2006年8月31日

脱近現代小説

文学の社会的使命は個々の実存を救済しうるような展望を魅せることにある、と思われる。それが想像の利用法なのだ。そして大衆向け商品としての小説が担って来た虚構現実の価値も、そこにあった。大衆作家は面白味を目指して江戸戯作の類を映画風に書き連ねていくだろう。しかし、君は尚、それが批判に値すると悟る。則ち文学が単なる文章として流通するマルチメディア的な契機によって、より神格的な展望を提出する可能性を追求したい。それは文学におけるカテゴリーの分解を意味する。売れる為の作品ではなく、読まれる為の作品を書かなければならない。そうすることが小説より更に進歩した救済の方便だから。

資本の未来

資本の運命を指導する文明は、我々を恐らくは『福祉天国(welfare heaven)』へ導く。

それは個々人の最大の搾取が、逆説的に、最大の恵与
すなわち「共感の支配権」によって成り立つ、
という命題が抽き出す必然の世風である。

 たとえば第三世界や「南側」への資本からの喜捨こそ最高の投機だ
と資本金融市場に自覚される時が巡り来るならば、
世界の最高の金持ちは国際関係のなかに最適化したままで
――要は、世界市民的な福利の恩恵に浴しつつ――安住できる筈である。

文明の狡智

国際分業なる理念が知的労働の流通特化順に並ぶ「国際階級の順列」理論ではない、
という証拠を提出せよ。

「経済界の利権における」[大衆世間においてではなく]国際競争の目標物は
今日、既に最先端の成長産業へ如何に適応するか、という「創発関係」でしかない。

つまり知的多数権をどうやって獲得するか、が経済界における分業の内情なのである。


 金融市場が大衆化された先においてすら、この課題は不変である。
謂わば資本投機の国威こそ「国際覇権(hegemonie)」に他ならない。


 国家外交の力関係は只単に
『投資家国民の知的水準』に依存すると知るべきだ。

以上に誤りがなければ、従ってこう推論できる。
現代、政治の指揮を実態で握っているのは誰でもない、資本の運命なのである。

 我々は実質上、民主政治をcontrolできない。
それは結局、資本(capital)の歴史的運動なのである。


 我々はそれを『文明の狡智』と呼ぶ。

都市の近未来

高密度集住は人類にとってすら自然であり、高度情報化や高速交通利便の向上も実はこの為に構築される機構でしかない。その訳は思想の最速での交換は情報流通の合理化に由るのだ。
 牧歌的生活への懐古が老衰した痴人どもの脳裏を如何に霞めようと超高層ビルや高架・地下交通網を含めて現代都市を総合的に再開発して行く事は避けられず、又避けなくてよい。なぜならそれらは全て都市優化による愚老の為の快適環境をも創造するからである。君もし、エレベーターがあらゆる普遍設計の内部に平らな空間の実施に適うものとみなすのなら、殆ど超高層ビルの全ての層間は一続きの巨大な普遍空間と等価視し得る。
 積層性は集密にとって基本手法であるから、それらが構造的に安定であれば在る程、即ち脱地上的である程殆どあらゆる外的自然からの抑圧を一旦排除し、確保された現代都市は万人にとっての個性的生活を保証する普遍空間なのだ。自然空間建立の格闘は、この様な現代都市の建築の中でのみ可能性を持つ。それは空間の風土的な貫入であり、地域における風流な工夫の導入。
 風情は上記の文化的な経過を通してのみ、都市の最適性のなかに実現するだろう。それは集密の否定ではなく、文明と文化の必然的止揚としてあらわれてくるような人間の風習である。

同時代芸術について

かつての前衛的建築家や文学者が、社会批判の役割を果たす為に担っていた貴族性は大衆芸の成立と共に形骸化したと云える。その代わりに我々が得たのは迎合や宣伝を手段とした俗物趣味の模倣主義だった。
 袋された銘柄を売り出す為に競合するしか彼ら、作家の能はない。それでも世界あるいは市場は彼らの職能に何らかの期待をしているのだ。
 ゲルハルト・リヒターが嘆く様に芸術家という称号には未だ、何らかの栄光の残滓がある。それは付加価値の無際限な差分を演技的に表象してくれること、という殆どピエロじみた諧謔でしかないが。
 我々は独創性という思念を軽蔑すべきだ。
 現代芸術は匿名的で、無個性で、普遍的で、まるきり普通で当たり前でどこにでもあり、どこででも簡単に手に入り、また何のおかしみも有しない、まるで記号的で、いつ幾らでも交換可能な人工物自体でなければならない。

人気と成功について

芸術が商品として市場へ流通してからその特権性は失われた。人気主義がここにある。ジャーナリズムとアカデミズムが対流する様になった原因もやはり、印象派以降でサロンが市場化されたからだ。
 実際、それは写真や映画の誕生、鉄・RC・ガラスという近代素材の発明、活版印刷術の勃興、蓄音機の発明といった工学に対応して出てきた美学の手段であったにすぎない。即ち、人気芸術の潮流は大衆社会の成立に対応している。現代においても、現実的批評は殆ど人気に依るのである。しかし、それはかつての特権的・貴族的な批評の精確さより遥かに能率的である。報道陣は新鮮な奇抜さを煽り、学界の権威は作品の古典的実体を見抜く。両方の結果は人気に集まる筈である。そしてそれこそが、文明内での作品制作の合理化に寄与するところ最大だ。優れた人気作家に儲けが集中すればするほど、それだけ人工環境も効率よく優化するのだから。
 作家個人がそれを目的とするか否かに関わらず、優れた作品の制作者には人気が集まるだろう。それを長きにわたれば成功と呼び、短ければ成り上がりといえる。

母語の目的

文化は語学ではない。よって、文化としての文学は語学ではない。君にとって語彙が足りないということはあり得ない。なぜなら耕作は道具を用いることに拠るのであり、道具自体に因るのではない。
 語学とは、文化の固有価値を観念的な差異観のうちに見出す社会学であって、我々にとって日用本来な文化的な仕事即ち制作とは必ずしも交わらない。だから文学は母語を推進する為に働く。世界言語への志向は文学にとっての目標ではない。
 文学は文化的な目標であって、元々語学の便宜ではない。

理想主義は偽善か

福祉と求道は一見して矛盾する。しかし、それらは共感という管で繋がっている。福利循環は利己的求道によって搾取された利潤を、無償で恵与する利他幸福感の、社会的共有の雰囲気のうちにある。文明社会の活力は競戯の肯定を指揮する。各個人の人生における自由は、その様な制度を建設する経過に従って拡充するもの。やはり理想の究極を至高の活躍と認めよう。それは知能啓発の目的性に倣って最も合理的な福利循環をもたらす。教育はこうして得られる知能格差の利潤を身分でなく、能力に応じて配分するから尊い。それは効率への働きだから。

勉強の社会性

知能犯的に搾取した閑暇を理想に向け代えるうちに文明の分業効率の最適化を観る知識人連中にとって、普遍者ぶったliberalismの理念は都合のよいことこの上ない。
 最もあしき意味でAristocraticな政治的realismを、現代社会の身分差別は全面的に黙認している。それは実質上、文化的奴隷制の暗裏な肯定に過ぎない。だからと言って我々に社会主義政治や共産主義経済を声高に叫ぶくらいの錯誤は無かった。それらは一時的な国家の強化に応じて官僚主義的支配体制をますます増長させるしか結果を取らない。産消成長能力の激減は国土を破滅に導く。良識を信奉する少数の哲士達だけが、密かに社会体系の改良を求めていとまに思考を廻らせている。文明的な貴族の高等な遊戯が社相先導にあると自覚されざるをえないだろう。そして歴史からの使者たらんとすれば、研究と啓蒙に一刻の猶予も許されてはならない。理性は己をはぐくんだ自然を信用せよ。

2006年8月30日

理想

孤独の中に安住する事を至上の幸福と心得よ。理想の中にのみ、君を救済し得る力は眠る。

2006年8月26日

趣味を含めた人工環境について

混沌増大としての自然に対する人間の処仕方を文化と云う。理性の原理が抽象による秩序づけにあるならば、合理性の美学が人類の普遍的目的であることは疑い得ない。しかし、地球世界にとって最も合理的な環境を実現しようとすれば、人々は文化を建築の方法に採用しなければならないだろう。なぜならそれは長い期間を通じて積み重ねられて来た創造的成果であって、風土へ適応する為の最適解を常に、提出しようとしているからだ。
 地球における建築の基本的な方法論は、風土最適解を合理性の中に追究することである。

2006年8月25日

知能の責任

我々には知能しか頼りうるものはないのだ。以外にある人間性とは、どの様な観点からにおいてすら他の動物と変わらない。
 仮にそれが人権の排除を意味するにせよ、精神の精錬を目的にするしか人生の自由はありえない。

神格の当為

人はどんなに先進したにせよ、絶対に神格へ到達しないだろう。それは彼らが肉体に属する限り。よって、神格は当為であり、実現に値しない。生物が生存計画の元にある以上、定言命法的福祉性を実行するべく倫理知能を開発していく経過にしか道徳的人格はない。

2006年8月22日

文化論

語源学を突き詰めれば、とある語体系内の語彙語法はほぼ無限と云える。なぜなら順列・組み合わせによる工夫余地が常にある。よって語間に優劣はあり得ない。全地球言語は等価だろう。もし差異があるとすれば、それこそ言語の文化的価値。
 文学にとって学術的に、文化的な価値があるとするならば、それは語体系間に潜む差異を詳細綿密に浮かび上がらせる中にこそあるだろう。よって文学にとって語学、特に、そのうちの語源学は座右の方便と見なされる。文学者にとって語学の肝要は、文化相対観を養うことにこそある。それは彼らにとり、文明美導に用いる手法を細やかに調整する為の道具。

遊戯化

先進国涯少子化の理由は、産業におけるautomationの普及に対応している、というに過ぎない。単純奉仕を嫌い、複雑勤労へと自主性が育つのは解放の必然。健全知能の促進、乃ち人類文明の筋道は地球的。それは種内秩序を高質に導く自然と理性の狡智であり、応じて競争を次第に遊戯へ向けかえていくだろう。結果、人類社会の発展は幸福の互恵制、福利効率の最適化へ漸進する筈。

超高層の要請

超高層による集密は人類文明にとって通過すべき普遍的な命題である。なぜなら彼らもまた一生物であり、集積の利益を求めて集まって暮らすものだから。強硬保守派からの景観論争がどれだけ執拗姑息にふっかけられるにせよ、文明の理論は都市部における建築的立体化を指向させずにはおかない。
 高齢社会においてさえ、エレベーター、エスカレーターその他機械昇降設備によって普遍設計の原則群は克服しうる。
 もし文化人諸氏が真摯に望むのならば、伝統を積層性のなかに復活させることもできる。つまり階としての普遍空間概念を楼閣化したに過ぎない以上、その自然空間的応用は自在である筈だ。とはいえ、地にへばり付いたならぬ空中生活ゆえに必然、様式はより抽象化されざるを得ないだろう。だがそれは文化美意識を充分に満足させうるだけ、芸術家の手腕によって解決されるに違いない。なぜなら自然空間は常に、確保された普遍空間の範囲でのみ計画可能だから。

少子化と人工・自然比の相関

もし少子化ですら都市への人口集積は加速する一方だろう。地方放置と都心集中による産業力の合理化は、地球環境問題に対する解決策をも指し示す。即ち人類の生息範囲を平野部の都心部に可能な限り集積させる事・都市化とは、とりもなおさず地方における最小人為的自然の快復でもある。農林水産業は文明に応じて、自然に対する最小の介入を目指して生産力を効率化していくだろう。機械投入型大量生産が結局は自然物産の質の向上をすら目指したものでもある。合理的ではない商品は市場原理により淘汰駆逐されるのだから。その究極は自然環境をすら再生産するだろう。例。国有林の養生とか、景観保護とか、狩漁範囲の自主規制とか、食用動植物への最大最高の快適環境・amenityづくり等。

memo

私金恵与+公人貢献=国際福祉

2006年8月21日

達成

最も偉大な学術的達成は、最も深く博く耕された教養から生じる。

2006年8月18日

建築論

快適環境を最も合理的に築くという風土的内容での自然空間とは別に、建築における普遍性の追究の意義次元は存在するのだ。我々は名匠達の跡を辿らねばならない。
 普遍空間はかねてから建築の地球的目的であったし、これからも文明が人間による限り、当為たる理念であり続けるだろう。
 同時代における最高の普遍空間を追求することこそ、巨匠の役目か。そしてあらゆる棟梁にとっての模範たる現物を築きあげるべし。それは単なる肉体的快適性を超えた、精神の創作物としての建設を意味している。

芸術論

芸術における人間原理が如何なる法則のもとに成立しているか。

2006年8月17日

学習動物

凡そ人生にとって最大の問題は、才能を如何に活かして消費するかという事だ。
 人間は学習動物であるから、何にでも成りうる。他方では置かれた時代環境へ最適化する努力を通じてのみ、自己は大成するだろう。

献身

歴史的次元で福祉に献身して生きる事、神格に叶う様に。

2006年8月16日

人生の命題

自身の命題を終生辛抱強く、追求する事。取り巻く社会環境は少なからず可変だろうが、それへ創造的に適応していく事が人生。

未来日本憲法原案

日本人は風土に由来した文化生活を享受し、これを推進するにあたり互恵の原則に従って今日まで来た。また同様の原則は未来に対しても適用されなければならない。すなわち、我々は文明の福祉的共生のなかに生き延びる理由をみつける。
 この憲法で保証するものは、上記の目的の為に努力するあらゆる人々にとって普通の、道徳的権利である。
1.日本人の定義
 日本風土に立地する諸生にとって、アジア連邦制度および国際連合の民主的秩序を遵守することは必要であり、その目的のもと我が列島に所属したいと欲するすべての者は日本人である。また彼らは互いの人間価値を認めあい、地球の社会福祉に努める義務を有する。
2.天皇の地位
 一族の長を仮に、ここでは日本天皇と称する。天皇は公選される。その国事的行為は国際法の範囲に限られ、主権者の原則に基づく。日本天皇の血統は日本人全員にとってのidentityでもあるから、確実に守られねばならない。
3.日本人の使命
 我々は安易に寝起きするだけではなく、常々勤倹に励み、世界文明の発展へ貢献できるよう勉強する責務を有する。
4.平和主義
 戦争の悲惨への真剣な反省のもと、我々は抑止力を含めたあらゆる武力を威嚇の方便に用いることを拒否する。全て和平への交渉は暴力的手段によってではなく、穏健な話し合いを通じて解決する勇気を誓う。また、国土防衛は抵抗によってではなく、国際均衡による知的操作で冷圧しうるものであることを飽くまで信じる。そして和平の為には日本人の滅亡を辞さぬ覚悟で平和主義をここに宣言する。
5.人権
 あらゆる人権はこれを保証する。
6.自由主義
 政治および経済、まして学術における自由主義を社会原理に指定する。則ち、公務は人々に対する最大限の寛容を以て、主権者の民間日務は最高の尊厳を以て必ずや扱われねばならない。それら人事活動の究極の目的は文明上の福祉的向上にある。
7.憲法の暫定制
 ここに定められた諸法は日本人の行動に共通と認められる普遍的命題をのみ簡便に説明したものであるから、時代情況に応じて明らかにそぐわない場合、同時代人の慎重な建議のもと、改良する責任が本来ある。
 更に具体的命題は各個法律により定めるものとする。
 また、我々の憲法は最も基本的な道徳的権利のみ定律するものであり、世間の倫理を束縛しない。

2006年8月10日

新説

新説を説く肝要は、語圏の文化に古来する観念によって明らかにする事。

施策…競争如何

社会的工夫による「種内競争の中庸化」はあらゆる時代の命題である。

競争が激化すれば人々は利益に依りて冷淡になり、
それが無憂になれば腑抜けになる。

他方で、
競争の激穏は生産手段の発展力を伴わせるものであるから、
共産主義的軽視に従って無競争の非階級社会を指向すれば発展そのものが停止する。

[国際surviveの現状を思えば20世紀後半から21世紀初頭にかけての自由主義は必要なのだと知れ]


 先ず社会にとって自由競争は、生産力発展の方法なのである。目的ではない。

然らば、情勢を観て、その国における利益に拠りて発展を志向する際には自由主義を、
多分に安楽に居し、生活の高尚向上を思念せねばならぬ際には全体主義を、
一時の理念として「稼動的に」採用す可きはずである。

 則ち、社会組織の善導に必要なのは競争中庸の方便であり、究極の目的は文明にある。

遊園地化

地球各地域風土にとって特異な文化都市を造ると同時に、また宇宙文明にとって普遍的な建築を実現しなければならない。なぜならそれが世界を遊園地化するに当たっての手法だから。

2006年8月6日

a経営idea

Convinience storeのautomation

社会学

符号性には文化背景が直接の動因になっている。例、一定文化圏を外れれば学歴の価値はない事。美の基準の違い。

建設性

地球の近代文明の各都市におけるglobalismは、その地域の独自性を却って顕在化する。なぜなら文明は文化からのみ勃興する。
 近代文明は同じ基礎、自由主義にもとづく以上同様の方式を建設の為に採用するが、他方で実現された環境はかなりの程度で個別化するだろう。その結果、均質性は具体的生活の場面では異なる様式にあらわされる。地域文化の個別性は各中小国連合の形成に伴い、地球世界各地に風流の違いを建置していく。ならば、文明環境の理想は、遊園地的天国における文化的魅力を多彩に細分づけていく事。未来文明の建設者は高質なる名所を追求せよ。
 宇宙船的普遍性は、太陽の衛星においては充分に実現できないだろう。そうだとすれば環境価値の専らは風土の共栄にある。

夢と現

たとえ究極の理想へは永久に手が届かないべく宿命づけられているのが精神のさがだとしても、君自身の夢の大半は、その努力に応じて実現せざるを得ない。なぜなら社会とは、各人にとってのその様な思想の集積だから。

文明と文化

文明が相対的である証明が可能か否かを問え。我々は文化史観に基づいて文明を評してはならない。なぜなら文明は文化的蓄積からのみ発生する制度ではあるが、他方ではより遠大なる秩序を達成するものだから。

文明論

文明は単に、種内競争の合理化ではないのか。仮にそうだとすれば、君の生きる理由は競争を合理に則って改良する経過にある。つまり、それは生存競争を繁栄効率の為に改善する体系。
 何れにせよ、地球で天敵を失くする迄に繁殖した人類が、環境の再創造に従って人生の次元を理想化するのは免れえない。その結果が文明化に他ならない。
 もし人生の側面が時代に応じて温厚化・安寧化・精神化していくものだとすれば、それが文明の方角だから。しかしかつて勃興滅亡して行った幾多の文明での実存群がそうであったように、近代科学に基づいた近代文明は相対的で、そこに生きる自らをもそう見なす他ないだろう。
 近代文明は自然資源を加工利用する生産手段の技術的進歩に依存して来たものであり、根本にまで解釈すれば発電用熱機関の資源転換効率に言及しえる。個々の実存群はそれを受ける社相の変容に従って動く。もし自由なる概念が歴史上に存在するなら当時の社相を泳ぐ仕方にのみ原理づけ得る。

2006年8月4日

自由

人間の競争社会の暗闇に紛れて、君はなにを観る。世の儚さを観るだろう。しかし、世界は続く。君の自由はそこにしかない。

2006年8月3日

神格

神格へ妥協すべきではない。神格は人格とは別の型に住まねばならない。

虚栄

人類の虚しさ。奴等と来れば社会の中であれこれつまらぬ一事に専心し、生態系多様の為に奔放する。どうして猿に神的価値を認められるのか。奴らをこそ単なる権利のもとでの生活機械と定義せよ。
 君自身の知能が如何に先進発展しようとも、己自身が一個の無知たる愚物であるのは疑えない。何故なら宇宙は精神を含んでいる。猿の群れに順応して生活するのは全く神的ではない。従って、奴らを二足歩行の猿として他に認識してはならない。それらは産物しては絶えていく時空明滅の一様に過ぎない。

建築論

建築は福祉的基礎の上に建設されねばならず、それは常に、公私利益の均衡を目指して計画されるべきである。

2006年8月2日

日本建築

重力その他自然的な力に対して、皮膜によって内空間を保護する事は、建築計画の地球的基礎であった。欧米型の近代建築がかような反自然の理性の元に推進されて来たのは事実であり、ガウディのような自然体を目指す特異な例外はあるとしてもそれは多少あれ地域主義的な考え方であった。西洋建築は組積造による構造的制約からの計画自体の漸近的な解放によって、近代建築の軸組み構造という考えに到達した。従って、現代における壁の表現をも西洋建築史実上、取り敢えずは肌と見なす。
 現代棟梁は近代建築を相対化する視座に立たねばならない。たとえば計画の中に適度な環境を呼び込む事が、日本文化圏では最大の命題であった。それは温帯モンスーン気候に対する適応的な態度であり、木造による柱梁構造は生活空間中の通風の最優先に従って確立された。
 木造の方法は凡そ、朝鮮半島を経由して中国大陸から輸入された。それを国風的応用に迄純化していく経過がある。
 結果、獲得された様式は通風を中心に、自然への親和の為に最適化された別の軸組み構造の体系ではあった。日本建築における近代化は、西洋化に等しかった。だから突如現れた壁の使用法に対する混乱によって、日本の柱梁構造に対する壁は二種類の企図を辿る。
 一つは組積を模した構造的な自立壁であり、もう1つは紙の壁の概念を引き継ぐ計画用の皮膜のバリエーションである。日本建築、日本における近代建築の型は、三者すなわち自立壁と柱梁と皮膜の間でとりかわされる社会的創造および環境適応の為の試行錯誤の過程なのだ。
 一方で、重力への合理的反立は常に、地上に建設される空間にとっての第一命令である。その力学的応法の基本は鉛直力と水平力への抵抗にある。純ラーメンは水平力に対する常なる不安にある。従って、鉛直力を受ける柱と、水平力を受ける壁との適度な組み合わせによる第三の様式柱壁構造が現代建築の様式にとっては最も合理的型であると知れる。コンクリートの圧縮強度とスチールの引っ張り強度との特性を最良に生かすのが正しい。また、西洋から輸入した壁という要素を伴う近代建築を国風化するには、通風に対する配慮を再び最優先に用いた使用法が適当である。
 もし以上を省みるならば、棟梁は日本建築が行き着くべき現代の方向性の概略を悟るだろう。

2006年8月1日

現代哲学の命題

人間原理を疑うことは人類哲学上の現代的命題ではある。なぜなら、彼等の理由がなければ、彼等の福祉的目的思考としての哲学は単なる永久loopの中にのみある。
 つまり、仮に人間原理が偽ならば、既に哲学自体の問題は解決されていると言える。それは理想と名づけられた概念組み換えとしての言語ゲームでしかない。
 一方で、もし人間原理が真ならば、人類が存在して思考するのは理由に根ざす。よって、思考そのものの他にある異なる原因が課せられていると言える。又、もし真偽二分に非ずば、人間原理の程度を選択する事が哲学的追究の中心になければならない。

目的と自由

宇宙に君が発生した理由は偶発的多様以外ないのではないか。人間原理への根本的批判。無数の人物が、ヘーゲル的自己に則って、歴史のうちで自由を少なからず実現してきた。所で君が問うのは、自由の理由だ。それは宇宙膨張の訳を問う事に等しい。とりあえず生命が只の宇宙運動にとってのおもちゃではない理由を知らない限り、君が思考する原因も分からない。思考が理想としての最高幸福である事実は、類の生命上の限界を現している。それは運動体による時空の膨張係数への最適化ではないか。
 精神は思考における自由を種内競戯の合理化の地球的人類型環境としての言語記号類の選択の可能性に依拠し解放することで、entropy増大則への適応。競争を遊戯化する志向がそこにはある。理想は、思想に関する遊戯でしかない。しかし、それは進化の一末端たる人類集団への貢献度にとって合理性において最良であるが故に、最高善。
 精神運動の必然性を問うことは人類にとっては死活だった。なぜならまったくなんの理由もなく、何のためでもなく、何を目的にするでもなく、ただ存在するというのは多くの古代人達にとって最大の脅威だった。その大義は今日でも変わらない。
 哲学は精神を合理化する営みでしかないだろう。デカルトに疑えないものとして正当化された思考はけれども、理由の無さに対する解答を捻り出す為にはあまりに自然模倣的ではないのか。それは無秩序を縮小しえない、言い換えれば、思考の多岐複雑化を推進すべく無再現に概念を細分化するしか方便がない。
 精神に唯一絶対の解答を与えることは神的であって、殆ど人間的ではない。それは宇宙に実存することを絶対化しようと欲する意志だから。

建築論

獲得さるべき建築的普遍性は、同時代の科学技術を応用する構造上の力量に依存する。普遍空間の理念が、その時点で可能な限りの不変性の表現になるのは疑えない。大空間を合理性に基づいて創造する営みは、文化に左右されない。従って、それは文明度の空間的実現なのである。
 一方で、何故地球の重力と環境に根付いた作品のみが建築空間であり得るだろう。重力に逆らい建立する空気に満たされた空間だけが建築である、という固定観念から逃れなければならない。
 芸術における人間原理を疑え。