質問者「なぜバンクシーなら違法でもいいの?」
東京都「金になればなんでもいいんです」
質問者「もう一度きくが、公共物への落書きは違法ではないのか」
東京都「国際的に認められたアーティストの作品が違法とは考えられない」
質問者「(バンクシー作品が違法かの質問に続き)金儲けになればなんでもいいのか?」
東京都「お察しの通り、都の見解は変わりません」
質問者「五輪招致も違法だったのでは?」
東京都「次の方どうぞ」
質問者「ザハ設計の国立競技場をキャンセルしたのは合法か」
東京都「金の問題ではない」
質問者「なぜ東京ワンダーサイトを中止し、アールブリュットに文化政策をきりかえたのか。これは金の問題ではないのか」
東京都「現代アートは分かりづらいし、都知事自身も分かっていないので、障害者支援の名目なら公金使途を正当化できるからです」
質問者「バンクシーが現代アートとして他の落書きより高く評価されているのは、バンダリズムと関係し、違法行為のアートテロという文脈によるのでは?」
東京都「難しいことは分かりません。うちは漫画やアニメが主なので……」
西日本出身者って何で東京の大衆文化を尊敬すべきだとか上位みたいにいうの? 西日本に住んだことないから分からないけどもっと低俗なの? 東京って実際に住んだかぎり、ほんと品性下劣な都市だよ。都知事が誰か見たら? 石原慎太郎の小説は全部読んだが、強姦した女を虐殺して終わりとかそんな話ばっかで、なんであの人物に芥川賞あげたり都知事にする衆愚が上位と思い込んでるのか。西日本の民度って私が想像するよりはるかに低次元だって証明なんですか? 茨城県は東京都より遥かに民度の点ではましだよ。自分が35年間、茨城にも東京にもどっちにも住んで、完全に客観的に言っている。それなのに西日本の人達ってマスメディアに洗脳され、東京が上、茨城が下(というかそもそも知らない)と思い込んでいるよね? 芥川賞が高尚? 一体全体なにみてるの?
芥川が自殺してしまいました。お金が入りづらい純文学でした。通俗小説書いて文藝春秋つくった、親友の菊池寛が追悼の賞を作りました。自殺する直前に芥川は菊池のところを尋ねてましたが、菊池は対応してませんでした。そして石原慎太郎の通俗小説『太陽の季節』が受賞してから滅茶苦茶ですと。そもそも賞の起源からして通俗小説家が販促で作った似非追悼賞なのに、そこから高尚な人物なんて出てくると思う? 太宰に受賞させないよう嫌がらせした川端が有名ですよね? 商業作家なんて単なる政治ゲームしてるだけのろくな連中じゃないよ。そんなのが高尚? なに考えて文化をみてるの? 西日本から東京に出てきて、高尚だだの高級だだのといっている人達の、四国の愛媛県の文化ってどうなってるの? 漱石が『坊ちゃん』で書いた次元のままだってこと? 本当になぞです。私は10年くらい都内に暮らしましたが、本当に低俗で最悪の文化だなとおもいましたよ。嘘ぬきで。私の地元というか生まれ育った地域が立派だなんて、東京で暮らしてみるまで全然しらなくて、都内で生活したからはじめて気づけた。それなのに、なぜ西日本なり四国愛媛なりの出身者って私の真逆の感想をもつのだろう? つまりは西日本なり愛媛なりって東京よりもっと低俗な文化をもってるってこと?
私は東京を崇めてる人達を完全に軽蔑しているけど、それは都内で裏まで基本的に全部みたからですよ。皇室がどんなことをしているか、日常的に都政がどうなっているか、都内の商人達とか庶民の生態がどうなってるか、おのぼりさんの生態がどうなっているか。どこにも高尚な部分なんてなかったよ。小池さんがバンクシーぽい落書きにどう対応してるか見てみてくださいよ? 五輪招致に際して、石原以後の都知事がどうふるまってたか。みてくださいよ? 高尚? 上位? なにいってるのか。あれほど品性下劣な人物を都知事にしてる衆愚が上になったら、天地を逆にしてるとしかいいようがないですよ。ほかにも大阪だかの人も似たようなことをいっていて、具体的に言うと都内のサイコパス三流テレビ芸人に発情している。私としてはなんて低次元な人なんだろうって本当にあきれるどころの話ではなくて、某京都出身の小説屋にも物凄く呆れ返ったことがあったけど、関西地方民度も大概だなとおもいますよ。メディアバイアスだかなんだかで、妄想の偏見だか差別感だかをもって生きている人達が、西日本からわんさか東海道新幹線で東京神奈川くんだりにでてきて、物凄く頭の悪く、物凄く品性下劣な蛮族の言動をとりまくっていると。明治だか江戸時代からそんなのばっかですよね。それはわかるけど、呆れるよ。
東海道リニアなんて、東京大阪を行き来しない人にとってどうでもいいわけで、なんでそんなのに公金を使うのか。馬鹿ではないのか。どうせ品性下劣な商人がますます大阪から都内に出てきて、差別的な虐めの風習をいじりだとかいって広める、今までのパターンでしょ? で大阪衰退にしかならないでしょ? 京都もプライドばかり平安期から肥大化してるけど、所詮、長安を模して古代朝鮮の人達が封建制の下で贅沢していた過去があるだけのことで、自文化中心主義だか中華思想だかを中世みたいに引きずっていると。そんなの先住日本人の末裔からしたら知ったことではないわけですよ。文化庁遠すぎるだろうと。どうせ京都市上京区民が、10万年~3万年前から日本にずっと住んできた本来の我々の文化を、朝鮮から1300年前に入ってきて差別してきましたと。じゃあなぜ差別していたのかといえば、ダニングクルーガー効果で、ただのあほだったからですと。京都人が無知な自己中心的な稚拙な差別主義者だっただけと。しかもその京都人が、東京の方が都市規模が大きくなったから、というより茨城のほうが人口も多いくらいで、そもそも縄文時代以前から関東の方が人口が多いわけだから当然といえるが、文化庁をくれ、皇族をくれ、中世の虚栄心をまた満たしてほしいと。天皇だってただの中国から来た侵略殺人教祖だよ。あなた方西日本のかたがたがいう文化的な上下観みたいなの、とっくに時代遅れなんですけど。文化相対主義、多文化主義、文化多元主義、構造主義。かなり昔の思潮すらまだ咀嚼してないのと。どれだけ低次元な議論してるのか。東京の漫画アニメゲームだのサブカルを真似して憧れてますと。馬鹿なの? 「贅沢をしていた証拠」って下品なだけなんですけど。私、桂離宮も修学院離宮もいきました。普通に、弘道館や西山荘の方が上品だし高貴だと思いましたよ。質素な美の方が格上ですから。ちゃんとみてるのか。ちゃんと見たほうがいいですよ? 私は純粋に芸術を評価する目でみてますから。京都で寺を金ぴかにしたり庭を立派にしたりするのは、仏教の本旨にもとりますから、腐敗の証拠に過ぎないわけじゃないですか? そんなのを世界遺産にしてさらに金をもらっている。観光収入をむさぼっていると。じゃあ私は佐竹寺にいきましたと。人っ子一人いないし、実に清楚で素朴ですと。金閣寺も銀閣寺も行きましたよ? 詩仙堂もいきました。詩仙堂はまあまあ面白いかもしれないけど、それでも私んちの庭の方がいいなと思いましたよ。なにせ華美に凝っているのは下品なだけですからね。本質的に精神の表現なんです。芸術は。ですから最初の思想が品性に欠いていたら金かけるだけ悪い。
バンクシーは違法アートですと。そしてパブリックアートとかホワイトキューブみたいな既成美術の枠組みとか、いわゆる芸術祭だのなにエンナーレみたいな管理美術の枠組みそのものを、地下文化の落書きを使って批判していますと。その前提があってバンダリズムっぽい美術破壊運動として面白いねと。ところが東京都知事は、そういう公共物だの私有物への無許可の落書きという違法性を前提にしたバンクシー解釈を全く無視し、「国際的、もしくは英語圏で有名だから」「高く売れるかも」とかいう実に下らないレベルで保護しましたとかいっている。馬鹿なのか? 普通に考えて低次元でしょ? 金儲けを目的に、田舎で田畑を相続できなかった次男坊以下の人達が、大坂商人を呼び寄せた家康の作った干拓地に大勢たかってきましたと。そしたら今度は人口比が世界一になってしまって驕り高ぶりはじめましたと。それが江戸から東京圏になった地域の実態ですよね。中身は何もない。ただの商人集団と。じゃあその土地をもたない商人集団がどんな考えで動いていますかと。ろくな考えはなく、単に金儲けに夢中ですと。金になるなら違法アートだろうが賄賂五輪だろうがどうでもいいのですと。それが本音でしょ? 笑えない本音。そしてさらに品性下劣なのが東海道をたどって入ってきて、大威張りすると。
馬鹿は死ななきゃ直らないというけれど、それは現時点でIQも6~7割が遺伝するとかいわれているし、生まれつきの脳のでき自体は変わらないという意味で、確かにそうかもなと思う節がある。教育受けても暗愚な人間は無数にいる。後天的に矯正できる範囲は高が知れていると。品性も脳の一部ではないか?
バンクシーを巡っての現象はまだ誰も騒いでないホームページの段階からずーっとみてたけど、そもそも彼・彼女の作品は公共もしくは既成美術を皮肉るところから出発しているのであって、都が保護しました、とか何も分かっちゃいないなというだけで、落書きって価値がないでしょ? という皮肉なんだよ。
「あなた方が普段、汚いとかふざけんなとかいって次々消してる、この不良の描いた落書き。ここにいきなり芸術性の高い図像を挿入したらあんたら、私達アングラのスプレーペインターを馬鹿にできるの? それとも偉そうに管理された制度の中で金儲けと権威ごっこしてるのしかアートと認めないのか?」
「保護された管理美術。写真そっくりに描かれた絵だとか、抽象表現主義ぶってまきちらされた絵の具の染みだとか、あなたらの好むそれらの図像は、スプレーで型枠どおりにコピーされるこれらのイメージに比べ価値が高い筈ですよね? しかし、私の作る図像を保護したと? なぜ? お金になるから?」
バンクシーの型枠を使って無数にばらまかれているコピーは、この様な管理美術の枠を根本的に皮肉っているわけで、アングラアートとして落書きを認めている彼・彼女当人の反権力的な思想が反映されていますと。「消してどうぞ」というわけです。「上書きしますから、すぐコピーしますから」と。例えばシルクスクリーンで壊れたコピーアートを作っていた、ウォーホルを模したバンクシーのポップアートもどき作品があったと。複製されるイメージの反復としての流用という、流行の文法を使っていると。ですからバンクシーの型枠を使った複製落書きが量産されても本物もくそもないのですよ? バンクシーグラフィティの各模倣物で本質的に問われているのは、「複製物」がオリジナリティをもっていないという流用的側面であって、保護しました、ってなに考えてるの? だってそれコピーでしょ、コピーじゃなかったらオリジナルにもなりえないよね、だって型枠の上からスプレーしただけだよと。そもそも覆面で誰かも分からないから、オリジナルとコピーの境目がありませんと。だって誰もそれが本物か証明できないし、仮にホームページだか作品集にのっていたとしても、それが本物の証拠になりませんと。何しろサインも筆跡も残らない型枠の上からスプレーしてあれば誰でも同じものですからね?
この様な複製アートとバンダリズムの両方から、「じゃあ、これどうする?」「消して」「消すな」と、論争を呼びますと。こういう仕掛けが、彼・彼女が有名になってきた美術史上の文脈なわけでしょ? それに対して、東京都は理解がありますか。ないですよ。コピーを保護して本物なら高いとかいってる。
所詮、町人と呼ばれた市井の庶民が、商人に転化して金儲けしてる都で、品位どころか金以外の評価機軸もないから、バンクシーぽい絵が公共物にかかれてたら隣でねずみ小僧みたにピースしてますと。都知事が。それはアートなのか? なんの? 教えてほしい。どういう意味でピースなのか、なぜ笑顔なの? なぜバンクシーの落書きだけ保護し、その他のものはしないのか。なぜその他のものは器物破損で逮捕なのか。バンクシーが見つかってないだけではないのか。なぜ公共物を管理している都が、金になりそうなコピーなら保護して展示とかほざくのか。じゃあ有名アーティストのバンダリズムは保護されるのか?
ちなみに私はノートルダム大聖堂がぶっ壊れてるのは、割と素晴らしいと思った。なぜなら偶像破壊をイエスも主張していたからだ。「私は剣をもたらす為に来た」「地上に火をおこす為に来た」といっていた。悲劇的だが9.11も芸術的には、資本主義の偶像破壊という意味でバンダリズムだったと解釈できる。本質的に無限の金儲けは貧しい人々との格差を拡大するに過ぎないので、イエスもムハンムドもその対極にある寄付や喜捨を勧めていた。したがって資本主義信徒は邪教徒になるが、もし現代の聖人がいたら彼だってキリスト教やイスラム教の始祖と同じ偶像破壊を主張する筈だ。9.11だの3.11だので人命が大量に失われた。私もだが、それ自体は誰でも追悼の意を表するかもしれない。だがそこで偶像になっていた2つの施設、ワールドトレードセンターと福島原発が破壊されたのは、一種のバンダリズムのアートだといえるだろう。だからあの時、美しいといった人がいたのだ。資本主義の貪欲という悪徳の象徴。ワールドトレードセンターはニューヨークの証券関係者の、福島原発は東京電力という都民の悪意の、象徴だった。それらを破壊するのは、思想の上書きだ。資本主義自体が不幸にしている人がいる、という証明だったのだ。岡本太郎『明日の神話』に福島原発水素爆発の様子を上書きする。チムポムの悪戯バンダリズムは欧米美術史の中では無視されているが、芸術の本質にあるのは破壊的運動だ、それが足りないと最晩年に抽象芸術の極北にいたモンドリアンが、ポロックのアクションペインティングを見たあとで言っている。米軍に結局殺されたビンラディンは、カシオの安価で実用的なF91Wをつけながら、イスラム教徒に非道な侵略戦争を仕掛けた米国資本主義に破壊運動を企てた。それは思想の戦いでもある。バンクシーの皮肉っている対象は多岐にわたるにせよ、東京の資本主義に対し自壊的なのは都知事の態度といえるだろう。
「なんだ、都知事って金の前ではどぶねずみを保護ぶってしまう、品性も法もあったもんじゃない人間が就いてるんだ。では資本主義に基づいた東京なんて最初から虚栄の集団に過ぎないな? 行政のトップすら金が主要な価値の世界なんて、最初から最低の連中じゃないか」となるだけの話でしょ?