2010年1月5日

理の蝟集説

趣味の高さ自体が全てを解決しきるとは言えない。全知全能の概念の前でいえば、多くの趣味化はその最低限のまね事でしかない。悟りの光は世界の展開を特有の洞察力でみわたさせる。だが完全予知論は実質に脳容積分の神経密度が、ある光速度系の中で到れる精神量を規制するので相対的でしかありえない。つまり人生観はある文化素量の支配率に、社会関係の造り映え程度に趣味化できるだけだ。
 もし社会拘束の度合いを外してみても趣味観が文明度を無視する訳ではない。進歩した生活は悟りの光をある限度までひきのばせるだけだ。文化素量の絶対密度は社交規制の趣を個性化や地域化しつつ集散をくりかえすし、そうしてきた。地球型に限らず下愚は余りに文明を理解しないとしても、不思議はない。そういうかれらには悟りの光は及びでないしそれが用いる精神活動も全然要請されない侭だ。これは趣味が合うかどうかがほぼ文化素量の絶対密度、つまり学徳の偏りにもとづく原因である。
 多くの動物ですら考えをもたないので、とある国民や地域民が全く理性に欠けしかもそれを好まなくても、何の疑問符もふしえない。結局、学問の途を精確に進むのは全人類遺伝系統の内ごく少数で、福徳の恵みや救いにも似てその門はとても狭まり見つけ辛い。大部分の動物、特に非理性的な彼らが家畜化されても幸せな如く、人種の間に、また地域の民俗間に使用関係が多重化されゆくのも自然。ゆえ社交規制としての趣味論はその最も審美完成的な追求という他の定義を主張しない。世界に複数の文明があり、夫々のもつ趣が違うのはなにも疑うべくなき構造で、我々は理性が単に獲得機会的なばかりか合幸福論に対してすら高度に進化した能力適所の分であると考えていい。経済原則や政治原則はそれらも又社交規制の品種分類に帰せる特殊類型へいつか還元できる。理性は人間の、郷土間の特徴づけられゆく個性や変異を理想論に保存する。そしてその偏りは全く建設的で運命選択的である。分類学は人類とよばれてきた社会体系か生物群集にとっても、理想性に向けて行われるだろう。