2010年1月26日

論理学

任意の公理系内では自己証明できない、という不完全性定理からは公理系が集合論の内積なだけでその目的が道具的完成であるという知性の限度をも引き出せる。どの知性も任意の公理系の部分集合ゆえ、論理の双対性を経由せねば証明に至らない。逆なら、数学や科学知識の真とは人間原理にとっての、また我々の自然認識の主観の適合性にとっての系。論理集合としてみた知識体系が主観の証明論に拠っているという現代数理哲学(これが数学と呼ばれてきた全純粋理性のア・プリオリな、生れついた公理集合)からの推察は、数学知識の全システムが主観が捉えた多くの公理系からの抽出である、という西洋型近代化した諸学問のデカルト癖を内側から否定できる可能性に言い及ぶ。科学が真理である、という考え方はデカルトに倣う一信念か仮定。ゆえ実証主義科学が唯一の知識であると証明することはできない。
 かなりやさしくいえば、科学は事実の羅列とみえる実験で確かめられる法則にもそれを証明しようと試みた段階で必ず主観が関わる他ない。つまり科学法則は任意の主観的公理系であり、ベーコンによる帰納法の方法論から最も客観的だとされてきた実験科学の内容でさえそれが数理比例という共通の源泉から同じ水を酌む限り同じ。論理学の成果は記号論理についても複雑化へ向けて効率化を施したが、なしえたのはより絡まりあった論理作業の機械化だけ。ゆえ科学知識の目的としての暗記作業そのものは、全く機械化される。それらが主観を除けば要領よくまとまった公理系であり続ける限り、それらを使用できる側にしか試験すべき、何らかの誤りを避ける才能か学習された既存公式量の調査はしえない。
 教育指導機関が公理系の記憶量を調査することを教育としている事は、これらの現代数学の地平から予知できる誤り。それは機械化した数学公式群の検索や社会含む自然知識の辞典や教科書を読み取る側にのみ知性の内容系はある、という主観の知識媒介を前置きとしていないほど益々国民の思考原則の機械化を誘なうところに戻る。
 任意の公理系を証明できる主体はその手順を繰り返せる、という特定の比例重畳性の導出にかけて知性をもつと言われていい。そして無限個の真理を全て証明できる主体へは全知のみならずその任意の光速度内時間についての能率にも極限を充てるしかないので、この場合にはカントのいう世界外存在にしか、仮にそれが仮説の産物だとしても原因は求まらない。ゆえ有限の知性については、つねに有限の公理系から証明論の繰り返しに限っての試験ができる。この証明は既に行われたものでなければならず、決してあやふやな以前と違う証明論を課すことはできない。
 新しい命題には別の解法があり、この場合は別の手順が要される。よってかくの命題をつくりあげ解ける為には別の主観が用いられる。カントの定義に則れば主観は時間直観なので、この場合は時を置いた同一個性も入る。