2005年9月14日

幸福論

愚者と賢者、下劣な者と高潔な者、拙なる者と功なる者が実存するのは人間界における客観的事実として認めなければならない、としよう。なぜならそれらの多様性も又、生物学的な生存の為の戦略に適う進化の有り様だから。もし全ての人が平等に均一なら、我々の新しい環境への適応の可能性は低くなる。例えば封建社会から民主社会へ変化した非我に対し、暴力的な人より穏健な人が向いて行くのが歴史的事実として観察できるとする。
 従ってこう主張する。人はそれらの差異化による種内競合を利用し、我々自身の生存目的を追求しているのだ、と。こう考えれば愚者や下劣な者や拙なる者も特別驚くに値しない。彼らとの差は、もしくは私達のそれは要するに目的の為の道具なのである。
 私はそういった世界観を仮構するだけに留めておこう。第一に、自分の幸福の追求の為。第二に、教育の可能性の為。