2005年9月20日

都心の観察

かつて祈られた願いがあり、むかし流された涙があった。しばらくの時が経った。この新しい朝。都心の路上に等間隔に配置された街路樹の足下を歩いている。多くの人々と擦れ違う。今日という1日を告げる太陽が、柔らかな光線を注ぐ。人々はそれを全身で受け止める。網膜に朝焼けの風景画を描く。一様に同じスーツに身を包み、おもちゃの兵隊のように並んでぺこぺことお辞儀をする東洋人の姿。
 新宿駅の自動改札機にsuicaをかざして抜ける。無数の人物が政治的経済あるいは経済的政治を表現している。覆面づくめの行進だ。そんな人混みに君は個性を隠し去る。匿名化した自分で、名のある会社へ向かうのだ。お日様は最高点を過ぎ、夕陽に傾く。そして君は一日分の立派な事務を終える。大丈夫、問題は問題なく解決された。あとは17時以降へ移行すればよい。
 同僚の女性を誘い、新宿センタービルの53階へ上がる。そして夜景を観ながらダイニングバーでカクテルを交わす。
 小田急前で彼女と別れてから、君は一人で西口のビックカメラに向かう。そこでオフィスの卓上で使う為の非常に簡易なプリンターを選ぶ必要がある。書類の束をデジタルでデータベース化した今では、書式を合わせてプリントアウトすることが唯一の仕事になった。或いは幾つかの定められた選択肢の中から適切な文句をポンポン、とPCに打てば良いのだから。売り場をちょっとばかりふらついたあと君は15800円の単純明快な白いそれを選び買う。ポイントカードを差し出したお礼に多少の利益が振る舞われる。それらをまとめて無言で受け取る。店を出る。
 君は帰りの埼京線車内で吊り革を頼りにぐらぐらと揺らぎながら、様々なことに思いをめぐらした。さて。ブリーフケースからうす茶色の紀伊国屋書店によるカバーの掛かった文庫本を取り出し、パラパラとページをめくる。めくるめくめくる。隣りに立った女の大きな口のあくび。それを見なかったふりして君はしおりの挟まったところから『10分でわかる! 好感をもたれる手法』を読み倒す。
 自宅に着いたのは23時過ぎ。明日は土曜、休み、予定は会計報告書を仕上げておくことくらいだ。ボタンを押して風呂を沸かし、部屋着になってソファでコップ一杯の牛乳を飲む。観葉植物に何気なく目をやる。お前は生きることが楽しいか。そのときタイマー音が鳴り、もう入れるよと知らせた。君は服を脱ぎまず桶に汲んだお湯で体を流し、次にシャンプーをする、仕上げにシャワーを浴びる。それから湯に浸かり、風呂の中で足首や手首を回す軽いストレッチをして体をほぐす。はやりの曲を口ずさんだあと湯船を出て再びシャンプーをする。最初のは単に、ヘアワックスを落とす為のそれだから。ボディシャンプーで入念に全身を洗い、流してから髪の毛にリンスをする。おしまい。曇り止めが仕組まれた円形の部分だけがキレイに浮き上がった鏡で自分の顔を眺める。人としてまっとうな顔立ちをしている。そして濡れタオルで軽くカラダについた水滴を拭いてから脱衣所に出る。
 次の朝焼けが君の眠るベッドに新しい一日を告げるとき、哀しみはいつの間にか癒やされ、涙が乾き去ったのを知る。別の希望があなたを捉えてトラックバックする。
 月曜日、君は再び朝日に輝く電車に乗っている。手には『リーダーシップの正攻法――12の習慣』が握られている。僕はジュンク堂のカバーが掛かったそれを、座席からちらっと眺めた。