今から身も蓋もないことを書くが、絵によしあしなど本質的にはない。そこにあるのはいいたいことか、絵の構造自体に象徴されたそれしかない。つまり絵は発言なのだ。発言をあとづけでよいとかわるいとかいう人がいるだけで、作者の側は単に色を塗りつけ、なにかを象徴させ、発言する。絵を描けないとかいっている人をたまに見るが、全く意味がわからない。それは私が絵を描けるからではなく、なにかを発言したがっていないのは当人ではないかと思うからだ。単に色を紙かなにかに塗りつける作業ができない、鉛筆でなにかを模倣するなり、濃淡をつけられない。なぜだろう? 意味不明だ。目が見えない人が偶然なり手先の感覚にあわせ、なにかの図像を紙に塗る。それは描けないとは別の問題だ。
或る女が私にいった、スランプがどうと。全く意味がわからなかった。漫画家の世界と誤解しているのだろうか? 絵画制作で同じ様式の反復に退屈することはあっても、描けないのはありえない。特に、一番単純な様式というべき写実絵画については、単に目の前にある人物なり風景なり、写真に撮られた図像なりをそのまま模写し、陰影なり色の濃淡を画布に写し取ればいいのだから馬鹿でもできるし、その作業ができないなど全くありえない話だ。単純作業すぎて馬鹿以外は飽きるというだけである。写実画はほぼ何も考えずに、単純作業を繰り返せば誰でもハイパーリアリズム風の絵に近づく作業なので、器用でなくとも慣れればできる。だからこの作業の無意味さや馬鹿らしさに気づくのが遅い人が居残っているだけの分野である。何しろ写真なら一瞬で終わるのだから、インスタグラマーの方が利口だ。
では、絵を描く人とそうでない人が出てくるのはなぜか。それは発言したい内容があるかどうかだ。これは欧米絵画の形式主義という専門的ルールと全く別に、或る発言したい感情なり感覚なり思想があって、絵などの形で表現せずには居られないかどうかだ。ゆえに芸術家と職業画家は種類が違うのである。職業画家というか職人の人は、世間的には芸術家、しかも成功したアーティストと思われているわけだが、そして当人達も色々ご大層な肩書きを着け、そうと偽装しようと必死なのだが、現実には単純作業を繰り返して換金しているだけの人物である。絵以外でもそういう作家がいる。発言内容が空っぽなのだ。以前私の親友が予備校でいきなり左手でふにゃふにゃした線で絵をかきはじめ、それを講師達がべた褒めして賞だかなんだかやってたのだが彼は普通にその年も受験におちていたわけだけど、私は全部みてて「? そういうことなのか?」と思っていた。だってそこには内容がないのである。発言内容がない。
例えば商人達はなにかを売って金を儲けようとしている、そしてそれが仕事だといっている。勿論、そこには発言などは要求されないから芸術とはまた違う作業だ。あきんどの発注した建築装飾だのもそうかもしれない。職人がパルテノン神殿だかなんだかに神像を注文制作する。それは内容が独立していない。勿論広義ではこれもアートになるわけだけど、私がここでいおうとしているのは、近代以後でいうところの作品は、発言内容が必要だったという話で、作者が顧客から独立しなにかを語る、という詩的な構図があるのだ。山上の垂訓みたいに。この意味では独白が多いほど多作になるわけだ。
「私は言いたいことがない、だからそのことをいう」とリヒターが誰かを引用してどこかに書いてたが、これは黙ってた方が増しだといえるだろう。結局、芸術と呼ばれている能力の本質にあるのは、発言力の高下で、或る人の精神というか脳内で世間なり世界へいいたいことがマグマ的にあるかどうかなのだ。例えば『ゲルニカ』を描いた時のピカソが、彼の全人生で最も必然に絵画表現を必要としていた筈で、それはキュビズムという形式と関連づけられ発言されたにせよ、彼があの絵で是非とも言わなければならなかった内容は、我々の眼にも、当然それはいわないといけないよね、ってものなわけだ。もし『ゲルニカ』をあの様式以外で、例えば詩だとか小説だとかで表現していたら、また全く別のものというか、回りくどかったり悲劇性を子供には分かりづらく説明してしまったり、普遍性をもった形になったかは疑問で、絵であればこそキュビズムの破壊的印象と調和した一見してわかる表現にできたと。
で、我々が村上隆の絵を見て「下らん」と思うなら、それはこの内容の面がそうだからなのだと思う。文脈主義は分かったよと。内容がオタクを茶化してるだけか、漫画家を挫折した男の似非アニメなら、「それはあなた個人の悩みかもしれないけど、我々としてはどうでもいいことだ」と、発言力がないのだ。
絵が描けないという人は、そもそも心の中に是非とも言わねばならないなにかがないのである。ピカソがふるさとへの空爆にぶちぎれていたとき、彼は絵以外の何かでその悲しみと義憤の丈を表現できたろうか? 近代の芸術家は注文制作をやめたから、詩人のよう自力で内容を語れる。いいたいことがあれば。我々の人生には無視できない発言というものがある。それは人生の神髄を突いている発言だ。「人は死ぬ」とかだ。我々の個人的人生の中で忘れがたい絵が出現してくるのは、そこに象徴なり表現されている内容にも、立派で典雅な様式以上に、無視できない発言があるからである。
1985年11月13日のリヒターのノートに、(多分、ジョン)ケージの発言の引用で「私にはなにもいうことがない、だからそのことをいう。」と書いてあった。リヒターの無思想、非イデオロギー絵画は全て無題といいかえてもいいが、結局これはAIに作業させてるのと変わらないといえるだろう。