2010年1月30日

地球生態学

S=Ap log eの文化対数は、それが自然対数の比喩だと解釈すれば次の考えを持ち来る。自然文化は人工社会のみでなく、最低限でも地球規模での生態の時間比例であり、底を地帯生産性にみれば雨量と高温の掛け算に、またこれを地味と解釈すると宇宙の中身は次第に場所反応毎に片寄り続ける宿命にある。要するに、この自然指数の法則は場所勘か場所認知へ決して矛盾を起こさない。その意味で熱反応の全体は一定の規則に習って運動する。仕事量は決して自然対数と矛盾する方向へは動いて行かないと定義できる。
 図式で考えた宇宙の場所はその規模が人間的なら誤りなく、過大か過小で観測範囲外ならそれだけの基礎条件の変形に関してこの自然指数反応をおよそに逆らわない。もしこの逆反応が時たまみられても、それは熱的可逆の文明系の中にくりこまれる。
 全宇宙の中で最も繁栄するのは地味豊かな条件下で、その偏りは時間内で急速に広がり続ける向きへ進む。地球生態は多様化のみを一様に目指すわけではないこと、つまり場所柄では自然反応と対比できる人工か生物の熱的反抗がみられないか、元々みる方向を目指さない生態適所が幾つもある。
 この知識は、弱肉強食の秩序が決して自然界の基礎ではなくそれは最も競争心に特徴ある一系統の適所であること、直ちに、共生については個体毎の縄張りが強い為その方向付けが起こりづらいことを悟らせる。生き残り丈を理由とすれば生態適所には数かぎりない隙間が用意されていて、どの一系統が退歩的だと述べるのは時間直観の究極延が見渡せぬ脳容積のかぎられた全生命秩序には偽。恐らく生態系は多岐の分かれをよしとし、膠着や安寧の位を一生態内では永久に完結させない。この訳は、自然指数の間に熱反応の移りゆきを出来るだけ多産させようとする計画は、自体がとても趣よきものだからだ。もし趣という借用された語彙がもと理念語にすぎないと反駁するなら、この用語を生態学識にかぎっては趣好と所謂生物学の中にみつかるえり好みの全体像について宛てられる。趣好のよさ或いは単に趣好の度はそれが合理的な比例、この天晴れ等しい自然指数に綿密にかなう一定の先行きを保っているところにみつかる。なぜ世界に黄金比が見つかるのか、この疑問は我々が自然生態にも決して偶然だけでない工夫が仕組まれてきたのだと恐らく自らの系統に含まれきた同一の秩序反応を内にみて気づくところにある。その精華は地球が置かれた生態環境、およそ潮汐を原理とした太陽と月の周期への適応が、我々の中に同数のくりかえしを韻律しその最も基本となる定常値に(1±√5)/2という両方の地球への影響割合として教えてきた。黄金比は地球の生態学環境が生み出せた恐らく最も趣好の高い定率だった。この為、気づくと否とに関わらずこの無理数の比率は表現にみた地球型秩序に類比できる割り当て。
 宇宙の無辺さはほぼ似た比率を基調とする生態をどこかの星間へたしかに宿している。ゆえ天体経済面から鑑み、ほぼ同位種といえそうな生態系との折衝はつねに文化間化学反応の何らかの副作用や特別な強壮化または太陽系の近くでは類比の少なさからおよそ希ながら隣接文化参照の反作用の程度あれ成功し、真逆であるほど難しいか結局不能。