2019年4月25日

資本主義教義は単なる一宗教

資本主義に適応するとは根本的に世俗的商業に与することなので、その枠組みでの労働(巨視的には投資も知的労働とみなす)に協賛している。共産主義の搾取概念は、資本主義の付加価値概念を政治的調整の立場から再定義したものだった。同じく労働概念は資本主義の中では奉仕と定義される。
 金銭取引を介しない労働や奉仕があることが資本主義の矛盾であり、これは共産主義の旨とは全く別の意味で資本主義の限界を示している。無償の奉仕なり、全く非奉仕的な自由は資本主義教義の中に組み込まれていない。いわば資本主義は商業の理屈でしかなく、そこに最適化した人は実に労働を極端に狭く解釈し、金儲け以外の広大な生物・無生物活動を抑圧するなり収奪対象とみる様になる。この点で資本主義は常に邪教でしかない。
 資本主義教義を逃れ思考し又行動できる人は、近代以後の文明で最低限の知的水準をもっている証になるだろう。なぜならその枠組みは正に近代の思い込みで思考の牢獄だったのだから。