2024年2月22日

𝕏上で返信した「日本国民全員が偏差値60以上になれば」トレンドの数理論理学冗句

P→QはPが偽のときは常に真だから、

P=『日本国民全員が偏差値60以上になれば』のあとに、どんな命題を持ってきても常に成り立ちます(笑)。

Qの例

テイラー・スイフトは男である。
UFOは実在する
サーモスタットは意識を持っている
茂木健一郎はスリムである
月の裏側には一角獣がいる
――茂木健一郎

まぁ至極残念な事に日本国民一般の冷酷偏差値では「PならばQ」のPが真の可能性があり、最低先進国間では大分そうかもと思わせる為、Qが対偶命題にならない限り「PならばQ」も偽かもしれませんね。
例「日本国民一般の冷酷偏差値が60以上ならば眞子内親王の結婚は自由である」

2022年6月15日

東京マスコミとSNS文化人、サイコパス・インフルエンサーらへの対策案

東京マスコミによる連日の悪業に対する最善の対処は、それらを一切見聞きしない事だ。それらは悪意によって作られた負の差別的・偏見報道による釣り稼業であり、買わないのはいうまでもなく、一切見聞きしない事で広告収益がえられず世界から完全に廃絶される。悪辣なSNS文化人、サイコパス・インフルエンサーのたぐいも、ほぼ同様の広告その他の収益に依存して生活している新興芸能人の一種なので、全く見聞きせず相手にしない事、完全無視する事で悉く滅び去る。

2021年1月25日

大阪吉本は関西人の間では人気があるが、僕にとっては全然面白くない三流芸能界説

大阪吉本興業の芸人って自分達が世界の中心だ位の勢いでいつも物凄く大威張りしているが、僕の目からみたら全てサブカルチャー、副文化の中でもかなり低次元な地位をあてがわれているものに過ぎない。下品なだけ、内輪受けだけの大阪吉本でいいと感じたものが殆どないので。みてもいいなと思えたのはピースの『サッカー少年』だけ。あれ茨城人と沖縄系大阪人の協働で東京吉本だし。

2020年9月9日

日本にいるカタカナ芸能人のうちホワイトトラッシュっぽい連中独特の特徴

カタカナで芸能人やってる日本にいる外人って
なんでほぼみんなが皆日本人を小馬鹿にしてんの?
特に白人系がそればっかり
お馬鹿オリエンタリストみたいなのわざと選ぶなよ

2020年8月30日

日本の音楽市場を握手券CDでダメにした三流芸能屋AKBの代表的御用芸者

忖度媚厨指原莉乃又も偽善の病気退陣ネタで一切おもろくない松本と頷く

さっさと美味しいから飲んでるとほざいてた寒天汁必死に飲んでろよ

キャッサバ汁を流行扱いだったまともな男をお前みたいな馬鹿にモテナイとありがた迷惑にディスって東京太鼓もち芸者地獄でテレビ界の地位で安倍御用金儲けてろ

2019年8月13日

危険芸人とフォロワー強者の自己過信

某芸人の大学を僭称する動画を網羅的にみてみてるんだけど、お笑い芸人の癖に全然笑えない上に中身も浅い教科書的な知識の羅列だし、わかりやすくもない。普通の大学教授の方がよっぽど分かりやすく教えれてるので、これをわかりやすいといってる人は大学の講義聴いたことないだけ。高々慶応の経済学士なのにテレビがもちあげすぎたせいで、吉本芸人衆の間ではなんらかの知識層扱いされてたのかもしれないが、これで万学の師ぶるのは実力がわかってないというか、勘違い度が凄い。受験予備校の講師ならまだわかるけど、卑俗な言い回しで堅苦しい話してるだけなので実につまらない。
 某先輩芸人が面白くないと彼にいったのは間違いない話だ。確かに一度も彼が面白いと思った試しがない。某先輩芸人は大抵下品の極みではあるが、少なくともシュールな笑いを思いつく点で天才なので、先輩からはそうみえるし、単なる一視聴者の私からもそうみえる。かといって彼に教師の才能もない。

 テレビは或る人物を過剰・過小評価させるバイアス増幅装置で、SNSもそのミニメディア版といえるだろうが、これらで評価経済ぶって人気とりしたフォロワー強者が勘違いするのも無理はない。己の実力と明らかに反した大量のフォロワーを抱えると、当人が正確に自己評価できないほど墓穴を掘ってしまう。

 喜劇の才能が足りないだけでなく、人格的にも問題あり、自己過信の嫌いもあるときている。おまけに節操なく大衆迎合し、金の為には思想を曲げる。これらだけでも有り余るほど危険信号が出ているのだが、決定的なのは挑発的に反体制ぶっている。君子危うきに近寄らず案件に限りなく近い今の第一人物だ。勿論、反体制自体が危険なのではなく、彼は状況判断できていないのだ。彼の目的はテレビ番組でもしばしば演じさせられていた教授ぶった大衆迎合番組による金儲けだろうに、世論一般は安心をもとめて体制派なのに気づいていない。いいかえればビジネスセンスがない。
 本来迎合すべきでない相手、それも芸人風情の劣化講義もどきを喜んで聴くくらいだから大いに暗愚な連中に迎合し、同時に挑発してしまってさえいるので、近いうちに某記者と同程度以上の炎上が起きるだろう。もともと品性下劣な上に怒りっぽい人物なのだからその後は推して知るべし。

2019年3月22日

復讐と恩賞は精密かつ必然でなければならない

ひとたび自分の名誉を傷つけてきた者は閻魔帳に永世記録し、相手が謝罪や講和をもちかけてきてもはじめの罪を決して揺らがせにせず、また相手が敵対し続けてくる様ならどんな手を使っても相手の一族郎党を滅亡させ以後もひたすら自分の名誉回復に努めることが重要だ。
 この世に生まれきて何者かに自分の名誉を汚されるいわれなどどこにもないのだから、それを行う者と表面的に講和した場合でも、根底では最初の閻魔帳の記録を常に参照し、相手へ十分に復讐しきるべきである。
 我々の一命が消えても名誉は永遠に残る以上、どちらが重要か語るまでもない。命より重い価値を汚した相手について記録した閻魔帳は、何度でも参照し、相手に十分な報いを与えるまではひたすらその記録にしたがって行動するがいい。
 復讐は永世にわたるべきで、相手の子孫末裔が完全に消滅するまで続けられる。
 復讐は単に法秩序や政治権力によるものだけではなく、ありとあらゆる方法を駆使して行われるべきだし、その復讐が表だってのものであれなかれ、重要なのは閻魔帳に記録してある己の名誉に対する罪と誉れに基づいて、世界を作り直していくことだ。裏を返せば、己の名誉を高めた者については、その末裔まで功績の度合いへ精密に応じた恩賞を与えるべきだし、恩義に報いることは完全に必然でなければならない。

2019年3月18日

人物の格

一流の人物と二流の人物は明らかに異なるし、彼らも三流以下の俗人と全く違っている。そして三流以下の人物に一流と二流の違いに見分けはつかない。三流以下の人達はその仲間で寄り集まって、二流以上の人達と異なる世界に生きている。
 一流以上の人物同士は超一流と一流の違いさえ知っている。

2019年2月9日

日本は天皇が国民を奴隷にしている餓死強要国家である

私は特に1円も日本人達全般にもらっていないし(親とたった1人の支援者を除けば)、いわば全仕事を無視され生殺しにされているのだから、日本国民だとか日本国というのが、私を餓死させようとしている人々なのは現実に間違いないことだ。それが日本の私への悪意でなければなんだというのだろう? これが真実だと思い込んでいるわけではないのだが、日本国は、私にとって天敵の様なものではないか? 私を生殺しにしようとするのだから。
 なぜ日本人全般は、少なくとも江戸時代から続く家系図をもち、純日本人と呼べる様な私に敵意というか悪意を持ち、全く支援せず無視し餓死させたがるのか? 日本国に純粋芸術の伝統がなく、前衛的傾向の画家は餓死に追い詰められる、ということについて、もっと周知すべきだと思う。それが私なので。ゴッホに涙などしている場合ではない。現実に、日本に、全くそれより追い詰められている一個人がいる。私です。私は幸運にも、私が直面したあまたの困難により精神が鍛えられ、ゴッホと違って完全に発狂まではしなかったし、逆に自力で立ち上がり、猛烈に学問や世間知を身に着けながら、人類の悪意を打ち負かそうとしているのである。
 しばらく前、私はある無政府主義者の京都に住んでいる神奈川出身の女を見かけた。その女は反日統一共同戦線(東アジア反日武装戦線の後継か)とかなんとかいって、反政府活動だのを本気でしている風だった。そして自閉症スペクトラムだかなんだかをもっているらしかった。その女の思想は、無政府主義を知る機会になったという意味で興味深かったので、しばらく意見を聞いていたのだが、やがてその女が同時に経済思想の面では自由至上主義者(リバタリアン)であるのを発見し、失望した。その女は人類の権力からの解放を大義名分にしているが、本当は利己的なだけだった。
 なぜその女のことを持ち出したかというと、この無政府主義という考えには、人類史の中である重要な洞察が一部含まれているかもしれない、と感じるからだ。もっというと、もともとその女が敵視する天皇だとか、日本政府だとかは作り物で、人類は国になど属していなかったのである。日本人はこの島で最低でも砂原遺跡の11万年前ころから、海山川へ行って動植物をとったり、田畑で作物を育ててくらしていた。天皇が大陸からきて日本人を奴隷にしたてあげるまでは。
 日本人達は天皇に洗脳され、税金を彼に貢ぐ為の奴隷となり、その役割を疑いもしない。ちょうど労働アリの様に。円という法定通貨は天皇の権力を補完する為の道具で、この円による市場の胴元は天皇家の仕切る日本政府の銀行である。私が働けば税をとられ、天皇の権力を裏づけてしまう。
 勿論、仮に天皇が排除され、国民自身の統治による共和政が名実共に完成しても、今度は資本家と呼ばれる金持ちが同じ権力を独占しだす。フランスやアメリカという王族を排除し共和政を実現した国々で、この影の独裁は今日明らかであると、『21世紀の資本』でトマ・ピケティが示した。
 私は与沢翼氏の動画の中で、彼が「賃金を上げろと労働者が言っているのは意味がない」等と述べているのを聴いた。与沢氏は租税回避目的にドバイへ移住した典型的リバタリアンといえるだろうが、彼の意見では正しくは資本家の側に回るしかないという。つまり天皇同様、奴隷を利用してしまえという訳だ。私はこの与沢氏の意見が資本主義のもたらす新たな封建制度、貧富の格差を乱用した主従秩序に対し順応的で無批判な態度だと感じた。自分さえよければいいと考え、奴隷状態の一般人から搾取し続けても、単に不公平で他者の幸福度を下げるのみならず当人の幸福度も頭打ちになるのは既に知られたことだ。
 人類の脳が幸福をどう感じるかから逆算すると、我々はある程度の収入を得てからはますます貪欲に耽るより、他者への奉仕、特に利他行動に努力する方がしあわせだと感じるよう進化してきている。アリストテレスは「中庸」という概念でこの利他性にも、最善の幸福度には一定の制限がある(どんなによいことでもやりすぎるとかえってよくない)と考えていた。アダム・グラント『GIVE & TAKE』によると、近年の科学的研究中で過度の自己犠牲にならぬ程度に、つまり無理せず奉仕活動をすると幸福度が上がると知られている。
 つまり、こういうことだ。我々は自分の欲深さに応じた金儲けをしたがる。元々金銭で得られる価値に少欲な人は、はじめから商売にあまり興味をもたない。私もその一員だった。そして金持ちの中でも特に傲慢な人達は、建前の大義名分を色々述べながら政治権力を独占したがる。その末路が天皇である。一方で天皇の様な大資本家に洗脳された人々は、労働によって税なり給料以上の収益なりといった上前を、政府や会社の上役に納めるのを最高の仕事と思い込む。現実には金持ちの一部が皇族縁戚の座を占めたり、贅沢三昧で浪費したり、挙句の果てには使い道をなくし結局、慈善活動にしか金の行き場がない。この資本主義経済と象徴天皇制度の中で、一般日本人は奴隷化を義務と信じきるため相互監視している。彼らは疑いを差し挟む者をなんとか脳内から排除するため、左翼とラベルを貼り、自身の置かれた奴隷という立場の悲惨さから眼を背け、現実逃避し、決して反省しない。反省しないので進歩も改善もない。
 私がなぜこの奴隷と天皇と呼ばれる大金持ちのお遊戯会的なごっこ社会に全然親しめないかというと、おそらく、私が彼ら全体ほど愚かではないからだと思う。私の目には、彼らは幼稚で、非人間的に見え、何の為にそんな馬鹿げた儀式を長々しているか、殆ど全く分からないほどなのだ。私には信じられない奴隷生活を、自信満々で続けている日本人達と、その奴隷をこき使って恥も感じていないらしい天皇という精神病質的な男は、いずれにしても私とは全然違う人達で、少しも同じ生物だとは思えない。他人を助けるなら分かるが、無理に税を取り立て、原価以上を搾取するため利用するとは?
 こういうわけで、私はこの天皇奴隷国家には全然親しめず、どちらかといえば軽蔑感しか感じられなかった。尊敬すべき点もあるのかもしれないが、商人全般は資本主義奴隷となり、天皇は人種差別で暴力団をしきり贅沢三昧、経済弱者を餓死させ恥も罪悪感もないといった厚かましさにはほとほと呆れている。私は自分が下らない贅沢をするより、少しでも恵まれない他人を助けたいと思うだろうし、現にそうしてきた。だから私の持ち前は殆どない。親に金をやるといわれても断ることもある。私はその少ない持分から最大限の奉仕をする方が立派なことだと感じられるし、現にそうだろうと思う。
 イエスも私と同意見だった。
「金持ちが救われるよりラクダが針の穴を通るほうが易しい」
世界中の富を私が独占できると悪の大魔王からそそのかされても、むしろ私は一文無しでも善く生きる方を択ぶ。ドラゴンクエストの竜王の持ちかけではないが。安倍内閣下で財務大臣と副総理を兼ね、皇族の縁戚になっている麻生太郎氏がやっていることは、天皇という極悪人と共に国民を奴隷化することではないのか。そんな役割で金を握るならゼロからやり直すがいい。

2019年2月3日

ツイッターや絵を売るのをやめたい話

よく考えるとツイッターが低俗でないはずがない。なにしろ一般大衆が雲集しているだけなのだから。選り抜いたところで高が知れているとしても、それは当たり前のことだ。私がこのしくみに期待しすぎていた。
 数ヶ月ツイッターに参加してみて分かったが、ここはひどく低俗で下らない連中が知性的とは到底言いがたい排他的で差別的な内輪の雑談をしているか、金儲けをしている人達が自己宣伝の媒体にしている様に見える。
 他の超一流とは到底いえない、まあ一流に足りない二流以下の文化的な活動をしている人達が近況報告などに使っている場合もみたが、この人達ときたら下衆とたわけるのを目的にしているらしく、フォロワー稼ぎのため実に下らない俗受け狙いの自画自賛ばかりしているのだ。
 私は元々金儲けというのには全く興味がなく、単に生きていられれば他はどうでもいいとおもっていたし、私の楽しみは知的な本を読んだり音楽を聴いたり、自然を眺めたりすること、後は(人物画を描く為ダ・ヴィンチの勧めによって)人の美の観察くらいだから、カネ儲けはそこには全然入っていない。
 金儲けに興味がないので一円も手に入れようとしたことは無かった。今も一生金儲けしなくていいならどれだけしあわせだろうと思う。よく考えてみると、私がアメーバ・ピグというSNSで震災の現地報告をしてみようと思った時から、問題がはじまった。
 そこにはいちご、というニックネームをつけた男やタクマという男がいて、私の周りで盛んに金儲けの話をし、特にいちごは私に起業をもちかけてきた。私はこれのせいで2年前、ゲーム制作で起業の様なことをしてみた。本心では経済の勉強になるかと思ったからだったのだが。
 確かに実際に起業の真似事をしてみると経営学が必要なのがわかるし、実践的に色々理解できる様になる。その点はよかった。タクマの方は投資自慢ばかりする男で、私はこの人やいちご、他に短期投資のたもつという人の影響を恐らく多少受けて、次には投資の勉強もしてみようとした。
 それが恐らく調度一年くらい前で、実際これは勉強になった。具体的に投資商品を買って実践してみるとどういうしくみになっているか、経済の全体像が垣間見れるからだ。
 去年、ある人が配信で声を聴きたいというので、以前少し試してみたことのある荒野行動という流行のゲーム配信を実験してみようと考えた。これはゲーム制作を実験したことの一貫で、私のほぼ全く売れない作品との傾向の違いを調査するためでもあった。
 で、これをしばらくやってみたのだが、大体中身が分かった時点でやめた。私に分かったのは通俗的分野は、全く向いていないということだ。私の中にその要素が少なすぎる。私はもともとむしろ高尚なものに向かおうとする傾向があるか、最初からそこまで低俗になれない。
 スマホもiPhone4sしかないし最新のゲームはろくに動かない。PCのエミューレターでは大して機敏に動かないし、結局、長くやっても他の俗受けする配信者らにまさることもないだろう。この様な経緯で私はゲーム配信はとりあえずやめた。
 それで今年になる前に、どちらかといえば視聴専用で使っていたツイッターで宣伝したら絵が売れるか実験してみたのだが、今年になっても全く売れないからこれも不可能であろう。しかも最初に書いたよう、ここにいる人達は内輪で雑談したくているので私と同じ興味がある人とはちょっと思えない。
 で、改めて今思うのだが、私はもともと金儲けに全く興味がないのである。正確に言うと、小学校4年の時は適当に文集に将来の夢は金持ちになって好きなだけ金を使うことと書いたのだけど、他にもゲームクリエイターやサッカー選手も夢と書いたし、金持ちなるものが実現するか定かではない。
 私は高校の時に画家になれそうだなと思ってその道を自分にできる限り正しく進んできたのだが、これ自体は全く間違っていなかった。実際今もそうなのだから。そして高校の自分が見たらへえ、こうなるんだ、と思う様なくらいまで絵自体は進歩してきている。高校の時は描けなかったものだからだ。
 私がなにに興味がないかというと、たぶん競争なのだろう。他人に勝るとか負けるとかいうのに興味が無いのだろう、多分。だから世間がカネカネいっていると逆に「うわ、競争くだらね」と思ってそこから遠ざかりたくなるのだと思う。
 改めておもうのだが、世間がカネカネいってると、自分はどんどんそれが嫌になる。どうせそこに巻き込まれてもろくな目にあわない。いつも世間が騒いでいることは大概がそうなのだ。とりあえず2、3年くらい試してみた。やはりそうだった。絵を売るということについてもそうだ。
 私は絵を売るものだとは全然思ってこなかった。私に興味があるのは金儲けではなくて、よい絵だったからだ。だが又もアメーバ・ピグというのにいたミューデという女が私に、売ってみろ売ってみろというので、3年だか2年だか前に試してみたわけだが、どっちかといえばやってみて後悔している。
 先ず自分は自分の絵をできるだけよくする為に、自分の絵をよいものだとは思わないように訓練を重ねて20年くらい経つ。そうするとその絵の価値は描いている間は命より重いくらい真剣に描くが、それを金銭的価値に換算しようとすると命の価値なので、無限大になってしまうし、自分の為には0円以下にしなければいけない。
 こういうわけで私は絵は金銭価値に換算できないと思っているし、美術市場にも全く興味がない。絵のよしあしについての目は確かに持っていると思うしそれを最大限鍛えてきたのは確かだと思うが。
 こういう理由もあって、私は絵を値づけして売るというのは実質、自分では感覚上も論理上も不可能なのである。
 で、もう絵を売るのはやめたいな(といっても2、3年しかやってみてないけど)と改めて思っているのだ。今。ツイッターもなんだけど。私は低俗な感じがする場所というのはどこでも好きではない。東京にも長く住んでいたけど、それで好きになれなかった。
 ぜんぶ0円にしても私の絵の正確な意味での理解者というのはこの世に1人もいないので、今の様式では1枚も売れないであろう。
 私が前から悩んでいるのは、stores.jpというサイトの設定では0円にできるんだけど、これで置いておいたらストアーズは置き損になるから私を排除しないかな? 1円でも売ってあげないとストアーズがかわいそうなんじゃないか、ということだ。
 まあどうせだれも見てないかもしれない、というより多分みていないので、意味のない悩みではあるのだが。

孤独に耐える力

tachi氏のツイートへ宛てて)
ひとりも自分を認めてくれない中で、気が遠くなるほど長い間努力して自分で自分を励まし、なんとか死を免れてきた私は、そういう経験もあまりというかまったくなかったです。したがって恋人が見つかる幸運な人以外も沢山いるはずですよ。
 私の意見は広瀬さんとかなり違うので参考にならないと思いますが、私は世界中のだれも認めてくれないのは当然で、一人きりで孤独の中で何とか仕事しつづけなければならないという経験を人生の半分以上ほど(20年くらいです)してきたので、恋人が必要だという意見ではない。強靭な精神は色々あります。
 だれもにあてはまることではありませんが、世界の中でたった一人きりになっても生きていける強さというのも、時に必要です。僕は恋愛に興味がまったくなかったので、ずっとそうでした。
 もし広瀬さんの意見が全てだとすると、恋人が見つからない人、あるいは恋愛に興味がない人は永遠に孤独のまま立ち直れない、自己肯定できないということになってしまうので、それが必要条件ではないといいたいのです。性的不能な人や無性(asexual)な人など、色々います。私はどちらでもないですが。

凸凹道の人生

広瀬隆雄氏のツイートへ宛てて。筆者が大約すると、凪のよう波風の立たない人生、故障しない車のような人生を理想とする現代日本の主な価値観がある。だが、世の中には故障ばかりしている人間が沢山いる。そういう人達の存在意義はないのか。広瀬氏なら手間がかかっても乗ってて楽しい車の方がよい、という例え)
心が楽しくなる素晴らしい意見だと思います。現実には大変ですが、そういう車にあたる脳や体を、生まれつき宿して生まれてきてしまった人にとって、人生はでこぼこ道の連続です。

2019年2月2日

商才が無い人の生存権弾圧を日本国政府と日本国民全体はやめてほしい

ツイッターが誤検出とかで1日も止まってた。
 SMS認証してくれと出るんだけど、SMS認証コードを10回以上送り直してもドコモの携帯にこない。1日待ってもこない。ドコモの携帯でSMSはぜんぶ受信にしている。Gmailでといあわせたら1時間くらいで解除はされたんだが、理由が誤検出ってかいてあるだけで、再発防止は書いてない。
 インスタ公式とかSNS間でツイッター連携してるだけなのだが、たまに自動化ルールに触れるとかってロックされて困る。SMS認証コード届かない問題も不安だから、詳細にといあわせた。
 自動化ルールの文面は英語しかない。よく分からなくて不安だから、はやく和訳してほしいと書いた。SNS連携はルール違反なのか? 違反でないのか? はっきりしていただきたい。
恐らく現時点ではSNSツイッター連携(これしかやってない)は自動化ルール違反ではないようなのだが(DO!のところにBuild solutions that automatically broadcast helpful information in Tweets.とある)、英語が完全に読めてるか怪しいのでちゃんと日本語でも書いて欲しい。で誤検出はないだろう。
 で、SNS間の連携なんて今後やらないとどうせどんどんSNSサービスふえてきて、ぜんぶを手動で更新通知送るなんて今の時点でも無理な以上、もっと無理になっていくに決まっている。ツイッターの「大量に自動生成されるスパムアカウント」自動検出が、SNS連携機能に引っかかるのはシステムの不備でしょ。
 私は電話連絡を親としかとらないしそれだって1年に1回も使わないくらいなので、携帯電話代金はすごく高すぎると感じている。収入もとても少ないというかすずめの涙以下、ミトコンドリアイブとか、珪藻の涙とも思えない水滴より少ない。
 具体的には全力で努力して年収3万以下(それも寄付と年に1枚くらい売れる絵の収入)? で他投資と損益通算したら総合赤字なので、ドコモは搾取だと思っている。生まれつき商才がまったくない、という人の苦労がわかるだろうか?
 なにか贅沢代につかってなどいなくて寧ろこの数年、節制して何も買っていない。事業に投資してもリターンがマイナスなのだ。全精力と全知能を駆使して、それでマイナスになるのである。芸術家になるべくしてなる、決して商売人には向かないという人がこの世にはいる。それが私だ。
 そういうことでドコモのぼったくりと私には感じられる携帯は、それも節制のためずっとガラケー契約なんだけれども、これは先月か今月中に解約しないとというところまで経済的に追い詰められている。
 支出を削ることでしか収益のマイナスを補えないからに過ぎないが、それが私の経営能力なのだからしょうがない。
 が、SMS認証だの二段階認証だの、格安スマホ契約代金やその本体料金以上の支出を前提にする制度を、大金持ち企業たちは平気で使っている。私にとっては大いに不条理だ。ねるまもなく全力で働いてもそんなカネを払う能力は私には全然ないのだから。
 今月中にドコモ携帯解約して、携帯自体をやめたいのだけれど、親が連絡できないと不安だというので仕方なしにもっと安いソフトバンクのプリペイド携帯にしようと考えていたのだが、これも番号ポータビリティとか使うと3000円もかかる。そんな大金は私の銀行口座に入っていない。
 3000円も払えたら苦労はしないよ、という話で、SMS認証を必須にしてくるツイッターは近々、私の仕事の範囲から外れるかもしれない。番号ポータビリティ使わずに移行したほうが節制になるからだが、このプリペイド携帯というのも曲者で、こちらから親(親以外には連絡しない)に連絡できないのだ。
 正確にはこちらが課金すればできるが、生存確認だののために毎月、私には預金額を超えた維持代金を払わねばならない。それを払うための銀行口座残高は最初から私には無いのであって、親が負担する。だが親に余計な負担などかけたくはない。であるから、私はこのプリペイド携帯もできたらもちたくないのである。
 つらつらと考えてみるに、なぜ私に商才がまったくないかといえば、私が愚かだからとは恐らくいえないのである。私は商売というもの自体が大変嫌いで、やることが苦痛なのだ。その苦痛さはすさまじくて、大体、舌を噛み切るくらいの痛みといえば適切なたとえとなるだろう。
 そうとはいっても生活費を稼ぐだけの苦労は甘んじて受けねばならぬので私としても全生命力を費やしてやるのだが、商売が全くできない。どうしてかというと、私の中には世人がもっているようなある種の俗物性のようなものが殆ど全く要素としてないのである。
 だから他人が一体なにを欲しがっているか、いわゆる需要というものがさっぱりわからないのである。想像もつかなければ、現実に見てもにわかには信じがたい。なんでこんなアイドルの幼稚な歌に大金払うんだろうとか、なんでこんな下らない漫画にお金払えるんだろうとか、まあ感覚が全然世人と違うのだ。
 別のところで書いたことがあるが、私は神になりたいという夢をもって生きてきた。はたちくらいからそう思い出して、十数年後の今に至る。神が全知全能全徳の存在で人を超えたものであれば、その神が世俗の商売をするかといえば多分しないだろう。なので、私も世俗にまじわらないように生きてきた。
 要するに私の内心からいって、商売なんて世人がやればよいもので、私には興味がない。しかし肉体は人間のものであるから、その人間としての肉体を支えるだけのことは一応やらざるをえないのだが、動物化を喜んでいる他の人間のことまで分かるはずも無いので、消費活動の予想ができない。
 こういう理由で私には元々商才もないようにおもうし、そもそも自己利益を追求するために他者から付加価値の名目で上前をはね、あるいは取引先や労働者らを搾取するような蛮行は私には到底耐え難い苦痛である。私自身そのような卑俗なことを進んでやるためにはあまりに自己の魂が高潔なのだ。
 いちおう経済活動に参加しなければ、日々の食べ物すら事欠くので、やってみたのが2年前くらいからだ。最初は勧められ絵を売ってみたがろくに売れないので、もっと世俗的なのがいいのかと思いゲームを作って販売し寄付を募ってみたりしたがこれは同じくらいかもっと売れない。全然商売ができない。
 で投資というのをやっている男を見かけたので、これについて重々勉強しながら試してみて今に至るのだが、これは当然他の人達と同じ結果である。つまり損失の方が遥かに大きい。
 米Apple株の一時的な浮揚があった時にその1万円くらいの含み益から、ブログを書く道具が壊れていたので中古iPhone4sを3000円で買ってみたが、その後、同株価も下がって含み損になっている。これが私の投資の全成果というか収穫物で他はおよそマイナスである。
 ツイッターその他の企業もSMS認証だの二段階認証といった金持ち用の制度を普通かのようにするのをやめて、いっそなくしてくれればいいのだが、そうしそうにない。そもそもこのジョブズの遺作では二段階認証アプリさえ使えない。でiPhone4sを格安スマホで契約するのは、050番号だと110番できないから恐ろしい。
 日本国憲法では健康で文化的最低限度の生活を保障する、とある。
 勤労や納税の義務をだれより果たしている(この十年くらい私以上に勉強仕事両面に努力してきた人は世界中でだれもいないと確信をもっていえる。私は正真正銘、高校卒業後、1日も1秒も休まず勉強と仕事しかした記憶が無いのだ)私から、その権利は奪われている。
 納税についていえば、私は元々払う金もないけれども、その殆ど0程度の貯金から全て滞りなく当然ながら払っているし、今後も払うつもりである。
 健康で文化的な生活を私に保障してくれているのは、憲法に規定されている政府ではなくて、なんと私の老父母なのである。恐ろしい話だと私も思う。私に商才が生まれつき欠けているがために、寝る間を惜しんで全力で働いても、生きるだけの金が手に入らない。
その上、私が貧者の一灯で貯金を事実0まで削りつつ血税でなんとか支えている政府は嘘をついて私を騙し、基本的人権を侵害しているのである。
 生活保護を受ければいいじゃないかと思うだろうが、親に相談してもそれはもらえないという。働けというから朝から晩まで働いているが、私は他人がなにを需要しているかなど私の魂と他人のそれのあまりの違いに全く分からない。
 ファンダメンタルズ(本質群)と呼ばれる収益性の指標が出ているため直接商うよりは予想がつきやすいともいえる株式投資において予想しても、やはり他人がなにを欲するかなど想像がつくはずもない。私が欲するもの、つまりは神性とは全然違うのだから。
 今後も私は神性を手に入れるためこれまでと変わらず1秒も休まず全力で勉学していくつもりだが、そのどこかの時点で他人の欲求からくる需要を予想する能力を手に入れ、生活費を得る商売に生かす方法をみつけだすかもしれない。だがその前に私が餓死するほうがはやくくるのではないだろうかと恐ろしい。
 まあ餓死したらしたでしょうがないというか、別に生まれたくて生まれたのでもないし、私の意志で生まれてきたのでもない。私に商才の遺伝子が生まれつき無かったからだから遺伝子の違いは避けようが無く、それ以上なにもできないともいえるが、基本的人権を日本政府や日本国民が侵害したのは事実だ。
 勤労度なら世界中で私に勝るものは無いと断言できる。むしろ私は疲れ果てて倒れて寝るとき以外は1秒も休まず働いているし、あまりに根を詰めて働くので極度の疲れで用を足そうと座ったところ吐き気と共に意識が朦朧とし、過労死しかかったことも1度あるほどだ。
 税金も、寧ろ商売はじめ経済活動全部が好きではない私の取り分など0でいいので、生存さえできれば全額税金にやってもいいとおもっているくらいなので、当然のことながら全世界で一番払っている人だといってもいいであろう。実際、貯金が0に限りなく近づくところまで現に正規の税金を払ってきている。
 子女に普通教育を与える義務ということであるが、子孫を持っていない私が年少者へ熱心にさまざまな知識や知恵、倫理道徳含む諸般の世事での注意点(いじめはなぜいけないか)などを教え諭してきたのも事実であり、この際の教育費もまったく私の取り分を大幅になくすまでに費やしてきたのも事実である。
 そういうわけであるから、私のよう、遺伝的なり後天的なりに商才が全く無い、という人も勤労・納税(貯蓄額が少ないほどそこから支払う血税の痛みは大きい)・教育などの面で他の商人を大いにまさるという現実があり、私がまさにそれなのは私を知る者や神にとって疑う面はまったく無いであろうと思う。
 ツイッター社や、その他のネット関連企業はSMSなど携帯・スマホを必須にする認証を早期にやめるか、少なくとも私に費用がかからない方法も採用して欲しいと生存確保のために思う。さらに日本政府と日本国民全体には、私の生存権を保障するという憲法規定を遵守するよう求めたい。それが国民の義務だ。
 更にツイッター社は、SNS連携による他SNSなどのサービスから手動で投稿した際、自動化スパムアカウントと誤認しないようしくみの改善を求める。そのたびに1日近くかかったり、数時間なり数分とはいえ心臓に悪い目にあうのはもういやなので、ツイッター自体やめようと思うほどストレスがあるのだから。
 どれほど商売を全力でやって働きまくっても1円も儲からず、むしろ赤字になるばかりという遺伝子なり後天的な脳の性質をもっている人というのがこの世にはいる。
 私がそのひとりなのが現時点での事実であり、それは勤勉さの欠如からきているのでは全く無くて、過労寸前まで努力しても無理なものは無理なのだ。
 勿論今後も努力は続けるし、全生命力を懸けて商売を学びつつ実践はするつもりだが、生まれつき苦手なことを否応なしに拷問される苦痛の激しさは果てしない針の筵を全力疾走するようなものだ。私は血だらけで走っているのでもう足も駄目になって死にかけているが、まだ走らせようというのが日本なのだ。
 拷問は日本国憲法だけでなく確か国際人権規約などで禁止されていると思うが、私にとって商売をする苦痛は、まさに拷問だ。そのことは商売嫌いの人にしかわからないはずだ。私へ拷問を強いてくる上に私が血税を最大限支払っている日本国政府や日本国民は人権侵害者にして天敵のようなものになっている。
 私は15歳の時、磐城高校というところでの最初の美術の授業で手のデッサンを描かされ、そのとき直観として絵を一生やれると感じた。それから20年、私はずっと絵を探求し、周囲の無理解は無視し、画業への妨害は知恵と勇気で回避し、足りないことを営々と補ってきた。その過程は私には恐ろしく大変で、また複雑すぎ、多分私以外にはだれもできない。ところで私は生活のため、商売も学んで実践しているが商才がない。なぜその私が拷問を受けるのか? 画家は拷問を受けるものだというのが日本国なのか?
 今の私が置かれた状況というのは、絵画史全体のなかでいえばゴッホが経済的困窮で追い詰められていた状態を知っている人なら、絵を探求していない一般の人にも少しは想像がつくのではないだろうか?
 私と彼とは全然タイプが違うし、絵の中身も違うし、私の方は精神疾患も負っていない。しかしパトロン(原義は父親という意味だが私の場合はまさに父親の扶助だ。セザンヌのように)に援助されねば一日でも生きながらえないという商才のなさは同じである。
絵を探求するということの並大抵でない苦労、特に換金しやすい様な俗受けするタイプの売り絵とは違う、心から自分が描きたいと思う絵を探求する純粋芸術的な前衛精神をもったタイプの画家の苦労は、多かれ少なかれ私と同じかそれ以上に生計を追い詰められていると思う。私は既に貯金を1円も使えない。
 私は既に貯金を1円も使えない。大体2000円くらいしか全貯金はない。他は投資に回してしまって手元にないし、そもそも投資に回している額も総額あわせても20万くらいではないだろうか? 画代の足しにしようと思っているだけだが赤字ばかり膨らんでいく。
 まあ世間の人は私よりほぼ全員が商才があり、商売の才能が全く無い、努力してもカバーできない遺伝子なり後天的な脳の持ち主など、自己責任論でやりこめてしまえと思っているのだろう。だから前衛画家らは多くの場面で極貧と死の間際まで追い詰めながらも、何とかパトロンの庇護で生きてきたのだ。
 結局、私は初心を貫徹するため、絵の探求を諦めるわけにはいかない。それも単なる埋没費用であってすぐにやめればいいと経営学が少しあれば判断するかもしれないが、少なくとも私の収益(年に最大で3万ほど)の殆ど全てが私の絵を買う人から代金として得られているので、これは間違いだ。
 私が経営学を正しく用いれば、選択と集中によってその3万円程度の絵の収益を拡大するべきだ、ということになる。だからその通りにしているのだが、今年はまだ0円だし、今後も得られるかは不透明だ。
 いずれにしても、金儲けの能力が全く無くて勤労や知識・知恵と無関係に生活費を得られないタイプの仕事というのがある。純粋芸術という分野を志向する人々は全てその種の貴族的な精神的態度、つまりは無欲さを要求され、極貧においつめられる必然性のある職業に、否応無く従事するしかないのである。
 生活保護を純粋芸術家らに与えるべきだ、と私も同意するが、日本国はなんと、純粋芸術家らにはそれを与えない。じゃあどうして生きろというのだろう。ツイッターの規約上はっきりとは書けない点だが、はっきりいって日本国民全体が、純粋芸術家らをいじめている、極貧に追い詰めいたぶっているだけだ。
 日本国民全体が、純粋芸術に属する職業の人達(画家、彫刻家、音楽家、詩人など)に対して無意識に悪意をもち、商売にならないという点で極貧においつめ、しかも制度の矛盾を悪用して生活保護等を受けられないようにし生存権を弾圧しているのが私の生きている現実だ。これにつき日本人を強く断罪する。
 日本国は純粋芸術に属する職業の芸術家、アーティストを生存権について迫害している。日本国民全体がである。この一点をもって日本を文化的な国、文化的国民からなる国とは到底よべない。皇族がたは私達の払った血税で贅沢三昧し、芸術家は拷問を受けている。
 そのくせ芸術家による作品の名誉は極貧での餓死後、皇族だの芸術家いじめをしてきた日本国民全体が横領する。これのどこが文化的なのか?
 今後も同じ状況が続く限り、換金と無関係な職業に就く高等教育等を受けた我々への拷問、即ち生存保障を出し惜しみする悪行は人道に対する重い罪として、私が全芸術家を代理し全皇族を含む全日本人へ向けここに激しく断罪するものである。
  純粋芸術にあたる絵画が内面的欲求に応じた独創の産物だ、といった風に書いたが、これは正確ではない。もっとはっきり詳しく言うと、それは芸術史、美術史を更新する絵でなければならず、模倣性自体への批評的観点を含め完全に独創的でなければならないので、本質的には個人の恣意と無関係だ。
 この点で世人は、純粋芸術の画家がただ好きなことをしているだけだ、と勘違いしている場合がある様だ。それは全くの勘違いだと断言する。そうではなく、真に描くべき絵は無私のものなので、逆に世俗の価値観を全く超越したものでなければならない。その前では自己の欲など投影してはいけないのである。
 私が「心から自分が描きたいと思う絵」と説明したのは、非常に通俗的な説明の仕方で、より専門的にいえば美術史の中で最も前衛的で過去のあらゆる傾向や様式を塗り替える類の絵でなければならず、それは大衆の需要とか好みと課とは全く関係がないのだ、ということであった。
 我々が知っている過去の偉大な画家たちの中でも、最も人類に与えたよい影響、それも創造的な領域の拡張という意味での栄光が確認できるのは、その種の非商業的かつ非通俗的かつ当時の世人の流行から最も遠い非大衆的な絵であって(これらも単なる要素だ、傑作の全てを言い当ててはいない)、しかも専門的知識の深い画家や一部の優秀な批評家にしか分からない類の様式的更新がある絵である。それが当時において最高度に高尚で、また将来に続く多数の次世代にとってもそうであるような時代の粋として記憶され、今日我々に美術史を構成している。
 だから恣意的な職業が画家なり純粋芸術家だとおもっているとしたら、それは単にその人の研究不足なのだ、と私にはいえる。描くべき作品は世人のいう好き勝手さやわがまま、いわゆる野放図な放恣とは、独創性の拡張による真の自由度の更新という意味でだが殆ど大きくずれているのだから。
 純粋芸術が放恣による遊びだと勘違いしている愚者が、恐らく私達の誠実で立派、しかも高度な知性を酷使する仕事への無理解からそれが換金されないことを自己責任であって生存権を与えないのが当然だと思っているのだが、それはその愚者の死後、全くの間違いだったと必ずや証明されるであろう。
 既に人類史が実証してきたとおり、当時の傑出した偉大な精神の表現は、当時の世人の死後も未来にその当時の唯一の記録として残される。つまり、純粋芸術家の本来の仕事は同時代人からの金儲けでは全然なくて、未来にこの時代の精神のうち最美のものを伝え残すことなのだ。
 同時代受けを狙って多少なりとも不純でどうでもいいような些事をその作品の中に要素としてでも残すのは、未来人にとってのこの時代への評価を随分と下げるばかりか、汚名になりうるものである。だから我々は俗受けを避けたり通俗性を軽蔑もするのだし、現世の大金より未来の名誉を求めて生きている。
 私達がいなければこの時代はろくなものではなかったときっと未来人から思われるだけだろう。文化的に劣悪で、単に下劣な精神、卑猥さが支配した最低の退廃期だったに過ぎないのだろうと。私達純粋芸術家は世人の無理解や清貧さによって死の間際まで追い詰められながらも、未来人を説得する。
 この時代にも美質があり、理想があり、全てが卑俗でどうしようもないのではなかったのだと。この時代の中でも最善の人はこのように美しく生きようとしていたのだと、立派だったのだと。決して昭和や平成も、ばかにはできないはずなのだと、未来人に語りかける。真摯に、全力で、誠意と真心をこめて。
 確かに現実の後期昭和人や平成人は随分下劣であった。これでも高く評価しているほうだ。私がこの2つの時代に実際に生きてひどい目にあったその不幸や不快の念、慙愧の度は筆舌に尽くせぬ。だが私は芸術家、しかも純粋な芸術家だったので、私にみいだせる最善最美の部分だけを何とか残そうと決心した。
 私を差別したり、私に濡れ衣を着せたり、一方的に名誉毀損をしてきたり、精神病者扱いで抹殺しようとしたり、芸術作品の制作を妨害してきたり、一円も払わず作品だけ盗み取り暴言を吐いてきたり、昭和平成人の現実の野蛮きわまりない品性下劣さと、私自身の内面の神々しい魂は真逆に位置していた。
 だからきっと未来の人類は、昭和平成人の代表者とは私なのだと、この鈴木雄介と名づけられ生まれてきた人物が、この時代の精神の粋なのだと、最高の美意識や哲学の持ち主なのだと必ずや認める。それが私の仕事だった。それだけの成果は十分あげてきたつもりだ。天も私もそのことは知りすぎている。
 来年からは別の名を元号でつけられた時代がはじまるが、私はその時代でも変わらず誠心誠意仕事を続けるつもりなので、死に至るまでそれは続くだろう。なにびとも私の自由を侵害できぬ。神ですらできなかったのだ。だから私はいう、私の仕事を続けられないまで追い詰めている日本人は不当な妨害者だと。
 文化的で最低限度の生活保障を日本国憲法を遵守して、粛々としていただきたい。私は他人から一円でも多く掠め取る気はないのだから、商人では全然ない。ただの芸術家だ。私の生活費が現に貯金が2000円でいて、あるはずもない。パトロンである両親が亡くなれば年金もなく、私は生存できない。
 日本国民全員はこの芸術家なるものの高貴なる職業特性を重々勉強した上で、私達、未来のために立派な精神を宿した非通俗表現をする純粋芸術家らを真に文化的な存在と認め、全人類含む未来の諸文明のために生存保障することを必須としなければならない。
 これは私ひとりのためでなく、偉大な芸術家ら全て。いや彼らを含む全人類のためにいうのだ。換金できる芸術などあってもなくてもよい。それは代替可能なのだ。娯楽は他にもあるではないか。真の芸術はカネで価値をはかれるものではない。その証拠が美術館や博物館に沢山あるではないか。
 当時売れたかなどどうでもいい、我々が知りたいのはその時代の精神の中で最も未来に残すに足る、現代の我々が知っておかねばならない最高度の粋だけである。真の芸術、純粋芸術は必要不可欠なものだ。それがなくなれば、この時代に生きていた人達は未来から汚名を着せられてしまう。俗悪だったのだと。
 国際司法裁判所や国連人権機関(国際連合人権理事会など)が現状の日本国民全員が、批准済みの世界人権宣言など人権関連規約を破り、総意で日本人の生存権を蹂躙している、という事実を公にするのは私としても心苦しいのだが、私が餓死するよりそちらの方が遥かにましなので現実にする必要がある。
 窮鼠猫を噛むというが、私のよう知徳の探求について過去の全てを含む全人類に伍する者はないというだけ全生命力を長い間集中してきた人物を餓死に追い詰めている日本国民全体は、人権侵害による人道に対する重大犯罪を公にされるだけのことはしているといえるのではないか? 私は間違いなくそう思う。
 まあここで日本国民全体が反省せず、生存権侵害を続けるようなら、国連等と共に私は全力でこの国民全体と戦い抜き、必ず人権を再確保するつもりでいる。人権規約遵守の義務違反という罪への無反省の結果、日本国が世界中の全人類から芸術家の天敵だと知られ責められることがあるだろうが、仕方がない。
 期待は薄いにせよ、一応、このような日本国民全体の生存権侵害という重罪を全世界の人道的国連組織などへ公にされる前に、おのずと自らの大悪業を反省し、私に文化的で最低限度の生活保障をするよう、私の血も涙も搾りきった公共の税金を食らう皇族や公務員を含む日本人全員は猛反省するように。
 商売なんて人がしねばおわりだし、カネも墓場の中にもっていけないし、そもそも天皇政府が発行した交換券なんざを他人より一枚でも多く寡占する児戯に夢中になるなどありえないほど幼稚というほかないだろう。芸術は永遠だ。
 永遠に重要な仕事を極貧まで追い詰め弾圧し、どうでもいいような仕事に腐るほどカネをあつめ浪費しまくるとはどういうことなのか。日本国民の良識を問う。

2019年1月30日

言語による自己表明

私はもう二度と、日本人達の集まりに進んで参加することはないだろう。そこから何か立派な成果を得られた試しがないし、どちらかといえば彼らの想像を超えた下賎さによって被害を受けることがほぼ全てだったからだ。
 私は日本語という母語をもっていて、それに諸言語で最も練達してしまっているのが、一番私にとって困ったことだ。この母語を捨て、日本人達の陰湿で個性を弾圧する最悪の集まりに参加する危険性を最大限避けることができればそれに越したことはない。私は努力して他の、もっと利他的で善良な人々が、個性や独創性を認め合う仲間に入りたい。外国語に熟達するのは難しいが、私にはそれしかないのだ。
 本当にできるのか? そもそも母語を捨てる必要があるのか?
 もう一つの懸念は、いかなる外国語を学んでも、いずれの国にもその様な善良な仲間などいない、ということだ。いやこれは懸念でさえなく、恐らくではあるが一定の真理なのかもしれない。ブッダがいう通り。では、何の為に私は言語を持って生まれてきたのか? 私に害を為すだけの下らない人々に、何かを説く為? 私は自分より優れた点をもつ人々から学んできたが、かれらの中の一人が説く文芸に熟達する方法を実践する為に、こうして何かを思い、書いている。文芸の能力など無用で、思慮の全ては脳内におさめておけばよく、外部にあらわして言語によって明快にする必要はないのかもしれない。ある思いの表明が、それに共感する仲間をつくる作用だとすれば、自分が最も得意な言語でそれを公衆の便覧に供していればいいのかもしれない。

ツイッターで信者ビジネスに冤罪をかけられた話

はじめに

 きのう(2019年1月29日)とおととい(2019年1月28日)、あるできごとがあって、私は今ある感情を感じている。今日(2019年1月30日)起きたとき、その感情は非常につよく、まどろみの中まだ意識が無意識を覆っていないときのものなので、潜在的な感情なのだろう。今もなお残っているこの感情が、ときの経過と共に薄れ、あったできごとの詳細も忘れてしまいかねないので、備忘録としてそこで起きたことをここに記録しておく。また私自身この感情を完璧に整理できていないので、状況及び心理的分析と共に、今後いかに生きるべきかを自己に開陳する狙いもある。

ツイッターアカウント

 私は実名によるツイッターアカウント自体は、ツイッターのプロフィール表示によると2015年9月16日に登録してあったようだが、その後、長い間放置していて、殆どみていなかった。私は別にホームページやブログを作ってもいるので、主にその更新を自動で投稿させているだけだった。ところで諸々の経緯があって、アメーパ・ピグというSNS内外で私が主催してきている哲学部という一種の文化サロンに一区切りおいて、自らのツイッターアカウントに本腰を入れようとしたのが、おそらく数ヶ月前だった。最初はそれまで別の視聴専用のアカウントで見ていた中から、主要な人達をこちらの実名アカウントの上でもフォローしていったのだが、更に普段は視聴していなかったが少々興味がある別の人達もフォローしてみた。使い方を覚える為だ。色々試行錯誤してみようとしたのだ。

フォロー数300人以後

 やがてフォロー数が300を超えてきたあたりで、タイムライン(色々な人のさえずりが流れる、ツイッターのホーム画面)の情報の質が下がってきたように感じた。特にある有名人アカウントが自己宣伝の為にか彼自身をほめている他人のツイートばかりをリツイートしてきてうんざりした。また彼は彼自身の著作と関連するあるハッシュタグ(関連ツイートをひきだす文字列)がついている投稿をリツイートしまくるのだが、私はその内容が嫌いだったので疲れてしまった。
 そのハッシュタグがひきだしている情報は、後悔という感傷主義や、悲観主義を含むもので、みればみるほど憂鬱になるたぐいのものだったのだ。積極的にこれらを無視していたのだが、それも認知力を浪費すると気づき、ツイッターの設定からこのハッシュタグを禁止ワードに入れて対策をとってみた。しかしなぜか同投稿はタイムラインから消えてくれない。彼自身の投稿そのものはしばしば知的な内容を含むという意味で興味深いので、また彼が自己宣伝をするのも自由なことではあるし、私は困り果ててしまった。
 それでさらに対策を打って、彼のアカウントだけは個別にみることにし、フォローをはずしてみた。その他、ツイッターの色々な使い道を試してみようと彼の興味深い投稿に返信を書いてみる、ということをはじめてしてみた。だが確かにそれ自体は私にとって新しい試みで、私自身を新奇性によっていくらか高揚させはしたものの、また別の憂鬱な点が発生していくのに気づいた。彼は彼自身を殆どなんの批評的意味も知的内容もなく、あるいは諧謔などの面白い要素もなく褒めているたぐいの、いってみれば賞賛ツイートだけを、それらの返信や引用の中から選別し、リツイートしていくようなのである。
 虚栄心というのは誰にでも多かれ少なかれあるものであろう。また商人として市場に参加せずに生きられる人が多数派とはいえない今の社会で、彼のようにいわば自画自賛をくり返す行状で、ひとり東京テレビ業界みたいなことをするのも、また完全に自由ではある。ただそうであると分かってはいても、私は彼のふるまいにある種の軽蔑の念を感じずにはいられなかった。それは決して彼の人格に対する毀損やらその他、名誉に関わる問題ではないとつけくわえたい。私がここで真に書き残したいのは、私自身の内面に起きた変化だけだからだ。
 私がどうして彼の振る舞いに軽蔑感を覚えたかといえば、端的に知的誠意に欠如があるからだ。少なくとも知識人と公認される者が、知的に意味のある内容とか、人類の道徳的展開の中で鋭く且つ有益な指摘をさしおき、商業的自己喧伝を優先するというのは、紳士の名に値するとは言いがたいものがある。勿論、彼自身が紳士であってもなくてもそれは彼の自由であるから、彼自身の人格的尊厳は必ずや守られているし、そもそも知的誠実性というのはあらゆる知能の中でもある一部の特性である為、普遍的に期待できるものではないだろう。ただ、私はこのような彼の振る舞いや、彼をとりまく人々の言行を重々観察していたのだが、そこで他のインフルエンサー(影響力のある者)とツイッター内で称している人々の行状と照らし合わせ、ある洞察を得て行った。はじめから直観はしていたが、次第にはっきりと認識できるようになってきた。
 ここからおととい以降に起きたことに話はつながっていくのだが、これらの前提なしには以後今日の私の感情に至るできごととそこで私が覚えた内容は、おそらく明快になりづらいので、あとからふりかえるに際して必要な条件として書いてきたものである。

インフルエンサー稼業に気づく

 ところで私が得たその洞察というのは、フォロワー達を多数あつめて、何らかの情報発信をしているインフルサンサー達は、いわば新興宗教の教祖と全く同じことをしているのだ、ということである。教祖ビジネスといえば分かり易い。
 あるインフルエンサーは色々と常識とは違う意見を述べ、大衆全体の中から自分の同調者を募り、彼らに向け慰めを言う。すると彼らは嬉しがり、いわばインフルエンサーの信者となる。更に慰め中毒となった信者らは、現実逃避のため教祖のご高説に玉串代を出し始める。
 インフルエンサー教義の論争をひきおこす明らかな偏見へ、一般大衆の反感は当然のごとく向かう。それはだまされやすい信者の上にも向けられる。結果、己は不埒な他者から迫害を受ける選ばれた者であるという神聖なる自覚、実際には大いに誤解や自己認識に歪みのある狂信的抵抗者状態を捏造していく。狂信者達を自在に洗脳できる上、オンラインサロンとか著作の販売とか、講演料だとか、幾らでも信者からの貢納金を徴収する手段がある為、「新興宗教一度やったらやめられない」状態を、なんと今日のインフルエンサー達は美味しい飯の種にしていたのである。
 そもそもアイドル稼業だとか、芸能人や政治家や、皇族や、作家の活動だとか、もっと以前なら芸妓だとか遊女だとか、歌舞伎役者、白拍子、相撲取り、あるいは武士や公家、その他サービス業種といった類のものにはいくらか似た要素があるので、必ずしもインフルエンサー業だけが新興宗教的なのではない。ここでいえるのは、インフルエンサー稼業に潜んでいる危険性の大部分は、新興宗教一般が陥り易い傲慢と類似のものであるということだ。我々はオウム真理教とか、神道政治がひきおこした重大な事故という歴史をもっているので、宗派的傲慢に伴う厄介な問題点の詳述は他の学者に任せる。話を進めよう。

フォローの整理

 私がある人物によるインフルエンサービジネス風の教祖賞賛リツイートにうんざりして彼をフォローから外したところまでは述べた。次に私がツイッター上でおこなったのは、煩瑣になりすぎたタイムラインを一度、最小状態まで整理しなおしてみることだった。これは私には有益だったのだが、というのは非常に慎重に人物の格や、表現内容の重要度を改めて評価し直すきっかけになって、自分自身の価値観をも整理できたからだが、ダンパー数と呼ばれる人類の脳が記憶できる100人前後の数以下までフォロワーを、私は減らしてみた。
 一度にフォローを外すとツイッターの管理者側は何かでツイッターを悪用している人達と勘違いし易いらしく、同様のことをするには一度にフォローはずしをしても安全な最大数と数あわせをする必要が今のところあるようだが、私は200アカウントくらい一気に外しても問題なかった。
 明らかに私にとって無駄な情報が減ったタイムラインだったが、今度は、私にとっての雑音さえずりも多いが、たまに有益なことをさえずるアカウントもフォローから外れてしまっていた。そこで、途中からリストを使ってそういうアカウントをフォローしなおすことにした。
 リストは非公開にできるようなので、もともと誰をフォローしているかを他人に知られるのは何となく気持ちが悪く、頭の中身を覗きみられるような感じがしていたこともあって、今も全て非公開に設定している。
 こうして私のタイムラインは平和になって、ツイッターの使い方もようやく慣れてきたと思った頃、私はいよいよおとといの事件にまきこまれることになる。それは私の作ったリストの一つである、同時代人に関するタイムラインでのできごとだった。

ソクラテスの話

 そのとき、タイムライン上にある引用ツイートらしきものが流れてきた。私はそこに書かれていることを読み取るために、当該ツイートを私が愛用でもないが長い間つかっているDELLのPC画面上でクリックしてみた。
 そのツイート集を書いた人物は理解力が十分あって、私の祖父設計の家の1階にはじめから備え付けてあるささやかだけれど思い出深い本棚の一隅に、忘れ去られたように眠っているはず岩波文庫『ソクラテスの弁明・クリトン』について、とてもしっかりしていて、またわかりやすい解説をしていた。私の岩波文庫のあとがきより優れているほどだった。
 その内容こそが重要なので、むしろ私が感じた随分な感動についての具体的解説や、過度の賞賛の数々を敢えて最小限度に抑え、一言「とても感動した」という最も単純な感想を述べておくだけにとどめた方が、却って私の内面にまきおこった諸々の感慨は伝わるのではないかと思う。
 ではどのような内容だったかといえば、ソクラテスという人物が古代ギリシアのアテナイでいかに生きたか、その高貴さについてだ。ソクラテス当人の目線から語られた、実に優美に、実に必要十分な筆順で、だれもに彼の置かれた立場や否応なかった刑死の悲劇が伝わるだろう記述で、とても一言ではいいあらわせない巧みな物だ。私はこれに大いに感心したので、その場で少しその連続ツイートの周りの状況を確かめたものの、どうやら連続ツイートを書いた彼がその最初の記述に伴う現代に最も欠けているものの一つだが、人類史の中でも最重要であることはまずまちがいない主張を、撤回しつつあるのをみてとって、たまらず返信した。
 すなわちソクラテスは果たして高貴であったのだが、我々はその貴族精神に自主的に見習うべきではないかという様な内容であったと思うが、これは私個人の記録であるから、完全に正確であるかについては保障の限りではない。私自身の主観的印象としてはその様に脳裏に焼きついているということだ。ちなみに私はこのブログにこのときした返信から、以後、ツイッター上でやりとりした全ての私側の記述については記録済みであるから、万一、この手記をよみなおす後生が、より詳らかにそのときの状況、特に私の側に起きた思いを知りたければ同時期の他のブログ記事からみてとれよう。私がそこでいわんとしたのは、彼のすばらしい記述の偉大さ、ソクラテス批評の最高限度のたくみさ、すなわち華々しい文化的功績への心からの敬意の念は十分いいあらわせたかは定かではないが勿論のこと、何よりこの哲学の始祖の一人がもっていた立派な生き方を見習おうとするその魂の美しさだった。
 私は文学や哲学、科学書その他なんでも読書といえば大好物な読書人の一人だと自身を認めるにやぶさかではない。なんといっても20代の間ほぼ全ての時間を、この読書の為だけにつかったほどである。したがって彼の記述の比較級を超えたすばらしい出来栄えや、そこで語られた思想の貴重性はすぐに認められた。今こうしてふりかえって記述しているだけでも、ソクラテスの一生に秘められた重大な精神の高みを改めて敬仰し、それを伝えてくれた偉大な連続リツイートについて考えているだけでなおその感動が蘇ってくるほどだといったら言い過ぎかと思われるだろうが、事実なのだ。
 話は打って変わって、私は彼の述べたソクラテス理解は全世界の誰に恥じるものでもないほど立派な解釈を伴っていると今なお信じるので、そこで掘り返された貴族精神という眩いばかりの宝の原石が、何らかの理由で主張全体ごと撤回されてしまう結果、再び暗黒の情報界へ永遠にうずもれてしまうのが悲しかった。このため返信の目的は、ソクラテスの命がけの高尚さを最大限擁護することだった。今こうしてできるだけ冷静になって考えている段階でも、当時のアテナイに実在したソクラテスの魂に触れられるようで、嬉しい。話がもっと打って変わるのが少し遅れるが、どうしても記述しておきたいこととして、ベンジャミン・フランクリンが「イエスとソクラテスを見習うこと」と謙譲の美徳を述べていた理由は、それまでソクラテスについての部分だけ釈然としなかった私だったが、遂にここではっきりとした。立派なソクラテス解釈を教えてくれた某氏には感謝しかない。
 私の返信は単なる貴族精神ばかりか、ソクラテス理解そのものの素晴らしさを称揚し直すと共に、これを永遠に哲学の殿堂へと私を含め全後生の模範の為に飾り置く為のもので、私心は何一つ混じっていなかった。他意はなく、後に記述するが他者から多少なりとも向けられた下らない難癖は全て私にとって付属的で全く意味をなさないものである。
私の返信は、その一連のソクラテス理解を含むツイートがもともと向けられていた、ある別の人物の元へも届いた。私はこの人物については少し前にツイッター上で見かけ、少し調べてみたものの、さほど詳しく研究しようとは思わず、殆ど興味があるわけでもなかった。

教祖の登場

 ところで便宜的にその人物を仮にAとし、また連続ソクラテスツイートを行ったもう一人の人物をBとする。私はBの掘り起こした重要な精神と、そこに含まれる立派な考えを、現代にあっても回復するのが重要だと考えた。単純化すれば良心に基づく自重、真心、恥を知る心、これらが同語彙の多義性に伴って若干正確でなければ、哲学用語としてカントのいう義務というような、貴族精神につながる美徳である。日本のネット文化が匿名掲示板を中心に全く自重のない無秩序や犯罪集団をつくりあげたり、現実文化でもいじめやしばしばそれを喜劇的にいいかえたいじりといった集団心理からくる負の同調圧力、空気の研究とか全体主義などで知られている、恥知らずで罪深い側面をもっているのは事実で、外国での日本学や日本人自身の社会学者が、これらをより詳しく分析していくのは是非とも必要である。天皇制ファシズムという太平洋戦争やそれ以前から続く、重大な大量虐殺をひきおこした戦時体制についてまだはっきりとした反省や総括が行われたとはいえず、制度の改良、再発防止策も進んでいない。
 しかしながら、Aは私の返信の意味を遂には解せず、Aには難しすぎるのでより簡単にして欲しいとの旨でいいかえをツイッター上にて要求してきたため、私なりにより簡単化し同趣旨を再返信したものの、それを理解するのはAにはやはり無理だったようだった。
 その後、Aはなぜか彼をとりまく信者の一部に同調を求めるツイートをくり返しはじめた。私にはこれらが幼稚にみえたので、また、もともとAを何かに向けて説得するつもりもなければ、単にソクラテスの精神をBと同趣旨で称揚するつもりだったのだから、相手どるのをやめようと思い、一日が経過した。

名乗り文化の3類型論

 睡眠をとってから目覚め、脳内も整頓されたところで改めて考えてみると、この話にはある重要な要素が含まれているのに気づいた。それはある人が実名・匿名・仮名のどれかを使って著作物の発表をしたり、社会的活動をするにあたっての文化的な特性だ。詳しくはこのブログの別記事にまとめてあるのだが、実名文化・匿名文化・仮名文化の違いは、それぞれ、主に実名が偉業を、匿名が悪事を、仮名が演技をしやすくするので、実名高潔者文化、匿名卑怯者文化、仮名特別者文化と、鼓舞する誘因ごとに一般化すれば名づけられると私はおもった。
 ところで再びツイッターを見てみると、Aはなぜか彼が仮名で活動していることを誰かから責められていると勘違いしているようだった。Bにその様な意図はないか、既に撤回済みだとB自身が語っていたようだったので、これは完全にAの被害妄想に過ぎないのだが、信者に向けて扇動のようなことをいっていた。私はこの段階ではAの理解力にまだ期待をもっていた。Aは哲学しているといっているようだったので、理解に時間がかかるだけなのかもしれない。それで名乗り文化の3類型論が、彼の混乱の整理にも役立つ可能性があるため彼へその内容を返信し、ブログにも同理論と関連する考えを記述していたので、リンクもあわせて返信の最後に掲載してみた。
 すると驚くべきことが起き、Aは対話をやめて誰かまとめてとか、このことについて動画をつくるなどといい、私にとって青天の霹靂ではあったのだが私をツイッター上でブロック(彼のツイートをみれなく)してしまった。私は彼について特に知らないし、また彼についてなにを語るわけでもなかったのだが。いまだに私は、単に名乗りの文化的類型を哲学的に分析すればよいと思うのだが、なぜかAにはそれができないか、なにかについて混乱しているようだった。その途中で、これは記録の為に書いておくが、Bが私のツイッターアカウントをフォローしてくれたようだった。また、Aが知性を称揚しているCという人物がおり、一連のことについて次のような意見を述べていた。
 Cいわく、匿名(彼は仮名という概念を使わず、匿名のなかに仮名を含めているようだった)で活動するAになんの落ち度もないと。私も全くそう思う。最初からそれについてだれも疑問はないだろう。
 それでこのCという人物なら理解できるのではないかと思い、というのもソクラテスや当時のアテナイ世界などについてある程度の知見をその人は述べていたからなのだが、私はやはり名乗りの文化的類型について話しかけてみた。

冤罪する信者

 するとここでも、もっと驚くべきことが起きた。そしてこの手記で、最もいいたかったのはこの部分なのだが、いきなり私に嫌疑をかけてきたのである。どのような嫌疑かといえば、「Aの匿名性を私が責めているがAになんの落ち度があるのか、誹謗になりかねない」などというのだ。これはこの記録を残している今でも、私には凄まじい衝撃で、殆ど天地がひっくり返るくらいの内心的傷害を受けてしまうのだが、最初から何一つAに興味どころか関心も殆どない私が、しかもソクラテスの高尚さや文化類型について哲学的考察をしているだけの私が、なぜかCに濡れ衣を着せられたのである。
 濡れ衣というのが大袈裟なら、ただのあらぬ嫌疑のようなものではあるのだろうが、そこに私は極めて大きな悪意を感じた。私がもし神として状況をみていたら、あるいは第三者として一連の事象を眺めていたら、確かにこのCによる言葉には失望に似た驚きを感じざるを得なかったであろう。
 一体なぜCがこのような冤罪、もしくは悪意ある嫌疑、あるいは単なる誤解か無理解によるこの心無い言葉を吐いたかについて、私の想像力を限界まで使ってその後、1日かけて考えてこれを書いている今に至るが、殆どわからない。ひとついえることは、私がCという人物に話しかけたのはそのときはじめてで、Aは自らのツイートでCを知性的だと称揚したようだったし、それ以前からCはAに詳しいか親しんでいるか、いずれにせよ親近感をもっているかのように私にはみえたので、Aにわけもなく同調する為に、A自身の被害妄想から来る錯乱となぜか全く無関係の私に、あらぬ嫌疑をかけようとしたのかもしれない。もしそれが単なる誤解や無理解によるものだったとしても、冤罪はそれ自体が人類が行いうるありとあらゆる蛮行の中でも最悪の類型の一つなのは自明だから、Cによる数ツイートが私には衝撃的だった。
 私は事態を察し、できるだけはやくこの悪意ある、もしくは無理解や妄想からくる錯乱が蔓延している人々の輪から抜け出、二度と関係しないようにしなければならないと危機感をもった。冤罪をこんなに簡単にする人がもし現実にいたらと思うと、いまだに背筋がぞっとするのを禁じえない。
 勿論ツイッターも現実の一部だ。Cも実名でのツイッターアカウントだったようだったし、濡れ衣による侮辱罪そのものもまれな場合にせよ成り立つので、私自身が被害者になるのを避けるべく、Cに一通りの挨拶を書いてその場をすばやく離れた。
 私はまたインターネット文化や、日本人達の実にげに恐ろしく、陰湿で陰険な悪性の一部を覗き見た感じがした。ツイッターがその様な場を生じさせるはるか前から、主に視聴者として界隈をみてきた私には、これはツイッターも悪意ある人達の媒体として近い将来、深刻で重大な事故につながるであろう余震とも思われた。
 私はAとCをミュート(こちらから相手のツイートが見えない状態にしていることは相手には伝わらない)し、一刻でもはやく不慮の災害から身を安全な場所に匿う必要があった。

義憤

 私の魂は繊細で、特に他人の悪意については極めて強く拒否反応を示すようにできている。そういう性質をもちあわせていない人にとって、すなわち鈍感だったり他人の悪意をある種の薬物のように簡単に消化できる人にとっては信じられないことだろうが、私にとってははらわたが焼ききれるより強い痛みだ。
 義憤。おおよそその陣痛よりはるかに強烈であろうはらわたの痛みを感じつつ、何とか他人の悪意が与えた恐怖感のなかで、自分という存在の根底から揺さぶる震度も知れない大地震がもたらす絶大な不安におののきながら生きながらえて、一日がたった。それが今だ。
 生きながらえようと何とか筆を執った私が、これらの記述をどんな面持ちでしているか、未来の私を含むかもしれない読者に想像はつくまい。唯一つたしかな真理として後生に伝えのべておけること、それは人の肩書きほどあてにならないものはない、という常識だ。

教訓

 私がこの2日、今日を含め3日間、教訓とすべきなのはある肩書きを掲示している人が、実際にはそれと正反対の性質の持ち主で、寧ろその人が成りたいが到底届かない精神的態度への憧れを示すものとして、肩書きを掲示していることがある、という重要な真実である。ある初対面の人を肩書きもろとも信じたが為になぜか裏切られ(不本意にブロックされ)、その人が知性を認めているといっていた別の初対面の人をも信じたが為に更にひどく裏切られた(冤罪にあたる嫌疑をかけられた)。どちらも人の肩書きや評価を信じることの危険を教えているツイッター上での経験だ。
 読者は、改めてこの経験を反省し、次の処世術を執る私をどう思うか分からない。ただ私はその方針を執るつもりでいる。それは二度とツイッター上で他人と議論しないことだ。原則的に返信も書かない。単に自分の意見を述べることこそあれ、他人とのやりとりは完全停止する。コミュニケーションしない。
 この世は本物のふりをした偽物が多い。人の肩書きを信じて痛い目にあった私だけでなく、誰かが別の誰かを評価している時にも最大限の疑いが必要だ。他人の評価には表面的な言葉の裏に意図があり、真実を語っているとは限らないのであり、そもそも評価自体が間違っていたり、評価基準が違う事さえある。

信者ビジネスの行方

 またインターネット世界での信者ビジネスの行方について、この短い手記の中で全て分析し尽くすには紙幅が足りず、別の機会にゆだねる。我々はこの新たな新興宗教がもたらす甚大な災厄を待っている段階だが、遠からずそれは起きるだろうし、既に起きている炎上の火の粉の一部が、偶然私にもふりかかったのかもしれない。実際、炎上ビジネスで注目を集め、派生的商品を売ったり広告収益を獲得するという手法は一部の個人ビジネスとして殆ど使い古されている。怨みを換金したところでそれが邪教であるのに変わりなく、公害宗派としてこれらの教祖らの未来はいわずもがなだろう。
 信者ビジネスが新手の新興宗教として世間を席巻していく前に、教祖らの放った火の粉による大火傷で済んだ私は、寧ろ幸運だった。この深い心の傷が癒えてから、私は二度と信者ビジネスをはかっている多くのインフルエンサーらに近づくことはないだろうし、それは立派な現代の徳になるだろうから。

より善く生きる

 より善く生きるという当たり前だが達しがたい目標を掲げ、道徳を追求するわれらは今日も世界から学んでゆく。まだ心の中にはあるわだかまりがあって、それを十分吐き出すには別の表現が必要らしい。
 私は芸術家として生きようとしてきているので、幸運にも表現の方法について色々試せるし、また今後も訓練をつづけていくだろう。この手記は私自身の為に書いた備忘録だが、たまたま読む機会がある人にも何かの教訓を与えるものになるよう配慮したつもりだ。私の他の創作にもどる為、ここで筆を置きたい。

名を名乗れ

やっぱ下らん濡れ衣ごときでツイッターみるのやめるのもばからしいので、自分よりばかに場を譲るのはよくないと思いなおした。これは正義の為だ。濡れ衣を着せるほうが悪いのだから打ち倒さねばならぬ。
 千万人と雖も吾往かん。全人類が敵だろうと正義を譲るべきではない。
 濡れ衣を着せてくるような無知蒙昧にして悪質なやからとは、地上から骨一つ残らぬまで徹底的に戦い尽くすべきだろう。わが国武士道の前に、良心のひとかけらたりともこぼれ落としてはならぬ。吾への嫌疑を晴らした末、全員が敗残するまで吾は戦う。
 匿名が卑怯かどうか。間違いなく卑怯だろう。どんな理由があるにせよ匿名で逃げ隠れする事は卑怯というほかない。日本人の殆どは卑怯者だ。だから2chであれだけの大悪業をしてきて恥じる気配もない。匿名の卑怯者は全員罰するべきだ。適当な言い逃れで匿名の卑怯さをごまかすのは誠に卑怯者の所業だ。
 偽名や仮名で行動するのは訳ありにせよ、これもやはり卑怯さが幾分か混じっている。人は親から貰った名前があり、それを玉の様に抱いて生きていく他ないのだが、いわば名誉や誇りはこの名前と共にある。名を失ってあるいはごまかして、人が誇りを持てるかといえばそれは偽だ。自分を失うだけだ。
 私は水戸で多くの武士が眠っている墓を見た。その中には私と同姓同名の墓があった。彼は幕末の志士であり、勤皇の志を抱いて懸命に生き、そして死んだ。彼の誇りであった名前だけが私の前になお残っていた。私はその武士に敬意を表する。彼の考えは今では古いかもしれない。だが彼の名は名誉ある名だ。
 私は私の名と共に生まれ、名と共に死ぬ。私の死後、私が懸命に生きた事は万人に忘れ去られるだろう。私の苦労も、私の感じていた感動も。だが、あの武士の様に、私の名前はきっと未来に残るだろう。だから私は名前を失って生きる事はできない。それは未来の私と同姓同名の自分に志を伝える為だ。
 武士の子は、自分の家名を誇らねばならない。武士はいつ死ぬかも分からない。残るのは名前だけなのだ。私達はもう武士という身分を失っている。だが先人の高貴な魂に学ぶ事はできる。死を賭し、自らの志に殉じる。死後もその名を汚す事なきよう、誇り高く生きて死ぬべきだ。
 私は2chの文学板という場所で、嘗て、綿矢りさという作家のスレッドでセクハラをしている者を注意した時、自分の名を名乗ってからそうした。それは匿名で、自分だけ安全な場所から誰かを責めるのが卑怯だからだ。愚物や下衆にはそれが分からない。だが高貴な使命を果たすことが何より重要だ。
 この世で、高貴さとは魂の命令に従うことを言う。決して外から与えられた身分や賞賛が、高貴さを身にまとうのではない。私は自分の魂の声に従う訓練に命を懸けてきた。誰に恥じることもない生き方をするには、先ず自分が自分を絶対に尊敬できねばならないからだ。俯仰天地に愧じずと心からいえるよう。
 偽名や匿名で生きる事についてぐだぐだと言い訳がましい連中は、みな自分を恥じる心を必ずや免れない。親の与えた名はかけがえのないものだ。他人がどういおうがその名を捨て、私は誇り高い者ですなどとなぜいえるのか。先ず自分自身をみるがいい。自分に恥じることがなければ捨てる名などありえない。

2019年1月25日

学歴の知恵

自分より遥かに愚かな人が学歴という箔で大衆を騙し金儲けし、かつ通俗的名声を博しているのを見ると、漱石が現今の博士号を害があるといい辞退した意味が分かってくる。
 私は20代のはじめ頃この問題について重々考えつぎの立場を得た。高学歴の後光効果による虚飾という害と、意図的に低くした低学歴が大衆に一々自分を実際より愚かと勘違いさせた結果こうむる不条理の費用とを共に鑑み、学歴自体は学力や知識とあまり相関がない装飾目的のものといえる。装飾であるからには過多過少どちらも悪い。つまり中庸が最善なのが学歴であり、単なる学力や知識は全くそれと異なって、多いほどよい。
 対して一般人は学歴が学力や知識とほぼ厳密に比例すると思い込んでいるので、肩書きにすぐ騙される。がこの装飾が実際の知力や技芸より控えめにとどめられていれば関わるほど有害な大量の愚者らは素通りしていくだろうし(学歴主義者のよう平均よりもっと愚かな人は、実際の知性を評価できず肩書きのみを以て差別的な態度をとってきさえするのですぐに見抜けるだろう)、或いは過剰評価からくる期待や無意味な賞賛によって真の知者をさしおいて万事に間抜けぶりを曝すという侮蔑すべき恥知らずさを避けられる。いずれの場面でも汎用的に最善なのはある所属する集団にあって最も中庸的な状態だろうから、母数を国や全人類など多くとるほどその精度は高くなる。

2019年1月24日

世俗知の手段について

私の現実に見聞きした全人類は悪徳の塊で、つきあうに足る友は一人たりとも見いだせなかった。全現生人類がもし私より道徳的でなかったなら最早なにも学ぶべきことはないのだが、少なくとも各知識、諸能力に限っても私より優れた人が多くいるのがせめてもの救いだ。
 確かに私は神に成りたかったし今も変わらずそう思っている。人類は愛するには余りに愚かで卑しく、有害で親しめる相手ではないからだ。
 私には全知全能全徳に達するまでなさねばらならぬことが余りに膨大なので、通俗性にかかづらう時間がますます無駄に思える。愚かで卑俗な人々の生態を知ったり、彼らの好むところのものにも通じているのが真の全知だと、私は福沢諭吉による同記述を鵜呑みに一時期、勘違いしかけた。現実には愚かさや卑しさは固有の情報界をもっているが、その中にある秩序はやはり暗愚や不道徳に由来する多くの混乱を含み、そもそも理解し難いのだった。愚かな者をどれほど思いやったところで自分が同等以下に愚かでなければ相手の考え方など到底想像もつかない。つまり世俗知は抽象化し、何らかの間接的な手段で要領よく理解するのが最も手っ取り早く、合理的ということだ。
 経験のみによって世間を知るのは、得られる標本母数が少なすぎる為、一定の信頼が置ける科学的認識というより、しばしば何らかの反証または確証偏見を伴う経験値にしかならない。だから世俗知を十分得たければ必ずしも直接体験のみによらず、反証性を目的とした無作為かつ最大母数の抽出という手段、つまり帰納的な手段をとるべきであり、それは通俗的な疑似科学や、任意の統計操作を含む俗受け報道的な作為とは正反対の作業になるはずだ。この意味で、社会学的理解を深めようとする者が社交全般を現地調査の様に見なしていたり、そもそも彼らが人と交わるより何らかの媒体に接する時間の方が長いので、単なる経験のみに依存する俗人の目には奇異に映るとしても全く驚くには値しない。抽象的理解力が知恵の原型であることは「歌人は居ながらにして名所を知る」とか「賢者は歴史に学ぶ」いうことわざにも示されている通り、何ら変わらないからだ。

2019年1月19日

偶像

見た目がいいだけのごみ。中身のない自慢。

2019年1月16日

私と日本

資本主義社会や日本国は私を仲間にしなかった。私を生かさず、放置し、殺そうとした。寝る間もないほどの努力の末に、どれほど私が彼らに貢献しても。だから私は資本主義や日本が好きになれない。資本主義は私の天敵、日本は私を殺そうとした悪魔。
 東京都民の一部は私をわけなく差別し、酷く中傷した。その上私からカネを搾取し、詐欺し、私達の土地に原発をおしつけ汚した。だから私はごく少数の善良な都民がいたとしても、東京都が嫌いだ。そこに住む人々の一部は、たとえ少数の人がかばってもかばいきれないほど、言語道断の極悪人だったからだ。