2010年1月18日

国立大学論

状況はもっぱら日本のそれに限るとして、国立大学の法人格に対する株式や友好的な中央や地方政府機関からの教授会ふくむ部分か指導力の核の買収によって福祉税制的な無償化が進められるうちには、その在籍期間延長の可能性を悪用する意図のあるなしに関わらず学内勉励の維持か契機のため卒業試験合格者の絶対数規制があっていい。もし帝国系国立大学が以前のまま戦前に参照したフランスの制度を踏襲し、浪漫派絡む教養主義の流れを、全く質の異なるアメリカ風の実用主義化へ私大との住み分けもかんがみ、自ら変えるべくもなく、その為の大義名分も西洋文明模倣に重ねたGHQ型自由化路線以外に依然持たないならば、当然定員滞留は起こる。そしてこれは現今ドイツの国立大学にみられる様に、成果や制限を課さない国費圧迫を伴う。
 私立大学の整理はいずれ市場の論理にまかされるのだが、法人であれ戦後の方向づけは手間取った国立大学という基盤を自然淘汰にあわせるほど人々は、決して無明でないだろう。つまりは、滞留の清算には学業成果主義の面が勘えられていい、のでないと危うい。もしこの放置がはじまれば我々は有名無実な大量の只乗り窓際学生を維持費が大変高価な大学施設内にいつまでも飼うしかなくなる。彼らが肩書を悪用する近い将来も十分予測可能。
 学習到達程度の規制はそもそも学部段階の知識を抑え込むので不合理である。かつ学費依存でなく定員制限にもなる単位制度の上での卒業人数の絶対値は、その内部学識を飽和的に向上させる。たとえば学部間の移動や転向もこの枠内で自由なほど発明や発見の余地は広がるだろうし、また結果的には講義間の或いは教員間の引き抜きをその人気か上質かでいざなう。問題となる過剰在籍定員は、おそらく無期限在籍者の自発的私立大学への転入傾向黙認で解決できるだろう。学費負担は帳消しになっているので、学生街付近での教室市場確保が期待できる限界効用といえるが、これは全く以て麗しくものぞましい先進税収の方向付けではないか。
 原則として職業の種類が急速に狭まる産業進化型社会では余分な壮健さの受け皿として最も巧いのは、継続した再学習環境の数珠繋ぎ条件づけであり、これにはきわめて高度化した入学と卒業の要件が課された幾つかの公的教育機関が中心ちかしい福祉コアとなる。