2019年4月12日

お札の富士なら大観の『群青富士』がよい

北斎がいい絵と思ったこと先ず1回もない。特に『神奈川沖浪裏』は欧米人のオリエンタリズムの目に適ってるだけで、はっきりいって駄作だと思う。なぜ欧米人に評価されたらお札の裏面になんてするのか。本当にいい絵だと思ってやっているのか。『神奈川沖浪裏』は波の表現が大げさでわざとらしく、構図も人工的で嘘っぽいし、富士山もいかにもとってつけたよう遠景に配置するなど全体として演技じみていて自然さが微塵もない。当人は劇的表現の為にデフォルメしまくった末にああした様だが、自分は何も感動できない。嘘ついてどうすると思う。
 欧米人の中でも馬鹿な部類の人間が、日本といえばゲイシャ、フジヤマ、異国情緒のする奇妙な世界だと思っているだけの絵が『神奈川沖浪裏』だ。オリエンタリズムに媚を入れる。そんな下衆な文化的態度でいいと思ってるのか、日本政府。自国の誇りはないのか。純粋に欧米よりよい絵なら沢山あると思う。
 自分が浮世絵(浮世絵自体が庶民向けの、分かり易い低俗表現なのは確かだが)で一番いいと思うのは広重『隅田川水神の森真崎』。以前これを流用して色変えた作品作った。未発表だったから今のせる(『筑波山』)。同じ浮世絵でも、『隅田川水神の森真崎』と『神奈川沖浪裏』は全く表現の質が違い、自分が見る限り前者は近景遠景の表現も正統的で非常に美しく自然な上に主題になっている筑波山自体も美的に描かれているが、後者は富士も波も人も全部作り物で嘘臭く、何もよいところがないといってもいい。
『神奈川沖浪裏』が名作といっている人は何も見ていないのではないかと思う。自分は何度もいうが駄作でしかないと思っているし、実際にそうだろう。浮世絵はもっとまじめでしっかりとした表現のものも沢山ある。この作品はただの悪ふざけの部類であり、漫画的表現でしかないのだ。北斎『神奈川沖浪裏』のパロディとして、自分は『茨城沖浪裏』を去年というか数ヶ月くらい前に描いた。抽象的な理想画表現で波の表情やその感覚だけを抽出した。しかしこれは北斎の表現が不完全だからこうしたのだ。北斎はわざとらしく人形とか小船、(いかにも外人好みの)戯画化した富士、明らかに現実の形ではないデフォルメした波などを配置し、人形遊びじみた漫画を描いた。がここで本当に描かれるべきなのは波自体のもつ力、迫力、温度、飛沫の香りや激しさではないかと思う。だから自分はそれだけを抽出した。
 お札のデザインを政府の誰が決めてるのかさっぱり知らないけど、外人に媚び駄作をお札にするとか、本当に絵をなめてるのではないかと思う。幾ら世界中の外人がこの『神奈川沖浪裏』がフジヤマ、ジャパンといってきても、「は?」としかいいようがないのだが。「こんななわけないでしょ」で終わりだ。まあしいてよい点というか計算高く構図が考えられていて、波の崩れる先に富士を配置したり、波のカーブ・雲・船などが円弧で同じ波にかかる、いわゆる視線誘導の工夫があるのはわかるけど、これは本当に初心者的なもので、そこらの予備校で習うレベルの話だから「で?」で終わりなのだが。
 政府の中に(自文化中心主義にふける京都文化庁も含め)ろくに絵画芸術の研究してる人がいないということはこの作品選んでる時点で確かとおもうけど、それじゃあちゃんとした専門家(いわゆる芸大なんちゃらの肩書きとかではなく)に依頼して欲しいと思うのだが。お札。日本として二流の設計なので。まあいってみれば、本当に一流の設計になっていたら、私が見た瞬間に「これは素晴らしい」となるわけで、他の人もきっとなる。そうなってないというのは美的にみて二流三流のできばえなわけだ。しかも貧者の一灯をさらに薄める目的含めてアベノミクス清算増刷なので、デザインくらいこだわって欲しい。
 お札のデザインなんてどうでもいいと思うかもしれないが、そんでキャッシュレスの電子通貨にきりかわるとしても、文化的産物としては半永久的に歴史に残るんだから、本気で設計し、全人類に向け未来永劫、誇りを持てる代物にすべきと思うのだが。本気でデザインして北斎です、『神奈川沖浪裏』が外人の評価が高いので。配置しました。オリエンタリズムな日本像にぴったりですと。だからあなたの税金増刷これで納得でしょ? と。私はそもそも北斎が下らなくて好きじゃないし、当該作品も駄作と思う上に外人評価が主とか二重三重に気に入らない。
 よく考えてみて欲しい。浮世絵って今で言えば漫画であって、いわゆる日本画としては正統的なものではない。庶民が包み紙にしていたものだ。それを行き詰っていた後期印象派のパリ人だかが状況打開の為に、デフォルメの模倣先にしていました。だから日本人で認められた絵と。それは自国の文脈じゃない。日本政府はなぜ格式の高い日本画表現が沢山あるというのに、敢えて庶民による庶民の為のばかでもわかる浮世絵の中でも、しかもフランスの後期印象派の人らによってフランスの美術文化の参照先としてのみ評価されたという文脈にある作品を、敢えて今、お札の裏面にするのでしょう? 考えてるのですか? 外人に媚を売ると。それは既に下品な振る舞いといえましょうが、おもてなしが裏返って今度は外国人主導ですと。フランス人がフランス美術の為に褒めたら、日本の美術批評の文脈無視で、こっちが傑作ってことにしますと。明らかにこれはおかしいと思います。誇りある国の態度とはいいがたいと思います。葛飾北斎という人が現実にどういう人だったか私は直接会ってないからわかりません。しかし『神奈川沖浪裏』を見る限り、まあ俗受け狙って下らない要素を沢山込めてるのはわかるので、実に低俗なところがありますよ。その精神に誇りを感じるかといえば、商業のために実にご苦労なこったとしかいえない。まあこういってはなんですが、町人の中で起きた商業大衆美術の運動が浮世絵とか春画とかだったわけで、そこに高貴なる精神があったかといえば、あまりそうともいいがたい。売れなきゃ直ぐ廃棄みたいな安っぽい版画で、ゴミ扱いされていたと。新たな印刷美術として安価に大量生産できたのは分かるけど。『富嶽三十六景』『名所江戸百景』。風景画のシリーズとして、私が今あげた2つの作品が含まれている。ポップアートとか印象派と比較して、版画による風景画を大量生産していた、大衆美術としての先駆性があると。意味はわかるんだけど、じゃあ純粋美術は? となるわけだ。やはり低俗な国なの? と。
 ではあなたは何をお札にデザインするつもりなのですかと。私は大観の富士『群青富士』がいいと思います。近代日本画は、明治の衝撃の中で欧米美術に対抗し、朦朧体から琳派へと日本独自の表現を模索していた天心の弟子たち(五浦派)に始まり、現代日本画まで命脈がつながっている。その最高峰がこの作品であって、大観は初代の文化勲章受章者ですが、様々な表現を探求した中で、最終的には象徴化された富士の、装飾的表現にたどり着いたと。その最高傑作がこの『群青富士』であって、シンプルな絵に見えるが一見して富士と分かる上に、ひときわ高い崇高な日本精神を表していると。確かに富士という主題は、日本文化の中でも最古の『竹取物語』の最後に出てくるところから、遥かに時代を経て大観、そして現代人まで日本で最も高い山としてまあ外人がいうとおり、象徴として仰がれてきたと。その主題は北斎も扱っていたけど、同じ主題でも、大観は比類がないのではないかと思うけど。
 寧ろなぜ富士をお札の絵として選ぶのに、大観以外から選ぶのかがわからない。北斎の富士の扱い方は、完全に戯画的な遠景として神奈川の位置を点景として示す脇役だけれど、大観のそれは一つの主役で、しかも日本精神の象徴としての扱いである。実作みたけど、これは日本美術では一つの最終形態です。まあ『神奈川沖浪裏』は色々余計な要素が入っていて、一体何が言いたいのですかと分かりづらい。驚かせたいの? 波の怖さ? 何? って感じだが、『群青富士』は無駄が極限までそぎ落とされ富士の崇高さ以外何も示されていない。しかも金以外の背景もなく、一見して崇厳さが伝わる。絵の質が違うと。
 日本政府が私がここで言ってることを読むかどうかわからないが、ほんとちゃんと絵を選んだらいいと思う。外人は北斎みて、アメリカでいえばキャンベルスープ缶とかフランスでいえばムーランドラギャレットみたいなイメージでオリエンタリズム強化する一方で、日本人が猿回しの猿になるだけと思う。しかし改めてみてもこの大観の『群青富士』はとても素晴らしい作品だから、みなも実作見た方がいいと思う。前、国立博物館で見たけど、これより典型的に日本美術を象徴化している作品というのも先ずみあたらない。正統中の正統というべきでしょう。琳派までの全日本画の要素を完全に昇華している。私が現物を見たのは『群青富士』とよく似た『雲中富士図屏風』だった。でも『群青富士』の方がよりよく抽象化されてる様にも思う。