2010年1月16日

社会学

複数の社会誘因間の重なりはそれらの必然の結合を前提としない。それらはごく偶有的で、遺伝子資源と同じく機会浮動による。もし社会誘因のみに着目して真の進化の多元秩序を観察すれば、文化場間の推移自体は資源的価値や現象としての希少さを多少あれ保つ。よって生態秩序面から社会場の運動をもし遷移や動向の理論の基づいて十分分析すれば、社会適所への遺伝子の淘汰圧内の変異も当然、この社会誘因間の兼ね合いに原因が求まる。つまり生態学的社会進化はほぼ一定の運動法則をもつ。
 善悪とよばれてきた政治行為なる市場の囲い込みによる資源の調整意志からみた社会適性は、これらの社会場の機会浮動要因を分類すれば当然単なる生態秩序種の獲得形質やその実践された習性側面でしかない。いいかえると政治行為の基本理念は可変的でそれをとりまく経済型と予想できる法案知の最低限度に由来している。只の社会誘因として社会行動への規制を政治状態とみなせば、善悪の分別は経済型にとっての合理的行動形式という獲得されるべき後天的生態行動原則の倫理面での呼称なだけ。
 従って、政治行動内から善悪の変異をうみだすことはまずできないと考えていい。それは法規範という既存規制を強化できる行動方式に他ならず、この枠をこえた社会誘因をよびこむこともつくりだすこともできない。社会誘因自体は、経済型の社交段階と、それを内部から動かしている産業条件にほぼよる。そしてこのタイプへの適応規制について、より合理化された一連の道徳観念として新たな時代や地域空間(多くの場合は特定の知識集団を背景にした民族語を担う国の単位で)での理念がひきだされてくる。絶対善というこれまで形而上学の範囲でいとなまれた考え方は神の名のもとに丸め込まれて棚上げされてきた理想だが、実践の点からみればこうして決して到達不可能らしい。善悪の概念自体が倫理法則として時代環境や地域空間の法治条件の法ってのみいとなまれうる道理は、政治および経済の学識を社会学の範囲で全く実践の学としてまとめあげるのにこの形而上認識を媒介しなくていい証だから。即ち、善悪は経済合理性の段階への漸進的調整方法として法案論旨の内部秩序の中にしか永遠にみあたらない。もしこの外に、いわゆる形而上学徒が行ってきた仕方で善意を仮説づけても、それは学識にとどまる。つまりその認識は思想の領域にとじいれられ、決して社会誘因として顕在化することはない。社会誘因を生態学秩序内の人間関係法則と定義すれば、当然そこには幾つかの種類の、おもには主要産業の展開に則った社会淘汰への群的緩和の方法論以外はみいだせない。社会誘因に文化場理論的多様さがみつかるとき、それはこの産業の展開が地域や民族ごとにかなりのばらつきがあるという地球場要因にのみ原因がみつかる。そしてこの要因がもしなくなるか元からなければ勿論、社会誘因間に、従って社会秩序化の法則自体に甚だしい偏りや相互矛盾点はみつけられなくなる。こういうルールの厳密さは、より可逆部品の多く流通に同時さのある機械系にあって精密にみつかる。もし人間社会にそれがゆるやかにしかなさそうなら、かれらの文化に対数比例則がはたらく幾つもの既存の地政学的因果が絡まっているから。