2019年4月21日

絵画に於いて正しく間違えること

絵の創造性は常に間違える必要があることだから、明らかに学校教育など科学の教育と使う知能も目的も違う。正解がない上に正解を出そうとするかぎり常にろくでもない凡庸な作品を模倣してしまうからだ。ハイパーリアリズムはルネサンス絵画を模倣した、カメラ・オブスクラから写真へと写す手段をきりかえた結果生まれたものだったが、再現的な画像を模倣するかぎりその技術範囲内にある何かしか生み出せない。そしてそれが唯一の絵画ではないので、絵画にとって写実性は必ずしも正解ではない。ゲルハルト・リヒターが現代アートの一部をそこらの画布に適当に絵の具を塗りつけただけで偉そうにしている、と揶揄していたが、だからといって写実絵画を写真を使うなり直接模写するなり、ただ模造していることが唯一の正解ではないのだから、そこで重要なのはいかに間違えるかである。
 ある芸術作品は、必ずしも金銭的価値に換算されない。一方そこに感動など芸術的価値がある。この2つの価値の違いはポップアートの運動の中でほぼ混同されるに至った。現代美術自体に興味がない人、理解できない人が注目するのは金銭的価値の面だけだ。商人一般は金銭を価値尺度と思っているからだ。商人一般は、成功度も資産の金銭的価値に還元している。同じく彼らは教育歴や人格の価値もこの金儲けに役立つかどうかで評価する。人は自分の価値基準で或る事物を評価する。
 現代美術が大衆商業美術と違う顧客を相手にしていて、理解に知識が必要なのは、結局、教養水準の高い人が顧客だからだ。ここでいう教養は主に美術史を前提とした博物学であり、或る現代美術を非金銭的価値を含め評価するにはその種の知識が必要であればこそ、商人一般の好む大衆商業美術と異なる分野になっている。したがってスーパーフラット概念は所詮、中間芸術を意味するに過ぎないのだ。純粋美術は或る高度な理解が必要な様式、一般に理解できない作品であればあるほど前衛性を認める評価体系をもっている。だからこの傾向をもつ作家が生前に一般大衆から認められないのが当然となる。純粋美術と大衆美術は本質的に違う分野で、商業美術と見ても極めて顧客が限られるものだ。
 理解者をより少なくする、誰からも分からないことをする、世間に対し高踏的にふるまう、分かり易い前衛の高尚さは純粋美術がモダニズムの中で徐々に自覚していた自身を展開する根本力学だったが、ポップアートやスーパーフラットがこの流れに逆行した。だからこれらの美術が二流だったのは確かである。リヒターがウォーホルを「中位のアーティスト」と評するのは、ポップアーティスト自体、中間芸術の担い手に過ぎないという意味だ。同じ文脈で村上隆やクーンズといった流用芸術の担い手らも批判できる。それらは引用を文脈主義の中で弄んでいるにすぎないのだから、創造的であるはずもない。前衛アーティスト気取りも、市場での作家ブランドの差異化の体系に回収されてしまう、という資本主義美術の管理性。ここに我々の置かれている根本的な矛盾がある。モダニズムのごっこ遊びが流用の限界だ。文脈主義自体をのりこえるには、純粋に前衛的であって、手法そのものから真新しくするしかない。
「間違えること」は、偶然性の文脈とは全く別に、創造の本質に属している。しかも正しく間違える必要があるのだ。生物の進化にとっても突然変異や、機会的浮動が何らかの新しい形質を生態に組み込んでいくよう、芸術ミームの進化史の中では常に破壊的革新が必要である。学才や商才と芸術の才は違う。
 芸術の進歩の中で必要な破壊は、何か重要な間違いを犯すことでなければならない。しかもその間違いは必然的で、全人類に影響を与えるもので、禁忌を破り、そのうえ当然そうあるべき問い直しでなければならない。正しい間違いというこの言い方が、科学者だの商人一般に理解できるとは到底思えないが。