2010年1月12日

社会学

最大多数への幸福の浸透自体は経済効果で可能だが、趣味度は違う。そしてこの質的高下は経済効果より寧ろ芸術効果を認可し易い。もし徴税商という市場の囲い込みを含む全商現象を幸福面から勘案すると、経済効果は芸術効果の総合体で、芸術効果は経済効果の部分体とみなせる。それらは商現象の量的偏差なだけ。
 幸福の質に高下や偏りがある訳は、文化場理論で説明できる。地脈は彼らにことなる姿で商現象の適応を行わす。ゆえ地柄の分析なしには幸福の質的分類はできない。
S=Ap log eで示せる精神(即ち知能密度)含む文化の偏りはそれらの架け渡しを商空間なしには行わせないし又そうしなくていい。それは分業による効率化の規則にならうから。もし最高幸福を経済学と政治学の両面にわたってできるだけ定量化できる数値として定義し直したくば、それらは土地柄に応じた限界関数を底とすべき事になる。最高の精神がもし定義できるとして、文化偏差はそれらの独自さや異なる方向付けを企む。よって多岐幸福論は当然社会学の、政治経済の両面にわたる命題となる。実質上、質的功利の最高幸福という定義は上述の論旨、つまり多岐に及んだ文化場の互恵を視野に入れてこなかった。植民地支配の最大の目的は質的功利の敷衍であり、その幸福は最も精神化した一族の趣味感覚のおしつけでしかなかった。
 趣味主義的観点を功利主義の論脈内にくりいれえるなら、我々は文明の精神が決してあまねく享受されたり面白がられたりするものでもなく、一部の特殊に集積した文化場のみの共有概念であるのをまざまざと覚える。趣味度は場所柄のおもむきによって淘汰や洗練されてくるもので、我々が如何にこの自然と社会の両面にわたるエントロピーの偏りにかなしみを抱こうとまったくお構いなしに宇宙はその自己展開をつづける。血統の混じり合いは結局、文明の精神にとってすら合目的ではない可能性がある。植民地支配は文化素の混合をゆるすので、当然かれらの融和を促し、化学反応的な飽和現象や新発明をうみだすと同時に、生殖的隔離の進化論効用の係数をどの程度かの比例で低減させる。従ってすでに社会進化の実質が趣味観の多元にもとづく分業制の加速にあると分かる一群にとって、商協調以外の全ての文化素の混入は、遺伝子以前に於いてすら合理的ではない。開放場をのぞく全ての文化場で、この論理は一定の速さで社会進化を促し続ける。これらの知識から当然結論できる十分ありそうな未来は、文明社会という理論集積の適所では一般の生物界とは少なくとも多くの地球型生態の自然とはことなり、逆転化への指数関数的・等比数列的比例というかなりまれな文化場の閉鎖性がその決定的進化の前提となるだろうこと。
 逆転化としてみれば社会系も混沌の一種なので、結局、最も進んだ理論集積に成功するのは普通期待されているのとは大分異なり、自然および社会両面での現象の混沌度に対するエネルギーの流入が他の文化場よりはるかに(この程度は地帯生産性に対する乗数に比例する)高い時に限る。いいかえれば、極端な意味での都市環境でも野生環境でもなく、ごく効率化の進み高度に利用や趣味化された文化現象が世代間淘汰の力学を十分に活用できる程度の期間に及ぶ限り、我々は全く様変わりした文明化した品種を既存の社会型生態の中に精神のめばえとしてみいだす。これは一般的工業都市近代化論に反する結論なので、我々が文明の定義をかえねばならない十分な理由づけとなる。