原始人は幸福という言葉を知らなかったが、そこには快苦はあった。動物も同じだ。未来からみれば現代人も未知の概念を知らない。言葉が幸福を義務かのよう法で意識を変性させた。実際、幸福は義務ではない。単に生物は本能に殉じた快を探求するのであり、人が理性と呼んできたより冷静な、上位認知を含む意識状態でも同じだ。
自分が幸福と呼べない、十全な理想状態でない、といかなる人も上位認知せざるを得ないし、もしそう思っていない人がいたら寧ろ向上心がないに過ぎない。だから幸福は当為でしかない。しかもその状態は主観的なものを含み、個人単位で大幅に異なる。
ミルの自伝での彼の立場が幸福を気にするなというものだったのは、ミハイのフロー理論と同質の内容を含んでいる。つまり幸福の定義には没頭が含まれていて、上述の自己の不完全さに対する上位認知が機能しなくなっている状態が必要である。この意味での幸福は本質的に、上位認知の追求を目的視したアリストテレスの定義と違っている。ミルやミハイの幸福を没我的幸福とすると、アリストテレスのそれは理性的幸福といえる。
究極の幸福は人体機能の殆どに変更がない以上、原始人にとっても同じだった筈だから、人類は特定の快楽をそうと認識していたのであり、しかもその一部を幸福と呼び始めた。しかもこの幸福には色々な意味があてがわれ、物質的な過不足のなさ(この意味での幸福を客観的幸福とする)や主観的自己評価(この意味での幸福を主観的幸福とする)を含めた幸福度の概念などにも応用されてきた。だが定義自体が違う以上、特定の幸福をそうと認識するには、言葉自体を変えなければならない。そうすれば、或る幸福には適合しないが、別の幸福にはかなうといった判断ができる。そして我々が諸幸福の中でも最上のものと見なすべきなのは、哲学用語でいう最高善である。最高善自体が人によって違うにせよ、その中で最も普遍的な部分が究極の幸福と一致する。なぜなら最高善を達成していれば、その人は幸福を含むあらゆる状態で最上といえるからだ。
人類は他の動物と類似で、単に繁殖を繰り返すだけの存在としてできているから、この基本的本能を満たされる場合、最も原始的な幸福を得易い(原始的幸福)。一方、最高善は社会的動物として文明の総体を含むものであり、他の全ての幸福を含みつつ、その上位にある概念である。したがって最高善と最高の幸福は、本質的に達成可能な中庸にあてはまるといえるだろう。十全な理想状態が当為のままであり続けるとしても、現実に於いては諸々の徳目は中庸で発揮されると知られているからだ。