2019年4月30日

公徳抜きに世襲君主や教祖を祭り上げるのは単なる政治的怠惰

世襲君主や天皇などの象徴王権(天皇やローマ法王の場合、教祖を兼ねる)抜きの共和政を望まない主権者は、いわば自分達が政治全体に詳しくなり、自力で判断するという知的負担を背負うことを面倒臭がり、代わりに専用の封建階級にそうしてもらい自分が楽したいだけなのだ。ところがこの代行には致命的な欠点があって、時に自らが奴隷化されてしまう。政治的怠惰の形態が天皇制下の日本やバチカン市国の様な教祖の統治した神聖政治空間だといっていいが、少なくともバチカン市国は世襲以外による統治を繰り返す形式をとっているので徳に応じた統治が可能だが、日本の場合はふさわしくない人物の悪政が容認されるので独裁政治の最も堕落した姿だといっていい。元々単独政治が自分より公徳の高い他人に公共の問題を代行するものであればこそ、この公徳以外の何かで単独支配者を祭り上げるのはただの過ちというべきだ。しかも世襲の政教一致体制の場合、幻想の公徳をそれをもっていない教祖にあてがおうとする為、名実の矛盾は甚だしくなる。
 内心の自由に過ぎない宗教観念で信仰の違う人を貶める政治が不正だという面で、政教分離できない人々の思慮が浅いのはいうまでもないが、更に共和政をとりようもない人々は、元々何らかの意味で知的に怠惰だといえる。