2010年1月2日

地政学

気候変化の激しく或いは繊細な場からは感覚の鋭敏にまつわる芸術気質が、定常さの高い場からは特有の研究体質が淘汰され易い。もし定常場でしかも気候変化がかなりの安定性をもつ繰り返しなら、そこからは少ない変異に準じた科学気質または大きな湿潤と寒暖のくりかえしに応じた哲学気質が育つ傾向がある様だ。どの土地でも知的生命が最初に行う芸術は歌や詩の言葉であり、その性格に類似か対比した傾向を帯び易い。そして詩歌の次に、それを音程にのせる所から整理された音楽が生み出されてくる。従って、土地なりの歌唱には気風についての秩序がかなりの精密さを伴って分析できる様だ。
 近代文明を生み出したのが温帯か半冷帯での持続した研究による合法則集という機械の発明にもし起因するとすれば、余りに激しい変化、つまり著しく極端な寒暖差や乾湿差には活動を何らかの非法則化や行動力化に結ぶ傾向もある可能性がある。さもなくば近代科学はごく気候変化の抑えられた幾つかの西洋諸国以外でも矢継ぎ早に芽生えただろう。但し、いうまでもなく科学、特に合法則的自然科学を中心とした社会の近代化とか労役について機械化の文化潮流は、必ずしも生存保証でもないかもしれないし唯一の文化変異でもありえないだろう。つまり、自然ながらの定常場の科学研究の習性そのものは確かにある程度より高い地味や経済力や、物資の蓄えを担保とした実用目的からは大分はなれた暇潰しや信仰かに則る趣味として純粋理論としての進路を見開かれた訳だが、かといっていわゆる我々の近代人が考えてきたのとは違和してそれは唯一の進化の方向付けでも目的観でも無論ない。自然にあってそうあった如く、進化の分岐は多岐に渡る訳で、文化に関してもまた同様。もし環境変異への遺伝子かそれをも育む文化素の多様化がまた人類へ課せられた計画らしいなら、つまり単一文明への帰依や伝播よりは各文化系統樹の往路の様々な在り方がより貴いということらしければ我々は或いは最低限わたしは、文化のまことに面白い良い意味でのうつろいや著しい変異の幅をその侭に、政治によって概念としては自治統一された国家系の中へでも保存していく方が賢明であると考える。例えばだが、数学の盛んな文化場と芸術についてそうな二種の素量の偏りがある程度おこなわれたとして、彼らが国政の或いは国連政治の一定の埒についての受け入れを許容しつつその性向や気質を伸ばしていけば、かれらがより合理的にすぐれた成果物を交換したり互恵したりできないことは決してないだろう。そして彼らの間にはどちらが環境変異への適合が高いか、おおよそ偶有か偶発の異変も伴う世界では確かめるのが難しいかもしれない。