2019年4月26日

資本主義社会での解脱

人が他人の為に何かをしようとするとほぼ確実に間違える。他人は自分ではないし、他人の求めなど永遠に分からないからだ。一方で人は他人の助けなしにはほぼ何もできないので、金銭によって他人を動かそうとする。こうして資本主義社会は人類を不可能な作業に誘導し、その中で他人を手段化しようとする悪意の総体としてできている。そこでの有能さとは他人を搾取する、自称付加価値の貪り方であり、いわば他人を欺き貶め掠め取る能力である。しかも労働者を含め資本主義社会への参加者らは他人を顕示的消費で貶め、自分の方が上位で豊かだと誇示しながら、最終的には貧民を虐殺することに満足する極悪人達といってよく、彼らがもし寄付や慈善をするとしても節税か自分の名誉の為、最善でも良心の満足の為といった風で、結局、定言命法的な利他性を欠いているのだ。
 人は資本主義者としてこの市場に参加する限り常に他人から搾取されるのだから、少しも安心できないし、絶えず苦しむ。そこで貪り方が激しいが故に優越感を得ている人ですら同じである。終生彼らは競争をやめられないし、相続税惜しさに死後の名誉の為に慈善ごっこをして済ませていることもある。即ち資本主義者の利己心は究極のところ悪意でしかない。だから資本主義社会とは悪意の体系なのである。そこで最善のふるまいは付加価値・搾取に加わらずに暮らすことでしかない。いいかえれば資本主義社会での解脱とは、金銭取引を拒否して生きることだ。