2019年4月26日

労働者の気持ちについて

労働者の気持ちは労働者以外にとって理解できるものではない。労働者がなぜ自ら労働者になるかも当人らに固有の理由があって、外部から窺い知れない。それは労働者自身の無知から来るのかなんらかの目的があって志願されているのか? 労働者にとって商業活動に加担することが正義と混同されているのか? だから共産主義者や社会主義者が労働者の生活向上を目指すといっているのは、実は全く意味がわからない話だ。被雇用者である商人自身はその生活に満足したり、誇りに思っている節さえあるし、当人らは時にその生活形態以外を差別していさえする。つまりは資本家側の妄想なのだ、左派の善意というのは。労働者自身が労働収入や労働者内での競争を至高教義としているのだから、自由主義者の是の方が彼ら自身の幸ですらある。
 本質的に労働者を下流階級とみる考え方を、労働者自身はとっていない。これは労働者を下流と見る右派にとっても同じだ。労働者自身の脳内を十分に観察すれば分かるが、彼らは金銭を労働によって得る生活以外がありうる、と想像だにせず、単に機械の様に育てられ周りに合わせて子供を生んで、労働階級を再生産して死んでいくのだ。そしてその一生を合理化している。たとえどれほど貧困でも同じである。結局、社民主義的な北欧社会と、自由主義的な日米社会を比べた時、後者の労働者は公共意識が低く、利己的な為に、自らの取り分が減っていても気づかないのである。そして後者は労働収入の枠内で一生涯、ラットレースをして死ぬことを望んでいるのである。