2019年4月26日

サブカルチャーは永遠にメインカルチャーになれない

ツイッター上に天才論をしてる人がいて、その人は自分が天才でないとか天才だとか色々いっているのだが、この様な考えは完全に間違っている。天才とそうでない人は元々遺伝子が違うのだ。そして自分が天才側に生まれてみれば分かるが、一般大衆は全く違う種族に見える。サルにしかみえないのである。ただの凡人が天才になることは永久に不可能で逆もいえる。だって遺伝子が違うのだ。漱石が芥川に手紙で「馬鹿になってはいけません」といっていたけど、こんなの天才だったらいうまでもないことなのだ。だって馬鹿にあわせるというのは、人が猿の一員として生きていけないのと同じ話なのだから。
 現実の天才側は、人類界に最初から違和感しかもっていない。だから周りにあわせるのは完全に意図的に、わざとしかできないのであって、一般人になど永久になれない。そういう経験がない人が、私は天才になりたいんですとか私は天才だと思うんですとかいっているのは、概念自体がおかしい。
 ところでこの世には知的障害とか、精神障害と呼ばれている人達がいる。この人達は、凡人には理解できないので、天才と誤認されている場合もある。しかし天才と知的障害、精神障害者はしばしば重なるが、基本的に違う。天才性とは必ずしも知的障害でも精神障害でもなく、単に脳が凡人と違うことだ。美術界でいうと、ダビンチが天才信仰の起源になっているのではないか。じゃあ彼が天才だったかといえば確かに当時の人達とは随分違っていた。だから天才だったのだろう。しかし彼は知的障害であったわけでも、精神障害であったわけでもないだろう。際立った個性があり、有用性が高いと天才と呼ばれる。
 単に独特なだけの人というのもいる。芸能界に多いと思うが、体型が異常とか見た目が極端に中庸で美人扱いされているとかだ。こういう人は脳が天才というわけではないが、見た目が普通や凡庸ではないので、個性を認められている。天才の概念を限定すると、独特な脳を持っている人というべきだろう。美術界では個人業者が独特の作品をかけがえのない様式で表現していると、その人の名が歴史に刻まれる傾向があったので、天才信仰がある。これは独創性への疑義としてベンヤミンの複製芸術概念以後は幾らか懐疑されてるが、ブランドの差異化という意味では複製的な流用手法を含みながら現役である。
 なにがいいたいかというと、遺伝からして天才的な人物が、全力で頂上決戦してる舞台に、そうでない人が参入して勝てるかといえば絶対に勝てない。だから「生まれつき人類全体に違和感しかないんですよ」って人以外は、美術界に長居しない方がいい。中途半端な偽物として歴史から忘れられるからだ。逆にその種の違和感しかない人の中で、しかも美術に幾らかの覚えがあるなって感じの人なら、できるだけこの作業だけやった方がいい。独特さを美術的文脈に乗っければ、必然的に差異化されるからだ。こういう意味で生まれつきの才能が必要という直感は完全に正しいのだ。後天的にカバーできないのだ。
 私の経験上は、どっかの美術っぽい高校から自信満々で予備校に来てた様な輩は、周りの方が巧い(この巧拙という概念自体が当人の妄想した脳内にしかないのだけど)とかいう意味不明な劣等感で消えていく。その人は「他人と違う」ことを努力で捏造していたのだ。最初から遺伝子が違う人ならありえない。逆に「どう頑張っても、自称普通とか言ってる連中がサルにしか見えません」とか「人類って全然共感できないんだけど」と私みたいに感じてる人なら、個性が強いほど認められ易い世界に参入した方がいい。いわゆる空気を読めても読みたくなさが激しいほど、特に芸術界に有利といえる。
 芸術家イメージというのがあって、不思議なことに、世間と違うほど有利なのである。これは近代画家らの活躍があって、奇妙なふるまいをするほど作品も独創的に見えるとかいう心理的効果すら確認されている。素人からしたらダリとかピカソがイメージ作りでやってた色んな演技を素で信じているのである。村上隆が著書でいってたけど、「(芸術的な達成という)光を見て気が狂って死んだとしても、それは全くOK」と。これは極論にきこえるが、天才にとってすればどんな死に方をしても、或いは常識はずれなことをしても、芸術家の枠に入ってれば世間的にはなぜか肯定的に評価されてしまうのである。
 あと、挫折という概念についても書き残しておく。この挫折というのは俗的には凄く忌避されていると思う。特に日本人一般の中で。でも他の分野の成功者もそうだけど挫折した方が劇的な人生になるわけだ? 即ち挫折は過大な目標に挑戦した結果だからすればするほど望ましい。芸術家についても同じだ。例えば小磯良平の人生と、ゴッホの人生を見比べてみよう。我々は小磯の絵をみても「へえ~」ってなるが、ゴッホの絵をみるときは多少とも緊張してみざるをえないわけだ? 流石にマニアからするとゴッホも冷静にみるけど、「こいつ発狂自殺したよな」って先入観は素人の100%がもつ。挫折が益なのだ。挫折を演出していたタイプの芸術家もいる。デュシャンとか。でもそれも含め順風満帆に比べ情報量が多い。だから失敗続きですよって人の方が、天才の証明になってしまうことは疑えない。凡人は大きな挑戦もしないからそもそも挫折しないので。この意味で失敗し易い人の方が有利な分野があるという話。
 こうして考えるとやはり芸術知能の優れ方というのは学問のそれとは全然違う。だから芸術家の才能なり能力を学問的経歴、学歴だの学習歴だのではかろうとしているのは完全に素人のふるまいというべきだろう。だって失敗や挫折の方が高評価になるのだし、しかも模倣性や学習性が低評価になるのだ。
「こいつは明らかに気が狂っている」「どうみても発狂後の作品にしかみえない」「全く理解も共感もできない」「世間を馬鹿にしているのか?」「腹が立ってしょうがない」「なんにもできない無能」「死んだ方がいいのでは」「無視しよう」とか、これは芸術家からすると肯定的評価なのである。
「いいじゃん」「うまい絵だね」「素晴らしい」「美しい!」「私にはできない」「面白い」「いいね」「欲しい!」「かっこいい」「クール!」「なんて凄い絵でしょう」「感動した」とか。これは芸術家が受ける評価の中では最低のもので、要するに鑑賞者と同次元なのである。無視されている方がましだ。
 或る作品の芸術性が最上の部類の時、一般人が言う最高の感想は「理解できない」である。「わけがわからない」。これはその作品がその鑑賞者を超えているからで、その人の既成概念の中にない何らかの表現形態をとりえている証拠になる。しかもできるだけ全人類がその無理解を示していれば傑作になる。
 漫画の大部分というか全部が、次の時代ではごみとして捨てられ、誰からも忘れられていくのは、人は完全に理解しきった物は消費してしまうからだ。アニメもそうだが、分かり易い表現であれば同時代の凡愚は次々消費して捨てている。逆に純粋美術は時を経るほど観客が増えるしくみになっている。理解できない絵は、そこに当人の知識の範囲では把握できない何らかの工夫がある。私は高校生の頃はそういう絵がかなりあったけど、今はもう1個もない。だから自分でそういう絵を描こうと毎日頑張っているけれど、要するに無限に謎かけし続けているのだ。自分で自分に。同時に、未来の人類のために。
 今説明したところで、サブカルチャーが永遠にメインカルチャーになれないのは理解できる筈だ。だってサブカルチャーは俗受け金儲けが目的だが、メインカルチャーの中でもハードコアなファインアート(純粋美術)は、普通に無限謎かけで未来に備えているのである。サブカルは消え、美術は飽きられない。例えばロスコの抽象画はただの色じゃねーか、と漫画オタクからすると意味不明かもしれないが、ポロック以後の抽象表現主義や奈良美智と関連づけられ、オールオーバーの理解ができる展覧会を構成したら、「はあ、なるほど」となり、しかも崇高さを生じさせる視覚効果の説明を受けて「わかった」となる。この理解が及ぶまでの期間は、岡本太郎的感覚論でうろちょろしている一般大衆は、池袋のドトールの壁にロスコの複製版画かかってても素通りしている。私と親友が西口のドトールで実際見た話だ。つまりはそれだけ時間差が用意されているのだ。時限爆弾性が長期にわたるほど偉い画家となるのである。