2019年4月13日

日本の美術批評は業界人の出来レース

茂木健一郎氏が「現代美術と批評は切っても切り離せない」といっていたけど、これは欧米美術の話で、日本にその種の美術批評は無い。あるのは仲間内での出来レース的な、同業組合間の政権闘争で、『美術手帳』という雑誌を中心として人気を捏造する運動と、日本芸術院を頂点とする公募展団体しかない。日本の美術界は欧米とは全く違っていて、サブカル批評会みたいな異端なのはある(東一派)けど、いわゆる美術批評という言論界はない。美術手帳にのってる批評の質は欧米の後追いで、日本機軸に考えられていないから、批評と制作の無限連環の様な欧米的なしくみにはなっていないのだ。では欧米美術が公平な世界なのですかというと全くそうではなくて、むしろ日本よりはっきりルール破りが合理化される歴史の積み重ねで、異種格闘技戦みたいになっており、しかもルール自体が頻繁に変更される。日本のよう根回し一本でなく理屈で横槍とか場外から違法行為で割り込むなど何でもありだ。
 要するに日本人は単純に卑怯(別の言い方をすれば狡猾)だが欧米人は甚だそうなだけでやっていることは変わらない。権威づけのため巧妙な理屈をつけている、という欧米ルールの格闘に近いほど知能の高い人物が日本側に殆どいない(村上隆氏くらい)だけで、別に日本と欧米で土俵が違うわけではない。日本で『松林図屏風』を描いてた等伯が、西洋の風景画家と全く違う文脈にいたとしても、独創性の点で隔絶した意味をもっているよう、絵の土俵は普遍的なのだ。現代美術を欧米基準に考える、欧米中心主義が近代の教義に過ぎないのであり、ある表現を裏付ける論理的構成は必須要素ではない。日本の美術界が欧米と違う、論理的秩序がない、根回しほぼ100%で客観的実力が加味されない、保守的で進歩や革新は異端として排斥される、あるいは東京圏など大都市でサブカルチャーがハイカルチャーよりでかい面をしている、これら自体は単に文化的な差があるだけだ。泥中の蓮が日本画だ。この淀み、「悪い場所」を嫌う作家は、普通に海外で活動するか、さもなければ異端扱いを受け当時の美術界から完全無視されながら若冲みたいに、個々人で活動する。裏を返せば、日本美術界に堅固な腐敗と役得があればこそ、浄化された独創性が外部者の中に次々生じうるともいえる。腐敗は腐敗だが。
 印象派はサロン(公募展)という腐敗した業界に排除された若手の集まりだったし、五浦派も欧米模倣の芸大から排除された若手の集まりだった。日本画壇がその後、日本政府と癒着し、既得権益化し腐敗してしまったとしても、当時、腐った業界があり反発する純真な若者がいるのは、西洋でも同じだ。