2010年1月28日

文明の精神

文明間の精神現象学はどの系外とも成り立つ。現時点で私が知っている最大の枠組みとしての宇宙系間での連帯や包括関係はその止め揚げる弁証法展開を内に秘める。舞台としての文明、はシェークスピアや和辻の考えの中で既にあった。そしてヘーゲルの西洋史中心思想の独断は和辻倫理学の風土論から導かれた役者交替説によって克服されている。色とりどりに、民族毎の役割は彼らのつくりあげるその時代なりの精神によってこなされる。歴史哲学が導ける最高の理念は、民族精神へと昇華された総合経験則そのものだろう。だから一つの世界、という理想は彼らの出自が異なるという条件づけを寧ろ前向きな、できるだけ劇的な展開を誘ない易い役者選びとして尊んでいる。聖書の文面にある絶対民族の否定(バベルの崩壊)はこうして歴史物語として鑑みれば真の悟りだった。彼らが役柄を違えるということは劇場世界論の最も基礎となる案件で、さもないと世界史の筋書きは決して趣深き複雑さをとらない。全く文化の由来や夫々の行動原理が違う世界を民族精神という概念は前提とする。
 国連精神は最も総意に近い民族集成の政治原則を導き出すが、これまで連合国と枢軸国との権力闘争にみられた如きいくつかの連盟に亙る別々の意向をさらに前置きとしてなりたつこの会合の方が、意見の多様さについて或いは手続きの重畳さに関してもいずれのべられた地球精神というべき総意を剛柔併せ持った偉大な常識へ高められる。詰まるところ、ヘーゲル哲学の西洋覇権論をその侭で植民支配の正当化へ援用したアメリカニズムは決して地球型の国連組織にとっても迎合や全面肯定されるべき中枢ではないと言える。国政方略としての米国尊重と単なる強権への無目的な追従とは趣を違える。
 植民地の豊かな土地資源をかえりみた伝統としての孤立主義が米国外交の原則ならば、我々は互いの利益を図る最低限度の商取引の協調をのみこの伝統の持ち前を尊重して行えば宜しい。この友好原則をこえたどの様な協力体制も、決して国家存立の対等さについて反省すれば自明ではない。
 遠い将来の確率でしか語れない先行きたる七夕宇宙外文明系との交渉、並びにこちらは殆ど百年単位で曖昧に千年単位で確実に数えられる天の川銀河系外の文明との折衝はいうまでもなく我々に以前と同じく、生まれ育ちとしての歴史を民族と彼らが造る国家の進退にかけて責務づけている。温故知新の本筋は歴史哲学へと集められるだけ比べても見劣りしないばかりか圧倒的に偉大な祖先の来し方をその来世の世界展開を見通しつつ慮った計画理性について希望している所に待たれる。かくしてイスラムの聖典に印された力強い来世勘定の功徳は、民族精神にみれば一切の国造りの本質だと知れる。
 この様に、過激派に惑わされてイスラム原理主義が滅ぼされるべきだとでも主張し兼ねない米英の知識層は彼らが世界精神は絶対的であるというヘーゲル哲学の粋を十分な根拠もなく自民族中心思想と混同してきた由縁で、如何なる民族にも独自にして唯一回の使命が託されているという世界舞台論の台本意識を欠いてしまっている。先に近代化した国がすべての面で優れているとは限らない。岡倉の高貴な論調に倣えば、核兵器を創った国民は一度も茶の湯の韻律に目覚めなかったし夷狄と組んででも維新を成し遂げた謀略の徒は理想に燃える勤皇の志士を犠牲にしてでも急ぎ足の故なき模倣を望んだのだった。現実についてイスラム教義にみられる来世勘定の絶対精神はそれが精密な英知に基づいて敬われるほど益々より血統の完成度、家格の誇示、行く末は民族創造根本の道である国権の維持計略にとり優位なのだと歴史経験から結論できる。武家伝来の諺に、「大義の勇、匹夫の勇」とある。
 カント哲学の達成である心の不死の形而上的証明は、以前の言葉でいえば臣民の道、現代のそれでは国民の道が神道の伝統精神であることを唯一回の生命経験の内に構想させる。日本の命題に限ってはこの神道を堅持し、且つ想像できる最長の未来に至るまで維持し続ける事こそ最も不可欠な一民族の魂であると考えられる。だがこの魂が完全で完成された不動体であるとはとても言えぬ。国家間の競争環境はそれが相互批判の関係を最高度の善あるいは良識へと導く便宜上の方法であるなら、いわゆる禅の哲学に於ける問答法や助産術、および無用な戦争を忌避するところの平和主義鼓舞を主権間の自己矛盾の証明によって、というのも世界の主権は神の元にあるので、敷衍させる倫理哲学のゆっくりとした効き目等などで浅学者の功名心や博識に勝りたがる自尊心を老獪に傅いてさえ世界の啓蒙を徐々に促す。又以てこの啓蒙の歴史運動は異なるか大幅に違和した文明を跨ぐ国連間でさえも真だろう。永久平和の理想は部分的に、代わる代わるな非戦状態の緩和段階としてしか実現できない。それは永久に同じである。歴史運動の地政的交代劇は当然、彼らに絶えざるか止まざる競争誘因を吹っかける。故に、カントの最も主要な誤りは彼が女々しいか少なからず母権的な理想としか言い難い永久平和をだれもが望んでいるとした、歴史運動の必然性におもいみられるべき政治力学の因果関係を覇権の劇作論へと類推できなかった一種の書斎派の過自重にあった。人格主義の根底にある無条件の歓待は元々学界外では通用しない単なる空想の産物なので、自然の隅々まで探っても決して完璧にはみつけられない。それは完全な教科書論で現実界にない。即ち、悪の理由は絶対精神の否定的契機を人間性の限界に保つこと、批判の余地を一精神の脳可塑性の少しも或いは多くなく偏った系統発生潮流の内へ忍び込ませるという絶対善の到達不可能さにあり、最高の人格は決して神格には到りえない事が彼らの属した動物か機構の文明対数の比較的基礎(宇宙の運動論)に鑑みて明らかだ。条件つき歓待は政治関係の中にのみ成り立ち得、こちらが神格の定義(これは理論的には構想論の無限漸進としてしか捉えきれえないが)含む文面の理想論完遂を除いた一切の社会的正義や適法な社交進捗の現実論であり続け、よってその展開事情への不満は彼らに文明化をより高い学識からの批評誘因で誘なうだろう。まとめてみると、文明化とは歓待条件の好転を来世勘定の合理つまり道徳的啓発で果たし続ける世界内運動なのである。そしてこの目的は社交性つまり付き合い方の高尚さにある。孤立や隠遁の真の法則はそれが宇宙規模での交歓といった現世目的の脱構築を図るところにあった。究極の文明化、もし歓待条件の進化にこれを推し量れば最高度の道徳法則は、当為の域でではあるが無限遠の来世勘定としての神との付き合い(精神論の究極推攘)を合理づける。要するに、自然哲学(今日では科学と呼んでいる体系)と道徳哲学の源は「神学」或いは神話という宗教段階に全く代わりばえがない。それは神話体系という物語の分岐なのだ。
 数理哲学だけはこれらの何者からの学びの系から除かれているのだから、我々が自ら何かを創作したり発明できるのは結局、この数学の文章芸術に於いてだけだろう。しかしそれでも形式についてはそれ以外の一切の、何者かによる創造を借りるしかない。ゆえ数学に記されたできるだけ普くした心配りは唯一の内容知であり、我々は数学公式にしか真実語るべき内容をもたない。語りえないことについての沈黙(純粋理性の背理)は語るべき内容が矛盾した主観論を避けようとする限り数論の厳密化へ協調する文化習慣以外にみつけられないのだから。「鑑」という概念がこれを説明している。現代哲学の驚くべき結論は、計算本能の多元さにしか我々の生殖系統の何か劇作じみた白々しく永らきくみかえにみる魅了はないという事だ。これが我々の知る全言葉使いの本性だ。形式を省けば全道徳界は、法則や現実的折衷を含めて全く生得的合理化力の外に出ないという神知れぬ福徳の言い伝えは、全てを映し込む鏡の世界としての宇宙を魂が得た理解度に限って我々の理想像に曇りなく充てる。イデアか理想を宇宙の鏡たる精神世界に投影した古人は、彼がみていた道徳観を究極の善いわゆる最高善定義にとって漸進的なものとしたとはいえ、また寄り道たる道具化した理念をはじめから趣ない会稽の策と退けて歩を進めた。この点で、先覚の理想論が全体を先導する構想でもあるという神と精神、即ち上智と下愚との恒久的二重構造世像の最も原理的な計画予想の直観点を見逃さず捉えたが故に手比べてみて、孔子に比類する、より優れた理性だったと云える。究極の善は実用主義者つまりプラグマティストが行った社会内個性を絶対視させたがる民主主義の過信を除けば理想論の深さにあり、それは個々にできるだけ長い計画予想に則って現状の趣をとる習慣づけ、いわば深慮の本能を習性化させる様な躾にある。そして群生の中の個性にみた最高善はこのしつけの趣深さを理想通りにしつらえる仕業たる風趣にある。こうして白々と考え直せば、幸福主義のおしつけはありえず、それは一部の適所での風趣に叶うにすぎない。趣味主義論の世代間に最も上品な点はこの押し付けがましさを因果律への啓発によって個性を尊重する自由主義と矛盾なくまとめる様な、機知に関する心の余裕幅を蓄えうる所にある。深さにみる理想の度合いは彼らの文明色を際限なく多様にし、この為に役者交替説の一番の起源ともなる。精神の違いは彼らの未来を趣通りに処理するので、偶然含む業の因果は運命の次元へは全く正確に示されるものだ。