2019年1月24日

世俗知の手段について

私の現実に見聞きした全人類は悪徳の塊で、つきあうに足る友は一人たりとも見いだせなかった。全現生人類がもし私より道徳的でなかったなら最早なにも学ぶべきことはないのだが、少なくとも各知識、諸能力に限っても私より優れた人が多くいるのがせめてもの救いだ。
 確かに私は神に成りたかったし今も変わらずそう思っている。人類は愛するには余りに愚かで卑しく、有害で親しめる相手ではないからだ。
 私には全知全能全徳に達するまでなさねばらならぬことが余りに膨大なので、通俗性にかかづらう時間がますます無駄に思える。愚かで卑俗な人々の生態を知ったり、彼らの好むところのものにも通じているのが真の全知だと、私は福沢諭吉による同記述を鵜呑みに一時期、勘違いしかけた。現実には愚かさや卑しさは固有の情報界をもっているが、その中にある秩序はやはり暗愚や不道徳に由来する多くの混乱を含み、そもそも理解し難いのだった。愚かな者をどれほど思いやったところで自分が同等以下に愚かでなければ相手の考え方など到底想像もつかない。つまり世俗知は抽象化し、何らかの間接的な手段で要領よく理解するのが最も手っ取り早く、合理的ということだ。
 経験のみによって世間を知るのは、得られる標本母数が少なすぎる為、一定の信頼が置ける科学的認識というより、しばしば何らかの反証または確証偏見を伴う経験値にしかならない。だから世俗知を十分得たければ必ずしも直接体験のみによらず、反証性を目的とした無作為かつ最大母数の抽出という手段、つまり帰納的な手段をとるべきであり、それは通俗的な疑似科学や、任意の統計操作を含む俗受け報道的な作為とは正反対の作業になるはずだ。この意味で、社会学的理解を深めようとする者が社交全般を現地調査の様に見なしていたり、そもそも彼らが人と交わるより何らかの媒体に接する時間の方が長いので、単なる経験のみに依存する俗人の目には奇異に映るとしても全く驚くには値しない。抽象的理解力が知恵の原型であることは「歌人は居ながらにして名所を知る」とか「賢者は歴史に学ぶ」いうことわざにも示されている通り、何ら変わらないからだ。