2005年9月30日

物理学

光速度不変の原理が必要な理由を解く事。

澄む空気新しい朝とある秋

緑に溢れた公園で散歩している。君はからりと晴れた雨上がりの青空を眺めた。
 空から光が舞い落ちて来て、沿道に並んだいちょうの葉のすき間から木漏れる。少し肌寒いくらいになった風が、うすい紺色のブラウスを着けた体を吹き抜けて行くのが分かる。気持ちのよい季節だ。一年中こうだったらいい。けど、それだと楽しみが減ってしまうだろう。この星の日々という限りない演出の中で、その上下する胸の奥には、優しい鼓動を刻む心しかないのだとしても。

秩序

深い山奥にいる。複雑さを自発的にめざす自然形態のよう迷路化されたビルの地下室。ここには誰もこない。建築設備だけが絶えざる律動を、不気味に刻む。

 何を探しているでもない。何を求めているでもない。ただ先へ、先へ進むことが必要だ。底がゴム製の靴はどんな逸話も語らない。愚直に、ロボットみたく歩を進める為だけにしつらえられた、機能的で、現代的な工業製品。
 ふと、あるドアの前で止まる。扉には特徴を示すサインもない。単なる、規格通りに設置された鋼鉄の境界だ。開く。中に入る。

 そこには管理された空調のみがある。他には特にどうということもない、四角い箱型空間だ。ゆっくりと部屋の中心へ向かい、置かれていた極めて簡易的なイスに腰掛ける。エアコンがかすかに立てる空気の摩擦、蛍光灯が微小ボリュームで歌うなにかしらの電子音以外には、いかなる変調もない。空虚だけがある。壁と天井には、コンクリートの表面に薄いベージュのペイントが施されている。床は緑の滑りにくい素材で、その他に特記されうる点は無い。そして匿名的な人物として私はいる。大都市の、地下の、無辺の闇の中に紛れて。
 考える。この星に築かれた文明、生命史が何の為なのか。そして生まれてきたわけを。
 思念は抽象化された諸概念の組み合わせに解体され、ひとかたまりのエネルギーとして脳内信号を行きう。どこにも辿り着かない。どんなゴールにも達しない。理想の為の理想だけが残される。

 仕方ない。生きている事実を突き詰めるしかない。答えは恐らく時代に従うだろう。働くのだ。生活という自由をプログラミングされた機械の様に。

 しばらく時が経った後、その部屋には何も無い。静かな、整理された秩序だけがある。そこに人は含まれている。

2005年9月29日

学究法

人間をこの宇宙の形と認めれば我々が精神と呼ぶ化学反応も当然その一種と考えられる。真善美が根源的に一致するのも不思議ではない。暫しそれらが互いに食い違うのは、見方が表面的だからだろう。がそれら真善美が各々異なる学究体系をもつのも、また事実。
 科学には帰納法。哲学には演繹法を。仮証法は芸術の為に取っておこう。そう考えれば学究にまつわる大抵の混乱は未然に防げるだろう。

真理や法則は脱構築され続ける当為

宇宙論の究極は、各科学者が事実を照らし合わせ真を精査し続ける中にしかありえなそうだ。最も根本的な法則は人間自身によって絶えず脱構築され続けねばならないものだから。もし真理が自然界に既成の本質なら、科学研究を行う我々には一切の自由がないことになるだろう。
 実証主義はこれに反しない。仮説と検証の経過は得られた結果から自立しているから。

識者

その人物は、既成組織や制度から自由であり、しかもあらゆる場面で抜群の実力を発揮するのでなければ充分でない。だから有限な生の中で、自ら識者を名乗る者は傲慢に過ぎない。

自我作古

文化とは、あしき伝統を断ち切り、よき伝説を自ら創ることである。

現代日本の課題

他国のよい風習を貪欲に摂取し、自国の悪いそれを積極的に破棄して行くと同時に、創造の習慣と精神の独立が各個人に自覚されることが現代日本の課題。

ロボット風紀

戦後日本への順応とは、波風立てず、和を重んじ、自らの平均化に傾注すること。学閥階層入りを無難にこなし、上司に逆らわず、頭を下げ済みませんといい、機械的に通勤通学をくり返すこと。子供を同じしくみに馴染ませること。
 だがそれが美風か。もっと優れた大衆社会の有り様はある筈だ。

応用科学について

応用科学すなわち工学は、常に純粋科学に従属する。もし純粋科学が基底になければ工学は職人芸となんら変わりないだろう。

俗物科学

科学研究の目的は思考であり名誉ではない。

2005年9月28日

命題

解くべき命題の総体に対しあまりに残り時間が少ないと気づいたら、些事を省略せよ。

偉大

偉大になるため犠牲にしてきた過去を後悔する者は決していない。

人生の時は過ぎる。その誉れも罪も己にある。

大統一論は物理学の完成ではない

もし物理の基本原理として大統一論が確立しても、我々の真の目的追求が止むことはないだろう。或る基礎的枠組みが説明できても、知識そのものには生涯時間に応じた限界があるから。

聴き取り

不条理、矛盾、ありがちな葛藤、思い通りに行かない現実、打ち砕かれる夢、生活に追われて逃げて行く自由、手に入らない愛、満たされない欲望。下らない、つまらないことしかない。汚い奴が我が物顔でまかり通る世の中に嫌気が指してるのはとっくだ。と言ってできることなどほとんど無い。気がつけば時は過ぎ、所帯じみて抜き差しならぬ生計に縛られている。わかりきってる道筋だろう。あぁ、そうかもね。実際そうなんだから仕方ない。そう答えるしかない。あなたの話は続く。結局僕らは何を探してるんだ。毎日毎日毎日毎日、どんな理由でかもしらないまま、大人ぶった活動を続けている。本当に下らないよ。消え去ればいいんだ、こんな世界。

2005年9月27日

走行

どんなわけがあるにせよ我らは小さな生き物だ。下らない話を繰り返し日々を何とかやり過ごす。なぜ生きてる。何が目的なのか。幾つかの真摯な問いは生活費を稼ぐ必要の前でまるで意味を為さない。そして子供は大人になり、大人しく社会人と名乗る会社員になるのだ。誰が何といおうと。
 名も無き喧騒にさいなまれている。ここは大都会。辺りを行き過ぎる無数の人波が語りかける民主主義の原理、平等を否応なしに、感じとる。まちがいないく君はこの国を形成する主人公の1人だ、と同時に匿名的で均質な大衆の部分に過ぎない。

 そんなことは知ってる。

 声なき叫び声は無限に生成されるコンピュータゲームの雑魚キャラみたく見える、宇宙で最も高貴なはずの生命群にかき消される。歩みは進められる。太陽が産まれ、塵は集まって地球をつくる。ちょっとして動く物がたくさん闊歩し始めた。君はそして実存する。それも全て、嘘の物語。

 信号が赤に代わる。人々は各々の定位置に就く。君はたった独りきりで車道の真ん中の分離体にとりのこされた。タクシー、ダークなシートに身を包んだ不気味なライトバン、レクサス、バス、消防車、選挙の宣伝カー、スズキの軽自動車。次から次に通る丸かったり四角かったりする流れる箱がそれまでに何が起こったのかごまかす。

 信号LEDが青に換わる。ぱっくり真っ二つに割れた車間には誰の姿もない。疑いようもなく誰もいない。犬も歩かないから棒にさえ当たらない。君は走り出した。一体何に向かっているのかは分からないにしても。

2005年9月26日

徳と始原

自分はなぜ生きているのか。この問いに明晰な答えを出すには宇宙がなぜ生成されたのかから知らなければならない。我々は宇宙の形ゆえ。
 だがその間どう道徳的にやり過ごす? 定言命法は目的ではなく、文明の過程での方便でしかないのではないか。

IQ含む偏差値について

試験にかけられるのが嫌なら、自らの理論が真理か問えば良い。そうすれば君の人格性は保障されたままだろうから。そもそも、それこそすべての科学者が試みていることだ。

無知的生命

人類全員は無知的生命と自称すべきか。

知性の義務たる慈悲について

専ら他生命体を利用し自らの権益を拡大するありがちな無知な行いに終始している人類はなにを達成したというのか。己の無知を自虐し知的生命と称するのは無恥の極みというべきである。
 苦痛を避け快楽を取るのが生存の基本的あり方と功利主義は主張する(快苦原理)。人類は主としてこれを自己中心に、同類の中でも身近なものにしか覚えないだけの共感能力しか持ち合わせない。その薄情さが彼らに幸福なる言葉で示される共同幻想を抱かせる。この点で、未来の人類にしか希望はないだろう。乃ち、同類は無論、自己以外の生命体の幸へ最大限に貢献し、その上で地球と呼ばれる自らが破壊してきたすみかを再創造する慈悲。
 人類の傲慢は必ずや宇宙の平原に旅立つ、知の同一性に恥をさらさないよう祈りながら。その一生を文明に捧げる世界とは。知らざることを知らなければならない。

数学的秩序の創造主

数学的秩序は誰が創ったのか問うことは、我々の思考の限界点が我々自身にあると知らせる。

自然を考察対象に含む哲学の観想的性質について

自然宇宙の壮大なしくみの研究に携われることは、人にできる最も価値ある活動の1つだ。それは思考の喜びを我々に教える。
 とりもなおさず思考の究極形は、自己目的な理論的考察、即ちアリストテレスがテオーリアと呼んだ活動の楽しみにある。
 知識欲は思考を喚起する。それは記憶と理解を方法にする。

2005年9月25日

日々夢を描く意義

人は成人になると夢見ることを馬鹿にし始める。現実という言葉を言い訳に、安定した当たり前の生活だけ考えるようになる。それは彼らが悟ったからでも、大人になったからでもなく、単に、始めの目標にとって余りに困難な過程の前で挫折したからだ。
 だが目的への動因としてしか人は行動しないのだから、人はとしを経る程なお新たに、より偉大な夢を描き続けなくてはならない。そして老練とは、目標達成の手立てについて、若い時より遙かに熟達していることだ。

2005年9月24日

物理学

万有引力の理由を知る事。宇宙斥力を論証する事。宇宙を希望化して解釈せよ。科学者の使命として、実証主義に基づき、数学的論証を根本原理にせよ。

2005年9月23日

雑踏の上で

君は大都会の路上に立ちすくんでいる。知り合いもいない、頼る当てもない、完全無欠の孤独の中で目の前をただ行き過ぎる雑踏に紛れ込んでいる。空は、真上から君を見つめている。マクドナルドの窓向きの二階席は観覧用に体裁づけられている。数限りない人の波が君を飲み込んで行く。空はコーラを飲み込む。
 どうして何の理由でこれほどの生き物達が産まれてきたのだろう。何を求め東奔西走しているのか。なぜ文明がはぐくまれ、何ゆえそれは続けられるのか。問いは、空間に吸い込まれ二度戻らない。歩いて行く幾多の人々が疑いを消化し連れ去ってしまう。僕はLサイズのカップの蓋を外す。コーラの味が微かに残る氷を口に運び、かじる。君は相変わらず絶え間ない人ごみに混ざっている。何を待っているんだろう。
 その想いは幾重にも連なり、運命の輪っかになって時間を繰る。空気を震わせ宙を漂う。最後は店内のムードに溶け、世界の緻密な構造になる。
 やがて君は歩き出す。新しい目標に向かって、少しずつ、少しずつ。けど確かに、真っ当に、間違いなく。僕はそんな君を眺めていた。

2005年9月22日

人の訳

人はなぜ、何のために生まれて来たか。

まね

人と同じことをしていれば人と同じことはできる。そして人以上の何事かを成し遂げたいと願うなら、さらに人と違うことをもする必要がある。だが、人が皆やることさえやらない人は、人と同じことすらできないだろう。

孝の適用範囲について

ある意見の正誤と発話者の属性は関係がない。ある政治の正義についての意見でさえ。
 孝はある種の人生経験量に対してのみ適用されるべきである。その質は必ずしも年齢に比例しないから。

妨害費

もし他人が君を邪魔するなら、正当防衛を超え相手取らず、自分の成長効率改善に集中するがいい。相手の妨害費より自身の成長費が低くなれば、成否は明らかである。

個人

個人の問題は、無数の人生の中で、より良い生き方を探し続けることにしかない。

2005年9月21日

学と天才

よく学ばぬ者は天才でない。

神のサイコロ

神はサイコロを振らないとしたら、サイコロは人が作り出した創造物だとでもいうのか。神は偶然を含むプログラムを実験前に実行できるか。

2005年9月20日

普通、人生は一日に似ている。新しい未来への希望と共にゆっくりと始まり、光に満ちた活動期を経て次第に老いる。そして消え去る陽の傾きに合わせて肉体は再び闇の一部になる。
 人間の一生が理想的な一日のたとえであると考えよう。そうすれば慌ただしく過ぎる毎日は生き方の数え切れない訓練として思え、現実を生き抜く励みになる。
 いつか死ぬときに自分の練習の成果を誇れる様。

科学論

ある科学理論の終わりとは、新たなパラダイムの始まりに過ぎない。よって知的探求とは永遠に続けられるゲームである。又、人間に可能なうち最も価値あるゲームの1つである。

博物学

人間の目的は整理整頓なのだろうか。それとも人工性とは秩序の一種に過ぎないのか。万物至聖の神なるものと単なる動物との分かれ目。

科学論

全知と、すべてを知りたい欲求の間には大きな開きがある。これを埋める事を学問という。

修養

学者や芸術家の修養とは、閑暇を確保する事。

目的の理論

ある人々は有用性を質的功利主義的観点から比較低級な欲望に対してしか見いださない。しばし彼らにとって、例えばそれ自体専ら何の応用も可能にさせない純粋な科学理論は無用性として認識される。
 しかし知識の獲得費がごく高価なもので、また名誉がこの人生で最も手に入れ難いものの1つである事を鑑みても、目的の理論それそのものは人生で有益なる最たるものである。そして高尚な生活は人間性自体を改造し、利他化された個人の幸福を身近にする。普遍な生き方はその様な生活の功利主義的量的かつ質的高値化の中にあるか。
 目的の理論それそのものは人生で有益なる最たるものである。高尚な生活は人間性自体を改造し、利他化された個人の幸福を身近にする。

中庸

定言命法の先に如何なる道徳的達成があり得るというのか。私、或いは私達にできるのは、苅り残されたその周辺を理論化する雑事だけなのではないか。生き方の普遍的批判。可能な限りそれを考える事。つまり定言命法の実用主義化。が、私は倫理、即ち中庸を積み重ねる善を抜きにしてこの様な理想を語れないだろう。だから頂極としての生き方の型を提示するに留まるだろう。

物理学

誰にでも分かる最も単純な方程式で森羅万象の理由を説明する事。

どれほどの時間が経ったら、私たちのどちらかは悪魔みたいな駅に引き裂かれるの。約束も許されないままで。そして彼らは次の駅に着き、電車を降りる。新しい空間が彼らを包む。

落とし文

世界一の相手、宇宙一の貴人、それがあなたです。間違いはありません。偽りもありません。どんな理由があったとしても、私はそれを信じています。
 星がめぐり、どんなやきもちを映しだしても。
 祈りが1つだけ届くのならば、あなたの元へこの想いを伝えて下さい。少しも隠さず。率直に、正確に。そして幾つかの嘘を裁いて。

都心の観察

かつて祈られた願いがあり、むかし流された涙があった。しばらくの時が経った。この新しい朝。都心の路上に等間隔に配置された街路樹の足下を歩いている。多くの人々と擦れ違う。今日という1日を告げる太陽が、柔らかな光線を注ぐ。人々はそれを全身で受け止める。網膜に朝焼けの風景画を描く。一様に同じスーツに身を包み、おもちゃの兵隊のように並んでぺこぺことお辞儀をする東洋人の姿。
 新宿駅の自動改札機にsuicaをかざして抜ける。無数の人物が政治的経済あるいは経済的政治を表現している。覆面づくめの行進だ。そんな人混みに君は個性を隠し去る。匿名化した自分で、名のある会社へ向かうのだ。お日様は最高点を過ぎ、夕陽に傾く。そして君は一日分の立派な事務を終える。大丈夫、問題は問題なく解決された。あとは17時以降へ移行すればよい。
 同僚の女性を誘い、新宿センタービルの53階へ上がる。そして夜景を観ながらダイニングバーでカクテルを交わす。
 小田急前で彼女と別れてから、君は一人で西口のビックカメラに向かう。そこでオフィスの卓上で使う為の非常に簡易なプリンターを選ぶ必要がある。書類の束をデジタルでデータベース化した今では、書式を合わせてプリントアウトすることが唯一の仕事になった。或いは幾つかの定められた選択肢の中から適切な文句をポンポン、とPCに打てば良いのだから。売り場をちょっとばかりふらついたあと君は15800円の単純明快な白いそれを選び買う。ポイントカードを差し出したお礼に多少の利益が振る舞われる。それらをまとめて無言で受け取る。店を出る。
 君は帰りの埼京線車内で吊り革を頼りにぐらぐらと揺らぎながら、様々なことに思いをめぐらした。さて。ブリーフケースからうす茶色の紀伊国屋書店によるカバーの掛かった文庫本を取り出し、パラパラとページをめくる。めくるめくめくる。隣りに立った女の大きな口のあくび。それを見なかったふりして君はしおりの挟まったところから『10分でわかる! 好感をもたれる手法』を読み倒す。
 自宅に着いたのは23時過ぎ。明日は土曜、休み、予定は会計報告書を仕上げておくことくらいだ。ボタンを押して風呂を沸かし、部屋着になってソファでコップ一杯の牛乳を飲む。観葉植物に何気なく目をやる。お前は生きることが楽しいか。そのときタイマー音が鳴り、もう入れるよと知らせた。君は服を脱ぎまず桶に汲んだお湯で体を流し、次にシャンプーをする、仕上げにシャワーを浴びる。それから湯に浸かり、風呂の中で足首や手首を回す軽いストレッチをして体をほぐす。はやりの曲を口ずさんだあと湯船を出て再びシャンプーをする。最初のは単に、ヘアワックスを落とす為のそれだから。ボディシャンプーで入念に全身を洗い、流してから髪の毛にリンスをする。おしまい。曇り止めが仕組まれた円形の部分だけがキレイに浮き上がった鏡で自分の顔を眺める。人としてまっとうな顔立ちをしている。そして濡れタオルで軽くカラダについた水滴を拭いてから脱衣所に出る。
 次の朝焼けが君の眠るベッドに新しい一日を告げるとき、哀しみはいつの間にか癒やされ、涙が乾き去ったのを知る。別の希望があなたを捉えてトラックバックする。
 月曜日、君は再び朝日に輝く電車に乗っている。手には『リーダーシップの正攻法――12の習慣』が握られている。僕はジュンク堂のカバーが掛かったそれを、座席からちらっと眺めた。

パズル

満月が僕を照らしている。生きる理由。考えても考えても、普遍的な唯一解が見つからない。そうして僕は限りなく孤独な旅に強制されて行く。猫がうずくまっている。自己満足でもいい。屁理屈でも構わないから、自分が生きる理由が欲しい。生きていかなくてはならない使命が欲しい。
 とあるアパートの名も無き部屋が光っている。そこに価値があるのか。戯れに救いがあるのか。自由なんて無い。言葉遊びの為に便利な観念に過ぎない。だからそれが何だか。君が否定して何だか。
 最も偉大な人がいると云う。世界一悲惨な者があるという。
 満月は夜の雲に隠された。この部屋に闇を連れて来る。愛とか平和とか理想を歌うつまらない才能を捨てよう。お前の目の前にある現実と向かえ。偽らざる本音に従え。何よりも大切なことを悟れ。そして新しい秘密を暴け。

絶望に対して

救いの無い戦闘を繰り返している。成果も無い。理由も無い。答えは自分自身の中にある。
 愛すべき対象なんて無い。あらゆる想いを偽善で埋め尽くしたらこんな世界が出来るんだろう。それでもお前は生きるのか。何がお前を駆り立てる。死ぬだけの勇気が無いだけなんだろう。
「だとしたらどうなんだ?」
死ぬ為の勇気なんて要らない。ただ、世界に立ち向かう力が欲しい。
 運命を越えて、新しい希望を手にする為の力が。

ビル

秋の夜満月隠す渋谷のビル

2005年9月19日

反省

豚共よ、なぜ何の為に生きているのか問え。下らぬ仲間に日々擦り寄り、繁殖し続けるだけの能無し共。貴様らが一体どんな偉大さを持ち得た試しがあったか。自身の欲望を実行するだけの取るに足らぬ機械め。人間を見習え。彼らはどれだけ毎日を考え抜いて暮らしている事か。学者は宇宙の目的を真摯に追い、しばしば食事をさえ忘れるものだ。芸術家が血の滲む努力の末に不可能を達成した例が幾らあるものか。貴様ら豚は何も達成しない。飼われて、食わされ、交尾して歓喜する。程なく殺され八つ裂きにされる。そして人間の食卓に並ぶ。貴様らには恥が無い。だから豚と呼ぶに相応しい。ああ聖なる人間よ。貴方は互いに殴り合い、傷つけ合い、仕舞にはあらゆる卑劣な爆弾で木っ端微塵に消し飛ばす。崇高な人間達。あなた方は聖人の言葉を憎んでさえいるのだ。自分自身に対する厳しい鍛錬を怠る言い訳として。人間、万物の霊長、宇宙で最高の実存。あなたは豚と何が違うのか。
 私達は本当に自分が思う程に高等なのか。単なる欲望への従事者としては豚よりむしろ愚かだ。驚くべき速度で我々以外の動植物を破壊し、絶滅させ、環境の理想的循環を台無しにして恥じる所なし。狂った様に、事実理性的に観れば狂っているが、名誉と財産と呼ぶ取るに足りない玩具を買い求める。その挙げ句同族同士に無限の等級分けをし常に争っている。最悪の場合には奴らは自ら至善なる筈その肉体を殺す。下劣な生き物、人間。彼らが偉人として信仰する少数の傑物ですらその悲惨に対するせめてもの慰めにしかならない。先方の達した事は豚による豚の為の豚芸に過ぎないのだから。
 いい加減に遊ぶのをやめ給え。そして君がしなければならない使命を想え。

毀誉褒貶

愚者に誉められるのは賢者に謗られるのと等しい。

2005年9月18日

人工

人工とは、自然の工夫あるいは自然を対象とした工夫であり、創造ではない。

1匹の兎のみ追う者は、2匹以上捕まえることはできなかった。

よさ

佳く生きるだけではまだ足りないもの。

光の質

朝日や夕陽はどうして昼間の太陽よりも雰囲気に満ちているのだろうか。朝は希望の光。夕には安堵の光。

現代

赤ん坊のような我々の考えや行いを笑い話にしている未来の人類。

人の内外

顔と体に対する、頭と心。外面に対する、内面の値とは。

届かない光。君の指先に触れそうにはなるけれど、いつもあと少しのところで逃げ去ってしまう永遠の夢。それは君を導く。遠くへ、遠くへ。要求するものが手に入らないことは問題ではない。満たされないことは希望である。では、君は何を問うのか。何を思うのか。幾度でも繰り返されて来た物語がまた始まる。それから紆余曲折を経て終わる。人生。それ以上でも以下でもなく、否定も肯定もし得ない営み。生み出され、暮らしてから、死んでいく。生活。そこには何もない。何も。けれど全てはそこにある。旅を続けていた。理由は知らなかった。知りたいと思ったことすら無かったのだ。バラバラに解体された星屑がいくつかの理想を語っては消え行った。そして君は独りだ。歴史が様々な場面を描き、消し去る。目の前に映像を形づくり、流し去る。何も残らない。誰も生き抜かない。不安定な形態が自立して曲を奏でている。無限の組み合わせから特別な構成が選び抜かれて、並ぶ。ここが世界だ。よそには何もない。誰もいない。問題はない。解答がない。運命が遊んでいる。心地よい空間が現れる。そこに君を誘う。「連れていってくれ!」大地が隆起しては陥没する。大空に雲を設置したらどかす。「連れていって」君は地球の中心に向かって叫んだ。けどそんな声にどんな意味があるというのだ。無理難題を押し付けるには宇宙はあまり法則的に過ぎる。君は太陽系の旅人だった。この世を自在に横断する時間の冒険家。

浪費

文明で人が恐れるべきは孤独というより、時間の浪費である。

2005年9月17日

啓発書

引きこもりに『学問のすすめ』。
 フリーターに『フランクリン自伝』。
 NEETとホームレスに『自助論』。

科学の理解

昇華は、合理的行動を通して社会内で活躍と等価である事の批判。人間の目的が単なる生殖育児の成功にあるとすれば文明は余計。そして文明は政経学術から成る。よって人間の生殖育児以上の目的があるとすれば文明。文明を形成する方法は労働と勉学。生物学的社会学的理解、学習行動の自己目的化は生態系頂上の生命体にとって生存における必然で、それは適応力高化ゲームと言える。

死までに人は何を達成すべきだろうか。

政治的正義

人は正しければ、死んだとしても勝っている。そして政治的正義とは平和の構築と戦争の破壊にある。

和平

政事にできる限界は平和の構築に過ぎない。

国連主義と愛国主義

全球化時代にとって一般に、愛国主義は手段であって目的ではない。国の均衡を目的とした国連主義を通じ、世界市民時代が訪れるだろう。

学について自らの潜在性を信じない者は才がない。

活動写真

女は原宿のmontoakモントークでカフェ・ラテを傾けている。スモークシールド越しに表参道を行き過ぎる人々を眺め、また、ストローに口づける。細い二本のそれはチャコールグレイの液体の中に無造作につっこまれ、ひとさし指先の動きに合わせ氷をカラカラと鳴らし続けている。腕時計に目をやる。時刻は午後2時。待ち合わせぴったり。
 君は丁度、ラフォーレ前を通って十字路へ差し掛かるときだった。多少遅れたけど、喫茶店の代金を平気な顔でなにげに払えばきっと、再びここを通る頃に彼女は機嫌を直しているだろう。着いた。そして扉を開く。
 女は彼がやって来たのを片目で見やる。わざとご機嫌が優れない様を演じる。でも、少し口元がゆるんでしまって、ばれた。
 君はその微かなサインに巧妙なほど軽快につけ込み、わけの分らないフランス衒学ゲンガクみたいな口から出任せを次々しゃべる。そして何とか彼女の笑いを誘う。高が5分だが5分の遅刻。
 彼らが店から出てくる。どこからどう見ても仲の悪くない二人。そして通りに溢れる波の間へ混ざって行く。
 けやき並木のうち一本の上に停まる烏になって我々は、絶え間ない川の流れのような車のうねりを見ている。人間と機械の共演。もう見飽きた映画だ。

平和な夜に

君は浜辺に立っている。空には満月が浮かんでいる。波の音が、BGMとして流れている。辺りには何もない。誰もいない。純粋で完璧な孤独が、君をひたひた癒やして行く。
 どうして人々は戦争をするのだろうか。ふと、考えが頭をよぎる。どうして互いを憎しみ合い、何かを奪い合わなければならない。大きな海は寛大だ。それはあらゆるものを飲み込んでなお、広がり続けている。
 月は冷たく見下ろしている。彼女は海岸線のざわめきの一部になって消え去りそうな君を知っている。ちっぽけ過ぎるほど何者でもない、小さな生き物よ。人間よ。お前はどうして自分自身を偉大だと信じるのか。
 月との会話。
君「今晩はお月様」
月「今晩は」
君「あなたはどうしてそんなに綺麗に輝くのか」
月「私は知らない」
君「僕らは今日も愚かな争いごとに耽っています」
月「ご苦労様」
君「あなたはきっと賢いから、人間たちの様に戦う真似はしないのだ」
月「そうかもね」
君「あなたはまるで遊んでいるように見える。くるくるいつも表情を変えて」
月「それはどうかな」
君「いつも楽しそうだ」
月「私には仕事しかないんだよ」
君「重力に従う」
月「そうだね。しばし退屈な任務よ」
君「僕もあなたみたく単調な仕事に終始したかった」
月「人間は頭がいいからね。色々考えないと」
君「そうですね」
 夏の終わりをそのまま具体化したみたいな生ぬるい潮風が君の体中をしっとり濡らして行く。
 波の音が穏やかな一日の締め括りを表している。明日が始まるまでに少し、眠らなくては。そして君は家に帰った。

2005年9月16日

建築論

普遍的空間は個別的空間を包含する。だが、個別的空間は普遍的空間を包含しない。
Universal spaceをU-s、Individual spaceをI-sと置くと、
{(U-s∈I-s)∧(U-s⊂I-s)}→(I-s⊆U-s)
∴建築とは先ず普遍的空間を構築し、次に個別的空間を構成する事である。

建築論

構造・設備・審美を普遍的体系の元に合一する事。つまり、ある時代にできる最高の建築的解を提出する事。
 それは施工と計画にとっても単純化という結果をもたらす。

建築論

建設性を旨としない建築は、規模が違うだけで子供の砂場遊びと何ら変わらない。
 先ず仕事をせよ。次にその中に遊戯を見出せ。

発明

自動米研ぎ機。

建築論

最も合理的な構成は又、最も美しい構成であるはずだ。それは宇宙の秩序として、自然の本質を表現するから。

喜劇論

馬鹿騒ぎするくらいなら独りで勉強していた方がよい。蓋し、笑い話ひとつにも芸術性はあった。
 優れた話し合いは賑やかな遊戯に見えるし、事実、話者も楽しい。その仕方は良い趣味を前提に置いた機知の創作にある。

知について

知らないことは永遠にあり続けるだろう。知るということは遊びなのだ。

労働の精神化

精神労働者よ、肉体労働者を敬え。そしてますます労働を精神化することを恐れるな。未来の機械社会を想起せよ。

終わりについて

虚栄心に打ち勝つには死を思えば良い。それは絶対の絶望として君へ謙虚さを教える。

物理学

運動より不思議な形相は無い。それは理由を知らされないままで無秩序へ向かって行く自然現象といいかえられる。

人体学

とある定義の限り、空間に非物質が存在し得ない以上、精神と我々が呼ぶものは脳内の化学物質における時間との相移にある。つまりそれはかなり特殊な運動の状態だ。
 そして脳が個別的肉体の一部分である限り、肉体自体を改変する際に精神も影響を受けるだろう。脳だけが生き残るといった場合に精神は、我々が日常に知ったものとは極めて異なる様相を示すはずだ。

自由

永遠とのつがい、自由。

好み

人は完全さに恋し、不完全さを愛する。

教訓

最短の悟りをさすことばを教訓という。

企業

儲けることより、社会内に利益を生み出すことが企業の目的でなくてはならない。
 前者を目指す時、将来的破産は目に見える。
 後者を目指す時、その会社は世界になくてはならなくなる。

新宿

視点は新宿駅のコインロッカーの中にある。真っ暗で何も見えない。しばらく時が経過する。そして扉が開いた。
 入っていたのはルイ・ヴィトンのハンドバッグ。取り出したのはあでやかな格好をした女、年齢は20代後半に見える。
 辺りは雑踏の中心な地下通路だ。近くにある、どこだか知らない企業による広告入りの大きなデジタル時計の針は、夜中の9時前後を指している。く女はどんどん先へ進む。単調なメトロプロムナードを越え、アルタ前から地上出口に到り、高いヒールが嬌声を上げ、輝く醜悪なネオンサインの下をぐんぐんくぐり抜けて行く。
 とある交差点。煌びやか。テールランプの軌跡群。ミラーボールが回る。まがい物の時間が数十秒経過した。我々は待つ。何か起こるに違いない空気。
 視点は退く。鉄筋コンクリートの薄汚いビルの一部屋ひとへや、夜の副都心全景を見渡す。都庁がどんどん小さくなり、御苑が都心の取り残した闇として把握され、原宿が分かり、渋谷が観じられる。最後には都市圏全貌がはっきりと理解される。頬を温める熱で太陽光は右手から射しているのが感じられる。目線の左半分が夜半の土地、反対側が夕方の場所。そこから視点の移動速度は急激に上がる。地球が丸いのを眺めるまで至る。青い星。そして我々は月に着く。ここに立った今では、あの女のカールした栗色のぱさついた髪の毛も、比較的些細なものに思える。自転に合わせて我々の足を乗せた天体は回転し、白い点となった地球は視野から外れた。真っ黒の紙の上に幼稚園児が金平糖をばら撒いたみたいに、光の粒が我々の目に幾何学的暗号を送っている。意味のない、愛想のいい微笑みを浮かべる女の目。瞳の奥には地球がある。ネイルアートを眺める。そこには大宇宙に散らばった星々の絵が描いてある。君はその中の一つ、どこかで遊んでいるのだ。まるで小さな子供みたいに。
 視点は夜空を捉える。そこに我々の住む塵のかけらを見いだす。無音。

月天心

ゆで卵かたゆで卵の月天心

ねこじゃらし

ねこじゃらしススキ手にしてあるく子よ

物理学

最初の力について。

2005年9月15日

人類学

生命体は宇宙の動的形態、有機体であるから、人間自身もその精神も事実上宇宙の一種。考える能力にidentityを懸けたパスカルやデカルトは、単に人間の地球の生態系ピラミッド内での地位を文学的比喩で言い表した。
 つまり我々が思考するのは当然であって、好むと好まざるとに関わらず、宇宙の目的に奉仕する部分だというに過ぎない。

脳科学

人間の頭脳は彼ら自身が工夫したcomputerに似ているが、それとは特性が違う。だから分担作業が効率良い。

労い

大人の遊びとしての学びと労い。子はそれらをまねる。

画家

立派に費やされた一生は長い。

医学

精神と我々が呼ぶものの物質性について科学的に調べよ。

頭脳は学習で複雑になる説

記憶する際に出るθ波と呼ばれる脳波が、海馬に伝えられると、前駆細胞が刺激される。つまり将来的に脳細胞が増える("Neuron" 2005 Vol 47, Issue 6, Pages 803-815)。
 1998年スウェーデンの科学者ら(Peter S. ErikssonとFred H. Gageら)によって発表された成人の脳でも海馬で神経細胞が新生する事実と照らし合わせるなら、人間の頭脳は学習に比例し複雑になるという仮説が提出される。

保健

節制し、体を鍛えよ。余力があれば競技で優秀さを示せ。

数学

数学の殆ど奇跡と云うべき至高の真性がなぜなのか常に疑問に思うのだが解けない。人の理知を超えた何者かの存在絶対者或いは超越者を感じるのだが。
 人自身がそれを体系化したのは偽りない事実なのだが、数学的思考そのものは我々の創造性を凌駕するだけに凄まじく正確無比な精巧さに満ちている。つまり思考は我々に付与された自然に因る特性なので、人間自身の意図を初めから超えたものだった。

科学論

数学を学べ。そして後にその実力にできる諸科学の問題を解け、これを繰り返すのが科学史貢献のやり方である。

君が相変わらず欲するものは動物の要するそれと精神の求めるそれに過ぎない。
 君が欲しがるものは人間が欲しがるそれだと相場が決まっている。そして動物欲の中庸と精神欲の極度が君に充実を知らせるだろう。

自らを神的な獣と自認するあわれな実存。

困難

生きることの困難に諦めを催してはならない。生きることの他に貴ぶべき何もないから。

月見

空に半月がかかる。女が集合住宅のベランダからそれを眺めている。静かな時間が過ぎる。故郷のいなか町では輝いていたはずの星々が薄暗く光る雲に覆い隠され、奇妙な桃色の絵の具の下敷きになっている。女はそこに何の印を読み取っているのだろうか。
 私は公園のベンチから、目の端に入ったそんな光景を眺めた。時刻は深夜0時。住宅街はしんとしている。比較的遠く、駅の方から終電車の音が聞こえる。後は虫の歌しかない。両者の間にぽっかりと浮かんだ月だけが、この空間の共通観念として存在している。他には何もない。深夜のひとけのない闇の中。コンビニで買われた氷結果汁のロゼッタ白が置き去りにされている。黒い野良猫。小説。
 女は深呼吸してから手すりを離れ、赤い安物のスリッパを脱いで、ワンルームの部屋に戻る。そして窓を閉めて鍵をかける。カーテンを引く。KENWOODのCDコンポからはBGMモードで微かにジョン・コルトレーンの『expression』が流れている。女は冷蔵庫を開け、アップルジュースを取り出し、台所から持ってきたコップに注いで、飲み干す。そしてベッドへ帰る。
 しばらくして歯磨きを忘れていたことに気づき、洗面所のあかりが点けられすぐ消される。
 空が白み始める頃、人々は起き出す。次に黒猫が公園のベンチ下から抜け出すのはその時の事だ。始発電車から君は、朝焼けの奥に消え入りそうな望月を眺めている。

博物学

我々は客観的には、天体の爆発の瞬間に生じた束の間の奇妙な形態に過ぎない。

物理学

地球から月や太陽までの距離は天文学的なので、天体の回転がリンゴの落下と同じ現象には一見、思われないのだ。

献身

自分自身より優秀な生徒を見分けられず、彼らを無能だと勘違いする教師は自身の合理化に気づかぬ子供に過ぎない。教育とは自分自身より優秀な生徒を育てる為の献身である。

下学

分からないことをそうと言えない先生は無能である。

工学について

人類の産業の発展は事実上、生産力を支える労働手段の発達に依存してきたと私は考える。マルクスの如くそれが全社会の基盤であると迄は思わないが。理由。経済は側面だから。よって工学は経済基盤とごく密接である。
 さらにピンポイントで推論すれば、労働手段の根本は熱機関であった。だから私はこう仮説する。熱機関の半永久的効率化が工学の第一命題である。工学の背負った応用技術なるものの使命。

力学

Newtonが如何にして何故に運動の三法則を導いたのかを知る事。

金の使い方

金を有益に消費することはそのまま社会貢献である。

エネルギー

人間にできることはエネルギーにできることの一部だ。考える葦たる精神はエネルギーより崇拝に足るのだが。

物理学

なぜどの様に光速度不変の原理は導かれたのか。

賢愚

天才や無知という言葉に使われて学習を怠る人達。
 天才や無知という言葉を使って学習に励む人達。

絵画論

写真の道具性、絵画の目的性。

自他

愚者はすぐに他人を軽蔑する。それが自身をますます愚かにするのも知らずに。
 賢者は最後まで他人の中の賢さを信頼する。それは対自的には謙虚、対他的には尊敬として現される、あるいは現されるべきである。知徳の合一。

2005年9月14日

演技論

沢山の異性に尊敬され、一人の恋人に誰よりも愛される者に。
 同性から信頼を勝ち得る者に。

物理と倫理の一致点

エネルギー、精神、神を等価と考えるなら、科学、哲学、芸術、教育、宗教は矛盾せず調和する。
 仏教における法(ダルマ)を、自然法則としての科学的定理と、道徳法則としての定言命令を等値視したものだと考えるなら、縁起や慈悲は相対論、即ち時間と空間の等しさと矛盾しない。

理性

ソクラテスにとって最高の幸福も浄化だったのだろう。豚との隔たりも又。

歴史上最も偉大な科学者が画期的な発見をする時、彼らは組織に依らない自己教育の中にいた証拠。ニュートン23から24歳の帰郷での孤独。アインシュタイン26歳公務員の奇跡の三ヶ月。
 学究にとって最高の環境は必ずしも学校に依ってのみもたらされるのではない。アリストテレスが云う様に、そこに閑暇が必要だ。

学の純粋性

学歴が一般的事務員採用の指針になっているのは本来おかしい。プラトンのアカデメイアに始まる大学の歴史は純粋理論学者の要請に向けられていたはずだから。少なくとも日本においては、古来中国から来る政治混在型学問の亜流が、近代のある段階で何らかの意図の元にビジネスマンの初期偏差化に利用されたのだ。だがイギリスやアメリカのシグナリング理論はどう解釈するか。職業訓練と純粋学究については分けるべきだ。

人生論

人生は短く、栄光は長い。

集散

稼ぎ方と使い方は等価でなければならない。さもなければ恨みを買うか破産する。

常陸の良俗

「頂きます(食べるの謙譲語)」
「ご馳走様(料理の為に走り回ってくれた人々、動植物等自然の恵みへの感謝)」
仏教的慈悲が儒教的仁愛に重なって、食事という行為への有り難みとして昇華された文化。或いは烈公による農人形に象徴された精神がこの慣習の始原か。

物理学

なぜ星は例えば太陽と地球、地球と月の関係の如く地上におけるリンゴのそれより遅く落ちるか。

言語哲学論

現代哲学が言語論に流れるのは何故か。それは道具と目的の誤認に因る。哲学にとっての言語は道具。目的は道徳。

情報

極端に稼ぐのは社会還元の為。極端に働くのは趣味だから。
 中庸に稼ぐのは当たり前。中庸に働くのは生物たる当然。
 極端に稼がないのはお人好し。極端に働かないのは怠け癖。

滅私奉公について

政事は最も無私を求められる活動である。

政事の定義

政事は文明に於ける実践で、現実に即した思慮分別が要求される。しかし理想に依る自制のないそれ、つまりプラトン的な理想主義は独裁と変わらぬ自己満足の危険がある。
 政事とは最小少数の最低悲劇かつ最大多数の最高幸福を目指す判断行為と定義されるべきだ。

美術論

絵画の結論は社会的に存在する平面の規則化にある。だから彫刻と共に、それは建築に合致する。
 絵画や彫刻として平面造形と立体造形が、建築なる空間造形から分離して追究されて来た理由は
1. 次元理解の便宜を計る意図
2. 建築を機能から剥離しない為
が考えられる。
 そして建築は解放を獲得する。平面と立体を自由に扱える空間は造形に奉仕するに充分であり、制約から逃れられない建築を癒やす。

絵画論

ジオット以降人類は写実主義を推し進めた。レオナルドにおいてそれは頂点を極めた。セザンヌはここから抽象に入った。モンドリアンが抽象を極めた。以上の絵画発展史の末端に居て、私は先ず純粋抽象絵画造形に賛同しよう。それは又、究極の具体絵画である。
 絵画の鑑賞は色彩に原因する。従って色彩を最純に扱った絵画に拠る鑑賞は最美である筈だ。なぜなら絵画において視覚は色彩で表現されるから。

教師

劣悪な教師は罰を専らとし、優秀な教師は賞を上手にする。下等な教師は早熟を貴び、上等な教師は大器を讃える。駄目教師は生徒間に競争を起こさせ、師匠は弟子を自然に見習わせる。

信仰対象

特定の人物を信仰することは全人類を信仰することには及ばない。

リフティング

リフティングのコツ
1. ボールの重心を蹴る
2. 中庸に蹴る
3. 左右交互に蹴る

人間主義

人間より信仰に足る何かが存在したためしは無い。

学働

行働と学究は等価である。どちらを軽視するのも浅薄だ。

今日の人類は国と呼ぶ家から自立する使命を負っている。

言葉

言葉は精神を表す。

行動

俗物に構う必要はない。聖者に見習え。軽蔑すべき人物と、偉人を比較してみる事。そして前者を反面教師として後者を手本にせよ。

学業

古代ギリシアの奴隷制が廃止されて以来、学術家の最大の心配事は閑暇の確保にあると言える。

発見

より自由な個人が珍しい発見をしてきた。

芸術論

あらゆる造形芸術は社会の美化に勉める。
 創造は個性に依存するにも関わらず、社会美はある普遍性へと、宇宙美へと総合されて行くのが観察できる。芸術の論理は以上にある。

政事

無私な公共の福祉を目指す行為を政事と呼ぶ。
 そこから政治家個人が得られる唯一の利益は内なる名誉、即ち気高き心である。これが地位、外聞、金銭や単なる権術遊びになったとき腐敗する。

労働

地位、金銭、名誉に群がる者達よ。私は彼らの獣魂を認めよう。それらは大変に価値あるものだ、大いに競え。そして私は主張する。同じく個人の智徳技は価値である。
 人間相互の社会運動の殆どは以上の中にある。それは労働となって現れる。

完全性

人間の不完全さを認めない者は我々の完全さをも破棄するに等しい。

内省

最善の道徳の為の思念を哲学における内省と呼ぼう。それが目指すのは中庸を意味する日常的な積重の結果としての倫理ではない。こうして内省は道徳の原理へ及ぶ。

哲学

私は先ず、哲学を善さの愛究と捉えよう。全思索はそこへ向けてのものであるべきだ。科学化も芸術化もされ得ない思念が哲学と呼ばれなくてはならないから。
 哲学は宗教とは無縁であるべきだ。信じるのでなく、疑わねばならない。あらゆる哲学は自ら考えるところからしか始まらない。

現代の潮流

無知の知から出発し、批判(即ち論理的基礎づけ)を目標とした方法的懐疑を、人は哲学と呼んできた。近代の文法、それは善さの一貫した追究だった。
 私は実用主義を基礎として信用する。善さは有用性から出発しなければならないから。目的そのものとしての哲学の研究が脱構築と呼ばれる永劫回帰的思念に終始するのが観察できる。

模範

三流の教師は悪い手本で満ち溢れている。一流の教師は実存自体が模範である。大抵の教師はその中間にある。

物理学

万物の根源がエネルギーだと仮定しよう。それで説明できない不思議はない。今や唯一の問題はそれらの数学的論証である。

科学論

科学は歴史的には哲学から分化した事実分析の方法だった。がカント以降、人はその理論の基礎を科学に託すことが必要になったと言えるだろう。そして私は統一理論を欲する、科学の根本統括として。

科学論

科学は実証主義に基づいた帰納法に従って真偽を見分ける為の普遍的体系である。

健康

健康でなければならない。

空に月歩く分には明るいや

商い

商いに深く携わるのは、個人と社会を互恵させる為。

人類史の目的

個人の知徳技の発達は人類史の目的自体である。幸福の自己追求として、それは生存の究極と言える。

他人を尊重の前提に置かない者は文明から出て行け。

幸福論

愚者と賢者、下劣な者と高潔な者、拙なる者と功なる者が実存するのは人間界における客観的事実として認めなければならない、としよう。なぜならそれらの多様性も又、生物学的な生存の為の戦略に適う進化の有り様だから。もし全ての人が平等に均一なら、我々の新しい環境への適応の可能性は低くなる。例えば封建社会から民主社会へ変化した非我に対し、暴力的な人より穏健な人が向いて行くのが歴史的事実として観察できるとする。
 従ってこう主張する。人はそれらの差異化による種内競合を利用し、我々自身の生存目的を追求しているのだ、と。こう考えれば愚者や下劣な者や拙なる者も特別驚くに値しない。彼らとの差は、もしくは私達のそれは要するに目的の為の道具なのである。
 私はそういった世界観を仮構するだけに留めておこう。第一に、自分の幸福の追求の為。第二に、教育の可能性の為。

社会階級

社会階級上、自分より目下の者に向かって威張り散らす者が必ずや目上に対して卑屈になるのは、彼らが独立心を欠く証拠になる。人が生きる為の依り所は自分自身の中にしかないと知れ。
 或いは人は言うだろう。あらゆるものは持ちつ持たれつだ。彼らが自由を棄てるつもりとして。

中道

名もない一人の人物として、人類の歴史的可能性を開拓する事、人間に固有の原理に基づき、その論理的進歩に順行する事。そして人間として可能な最上の偉大さを目指す事。つまり、最も普通に生きる事。

出発

常に自分自身の愚かしさ、低劣さ、拙劣さ、生きるものに不変の虚しさから出発せよ。