往時の民主政はそれを司る民衆が、目先の感情偏見で冷静かつ的確な判断を行えなくなった結果、滅亡と被征服へ進んだ事を歴史の中で教えてきた。脱構築系の現代哲学が警鐘を鳴らすのは責任の応答可能性が各自の無条件の赦しへの期待についてしか決して当たらない事から、何事かへの罪を正当化する法の支配を究極では言い崩せる仮設構築物にすぎないと民衆裁判の決定権に大きな土台の不安がある事実の指摘でだ。もっと日常語に、普通の言い方に近くしていえば、民衆自身が無資格で裁判を行う事は彼等が罪作りに係わり合いになるという絶対不正義さの証だとデリダらは「不可能な来るべき当為」としての我々の善意からの歓待の理想を語って来た。成るほどこれは一人の哲学する者、即ち翻訳源義に則れば、智恵を愛する者からの言伝てにすぎず現実の裁判制度と、それに無理強いでも関わらせる裁判員というまね事を半強制で遂行させたがる社交辞令からはかなり離れた趣意かもしれない。
現実では、偶像崇拝に係わる幾つかの禁止条項が信仰を軽くみる多くの人々へは古代宗教の権威よりも功を奏する所より少なく、欺装界への憧れはその多神教の在来風景に吸い取られ易い。
法矛盾への反語だが、裁判員裁判という欺装界への裁判権は当然考えられねばならず、これがない間は公的資格なき裁判員の自主司法政参加の意思のみは自由権の文脈で処理されて然る可。でないと裁判は誰もに可能となり、また主体人格の空疎化が相互裁判の末まで及んだ結果、彼等は皆が罪悪欺装への主体参加者となるしかない。この論旨は、裁判権の委任が実質的には批評と意見公開による相身互いへの権力抑制の理由を含む司法主人格の分離をある信憑性の高い調査に慣れるための資格制度と共に、当該社会での最低限度の良識後駆り機関への投資となってきた既存の法貴族制的な信任関係を明らかにしようとする。もし法廷入りの、そして少なくとも主体分離の資格が誰もに分け与えられるなら、この散種は無償の歓待という期待に逆らう動機づけに向けいわば多数決の行き過ぎへとみたび力を借す事になるだろう。このいわれなき借し分は当然、彼等自身に跳ね返り、法貴族制度上の無資格者からの裁決を無条件で受け入れるという法定不条理を、いわれなき感情的非難も考慮に入れて傅ける。扇り報道や検察などの止まざる虐めで不条理に逆らう勇気の削がれた侭、また様々な背景事情から十分に知識を得る機会の少ない侭でその場に立たされた被告人は、この到底行く先知れず繕われた負債、原因がないので返済できそうにない負い目を幾らかの復讐感情のきっかけとするかもしれない。だが斯くの感情は、結局この制度の上述の矛盾、民衆の主体人格が裁く側と裁かれる側とで分かれていない、という自己矛盾論の業に戻る。なんら反語でなく、ゆえ無知の為の無知の合理化は、彼等が善意に関わらず、多少あれ絶対無知なる同胞同類を、同胞と言う訳は司法が国家内でしか現実的でない間は同国民にとりあえず限るが、その無知で責め合うという蠱悪界へと帰るほか道はない。
もし司法制度の外で、つまり同等の立場が法的に保証された所でこの説教が行われるなら、それは啓蒙と呼ばれていいかもしれない。だがこれをあまりに広がった法分野に関する倫理知識についてもともと主客に原則的非対称さの前提やまったく保証されるべき弁護人つきの法廷で行うなら、我々は意思に限らず自分自身の同胞を公に苛むのと似た責任結果を進んで選び取ることになる。より簡潔にこの矛盾点を述べる可きなら、赦しは絶対的非対称の制度内では、善意には程度を決して許容しない。神の例をとった宗教人が如何にこの旨を身に修めていただろう。さもなくば世界では、同類を上位から無資格で虐める弾劾なき吊し上げを善しとする歪みと不正義を、西洋社会の錯誤の猿まねで習慣づけた因果による、自業自得の悪意を復讐心の終りなき伝染なる醜風で繋げつづけるだろう。