2010年1月31日

数学

人類がやり取りをする訳は彼らの思考内容の取引ゆえ、最も抽象化されたそれは数値か数式に戻る。代数計算の形式以外に、少なくとも数論より細かい微分方針を知らない段階ではやむを得ない。
 故に思考の省力が全数学の命題。論理学の成果も同じ。

 造り数学は一定の公式を多くする。そこで、意味論が数学化される。意味論がない侭では多くの公式はこまやかにされない。
 造り数学は全やり取りへと算式数学の成果をおしひろげる。この形式は文面内のくみかえで改められた口語を造る。且その最良の算法を自らへ組み上げ続ける。
 思考の原則は単位重畳さではかれ、∴この言語内図式の積算が造型数学の目当て。単位重畳さは語学によれば字画の最短\意味論の値と示せる。→意味論が要る。
 もし造型数学の実態を、引用を除く字画対単位重畳さの複合にとればそれは意味論を順列規則の汎用性ではかる最もの基礎。この意味論は任意の公理を樹立する特定主観をより合理づけうる。造型数学は論理の順列を数列にとって最短の趣へ導く。∴思考は最短のやり取りに最大の意味論の成果を込め得。
 もし数え数学内にあった幾つもの公理系をはじめに発見したひとりを無意識の造型数学者とよべば彼らは少ない記号種の最短のやり取り内でそれを為していた。がひとたび造型数理が認知されるに至れば算術論は途端に自動化されうると理解できる。そもそも、数理の最短さは算術論理の内にあった原則で言い及ばされなかったのみ。→記号論理の置きかえは思考法則へ一定の最良さを保つ。

人類生物学

情緒を原始段階の発生史の名残りだと考えた者は、全く感情生活のない世界を想像するに及ばなかった。しかし、もし情緒が同等に個体発生史にくりこまれる特定の反応確率だと定義すると、この圧縮は起こるべくして起こる。感情生活の畳み込みは特に保護が必要な幼児期に、人類含む哺乳類には著しい。理知は協力か競争の形質としてはじめは求められたらしいが、次第に生態内の日用表現にも支配的となりだした。そして後期人類については、情緒圧縮が社会内猶予の間へ広げられた。つまり個体発生史の想像できる正道を逸れて、脱現代系の文明では変種への引き金が見つかる。それは感情能力が成人以後にすら延長されていく傾向。だが、当然ながらこの傾きはきわめて希な僻地の条件にまつわる遺伝の特異化にすぎないと思える。もし人類が自体の全体系を保守するつもりで、この為に自種の持続にあらゆる手を尽くせば正統の進化は当然ながら上述の情緒圧縮を徹底していくだろう。幼ながた化に伴い文明系適応への必要学習量が膨大となる適所についてのみ、この流れとは違う種類への移りゆきが入り込みつつある。
 ゆえ後期人類の中からは進んだ理知の大多数と、情緒の延長を決定的とした変種とが別れてくる。もし一般生物学の法則をその侭この場合へも引けるなら、変種の方は限られた適所で旧態の温存を司るべくして希に生き延びるだろう。そして常に勝利を収めた種類の最大多岐への分化という一般進化論の原則と同じく、人類以上への未知の生態学的変異は理知への機能強化を徹底した系統のその又一種から生まれるだろう。

2010年1月30日

地球生態学

S=Ap log eの文化対数は、それが自然対数の比喩だと解釈すれば次の考えを持ち来る。自然文化は人工社会のみでなく、最低限でも地球規模での生態の時間比例であり、底を地帯生産性にみれば雨量と高温の掛け算に、またこれを地味と解釈すると宇宙の中身は次第に場所反応毎に片寄り続ける宿命にある。要するに、この自然指数の法則は場所勘か場所認知へ決して矛盾を起こさない。その意味で熱反応の全体は一定の規則に習って運動する。仕事量は決して自然対数と矛盾する方向へは動いて行かないと定義できる。
 図式で考えた宇宙の場所はその規模が人間的なら誤りなく、過大か過小で観測範囲外ならそれだけの基礎条件の変形に関してこの自然指数反応をおよそに逆らわない。もしこの逆反応が時たまみられても、それは熱的可逆の文明系の中にくりこまれる。
 全宇宙の中で最も繁栄するのは地味豊かな条件下で、その偏りは時間内で急速に広がり続ける向きへ進む。地球生態は多様化のみを一様に目指すわけではないこと、つまり場所柄では自然反応と対比できる人工か生物の熱的反抗がみられないか、元々みる方向を目指さない生態適所が幾つもある。
 この知識は、弱肉強食の秩序が決して自然界の基礎ではなくそれは最も競争心に特徴ある一系統の適所であること、直ちに、共生については個体毎の縄張りが強い為その方向付けが起こりづらいことを悟らせる。生き残り丈を理由とすれば生態適所には数かぎりない隙間が用意されていて、どの一系統が退歩的だと述べるのは時間直観の究極延が見渡せぬ脳容積のかぎられた全生命秩序には偽。恐らく生態系は多岐の分かれをよしとし、膠着や安寧の位を一生態内では永久に完結させない。この訳は、自然指数の間に熱反応の移りゆきを出来るだけ多産させようとする計画は、自体がとても趣よきものだからだ。もし趣という借用された語彙がもと理念語にすぎないと反駁するなら、この用語を生態学識にかぎっては趣好と所謂生物学の中にみつかるえり好みの全体像について宛てられる。趣好のよさ或いは単に趣好の度はそれが合理的な比例、この天晴れ等しい自然指数に綿密にかなう一定の先行きを保っているところにみつかる。なぜ世界に黄金比が見つかるのか、この疑問は我々が自然生態にも決して偶然だけでない工夫が仕組まれてきたのだと恐らく自らの系統に含まれきた同一の秩序反応を内にみて気づくところにある。その精華は地球が置かれた生態環境、およそ潮汐を原理とした太陽と月の周期への適応が、我々の中に同数のくりかえしを韻律しその最も基本となる定常値に(1±√5)/2という両方の地球への影響割合として教えてきた。黄金比は地球の生態学環境が生み出せた恐らく最も趣好の高い定率だった。この為、気づくと否とに関わらずこの無理数の比率は表現にみた地球型秩序に類比できる割り当て。
 宇宙の無辺さはほぼ似た比率を基調とする生態をどこかの星間へたしかに宿している。ゆえ天体経済面から鑑み、ほぼ同位種といえそうな生態系との折衝はつねに文化間化学反応の何らかの副作用や特別な強壮化または太陽系の近くでは類比の少なさからおよそ希ながら隣接文化参照の反作用の程度あれ成功し、真逆であるほど難しいか結局不能。

茨の道

自称オバマジョリティの衆愚どもが
弱者を最強の兵器で殺しまくる勝ち組ワールドだ
僕は何をするにも億劫で
今更ミスチルなんて聴いてる女が知れない
似た様な趣旨のなんだかという二世が
今度はつわものの足を引っ張る歌で大盛況
チャラい江戸くずれがあふれかえる街
なにも分かってない教師と親が再生産する地獄
僕はまだ誰もいない岬の
静かな潮騒の力で少しずつ削りとられていく
いまにも消えいりそうな物語の足どりを
ひたすら追い続ける
ただ一直線の茨の道を行く
走る自分のこの血痕がみな渇いたあとで
みながようやく感づいた頃にはどうせ
なにもかも元通りだろうと

欅道

車かな次々あつまる駐車場
井の中にたつる標ぞもへじ像
枯れた日も禽の寝床か欅道
鮮やかな海はきこゆる初日の出
粛々と流れのまゝに古川や

王座

生物学向け裸の図鑑集は取り締まるが
やくざが国中で撮った姦淫犯罪映像で儲けるのは黙認
ん? 南蛮虫都民でしょ
猥褻スポーツ奨励の

どうせ繁殖活動しかできない
生きている価値のない
大穢土民のやることなぞ
本気にするなよ

腐りきった残飯教師は
便所飯しか食えない
どこに入ろうがね
そして無趣味な空威張りで

法を悪用し
民衆を見下し
辺りじゅう悪風俗ビルだらけにして逮捕の偽善劇場を撒く
出来レースの淫本王座に居直る芥川賞受賞者先生は

語学

文章の順列法則は語学か言葉の知識にとってかなり本質的。文章は少なくとも、書道にあってさえ口語と文語との間になりたち、この法則は古語となったほぼ使われていない用語集の中で観測できる一定量を常にもつ。
松島よひねもすのたりのたり哉
この短い例文の中で現役で使われている用語と用法に関わらず、重畳性(単位順列の執れる複雑さ)とここに介在する手法をときあかした学識はやはり法則性をもつ。語学的にはこれを重複性・repeativityとなづけていい。例えば「助詞ノよ」と「副詞ノ冒頭句ひ」の間に特別な因果関係がないとすると、それらのもつ分類の適切さは1通り×1通りで1重複。ところが「副詞ノひねもす」は順列で4permutation4→4×3×2×1=24通りある内の4つ並びなので4\24=6重複をもつ。「副詞カ動詞ノのたりのたり」の場合は、のたりの連続語かつ、上述の順列計算に倣い
(3p3÷3)×(〃)=(3・2・1÷3)(〃)=2×2
⇒4重複
となり、ヒネモスの句よりも重複さは低い。つまりくりかえしが使われる程その単位順列にみる複雑さは一定の比例で低まる。このルールは
((XpX)÷Y)log e‥重複比例
X: 文字長さの未知数
Y: 品詞単位長さの未知数
e: 自然対数
の値で増減する。ゆえプログラム言語で既存辞書の機能にくみこめば、重複さという使われてきた言葉の、少なくともこの手順のみでの単語中の複雑さを分析できる。
 この手順を有限回くりかえし、作品とされる文章全体の計測によっては、かなり客観的に或いは平均した語彙の流暢さの中でその読み方の難易度が想像できる最も単純な統計指標でだが表示できる様になる。
 音読みと訓読みの問題は次の手順で解決できる。もし重複比をrepeativity orderの略でreoと書くと、
漢字数reo仮名数⇔XreoY⇔
つまり、「形容動詞カ終助詞ノ哉」と「名詞ノ松島」についていえば
 哉は漢字1文字reo仮名2文字→1reo2、重複さは1p1÷1=1、元となる重複比例は自然対数の底なので、累乗根計算に還元して、1×1√2≒1×1.414
⇒1.4重複比
この値を口語単位な重複さにかえればいい(重複比は文語用の付加できる演算子)。
 松島も同様に、
2reo4∧reo
=2p2÷2
=1∴2reo4
=2×1√4
=2×2
⇒4重複比
 字学についていえば、字毎の重複さは無駄も入り込みがちな2ビット演算のみでなく、同様によりたやすいものとして日用に卸せる。画数を使う方法。
重複さ÷画数%=重複率
この単純な手順で、文字毎の複雑さを今より精確に数値で図式化できる。

2010年1月29日

数学

造り数学は論理作用に数列の無秩序さを一定幅でもちこむ。造型と呼ぶのはこれが算術とは違う系列でしか処理できないから。「侖言と言侖、及び論」の例えは造型数理の基本原則の解説用に使える。これらを任意の公理系内で自由に処理できる様に体系を造ることを造型数学と呼べるので。又この記号づくりの基礎法則は書の範囲に無限の可塑性がある条件を一定の正方形か四辺形内でのビット数を視認可能に調節することで可。造り数学自体は既存の公理系を含む。ゆえ数え数学自体は消え去らず、その法則素となって残る。しかし広域に亙る造型数理の元では、法則量の面からこの系列は原始的とみなせる。
 直には、言を生じさせているビットマップを半数か三分割の片へつくりおき、任意の順列規則に配列できる計画が要る。又この言内には口のマップが含まれ、その細分化を可能にす。同様に、最小限の処理機構をビットマップ内での点か線の処理機構に還していく内に数列の現れる公理系を算術計画外に据え置くのが合理とみなせる。ゆえこの造型数理を別項とし、更にこの計画を歴史ながらにみて造り数学分野への発展とみなせる。たとえば全語学は当然この分野に入る。数列規則の処理で可能な全代数法則はすべてオートマトンの処理性能向上(各演算素子の小型にした積載並列で)で短い時間に代替可能になる。
 これらは脳可塑性は単位時間内の表現数列に還元できると示す。自動化の平原をみれば、それは仕事をなくせる。仕事なき精神は、資本制度内では貴族制度と同じ発展系列でのみ伝播する彼らが認識できる世界法則の界隈を証明論の多岐に亙るまことしさに観るが、なおこの理解を超えない。数列化としてみると、理解の系統は仕事量の省略を活動の重複さに鑑みれるのみ。これは全生態を含む。ゆえ生物のみならず社会機械は実現している。全生態はこの数理を世界法則内へくりいれるしくみのみ。

2010年1月28日

宇宙物理学

光流率c4/πを記号で洸、コウ、きらめきと示すと、
宇宙定数Λ=4πGρ/c2=1/r2から
Λ=4πGρc2/洸=1/r2‥宇宙半径式

が導ける。r2は宇宙半径の比喩であり、もしこの値に擬似面積用のπを編入すると、
4Gρc2/洸‥宇宙面積式
c: 光速の規定条件つまり引力場の大きさがρ: 空間密度を定数比で拘束する。花火効果から光速は大きな引力場でより速いので、同一面積の宇宙では空間密度は洸きに対して2の累乗根分の縮まりをとる。よって比べれば七夕系は隣接宇宙では最も急速な十五夜系よりも空間密度は明らかに低い。

数学

人類の生態学は生物学の分れた枝のみ。ゆえ数学的にはこの枝を生物学内で処理できる。
 語るべき内容を数学自身に求めるのは十分でなく、科学の完成には処理言語に発祥のばらつきが見つかる。しかし、表現の芸術性といった装いの次第とは別に、全学識は知識体系としては厳密化を単語処理の重畳化にまとめられる。ゆえ論理学の方法は、解析の結果を入れて全ての科学の記号数列化に最も貢献できる。科学処理は計画化できる。そしてこの組織は自動で、ある程度の表現形式への変換ばらつきとは別に普遍性の相当高い中身かやわ品として科学計画を自律運営できると示す。単なる翻訳の微調整を除けば、全科学作業は倫理哲学により生成される生態学識の瑣末なくみかえも込めてこの母集合に属することになる。科学計画はもし政府に管理されない侭で進めば各民族の垣根を払うに十分。
 科学計画の外づけは各個の学習速度を高める。ゆえこの計画は先ず大幅に社会生態の合理化を進める。次に集団教育組織を廃止か撤去する。最後に順位制を学習によってでなくそれを含む才能で行わせる。

文明の精神

文明間の精神現象学はどの系外とも成り立つ。現時点で私が知っている最大の枠組みとしての宇宙系間での連帯や包括関係はその止め揚げる弁証法展開を内に秘める。舞台としての文明、はシェークスピアや和辻の考えの中で既にあった。そしてヘーゲルの西洋史中心思想の独断は和辻倫理学の風土論から導かれた役者交替説によって克服されている。色とりどりに、民族毎の役割は彼らのつくりあげるその時代なりの精神によってこなされる。歴史哲学が導ける最高の理念は、民族精神へと昇華された総合経験則そのものだろう。だから一つの世界、という理想は彼らの出自が異なるという条件づけを寧ろ前向きな、できるだけ劇的な展開を誘ない易い役者選びとして尊んでいる。聖書の文面にある絶対民族の否定(バベルの崩壊)はこうして歴史物語として鑑みれば真の悟りだった。彼らが役柄を違えるということは劇場世界論の最も基礎となる案件で、さもないと世界史の筋書きは決して趣深き複雑さをとらない。全く文化の由来や夫々の行動原理が違う世界を民族精神という概念は前提とする。
 国連精神は最も総意に近い民族集成の政治原則を導き出すが、これまで連合国と枢軸国との権力闘争にみられた如きいくつかの連盟に亙る別々の意向をさらに前置きとしてなりたつこの会合の方が、意見の多様さについて或いは手続きの重畳さに関してもいずれのべられた地球精神というべき総意を剛柔併せ持った偉大な常識へ高められる。詰まるところ、ヘーゲル哲学の西洋覇権論をその侭で植民支配の正当化へ援用したアメリカニズムは決して地球型の国連組織にとっても迎合や全面肯定されるべき中枢ではないと言える。国政方略としての米国尊重と単なる強権への無目的な追従とは趣を違える。
 植民地の豊かな土地資源をかえりみた伝統としての孤立主義が米国外交の原則ならば、我々は互いの利益を図る最低限度の商取引の協調をのみこの伝統の持ち前を尊重して行えば宜しい。この友好原則をこえたどの様な協力体制も、決して国家存立の対等さについて反省すれば自明ではない。
 遠い将来の確率でしか語れない先行きたる七夕宇宙外文明系との交渉、並びにこちらは殆ど百年単位で曖昧に千年単位で確実に数えられる天の川銀河系外の文明との折衝はいうまでもなく我々に以前と同じく、生まれ育ちとしての歴史を民族と彼らが造る国家の進退にかけて責務づけている。温故知新の本筋は歴史哲学へと集められるだけ比べても見劣りしないばかりか圧倒的に偉大な祖先の来し方をその来世の世界展開を見通しつつ慮った計画理性について希望している所に待たれる。かくしてイスラムの聖典に印された力強い来世勘定の功徳は、民族精神にみれば一切の国造りの本質だと知れる。
 この様に、過激派に惑わされてイスラム原理主義が滅ぼされるべきだとでも主張し兼ねない米英の知識層は彼らが世界精神は絶対的であるというヘーゲル哲学の粋を十分な根拠もなく自民族中心思想と混同してきた由縁で、如何なる民族にも独自にして唯一回の使命が託されているという世界舞台論の台本意識を欠いてしまっている。先に近代化した国がすべての面で優れているとは限らない。岡倉の高貴な論調に倣えば、核兵器を創った国民は一度も茶の湯の韻律に目覚めなかったし夷狄と組んででも維新を成し遂げた謀略の徒は理想に燃える勤皇の志士を犠牲にしてでも急ぎ足の故なき模倣を望んだのだった。現実についてイスラム教義にみられる来世勘定の絶対精神はそれが精密な英知に基づいて敬われるほど益々より血統の完成度、家格の誇示、行く末は民族創造根本の道である国権の維持計略にとり優位なのだと歴史経験から結論できる。武家伝来の諺に、「大義の勇、匹夫の勇」とある。
 カント哲学の達成である心の不死の形而上的証明は、以前の言葉でいえば臣民の道、現代のそれでは国民の道が神道の伝統精神であることを唯一回の生命経験の内に構想させる。日本の命題に限ってはこの神道を堅持し、且つ想像できる最長の未来に至るまで維持し続ける事こそ最も不可欠な一民族の魂であると考えられる。だがこの魂が完全で完成された不動体であるとはとても言えぬ。国家間の競争環境はそれが相互批判の関係を最高度の善あるいは良識へと導く便宜上の方法であるなら、いわゆる禅の哲学に於ける問答法や助産術、および無用な戦争を忌避するところの平和主義鼓舞を主権間の自己矛盾の証明によって、というのも世界の主権は神の元にあるので、敷衍させる倫理哲学のゆっくりとした効き目等などで浅学者の功名心や博識に勝りたがる自尊心を老獪に傅いてさえ世界の啓蒙を徐々に促す。又以てこの啓蒙の歴史運動は異なるか大幅に違和した文明を跨ぐ国連間でさえも真だろう。永久平和の理想は部分的に、代わる代わるな非戦状態の緩和段階としてしか実現できない。それは永久に同じである。歴史運動の地政的交代劇は当然、彼らに絶えざるか止まざる競争誘因を吹っかける。故に、カントの最も主要な誤りは彼が女々しいか少なからず母権的な理想としか言い難い永久平和をだれもが望んでいるとした、歴史運動の必然性におもいみられるべき政治力学の因果関係を覇権の劇作論へと類推できなかった一種の書斎派の過自重にあった。人格主義の根底にある無条件の歓待は元々学界外では通用しない単なる空想の産物なので、自然の隅々まで探っても決して完璧にはみつけられない。それは完全な教科書論で現実界にない。即ち、悪の理由は絶対精神の否定的契機を人間性の限界に保つこと、批判の余地を一精神の脳可塑性の少しも或いは多くなく偏った系統発生潮流の内へ忍び込ませるという絶対善の到達不可能さにあり、最高の人格は決して神格には到りえない事が彼らの属した動物か機構の文明対数の比較的基礎(宇宙の運動論)に鑑みて明らかだ。条件つき歓待は政治関係の中にのみ成り立ち得、こちらが神格の定義(これは理論的には構想論の無限漸進としてしか捉えきれえないが)含む文面の理想論完遂を除いた一切の社会的正義や適法な社交進捗の現実論であり続け、よってその展開事情への不満は彼らに文明化をより高い学識からの批評誘因で誘なうだろう。まとめてみると、文明化とは歓待条件の好転を来世勘定の合理つまり道徳的啓発で果たし続ける世界内運動なのである。そしてこの目的は社交性つまり付き合い方の高尚さにある。孤立や隠遁の真の法則はそれが宇宙規模での交歓といった現世目的の脱構築を図るところにあった。究極の文明化、もし歓待条件の進化にこれを推し量れば最高度の道徳法則は、当為の域でではあるが無限遠の来世勘定としての神との付き合い(精神論の究極推攘)を合理づける。要するに、自然哲学(今日では科学と呼んでいる体系)と道徳哲学の源は「神学」或いは神話という宗教段階に全く代わりばえがない。それは神話体系という物語の分岐なのだ。
 数理哲学だけはこれらの何者からの学びの系から除かれているのだから、我々が自ら何かを創作したり発明できるのは結局、この数学の文章芸術に於いてだけだろう。しかしそれでも形式についてはそれ以外の一切の、何者かによる創造を借りるしかない。ゆえ数学に記されたできるだけ普くした心配りは唯一の内容知であり、我々は数学公式にしか真実語るべき内容をもたない。語りえないことについての沈黙(純粋理性の背理)は語るべき内容が矛盾した主観論を避けようとする限り数論の厳密化へ協調する文化習慣以外にみつけられないのだから。「鑑」という概念がこれを説明している。現代哲学の驚くべき結論は、計算本能の多元さにしか我々の生殖系統の何か劇作じみた白々しく永らきくみかえにみる魅了はないという事だ。これが我々の知る全言葉使いの本性だ。形式を省けば全道徳界は、法則や現実的折衷を含めて全く生得的合理化力の外に出ないという神知れぬ福徳の言い伝えは、全てを映し込む鏡の世界としての宇宙を魂が得た理解度に限って我々の理想像に曇りなく充てる。イデアか理想を宇宙の鏡たる精神世界に投影した古人は、彼がみていた道徳観を究極の善いわゆる最高善定義にとって漸進的なものとしたとはいえ、また寄り道たる道具化した理念をはじめから趣ない会稽の策と退けて歩を進めた。この点で、先覚の理想論が全体を先導する構想でもあるという神と精神、即ち上智と下愚との恒久的二重構造世像の最も原理的な計画予想の直観点を見逃さず捉えたが故に手比べてみて、孔子に比類する、より優れた理性だったと云える。究極の善は実用主義者つまりプラグマティストが行った社会内個性を絶対視させたがる民主主義の過信を除けば理想論の深さにあり、それは個々にできるだけ長い計画予想に則って現状の趣をとる習慣づけ、いわば深慮の本能を習性化させる様な躾にある。そして群生の中の個性にみた最高善はこのしつけの趣深さを理想通りにしつらえる仕業たる風趣にある。こうして白々と考え直せば、幸福主義のおしつけはありえず、それは一部の適所での風趣に叶うにすぎない。趣味主義論の世代間に最も上品な点はこの押し付けがましさを因果律への啓発によって個性を尊重する自由主義と矛盾なくまとめる様な、機知に関する心の余裕幅を蓄えうる所にある。深さにみる理想の度合いは彼らの文明色を際限なく多様にし、この為に役者交替説の一番の起源ともなる。精神の違いは彼らの未来を趣通りに処理するので、偶然含む業の因果は運命の次元へは全く正確に示されるものだ。

2010年1月27日

米軍施設原案

今までの逐一の経緯から次の事が分析できる。
まず沖縄人の平均意識にみた総意は、遠い将来は半ば考える能力がないので無視し、ともかく危ない基地は外に置きたいという米兵迷惑論である。
 一国民の意見として自分に言えるのは次の事だ。
 先ず米軍の利用価値は我々のみならず東洋の広域に亘る上、建前としての擬似占領状態に彼らをおびき寄せておくことはテロリズムへの事前名分にすら役立っているということ、なおかつ米国からみればそこは職場であり、また多くの派遣兵士の内実は強い符号付けが要る(官僚主義的な)本部に入り込めない雇用志願者だからこれは多民族へ恩義の需要を与える意味では善意なのだ。
そして我々がなぜ米軍の排斥を(ネオナチズムの連中の如く)矢継ぎ早に行わないかといえば高度技術力を温存する為だから、沖縄人の総意は計略知能からいえば取るに足らない。
又、政権内部へある種の迎合用に女を入り込ませておいたところで所詮女脳は理知に決定的に欠けていることはほぼ存在しえない超奇形の突然変異を除く全生態史が教えてきたので、この発情論は見世物としてテレビ局向けにあやす他は内心で無視していい。

これらは、次の理屈を導く。

県外移設案をうまく彼ら自身の口から語らせる様に、マスコミその他の世論を「自重の維持」で五月目前まで続ける中で、もしそれが可能なら沖縄県を最前衛の傘から除外する仕分けはできる。つまり民主主義の理念に則り、主権在民を逆用して沖縄へ高度な施設を差し置く理由は揉み消せる。
もし千年以上放置すれば自然力学のため以前と似た光景に里帰りするだろう珊瑚礁如きとひきかえに自らの命を軽視する結論をひきだした県民は知能の分岐に問題がありこの編入はクラスの進歩にとって害である。
よって県民の主権尊重を方便として、最重要な施設は確かに安心して運営でき、また施設内外への需要喚起にも当然なる関東圏のどこかへ今後一切移設の原則で話を進めるのが合理的である。熱帯模造の擬似施設費も含む。
 大阪府が分設案をもちだしているが、現首長は政権交代時点でも最初に裏切りを表明していた小人物なので信用しなくてよい。かれの行動原則は己らの商利権の追求であり、今回については基地のおこぼれが目当てで中央政権の強化や国民防衛の完遂ではない。よってこの口先さがないかつぎこみ案はやむを得ない設備制作の瑣末な外注にのみ考慮できる。

 他の移設案は、歴史経験上、特に九州や土佐含む西海圏の諸地域は彼らが現政権の維持ではなく自らの地位を目的として外国人がもたらす武器を悪用して生き延びてきた限り、西日本一帯へはただの想像を超え全く不可能である。もしそれを行えば西日本人は危機に及んで必ずや今在る多数の日本人及び本土の占領へ力を借すだろう。

数学

数え数学の自然比例はそれが有限数の整理できる中で慣習的に最も少ない造りを求める。だが抽象比例の目でみると、差延の潜在強さはくりかえせる最も複雑な造りを用いるのを理に叶うと置く。これは自然比例ではできない差延量の図式化を意に任せた造りで多少あれ可能にするから。差延量は記号単位の造り込みかその選ばれた乱雑さへの据え置きによる。つまり有限数の絵解きの数列の内もっとも特定の時間直観により任意の抽象比例の図示に都合のよいと思える記号を、要する情報量の可視できる多さに伴って択んで行くことがこの数学分野での仕事になる。
 比例量に省み、数学内での抽象比例幅は指数関数×指数関数の一般量をもつ。ゆえ既存の数え数学でえられた多くの公理系は失われないか据え置かれ、抽象比例の知識はそこへの指数の加算量に習った付け加えたるのみ。解析幾何学はこの成果に従う。

花笠

賑わいて忍ぶ了いに花笠の消えゆく街のいず遠きを
とおくなる昔の音は墓まいり陸奥のさらに日暮れの鮮やか
シノワズリなみもしらすも侭ひおりのんびりと過ぎる岩村の午あと
さきはいてなきがらの上に花さかす木枯らしなくば誰もそ休まん
ふつ/\とうつろのさまに数まいてさがしにゆけばのこる昔香

武蔵野

僕はガヤガヤと煩い
その通りの小さな席で喋る
気色わるい小人どもの声を分析する
中身はなにもない
喋ることはみんな悪徳の証明書だ
僕は昔ここで見た
何もなかった頃の武蔵野が
最も記憶に焼き付いている
そこは見渡す限り広がった野原だった
艸茫々の
そこにはぽっかりと青白い満月が架かっていた
僕にはその川の奏でる同じ声が聞こえる
僕にはその流れが歌う変わらない匂いを思い出せる
いまとなっては
奈良から出てきた極悪侵略犯がよごし散らす地獄だ

東京人

田舎者としかいえない
どっかの地方から大勢あつまってくる

僕の目には
迷惑かけられてる様にしか
見えない
だが田舎者は
意味不明な劣等感で
軽蔑を送る
なら闘ってみろよ
次々繁殖していくゴミ社畜の群れの中で
奴らの足元を叩き壊してくゲーム
一旦おちれば二度と上がってこれない様
奈落の
底を掘り下げ続ける仕事
東京人と呼ばれているゴミ人間の処理場
飽き飽きするほど続けてきたが
まだ山ほどあつまってくる貴様ら猿の処分に

2010年1月26日

数学

科学言語が数学化されていくのはそれらが厳密さを目指す限りで。そして数式や幾何学の把握によってなせるのは、示すべき任意の比例を記号で短縮するか定式づけること。ゆえ論理学の系の拡張としてのみ全ての数学化はある。言文間の差延という分析哲学からの見方はここにも当たる。数式には、(ライプニッツが普遍数学として夢みた様な)言語の多機能さの全側面の繰り入れを行う事が難しいのは、記号単位としてみた文字あるいは字が、いわば一つ一つ自体の差延可能性を持っているから。ラテン語を元にした(日本語では和に当たる意味の)Sumの変形である∑:シグマや∫:インテグラルは、水流の象形と解くことは今日でもまだできる。つまり全記号は文字たるのみ。この点で、公理系についての記号代数学か記号論理学の西暦二千近年の展開は、一般論理学を重畳性の人間原理について細かく整えて行った仕事だった。自然数は人類が今まで手にしてきた中では一番ととのった記号系列だが、ゼロの概念が入り込んだ時点でそれは形而下的・有形な探索の域を通り過ぎた。よって整数論は記号についての数理を、その応用の幅も含めて少なからず形而上化・無形にした。0:ゼロ記号は自体としてみた時、何も示さないことを示す位どり記数の道具に宛てがわれて生まれたといえるが、数える対象を文字そのものの単位とし直した点に決定性があった。つまり0記号は非対象記号論のはじまり。そしてのちに複素数の分野と一連の抽象数学界を生み出すきっかけとなった。
 数学と呼ばれる全ての体系が任意の公理系と定義し直せることに注意。これは任意でない、無作為な公理系については一定の秩序だった法則はみいだせない証でもある。即ち数論そのものの定義を除けば全ての因果関係の類推(これは一般の論理の演算し易い記号化か、重畳性を特定の規則で満たすことでもある)は、思考手順についての省力表記法の議論。数え数学の中に代数記号の種類か現役機能(今も使われていて自然比例に還元できない何事かのあてはめ)がどれだけあるか、この問題が実は思考の秩序度にとっては潜在した埒。
 ここで、数え数学か算式数学に比べて造り数学か造型数学と呼べる分野の可能性がある。それは代数記号についての多機能と、既存数え数学の様に任意か、新たに任意でない無作為や適当な定義を数学体系内へもちこむ知性による。整数と複素数を含んだ数え数学の中身は文面計算上に使い易い最も単純な記号の系列を択び込んで行くこと。ゆえ数え幅は常に口語成分と文字の差延を除いて考えを進めた。よりくり返し易い記号系列をそれが最小限原則に適うほど他の系列より選ぼうとしたから。秩序度の表し方に数え数学のみが叶うのではない。数え数学の限界はそれが文字単位で母系とする、生み出せる公理系の直観範囲。ゆえ母となる公理系を、それが既に存る自然比例の注釈に宛てられる、単位時間内に最も効率よい任意さの入れかえとして造りおくことが有用。
 この公理系への幅広い基礎付けの柔らかさは思考すなわち考えるという任意の時間直観をそれが他の主観へ伝えられる限りできるだけ趣深くする。というのも、母となる公理系の規則はかなり省力された代数記号へあてがえる象徴や対象とする内容の高い程度の差延をゆるすので、さもないと考えの現せる自然比例にない比例(多くは抽象比例)をたやすく導けないからだが、同じ情報量の中でも指定するくりかえし記号の造りおきでその時間直観の単位で表せる思考の宛を広げる働きをもつ訳。

星粒ばら

生理的に受け付けない人物しかいないので
私には世の中がまことに面白くない
だからもう人間について考えるのは止して
大人しく宇宙のお話を数式の合間に探る事にしよう
遠く遠くに置いてきたいくつもの
星屑がキラキラとまばゆいばかりに
私達の町にしずやかに降る時
私は祈りの底に眠っている
いくつもの星粒ばらが真っさらな
砂丘の上に更紗の様に流れゆくのを
ジャミロクアイの昔ながらの曲調に委せて
ただしずかに聴いているつもりですよ
それともなにかね
あなた方には仕事しかないのか

論理学

任意の公理系内では自己証明できない、という不完全性定理からは公理系が集合論の内積なだけでその目的が道具的完成であるという知性の限度をも引き出せる。どの知性も任意の公理系の部分集合ゆえ、論理の双対性を経由せねば証明に至らない。逆なら、数学や科学知識の真とは人間原理にとっての、また我々の自然認識の主観の適合性にとっての系。論理集合としてみた知識体系が主観の証明論に拠っているという現代数理哲学(これが数学と呼ばれてきた全純粋理性のア・プリオリな、生れついた公理集合)からの推察は、数学知識の全システムが主観が捉えた多くの公理系からの抽出である、という西洋型近代化した諸学問のデカルト癖を内側から否定できる可能性に言い及ぶ。科学が真理である、という考え方はデカルトに倣う一信念か仮定。ゆえ実証主義科学が唯一の知識であると証明することはできない。
 かなりやさしくいえば、科学は事実の羅列とみえる実験で確かめられる法則にもそれを証明しようと試みた段階で必ず主観が関わる他ない。つまり科学法則は任意の主観的公理系であり、ベーコンによる帰納法の方法論から最も客観的だとされてきた実験科学の内容でさえそれが数理比例という共通の源泉から同じ水を酌む限り同じ。論理学の成果は記号論理についても複雑化へ向けて効率化を施したが、なしえたのはより絡まりあった論理作業の機械化だけ。ゆえ科学知識の目的としての暗記作業そのものは、全く機械化される。それらが主観を除けば要領よくまとまった公理系であり続ける限り、それらを使用できる側にしか試験すべき、何らかの誤りを避ける才能か学習された既存公式量の調査はしえない。
 教育指導機関が公理系の記憶量を調査することを教育としている事は、これらの現代数学の地平から予知できる誤り。それは機械化した数学公式群の検索や社会含む自然知識の辞典や教科書を読み取る側にのみ知性の内容系はある、という主観の知識媒介を前置きとしていないほど益々国民の思考原則の機械化を誘なうところに戻る。
 任意の公理系を証明できる主体はその手順を繰り返せる、という特定の比例重畳性の導出にかけて知性をもつと言われていい。そして無限個の真理を全て証明できる主体へは全知のみならずその任意の光速度内時間についての能率にも極限を充てるしかないので、この場合にはカントのいう世界外存在にしか、仮にそれが仮説の産物だとしても原因は求まらない。ゆえ有限の知性については、つねに有限の公理系から証明論の繰り返しに限っての試験ができる。この証明は既に行われたものでなければならず、決してあやふやな以前と違う証明論を課すことはできない。
 新しい命題には別の解法があり、この場合は別の手順が要される。よってかくの命題をつくりあげ解ける為には別の主観が用いられる。カントの定義に則れば主観は時間直観なので、この場合は時を置いた同一個性も入る。

2010年1月25日

社会生態学

複数の社会関係が錯綜した結果、彼らの利害がぶつかる原理はそれらの結末をより重複化する為だけ。文化面でも同じ。ゆえ社会関係の外にいかなる利害もなく、その複合型たる道徳や善悪もない。つまり全社会性は一途に利害解消を理とす。社会性は智恵を喚ぶ。知識間の絡まりは複雑な利害関係に及ぶ程つよい。即ち、脳容積比率が最も適応要因として取り立たされ易いのは社会性の高まった所。でないとその誇大化は奇形視されがちで寧ろ節約されてしまう。智恵を使わないで済む場は脳を軽んず。
 符号化は定格に社会性の一摘みを宛て、思考や試験を省く。ゆえ符号化理論は社会定型の合理化で、その役割は既にある業務の効率上げ。もし定格外の才能なら当然、既存符号では染めえない。利害をみて既存の社会定型を効率化しようとした時、又この規格を全体主義に格上げしたとき社会性は進歩の為の独創力を自ら失う。よって複合した社会であればあるほど、符号化の適切さは負担化理論の側面をも担う。一筋縄では行かないという言葉は智恵が、知識とは分かれた機能であり社会定型の複合を前置きにすると示す。これらは、知識の規格が必ずしも進歩の論理と合わないばかりか、社会性の利害に省みると負担化の面を社会的進歩として規格づけられる論拠になる。但し、効率面では常に符号化は利用されるべき。この理論の利点は、検証を省くのに既にある社会性を援用できる所。故利害の上に全体主義の回避を行うには符号化の正の側面、つまり業務効率の機械化に独創性とは別の回路を宛がうのが巧い。
 個々人の利害調整を模倣の領域で走らせるのに符号化は最適。ゆえ符号化差別そのものは法的に規制された方がいい。なぜなら負担化傾向とは異なり、この差別は独創性という既存路線と違う変異を排除したがるので、業務効率は上がって行くが決してその線路をこえた進歩を社会内にもちこむ習慣を守る事はない。我々が企業やそれにもまして政府という全体調整企業の行う符号化差別を放置し続けるなら、その社会からは独創力という全く既存とは違った道をつける才能が抑圧か淘汰され、次第に凡庸で取るに足らない変異の群れのみ生き残ることになる。結果、この社会はより力強い進歩を果たす別の生態や社会から搾取か侵略される。この必然性は歴史がより自由度の高い生態を集団として擁護してきた生態学の知見と、社会生態の実際を重ね合わせている。
 社会的符号化は有用だがその閥としての増長が公に正当化されたり既得権益と呼ばれる古巣となりそうなら、できるだけ早期に規制か罰則でこの固定観念を公に壊した方がいい。そうすることは、社会性面からみて独創力を凡庸の模倣よりも尊ぶ誘因になり、結果として凡庸一般の取るに足らず慣れに基づく機械的技術でいずれ誰でもできるただの業務効率に対する、精神労働といわれるべき世界でも希有にして唯一無二な発明発見の才能への抑圧を多数派に回避させる条件づけになる。機械はほぼ無限に複製可能だが、才能というものは遺伝子と文化素のくみあわせに依存するものであればあるほど一度うしなわれると二度復活できない。つまり、すでに公認か認知されている社会的符号は複製可能性のもとにあるが、特殊な才能、いわゆる独創性は何らかのまれな生育条件でのみ生じた生態学的突然変異に他ならない以上、限りなく唯一回的でその成果は決して他の条件のもとでは生まれないのでより或いは遥かに貴重。尤も独創性にも諸種あり、このうちより情報量の高い変異をより希少とみなすのは利口だし原則的。この量は決して既存の符号知識に還元されるべきでなく、常に新たな指標でできれば複数設けられた方がよい。

猿まね

暗記させられたムイミな課題を
なにもない部屋の小型の机で
必死に解く少年はそれが
猿まね倭人のつくった欺きであると知らない
裏には膨大な努力が隠されてる
そういう先祖代々の文化の上に立って
見渡すかぎりのビルの群れはどうだ
勝利の味でもするの
単純に言って
すでに生きている意味などない
大昔から続けられてきたゲームは
キャラクターを自動で生成していく
死ぬまで辛い奴隷労働させられながら
あたまわるい人間界で生き抜いて行こうよ

民衆裁判資格

往時の民主政はそれを司る民衆が、目先の感情偏見で冷静かつ的確な判断を行えなくなった結果、滅亡と被征服へ進んだ事を歴史の中で教えてきた。脱構築系の現代哲学が警鐘を鳴らすのは責任の応答可能性が各自の無条件の赦しへの期待についてしか決して当たらない事から、何事かへの罪を正当化する法の支配を究極では言い崩せる仮設構築物にすぎないと民衆裁判の決定権に大きな土台の不安がある事実の指摘でだ。もっと日常語に、普通の言い方に近くしていえば、民衆自身が無資格で裁判を行う事は彼等が罪作りに係わり合いになるという絶対不正義さの証だとデリダらは「不可能な来るべき当為」としての我々の善意からの歓待の理想を語って来た。成るほどこれは一人の哲学する者、即ち翻訳源義に則れば、智恵を愛する者からの言伝てにすぎず現実の裁判制度と、それに無理強いでも関わらせる裁判員というまね事を半強制で遂行させたがる社交辞令からはかなり離れた趣意かもしれない。
 現実では、偶像崇拝に係わる幾つかの禁止条項が信仰を軽くみる多くの人々へは古代宗教の権威よりも功を奏する所より少なく、欺装界への憧れはその多神教の在来風景に吸い取られ易い。
 法矛盾への反語だが、裁判員裁判という欺装界への裁判権は当然考えられねばならず、これがない間は公的資格なき裁判員の自主司法政参加の意思のみは自由権の文脈で処理されて然る可。でないと裁判は誰もに可能となり、また主体人格の空疎化が相互裁判の末まで及んだ結果、彼等は皆が罪悪欺装への主体参加者となるしかない。この論旨は、裁判権の委任が実質的には批評と意見公開による相身互いへの権力抑制の理由を含む司法主人格の分離をある信憑性の高い調査に慣れるための資格制度と共に、当該社会での最低限度の良識後駆り機関への投資となってきた既存の法貴族制的な信任関係を明らかにしようとする。もし法廷入りの、そして少なくとも主体分離の資格が誰もに分け与えられるなら、この散種は無償の歓待という期待に逆らう動機づけに向けいわば多数決の行き過ぎへとみたび力を借す事になるだろう。このいわれなき借し分は当然、彼等自身に跳ね返り、法貴族制度上の無資格者からの裁決を無条件で受け入れるという法定不条理を、いわれなき感情的非難も考慮に入れて傅ける。扇り報道や検察などの止まざる虐めで不条理に逆らう勇気の削がれた侭、また様々な背景事情から十分に知識を得る機会の少ない侭でその場に立たされた被告人は、この到底行く先知れず繕われた負債、原因がないので返済できそうにない負い目を幾らかの復讐感情のきっかけとするかもしれない。だが斯くの感情は、結局この制度の上述の矛盾、民衆の主体人格が裁く側と裁かれる側とで分かれていない、という自己矛盾論の業に戻る。なんら反語でなく、ゆえ無知の為の無知の合理化は、彼等が善意に関わらず、多少あれ絶対無知なる同胞同類を、同胞と言う訳は司法が国家内でしか現実的でない間は同国民にとりあえず限るが、その無知で責め合うという蠱悪界へと帰るほか道はない。
 もし司法制度の外で、つまり同等の立場が法的に保証された所でこの説教が行われるなら、それは啓蒙と呼ばれていいかもしれない。だがこれをあまりに広がった法分野に関する倫理知識についてもともと主客に原則的非対称さの前提やまったく保証されるべき弁護人つきの法廷で行うなら、我々は意思に限らず自分自身の同胞を公に苛むのと似た責任結果を進んで選び取ることになる。より簡潔にこの矛盾点を述べる可きなら、赦しは絶対的非対称の制度内では、善意には程度を決して許容しない。神の例をとった宗教人が如何にこの旨を身に修めていただろう。さもなくば世界では、同類を上位から無資格で虐める弾劾なき吊し上げを善しとする歪みと不正義を、西洋社会の錯誤の猿まねで習慣づけた因果による、自業自得の悪意を復讐心の終りなき伝染なる醜風で繋げつづけるだろう。

2010年1月24日

人類生物学

人類にあって、有性生物一般とはかなり違う雌雄間の逆選択が働くちなみは、社会的圧力。とてもまれな例だが多くの哺乳類の如く、孤島化しほぼ世代間競争の解除が起こっているくらしでは雄性への選択誘因のみがみつかる。つまり世代間抑圧がこの社会条件の鍵で、それは特に雌性の側からの選好みを押さえ込む方向へ強く働く。結局、理性はとても著しい形質でこの遺伝子の源は抑圧を性選択での決定的判断の引き延ばしへと導いてきた。だから更にいえば雄性でより特徴づけられる理性の程は、その遺伝子が過去により引き延ばされた選択経過を辿ってきた証で又この程は競争的。
 もし幼型の必然さが対遺伝池へえり分けに働いたなら理性分の幼型成熟比は益々この形質を促し、他のいうなれば安売りされている多分に発情し易いそれより魅了的となった筈。要するに、理性が大脳新皮質を誇大化させて行った大きな原動力は性選択での主導権争いにあった。
 現実社会の次元で考えられてきた知性万能論は決して人類生物学の眼で見渡すと都合通りでない。ここでは、知性とは引き延ばされてできた空白期間を、特に雄性に限って後先しれぬ獲得した道具立てとみたてた時のみ推し量れる。そして高度に文明化したか又は現代で一部の特権集団の外ではこの知性自体へのえり好みは、おもに雌性の能力不足のため強調されないでおくか、双方向にわざと隠されもする。段階にみた文化内での傾きは、空白期間としての若年猶予を結果の勘ぐりのみで評定したがりその方が、おもに雄性については好都合だからそうされた侭。選択の双方向さは先進国系の現代文明では空白期間の自由をより雌雄間へはるか裕かに与えたが、他の進化に等しく改造は節約する。つまり天分を補う獲得量としての学習は、多くは生産量に関する社会的誇示の枠内で性選択用か自己応用の余地をより賢い系統混淆の手だてとした。これらは、私には次の近い未来を十分に教える事実だと思える。知性自体への選好みはその系列遺伝を急激に強めるので、他一切の既存の選択原因よりも短い目でみて圧倒する広がりをみせる。但し、最も人類の系統発生の伝統に適う理性による選択遅延の慣習と名残りはおよそこの系統論の中身にも入り込み、知的審美性(哲学では直観と言われてきた、直の感覚刺激のみには省みない悟り澄ましの能力)を執れるだけ最良の長い目でみる一系統を、血統書の中で支配的完成種とするだろう。連続した推論の確かさにみた選れた直観を完成の域へ導く社会性あるいは文明性の血統が、人類にあっては地球圏生存の基調になりそうと予想され、この能力はまた地球外折衝の接客方針にとってもたしかに選ばれた最適な行動というべき仕種を本能的な直感(こちらは寧ろ生きる場面ごとに微調整されゆく細やかな感情とよばれるのが相応しいが)と擦り合わせられる唯一の回路らしい。

社会学

著しい社会的多様さという概念は人間原理の鞍替えらしい。そこには重量秩序の域でみられる数多の建築的変形しかない。そして装飾自体を含めれば一切の社会構築物は実用的。実用主義の社会関係への分析展開は優れてその混沌らしさを解く鍵。ゆえ生態学の目でみた社会とその副産物の実用性、要するに機能分類は最も社会系の知識化に役だち貢献する。機構に鑑みればどの生態をとりまく秩序づけられつつある自然変形も、彼らが理由や目当てとした一定の生態様式への道具立てとみなせる。科学での実用主義は、機能分析の生態学に実証科学の中で落し込める。ゆえ科学体系からみれば全社会系やそこでの文明と文化の産物および精神とよばれる生態学機能はみな繰り入れうる。
 様式についての必然や偶有の、また定常確率での突然変異を含む偶然の変遷はみな社会機能に於けるその機構くみかえ命脈に求まる。直ちに様式のみに触れればこの機構展開は、系としての社会がもっている最大の内部エントロピー潜在形質による。その結果、外界への接触比率は著しい複合さか生態法則の難しさを伴うから。顕在化された社会秩序は、こうして顧みると生態単位の大きな正のエントロピー化傾向を生物の機構へくみこんでいくしくみの裏返し。
 単純に言葉のそれを重畳性で測っても、とりこまれた系統の繁雑さが現れる表現形態の発生知を、記憶か記録づけた遺伝素にて行っているだろうことは明らか。つまり機能にみると社交性の最大の特質はその生殖ならびに発生系統のランダムな並び替えをくみこみ式につづけてえらぶ法則素順序にある。これをもし遺伝振り子のとりこみ強さとよぶと、機構としてみた生態秩序の完成へ向けた過程とつくりこみとは、およそ生殖系統すなわち血統の最も自然体な姿を少なからず壊すかある程度飛ばせる作為次第(注意すべきは、完全な無秩序は無作為に等しいので決して生態法則となりえない、なるまったくの乱雑さへの退行は社会系では営みえない事実)。この強化方法にしか機構が自ずと進む単純化への、内在された法則素のもとでの防ぎ方はない。さらに単純化すると、生態系のベクトルは既存の系統に潜在されたエントロピー掛ける結論としての機構継続を理由とした社会行動の重畳さに比例する。
Ecological vector=Entropy×Perplexity
Ev=S×P
もしこのエントロピーを文化対数に代入すると、
Ev=Ap log e×P
∴実際の社会系の真理関数は、すべての現象にまつわる比例としてその内部に
1/Ev=1/Ap log e×P
の定常さをもつ。これは生態秩序に向けた一般的な熱反応に対する文明逆数といえる。もしこの数式を分析すると、明らかに地帯生産性、Area productivityはこの全反応の底であり、情報についてのそれは単位時間の重畳さあたりのエネルギー投入量の乗数にまた比例するだろう。言換えれば他の産業をのぞいて情報秩序のみに生産量を特化させた市政は、なるほどエネルギー投入の指数比例に応ずるだけの資源確保が前提だがその文明逆数率では他の生態ベクトルよりたくみにこの命令をこなせる。工業化近代都市が芸術化情報都市よりも起こる重畳さの割合が低いだろうことは、少なくとも装飾能力については真。ならまずこれらの市政潮流の分散か分業は、それらの混同に叶った実用性への傾倒よりも生態機構の流通網にとっても有利。それらの間に起こる各変異と社会淘汰の速度差は当然、文化対数と文明逆数の双方向比率を守る。
S:1/Ev=一定
この為に、巨視すれば情報化という流れは社会比例にみた重畳さの文化そのものに対する増大であり、これは彼らか地域のもつ生産性に入り込む資源つまり仕事量の乗数に比べてかなり早く双方の馴れをはなしていく。ゆえ情報社会は工業社会と、以前に工業と農耕の社会関係にあったのと似た比率で遠ざかっていく。

2010年1月23日

潮騒

かしわでか楓の揚げはとる猿よ
夢ながらねむりのうちに見るさむさ
しののめのかたる潮騒さわがしき
ひとけなき山あいにふる白雪よ
手を繋ぎかよう俗びと村松ぞ

歴史民俗学

東アジアで使う食器に、夫々の発生学が見つかるのは偶然でない。

 殆どの古い発明は広域な文化圏をもっていた中国由来だが、その中で箸と飯碗については明白な文化色が潜む。中国では西暦二千年前後でも象牙による古代の風習だろう痕跡がのこっており、これは磁器のまがい物のプラスチックにいつの間にか取って代わられているが、いまだに習慣としての皮膚感覚はその白亜色を愛顧している。又、白磁の発明はそれをおそらく煎茶の色味を試すところを起源とする汁物の基調にし、他の食器にまで浸透させた。南方アジアの油っこい食事はすみやかな清掃可能さを保存させたがる。そして亜熱帯気候での暮らしは特有の旺盛な活力を余儀ないものとしているので、将来も白磁器に代わる碗はその洗浄処理の予感にまつわる色彩感覚への慣れを有り難くするだろう。
 朝鮮では儒学のみの厳格な国教化のもとで、贅沢に及ばずながら肉食が普通だった。その為、食器類は油脂分に加えて時に生煮え含む血の気ある肉類をできるだけ清浄に処理する利便性を求められた。日常に金属製の碗が用いられるのをよしとした主な原因は多分そこにある。今日でも、あらゆる国で金属製ボウルは肉類の料理に役立つのが見られる。又この向きは箸の選び方にも及び、更にどちらかなら飯碗の利便が先だったろうが、この文化誘因は彼ら朝鮮民族の風習自体を独特なものへ変えた。熱い飯や汁類の食事にあたって食器を手に持たずに終える事が正式とされ、儒学の教えは残し物を最も先につくられた食べ物の大部分を支配する家父長の権威づけへ援用させた。これらは、おそらくはじめは偶然ながら共に熱容量面から後片付けの冷めた食事を極端にする背景色をもつことに注目できる。
 日本では茶碗と彼らが呼ぶ別の変形がみられる。最初は朝鮮を経由して得た大陸の文化要素は、島国の孤立の中でゆっくりと発酵し、かなり特殊な風土にぴったり適合するまで作りかえられる。彼らは先ず飯碗に改良を加え、それを熱を通さない木製にしてしまう。これは全く突飛な考えで、大体の文明圏で元からある素焼き土器の風土とも接合点をみつけ難い。恐らく仏教の伝来と先覚者・聖徳太子による工夫された布教がそのきっかけだった。仏教徒は彼らが節制と質素を旨としたいくらかの穀物と草食だけの生活を奨めたので、従来の油ものへの対策は不要となった。最小限の托鉢道具はずっと軽さをよしとしていく。そこでつゆものと彼らがいう水分の浸透圧を調整するべく、器物表面に漆塗りを施すだけに納まった。更に、箸類もこれに追随した。しかし漆は平滑面を繕いすぎる由縁で、こちらには昔からある白木製かもしくは木肌の摩擦力を損なわない簡素で人体無害な、少しく気の利いた塗装だけをよしとしがちになる。象牙箸はここでは渡来した観光品としてみやげものか、何らかの特殊な儀式様の格式張った品物になった。鉄製の箸は作り添え易さからあからさまに便宜に叶う鍛冶屋の産業用か、火鉢の隅に重さの為たやすくは失くされない風趣ものに転用された。近代では、おそらくは町人が賑わう驚くべき生態学から生まれた割り箸といわれる、最大限の清潔を保てる使い捨ての木箸も発明された。
 何気ない一文化産物が別の文化圏には発明のきっかけになる。一時は占領された朝鮮半島へ流れ出した楊枝と呼ばれる日本風のてのひらに乗る小型の一本の槍の様な木箸のかけらは再びその場を改めて、肉食の伝統ある風土で家畜の為の残飯分解がうまく運ぶ様に最初から酸化され易い改造された脆い木製素材になっているらしい。逆に、日本圏では近代化の中でえたプラスチック素材で元来の清潔への信念のために簡易な装飾、たとえば野菜や洋剣、ダガーをまねた可愛らしいしつらえと共に使い捨てを前提として、真新しく造型された。物そのものは小さいが、象牙を模造した前に述べた同じプラスチックによる中国発明の製品の趣とは、母国従来の形にさえこだわらない斬新面で著しい対称を為しているのが観察できる。
 彼らには器物を持ち上げるのをあしとする風習は、木製器物の発明や改良、それらの伝統による文化条件のゆえまるで一般的にならなかった。相隣接した風俗は詳細な比較検討に及ぶ反面教育作用のため強い逆向きの力線を望む傾向がある。朝鮮で信じられているのとは逆に日本では寧ろ、熱さを感じない碗を持たずに食事をするのは犬飯ぐらいという形容句が示す様に品がないか、よい習慣でないとされることすらあることがその一例を裏付ける。
 風習の伝来に当たっても中国由来の多くの製品の文化素が殆ど原型をおもいだせないほど変形や改善だてられている事実から、影響がしばし発明への機縁になる、という文化間化学反応とでもいえるだろう発見は、そこで趣の様々な風物詩に限っては東アジア圏の文化史的に真だったと見える。たとえば茶碗という短いが、大変な珍しさを込めた言葉がいかにそれを示すだろう。
 薬用からの流用で徐々に洗練を加えて行った、もとは有閑で高位な読書人の風習だった生きている余裕をおぼえる為の喫茶という中国で生まれた東洋文化は、最も古くは漢方薬として遠く舟に乗って、或いは朝鮮王朝の有閑層であった両班に属する歴史の表だった頁からは深山の向こうへか隠れた文化人づてにでも極東の島国へ伝来した。遣随や遣唐使および対馬をもとに行われてきた朝鮮外交官を通して日本の貴族達はそれをはじめ食事後の儀式として用い、次第に庶民へ伝播した習慣が飯碗の中へ御飯粒を残さぬ様、彼らへ勿体なさという粒々辛苦の縁起説の敷衍を理に一つの個々人なりの罪意識の感謝に任せた洗い桶として恵んで行ったのだった。彼らはこの伝来を起源とした面白い風物をとても高貴な精神を含むと感じつつ紛れもない伝統芸能に値する世界として茶道へと昇華して行き、まずまず標準的といえるだろうある決まった型がみえるまで整えた。茶室という特定の建築様式や、いうべからざる方法論を彼等の独創性と職能本能に関して継いだ幾つかの由来ある家がその格式高い保存をつかさどっている。現代でも日本人がこの興味深い芸能界の風習を日常生活の隅々へ持ち込んでいることは飯の碗をなぜ実用および他の世界でさえ元は炊いた米をよそう為の道具でしかない筈なのにお茶碗と呼んでいるのか、また日常茶飯事というこなれた言葉にまでみいだせる。この化合の一例にまつわる退屈かしれない由緒にはしきたりについての高度な趣味観がもう幾らか知れない高徳な世代を跨いで結晶しているらしい。

2010年1月22日

Digital

Somebody thinks some days will endure
But you're doing most important job
This orchestra might not be too long at
Night this summer chastity of
Endures have to be vanish every
Things dust breaching diamond lyric
I used to mean ever comes quickly songs
Taught under Rolling stones or Beatles & more
Radio heads sickness virus mime from
Compact disk flow in
Our Hipparchus contemporary doctrine
But not to say about
Something over drawing rough choosing
Sight seeing from mathematical digital view

人類生物学

人類自身を唯一の知性とみなす根拠は少なく、その中身は正当化の論理としての神学化に戻る。只の社会構成に省みて知能は生態機能の特徴にすぎず且つ変異内。これらの訳は高等範畴をくみかえる必要はその生態機構が入れ替えられればありうると言え、しかも環境条件による。権能としての知性は神学構築を除けば一切が主に同種間協調の段階に求められ、この加速度は分業についての文明逆数による。社会行動の記録は人類が協調の枠を広げてのみ母系の繁栄を謳歌したこと、及び歴史はその自己展開を資源と産業段階についてそうしてきたと示す。単に人類内の原則は以上の法則性に叶う行路を日々辿る。そして人類なる種の変異内では文明逆数をこえた一切の自己展開はない。巨視すれば社会とは彼らの建築と帰巣のつながりでそれを少しも出られない。文明の本能をもつ生態構造に人類生物学の知識を集めゆける。我々はこの学識から諸種に渉る建造の方針が彼らの内部生態内でいかにつくりかえられてきたかを余さず知れる。
 性能にみた諸種の内、獲得形質でない変異の幅を仮に一定の違いとみなしそれらの間に品種分類はできる。この知識は我々がつくりあげる社会秩序のうち如何に彼らを適所に置くかへすぐれた解決法を与えるかも。更に、遺伝毎の分岐がいかに法則だった系統樹に沿うかを教える。反社会行動、とされるほぼ同値の教育程度内で発生する、学芸へ昇華されない乱雑さの確率は当然、種内変異にも当たり、また学芸内の概要は何れ劣るか仕業にすぐれぬ変異としての多数派を整理させる根拠になる。教育組織がこの種の模倣変異種一帯への再獲得条件づけの作為でしかないので、淘汰勘定にすれば多数派を保護する合理性はなにもない。つまり、我々は論理だったいくつかの評定平均で凡庸を整頓する知力からの構成をみいだせる。
 ある期間の平均変異割合の内、独創性をみせる選種誘因が高い程その遺伝系の比較有益さは十分。一般の商勘定が凡庸さへの取引還元誘因なら人口比÷無業率は彼らが同等の商誘因空間内ではより選れた情報量の消化を果たせる内部秩序の目安といえる。この種の変異は当然、商取引の様な既に流通している遺伝変形とことなっていることだろう。最も滞留的かつ後続的な遺伝子の溜まりは政治系をつくり、その不満分子比率に応じた犯罪死角の構造づけを行うのが普通。即ち政治系の大きさは整頓か粛清されなかった遅れた遺伝変異を残している、といった社会構造に於ける不合理さの証。現実にできるかは別に、最小限の政治系はそれを誘う商誘因という凡庸種の池同等に、上述の変異比率を所謂法規制の自己正当化で下げてしまうが故に淘汰必然的。
教養度×人口比÷無業率=特異性保守率
と考えられ、又この値が高い程その集団か種条件は他の特定社会行動に結ばれた既存の出来損なった人類全般よりも次の進化にとって決定的に有利。この相対した非既存社交系の内からのみ次世代の全く目新しい変異は出現確率がある。
 続いてきた協調の内部にこの割合が高い程、人類はその生存域を広げる。よって選種誘因としてみた特異性保守率は他の一切の凡庸種への停滞をきたした社会系よりも、本質的で不可欠に類の機能拡張を担う。

2010年1月20日

天文学及び天体生態学

各宇宙系の間に最小の接触点があるのはそれらが引力のみの関係で説明できるなら真。特異点定理はこの最小限となる時空間の抜け道について当たり、しかも引力以外を省みなければこの定点は不動。宇宙系同士の盛衰は、もし総量としての引力場間に、宇宙系毎の偏りがかなり大きければ起こり、且つそれらの絶対値は総量としての当宇宙の全仕事量による。この仕事量が尽きると一宇宙系は他のより強大な仕事量を誇る宇宙の部分集合として暗窟化(ブラックホール化)する。暗窟化した系は情報量の極大値の限界で流出が起こるまでは一宇宙内での引力収縮を行う。
 上述の接触点は、引力のみの通路なら(なぜなら光速度はこの地点で当然、当宇宙の限界速度に達するので空間そのものは仮想の無限に極大化している)この暗窟化とは異なる反応の組織を持っていると言える。もしこの組織を光、少なくとも引力場の偏りが予想させる(少なくとも一定の時空間範囲で定常視できる、形状に則した複数の)極小点でのそれ、の系内で可能な最大自由値だとすると、ホワイトホールと呼ばれる宇宙の果ての極点にのみ実在可能な計算値は予想される。日本語で光輪と呼ぶと、最大の暗窟は通用宇宙では一つだとするが、少なくとも光輪はこの七夕宇宙系の最も平凡な基準となる湯たんぽ形状では最大のもので二つ存在できる。しかしそれらはやはり完全な対称ではないだろう。宇宙系同士の運動はもし全世界が静止し、しかも一定の形を保っていないなら必然だから。この宇宙型は銀河間の広域な流路が、実際の一光速度不動さの枠をのりこえて別の法則内へも流れ着く事を予想させる。最も源流となる全宇宙系の最上流領域は考えられていいし、原則として光速度に沿う空間は花火効果によってより重たい宇宙に於いてほど長寿を全うし易い。ゆえ七夕宇宙を仮に照準地点とすればより緩やかな流れが入り込む鈴系の側が、少なくともこの視覚域ではより上流に近いと言っていい。
 だから生態構造との関係でいえば、より下流にあるだろう十五夜系の発展が早いそれぞれでは小規模の文明の内に栄えた何らかの秩序を、多かれ少なかれ地球の属した文化圏では受け入れる事になる。しかしながら、輸出入の関係でいえばより上流にあるだろう鈴宇宙は自然にその選択権を持つ。地球の川で実際にそうある如く、深海で生まれた幾つもの多様な形態は本来の場所とは大幅に異なる上流域へ再適合を計るのが途轍もなく難しい。この数式は地政学の一般的文化逆数に、進化速度を掛けた乗数へ更に生存確率を期待値化したものとなる。
1÷S×Evolution timeLiving probability
⇒EtLp/S
⇔EtLp/Area productivity log energy
⇒EtLp/Ape…上流到達率
この値は経済力進化論一般にも精度あれ適合する。但し、その精度は期待値の上限にあてはまる既存の文明度の許容生存確率に従う。よって値としてこの割合がゼロ以上となるのは底である地帯生産性が下流から遡上しうる全生態秩序の総進化速度より、等価原理に則り早い場合だけ。つまり原則として中流域と中間文明および中間帯宇宙の多数の生態は彼らが想像できる限り必然の秩序の編入に経済力進化の既得条件内で適応できねば絶滅する。広域に及ぶ淘汰の規則へは彼らの想像力が普通には脳容積割る感応器の鋭敏さについて見事な比例を保っていることで恐怖をある範囲に閉じ込め働きをしている慰めが見つかる。進化速度は彼らが業と呼ばれる自己活動の結果を十分認識しつつもそれを即刻の死によって受け入れる能力をもつと知らせる。そして進化速度自体は生態系の属する光環境と全体から引いた速度比を最大の密度の中で起こる突然変異出現率(これは期待できる生態系の孤立時間による)に鑑みたものゆえ、偶然の異類接触を除いて、支配した孤立文明自体がその維持や選良生存を保障されるのは条件の中で起こる特異性保守率が他のほぼ同一条件の文明より何らかの都合か誘因で高い場合だけであり、更にこの場合は生計外ゆとり幅のある一般的経済力としての生態系か社会単位の生産量へ大幅に依存する。
 七夕宇宙系の型をとってみても明らかにその最上流視はできないので、人類とその末裔か変異した地球型生態が生存確率を保てるのは生産量の多寡平均を生態史の時代毎に測るか推した多さの側に傾く割合で。もし確率を除いて経済力をみると、進化の矛先は生態構造から導いた最もエネルギー資源投入に恵まれた地帯の一員により早く、より広い生態交渉を依頼するらしい。だから運よく維持されれば七夕宇宙外との交通路を拓くのは文明逆数の比例順序にほぼ叶う生態。

落語

星中を走り回るあわれなおさるさんがんばれー

呟きまくる首脳かな

お祭り屋さんが鳥と囀るへんなカフェ

弱いものイジメが趣味の浪費知事、ぷっ終ってる

都内じゅうで笑われる関西人けっぱれー

小説

金を儲けて猥談を売り捌き威張り散らす
しか能のない出来損ないの民族
その一員として生まれた身の上なら
絶望しない方が不思議だ
ゲイシャかヤクザになる為の歪みきった義務教育
生まれて間もなくその畜生界に叩き容れられ
下賎な闘争と足の引っ張り合いの毎日を
物心ついてから十年以上つづけさせられる

疲れきって魂は悲鳴をあげているが
脱出しようとした途端、精神病院に葬られることは
ちゃんと規則で決まっている
前に倣え! 前に倣え! 好きに竹刀で叩きつけ
正当防衛を知らない無知きわまる体育教師が
暴力しか才のないヤンキーとの連日連夜の
陰湿きわまりない、嫌々ながらの防御戦を
喧嘩両成敗とほざき、同一の重罪で裁く

何もしないしできもしないヤクザの親分は
溢れる大金と絶対安全な地位から
わざと品位をおとした狡猾なボロのジャンパーで
税金をしぼりあげるため全国視察、偽善の言葉を吐く
それが先祖伝来の習性になった一族は
大衆をどこまでも奴隷視し
自分ひとりだけは助かろうと全力で上品ぶりまくる
その後ろには、山になった暴力教師が風俗店を守る

きちんと見なさい! これがあなたの生まれた国だ
畜生の戯れる底知れぬ地獄の世界に
どうしてわざわざ生まされたのか考えてみなさい

俗物を殺せば当然ながら死刑だ
だが俗物は金儲けで増長しつづけていく
そのみにくさきわまる俗物類をカモにして
次々繁殖しつづける役座が全員のリーダーぶって
君に誤った命令を下し続ける歪んだこの世で
絶望しない方が不思議だ

Necklace

Dynamics or top of the
Window touches lap to back
Non meaning in ottoman stool
Dishes talk about our all envies or varieties
Or nothing more candidate some canary cities?
Deed in locked
On a door is opened otherwise
Retouched beads necklace course
Under the road staring
Twinkle winkles + road map times jam is
Wrapping bows above the
Olympic bubbles take two scattering
Not but you should catch to some summery
Some oceans butterfly deeds reel

2010年1月19日

社会学

社会関係を好転させ自らの地位をより将来に亘る優位にたもとうとする共生か競争のそれは、社会力学の全場面。資本主義の目あては国際ふくむ最小の摩擦抵抗のなかでこの最上の順序をたもとうとする能力への、既存と建設した文化場土壌づくりに等しい。経済学と政治学を分けると、この種の国際や個性をもつ主体間の運動が説明しきれぬ。ゆえ資本主義社会学のみに限って歩を進めれば地政学という地理学と歴史学の折衝点に存立する諸学識を仲介用に引用しなおすしかない。個々人の利益を求める運動としての経済学と、全体調整のための政治学の中身の違いはこうして、地政学の経由で幾らか緩和できる。それらは一定の社会環境で起こる全福祉制度についての奉仕関係知としてまとめられる。よって単にそれらの包括たる社会学というおおざっぱな巨視観で見直すと、個単位から始まる経済運動と生物学類に及ぶ最大の群単位でそうする政治運動とは相応の逆ベクトルをもつが同時に、同じ社会場で営まれる配分と調整の応報関係とみなせる。
 一般に、商誘因は何らかの物資の偏りなる勿体なさが環境間にあるときそれらの仲介料を担ぐ生態を、人々か生物群が保守するとき起こる。物資の偏り自体は文化対数そのものがこの宇宙に、また現段階の想像を超えない世界に引力からはじまる諸誘導で確実に生まれる既存計画下にあればどこまでも進む。
 Economyという周辺支配を意味させたイングランド語は、この観点から時代精神を体現させた荘園経由の封建制度の敷居より発想で出ない。歴史語か古語としてのそれは今後ものこるかもしれないが。本来的に社交界の最も高く掲げられるべき特質は、他のどの生物よりも趣ある様々な奉仕に仲介業種が別れてあるなる高等動物とかれらが自らの非索居性を称する所にみいだせる。つまり商関係の重複形は社会性を仲介能力について高めた結果で、その内容とは協力関係の暗黙知とされてきた領分を含む規則づけ。只の協力関係としてみたとき商空間の合目的さは、それが最も部分最適の側を鮮やかにうつしだす為みえる。なぜなら利潤の最大化をめざす欲求は、資本の限界効用を組織規模であからさまに象徴か知らずしらずであれ誇示させ易い。逆にいえば徴税商は経済学での負担理論の最大の効用を強く表し易い。そこにはベンサムの定義してきた量的幸福への誘因が入り込みがち。結局、政治行動の訳は大幅に片寄った資本配分への不平等(多くは生得的な)の是正をのぞむ野心からだし、それは選良主義にとっては魂の苦役でも不条理な自己矛盾でもあるうる限り、かれらの群生を指導づけるのは(又それに成功するのは)多くは最も不満のある個人の自己犠牲の転化なので。
 質的幸福は奉仕する個性種を十分主体的にえらべる、一般商誘因であり易い。即ちもし功利主義の論理が精神の快さに及ぶなら、それは現代では第三次産業とよばれる大きな奉仕市場をつくっているわけだが、こちらの側は明らかに資本使用の関数を最大の利己感覚か概念的事業主体できりもりし易い一般商のもちまえとなる。
 資本主義社会の終わりはその全奉仕面の実質無償に及ぶまで個々人の勤労の成果を生産性の最大化に向けて動かす所にある。いいかえれば、福祉国家がめざす虚像は山頂の自己の影と似てあやまって捉えられた国家主義の怪物であり、本当は、資本主義社会をより勤労の習性を高い知的工夫に充たすうちにしか第三次産業を含む全商社交の完成はありえぬのだった。質的幸福の内容はそれが無償のなりわいをかなり高い集中力でこなすという心理の高尚さを各互恵関係の中へ充足させること、もっと日常語に近い形でいえば奉仕習性か歓待癖なるものの、社交界全般にわたる競争と向上の獲得誘因の拡大のみ。ゆえこの商能率は、目にみえるかとは別に小売商を頂点とした一般的な資本主義社会やその会社の業績上昇の努力でしか達成するのが極めて困難だろう。福祉国家自体が第三次産業を完成の域に導くことは決してできない。私はこの逆理の結論を資本社会の実質無償化効用と述べていいと思う。それへの進展はいわゆる徴税の手間をへて再分配の偽装によって恩着せがましい無料の国家基盤を繕うよりはるかに、流動資本運用上効率がいい。そもそも彼らのつかう貨幣は発行された国政の文化素にすぎず、実用価値はない。交換価格にしか世界貨幣本来の効用はない。もともと金融に関連づけられた制度内通貨はどれも商能力の誇示を理由づける勤労誘因の一つにすぎない。
 外部経済の内分泌予算という流動量運営の望ましいはず資本主義の本質は、余分に働いたり余計に作ったりそれを資本家のいわゆる余剰価値搾取の旨味とは別にほとんど只であげたりする頼もしい能力の結果的な擁護と(なぜなら誰しも無用分の資財を完全無為に廃棄処分するよりは、限りなく只でも大盤振る舞いする方を社交の上で自尊心充足の為えらびがち。これは宗教家以外でもかれの社交性に準ずる功利精神があるから)、さらに社会環境にみれば寧ろそれを積極的にえり好んで集積するところの文化場づくりにも目的がある。文化逆数の比例は、余裕量の増大について地帯生産性の間の仲介業種についてもきわめて理にかなった分布の密度を示す。要するに、自助の格言に等しく最も合理的な社会秩序である(社会保障の域をこえた仕事量の)勤労とそれを消化する為の健全や聡明な心身能力の人間淘汰は、確実により他者を助ける能率の高い逸材をえり好むかある程度の機会浮動内配偶の選別期間で人類について限ればある程度の確立済み文化関係にありながら特殊な相互参照を込めてそうもさせがちで又、かくの才能を強化させる地域を次第に完全非階級化社会主義論旨をえらぶ一類より豊かで、いつしか他の怠惰な国柄へ模範づける役目を果たす。
 こうしてふりかえると、社会主義思想はすべて当時代なりの瞬間には特権にみえるが元々は祖先種の努力もろとも蓄えられた資本家の過大な能力への恨みか嫉妬などの負の感情を正当化する方便としてうみだされた錯誤か断章取義の経過であったし、もし人類社会を改良する、という慈善や啓発の才を血統主義なる自然界や有性生物全般と共有する規則で十分に満たしたくば、国家や民族間についても模範や手本の役目を一部の特徴高い選種基調にかけて保ち、維持し、促進か優遇すべき。

科学界と宗教界の等しさ

聖書のなりたちがどうあれ、もし今わかっている自然知識の程でいえばジーザスの考えた神の親衛隊らしき天使共の到来ということは想像できるし、不思議ない。逆の立場でもありうるのが少しでも工業力ある生態ということだ。
 商誘因のみにかぎっても、惑星型の生態には化合できないか入手困難な無際限の那辺は空を見上げればつねにある。それを示唆した才能が芸能人としてみても古代あまりに飛び抜けていたのは悲劇の素だった。しかし、預言のみを評定していけばそこには既存の予知をあわせてできるだけ確かな将来を教えようとした個性があっただけか。
 信仰からみれば科学に答えを出せないのは疑うべくもない。なぜかといえば、それらは付け加えであれ既に集められた聖書の中味より未だ豊富でもないから。要するに、宗教の確かさは流通した知識量の比率にあり、この共有体が安定しているほど信仰はゆるぎなく仲間は互恵の旨を分かち合う話題やその交易継続の動機をもつ。科学の共同体は何れそのしなに応じた信仰を素に、夫々の信教界に返り咲く。だから知識量の現有比率をもとにみればどの科学も知識人やscientistとよばれる部分集合精神も、同様に一宗教への帰依だ。科学教は共同体づくりの、また仲間内の話題づくりの趣味なのであり、それをこえて一切の内容をもたない。

2010年1月18日

国立大学論

状況はもっぱら日本のそれに限るとして、国立大学の法人格に対する株式や友好的な中央や地方政府機関からの教授会ふくむ部分か指導力の核の買収によって福祉税制的な無償化が進められるうちには、その在籍期間延長の可能性を悪用する意図のあるなしに関わらず学内勉励の維持か契機のため卒業試験合格者の絶対数規制があっていい。もし帝国系国立大学が以前のまま戦前に参照したフランスの制度を踏襲し、浪漫派絡む教養主義の流れを、全く質の異なるアメリカ風の実用主義化へ私大との住み分けもかんがみ、自ら変えるべくもなく、その為の大義名分も西洋文明模倣に重ねたGHQ型自由化路線以外に依然持たないならば、当然定員滞留は起こる。そしてこれは現今ドイツの国立大学にみられる様に、成果や制限を課さない国費圧迫を伴う。
 私立大学の整理はいずれ市場の論理にまかされるのだが、法人であれ戦後の方向づけは手間取った国立大学という基盤を自然淘汰にあわせるほど人々は、決して無明でないだろう。つまりは、滞留の清算には学業成果主義の面が勘えられていい、のでないと危うい。もしこの放置がはじまれば我々は有名無実な大量の只乗り窓際学生を維持費が大変高価な大学施設内にいつまでも飼うしかなくなる。彼らが肩書を悪用する近い将来も十分予測可能。
 学習到達程度の規制はそもそも学部段階の知識を抑え込むので不合理である。かつ学費依存でなく定員制限にもなる単位制度の上での卒業人数の絶対値は、その内部学識を飽和的に向上させる。たとえば学部間の移動や転向もこの枠内で自由なほど発明や発見の余地は広がるだろうし、また結果的には講義間の或いは教員間の引き抜きをその人気か上質かでいざなう。問題となる過剰在籍定員は、おそらく無期限在籍者の自発的私立大学への転入傾向黙認で解決できるだろう。学費負担は帳消しになっているので、学生街付近での教室市場確保が期待できる限界効用といえるが、これは全く以て麗しくものぞましい先進税収の方向付けではないか。
 原則として職業の種類が急速に狭まる産業進化型社会では余分な壮健さの受け皿として最も巧いのは、継続した再学習環境の数珠繋ぎ条件づけであり、これにはきわめて高度化した入学と卒業の要件が課された幾つかの公的教育機関が中心ちかしい福祉コアとなる。

地政学

長野の人は緻密すぎる性質を異常だと感じない。徹底的に内陸部の生活では、そこで起こる現象の異様な迄の代わり映えなさから、普段とことなる細かな違いをもいやでも見分けてしまう。しかし港町、特に横浜や神戸や長崎など新興地域であるほどこれとは逆のこだわらない性質が見当たる。但し、横浜では流れ者たちの装いの軽さ、神戸では歴史の浅さからできるだけ目立つ行い、長崎では南方風土らしくあきらめの早さに転化される傾向がみつかる。
 東京の人はお金の問題を殊更強調しない。武家政権の伝統と政治界へのぶら下がりの商道徳は下知より上智を、或いはきわめて恩着せがましい羽振りをこまかな損得勘定よりもとうとびがちなところからか。同様の観点は武権のつよかった土地柄、たとえば水戸や仙台や尾張などでも別の既存の特徴と共にみあたる。即ち水戸では雄藩気質の極端な面が、仙台ではその劣等感からの虚勢が、尾張では排他的なまでの自信の誇示が。しかし大阪や京都、及び武権に関わっていてもより関西圏に近い紀伊では逆の性質が普くみられる。つまり公家社会への依存がつよかった地域では損得勘定が道徳意識より遥かに発達している。さらに、京都ではこの性質はとても激しい裏表の態度差として現れ、同様のたちは影響圏として北陸に近づくにつれ陰湿さや雪国なりの粘り強さをます。
 これらの少ない例は、にも関わらずかなり身近な地域についての実際の法則だった変異から鑑み、諸国政の気候風土との混ざり合いによりその地方の風俗を変える可塑性が十分あることを予見させている。
 ちかく西洋諸国の性格の大まかな差は、変異の平均値をとれば一定の類型で数えられるほどこの予想知に似ている。たとえばイギリスでは極端な文化集積の偏りのためイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの間に連邦以上の民族性格差が観察し易い。順に、過剰な知力、天然呆け気味、がめつい意欲、感情的というおおざっぱな類型をもっていそうだ。これは入植と史実が地域毎の進退を仕訳た理由でもあるかもしれない。ドイツとフランスとは内心で敵対的だが、ドイツは理性にフランスは情緒にその解消を求める傾向がある。これはゲルマン民族を母体とした帝国史の覇権意識と、ラテン語族系の王宮文化とが対立や混淆するがゆえ。そして各々の国民性も無意識であれこの規律を、出自の同一性に免じて採用しがち。一般に、フランス社会では母系の道理が、またドイツのそこでは父系のものが正当化されたり強調され淘汰されゆく。イタリアの民族性は他の西洋地域より幼さか浮薄に傾く。良い意味では未熟さだが、これはかれらの偉大な遺産が同時に、勤労より所得をえり好み易い社会誘因が有閑気質を他のどの国にあってより成功させているから。オランダではこの向きは商圏に、スペインとポルトガルでは冒険と野心に、ギリシアでは自適に、北欧諸国では歴史の浅さから無理やりな権威づけに傾く。スイスやルクセンブルクでは狭い国土の土地生産力を補うための金融業優先に伴う経済力の過信がみいだされ、特にスイスではそれは殆ど牧歌的なまでの新興企業誘致に至っている。ポーランドでは学問への卑屈な態度が染み付いている。オーストリアには王権への尊崇がイギリスよりも強くみつかる。またトルコにはこれらの殆どの要素が混入しつつ、ヨーロッパの強国に対して結局一つになれない。
 将来は推して知らずばこれらは日本の例と同様に、社会場にも系統発生が当て嵌めうるかなりの、ひろく観察できる事情らしく見える。そして民族が地域一帯を国有し、その開拓と耕作で夫々のざえを栄えばえ示すならどれもあるいはまことに麗しい事でもあり、だがおそろしいまでに国民が土地の子であるのもまざまざと示す様だ。まったく宗教的見解を抜きにしておもえば、イスラエルの国民もかれらが国土を建設する内にはべつの性質を獲てまた自らの発生史に記憶していくだろう。現今の南部朝鮮半島については、5つ+αのおおまかな類型がみつけられる。まず北側と南側とでは人工化の片よりがある。よってソウルを中心とした北側の方が文明化率が高い。さらに、北側のうち、ソウルの属した1. 京畿道は先進的、2. 江原道はそこが都市化に遅れたことから後続的。南側のうち百済を起源とした南北の3. 全羅道はおそらく対馬外交時の経験則からもたくみさ、特に南側では怜悧を通り越した狡猾さを含む。対して新羅を起源とした南北の4. 慶尚道ではいわゆる近代化潮流への縁の遠さから古きよき郷民らしさがみつかる。しかし同時に朴正熙政権以来の独善で、とても重工業化の進んだ沿岸部(南部に著しい)と遺跡の多い慶尚北道ではこの性格は、以前よりもよかれあしかれ極端になっている。中間地帯としての5. 忠清道はとりのこされた両班気質特有の鈍感さともちこされた固有の徳目をもつ。この傾向は内陸部である忠清北道の方が強い。孤島としての済州道は開放的。

2010年1月16日

社会学

小型の社会場、たとえば家庭、近所、学校、会社といった国やその連合の内部のなんらかの共同体でも、独特さへのある程度のゆとり幅と同じく、そこには法治原則にのみもとづく善悪の誘因が働く。道徳という誘因は、単に内省の将来予測の才に還元してしまえば、社会秩序の中にはみようとしなくてよい。それは心理の側面にのみあてがえる。道徳の非科学性は法案論に及ぶ形而上学についての、一種の推論のよさに従うので実証主義的には歴史哲学の批評に結果としての真理の度合いを求める他ない。
 社会誘因には次の三つの法則がみつかる。
一、原始的な農耕段階にある孝行の規則。
二、進歩史観を特徴づける工夫の規則。
三、情報化に伴う理論の規則。
 これらの推移には文化対数の基本法則内にかなりのばらつきがみつかる。と同時に、それらの推移はたしかに論理的な段階をふむので、一旦先に進めばもはや以前の規則段階への回帰はまず起こらない。但し、強制植民などの撹乱効果に応じた多少の揺らぎと逆行はしばし見つけられる。ともかく、ゆえ都市化の過程がその場の工夫段階にあるなら、当然それをすでに通り越した情報化の社会誘因からはおよそ再び都市化への逆法案はもちだされなくなる。且つ、おそらくこの理由は、いわゆる文化逆数: 1/Sの比例が文明の両極化をなんらかの場の偶有か一帯に及ぶ特定の環境負荷によってふせぐ原因となったことによる。なぜならこの種の情報化誘因があてはまるのは農耕化にも十分に進めるほどに地帯生産性(この場合は人口比分の肥沃さが殆どだろう)が高くないか、都市化に及ぶほどの人口密度についての一つ以上の魅力が欠けているという過疎にも繁盛にもかたむかない原因があった所になるから。
 上述のごく原則的な三分割の間にも数かぎりない変化はあるが、なおも社会誘因としてみたときなにが善悪の基準となるかについてまったくことなる変形を被るという社会科知識の裏付けは、我々が地域や時期によってほとんどちがった生態をみたり実現したりするのを古い倫理観の混入で過ちだと考えるはやとちりを戒める分には有効。

社会学

複数の社会誘因間の重なりはそれらの必然の結合を前提としない。それらはごく偶有的で、遺伝子資源と同じく機会浮動による。もし社会誘因のみに着目して真の進化の多元秩序を観察すれば、文化場間の推移自体は資源的価値や現象としての希少さを多少あれ保つ。よって生態秩序面から社会場の運動をもし遷移や動向の理論の基づいて十分分析すれば、社会適所への遺伝子の淘汰圧内の変異も当然、この社会誘因間の兼ね合いに原因が求まる。つまり生態学的社会進化はほぼ一定の運動法則をもつ。
 善悪とよばれてきた政治行為なる市場の囲い込みによる資源の調整意志からみた社会適性は、これらの社会場の機会浮動要因を分類すれば当然単なる生態秩序種の獲得形質やその実践された習性側面でしかない。いいかえると政治行為の基本理念は可変的でそれをとりまく経済型と予想できる法案知の最低限度に由来している。只の社会誘因として社会行動への規制を政治状態とみなせば、善悪の分別は経済型にとっての合理的行動形式という獲得されるべき後天的生態行動原則の倫理面での呼称なだけ。
 従って、政治行動内から善悪の変異をうみだすことはまずできないと考えていい。それは法規範という既存規制を強化できる行動方式に他ならず、この枠をこえた社会誘因をよびこむこともつくりだすこともできない。社会誘因自体は、経済型の社交段階と、それを内部から動かしている産業条件にほぼよる。そしてこのタイプへの適応規制について、より合理化された一連の道徳観念として新たな時代や地域空間(多くの場合は特定の知識集団を背景にした民族語を担う国の単位で)での理念がひきだされてくる。絶対善というこれまで形而上学の範囲でいとなまれた考え方は神の名のもとに丸め込まれて棚上げされてきた理想だが、実践の点からみればこうして決して到達不可能らしい。善悪の概念自体が倫理法則として時代環境や地域空間の法治条件の法ってのみいとなまれうる道理は、政治および経済の学識を社会学の範囲で全く実践の学としてまとめあげるのにこの形而上認識を媒介しなくていい証だから。即ち、善悪は経済合理性の段階への漸進的調整方法として法案論旨の内部秩序の中にしか永遠にみあたらない。もしこの外に、いわゆる形而上学徒が行ってきた仕方で善意を仮説づけても、それは学識にとどまる。つまりその認識は思想の領域にとじいれられ、決して社会誘因として顕在化することはない。社会誘因を生態学秩序内の人間関係法則と定義すれば、当然そこには幾つかの種類の、おもには主要産業の展開に則った社会淘汰への群的緩和の方法論以外はみいだせない。社会誘因に文化場理論的多様さがみつかるとき、それはこの産業の展開が地域や民族ごとにかなりのばらつきがあるという地球場要因にのみ原因がみつかる。そしてこの要因がもしなくなるか元からなければ勿論、社会誘因間に、従って社会秩序化の法則自体に甚だしい偏りや相互矛盾点はみつけられなくなる。こういうルールの厳密さは、より可逆部品の多く流通に同時さのある機械系にあって精密にみつかる。もし人間社会にそれがゆるやかにしかなさそうなら、かれらの文化に対数比例則がはたらく幾つもの既存の地政学的因果が絡まっているから。

2010年1月14日

社会学

人為的につくられた適所はそれらが不自然な形態で成立すればするほど維持費分の労力の多さのためにかなりはやく衰退か撤去され易い。都市化の維持費は同様の結論を導く。従って人為系としての都市文化はほぼつねに経済適所だと考えるのが合理。もし社会場の性質を各種の適所について分析すると、都市文化は唯一の適所では毛頭ない。それは経済適所の一形態で、しかもより詳細には宅地、工業用地、金融業務地、商店街、郊外型開発地、事務所地、研究所地、交通要所、港町、通過地帯などに分けうる。経済活動つまり商業はそれらの重複化を加速する系。仮に商業をこの重複機能のみに着目して分類すると、そこにはおよそ上述の機能群の時間と空間に及ぶ改変経過のみある。
 自然な適所の変化は、それが既存の熱力学速度にしたがう限りでゆるい場合が多い。但し、一部の河川や湾岸や火口に不定期な自然現象で大幅な環境異変がみこまれる所は除く。この例外には人為系は微視的。自然適所への最小の加工としての人為系は遊牧か採集で、これを更に集積し法則づけると農耕か栽培となる。これらの更なる集積は、都市化を除き、培養か食品の適所を誘う。ここで、これらを最小の人為から現在および近い将来にみられる全ての加工をみこんで産業系とする。
S=Ap log eの文化対数は集積すべき地帯生産性をその値の底とする。ゆえ上述の偏差は一般にごく短い期間に両極端に進み易い。芸術適所というべき、産業や野趣に傾かない地帯の希少さはこうして説明できる。そこには何らかの人為か自然の誘因で、文化対数への逆数が働く。おそらく多くの場合は都市化または人為系への潜在(心理的)か顕在した気候要因がその多分には良い意味での妨げとなっているだろう。天才と我々がよぶまれな生得形質のもちぬしは、その生態発生の系統についてこの文化対数への逆数比例が多少あれ働いたらしい。
 もしスチュアート・ミルにならって独創性を天才の特質だと定義すると、既存の文化素への突然変異の編入をその最も有効な改良法則比だと考えて、文化逆数: 1/Sは最も原理的な生活改良の法則素だとのべていい。より日常言語に近い形に翻訳すると、この都市化や産業系は生活改良の最も合理的な方針だとは考えられない。寧ろそれらの割合が自然適所が用意する文化対数の偏りに逆らって法則化されるほど、生得形質すなわち天性への淘汰圧はより独創性を育む方へ導かれる。文化場理論の実質の帰結とはこのより分業制を加速づける様な独創性へつながる突然変異を、かなり安定した母系としての群生(一政府のもとにある国家と称されるのが通常だが)へできるだけ多彩によびこむのが文明化の核心だということ。

社会学

系統発生上に新種の流入か文化のうけいれを経由した文化場は開放的で、社会環境のつくり方も島嶼化し易い。但し、そこでは保守の観点から文化の完成度を誇るのが難しい。よって開放した文化適所は進歩した生態か品種をよりえり好みや淘汰しがちで、そこからは決して多数化した特定品種ではないが全く目新しい才能や性特徴あるいは文化習慣を変性か習得した個体が設計され易い。内陸ではもしそこが盆地だと、文化の流入経験の少なさから新しい文化素をえり分けたり強く選好する傾向が強い。但し、この新文化素の入り込みの経験が大幅に少ないとき排他反応でそうする。特に小さな島では隠れがの無さか少なさから、文化素の到来についてごく受容的でありやすい。更に、ときによっては既存の文化素のあらかたな一掃が起こる。これはいわゆる僻地の、旧態の温存とはことなる経過をたどる。これらの傾向は、文化や文明化という市民開化の系統発生論へ内在された記憶や過去の組成を最終的及び結果的には文化色として模様替えしたりできたりされたりするかできる。且つこれは文化型といわれてきた、ルース・べネディクトのいう、固定的にみたときの一帯や民族構成比に特有の習性形態をも内に含む。ほぼ同じかよく似た近代化をへた地域でもそこに現れた文化素の構成要因や組織の方法論が異なるのはこの為。

2010年1月12日

筑波峯

銀杏みちふみしめ歩く落ち着きのわけにおいあやし
武蔵野に通う道の上に散り敷く花びらは夕暮れの楓か
松ぼっくりの落ちる田ん圃みちに枯れ薄の訪れ物悲しき
誰もなき水平線うつくしさたゆたう霞ヶ浦おだやかなりき
筑波峯の雄然として夕陽に輝くわれを見守る

社会学

最大多数への幸福の浸透自体は経済効果で可能だが、趣味度は違う。そしてこの質的高下は経済効果より寧ろ芸術効果を認可し易い。もし徴税商という市場の囲い込みを含む全商現象を幸福面から勘案すると、経済効果は芸術効果の総合体で、芸術効果は経済効果の部分体とみなせる。それらは商現象の量的偏差なだけ。
 幸福の質に高下や偏りがある訳は、文化場理論で説明できる。地脈は彼らにことなる姿で商現象の適応を行わす。ゆえ地柄の分析なしには幸福の質的分類はできない。
S=Ap log eで示せる精神(即ち知能密度)含む文化の偏りはそれらの架け渡しを商空間なしには行わせないし又そうしなくていい。それは分業による効率化の規則にならうから。もし最高幸福を経済学と政治学の両面にわたってできるだけ定量化できる数値として定義し直したくば、それらは土地柄に応じた限界関数を底とすべき事になる。最高の精神がもし定義できるとして、文化偏差はそれらの独自さや異なる方向付けを企む。よって多岐幸福論は当然社会学の、政治経済の両面にわたる命題となる。実質上、質的功利の最高幸福という定義は上述の論旨、つまり多岐に及んだ文化場の互恵を視野に入れてこなかった。植民地支配の最大の目的は質的功利の敷衍であり、その幸福は最も精神化した一族の趣味感覚のおしつけでしかなかった。
 趣味主義的観点を功利主義の論脈内にくりいれえるなら、我々は文明の精神が決してあまねく享受されたり面白がられたりするものでもなく、一部の特殊に集積した文化場のみの共有概念であるのをまざまざと覚える。趣味度は場所柄のおもむきによって淘汰や洗練されてくるもので、我々が如何にこの自然と社会の両面にわたるエントロピーの偏りにかなしみを抱こうとまったくお構いなしに宇宙はその自己展開をつづける。血統の混じり合いは結局、文明の精神にとってすら合目的ではない可能性がある。植民地支配は文化素の混合をゆるすので、当然かれらの融和を促し、化学反応的な飽和現象や新発明をうみだすと同時に、生殖的隔離の進化論効用の係数をどの程度かの比例で低減させる。従ってすでに社会進化の実質が趣味観の多元にもとづく分業制の加速にあると分かる一群にとって、商協調以外の全ての文化素の混入は、遺伝子以前に於いてすら合理的ではない。開放場をのぞく全ての文化場で、この論理は一定の速さで社会進化を促し続ける。これらの知識から当然結論できる十分ありそうな未来は、文明社会という理論集積の適所では一般の生物界とは少なくとも多くの地球型生態の自然とはことなり、逆転化への指数関数的・等比数列的比例というかなりまれな文化場の閉鎖性がその決定的進化の前提となるだろうこと。
 逆転化としてみれば社会系も混沌の一種なので、結局、最も進んだ理論集積に成功するのは普通期待されているのとは大分異なり、自然および社会両面での現象の混沌度に対するエネルギーの流入が他の文化場よりはるかに(この程度は地帯生産性に対する乗数に比例する)高い時に限る。いいかえれば、極端な意味での都市環境でも野生環境でもなく、ごく効率化の進み高度に利用や趣味化された文化現象が世代間淘汰の力学を十分に活用できる程度の期間に及ぶ限り、我々は全く様変わりした文明化した品種を既存の社会型生態の中に精神のめばえとしてみいだす。これは一般的工業都市近代化論に反する結論なので、我々が文明の定義をかえねばならない十分な理由づけとなる。

極悪皇帝の庭

猥褻物頒布罪極悪スラム都市の下衆東京都知事スポーツ擁護に最晩年必死
悪風俗街まもって搾取の極悪都税ニヤニヤと姦淫罪業卑しい汚れた関西の汚い目で都子女見る極悪人小説屋
死んだらいい芸者ジャップの外道地獄でキョート代表宮内庁職員さまが税金浪費の醜態
大量の人身売買業製作会社を囲うアジアンちっく極悪皇帝様の庭それが腐敗のソドム東京都
穢れの関西奴鼻先でわらう貞潔ぞ汝の育ちをかえりみぬかは

2010年1月11日

社会学

社会適所は、社会機能や社会思想の支配率に順った性格を淘汰させ易い。家庭や学校や会社や国家などその社会性を抽象やまとめ易い場合には更にこの傾向は極大化しがち。
 社会適所は構成要素、つまり構成員と彼らをとりまく環境条件で変容か改造できる。もし何らかの目的観でこれらをくみかえる意図、社会性のくみかえを行おうとすれば可能。政治形態や経済状態は彼らがいかにふるまう可かを変える。さらに、社会発生知は彼らの遺伝や文化系統がどうふるまいがちに導くかを、生物種進路について保存か積載させる。多数派の人員と生物を淘汰かおきかえられない限り、この種の社会発生源は蓄えが起きる確率と必然さの方が高い。文化素のくみかえを日々行う結果、彼らの間には千差万別とでもみえる丈の多種多様さが栄える。だがそれらの大部分は自然法則のもとにある如く、社会淘汰や社会複合の部分系としての機能を全うする。社会性のくみかえは知的行動の記録に依るところ大きい。だがこの法則は、自然法則としての生物秩序の社会化にすぎず単に複合性をこえては改良も超過もされない。

2010年1月9日

啓蒙論の生物学的帰結

持続した思考習慣としての哲学は結晶化した理念を各論の上に花咲かせるだろう。そうであれ、見逃した論法の数は数えきれえない。考えは趣のしつらえ以外にでない一つの内省のならいで、その習性は理想論の程度か品位を格式面で各々つくりかえる為である。哲学を特に勧める可ではない。くらしは多彩で多趣味であっていい。そして最高の理念界と雖も何か人知の理をこえた味わいを伝えうるのでなく、その限度はやはり推しても理性的である。
 考えのよさはかれらのくらしゆきを感じゆき見渡す一定の理性へ全ての因果を集めさせる。だがこの成果は地球民度間のどの活動も何か彼ら以外の知性で分からせる訳でない。夥しい変異は類の項目で詳細に範畴化できる。こうして、運命論に省み構想哲学の真実の意義を地域か國の間の類文化に生物学編入したくば、丸で冷厳新たかな執刀医に似て、彼らの徳性なるものを品性論の範畴づけへ適用すべきだ。そして、この行いは只の科学の中でも成功するだろう。
 人類生物学は我々の限界と共に民俗学が詳細に、民族学が包括に働いた文明論の理性的定義を待望する。批判哲学すなわち徳目理解の体系は、人種偏見への最大限の緩和をのぞみえる広域で行えるに過ぎないが、偏見というものの定理化は世界現象のつめたな省察精神面への注釈の俗では誤解や事実歪曲をひねりこめる偽造でしかなければいずれ、退化的である。

2010年1月8日

自然科学の脱人間原理

科学知識の系統論は何れ無効化するだろう。それらには発生系列の合法則性や順列の規則が明らかでもなく、しかも知識の集積が地域毎か個性質に免じた特有の学習適所への寄り掛かりでしかなければ、科学は体系にではなく範畴に理由づけが行える訳。だからもし科学体系を完成させたくば史的順位制度によってではなく、到達決定さの巧い組み上げによってそうした方がいいか公にはそうすべきだ。もし順位制で、つまり先取権争いの面で科学を追い駆けると、範畴の完成度という知識参照の規律でいえば進取の気象の弊害をそれらの行き場なさ、また不整合さで補っても尚不足する。
 人文地理学の決定論的側面はなぜ知識参照を固有の文化体系下で、即ちなぜ一言語種を通じて行わせるかを、正当化の偏りという固有の言葉遣いで詰め込ませる。自然地理学の合法則化は理性的にみれば偽であり、それらの現象率は確率の概念を現代でいう量子論風の目的感覚で薙ぎ倒す幾らかの暴威を含まざるをえず、結局は主観原則を全くとりのぞける訳ではない。超長期の目でみれば自然地理学は合確率式でしかありえないだろう。ゆえ自然計画の実利という一種の仮定勘定、審美論の概算は深慮論の勘違いされた理想主義でもあり、もし真しやかに賢明な選択眼のある学者が現れればかれは自然感覚の非人間感性化、つまり偏見の除去を多くの地理分析へも当然適用せねばならなくなるだろう。

2010年1月6日

環境学

空気の澄んだ所では夕焼けの色が最も濃く鮮やかに現れる。同様に、日常の各現象を鮮やかに刻み付けるので郷愁の感情や、それに伴う回帰現象をもある程度成育後の心理へ保存させる傾向がある。
 対して、商業誘因となる人口密集にまつわる高い湿度が常の場所では人間活動が烈しく、乾燥の時は活動が少ない。温度が低いほど人間活動は平淡になる。これらは職業への選好や土地柄を別の方向付けへ誘う主要な理由として、最も原理的には上述の回帰現象を帰巣誘因化し各種生態の内へ内在させがちである。
 絶景のある所では独特の生態がはぐくまれ易い。人為の入らない自然が開発され壊されているほど、その場の人間性は頽廃か退化の傾向をもち、逆のときには健全または特に伸ばされた天分を育てていく。既に開発された場所では、人口流出の結果によってしか人心の復興や回復は起きない。従って最も特徴となる形質を淘汰か選り好み易いのは完全な自然状態からある程度の人家や人工化が入り込んだ時だけだ。古代文明のあった地方の観光地化は、その元々の気質を偽装化とか芸能化させて温存か不自然に延長させ易い。
 人口流出の原因はその場が進歩した生態の為には手狭か不利になったことによるので、ある段階で大幅な人口流入を伴った適所は何れ寂れるのか、上述の開発飽和効果によって過剰に変形された、或いは奇形化した変性を余儀なくするだろう。
 もし生態論からみて天稟のゆたかさを育てたくばこの開発飽和の限度を何らかの指標で測り、それの以下で避けるか退ける工夫がいる。よって人口密度は場所柄によって文化生態論の立場から考究さるべきで夫々に違う値がある。原則的に、景観の中に存在する美意識は帰巣誘因化によって最も記憶され易い。この為に、移住の文化比較はつねに開発飽和の原則を何らかの抑制した地政計画で実行させるのには必須かその立場への教養となる。一般に、又多くの場合は温帯付近の自発速度で、放任した自然は環境を自己本来の姿へ還す能力をもつ。土地生命力は地帯混沌度として数理化しうる。
S=Ap log e
の数式でAp: Area productivityを地帯生産性、e: energyをそこへ起きる熱反応の総量だとすれば、S: 慣習的記号としてのエントロピーの対数は土地生命力の乗数に比例する。地帯生産性は多くの場合は雨期の質量によると仮定すると、開発飽和限界は特に乾燥地帯では指数法則に逆比例して低減されねばならない。つまり、最も理に適った生態論上の配置図には、もしそれが自然と社会に及ぶだろう測量原則に従えばかなり大幅な人口密度の偏りがいることになる。
 特殊変異を巨視観で避け単に降雨量分の高温度というかなりすみやかな眼差しで、少なくとも地球生態を観察すればこの偏りとしての土地生命力は否応なく、一応の生態環境の計画原則として底流づけられているとみていい。よりわかりやすい論旨に直せば、繁多な環境はより密度比を高くする誘因をもち、静寂についての逆もある。それらの偏り方はとても極端で、しかもさらに極端になる様に生命力は造られている。我々がここで知りうるのは社会系そのものは宇宙形態としてもとても法則的であるという理由だけだ。

2010年1月5日

理の蝟集説

趣味の高さ自体が全てを解決しきるとは言えない。全知全能の概念の前でいえば、多くの趣味化はその最低限のまね事でしかない。悟りの光は世界の展開を特有の洞察力でみわたさせる。だが完全予知論は実質に脳容積分の神経密度が、ある光速度系の中で到れる精神量を規制するので相対的でしかありえない。つまり人生観はある文化素量の支配率に、社会関係の造り映え程度に趣味化できるだけだ。
 もし社会拘束の度合いを外してみても趣味観が文明度を無視する訳ではない。進歩した生活は悟りの光をある限度までひきのばせるだけだ。文化素量の絶対密度は社交規制の趣を個性化や地域化しつつ集散をくりかえすし、そうしてきた。地球型に限らず下愚は余りに文明を理解しないとしても、不思議はない。そういうかれらには悟りの光は及びでないしそれが用いる精神活動も全然要請されない侭だ。これは趣味が合うかどうかがほぼ文化素量の絶対密度、つまり学徳の偏りにもとづく原因である。
 多くの動物ですら考えをもたないので、とある国民や地域民が全く理性に欠けしかもそれを好まなくても、何の疑問符もふしえない。結局、学問の途を精確に進むのは全人類遺伝系統の内ごく少数で、福徳の恵みや救いにも似てその門はとても狭まり見つけ辛い。大部分の動物、特に非理性的な彼らが家畜化されても幸せな如く、人種の間に、また地域の民俗間に使用関係が多重化されゆくのも自然。ゆえ社交規制としての趣味論はその最も審美完成的な追求という他の定義を主張しない。世界に複数の文明があり、夫々のもつ趣が違うのはなにも疑うべくなき構造で、我々は理性が単に獲得機会的なばかりか合幸福論に対してすら高度に進化した能力適所の分であると考えていい。経済原則や政治原則はそれらも又社交規制の品種分類に帰せる特殊類型へいつか還元できる。理性は人間の、郷土間の特徴づけられゆく個性や変異を理想論に保存する。そしてその偏りは全く建設的で運命選択的である。分類学は人類とよばれてきた社会体系か生物群集にとっても、理想性に向けて行われるだろう。

2010年1月3日

年末

綺麗な女性は多過ぎる都
年末はかわらずうつろう
すすきのうつくし
さむさは慣れる北の花
言葉と柴又かなしき

平等主義と階級

生活の定義を社交規制の面から省みると、解釈論としての文面への啓蒙、はその台本の役を担えるにすぎない。脱構築は自体が戯曲論的である。大量の書物など誰しも知的能力さえあればどうにも看破できるので、重複の完成度かそれに含まる複合論のありかを合哲学的な理性の究極解と考え措けば、冒頭の社交規制とは即ち人文学や教養の品行方正論へ至るべき唯一の定義たりうる。
 だが格式に対する反発心は人性の非機械さ、人情味の誤差が余るだけ否応なく、従って文質彬彬の古の定義同様、自然的素質としての素朴は漸く人格の目的たりう。素行のよしあしはかれの生得やそれに付随した一連の初期発生論を基とす。よっていなか育ちはつねに都心に住むことの利点を教育効果上上回る筈。こうかえりみれば人間性とか素質とか心のよさを評価しようとする時点で明るみに出る系統発生内の品種銓衡度は、都会化をある時点で本能に反するものとして大きくかどうか斥けるらしい。決定的な都心としての王の住まいを中心として考える中央品格思考は、上書きの如く随分矛盾を含む。そこでは素質の純朴さを啓発する意図は抑全く不能となるから。冷静にみれば倭王が行った中央集権文化の日本内正統化は中華思想の自民族集権型まね事でしかなかったとも言える。
 完全な納得を期待せずに直も史観分析の根底論を叙述すれば、否定媒介としての王権は本性をあしく保つ所に寧ろ本旨があるとも、ヘーゲルの世界精神交代説に鑑み、思える。この究極否定性か自己矛盾心がなくば、新たに選好された有能さを征服心で充たす動機づけ迄も場毎欠けゆく。俗悪さを最も擬態的な仕種の習性で満たす事、これが品性論からみた王権の最も有用な定義の様だ。悪辣さがあらゆる手だてで隠される程その外部注釈はすぐ難しくなるので、格式化の手順で低級すぎる本性はしまい込まれがちかも知れない。社会権能の最も着実な論旨に法るなら、最高度の知的啓蒙を動機づける内的規制とはその生得的不平等にあるのだろう。「和を以て貴しとましますご当人どのは史上最高の地位にあられまずは絶対安全である(唯我独尊の利己主義)」、こういう自己神格化に必ず伴う矛盾あるいは人間裁判の業は、かれの俗悪さへの大きな穿ちをいずれ絶対必要とする。偶像裁判とは善意の構造なのだ。各種階級化の矛盾は、階梯の細分化深めを伴う場合に最高潮に達す。唯一つの権威に向かってでなく複数かつ複雑な歪曲や偽装の変化を掻き分けながら頂上にある過ちを糾すという大変な仕事は、きわめて平坦でわかりやすい階級化誘因場でのそれに比べはるかに難しく、手順をすら煩瑣にす。
 以上を顧みれば階級化誘因自体は出世経過を複雑化する一つの社交規制の工夫だし決して全廃や撤去しなくていい。何れかならこの誘因を高度にする権威の欺装界は、ちょうど昆虫が様々に擬態した仮装舞踏の社交界で本物の見分けを益々高度な課題にしておくのと似て、罠か蜘蛛の糸かをとわずそれらの繁昌繁縟が最終的な出世段階の選手の機能を殆ど無限に拡大するのだ。マルクス思想のあやまちはこの権威の機能、つまり欺装界の職能を余りに軽くみつもりすぎたことに求まる。富裕層あるいはブルジョアジーへのうらみやっかみを担保にかれがどうも正当化したかったのは、平等主義という階級化誘因の全廃への誤導である様だ。もしそういう社会が徹底されたら、考えられるよりずっと世の中はおかしくなるだろう。なぜかといえば、欺装界の低減は当然各種の生態幅を一元化したがり、権能としての威厳をかれが当然乗り越えるべき将来像たるものに象徴化せしむ出世への動機づけがきえさった世界では灯の消えた屋形船の如く儘とこしえに暗中模索を続けるしかない。
 対して、階級は欺装界の共有規則でしかなく自体は真理でも責めてもの良心ですら多くの場合ないので、もしこの権能を過大にみつもりたがる評論家が現れれば注意がいる。それはギリシア民主政の担い手と似て寡頭政治、即ち少数派寡占をまかり通らせる近い腐敗の前兆だから。階級化誘因そのものは時の流れにすぎず保護も助長もすべきでなく放置か放任されている方がいい。そして本質となる結社の規模と強さを機会次第に解散させる支配階級の分解、つまり解体か調整の原則さえ文明環境の建築理念下へ保てればいい。それでも適宜な階級化は生じるが、害のない欺装は上述の訳で相互参照に準じた社交性の向上に大いにか少しは役立ちもするのでその塊になった閥化傾向が見えない限りは、最大自由にさせておく方が多数派風紀への飽くまで偶像の援用という誤魔化し宜き作用でしかないが、啓蟄効果も矢庭大きい。

2010年1月2日

地政学

気候変化の激しく或いは繊細な場からは感覚の鋭敏にまつわる芸術気質が、定常さの高い場からは特有の研究体質が淘汰され易い。もし定常場でしかも気候変化がかなりの安定性をもつ繰り返しなら、そこからは少ない変異に準じた科学気質または大きな湿潤と寒暖のくりかえしに応じた哲学気質が育つ傾向がある様だ。どの土地でも知的生命が最初に行う芸術は歌や詩の言葉であり、その性格に類似か対比した傾向を帯び易い。そして詩歌の次に、それを音程にのせる所から整理された音楽が生み出されてくる。従って、土地なりの歌唱には気風についての秩序がかなりの精密さを伴って分析できる様だ。
 近代文明を生み出したのが温帯か半冷帯での持続した研究による合法則集という機械の発明にもし起因するとすれば、余りに激しい変化、つまり著しく極端な寒暖差や乾湿差には活動を何らかの非法則化や行動力化に結ぶ傾向もある可能性がある。さもなくば近代科学はごく気候変化の抑えられた幾つかの西洋諸国以外でも矢継ぎ早に芽生えただろう。但し、いうまでもなく科学、特に合法則的自然科学を中心とした社会の近代化とか労役について機械化の文化潮流は、必ずしも生存保証でもないかもしれないし唯一の文化変異でもありえないだろう。つまり、自然ながらの定常場の科学研究の習性そのものは確かにある程度より高い地味や経済力や、物資の蓄えを担保とした実用目的からは大分はなれた暇潰しや信仰かに則る趣味として純粋理論としての進路を見開かれた訳だが、かといっていわゆる我々の近代人が考えてきたのとは違和してそれは唯一の進化の方向付けでも目的観でも無論ない。自然にあってそうあった如く、進化の分岐は多岐に渡る訳で、文化に関してもまた同様。もし環境変異への遺伝子かそれをも育む文化素の多様化がまた人類へ課せられた計画らしいなら、つまり単一文明への帰依や伝播よりは各文化系統樹の往路の様々な在り方がより貴いということらしければ我々は或いは最低限わたしは、文化のまことに面白い良い意味でのうつろいや著しい変異の幅をその侭に、政治によって概念としては自治統一された国家系の中へでも保存していく方が賢明であると考える。例えばだが、数学の盛んな文化場と芸術についてそうな二種の素量の偏りがある程度おこなわれたとして、彼らが国政の或いは国連政治の一定の埒についての受け入れを許容しつつその性向や気質を伸ばしていけば、かれらがより合理的にすぐれた成果物を交換したり互恵したりできないことは決してないだろう。そして彼らの間にはどちらが環境変異への適合が高いか、おおよそ偶有か偶発の異変も伴う世界では確かめるのが難しいかもしれない。

2010年1月1日

地政学

土地の生育条件は文化や人為系列についても同じらしい。私の観察した所では、社交機能はほぼ孟母の教えに比例する(自然地理学の人為地理への適用)。つまりかれらの文化背景、郷土の骨格は規制としての地政への環境建築にかなりよる。地政学識の応用として、特定の建築意図を一定の文化場へ次々おとしこむのは以上からも合理化できる。数学が論理の正式化なら、可塑性や粘りの定義は地理学の政治的か文明論的分析の、環境決定論から文化場理論にとって環境文化論潮流の、環境条件論への明白な反駁とか注解でありうると思える。この理由は、数理の決定力は全くそれらを可逆化し、いわゆる他の文明場への文化素潮流くみこみやその重畳を可能にしていく見込みをもっているからだ。
 成るほど学識化は骨の様な微妙でくりかえしに向かない要素としての芸術感覚を遺伝しない。だが単に文化素の輸出にまつわる合理化、その利用価値を高める為の定式化自体は矛盾を消去法で捨てて行く限りなお合法則的たりうる。

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