解脱を悟りの一つとしたガウタマは、生存競争自体を否定しているのだから、この意味で原始仏教は資本主義の金儲け暮らしも当然ながら否定している。他方、スマナサーラ含む日本仏教の世俗派、具体的には法然、親鸞以後の俗坊主らは、今日の創価学会も含め俗世での輪廻を肯定する立場にたっているのだから、解脱そのものを否定している。即ちガウタマの立場を現代にも適用すれば少子化や国の衰退、皇室滅亡、日本国民の絶滅は正しい結果であり、解脱によって空虚(dukkhaの訳語として)から逃れた必然的な高徳さの証明となる。
神道の世俗性が、皇帝ごっこの延長上に皇族が奴隷化した国民を洗脳し、搾取し、納税させるという封建的儀式を国家と一体化させているのであり、この悪しき体制下で人は苦役を逃れられないので、神道信者を国政から排除しない限り、皇族との対比で人種差別や余分な税負担を受ける。資本主義自体を否定し、労働、営業、経営や投資を含む搾取活動を行わずに暮らすことが、皇族排除以前の日本国で涅槃的、無欲という意味で適応になるのはこの為だ。若年層が性自体を忌避しているのは仏教的に正道といえるだろう。