2019年1月24日

創造力の定義について

私は創造力という言葉に事物をあるべき様につくる才能をあてる。
 聖書は創造主(造物主)という、世界をあるべき姿でつくったはずの存在を仮定した。知的設計論はこの比喩を人型の神(人格神)なる前提なしに抽出したものだった。一方、自然の全ては物理で、人為の全ては倫理で説明される。自然の原因を造物主なしに説明すべくビッグバン仮説が唱えられたが、私の宇宙観によれば時間の停止は各ブラックホールで起きていることなので各宇宙を含む世界全体に各ブラックホール以前の時間というものはない。いいかえれば天地創造という働きは、もし具体的に説明すれば単に各恒星の誕生としての時間の中の物理反応や、引力場が最も弱まり光束のみで満ちている時間の最速化したホワイトホールといった地点で見られる物理現象である。つまり神という比喩は人が物質を加工し何かを作る働きから類推し、自然という物理的世界も創作意図によっていると考えた古代人の妄想だった。宇宙の物は単に時間の流れの中にあるので、それを無から作る必要はない。有が無から生み出されるというのは、単なる妄想の飛躍であり誤りだ。地球の日常的自然現象が時間の中で営まれているという人類的偏見が、宇宙解釈へ無意識に適用されてきたのが創造主や天地創造という誇大妄想だった。
 この世で人間界を作っている技のうち、行動に当為を与える倫理哲学の働きが最も高貴で通時的かつ普遍的な技なのが事実だ。つまり人は創造主という嘗て聖書の冒頭で語られた存在自体には成り得ないが、物理的に環境を改変する芸術家や諸技術者、或いは人間界に賞罰を与える善悪の定義を行う哲学者には成れる。