいに暮らし、女は働きたいってんだから自分で過労死までやらせてたらいいじゃない? 上野千鶴子の言うとおり。何でそれに反抗する理由があるのか。男が楽できるならそれに越したことない。
 性で差別なんてしてる馬鹿を論じてるのも同等程度の低知能なのは明らかなのだから、しかも女を労働者にすればするほど男の仕事分量は楽になるんだから、どんどん女を政治家だか天皇だかにして自分は家でゲームだか哲学研究だか株式投資してりゃいいだけの話なのに。とっても簡単な話。太古から労働なんて奴隷がやるものなのに、社畜公僕の自称社会人達は自分が現代の奴隷だと自覚する能力がないから、女に仕事を奪われたくないとか、わけの分からない考えをもってるのかもしれない。しかし女以前にAIがそんな低次元な作業はすぐ駆逐していく筈だから、どっちにしても同じなのにな。
 自分を不利にしてくる相手(芸術家の中に女性ひいきをはびこらせようとした某記者とか)が出現したら全力で潰しにかかればいいだけでしょ? なぜ女性が労働者に自分からなりたいとか言ってる、本当に愚かな主張してる東大だかなんだかの学者を野放しにしておかないのか。放置すれば男に有利なのに。
 女を戦場の最前線に突き出して、男は家で子供と遊んでりゃいいじゃない。それがフェミニストの主張でしょ? 男には有利な点しかない。何が不満なのか。自民党員って本当に頭が悪いんだからすぐに公僕やめて、全部女だけの新生自民党にしろよ。女を差別してるのって自民党員と皇室だけだろう? なんでそんな最悪級の知的水準で公僕だか邪教だかやれるの? 男にも、労働者だか自衛隊員志望だかの女にも不利でしかない。すぐ国税食むのやめて民間で邪教でも信仰しててほしい。

会社員や公務員は傲慢なだけで自由を自ら手放した奴隷の言い換えに過ぎない

なぜ会社員は社会人と自称してるのか。会社以外が社会でないと思っているのか? 恐らく主に家に居る人達を差別し、自分達を上位者に見せる目的で社会に出るだの出づっぱりを正当化しているつもりなのだろうけど、なぜ社畜が世間の上位者だと思い上がれるのか? 顧客や資本家の使いでしかないのに? SNSを通じてしか具体的に会社員になりたいとか言いながら自分で就職していく駄目学生の精神構造を知る機会はなかったが、単純に流されて生きているだけの中身のない雑魚で、その後の生態の変遷から含め何一つとして尊敬できないし、模範でないどころか衆愚として最もたちの悪い奴隷主義者ではないか。
 自由を得る機会がこれほど豊富にある国で、自ら自由を放擲し奴隷的境遇を選択したのは完全に自業自得だし、当人達は「社会人」と自称しながら何か立派なことをしたつもりになっているが、定年後の死まで全期間の彼らの生態を厳密に観察すれば分かるが、どこにも偉大さなどない。凡愚の群れである。
「社会」は一生涯引きこもって毎日インターネットで好きなSNSだのBBSだのをうろついていた人にもあれば、そしてそれも自由な上に当人が刺激を感じ易い繊細な人間であれば野蛮な会社員に囲まれていきたくもない飲み会だの交尾繁殖ゲームをさせられるより幸福な一生だろうし、要するに家族も社会なのだ。マスメディアはその種のたちのわるい会社員が作っている金儲けの洗脳装置にすぎないから、会社員を美化し、そうでない生態の人、しかも幸福な人達をひたすら貶めている。単純にエスノセントリズムに耽っているだけの稚拙な考え方というべきだ。社会人を自称に使っている人間は一様に信用できない。
 一体この地上で「会社」つまり株式会社に雇用されずに生きている人間の方が遥かに多いだろうに、なぜその会社組織の使い走りになることが「社会」の代表かの様に勘違いできるのだろう? 当人達の知能が見ている範囲はどこなのか? 商人の考えることは意味がわからない。特に日本人の商人。
 毎日いくらかのカネを毎月どこかの口座に振り込んでもらう目的で、ろくに倫理的善悪など考えもせず上司だか株主総会だかの決定へ妄従する。そんな奴隷的生活の担い手がなぜ社会人などと自称し自分ら社畜だか公僕だかが上位だと妄想できるというのだろう。どれほど無知ならそうなれるのだろう? 皇室だか天皇と自称する殺人邪教の教祖一族だか、或いは馬鹿の様な自民党員が親の後を引き継いでカネまみれの選挙で当選後に適当に命令してくる意味不明で悪徳に満ちた偽善を履行する。そんな公務員に半数が憧れるなどと、税から支給される給料欲しさにほざくのが、自称社会人の立派さの水準なのだ。この自称社会人達の愚劣さは感極まるほどで、なんと貧困な人を自殺や浮浪から助ける筈の生活保護を、自分達は税を食んでいる分際で与えない。逆に会社員とかいう連中とつるんで、国民全体に嫌がらせしながら税を搾取するのに躍起になっている。そんな愚物でしかない存在が、社会人である。所詮、自称社会人の会社員か公務員になる連中ときたら、自力で起業する知能もなければ勇気もなく、単に資本家のおこぼれに与って丁稚をしているのが関の山な無能の群れであり、そうであればダニクル効果で思い上がりが激しいとしても疑問はない。不快なのは連中の傲慢さだ。それも無思慮のせいだろう。
 まあなんにせよ、自分が大人しく15歳の時に決めた通り、自分の画業を続けていたら労働者のかなりの連中からいきなり差別的言動をとられたことは永遠に忘れないので、労働者階級が絶滅したり悶死するまでは徹底的に戦う。人の自由を侵害するのがどういうことか労働者どもとその配偶者とやらには、徹底的に思い知らせてやるがいい。何しろ何もしていないばかりかこちらは善意しかなかった者に、誹謗中傷だの差別だの冤罪行為だのをしてくる極悪人共が地獄に堕ちるまではきっかり蹴りをつける義務が私にはあるのだ。
 虐められたから自殺する人間の気持ちが全然分からない。なぜ知恵を限界まで使って、合法の範囲で、倫理的制裁、その他の方法を使って復讐しないのか。幾らでもやりようがあるのに? 場合によっては相手の職業自体をなくしてしまうことさえできる。私は現に、労働者に対してはそうするつもりだ。知は力だと哲学者のベーコンがいっていたが、実際どんな武器も知恵によって作られたのだし、直接の武器を使わないもっと利口な方法で戦ってこそ文明人ではないか。一体労働者とやらの生態の全てを研究してみれば、連中が暗愚で悪徳にまみれた愚物だから、知りもしない職業を差別したのだと分かる。そんな下らない愚物でしかない社畜だか公僕だかその配偶者だかに、どうやれば復讐を遂げられるか、すこし考えれば分かる話ではないか。単純にAIによる自動化を進めて仕事を奪い、資本主義秩序を強化し知恵なき愚人の持分を減らし、いずれにしても力を緩めず愚物から搾取を続ければいいだけだ。
 安倍内閣だか皇室だかをその社畜、公僕、自称社会人の暗愚な日本人共が崇拝だか支持しているのだから、連中の思いのままに資本主義化や皇室による搾取を強化してやれば、勝手に死滅していくのは目に見えている話だ。何も手を加えなくとも、愚物自身が自滅への道を歩んでいるのだから放置でいいのだ。
 自分が大金を手に入れたら、労働者連中の崇拝している皇室だか自民党政府だかと全く別個に救貧するつもりだ。哀れな障害をもっている人間とか、都内で浮浪者を見て、本来助けられるべき人間を放置している腐った政府だか邪教なのは目に見えている。自分は世界で最も金を手に入れるだけの必然がある。
 神性が人類の妄想だとしても、善徳の域で限りなく神性に近づける。アリストテレスがいうとおり人生の最大の目的はそこにある。知の次元が愚物からみればほぼ神性程度に到達することも容易にありうる。だから下衆に囲まれ妥協して死ぬといっている人は、やはり無知だ。自力で連中に賞罰を与えればいい。

フェミニズムは無能を糊塗している

似非フェミニストは「性別」を言い訳に無能を糊塗してることが殆どで、現実に何らかの職業でそんなことしていたらどんな性別でも即死するだけだから先ずありえない。もしそんなわけのわからない言い訳しながらできる仕事があるならそもそも無性別AIで代替できるはずだ。つまり近いうち消えてしまう。性別を言い訳に無能な方を有能な方より選好できる、なんて職業が資本主義市場の中に存続できるだろうか? 当然だがそんな商売があったら、少なくとも何らかの理由で性別が必須または有利でないかぎり、より有能な人間を雇った別企業に駆逐されるだけだ。つまりフェミニストは公務員の話をしている。
 確かにAIがやろうが人がやろうが大して違いがない、機械的な仕事なら性別で差別するわけの分からない意図が入り込む可能性があるが、既に書いたようそんな公務員職は遠からずAIや機械に自動化するのが合理的となって消えてしまう。だからフェミニストの主張は本質的に馬鹿げた利己性の発露でしかない。
 フェミニストがいいたいのは「私は無能です。しかし私(あの人)は女に生まれたのでひいきされるべきだ」という子供じみた理屈であり、性差別を逆にすれば成り立つ筈だという淡い希望だか幼稚な悪知恵でしかないのだが、当人は大真面目に主張しているのだ。

自殺願望は意欲の低下を引き起こす脳内物質が原因

自殺願望の持ち主って明らかに脳内のドーパミンなど特定の意欲をつかさどる化学物質が不足しているだけの様に見える。何らかの理由で恒常的にその値が足りない人がいるのだろう。なぜ精神医学はそれを簡単に解決できていないのか。何らかの依存性のない薬で意欲を高めてやればいいだけではないのか。

神の住む町の設計図

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2019年4月23日

性悪は長期対人関係で幸せになりえない

性格の悪い人と暮らすと不幸になる。この意味で性悪と同棲や家族関係をつくるかぎり不幸になるのが必然だから、性悪な人は長期的に他人と親密な関係を結べない。親友に関しても同じなので、性悪が孤独にならない可能性も先ずない。辛うじて一時的な関係でしかこの種の人達は他人と接し得ないのだ。我々は性悪の心魂をのぞき見る機会が少ないので、一体なぜその種の人達がいるのか、つまり悪男悪女がいるのか十分わかっていないが、それは他人への共感性が低く、しかも後天的にもその能力を鍛えられなかった人達がいて、しばしばサイコパス度が高かったりし、良好な人間関係を作れないからなのだ。
 また性悪は往々にして自分の心の醜さを客観視できていないから、自分の容姿など別の原因で自分が対人関係で不幸なのだと妄想している場合が多い。性悪もまた人の子なので他人を主観的に解釈し、他人も自分と同様に悪性者だと勘違いしている。それで性悪は他人が不幸でないのはおかしいと足を引っ張る。

天皇はじめ動物を大量虐殺する野蛮な人類

今上天皇(平成天皇)が最初にブルーギルを国内で放流した事実。自然破壊の象徴。
 他の動物からすれば「人類」自体が自然破壊の権化だが、他の動物を狩猟して生きていた時代から、段々と特定の種を乱獲後絶滅させたり、家畜化して過酷に扱ったり、逆に愛玩動物化し過保護に扱い奇形を血統種扱いしたり、人類の罪深い行動は無際限といえよう。特に税金でブルーギル放流は死ぬ程酷い。科学実験の為にマウスを普通に大量虐殺しまくっているのも、全く疑義に付されない。恐ろしいことだ。肉を食う為に毎日大量に動物を殺しながら、一方で犬猫に医療費を出しながら、浮浪者達を足蹴にする人類、自分の大量殺人先祖を豪勢に国税で祭って暮らす皇族。偽善か露悪か分からないがとかく野蛮だ。

前衛性と非再現性

確かに前衛作家は誰にも理解されないけど、問題は「ただの理解されなさ」と、「芸術的進歩性」は必ずしも一致しないから、完全に自分ひとりでその両者を見分け、後者に全力を使わないと道を誤るということだ。
 確かに芸術的進歩性が「正解」という判断自体が、非常に危うい橋の上にある。死後も美術史家に認められるか基本的に分からないわけで、一体、前衛芸術の担い手達がみているミーム上の「正解」は何なのかという問題は興味深い。文脈主義自体が時代遅れになったら、村上隆やハーストも忘却されるかも。
 史家や後世に理解されるかどうか、二次市場化されるかどうか、死後に歴史的価値があるとみなされるかどうか、芸術的知能が対象にしているこれらの思慮はその世俗的な面だが、少なくとも最低でもこれらをクリアした上での、純粋芸術的なよしあしが問われるのだから、前衛性はただの最低限度基準だ。
 一次市場での価値、売り上げ、収益は、純粋芸術の場合、主要な評価基準ではない。しかし商人は少なくとも一次市場を主要な舞台にしているので、そこでの評価を純粋芸術にもあてはめようとする傾向にある。これは自文化中心主義の一種、ただの商業主義だ。芸術知能は商業知能と必ずしも一致していない。
 或る重要な作家の「正解」は、結果として後世が歴史化し、それが正解だったことにしていく。だが作家自身の前衛性の中で最初にその様式が見出された時、世界中の誰も正解だと言っていないので、確かに芸術知能のうち前衛的知能は、他の科学的、哲学的、その他の知能と同じで進歩性があるのは確かだ。或る作家の「正解」は、当人の間違いから生まれることもある。そもそもルネサンスの画家が今日の抽象芸術を見ても、「この下書きはなんだ?」と言っていた筈だ。つまり現代で正解なものは前世からみれば間違いなのだ。近代画家が染みや偶然性や落書きを正解にし始めたのは、意図的に間違えたからだ。
 仮想体験の再確認の為に実体験が使われている。つまり、人類一般の知覚は視聴覚メディアに最適化されだしていて、実体験せずに「居ながらに名所を知る」「知ったつもり」になるポスト真実に慣れ始めている。
 エンデは文化の大衆化に際し観光地の団体消費の目的に共通仮想体験があるといっている。現代の一般大衆にとって、ライブやインスタ映えスポット等への訪問も、おそらくこの再確認型消費・共通体験が目的になっている節があって、そもそも視聴覚芸術が再現的な時、やはり必然に現実の写しとしてこの消費体験を喚起させるものだったのではないか。現地の紹介写真や代替の風景画の様に。ベンヤミンのオーラの議論で複製物と本物の差異がなくなった、といわれて久しいのだろうけど、確かにフェルメールを見て絵葉書と色が違うと怒った客がいたらしいから、複製メディアを本物扱いする逆転現象は再確認型の消費と並行して進んでいる何かの認識変容現象に違いない。プラトンと違う世界だ。媒体を通じた認知が現実に先行し、複製芸術または芸術自体を通した現実解釈の方が、現実自体より本物になる。これは全体としてただの洗脳ではないか? プラトンは芸術は現実の模倣(今日でいう再現)に過ぎないといっていたが、模倣の方が現実感を持つと認められてしまうと、洗脳が可能になる。オタクが二次元の人格を、現実の人間以上に溺愛する。テレビ芸人として捏造された皇族像を崇拝し、現実の皇族の身も蓋もない下劣さを見なかったことにする。芸術の原罪は偶像崇拝の喚起にあるとすれば、やはり再現的芸術にはポスト真実による洗脳として、最初から致命的な問題があったのではないか。
 現実感と現実は違う。現実感、臨場感を再現するARやVRの技術は、いずれも偶像崇拝の悪癖を延長させたものだ。だから再現芸術一般の持つ欠陥を何も変更できていない。純粋芸術が抽象芸術以後に辿ってきた再現性への否定を、ARもVRも何も履行できていない。つまり三流の芸術に過ぎない。リヒターが写真を引っかき、支持体を露わにする。それは写真の持つ再現性を否定する作為そのものの芸術性を強調してあらわす為だ。引っかき方と抽象画の文脈を重ねつつ、写真のもつ再現性も否定してみせる。フォンタナの画布の切り込みと似た意味で、再現芸術の限界と抽象芸術の意味を流用している。
 再現性を否定しながら、しかも芸術自体の現実性をいかに表現するか。これが現代美術の中で絵画が探求していた課題だった。その二次元性を中間芸術と重ねて超平面と呼んだ村上隆の理論は、抽象表現主義やポップアート(大衆芸術)を琳派の装飾性と重ねたものだが、私の意見では現実感など絵に必要ない。絵の本質的機能は何らかの思想を伝えることだ。それは再現性によっては比喩にしかならない。抽象度の高い表現においては、どれほど高度で複雑な思想であっても、直接それを表現できる。カントが言っていた、小説のよう虚構を使う必要はなく、詩は理念を直接表現できると。抽象的な絵もこれと同じだ。まだ初心の芸術家は、つい再現的手段に頼りがちである。なぜなら彼らは抽象表現を論理的に理解する段階に進んでいないし、仮に薄々わかっていたとしてもその非再現的手法を公然と行う勇気がないのだ。気が狂ったと思われるかもしれないし、論理的に説明して抽象性を裏付けられないのだ。
 実際、私が高度な抽象表現に一度は到達しながら、その後、流用や超平面その他の流行の理論に回帰していたのも、現代美術がモンドリアン以後迷走していると確信を持てず、そうと直感で気づいていたのに国際世間の流行を追うことを論理的学習と勘違いしていたからだ。論理は芸術にとって後任である。
 抽象性の高い表現と、単純な表現は違う。単純さはそれ自体で一つの価値かもしれないが、偶像破壊の意味で再現性を否定することが絵画の基本なので(しかもこれを教えてくれる人は誰も居ない。先ず皆素人だからだ)、抽象性が高い表現は全て正しいことになる。複雑な抽象表現は思想自体を深化できる。
 資本主義芸術は、大衆芸術だとか文脈主義だとかを流用し、金儲けと作品の芸術性を混同させようとする。村上隆やハーストがその代表者だろうが、彼らは金やダイヤモンドを使って装飾品の二次市場価格をあげようとするが、単なる偽装だ。芸術性自体の価値の方が高いことはいずれ明らかになるだけだ。全世界の美術館、或いは収集家は、最も重要な作品に最も高い価値を与える。これは芸術性自体の価値がもたらす必然的な選好であり、世界中の金やダイヤモンドを作品の質量と同じだけ集めても到底もたらしようがない希少価値である。その作品が複製的であってさえ、芸術性の価値は残る。例えばデジタルデータは無限に複製可能で、著作権が切れてから金銭的に無価値になる筈が、芸術性自体の価値があれば、その作品は未来に渡っても重要であり続ける。この為、複製すれば無限である筈のその作品には、印刷した物とか収録した物とかに或る価値が発生する。原データが代替できないからだ。

官尊民卑は天皇渡来後はじまった腐敗

(元官僚の起こした死亡事故に「容疑者」扱いせず「さん」づけで呼ぶ都内マスメディア、そしてその元官僚が事故直後に保身していたとのツイートへ)
原爆落ちてるさなかに自分の地位の存続のため奔走してた天皇家(豊下楢『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年)が日本政府の実質的な長なのだから、全体として日本政府なり、それを象徴と呼ぶ愚民の側も十分腐っているということだ。愚官を信任するのは愚民なのだ。

京阪や東京人のプライドは地方自治法違反の単なる公害

(大阪都構想は東京へのプライドというツイートへ)
地方自治法(2条7項)に自治体は競合してはならないと書いてあるので、京阪や東京関係者だかのプライドは日本国民全体にとって完全に公害。国税を使って下らない足の引っ張り合いだか見栄の張り合いせず、全国民が他の自治体の住民より上下に扱われないよう身の程を知るべき。

山口県は薩長土肥の単なるテロリストを美化している

(2019年4月22日午前、スリランカの連続爆発事件で「このようなテロは断じて許すことはできない。強く非難する」と安倍首相が述べたことについて)
長州閥はテロリズムで成り上がった人達なのだから、自分の地元にあたる山口県のテロの美化史に対して無批判なのは、自分の権力維持の為ならどんなテロでも容認するからでしょう?

都内マスメディアも愚民も同等程度に腐っている

東京都内のマスメディア一般は宮内記者会を頂点とする記者クラブを介して自民党・皇室政府と癒着している一つの証拠。その中で最も激しい癒着関係があるのが読売系。
 記者クラブの解体を前提としても、更に都内マスメディアの報道を真実と鵜呑みにする日本人一般大衆の側にも致命的な無能さがある。

福祉は経済弱者に使うべきで正社員へ増税するほど群れて喜ぶ

労働者(会社員)のかなりの部分からは、インターネット上で色々と差別的な言動だの名誉毀損をされたから、彼らが不幸になっているのを見ても同情がわかず、逆に自業自得だ、いい気味だと痛快に思うのだが。彼らの大部分もそう思われるだけのことは匿名で十二分にしてきている自覚がある筈だ。功利主義や社会福祉の理屈はよくわかるが、現実の日本の労働者とわずかでも接したことがある人なら、彼らの殆どが卑俗極まりなく、悪徳の塊で、しかも傲慢極まりなく、他人を他人とも思わない有害な人達だという体験は数多くしている筈だ。そんな害獣の様な連中をなぜ恵むべきだというのか。
 冷遇されているから卑屈なのか、卑屈だから冷遇されているのか、因果の順序は分からないが、労働者一般(少なくとも正社員と呼ばれ、非正規その他を差別して恥じない人達)は自分の待遇が恵まれていると現時点で思っているのだから、彼らにはそれ以上の待遇は無用だ。彼らは差別できれば満足なのだ。非正規雇用者とか無職とかその他の職の人達を、正社員と呼ばれる企業の被雇用者らの大部分は頭ごなしに差別する。これは公務員でも同じだ。そして彼らの人生の主要な満足はこの被差別的地位にあって、自分は他人より恵まれていると勘違いし易い。それほど単純に、労働者一般の思考力は低いのである。
 同じ国民の中に被差別的・差別的地位を無理やり作り出し、その間で差別を常態化すれば、皇室とか資本家といった支配者側には永久に手出ししてこない。これが日本人一般を管理するのに最適で、また最も簡易な手法であり、天皇が渡来してきてから彼らからずっと使われてきた官尊民卑・封建制の統治法だ。愚民は卑小な心の小人だから、自分より強大な権力にわざわざ立ち向かう勇気はなく、群れてより弱い立場の者を攻撃することで、自尊心を回復する傾向にある。歴代天皇はこれを自覚していたから自分を神格化し、日本国民を生まれながら奴隷視してきた。麻原彰晃と歴代天皇の違いは、武力差に過ぎない。
 自分が皇室や資本家側に立ってみれば分かる話だが、わざわざ愚民であるところの労働者一般、それも正規社員という被搾取的身分に満足し、逆に自分達支配者を崇めている下衆を優遇する鼓舞など皆無である。奴隷がわずかな給与で大満足し、勝手により経済弱者を差別して満足しているなら、使い倒す筈だ。
 私が今書いている真実は、皇室はじめ多少あれ支配者側に属する者にとっては暗黙知であって誰も書かずに済ませてきたに過ぎないが、この文意を労働者の人達は理解できない筈だ。理解していたらその境遇に満足できず、何らかの手立てで共産革命を起こすか、社民党を与党にするか、皇室を打倒するだろう。日本国の労働者一般が、奴隷的立場を合理化しつつ、皇室や自民党の藩屏となりつつより経済弱者を差別して暮らすのを群れつつ選び取っているのが真実で、要するに心魂が卑しく愚かな故に、文化大革命や市民革命、イエローベスト運動の様な反資本主義・反皇室の運動が起きないのだ。自業自得なのである。この様な奴隷的国民を持つ国で、労働者一般を恵もうという社民党や共産党に全然人気がなく、逆に労働者を奴隷化している自民党が長い間、政権与党なのは、会社員自身がそれを選び取っていることからも、「もっと冷遇してくれてもいい。但し、無職や非正規雇用者等を差別させてくれ」という意味なのだ。安倍内閣は労働者一般に大増税し、経済弱者の福祉もかなりの程度切り捨てているが、愚民側は大満足して大いに支持している。しかも皇室が贅沢三昧し政治と宗教を混同し地位を私用しつつ、政府と違憲立法・違憲行政を連発するほど、ますます崇拝が集まる。これが愚民の国、衆愚でなければなんだろうか?
 私は自民党を生まれて1度も支持したことがないし、皇室からの洗脳もなんとか自力で解いたが、今度は日本人労働者一般の暗愚さ、凄まじい卑しさに直面した。それで労働者が幾ら同国の経済弱者を差別しようが、それは所詮差別に過ぎず労働者自身の卑屈さを自己証明するに過ぎないので無視でいいと思う。そして今後、日本で労働者のうち正規社員をどれほど冷遇したところで、彼らは無職とかニート、非正規などの概念を差別用語に脳内変換し、自己正当化をし続ける。一般に諸国で経済弱者は社会的援助や応援の対象だが、日本人の正社員ら全般はそんな普通の心は持ち合わせていないから、教育しても無駄だ。日本人の正社員をできるだけ奴隷的な状態に置けばおくほど自民党や皇室の支持率が上がること、しかも彼らへ大増税したり、その給料を削減した分を資本家や皇室の利益にすれば愛国心で合理化するのは安倍内閣が証明済みである。この様な衆愚を拘束するには新卒採用制の維持でいいしリストラしてもOKだ。なぜ労働者全般が社畜と称するほど卑屈な境遇に置かれたがるかといえば、元々、天皇制や五人組といった農奴制の下で生き残ってきた生来の気質があるのではないか? 不安で群れ易く匿名で悪行するが個人に責任感が全くなく、恥を恐れ天皇を崇めるなど、色々な日本論があるが現実に奴隷を好むのだ。欧米の労働市場と全く違って、日本人一般には新卒で取りこぼしたら再挑戦の機会を二度と与えず、一生涯、経済弱者として差別的境遇に置いて見せしめにする、こういう平成社会のつくりで調度良かったのだ。そうすれば正社員は恐怖の余りますます奴隷的立場にしがみつく。決して社会改良などしない。リストラの名目での突然解雇の恐怖は日本人労働者の従順さを管理するのに都合がいい。だから経営陣は彼らに温情など示さず、単に経営の都合が悪化したら突然、正社員から削るのでいいのだ。公務員がそうしてきたよう生活保護もできたら与えず路頭に迷わせれば、新卒一括制同様、見せしめの効果がある。
 私が今述べた「日本人労働者管理法」はほぼ冗談の様に見えるが、現実に日本企業が小泉内閣以後にしてきた全てを客観的に記述しただけで、ただの事実でしかない。ここに安倍内閣は移民労働者と競合させる、新たに競争率を上げる難易度上昇を実行済みである。そして労働者の支持率がますます上がった。
 或るフランス人に「日本人は不幸が大好きだもんね」といわれた。私はこれは事実だと思った。彼らは誰かが幸福だと決して許せず全力で足を引っ張るか、集団虐めをして駄目にしようとする。病的に嫉妬深く、驚くべきことに恋人、親友はいうまでもなく、家族や親族の間ですらそうなのだ。幸福になる権利がない国民全般。そして現に不幸であるか、支配者から冷遇しまくらないと決して自分を幸福だと称することがない、根の曲がった奴隷的な国民。これが日本人全般の国民性だ。
 こういう国民性を完全に熟知していれば、労働者の権利向上など日本で永久に無用とわかるのではないだろうか?
 寧ろ安倍内閣が現にしてきたよう、ひたすら労働者全般の待遇悪化を目指し、表向きは皇室でいい人ぶり、実質は大増税とかリストラ・新卒制・共謀罪・冤罪・軍事調教などで脅迫し続ければ大満足して愛国狂人になり、自ら異分子排除に全力を使う。ダークトライアドな皇室政府が長期維持されるはずである。
 ではどうしてそんな意味不明で奴隷的な労働者ができあがるのだろう。そう思って私もそうなる人達の内面を色々調べた。結果わかったのは、彼らは生まれつき群れたり、他人志向が激しく、自分で考える能力も全くない、いわば奴隷になるべくして生まれてきた様な資質の持ち主だったのだ。自由教養が主人、或いは指導者となる為の思考力を鍛えるものなことは洋の東西を問わず共通している。これと対極なのが社畜になる人々の脳で、教養自体を軽蔑しているばかりか、自力で考えるのを最も恐怖し、会社だの政府だのに管理される為の箔付けでしか勉強しない。脳が生まれつき違うのである。経由している教育環境がほぼ同一な上に、家庭環境がさして違うともいいがたいのに、結果は180度違う。それなら遺伝子が違うとしか言い様がないと思う。将来的に何が自由人と奴隷の違いを生み出すのか脳の分析が必要だが、セロトニン値などは明らかに違うのではないか。不安を感じ易いから群れるので。私は様々な観察や体験の末に、日本人の労働者一般は自業自得だ、という自己責任論とはまた違った文脈からそれと似た結論に至っているのだが、それは恵まれた環境を無為に大学時代に遊び呆け、匿名で悪行三昧し、カネのかかるブランド物を買いあさって下らない発情しつつ労働者自慢の人間を見たからだ。
 一体、日本の左派が労働者を優遇しようとする根拠がわからない。だってその正社員らは自分の境遇を理想視してそうなっているのだ。自分から会社員だの公務員になりたがったのだ。寧ろ援助すべきは経済弱者であって正規社員とやらでは全然ない。自民政府をみれば正社員を冷遇するほど喜ぶのが現実だ。例えば私の恋人は生まれつき自閉症だが、そのことを家族含む周囲に理解されず自殺寸前まで虐められ、追い詰められていた。しかも極貧で過労に追われ、職場でも障害が理解されず無能扱いで自殺未遂に至った。こういう人を私みたいなただの私人が善意で救援してきたのである。本来なら公共がやる仕事だ。日本の政治家だか議員だかは、完全に見誤っているのがこれでわかったのではないか? 正社員に自己責任論だか自業自得論をあてるのは、全く正しい。彼らは自分から社畜になって喜んでいるし、増税するほど嬉しがって皇室を崇めるほど馬鹿だ。だが経済弱者の方は公共の助けがなければ自殺してしまう。寧ろ正社員なんてどれほど給料を絞っても、或いは消費税含めありとあらゆる増税をおしつけても全く意に介さないばかりか、「群れ」の多い側の一員だというだけで常に大満足し、政府や皇室を周りに併せて万歳三唱してる様な本物の奴隷根性の持ち主でしかない。そんな連中から搾り取れるだけとればいい。
 公共の税を一体誰に使うべきかといえば、「少数派」としかいえない、何らかの経済弱者である。私もその一人かもしれないが、私よりもっとお金もなければ経済的に追い詰められている人は無数にいる。当然彼らは正社員などではありえず、日本人固有の全体主義で排除されてしまっているが心の尊い人だ。或る母子家庭(父親はタクシー運転手だったが子供が4、5人と増えてから沖縄に帰ってしまった)の極貧青年は中学から不登校になり、兄弟の2人、3人だかは早く自殺し、残るのは彼だけになって引きこもっていたが、やっと掃除婦の母の給与でPCを買ってもらい、ネットで生涯を書き残し配信中に死んだ。私は彼の配信をたまたま別の人から教えてもらい、その現場を流していたのを聞いたけど、実に凄惨で、深夜に仕事から帰ってきて彼の死を見つけた母親の慟哭(老婆の「ごめんよ」の声)が今も耳から離れず、それほど心を痛めた事物を見聞きしたことは今まで一度もない。なぜ生活保護が彼になかったか。
 本物の経済弱者と呼べる少数派の人々が自殺寸前まで追い詰められているのに、この日本社会は一円も与えないばかりか、「正社員」と称する極悪人と群れながら差別して済ませている。その正社員になりたくもなければなれない様な人達が、福祉の対象であるべきなのだ。生存権を奪うのは社会的虐殺だ。例えば日本の経済弱者が知性が低いとは全く限らない。単にこの国民は少数派でなんらかの集団内の正規分布から外れているだけで、排除したり差別する傾向がある。それで某博士みたく学業成績は圧倒的に優れていても、場合によっては何らかの知性が並より高いだけで経済弱者に追い詰められてしまう。だから日本で福祉の対象であるべき人は、引きこもり、ニート、無職、浮浪者とか一般的な経済弱者だけではなく、単純に例外的な個性の持ち主であって、国内で同調圧力地獄でしかない正社員になりようがない人達である。公教育は個性を強化しようとしたのだから、個性的な人を死に追い詰めるのは不当だ。

自称賢者の信仰

或る京大経済学修士を持っている女が、或る仏教に近い信仰を持っている別の娘に「なぜ宗教を信じるのか」といった。その女はダニング・クルーガー効果宜しく、無政府主義や自由至上主義の信者で、労働をその娘に勧めていた。自分の信仰を疑わない者はいずれにしても愚物だ。

2019年4月21日

絵画に於いて正しく間違えること

絵の創造性は常に間違える必要があることだから、明らかに学校教育など科学の教育と使う知能も目的も違う。正解がない上に正解を出そうとするかぎり常にろくでもない凡庸な作品を模倣してしまうからだ。ハイパーリアリズムはルネサンス絵画を模倣した、カメラ・オブスクラから写真へと写す手段をきりかえた結果生まれたものだったが、再現的な画像を模倣するかぎりその技術範囲内にある何かしか生み出せない。そしてそれが唯一の絵画ではないので、絵画にとって写実性は必ずしも正解ではない。ゲルハルト・リヒターが現代アートの一部をそこらの画布に適当に絵の具を塗りつけただけで偉そうにしている、と揶揄していたが、だからといって写実絵画を写真を使うなり直接模写するなり、ただ模造していることが唯一の正解ではないのだから、そこで重要なのはいかに間違えるかである。
 ある芸術作品は、必ずしも金銭的価値に換算されない。一方そこに感動など芸術的価値がある。この2つの価値の違いはポップアートの運動の中でほぼ混同されるに至った。現代美術自体に興味がない人、理解できない人が注目するのは金銭的価値の面だけだ。商人一般は金銭を価値尺度と思っているからだ。商人一般は、成功度も資産の金銭的価値に還元している。同じく彼らは教育歴や人格の価値もこの金儲けに役立つかどうかで評価する。人は自分の価値基準で或る事物を評価する。
 現代美術が大衆商業美術と違う顧客を相手にしていて、理解に知識が必要なのは、結局、教養水準の高い人が顧客だからだ。ここでいう教養は主に美術史を前提とした博物学であり、或る現代美術を非金銭的価値を含め評価するにはその種の知識が必要であればこそ、商人一般の好む大衆商業美術と異なる分野になっている。したがってスーパーフラット概念は所詮、中間芸術を意味するに過ぎないのだ。純粋美術は或る高度な理解が必要な様式、一般に理解できない作品であればあるほど前衛性を認める評価体系をもっている。だからこの傾向をもつ作家が生前に一般大衆から認められないのが当然となる。純粋美術と大衆美術は本質的に違う分野で、商業美術と見ても極めて顧客が限られるものだ。
 理解者をより少なくする、誰からも分からないことをする、世間に対し高踏的にふるまう、分かり易い前衛の高尚さは純粋美術がモダニズムの中で徐々に自覚していた自身を展開する根本力学だったが、ポップアートやスーパーフラットがこの流れに逆行した。だからこれらの美術が二流だったのは確かである。リヒターがウォーホルを「中位のアーティスト」と評するのは、ポップアーティスト自体、中間芸術の担い手に過ぎないという意味だ。同じ文脈で村上隆やクーンズといった流用芸術の担い手らも批判できる。それらは引用を文脈主義の中で弄んでいるにすぎないのだから、創造的であるはずもない。前衛アーティスト気取りも、市場での作家ブランドの差異化の体系に回収されてしまう、という資本主義美術の管理性。ここに我々の置かれている根本的な矛盾がある。モダニズムのごっこ遊びが流用の限界だ。文脈主義自体をのりこえるには、純粋に前衛的であって、手法そのものから真新しくするしかない。
「間違えること」は、偶然性の文脈とは全く別に、創造の本質に属している。しかも正しく間違える必要があるのだ。生物の進化にとっても突然変異や、機会的浮動が何らかの新しい形質を生態に組み込んでいくよう、芸術ミームの進化史の中では常に破壊的革新が必要である。学才や商才と芸術の才は違う。
 芸術の進歩の中で必要な破壊は、何か重要な間違いを犯すことでなければならない。しかもその間違いは必然的で、全人類に影響を与えるもので、禁忌を破り、そのうえ当然そうあるべき問い直しでなければならない。正しい間違いというこの言い方が、科学者だの商人一般に理解できるとは到底思えないが。

間違ったカード

間違ったカード
2019年
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神道教祖の集団である皇室は政府から離脱しなければならない

麻原彰晃に洗脳されていた信者と、天皇明仁・徳仁・悠仁その他に洗脳されている信者とは、本質的に何の違いもない。或る教祖をほぼ全面的に神格化し、憲法を破ろうと税金をふんだくろうと、或いは全国民を奴隷化しようと、侵略大量虐殺史だらけだろうと、狂信自体が目的になっている。
 重要なのはその洗脳の解除なのであり、精神分析や心理学の方法が応用されるべきだろう。政教分離できないという、日本愚民の本質的欠点は今後も諸々の弊害を伴うことが確実だから、少なくとも彼らの妄信を神道狂信者の自民党員もろとも完全に打破しきるのは近代国家として最低限度の義務というべきだ。

学歴などでの差別は恥ずべき文化

全ての関西地方の大学や個人がそうなのかは全然知らないが、私が「学歴差別」と呼ばれるだろうものをはじめて見聞きしたのは、関西地方の大学を出ていたり、関西地方で生まれ育った人たちからだった。
 彼ら一部の関西人は「学歴」という言葉で、或る人がどの学校に競争試験で入ったか、又その学校が世間でどう思われているかを気にしていて、しばしば入試偏差値などでその学校の格式を区別しつつ、或る人がその学校の入学者か卒業者でない場合、人格その他を完全に無視して人を差別していたのである。この種の学問や知識自体と全く関係なしに、「学校名」で誰かを先入観で差別するという考え方は、京大修士の或る女性も持っていたのだが、私の知るかぎり当然、知性の印になりえない。前提として皆が一律の学校教育を受けるわけでも目的が高偏差値の大学入学でもないし試験は単なる試験で知性全体の一部をはかるものにすぎないないからだ。それで別の、学歴差別を好む関西人(兵庫県出身で東北大学工学部を出たと物凄い大威張りをしていた或る男)にも知能多様性について教えてみたのだが、何一つ理解できないようでひたすら学歴差別を繰り返す。こういう人物は私の知る限り首都圏や東北圏出身者で、少なくとも一人も見たことがなかった。
 ところが、どういうわけか知らないが(偶然の一致なのか)、関西大学とか関西地方の大学とか、関西圏出身者が、私の接したかぎりでこういう学歴差別をしている人達が大変多くて、勿論それはただの差別だから単なる偏見からくる愚かさの一種だが、何らかの文化的背景が彼らにあるのではないかと思った。さらに彼らの一部を標本化し思考の内容を調べてみたところ、彼らの一人は「世間体」というべき概念で、他人志向の産物として、他人を見下す目的で学歴を使うのが当然だと考えているらしかった。つまりそこで彼らの中で価値をもっているのは差別する為の道具としての学歴であり、知識や学問ではない。
 関西地方は天皇が千年近く住んでいたのに加え、腐敗した受領政治がはびこり、いわゆる身分差別が長く続いていた。だから同和問題と呼ばれる差別に対する戦いがあるのは、東日本出身者の殆どはネットでしか見たことがないだろうが現実にある様だ。恐らく関西の差別文化と学歴差別は関連づけられている。それで関西地方出身の人達は「差別があって当然」と考えている節もあり、勿論それは少なくとも差別の文化自体が先ず周囲にみあたらない東日本からすれば理解しがたい思考習慣の差なのだが、この関西風の伝統的な差別文化に、学歴による差別が上書きされていると思われるのだ。
 Gordon Hodsonの2012年の論文 "Bright Minds and Dark Attitudes" で一般知能と差別的偏見の持ち易さには負の相関がある(いわば頭が悪いほど差別し易い)といわれているが、この「一般知能」が厳密に成立するかとは別に、少なくとも偏見を免れるには批判的思考が要る。
 身分差別の一種として皇室が残存しているのも確かだし、弥生民族や朝鮮半島からの移民として関西地方に定着した人々の中で、差別は身分制と関連づけられながら伝統文化になってきたのだろう。この思考習慣上の妄想は、京都にあっては自文化中心主義となり、関西圏では自称近畿の中華思想になっている。それで関西圏では京都大学を中心に、単に私が接した範囲の学歴差別主義者達(全員が関西圏の大学または関西出身の大卒の人々)の観察の限りでだが、学歴と差別がかなり密接なものとなっている。さも生まれつき違う身分かのよう、彼らが低学歴とみなした何者かを先入観で侮蔑して恥じないのだ。
 一方で、私が首都圏・東北圏で現にくらしてきたかぎり、明らかな学歴差別の様なものは基本的に一度も経験しなかった。私の親も家族も祖父母の代まで全員が大卒だが、彼らも多かれ少なかれ同じではないかと思われる。多分だが東日本にあっては、それ以外の学歴の人々も似た様なものではないだろうか。首都圏・東北圏では身分差別自体がまずほぼ消滅しているから、その様な過去があったということも行政で対策している人以外にとって全然身近ではない。かろうじて関西文化の名残である皇族が身分差別されているが、この人達にしたところでただの関西からの帰化人で、まだごっこやってるなという感じだ。首都圏・東北圏で生まれ育って生活してきた人達全てがそうなのかは分からないが、自分の経験上も、学歴がどうとかで他人を公然と罵倒だか侮蔑だかしている人を見たことも聞いたこともないし、仮にそんな人が公然といても「あいつは馬鹿だ」という感じで、逆に顰蹙を買うのではないだろうか?
 なぜこういう文化的な違いが関東と関西で生じているかは社会学的な分析が必要なので別の場所で考察するとして、私はウェブ上でしか関西出身者とか関西人自体と接した経験が余りなく、全く別の文化に触れ文化衝撃を受けたのに加え、そもそも差別を正当化して恥じない人がいることそのものが驚きだった。特に、「自分が有利な立場にたって、不利な立場の人を罵倒する」という、大卒の学歴差別主義者達のやっている業というのはそれ自体がとんでもなく卑怯な蛮行だし、もし知性が高いとしたら不利な人を助ける立場の者だと並の自覚がない上に、倫理的には下の下と呼べる振る舞いなので、愚劣というべきだ。天皇や公家の支配してきた関西地方に新渡戸武士道みたいな倫理道徳が欠落しているのは当然なのかもしれないが、ネットで実態が分かる以前に、東日本の人達はこの凄まじい文化差がある事実を知らなかったのではないだろうか? 少なくとも私は全く知らなかった。大卒がそれ以下を差別する関西の文化。
 東京や神奈川は東海道の末端だし、江戸時代の始まりから西との往来が激しく、東日本より関西地方との相関性が高い(東京や神奈川は、東日本より関西地方に似ている)というデータがある(東京都の類似都道府県神奈川県の類似都道府県)。関西の差別的風習はこの2箇所に入ってきている筈だ。このため、少なくとも東京や神奈川で、学歴差別的な目にあった経験を持つ人も多分いるのかもしれない。私が都内で暮らしたかぎりその様な経験は一度もなかったけど。
 いずれにしても企業や役所が初任給がどうとか形式的な経歴書に書かせる部分以外で、公然と身分差別を受けたなどありえないと思う。今後この企業や役所が経歴書で学歴云々を見て、形式的に採用を決めるのは、憲法上の法の下の平等に反するので、皇室制度も含め疑義に付されるべきだろう。何らかの能力と学校入学卒業歴に相関があるとは限らないのだから。そして関西地方の出身者とか関西地方在住者自身がこの私による客観的な記述を見て、自分達の属している身分差別が伝統の文化自体が実に劣悪な面を含んでいて、それがない、みたこともきいたこともない文化に比べて優秀だとは到底言いがたい自惚れに耽っているのを自覚した方がいいかもしれない。少なくとも私はその種の学歴差別主義者達の日常的な言動から、とんでもなく野蛮で卑しい考えの人達だと感じたが、当人達は文化環境に染まって思考習慣が堕落していると自覚できず、「差別の存在しない、差別は恥ずべき」「不利な人を助けて当然」な世界を想像できないらしく、説得は無意味だった。
 ある文化は無意識の前提を縛る。そして自文化の特殊性を自覚できるのは、異なる文化を学び取った人だけだ。もし東京・神奈川を除く東日本側からの客観的な批評・評価がなければ、関西人達の一部にいる学歴その他の差別主義者は自分が蛮行しているとは永遠に気づかず、恥も罪も感じなかった筈だ。

違憲な皇室・日本政府は正統性がないので革命政府によって打倒可能

(安倍内閣が「退位礼正殿の儀」を国事行為としたことについて)
違憲な邪教祖による政教一致の人治国家。やはり天皇は安倍とグルだった。所詮同類。
 退位法自体が違憲だが、政府がその儀式を国事行為にするということは立法府・行政府全体が憲法の上に天皇個人を置いている証明。つまり日本は法治国家ではない。憲法遵守義務がある全公務員も天皇・皇族も法を遵守しない点で共犯といえる。

波紋

無限に続く夢の間
君は小さな花として
時の回廊に入り込み
迷いながら死んでいく
さも人生さえ不可抗力で
なにも変えられないかの如く
だから幻想を解き
君が虚無だと知らせる 
この世さえ中身はなく
だからその恋にも何もない
失望も絶望も希望も諦めも
どんな秩序もない
静かな池に広がる波紋
この世はただそれなのだ

労働

厄介な仕事を行いながら
人は差別をまきちらす
だって彼らは愚物だから
群れていないと発狂するのだ
だって彼らは虚無だから
差別なしには生きられない
だから彼らは下衆であり
その労働をするのである

邪教国

邪教祖を崇めて納税奴隷国
違憲なる上皇崇め愚民かな
違憲なる立法行政安倍独裁
記者のする男性差別に加担する
衆愚らの崇める肩書き中身なし
馬鹿女肩書き差別しごみ掴む
皇族の借金返す奴隷国
自民党福祉を切り捨て円薄め
愚官らが安倍を忖度不正する
移民入れ遺伝子組み換え嘘つき党
愚民らの崇める自民今日も不正
愚民らの崇める皇族今日も違憲
無法なる皇室自民安倍麻生
腐敗した大阪兵庫の軟派下衆
腐敗した関西人の自己中心
不正され今日も差別す愚民国
自由記者今日もブロック言論界
馬鹿東大今日も原発まきちらす
脳科学おのれの愚劣は変えられず
腐敗した長州閥を担ぐ愚民
大阪人維新といいつアイヌ差別
侵略犯天皇先祖は中韓人
右翼崇む天皇先祖は中韓人

ささやき

ささやき

小さな奇跡

たとえ僕らが永遠に離れ離れでも
夢を通じてまた会える
たとえどんな恋も幻想でも
あなたの生は祝福されている
たとえこの世が無でも
無限の宇宙は僕らを包み
小さな奇跡を起こしている

2019年4月20日

世界はなおも広すぎる

ささやかな幸せさえ得られないこの国で
私は今日も取るに足りない仕事を繰り返した
永遠に残る絵画作品
だがそれさえ無意味に思える
私の前に広がる大海原の先になにがあっても
世界はなおも広すぎる

2019年4月19日

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東京都知事がバンクシーのコピー・オリジナルの境目がない器物破損を保護するのは金目当ての愚行

質問者「なぜバンクシーなら違法でもいいの?」
東京都「金になればなんでもいいんです」
質問者「もう一度きくが、公共物への落書きは違法ではないのか」
東京都「国際的に認められたアーティストの作品が違法とは考えられない」
質問者「(バンクシー作品が違法かの質問に続き)金儲けになればなんでもいいのか?」
東京都「お察しの通り、都の見解は変わりません」
質問者「五輪招致も違法だったのでは?」
東京都「次の方どうぞ」
質問者「ザハ設計の国立競技場をキャンセルしたのは合法か」
東京都「金の問題ではない」
質問者「なぜ東京ワンダーサイトを中止し、アールブリュットに文化政策をきりかえたのか。これは金の問題ではないのか」
東京都「現代アートは分かりづらいし、都知事自身も分かっていないので、障害者支援の名目なら公金使途を正当化できるからです」
質問者「バンクシーが現代アートとして他の落書きより高く評価されているのは、バンダリズムと関係し、違法行為のアートテロという文脈によるのでは?」
東京都「難しいことは分かりません。うちは漫画やアニメが主なので……」
 西日本出身者って何で東京の大衆文化を尊敬すべきだとか上位みたいにいうの? 西日本に住んだことないから分からないけどもっと低俗なの? 東京って実際に住んだかぎり、ほんと品性下劣な都市だよ。都知事が誰か見たら? 石原慎太郎の小説は全部読んだが、強姦した女を虐殺して終わりとかそんな話ばっかで、なんであの人物に芥川賞あげたり都知事にする衆愚が上位と思い込んでるのか。西日本の民度って私が想像するよりはるかに低次元だって証明なんですか? 茨城県は東京都より遥かに民度の点ではましだよ。自分が35年間、茨城にも東京にもどっちにも住んで、完全に客観的に言っている。それなのに西日本の人達ってマスメディアに洗脳され、東京が上、茨城が下(というかそもそも知らない)と思い込んでいるよね? 芥川賞が高尚? 一体全体なにみてるの?
 芥川が自殺してしまいました。お金が入りづらい純文学でした。通俗小説書いて文藝春秋つくった、親友の菊池寛が追悼の賞を作りました。自殺する直前に芥川は菊池のところを尋ねてましたが、菊池は対応してませんでした。そして石原慎太郎の通俗小説『太陽の季節』が受賞してから滅茶苦茶ですと。そもそも賞の起源からして通俗小説家が販促で作った似非追悼賞なのに、そこから高尚な人物なんて出てくると思う? 太宰に受賞させないよう嫌がらせした川端が有名ですよね? 商業作家なんて単なる政治ゲームしてるだけのろくな連中じゃないよ。そんなのが高尚? なに考えて文化をみてるの? 西日本から東京に出てきて、高尚だだの高級だだのといっている人達の、四国の愛媛県の文化ってどうなってるの? 漱石が『坊ちゃん』で書いた次元のままだってこと? 本当になぞです。私は10年くらい都内に暮らしましたが、本当に低俗で最悪の文化だなとおもいましたよ。嘘ぬきで。私の地元というか生まれ育った地域が立派だなんて、東京で暮らしてみるまで全然しらなくて、都内で生活したからはじめて気づけた。それなのに、なぜ西日本なり四国愛媛なりの出身者って私の真逆の感想をもつのだろう? つまりは西日本なり愛媛なりって東京よりもっと低俗な文化をもってるってこと?
 私は東京を崇めてる人達を完全に軽蔑しているけど、それは都内で裏まで基本的に全部みたからですよ。皇室がどんなことをしているか、日常的に都政がどうなっているか、都内の商人達とか庶民の生態がどうなってるか、おのぼりさんの生態がどうなっているか。どこにも高尚な部分なんてなかったよ。小池さんがバンクシーぽい落書きにどう対応してるか見てみてくださいよ? 五輪招致に際して、石原以後の都知事がどうふるまってたか。みてくださいよ? 高尚? 上位? なにいってるのか。あれほど品性下劣な人物を都知事にしてる衆愚が上になったら、天地を逆にしてるとしかいいようがないですよ。ほかにも大阪だかの人も似たようなことをいっていて、具体的に言うと都内のサイコパス三流テレビ芸人に発情している。私としてはなんて低次元な人なんだろうって本当にあきれるどころの話ではなくて、某京都出身の小説屋にも物凄く呆れ返ったことがあったけど、関西地方民度も大概だなとおもいますよ。メディアバイアスだかなんだかで、妄想の偏見だか差別感だかをもって生きている人達が、西日本からわんさか東海道新幹線で東京神奈川くんだりにでてきて、物凄く頭の悪く、物凄く品性下劣な蛮族の言動をとりまくっていると。明治だか江戸時代からそんなのばっかですよね。それはわかるけど、呆れるよ。
 東海道リニアなんて、東京大阪を行き来しない人にとってどうでもいいわけで、なんでそんなのに公金を使うのか。馬鹿ではないのか。どうせ品性下劣な商人がますます大阪から都内に出てきて、差別的な虐めの風習をいじりだとかいって広める、今までのパターンでしょ? で大阪衰退にしかならないでしょ? 京都もプライドばかり平安期から肥大化してるけど、所詮、長安を模して古代朝鮮の人達が封建制の下で贅沢していた過去があるだけのことで、自文化中心主義だか中華思想だかを中世みたいに引きずっていると。そんなの先住日本人の末裔からしたら知ったことではないわけですよ。文化庁遠すぎるだろうと。どうせ京都市上京区民が、10万年~3万年前から日本にずっと住んできた本来の我々の文化を、朝鮮から1300年前に入ってきて差別してきましたと。じゃあなぜ差別していたのかといえば、ダニングクルーガー効果で、ただのあほだったからですと。京都人が無知な自己中心的な稚拙な差別主義者だっただけと。しかもその京都人が、東京の方が都市規模が大きくなったから、というより茨城のほうが人口も多いくらいで、そもそも縄文時代以前から関東の方が人口が多いわけだから当然といえるが、文化庁をくれ、皇族をくれ、中世の虚栄心をまた満たしてほしいと。天皇だってただの中国から来た侵略殺人教祖だよ。あなた方西日本のかたがたがいう文化的な上下観みたいなの、とっくに時代遅れなんですけど。文化相対主義、多文化主義、文化多元主義、構造主義。かなり昔の思潮すらまだ咀嚼してないのと。どれだけ低次元な議論してるのか。東京の漫画アニメゲームだのサブカルを真似して憧れてますと。馬鹿なの? 「贅沢をしていた証拠」って下品なだけなんですけど。私、桂離宮も修学院離宮もいきました。普通に、弘道館や西山荘の方が上品だし高貴だと思いましたよ。質素な美の方が格上ですから。ちゃんとみてるのか。ちゃんと見たほうがいいですよ? 私は純粋に芸術を評価する目でみてますから。京都で寺を金ぴかにしたり庭を立派にしたりするのは、仏教の本旨にもとりますから、腐敗の証拠に過ぎないわけじゃないですか? そんなのを世界遺産にしてさらに金をもらっている。観光収入をむさぼっていると。じゃあ私は佐竹寺にいきましたと。人っ子一人いないし、実に清楚で素朴ですと。金閣寺も銀閣寺も行きましたよ? 詩仙堂もいきました。詩仙堂はまあまあ面白いかもしれないけど、それでも私んちの庭の方がいいなと思いましたよ。なにせ華美に凝っているのは下品なだけですからね。本質的に精神の表現なんです。芸術は。ですから最初の思想が品性に欠いていたら金かけるだけ悪い。
 バンクシーは違法アートですと。そしてパブリックアートとかホワイトキューブみたいな既成美術の枠組みとか、いわゆる芸術祭だのなにエンナーレみたいな管理美術の枠組みそのものを、地下文化の落書きを使って批判していますと。その前提があってバンダリズムっぽい美術破壊運動として面白いねと。ところが東京都知事は、そういう公共物だの私有物への無許可の落書きという違法性を前提にしたバンクシー解釈を全く無視し、「国際的、もしくは英語圏で有名だから」「高く売れるかも」とかいう実に下らないレベルで保護しましたとかいっている。馬鹿なのか? 普通に考えて低次元でしょ? 金儲けを目的に、田舎で田畑を相続できなかった次男坊以下の人達が、大坂商人を呼び寄せた家康の作った干拓地に大勢たかってきましたと。そしたら今度は人口比が世界一になってしまって驕り高ぶりはじめましたと。それが江戸から東京圏になった地域の実態ですよね。中身は何もない。ただの商人集団と。じゃあその土地をもたない商人集団がどんな考えで動いていますかと。ろくな考えはなく、単に金儲けに夢中ですと。金になるなら違法アートだろうが賄賂五輪だろうがどうでもいいのですと。それが本音でしょ? 笑えない本音。そしてさらに品性下劣なのが東海道をたどって入ってきて、大威張りすると。
 馬鹿は死ななきゃ直らないというけれど、それは現時点でIQも6~7割が遺伝するとかいわれているし、生まれつきの脳のでき自体は変わらないという意味で、確かにそうかもなと思う節がある。教育受けても暗愚な人間は無数にいる。後天的に矯正できる範囲は高が知れていると。品性も脳の一部ではないか?
 バンクシーを巡っての現象はまだ誰も騒いでないホームページの段階からずーっとみてたけど、そもそも彼・彼女の作品は公共もしくは既成美術を皮肉るところから出発しているのであって、都が保護しました、とか何も分かっちゃいないなというだけで、落書きって価値がないでしょ? という皮肉なんだよ。
「あなた方が普段、汚いとかふざけんなとかいって次々消してる、この不良の描いた落書き。ここにいきなり芸術性の高い図像を挿入したらあんたら、私達アングラのスプレーペインターを馬鹿にできるの? それとも偉そうに管理された制度の中で金儲けと権威ごっこしてるのしかアートと認めないのか?」
「保護された管理美術。写真そっくりに描かれた絵だとか、抽象表現主義ぶってまきちらされた絵の具の染みだとか、あなたらの好むそれらの図像は、スプレーで型枠どおりにコピーされるこれらのイメージに比べ価値が高い筈ですよね? しかし、私の作る図像を保護したと? なぜ? お金になるから?」
バンクシーの型枠を使って無数にばらまかれているコピーは、この様な管理美術の枠を根本的に皮肉っているわけで、アングラアートとして落書きを認めている彼・彼女当人の反権力的な思想が反映されていますと。「消してどうぞ」というわけです。「上書きしますから、すぐコピーしますから」と。例えばシルクスクリーンで壊れたコピーアートを作っていた、ウォーホルを模したバンクシーのポップアートもどき作品があったと。複製されるイメージの反復としての流用という、流行の文法を使っていると。ですからバンクシーの型枠を使った複製落書きが量産されても本物もくそもないのですよ? バンクシーグラフィティの各模倣物で本質的に問われているのは、「複製物」がオリジナリティをもっていないという流用的側面であって、保護しました、ってなに考えてるの? だってそれコピーでしょ、コピーじゃなかったらオリジナルにもなりえないよね、だって型枠の上からスプレーしただけだよと。そもそも覆面で誰かも分からないから、オリジナルとコピーの境目がありませんと。だって誰もそれが本物か証明できないし、仮にホームページだか作品集にのっていたとしても、それが本物の証拠になりませんと。何しろサインも筆跡も残らない型枠の上からスプレーしてあれば誰でも同じものですからね?
 この様な複製アートとバンダリズムの両方から、「じゃあ、これどうする?」「消して」「消すな」と、論争を呼びますと。こういう仕掛けが、彼・彼女が有名になってきた美術史上の文脈なわけでしょ? それに対して、東京都は理解がありますか。ないですよ。コピーを保護して本物なら高いとかいってる。
 所詮、町人と呼ばれた市井の庶民が、商人に転化して金儲けしてる都で、品位どころか金以外の評価機軸もないから、バンクシーぽい絵が公共物にかかれてたら隣でねずみ小僧みたにピースしてますと。都知事が。それはアートなのか? なんの? 教えてほしい。どういう意味でピースなのか、なぜ笑顔なの? なぜバンクシーの落書きだけ保護し、その他のものはしないのか。なぜその他のものは器物破損で逮捕なのか。バンクシーが見つかってないだけではないのか。なぜ公共物を管理している都が、金になりそうなコピーなら保護して展示とかほざくのか。じゃあ有名アーティストのバンダリズムは保護されるのか?
 ちなみに私はノートルダム大聖堂がぶっ壊れてるのは、割と素晴らしいと思った。なぜなら偶像破壊をイエスも主張していたからだ。「私は剣をもたらす為に来た」「地上に火をおこす為に来た」といっていた。悲劇的だが9.11も芸術的には、資本主義の偶像破壊という意味でバンダリズムだったと解釈できる。本質的に無限の金儲けは貧しい人々との格差を拡大するに過ぎないので、イエスもムハンムドもその対極にある寄付や喜捨を勧めていた。したがって資本主義信徒は邪教徒になるが、もし現代の聖人がいたら彼だってキリスト教やイスラム教の始祖と同じ偶像破壊を主張する筈だ。9.11だの3.11だので人命が大量に失われた。私もだが、それ自体は誰でも追悼の意を表するかもしれない。だがそこで偶像になっていた2つの施設、ワールドトレードセンターと福島原発が破壊されたのは、一種のバンダリズムのアートだといえるだろう。だからあの時、美しいといった人がいたのだ。資本主義の貪欲という悪徳の象徴。ワールドトレードセンターはニューヨークの証券関係者の、福島原発は東京電力という都民の悪意の、象徴だった。それらを破壊するのは、思想の上書きだ。資本主義自体が不幸にしている人がいる、という証明だったのだ。岡本太郎『明日の神話』に福島原発水素爆発の様子を上書きする。チムポムの悪戯バンダリズムは欧米美術史の中では無視されているが、芸術の本質にあるのは破壊的運動だ、それが足りないと最晩年に抽象芸術の極北にいたモンドリアンが、ポロックのアクションペインティングを見たあとで言っている。米軍に結局殺されたビンラディンは、カシオの安価で実用的なF91Wをつけながら、イスラム教徒に非道な侵略戦争を仕掛けた米国資本主義に破壊運動を企てた。それは思想の戦いでもある。バンクシーの皮肉っている対象は多岐にわたるにせよ、東京の資本主義に対し自壊的なのは都知事の態度といえるだろう。
「なんだ、都知事って金の前ではどぶねずみを保護ぶってしまう、品性も法もあったもんじゃない人間が就いてるんだ。では資本主義に基づいた東京なんて最初から虚栄の集団に過ぎないな? 行政のトップすら金が主要な価値の世界なんて、最初から最低の連中じゃないか」となるだけの話でしょ?

宗教施設は質素たるべし

浄財で作った豪華な宗教施設が、救貧教義の本質に反するのは明らかだから、燃えた施設のままで宗教活動に殉じる方が尊いというのに。

2019年4月17日

企業献金を違法化し日銀保有の日本企業を売り抜けるべし

上場企業の約半分で上位10位以内の大株主が日銀というのは、実質的に企業国有化しているわけですので、GPIF(年金機構)の保有分もあわせれば、もう共産主義国だといえるのでは? 日本の上場企業の半分の業績が悪化しても政府はその会社を潰さない(株を売らない)わけで、全体としてGDPが低下する。
 本来の資本主義(自由主義的)市場であれば、業績が悪化した企業は自然に潰れ、より業績の良い会社が伸びる。結果として市場の効率が果たされる。アメリカの上場企業はほとんどが入れ替わっているけど日本はほぼずっと同じで、国全体の経済成長率が日本は先進国最低(191国中166位。IMF、2018)。
 経済成長率とは、GDPが前年比でどの程度成長したかを表す指標で、
経済成長率 = (当年のGDP - 前年のGDP) ÷ 前年のGDP × 100
 正確に言うと、アメリカの上場企業でほとんどが入れ替わっているのは、主要な上場企業といえるダウ平均株価(ダウ工業株30種平均)の構成銘柄です。
 なお、日経の計算によると

17年時点で米ニューヨーク証券取引所の上場企業は「15年」、英ロンドン証取は「9年」。これに対して日本取引所の上場企業は「89年」と極端に長寿だと分かった。

この様に、日本企業は新陳代謝が遅いと分かっているが更に遅くなるので非効率と。
 要するに自民政権は企業献金目的に大企業と癒着するので、政府が母国の既存大企業に税金・中央銀行預金(実質的公金)を大量投入したり、無理やり救護措置してしまう(東電や東芝等)。結果、健全な競争が行われない市場になっている。より良い製品サービスが生まれづらくなり、景気悪化につながると。
 ではどうすればよいのか。
 企業献金を法で禁じ(米英仏加で禁止、独も間接的抑制済み)、政府と大企業の国民全体を犠牲にした共犯関係をなくすことでしょう。

村上隆はリキテンシュタインの模倣者に過ぎない

芸術っていかに間違えるか(いかに規範を破るか)が基本運動だから、明らかに学問と逆ベクトルで、そうであれば芸術家を学歴で正しい作業をしてると思い込んでる人達は完全に見方を間違えてることになる。脱抑制とみても正しさが低価値になる。ピカソがただの写実画家だったらとうに名が忘れられてる。
 リキテンシュタインと村上隆はやってることは変わらないのに、村上の理屈でよく素人を言いくるめられたね。文脈そのものも流用できるというわけだ。
 料理でいえば352円の牛丼が真のグルメと言い出したみたいなもんだからな。リキテンシュタイン以後のポップアートの二の舞の理屈として、アメリカ人の中である種のネタとして面白かったんだろうけど、カオスラウンジみたいにそれを素で受け取ってると完全に喜劇でしかない。一種の嘘なんだから。

日本政府が低教養な外人受けを狙うサブカル文化政策で自ら品位を下げている

漫画アニメはもともと品位がない大衆芸術だから、子供とか教養の低い人達に流行ってる。しかも商業芸術なので安価で海外に流布する。サブカルチャーを支持すること自体そうでない人に比べ品位がないが、日本政府は外国人に理由問わず褒められると国際的に認められたと有頂天になってしまう悪癖がある。
「国際社会で名誉ある地位を占めたい」とする憲法前文が、日本政府の人達を洗脳していて、国内でも低品位といっていいサブカルチャーが外国の子供・俗人、或いは村上隆の考えを容認する美術愛好家に褒められると、国内のメインカルチャーを放棄してしまう。大いなる愚行というか恥知らずなのだろう。某大臣みたいに、そもそも低教養な人物は、子供でも分かる漫画アニメの方がその他の高尚な芸術より遥かに親しみ易いわけで、自民党政府の文化政策は悉く漫画アニメ化・サブカルチャー化してしまう。彼らの名誉感情は外人受けを狙う他人志向のもので、自信や独善的高踏性は縁が遠いものなのである。
「民主主義化した文化政策は低俗化を免れない」と冷静な批評をしている人は、アメリカや韓国のポップカルチャーもその程度の質のものとみなしているわけで、日本政府が浮世絵を札の裏にするのもやはり他人志向の産物といえるだろう。本当に大衆芸術を誇っているとしたら、当人も低俗なのだから。
 そもそも純粋芸術の品位が確保されているのは(もしまだあるならだが)、その親しみ辛さ、敷居の高さ、理解し難さにあるといえるだろう。権威が得られるのは一般大衆には意味不明な世界だからだし、そこらの子供が夢中の漫画が威光など持ちようもない。日本の文化的な品位は自ら下げてるのだ。政府が。

回天神社に天皇が一度も来ないのは本当におかしい

「両陛下「国民の中へ」 地方訪問も平成流 見舞いや会食続ける」という毎日新聞の記事ツイートへ)
歴代の天皇皇后は回天神社に一度は訪問すべきです。その歴史的意味からいって、一度も来たことがないのは、他神社との優先順位からしても明らかにおかしい。無視したり、見逃していい次元の話ではない。天皇皇后に伝えてほしい。
 今自分で直接宮内庁に意見してきたけど、マスコミからも言ってほしいな。宮内記者会で。

(以下は宮内庁へ直接意見した文。ホームページから実名で送りました)
「天皇皇后両陛下による回天神社へのご訪問を依頼する文」
 歴代の天皇皇后両陛下は、茨城県水戸市の「回天神社」に一度は訪問して頂きたい。
 幕末の水戸藩で、孝明天皇からの幕政改革を進めてくれとする勅書(戊午の密勅)をきっかけに、尊皇主義者達がのちの明治維新を起こすべく幕府と争って大量死し、その墓や記録が残されている場所です。
 水戸学が今日の皇室、象徴天皇制の起源ともいえるのであり、その重大な歴史的意味からいって、明治以後、一度も回天神社に歴代天皇が来られたことがないのは、他神社との優先順位からしても明らかにおかしいと私は思っています。皇室の為に身を殉じて死んでいった志士達の魂を思えば、神道が無視したり、見逃していい次元の話ではないと感じます。
 尊王論や、政教一致の国体の概念を日本中に広めた、初の日本遺産の「(水戸)弘道館」も併せてご訪問されれば、両陛下にとって国民の象徴として、水戸学のもたらした今日的影響についての理解がより深まるのではないでしょうか?
 天皇皇后両陛下に是非お伝え下さい。

自称普通の日本人は同調目的の愛国ファシストかもしれない

普通の日本人と自称している人の脳内で定義されている「普通」とは、おそらく平凡という意味なのだろうけど、そこには非凡だったり独特だったりする個性の排除が自分にとって正当だ、とする愛国ファシズムが背後にあるのだろう。
 なぜ彼らに不寛容が正義と誤認されているか(憲法上、国民の思想表現属性など法の下に平等なので、排他性は正義とは言いがたい)といえば、情報社会の進展に伴ってみえてきた、国民の多様性に混乱しているからなのだろう。それで同調目的で愛国ファシズムを隠蔽しながら、普通と称するのだろう。

見たこともない神をかたる嘘

旧約聖書を書いた古代ユダヤ教徒も、古事記を書いた太安万侶も、神という虚像を使って当時の人類を騙そうとしていたのだから、この人達の嘘は実に罪深いものだったというべきだろう。当人達も見たこともない神の実在を信じきっていたのかもしれないが、嘘による公害が宗教戦争や天皇政府を作ったのだ。

なぜエスカレーターは高速レーンができないの

なぜエスカレーター製作者側は、片側を安全に歩いて上れる設計に変えないの? その需要があるのは明らかなのに無理やり設計にあわせさせるって、アフォーダンスに逆らってる以上デザイナーの本末転倒なのでは。右側だけ高速で動くしくみにして一々駆け上らなくて良くし、中間に手でつかめる仕切りを設ければ転倒防止になるのでは?
 みな移動時間は無駄だから一秒でも早く目的地にたどり着きたいわけで、悠長に手すりつかまってイライラさせる方に啓発するって目的がおかしいと思うけど。
 勿論、設計変えてからは、左側のゆっくり動く側の人も、右側の速く動く側の人も、「手すりにつかまる」のを義務化すればいいとは思うが、それ以前に、「エスカレーターの移動時間が無駄」だと思ってる人が多い(もっと急ぐ需要がある)事実から目を背け、設計者側が怠慢なのはどうしてなのか。

腐った伝統

天皇にせよ、安倍にせよ、金持ち貴族ごっこで園遊会する財源は税金なのであり、封建君主もどきを維持してる愚民の方に、本質的に冷遇される原因がある。奴隷精神で皇室なり薩長なり自民党なりを崇めている限り、税は自称上流の政治・神官階級に私用される。それが飛鳥時代以後の腐った伝統なのだから。

I WANT YOU BACK

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ノートルダム大聖堂の火

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2019年4月15日

消費税は軽減税率と組み合わせる限り累進課税で、かつ景気悪化に必ずしも繋がらない説

(OECDの「日本政府のプライマリーバランスを黒字化するには、消費税を最大26%まで引き上げるべき」とする発表に対し、共産党首・志位和夫氏による「冗談じゃない。なぜこんな借金まみれの国になったか。大企業・金持ち減税で税収を空洞化させた上に、無駄な巨大開発に血税をつぎ込んだからだ。そこを正さず消費税に頼れば暮らしも経済も破滅。根本から転換を!」とのツイートへあてて)
日本共産党は一国二制度を採用するのですか? 企業国有化がマルクス主義だった様に思います。
 もし中国共産党同様、自由市場と共産党政権を両立するとして、欧米で通常行われる日用品の軽減税率とくみあわせた消費税(付加価値税)が累進課税でない証拠があったら、是非、資料を公にして下さい。
 各国の一般消費税率によれば、特に(高いエンゲル係数の)低所得者に影響が大きい食料品の税率、かつ日用品のそれは、大抵の国で低くなっています。そうであれば、消費税は単に企業の値下げ誘因となる、累進課税なのではないですか? 私は消費税の最終負担者は企業だと思いますけど。
「消費増税が景気悪化につながる」一般論が世間に流布しているが、北欧含む西洋諸国の経済成長率は、かなり長期間、消費税率同様、日本より高いですよね? 
ノルウェー消費税24%(食品12%)成長率1.39、フランス消費税20%(食品5.5%)成長率1.52>日本消費税8%成長率0.81
経済成長率のデータ。IMF、2018年度、2019年4月版)
これをみるかぎり、日本の消費税率を、食品・日用品の税率を据置くかフランス以下(5.5%以下)に下げつつ、20%~26%程度にしたとしても、別の経済対策が功を奏すれば、西洋と同等以上の経済成長率(景気)は十分達成可能なのでは? いいかえれば、消費増税と景気悪化に因果関係はないのでは? もし消費増税と景気悪化に因果関係があったと経済学的に実証できたとして、常に異なる状況が起きうる現実社会を後づけで分析する経済学の特性上、今後は分からない。仮に因果関係か正の相関、又は擬似相関が両者にあったとして、別の景気対策と組み合わせれば軽減消費増税がPB黒字化に役立つのは事実では?
 我々国民は自国をよりよくする為に立法なり行政を議員さんに代行しているわけです。「政権批判をする為の議論」「権力維持・奪取の為の議論」は、まあ(違憲立法の連打を含む安倍政権暴走中の)今はそれが第一に必要なのもわかるのですが、それはそれとして、本質については別に置いて冷静にきちんと、精確無比に議論していただきたいです。

皇室は安倍政権よりあくどく違憲立法を忖度させている真の国民主権侵害者

なぜ天皇が違憲立法を実質的に忖度させ、国民主権を侵害するのはよくて、或いは京都府知事・京都市長・東京都知事が(皇族招致や五輪招致等で)皇族を政治利用するのはよくて、首相がそうするのは駄目だといっているのか? 宮内記者会に洗脳されている? 責めるべきは皇室が政治している現実では?

反安倍の主張する権力行使の力関係(天皇大権)
皇室→首相→国民 ○
国民→首相→皇室 ×

親安倍右翼・安倍内閣・京都市長・京都府知事・東京都知事のそれ(皇族を政治利用)
皇室→首相→国民 ○
国民→首相→皇室 ○

憲法の定めるそれ(国民主権)
皇室→首相→国民 ×
国民→首相→皇室 ○

反安倍の主張している天皇大権は明治憲法の体制だから、現憲法では違憲でしかない(第三条)。退位法も違憲(第四条)。上皇も新天皇(徳仁)も違憲な存在、なぜなら現憲法では摂政を置くと書いてある(第五条)。
 おそらく反安倍の一部は、安倍晋三氏の不道徳さを暴く目的で誤って天皇大権を援用してしまっているが、それは国民主権の否定だから安倍氏の裁量を正当化してしまう矛盾に気づいていない。もし安倍氏の悪政を責めたければ天皇の権威・権力を借用しない形でそうし、しかも違憲な皇室も責めねばならない。

一億総中流が人口増に最適

上野千鶴子氏「平成31年度東京大学学部入学式祝辞」の「東大女性がもてない」説について、2つ調べた。1つはLora E. Parkらの2015年の論文 "Distance Makes the Heart Grow Fonder: Effects of Psychological Distance and Relative Intelligence on Men’s Attraction to Women" で、心理的距離が近いと男性は低知性な女性により魅力を感じ易いらしいと述べるもの。
 もう1つは「エキサイト恋愛結婚」が20~50代が男女403人に調査した結果、女性の方が男性に比べ、収入、学歴、運動神経(体力)、家柄、容姿という調査された全項目で相手と格差がある(自分より低い)と許せないと感じ、格差ある相手との結婚に男性7割がOKなのに女性の6割は考えられないらしいこと。
 この2つのことから直ちに結論はできないが、現実に東大女性含む知性の高い女性は男性一般から心理的距離が近い場合に限って敬遠されるかもしれず、しかも東大女性自身が結婚を考える交際相手の男性をかなり厳選してしまう可能性がある。よって上野氏の祝辞でいう、合コン(こんな場に行く時点で社会的知性が高いといえるとは個人的にあまり思えず、もしくは少し軽蔑してしまうけど)の場で成績が悪そうにみせ、東大生と隠そうとする女性は恋愛戦略面で狡猾といえるのではないか?
 なぜ心理距離が近いと低知性な女性の方が男性一般にとって魅力的に感じ易いという研究結果があるかといえば、もしそれが事実なら、進化論的な理由があるかもしれない。性差別の文脈とこの本能を含む情動を直ちに混同すべきでないだろう。上野氏はだがそれをしている。本能は性差別となんの関係もない。次に女性一般がもし男性の方が比較的な諸属性において自分より劣っているのが明らかな時、結婚を半数余りがためらうのが事実なら、ここには女性自身の性差別の文脈があるかもしれないし、進化論的な選り好みの本能によっているのかもしれない。なぜなら結婚は本能によるのではなくただの制度だからだ。政治的人間とみたとき、他の動物でも順位が上の雄とつがいになれば雌の社会順位が上がる、という現象がある。この社会的動物性を制度とみなすか、本能とみなすかは議論が要るが、もし女性自身が配偶者の社会的地位を含む何らかの属性を差別選択していることが事実なら、原因は選り好む女性自身にある。
 当該祝辞で述べられていることのうち、性差別の全原因を男性全体に向け女性自身を除外しているのは、実に単純化しすぎた図式で、寧ろ女性自身が自らの知性をできるだけ男性一般より劣らせるよう行動しているのは、恋愛戦略的に適応といえるかもしれない。私はその行動が馬鹿げていると思っているけど。なぜこの女性自身の知性劣等化(かわいこぶりっ子とか、女子力とかいわれる)が愚かしいと思うかといえば、知性自体は社会を何らかのよりよい方向、またはその創造的知性を含むより多様な方へ変えていくわけだから、賢い人が生まれ持った資質を十分生かさないのはただの自殺行為と思うからだ。
 一方、世帯所得が少ないか非常に多い(1500万円以上)と子供の数が減る(就業構造基本調査、総務省、2012年)が、女性の最終学歴が低い方が出生率が高い(つまり子沢山)、という調査がある(Trends in fertility by education in Japan, 1966-2000.)。ここから単に統計的にいえば、女性が自らの出生数をあげようとした時、少なくとも1250万~1499万円付近の世帯所得が見込める配偶者と、自身が高卒か中卒で婚姻すれば、最大の子供が残せる。いいかえれば現代社会の中で単に出生率の面から適応的なのが、女性の知性劣等化と、男性への収入差別なわけだ。
 男性へ、エキサイト恋愛結婚の調査対象になった日本人女性自身の約6割がもし本当に、収入その他の属性で性差別しているとしたら、その原因は単に本能・制度を混濁させた当人の遺伝子の生存戦略かもしれない。この種の社会的差別を女性自身が行う必要を作り出している所得制度を改善すべきではないか? いいかえれば、ある女性の配偶者男性の収入が1250万より低くても、或いは1500万円を超えていても、両性が望む子の数をある程度残せるよう制度改良すべきかもしれない。なぜなら、それによって女性側が配偶者を性差別する誘因が減るからだ。また短大卒以上の教育年数を経た女性が出生率を低めるのは顕示的消費が原因という金森重喜説が正しければ、女性の社会参加という名目で女性の高学歴化や女性自身の所得増加を鼓舞すると、Butz‐Wardモデル(後述)により少子化に拍車をかけるにすぎないのではないか。
(Butz‐Wardモデル:Butz and Ward Model、有配偶女性の賃金の上昇が子供の需要に対して負の効果(代替効果)を及ぼし、これが夫の所得による所得効果を上回るならば、その結果出生率が低下するとするもの。(清水誠「所得が出生に及ぼす影響」2002.3、JGSS研究論文集))
少子化に拍車をかけることを知性の高い女性自身が望むのが単に教育費の高さではない(ゆえ1500万円以上の年収がある世帯の方が1250万~600万程度の年収がある世帯より子供の数が少ない)のは、金森説で明らかだから、奨学金や大学無償化などで出生数は上がらない。肯定行動(affirmative action)は出生率に負の影響がある。
 政治的文脈を完全に無視し、出生率を純粋にあげたければ、国内女性一般の低学歴化を推進しつつ、国内男性の年収を1499万円~600万程度に人口当たり正規分布化すればよいことになる。要するに高度成長期と同じ一億総中流を勧奨すればよい。欧米模倣で共働きを前提とすれば移民なしに人口維持できない。
 平成末の日本社会は大きな岐路に立っていて、低学歴なことが多い移民労働者の高い出生率を前提に日本国の人口を維持するか、さもなければ今述べた一億総中流モデルに回帰し日本人自身の人口増を目指すか、だ。この点で、上野氏のフェミニズムは後者の為には負の影響があり、当該祝辞の論旨も同様だ。私にいえるのは、米英仏独などで移民の出生を前提にした多文化共生社会が全面に成功しているのではなく、移民排斥運動や極右台頭のきっかけになっている事実(トランプ政権やブレグジット、パリ同時多発テロ事件、AfD台頭)がある限り、少なくとも日本人自身の人口増を無視するのは陰謀だということ。
 私個人は博士等の高学歴移民が国内で最も多いのだろう(2014年時点で外国人研究者が5291人近くいる)つくばを抱えている茨城県に住んでいる上に混血の多様化を合理と見るので、移民の正の影響を考え寧ろ移民導入に賛成だが、上野氏のフェミニズムと新自由主義の共犯による日本人少子化推進は論理的帰結の過ちだ。
(つくばの外国人研究者数の出典。茨城県企画部「時代の潮流と茨城の特性」平成26年11月21日、67ページ。
女性の中でも優秀な人物が、男性の方が数が多い何らかの職業に就くのを妨げられない制度的公平さ、機会平等原理はあらゆる面で貫徹されるべきだが、それと別に、能力差を無視し結果としての男女比を同数に近づける肯定行動と呼ばれる恣意は、企業や役所の効率を下げる一方なのでただの行き過ぎである。
 結局、上野氏が祝辞で述べた類のフェミニズムは、(たとえば出展作家の男女比を強制的に1:1にする、あいちトリエンナーレ2019でみられるよう)結果平等を強力に既成事実化させ、それが社会に全面化してくると負の影響として、ひいき(逆差別)で学位や成績等を底上げされた高学歴女性や高所得女性が出生率を減らすと同時に、有能な男性の能力が殺されてしまう。
「そもそも人口増が善か」「文明の進展として少子化は必然でまた社会正義なのではないか」という反出生主義の観点から、上述の論理は批判され得る。私自身も上記が全て政治的に正しいと思わない。単に功利主義面(最大多数の最高幸福)からのみ事実を客観的に分析しただけで、全体の倫理的な再検討が必要だ。

有能さをきちんと評価していれば性別は全く無視できる

(日EU経済連携協定第1回合同委員会に際し、EU代表と日本政府の顔ぶれを比べ、EU側は女性が多く服装も様々なのに、日本側は黒いスーツの男性だけという写真について、性差別の文脈で語っているツイートへ)
性別で人を見てるのがおかしい。個々人が有能かどうかで見たら自民党員がおかしいだけ。

低所得者向け奨学金の充実と私学の自立が公平な奨学制度

全大学無償化は2つの点で不公平
1.全大学を無償化すると金持ちがますます有利になる
2.会社・役所などから学歴差別を受ける低学歴の費用負担で高学歴者がさらに有利になる
よって
1.低所得者向け奨学金の充実により費用面から進学を諦めないようにする
2.私学への助成金を中止する

移動距離は求道性ではない

昔はグレートジャーニーみて旅人に憧れてたけど、ツイッターで世界旅行してる人達の様子が具体的にみれると、その人達の余りの軽薄さにびっくりして、今まで旅人をブッダの様な求道者だと思っていたのが勘違いと気づかされた。求道は自分の内面にある真理探求の心で、移動距離では全然ないらしい。

天皇は偽善の神聖君主

(園遊会に芸能人や有名人を招く安倍首相と、誕生日にホームレスを食事に招くローマ法王を比べたツイートへ)
天皇とローマ法王を比べるべきだ。神聖政治が建前なのは世俗政治の長である首相ではなく、天皇だからだ。

2019年4月13日

自殺願望を語る女

SNSを使っていると、自殺願望を語ってる女というのがたまにいる。自分はそういう人をみたことがなかったので同情し、助けようとした。そして実態を知ると、その人達は怠惰による極貧とか、不貞による自滅とか、サイコパシーによる悪業とか、色々尤もな理由があったりし、正直、死んで当然なのもいる。ただ全ての自殺願望女が全く同情に足らないわけではない。少なくとも救いの手を差し出す意義が十分ある人もいるし、そのことを私より深く知った人はこの世にもあの世にもいないのではないかと思う。重要なのは見極めだ。
 一体その人がなぜ自殺願望を抱いているのかきちんと見る必要がある。
 同じことは男性についてもいえると思うが、いくら慈悲とはいえ悪業三昧しまくりながら自死の予定を語り、同情した男を騙し、裏切り傷つけ遊んでいる本物のサイコパス女を私は知っている。自殺願望を語るその女は本当に生き残るべきか。そうでなければ下手に手を差し伸べると自分が犠牲になる一方だ。

東大の学風

或る東大物理博士が女性性は性的価値しかない、と自分の目の前で大真面目にいっていたから、上野千鶴子氏は自らが教えていた大学の学風について真剣に考えた方がいいかもしれない。他に別の工学系東大博士による「女相手に真剣に議論するなよ」発言が、自分が生まれて始めて女性差別を見たときだった。

労働者と芸術家

私有財産の範囲で大人しく絵を描き、世間の人の為に無償で提供していたら、労働者やその主婦の一部に酷く侮辱を受けたり、差別的言動をとられた(芸術家という職自体を無職扱いで何度も侮辱された)。それ以後、自分は労働者なるものを多かれ少なかれ軽蔑する様になった。神が彼ら労働者の一部に復讐してくれるのだろうか?

Digital action painting

Digital action painting
2019年
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日本女性一般は日本男性を属性で思いっきり性差差別している

イギリスのある友人が今日のフェミニズムに軽蔑的で、自分は実感がなかったんだけどやっと理由がわかった。単なる男女同権なら誰だって理解できるけど、無理やり有能な男性を性差別主義者扱いで陥れ、無能な男性を虐めまくって自分が利権を得ようとする卑劣な一部の女とか、それに媚びる偽善者がいるのだ。総じて今日のフェミニズムの理屈は「性別」で男性全体を一括りに差別対象にしたてあげ、女性全体に免罪符を与えようという極めて大雑把でろくでもない逆差別に基づいていて、これを肯定行動(affirmative action)等よくわかりもしない横文字で糊塗しながら、暴力的におしつける運動になっている。
 ところがフェミニズムの偽善を指摘すると、リベラルぶっているフェミニスト男性もヒステリックなモブとそれを「性差別主義者」扱いで集団虐待し、冤罪に陥れる、というお決まりのパターンがあって、いってみればネット右翼の在日認定と同じ性差別レッテル張りが公然とテロの一種として容認されている。結果平等を目指し、明らかに無能な女性を、有能な男性以上にひいきし、性別同数に近づけるか、完全に同数にする、という誤った意図(affirmative actionというやつ)は、正直いってその集団の効率を害するだけだから企業でやれば業績悪化、政府でやればますます無能が出世すると最悪の結果に結びつく。フェミニズム衆愚の方は自分達が欧米思潮の流れを汲んだ、政治的に正しい正義の徒だと信じ、疑う知能はもちあわせていない。能力無視で男女同数が正義とか意味がわからないのだが、本気で彼らは小学生級の思考力なのだ。それでうんざりしかしないが、東大権威とか欧米思潮を恣意的に使い、男性虐めをする。
 フェミニストの急所は女性一般より弱い男性の存在で、その人達が最も不遇だといわれると論理的に反駁できないのでブロックなどで逃げる。はぐらかす以外どんな抵抗もしようがない。なぜなら弱い男性の犠牲の元に女性全体の不当な権益を拡張するのが目的だからだ。男女同権など全く考えられていない。
 性別と学歴は、一般教養含む思考力の高さという点で、全く個人のそれと因果関係がない。経験上は自分が会った中で高学歴(博士)で賢いと感じたのはフランス人の女性1人しかいなくてほかは全部なんでこんな馬鹿なのと思った。少なくとも日本人で高学歴自称してる人達はただの一人も賢いと思わなかった。知識量や思考力が一体どうやって得られるにせよ、知能は単に多様性が認められるだけだから単一指標で賢愚ははかれない。少なくとも何らかの属性から知性を知りえない。フェミニストの文脈とまったく別に、女性の博士だの偉人が沢山いても何の疑問もないし、賢さ全体と学歴も特に何も関係がない。ひいきの順位が 男性の弱者<女性の強者 となってしまうのがフェミニズムが偽善的なところ且つ弱点なわけだが、この男性の弱者を擁護する研究領域は、まだ存在もしていないし言葉もない。マスキュリズム(masculism)でもないだろうし。しかしこの研究領域がカバーする人達が日本で最弱の立場だ。IQが低く、生まれつき醜いとされる姿で、力もなく、ひたすら貧しい。しかも何の才能もなく、能力も低い。フェミニズムはそんな男性が自殺寸前まで追い詰められていても、性差別の文脈から、圧倒的に恵まれている女性をひいきしてしまう。自己責任論とか、男性全体を非難するという実に単純な図式で。
 またある人が次の様な事をいった。肩書きで何らかの意見の説得力が増すと。これは後光効果を利用するという意味だろうが、真理の敬虔さからいえば本当に卑俗な次元の話で、属性で差別する愚物からの賞賛が真理の保障でないのはいうまでもないので、衆愚受けを真理と比較するのは全く無益有害だ。我々が天道説に反対を唱え死刑を求刑された者とか、全国報道とか京大学閥だのといった腐った学界から真理の弾圧を受けた者を知っている以上、肩書きによる説得力云々といった学の俗用を中心に、真理の頂に向かって歩いているとするなら、誠におこがましい態度というべきではないだろうか。色々な理由で、学を志す者は集団で、或いは個人で研究する。全く無冠の浮浪者が聖哲でもありうるし(実際、当時のインド哲学の総合的批判者として釈迦がそうだったよう)、仰々しい大学順位の頂上を極めた教授が単なる張子の虎だったりもするわけだ。重要なのは真理であり、それを知る工夫である。真理を知る、という唯一の学の目的の前で、性別など当然だが全く意味をなさない。一体、学界でフェミニズムだか性差別があるといっている三文学者は何を指していっているのか全く分からない。教授のポストとか世俗的なことに関してしかそんな下世話な事例は当てはまらないと思う。真理に性別などない。
 私は「イケメン」という意味不明な渋谷くんだりの俗語を日用してる人間は下品なやつだなと思って前から軽蔑してるのだけど、こういう男性を特定の性差偏見にあてはめ差別する用語を平気で使っている時点で、女一般の方が性差別は激しいと感じている。男で女一般を二分なんてしない。イケてるというのが、先ず関西の意味不明な俗語であり、つぎにイケてるメンズの略といわれてるわけだがmen'sは「男物」という意味の英語であり、男性達という意味ならmenである。だから イケてる+男達 ならイケメンになるが、どうもこの俗語を使ってる馬鹿は意味もわからず使っているらしく、メンを面という意味にしているらしい? イケている+顔 という意味でイケメンといっている人(大抵は表面だけ上品ぶっている女とか、要するに育ちの悪い下衆女が殆どだが)の場合、当人がどう言い訳しても異性を顔だけで評価しているわけだし、しかもイケメンとそれ以外に二分する差別語を堂々と使っている時点で人間的にはダメ人間だろう。
 一体、男で女を見た瞬間「美人!」等と面と向かってといって、相手に失礼だと思われない人がいるだろうか。日本女の下衆な部類はこれを日常的にやっている。だから自分はそういうやつらをみるや心から軽蔑しているのだが、当人達には恥を感じる能力もなければ、そもそも礼儀も何もあったものではない。男性一般「のみ」が性差偏見をもっているだのなんだのといっている愚か者は、本当に女性一般のそれと比較検討したのだろうか? 自分が知る限り下品さでいったら日本女一般のもっているそれの方が、自分もその一員でつぶさに観察してきた日本男一般のもっているそれより激しいし、汚いのだけど。
 日本男で女を見た目だけで評価する様な下衆は、確かにいるにはいるが、男一般からいったら本当に下等の部類で、確かにそういう軽薄な人間はろくな相手とめぐり合えない。当たり前の話で、性格とか心の価値より、顔の表面のつくりだけで相手を評価してるのだから、作り物やまがい物をつかむはずだろう。フランス女性だのノルウェー女性だのアメリカ女性だのと会話した限り、ただの一人も、貧しい芸術家を見て差別してきた人はいない(運がよかっただけかもしれないが)。なぜなら欧米女性は自立が前提だから男性の経済力なんて別に気にしてない。日本女一般は真逆で、男に寄生が前提で、差別しまくる。嘘だと思うならあなたが今日、画家を名乗って一円もありませんといいながらそこらの日本女と接してみるがいい。当たり前の様に差別してきて、初対面で死ぬほど侮辱してくるのはいうまでもなく、はっきりいうと、東京圏・関西圏・愛知県など大都市部では男をATMと思っている本物の下衆が殆どなほどだ。日本女のかなりの部分(少なくとも東横・関西・愛知など大都市部の女一般)が男を寄生先としてしか見ていないとんでもない偏見もちなのに加え、イケメンなどといいながら見た目で人を差別しまくっているのが日常なのに、どこをどう現実認識をゆがめたらジェンダーバイアスを男中心に考えられるのか。どこの大学のどの教授がばかだというつもりもないけど、肩書きに騙されていると大変なことになる。まあはっきりいうと欧米かぶれで象牙の塔にこもってるかぎり現実の日本社会は何もわからないし、各地域、各クラスター、各個人でも全然違う。先ず日本人男性を顔で差別する蛮行を非難すればいいのでは?
 世界の人達と接した限り、まあ海外女性も男を見た目で選んではいるけど、日本女一般ほど露骨ではない。これは確かな話だと思う。日本女一般は「イケメン」差別が当たり前と思っており、男性を見た目で先ず二分し、そこでふるい落とすので、男性の見た目がよくなかった時点でゴミを扱う様にするのだ。正直言って見た目で人間を先ず全面的に評価してるという日本女一般は、下衆としか言いようが無いと自分は思っている。だからその点では全く尊敬もできないし、心から軽蔑している。現実に外人と接すればわかる。そんな馬鹿はどこの国でも見ないのであり、いたとしても最下等の堕落した女とかなのだ。
 人類は先ず或る人間が生きている、その人の心を含む全面的な存在として愛していたり、接していたりする。当たり前の話である。日本女一般はどうでしょう。全くそんなことはない。そんな日本人男性がいるでしょうか。いたとしてもどうしようもない軟派男くらいではないでしょうか。日本女一般の凄まじい性差差別っぷりは、本当に無限にあって、自分は内幕を相当みてきたから全部暴露してやろうと思うが、はっきりいって野蛮としかいいようがない世界である。逆に私は男子校だったので男性のみの社会もみたけど、こっちは進学校だったからか知らんがそんな差別全然なかった。本当に。
 日本女一般は、(都会女一般は)男をATMとしてみている、或いは見た目だけで差別するといいました。それだけではない。学歴で知性を単純化したり、身長で即座に差別も平気でやっている。高学歴=賢い、とかいう笑えるほど単純な図式を当然視し、そうでない男を燃えるゴミ扱いしているのは本当だ。日本女一般というのは、男性をなんと、人間としては見ていないんですよ。信じられます? 私は色々その事例を内側からみてきました。なんと男性を性的満足を与える動物かPCか何かみたいに扱っていて、普通に人間として愛していないんです。知ってましたかこれ。のち英語で世界に発表したいと思います。多分何か下らない東京の雑誌に煽られているとか、周りに見栄を張る目的で、訳のわからない差別だの偏見を日本男にあてはめまくり、もうそれが狂いすぎていて当人達も意味がわかっていないのだけど、とにかく性差差別がとんでもなくある。逆に差別がよくないなんて考えはひとかけらも無い集団なのです。現実に日本女性の一員が、日本女集団の中で「え、見た目でいうのって差別じゃね」とか言ってみて御覧なさい。0.1秒で排除されるから誰もいえない。とんでもない虐めクラスター。でもそれが普通とか思っている世界なので、抜け出せない地獄じみている。とかく周りに合わせて馬鹿三昧しなきゃいけない。
 今書いたことは日本女一般が持っている性差差別の本当にごくごく一部でしかなくて、現実にその中で生活してみたらわかるけど、野蛮なんてものじゃないほど酷いのだ。そこに倫理など全くない。嘘ではなく。性差差別してるのは日本男だ、というのは嘘八百で、現実には倫理を語ってうざがられてるのだ。
 さっきも少し書いたけど、逆に日本男一般はどうかというと、自分が接してたのが進学校の人らだからなのかもしれないけど、女性への差別なんて全くない。男だから性欲くらいはあるのかもだが、それだけの話で何の陰湿な部分もない。ごく単純で、しかも僕みたく女性をプラトニックに愛する場合さえある。確かに下衆男も沢山いるだろうから、そういう連中に性差偏見がないとは全然思わない。女をただの性行為の相手みたいに扱っている下郎は東京や関西の都会に多かったようだけど、それは雑多だからだろう。だが男一般で女性を見た目でいきなり差別とか身長で差別とかしてるのは、ただの最下等の部類だ。自分が実体験として知っている範囲でいえば、性差差別をより激しくもっているのは日本女一般であって、日本男一般ではない。これが経験的な事実である。先ず属性で差別を恥じないのは日本女一般であり日本男一般ではない。次に異性を典型的性差にあてはめないとつきあえないのも日本女一般でしかない。日本男一般は女が超高身長だろうが醜貌だろうが全然家庭的でなかろうが、或いは貞操だろうとあばずれだろうと、普通に魅力を感じるしそういうものとしてつきあうと思うけど、日本女一般は男が高身長で美男子で高学歴かつ高収入で、しかも遊び人か自分にだけ愛を誓っていないと即差別しているのである。
 上述のことが嘘だと思いますか? 周りの一般日本人に聞いてみていただきたい。この通りだと思います、高確率で。ということは日本女一般の性差差別の方が、日本男一般のそれより激しい。フェミニズムなんて日本では全く質の違った議論にしかなりえないんですよ。さらにここに書いた属性というのは全部、心の価値以外のものである。性格のよさ、人格としての相手の全的存在とか、個性というのは、日本女一般の中では基本完全に無視されていて、人と人の付き合いになっていないんです。非常に軽薄で人を馬鹿にした扱いをしていて、人を人として愛していないのです。
 なぜこの様に日本女一般の性差意識が歪みきってしまっているかというと、幼児の頃から色々な媒体、特に東京発の軽薄で低俗なサブカルチャーだのマスメディアだので意識が洗脳されてしまうのでしょう。彼女らの妄想の男性像は全部、都内の会社員の理想化された姿になっていて、それ以外のは差別すると。みてないから定かにはいえないけど、『君の名は』はまさにその種の洗脳装置であり、大衆商業映画としてますます日本女一般を完全に性差偏見で丸めきろうという意図しかもっていないと思われる。
 だから海外で、その種の東京系洗脳を受けていない人達は、普通に男性を個性ある存在として受け入れる。日本男の中の下衆を擁護は全くしないが、日本女一般の汚さ、心の卑しさ、品性下劣さ、性格の醜さ、まあ形容しようもない野蛮さというのは、いずれ世界中にきちんと知らしめる必要がある。これは国内で性差差別を激しく日常的に経験してきたからではなく、純粋に誰かが記録しないと現実を知れないから。世界中の人々は、日本の内情について何もしらないので、マンガアニメで描かれる性的偶像としての貞淑だかあばずれだかの日本女性と、現実の陰険かつ下品で野蛮きわまりない日本女全般の性格の余りの違いに驚愕するに違いないのだが、現実をきちんと教えることなしには永遠に日本を誤解するだろう。色々日本女らがどういう言行してたか思い出したら吐き気が止まらなくなってきた。本当に醜悪な心の持ち主が多いのは事実だ。勿論、全員が完全にそうではないにせよ。
 問題は見た目でなくて心の醜さだ。何百何千とみた日本女一般で心が美しいと思った人は数人しかいないくらい酷い。外人は着飾ってもなくても心が素晴らしいと思ったのがごろごろいた。見た目よくしたところで中身が腐ってたら人としては扱われないのは当たり前。気にする所が断然おかしい。

日本の美術批評は業界人の出来レース

茂木健一郎氏が「現代美術と批評は切っても切り離せない」といっていたけど、これは欧米美術の話で、日本にその種の美術批評は無い。あるのは仲間内での出来レース的な、同業組合間の政権闘争で、『美術手帳』という雑誌を中心として人気を捏造する運動と、日本芸術院を頂点とする公募展団体しかない。日本の美術界は欧米とは全く違っていて、サブカル批評会みたいな異端なのはある(東一派)けど、いわゆる美術批評という言論界はない。美術手帳にのってる批評の質は欧米の後追いで、日本機軸に考えられていないから、批評と制作の無限連環の様な欧米的なしくみにはなっていないのだ。では欧米美術が公平な世界なのですかというと全くそうではなくて、むしろ日本よりはっきりルール破りが合理化される歴史の積み重ねで、異種格闘技戦みたいになっており、しかもルール自体が頻繁に変更される。日本のよう根回し一本でなく理屈で横槍とか場外から違法行為で割り込むなど何でもありだ。
 要するに日本人は単純に卑怯(別の言い方をすれば狡猾)だが欧米人は甚だそうなだけでやっていることは変わらない。権威づけのため巧妙な理屈をつけている、という欧米ルールの格闘に近いほど知能の高い人物が日本側に殆どいない(村上隆氏くらい)だけで、別に日本と欧米で土俵が違うわけではない。日本で『松林図屏風』を描いてた等伯が、西洋の風景画家と全く違う文脈にいたとしても、独創性の点で隔絶した意味をもっているよう、絵の土俵は普遍的なのだ。現代美術を欧米基準に考える、欧米中心主義が近代の教義に過ぎないのであり、ある表現を裏付ける論理的構成は必須要素ではない。日本の美術界が欧米と違う、論理的秩序がない、根回しほぼ100%で客観的実力が加味されない、保守的で進歩や革新は異端として排斥される、あるいは東京圏など大都市でサブカルチャーがハイカルチャーよりでかい面をしている、これら自体は単に文化的な差があるだけだ。泥中の蓮が日本画だ。この淀み、「悪い場所」を嫌う作家は、普通に海外で活動するか、さもなければ異端扱いを受け当時の美術界から完全無視されながら若冲みたいに、個々人で活動する。裏を返せば、日本美術界に堅固な腐敗と役得があればこそ、浄化された独創性が外部者の中に次々生じうるともいえる。腐敗は腐敗だが。
 印象派はサロン(公募展)という腐敗した業界に排除された若手の集まりだったし、五浦派も欧米模倣の芸大から排除された若手の集まりだった。日本画壇がその後、日本政府と癒着し、既得権益化し腐敗してしまったとしても、当時、腐った業界があり反発する純真な若者がいるのは、西洋でも同じだ。

遺伝子組み換え食物は米某企業の利権

遺伝子組み換え安全厨(某メンタリスト)は堤未果『(株)貧困大国アメリカ』読んだら非科学的と一蹴するのだろうか?

反証は真理の保証ではない

反証主義は科学哲学の一つの考え方であり、自説の反対証明が不十分なら単に程あれ誤りを含む仮説を唱えてしまう可能性が高い。反証自体が無限なので、自説に反するデータを探し続ける限り永遠に正しいといえず、どの自説も公表できないからだ。つまり自分で不可能な反証過程を外部化するのが自説発表。

2019年4月12日

美術とサブカルの境界線を崩すと下衆が蛮行してくる

あいトリモブの一人だった、いきなり誹謗してきた人のアカウントを追ってみた。北海道かどこかの無職のおばさんで、本当に愚にもつかない日常をツイートしていて、性格の悪い人物みたい。そういう取るに足りない人が、美術のことなんて何も知らずに、いきなりきて誹謗して逃げているらしい。結局、美術(ファインアート)クラスターは本来、知識人と親和性の高い分野だから基本的礼儀をわきまえた程度の人しかいなかったというか、モブとすみわけていたが、あいトリ2019のキュレーションがその壁をぶち壊し明らかにマンガ・アニメ・政治クラスター等の完全素人の愚物を招き入れているらしい。
 やはり自分が指摘したよう東浩紀一派(東スクール)が、村上隆スーパーフラット理論や動物化ポストモダン論の延長上で、美術とサブカルチャーの境界崩ししていて、実質的にその刺客として津田大介氏が機能しているのだろう。自分はたまたま通り一遍の批評をブログとツイッターにのせてて巻き込まれた。美術自体ではなく性別比1:1に強制するとかいう小学校学級会レベルの低次元な紛糾に煽られてよってきてる愚民なんて、知的水準からいえば最初から本当に構う価値もない連中だった。まさか東京サブカル勢(東一派)と迎合的愛知県の力関係という背景事情があるとまでは洞察できず、被害にあったのだ。サブカル・政治・報道クラスターが美術批評なんて寸分も理解しないのは当たり前だったのに、自分はそれに気づかず、普通の美術展と同質の月並み論評をのせてたから、津田氏の返信にぶらさがるモブに体当たりされたのだ。
 一週間くらい時間無駄にした。無視すればよかった。報道関係者なんて最初から三文判みたいなもんだな。
 もう死んでも記者だの報道関係者には関わるまい。
 そもそも「欧米思潮であるフェミニズムを(日本は女性の幸福度が男性より世界一高い、男性の自殺率が女性の2倍以上等の国内の文脈を無視し)直輸入するのは、西洋画(洋画)と似た文脈をもっている」と、有体な美術論しただけで、衆愚(論旨を理解していない)から様々な誹謗受けるって信じられない。クラシックのコンサートに、モッシュがどうとかいってるパンクロックじみたモブを連れてきて顰蹙買ってるみたいな話でしょ。「アファーマティブアクション」とか横文字使って、無関係な作家になれなれしく話しかけるや中傷はじめる馬鹿までいるし。スーパーフラットって本当に迷惑で有害な理論だな。確か村上隆がヴェルサイユで展覧会した時も抗議のデモ見たな。あれも同じ様な被害受けた人がいたんだろうな。

ゆとり機械

入学と就職葬式ゆとり機械

食べるのは性を含め精力をつけるため

さっき生まれてはじめて食べる意味がわかった。たべまくると元気が出るということらしい。今まで知らなかった。いつも母親から過剰に量だされて食べるの辛い辛いと思って嫌いだった。
 結局、食、性、睡眠等の基礎的欲求を十分満たす為にたべていたのか、他の人達。
 35年間、全くたべる意味がわからなかった。が、渋沢栄一の逸話で精力絶倫と書いてあって、性欲と食欲が近接しているのかなと考えながら、元気なかったからとにかくあったものをたべまくったら、なぜか知らないが意味が完全にわかった。もっと早く気づいていれば、精力的に生きる為もっとたべたんだが。とにかく子供の頃から母親からもっとたべろたべろといわれて、たべたくもないのにしょうがなくたべていたから、食事する意味が何もわからないままそうしてきたのだが、精力的に生きる、しかも性を肯定して生きる、という目的があると最初から教えてもらってたらわかったのに。
 今日から私は別人です。
 そもそも性を肯定するという考えが全く思い浮かばなかった。渋沢栄一の逸話のおかげで完全に理解できた。学校ってほんと本質は何も学べないね。多重コピーだから色んなものが劣化しまくってる上に、元の学習先そのものが愚かなんだろうな。自分の力で学ばないと何も知れない。

人の性格を見抜ければ社会で道を誤らない

やっぱり某サイコパス女について思い出すだけで吐き気してくる。よほど相性が悪いに違いない。ある人の言動を見るだけで吐き気が止まらなくなるほど醜いって、この世で2人しかみたことがない。一人は某女性作家、もう一人はあるサイコパス女だった。
 心の醜さって、何らかの悪徳や悪意が結晶したもので、しかも野蛮さに限りなく近い何かだ。それをみるだけで吐き気が止まらなくなるほど醜悪で、とにかく卑しさを極端にしたものだ。世人はまず人を見た目でしかみていないらしく、心の姿を感知していない。ところが自分はまず心からみる。だから一度も見た目を見たことがない人とでも長い間つきあっているし、それで何の痛痒も、不都合も感じない。そして自分からみて醜悪なのは、そのあるサイコパスの心の質だ。漫画家は女の外見だけ描いているから内面を殆ど描写できていない。それは実に皮相な見方だ。特にオタクらは性的価値としてしか女体を評価していない。人として重要なのは心なのだから、その価値の高下を何らかの形で批評する作品がよい作品といえるだろう。見た目がどうあれ中身が腐っていたらそれは腐っている。人も同じだ。中身が腐っている人間で、見た目だけ着飾っている時、余計心の醜悪さが際立ってみえてくる。逆に見た目が地味でも心が輝いていたらその人は尊敬すべき貴人に見えるはずだ。俗人の世界では逆なのかもしれないが。
 聖書がいうとおり、若さに相応している見た目の美は失われるが、心の美は失われない。だから貞徳を磨くべきだと書いてあるが、実際、心のうつくしさのゆえに尊ばれている人がいれば、その人にとって加齢は恐怖よりむしろ成熟の目安になるだろう。人徳は容貌より高齢化社会にとって重要な価値なのだ。
 性格の悪さは、知能の一種の質の低さなので、あたまの悪さの一種ともいえる。ところが性悪自身はこのことに気づかない。賢愚は単純な人の中では何らかの学校の試験の結果、IQ、もっと単純に競争試験の入試結果などという風に矮小化されている傾向にある。だから性悪が自称賢い場合も、非常によくある。性格が極めて悪い人は結婚市場では不人気なので、離婚するか独身のままになり易いとして、この種の性悪は対人関係知能が低いといえるだろう。だから賢愚は一律化できないのである。一流大卒だろうとIQが150近かろうと物理学の権威だろうと、性悪は当然存在し、それはおろかさの一種なのである。逆に、私がしるかぎり自閉症でIQが知的障害付近だろうと、性格がとてもよいという人がいる。この人は性格的知能、対人関係知能の一部において、一般人より遥かに賢いのだ。一体、人間関係でどうふるまえばうまくいくのかを注意深く学んだ結果かもしれないし、生まれつき共感的で性善なのかもしれない。共感的知能とか相手の立場にたって物を考える能力は、しばしばIQと正相関し易いといわれることがある。だからリベラルなほど高IQな傾向があると。だが現実には全てがその通りになっていない。そもそもIQは論理的思考力の精神年齢が同年代より若干高いという程の代物で、性格的知能と関係ないのである。IQと共感性に擬似相関がみられる原因は、論理的な類推力によって相手の置かれている文脈を読み取れる場合があるとか、主として教育の中で対人経験をより早く他人から学び易いといった別の側面があるだろう。それでIQと共感性には、基本的に因果関係はない。共感に由来した性格のよさも同じだ。
 結局、人として社会生活を営むに際し、対人関係知能の中で性格のよしあしがきわめて重要になるので、この点で非常に劣っている人間、或いはもともと良心の欠如したサイコパスなどの場合、その種の愚によって人間関係から幸福を得られないとしてもなんら不思議はなく、その他の賢さと関係もないのだ。そもそも性格のよさは社会適応の為に作られた心の働きだろうから、もともと典型的な既存科学の履修を主とした昨今の学業成績ではかれないが、対人関係で幸福を得るため最も必要な特性だ。だから甚だしい性悪をみると我々は実に気分を害するのであり、その人が大金持ちでも美人でも、変わらないのだ。
 性悪は社会に有害な影響をもたらすと予想されるからだし、実際に自分が被害にあう可能性も十分に見通せるし、しかもこの悪性者が力をもっていたり、見た目だけ優れていたりすれば、余計多くの人々を騙せるので悪疫が甚だしくなる。私が吐き気がする程その種の性悪に嫌悪を覚えるのは全く社会的反応だ。世人は性悪に簡単に騙され、金を貪られ、地位を奪われ、名誉を与えてしまう。彼らは肩書きや見た目といった外形しか見れないからだ。それで性悪達から悉く利用され、使いにされ、時には冤罪にかけられ自死に追い込まれていたりする。私はその現場をみてきたし被害にもあったから、余計、気分が悪い。
 心の価値、性格のよしあし、対人関係知能の質、いわゆる人徳を見通せる者でなければ、社会の中で幸福を得ることもむずかしい。また高い地位にふさわしくない悪性者を就けてしまう甚だしい公害を避ける為にも、私程一般人は人徳を見抜けないのだから、私のよう敏感に心を察知する者の意見を聴くがいい。

修行

勝ち負けで殺されて行く人類
下らない女が下らない男に発情する下衆な姿
会社員が群れながら無職を差別しまくる
自称賢い学歴馬鹿が蛮行三昧
邪教祖にたかる衆愚
金に魂を売った豚
小学生のふりをし愚民を洗脳する右翼
宇宙から見ればけし粒大の星の上で
一体こいつらは何をしている
死ぬまで必死で踊り狂い
他人を傷つけ搾取し虐げながら
偽りの誇りを得る為うそばかりつく
サイコパス、ダークトライアド、極悪人
この世に溢れた人類の尊さを拾う為に歩いて行く

お札の富士なら大観の『群青富士』がよい

北斎がいい絵と思ったこと先ず1回もない。特に『神奈川沖浪裏』は欧米人のオリエンタリズムの目に適ってるだけで、はっきりいって駄作だと思う。なぜ欧米人に評価されたらお札の裏面になんてするのか。本当にいい絵だと思ってやっているのか。『神奈川沖浪裏』は波の表現が大げさでわざとらしく、構図も人工的で嘘っぽいし、富士山もいかにもとってつけたよう遠景に配置するなど全体として演技じみていて自然さが微塵もない。当人は劇的表現の為にデフォルメしまくった末にああした様だが、自分は何も感動できない。嘘ついてどうすると思う。
 欧米人の中でも馬鹿な部類の人間が、日本といえばゲイシャ、フジヤマ、異国情緒のする奇妙な世界だと思っているだけの絵が『神奈川沖浪裏』だ。オリエンタリズムに媚を入れる。そんな下衆な文化的態度でいいと思ってるのか、日本政府。自国の誇りはないのか。純粋に欧米よりよい絵なら沢山あると思う。
 自分が浮世絵(浮世絵自体が庶民向けの、分かり易い低俗表現なのは確かだが)で一番いいと思うのは広重『隅田川水神の森真崎』。以前これを流用して色変えた作品作った。未発表だったから今のせる(『筑波山』)。同じ浮世絵でも、『隅田川水神の森真崎』と『神奈川沖浪裏』は全く表現の質が違い、自分が見る限り前者は近景遠景の表現も正統的で非常に美しく自然な上に主題になっている筑波山自体も美的に描かれているが、後者は富士も波も人も全部作り物で嘘臭く、何もよいところがないといってもいい。
『神奈川沖浪裏』が名作といっている人は何も見ていないのではないかと思う。自分は何度もいうが駄作でしかないと思っているし、実際にそうだろう。浮世絵はもっとまじめでしっかりとした表現のものも沢山ある。この作品はただの悪ふざけの部類であり、漫画的表現でしかないのだ。北斎『神奈川沖浪裏』のパロディとして、自分は『茨城沖浪裏』を去年というか数ヶ月くらい前に描いた。抽象的な理想画表現で波の表情やその感覚だけを抽出した。しかしこれは北斎の表現が不完全だからこうしたのだ。北斎はわざとらしく人形とか小船、(いかにも外人好みの)戯画化した富士、明らかに現実の形ではないデフォルメした波などを配置し、人形遊びじみた漫画を描いた。がここで本当に描かれるべきなのは波自体のもつ力、迫力、温度、飛沫の香りや激しさではないかと思う。だから自分はそれだけを抽出した。
 お札のデザインを政府の誰が決めてるのかさっぱり知らないけど、外人に媚び駄作をお札にするとか、本当に絵をなめてるのではないかと思う。幾ら世界中の外人がこの『神奈川沖浪裏』がフジヤマ、ジャパンといってきても、「は?」としかいいようがないのだが。「こんななわけないでしょ」で終わりだ。まあしいてよい点というか計算高く構図が考えられていて、波の崩れる先に富士を配置したり、波のカーブ・雲・船などが円弧で同じ波にかかる、いわゆる視線誘導の工夫があるのはわかるけど、これは本当に初心者的なもので、そこらの予備校で習うレベルの話だから「で?」で終わりなのだが。
 政府の中に(自文化中心主義にふける京都文化庁も含め)ろくに絵画芸術の研究してる人がいないということはこの作品選んでる時点で確かとおもうけど、それじゃあちゃんとした専門家(いわゆる芸大なんちゃらの肩書きとかではなく)に依頼して欲しいと思うのだが。お札。日本として二流の設計なので。まあいってみれば、本当に一流の設計になっていたら、私が見た瞬間に「これは素晴らしい」となるわけで、他の人もきっとなる。そうなってないというのは美的にみて二流三流のできばえなわけだ。しかも貧者の一灯をさらに薄める目的含めてアベノミクス清算増刷なので、デザインくらいこだわって欲しい。
 お札のデザインなんてどうでもいいと思うかもしれないが、そんでキャッシュレスの電子通貨にきりかわるとしても、文化的産物としては半永久的に歴史に残るんだから、本気で設計し、全人類に向け未来永劫、誇りを持てる代物にすべきと思うのだが。本気でデザインして北斎です、『神奈川沖浪裏』が外人の評価が高いので。配置しました。オリエンタリズムな日本像にぴったりですと。だからあなたの税金増刷これで納得でしょ? と。私はそもそも北斎が下らなくて好きじゃないし、当該作品も駄作と思う上に外人評価が主とか二重三重に気に入らない。
 よく考えてみて欲しい。浮世絵って今で言えば漫画であって、いわゆる日本画としては正統的なものではない。庶民が包み紙にしていたものだ。それを行き詰っていた後期印象派のパリ人だかが状況打開の為に、デフォルメの模倣先にしていました。だから日本人で認められた絵と。それは自国の文脈じゃない。日本政府はなぜ格式の高い日本画表現が沢山あるというのに、敢えて庶民による庶民の為のばかでもわかる浮世絵の中でも、しかもフランスの後期印象派の人らによってフランスの美術文化の参照先としてのみ評価されたという文脈にある作品を、敢えて今、お札の裏面にするのでしょう? 考えてるのですか? 外人に媚を売ると。それは既に下品な振る舞いといえましょうが、おもてなしが裏返って今度は外国人主導ですと。フランス人がフランス美術の為に褒めたら、日本の美術批評の文脈無視で、こっちが傑作ってことにしますと。明らかにこれはおかしいと思います。誇りある国の態度とはいいがたいと思います。葛飾北斎という人が現実にどういう人だったか私は直接会ってないからわかりません。しかし『神奈川沖浪裏』を見る限り、まあ俗受け狙って下らない要素を沢山込めてるのはわかるので、実に低俗なところがありますよ。その精神に誇りを感じるかといえば、商業のために実にご苦労なこったとしかいえない。まあこういってはなんですが、町人の中で起きた商業大衆美術の運動が浮世絵とか春画とかだったわけで、そこに高貴なる精神があったかといえば、あまりそうともいいがたい。売れなきゃ直ぐ廃棄みたいな安っぽい版画で、ゴミ扱いされていたと。新たな印刷美術として安価に大量生産できたのは分かるけど。『富嶽三十六景』『名所江戸百景』。風景画のシリーズとして、私が今あげた2つの作品が含まれている。ポップアートとか印象派と比較して、版画による風景画を大量生産していた、大衆美術としての先駆性があると。意味はわかるんだけど、じゃあ純粋美術は? となるわけだ。やはり低俗な国なの? と。
 ではあなたは何をお札にデザインするつもりなのですかと。私は大観の富士『群青富士』がいいと思います。近代日本画は、明治の衝撃の中で欧米美術に対抗し、朦朧体から琳派へと日本独自の表現を模索していた天心の弟子たち(五浦派)に始まり、現代日本画まで命脈がつながっている。その最高峰がこの作品であって、大観は初代の文化勲章受章者ですが、様々な表現を探求した中で、最終的には象徴化された富士の、装飾的表現にたどり着いたと。その最高傑作がこの『群青富士』であって、シンプルな絵に見えるが一見して富士と分かる上に、ひときわ高い崇高な日本精神を表していると。確かに富士という主題は、日本文化の中でも最古の『竹取物語』の最後に出てくるところから、遥かに時代を経て大観、そして現代人まで日本で最も高い山としてまあ外人がいうとおり、象徴として仰がれてきたと。その主題は北斎も扱っていたけど、同じ主題でも、大観は比類がないのではないかと思うけど。
 寧ろなぜ富士をお札の絵として選ぶのに、大観以外から選ぶのかがわからない。北斎の富士の扱い方は、完全に戯画的な遠景として神奈川の位置を点景として示す脇役だけれど、大観のそれは一つの主役で、しかも日本精神の象徴としての扱いである。実作みたけど、これは日本美術では一つの最終形態です。まあ『神奈川沖浪裏』は色々余計な要素が入っていて、一体何が言いたいのですかと分かりづらい。驚かせたいの? 波の怖さ? 何? って感じだが、『群青富士』は無駄が極限までそぎ落とされ富士の崇高さ以外何も示されていない。しかも金以外の背景もなく、一見して崇厳さが伝わる。絵の質が違うと。
 日本政府が私がここで言ってることを読むかどうかわからないが、ほんとちゃんと絵を選んだらいいと思う。外人は北斎みて、アメリカでいえばキャンベルスープ缶とかフランスでいえばムーランドラギャレットみたいなイメージでオリエンタリズム強化する一方で、日本人が猿回しの猿になるだけと思う。しかし改めてみてもこの大観の『群青富士』はとても素晴らしい作品だから、みなも実作見た方がいいと思う。前、国立博物館で見たけど、これより典型的に日本美術を象徴化している作品というのも先ずみあたらない。正統中の正統というべきでしょう。琳派までの全日本画の要素を完全に昇華している。私が現物を見たのは『群青富士』とよく似た『雲中富士図屏風』だった。でも『群青富士』の方がよりよく抽象化されてる様にも思う。