2006年8月1日

目的と自由

宇宙に君が発生した理由は偶発的多様以外ないのではないか。人間原理への根本的批判。無数の人物が、ヘーゲル的自己に則って、歴史のうちで自由を少なからず実現してきた。所で君が問うのは、自由の理由だ。それは宇宙膨張の訳を問う事に等しい。とりあえず生命が只の宇宙運動にとってのおもちゃではない理由を知らない限り、君が思考する原因も分からない。思考が理想としての最高幸福である事実は、類の生命上の限界を現している。それは運動体による時空の膨張係数への最適化ではないか。
 精神は思考における自由を種内競戯の合理化の地球的人類型環境としての言語記号類の選択の可能性に依拠し解放することで、entropy増大則への適応。競争を遊戯化する志向がそこにはある。理想は、思想に関する遊戯でしかない。しかし、それは進化の一末端たる人類集団への貢献度にとって合理性において最良であるが故に、最高善。
 精神運動の必然性を問うことは人類にとっては死活だった。なぜならまったくなんの理由もなく、何のためでもなく、何を目的にするでもなく、ただ存在するというのは多くの古代人達にとって最大の脅威だった。その大義は今日でも変わらない。
 哲学は精神を合理化する営みでしかないだろう。デカルトに疑えないものとして正当化された思考はけれども、理由の無さに対する解答を捻り出す為にはあまりに自然模倣的ではないのか。それは無秩序を縮小しえない、言い換えれば、思考の多岐複雑化を推進すべく無再現に概念を細分化するしか方便がない。
 精神に唯一絶対の解答を与えることは神的であって、殆ど人間的ではない。それは宇宙に実存することを絶対化しようと欲する意志だから。