2010年1月9日

啓蒙論の生物学的帰結

持続した思考習慣としての哲学は結晶化した理念を各論の上に花咲かせるだろう。そうであれ、見逃した論法の数は数えきれえない。考えは趣のしつらえ以外にでない一つの内省のならいで、その習性は理想論の程度か品位を格式面で各々つくりかえる為である。哲学を特に勧める可ではない。くらしは多彩で多趣味であっていい。そして最高の理念界と雖も何か人知の理をこえた味わいを伝えうるのでなく、その限度はやはり推しても理性的である。
 考えのよさはかれらのくらしゆきを感じゆき見渡す一定の理性へ全ての因果を集めさせる。だがこの成果は地球民度間のどの活動も何か彼ら以外の知性で分からせる訳でない。夥しい変異は類の項目で詳細に範畴化できる。こうして、運命論に省み構想哲学の真実の意義を地域か國の間の類文化に生物学編入したくば、丸で冷厳新たかな執刀医に似て、彼らの徳性なるものを品性論の範畴づけへ適用すべきだ。そして、この行いは只の科学の中でも成功するだろう。
 人類生物学は我々の限界と共に民俗学が詳細に、民族学が包括に働いた文明論の理性的定義を待望する。批判哲学すなわち徳目理解の体系は、人種偏見への最大限の緩和をのぞみえる広域で行えるに過ぎないが、偏見というものの定理化は世界現象のつめたな省察精神面への注釈の俗では誤解や事実歪曲をひねりこめる偽造でしかなければいずれ、退化的である。