上野千鶴子氏「平成31年度東京大学学部入学式祝辞」の「東大女性がもてない」説について、2つ調べた。1つはLora E. Parkらの2015年の論文 "Distance Makes the Heart Grow Fonder: Effects of Psychological Distance and Relative Intelligence on Men’s Attraction to Women" で、心理的距離が近いと男性は低知性な女性により魅力を感じ易いらしいと述べるもの。
もう1つは「エキサイト恋愛結婚」が20~50代が男女403人に調査した結果、女性の方が男性に比べ、収入、学歴、運動神経(体力)、家柄、容姿という調査された全項目で相手と格差がある(自分より低い)と許せないと感じ、格差ある相手との結婚に男性7割がOKなのに女性の6割は考えられないらしいこと。
この2つのことから直ちに結論はできないが、現実に東大女性含む知性の高い女性は男性一般から心理的距離が近い場合に限って敬遠されるかもしれず、しかも東大女性自身が結婚を考える交際相手の男性をかなり厳選してしまう可能性がある。よって上野氏の祝辞でいう、合コン(こんな場に行く時点で社会的知性が高いといえるとは個人的にあまり思えず、もしくは少し軽蔑してしまうけど)の場で成績が悪そうにみせ、東大生と隠そうとする女性は恋愛戦略面で狡猾といえるのではないか?
なぜ心理距離が近いと低知性な女性の方が男性一般にとって魅力的に感じ易いという研究結果があるかといえば、もしそれが事実なら、進化論的な理由があるかもしれない。性差別の文脈とこの本能を含む情動を直ちに混同すべきでないだろう。上野氏はだがそれをしている。本能は性差別となんの関係もない。次に女性一般がもし男性の方が比較的な諸属性において自分より劣っているのが明らかな時、結婚を半数余りがためらうのが事実なら、ここには女性自身の性差別の文脈があるかもしれないし、進化論的な選り好みの本能によっているのかもしれない。なぜなら結婚は本能によるのではなくただの制度だからだ。政治的人間とみたとき、他の動物でも順位が上の雄とつがいになれば雌の社会順位が上がる、という現象がある。この社会的動物性を制度とみなすか、本能とみなすかは議論が要るが、もし女性自身が配偶者の社会的地位を含む何らかの属性を差別選択していることが事実なら、原因は選り好む女性自身にある。
当該祝辞で述べられていることのうち、性差別の全原因を男性全体に向け女性自身を除外しているのは、実に単純化しすぎた図式で、寧ろ女性自身が自らの知性をできるだけ男性一般より劣らせるよう行動しているのは、恋愛戦略的に適応といえるかもしれない。私はその行動が馬鹿げていると思っているけど。なぜこの女性自身の知性劣等化(かわいこぶりっ子とか、女子力とかいわれる)が愚かしいと思うかといえば、知性自体は社会を何らかのよりよい方向、またはその創造的知性を含むより多様な方へ変えていくわけだから、賢い人が生まれ持った資質を十分生かさないのはただの自殺行為と思うからだ。
一方、世帯所得が少ないか非常に多い(1500万円以上)と子供の数が減る(就業構造基本調査、総務省、2012年)が、女性の最終学歴が低い方が出生率が高い(つまり子沢山)、という調査がある(Trends in fertility by education in Japan, 1966-2000.)。ここから単に統計的にいえば、女性が自らの出生数をあげようとした時、少なくとも1250万~1499万円付近の世帯所得が見込める配偶者と、自身が高卒か中卒で婚姻すれば、最大の子供が残せる。いいかえれば現代社会の中で単に出生率の面から適応的なのが、女性の知性劣等化と、男性への収入差別なわけだ。
男性へ、エキサイト恋愛結婚の調査対象になった日本人女性自身の約6割がもし本当に、収入その他の属性で性差別しているとしたら、その原因は単に本能・制度を混濁させた当人の遺伝子の生存戦略かもしれない。この種の社会的差別を女性自身が行う必要を作り出している所得制度を改善すべきではないか? いいかえれば、ある女性の配偶者男性の収入が1250万より低くても、或いは1500万円を超えていても、両性が望む子の数をある程度残せるよう制度改良すべきかもしれない。なぜなら、それによって女性側が配偶者を性差別する誘因が減るからだ。また短大卒以上の教育年数を経た女性が出生率を低めるのは顕示的消費が原因という金森重喜説が正しければ、女性の社会参加という名目で女性の高学歴化や女性自身の所得増加を鼓舞すると、Butz‐Wardモデル(後述)により少子化に拍車をかけるにすぎないのではないか。
(Butz‐Wardモデル:Butz and Ward Model、有配偶女性の賃金の上昇が子供の需要に対して負の効果(代替効果)を及ぼし、これが夫の所得による所得効果を上回るならば、その結果出生率が低下するとするもの。(清水誠「所得が出生に及ぼす影響」2002.3、JGSS研究論文集))
少子化に拍車をかけることを知性の高い女性自身が望むのが単に教育費の高さではない(ゆえ1500万円以上の年収がある世帯の方が1250万~600万程度の年収がある世帯より子供の数が少ない)のは、金森説で明らかだから、奨学金や大学無償化などで出生数は上がらない。肯定行動(affirmative action)は出生率に負の影響がある。
政治的文脈を完全に無視し、出生率を純粋にあげたければ、国内女性一般の低学歴化を推進しつつ、国内男性の年収を1499万円~600万程度に人口当たり正規分布化すればよいことになる。要するに高度成長期と同じ一億総中流を勧奨すればよい。欧米模倣で共働きを前提とすれば移民なしに人口維持できない。
平成末の日本社会は大きな岐路に立っていて、低学歴なことが多い移民労働者の高い出生率を前提に日本国の人口を維持するか、さもなければ今述べた一億総中流モデルに回帰し日本人自身の人口増を目指すか、だ。この点で、上野氏のフェミニズムは後者の為には負の影響があり、当該祝辞の論旨も同様だ。私にいえるのは、米英仏独などで移民の出生を前提にした多文化共生社会が全面に成功しているのではなく、移民排斥運動や極右台頭のきっかけになっている事実(トランプ政権やブレグジット、パリ同時多発テロ事件、AfD台頭)がある限り、少なくとも日本人自身の人口増を無視するのは陰謀だということ。
私個人は博士等の高学歴移民が国内で最も多いのだろう(2014年時点で外国人研究者が5291人近くいる)つくばを抱えている茨城県に住んでいる上に混血の多様化を合理と見るので、移民の正の影響を考え寧ろ移民導入に賛成だが、上野氏のフェミニズムと新自由主義の共犯による日本人少子化推進は論理的帰結の過ちだ。
(つくばの外国人研究者数の出典。茨城県企画部「時代の潮流と茨城の特性」平成26年11月21日、67ページ。)
女性の中でも優秀な人物が、男性の方が数が多い何らかの職業に就くのを妨げられない制度的公平さ、機会平等原理はあらゆる面で貫徹されるべきだが、それと別に、能力差を無視し結果としての男女比を同数に近づける肯定行動と呼ばれる恣意は、企業や役所の効率を下げる一方なのでただの行き過ぎである。
結局、上野氏が祝辞で述べた類のフェミニズムは、(たとえば出展作家の男女比を強制的に1:1にする、あいちトリエンナーレ2019でみられるよう)結果平等を強力に既成事実化させ、それが社会に全面化してくると負の影響として、ひいき(逆差別)で学位や成績等を底上げされた高学歴女性や高所得女性が出生率を減らすと同時に、有能な男性の能力が殺されてしまう。
「そもそも人口増が善か」「文明の進展として少子化は必然でまた社会正義なのではないか」という反出生主義の観点から、上述の論理は批判され得る。私自身も上記が全て政治的に正しいと思わない。単に功利主義面(最大多数の最高幸福)からのみ事実を客観的に分析しただけで、全体の倫理的な再検討が必要だ。