生まれつきの愚者、生まれつき性格が悪い者、或いはサイコパスに通り一遍の科学教育を無理やり施すと、大抵、とんでもない利己主義者ができて、差別とか搾取とかにその能力を悪用しはじめるのであって、科学教育自体がその人達にとっては有害なのである。悪性者に与えるべきなのは道徳の教育なのだ。
そもそも利他性は知能の中で他人の気持ちを推し量る能力、そしてこの共感性を応用した人助けの習性に依存している。サイコパス度の高い人物を頂点として、悪性者は共感知能が低く、他人の心の痛みを逆に喜ぶ習性を身に着けている。しかも幼児の時点から差があるのは共感知能に遺伝要素があるのだろう。共感知能のどの程度の部分がどの様に遺伝しているかは脳の研究を待つが、もしそれが遺伝しているとしたら、性格の違いがほぼ同じ教育を受けていながら生じてくる理由が説明できる。つまり性格の中でも利他性に遺伝要因がある可能性がある。悪性者は最初から正義を偽善的に、利己性の部分としかみない。
悪用できる道具を多数身に着けている悪性者と、少なくとも道徳教育によって利他性の高い振る舞いをするよう矯正されていて悪用できる道具も殆どもっていない悪性者がいた場合、人類一般にとってより公益的なのは後者である。だから公教育は道徳教育を科学教育より先に、初歩的な段階にするべきである。
日本の伝統的な教育の中でいえば、先ず儒教、仏教、或いは武士道、場合によってはキリスト教やイスラム教等の伝統的な道徳体系の中から、最も普遍性をもっていると考えられる部分を抽出し、その知識を子供の段階で教え、試験し、ここで体系的に正しい選択をとれると判断されたら科学教育に進むのだ。
そもそも自然科学は社会科学の中でも形而上学(後自然学)として最終的段階である倫理学(倫理哲学)の前提となる小知識であり、それを使いはじめに教えられたところの伝統的な諸宗教の中で程度こそあれ普遍性をもつ部分は、当時の水準の自然・社会科学によって徐々に変更が加えられていくものである。いいかえれば、伝統的な道徳倫理を理論から変更するには、自然・社会の全科学の質的変化を理解している必要があるが、単に自然科学、又は社会科学の部分だけを身に着けている人にこれは十分なしえない。これが不道徳な人間が、今日の教育を経ても存外生まれてくる理由である。
文科省の教育課程では道徳・倫理教科が副科目扱いされている。これは明治以後の日本政府の近代科学や工業への劣等感が原因であり、ノーベル賞崇拝や科学と技術(工学)を一体の物として捉える偏見にも繋がっている。だが既に述べたよう悪性者を矯正できねば、マッドサイエンティストが増えるだけだ。
また文科省の歪んだ教育を受けた者で哲学的思考力を欠いた人、或いは国際的な意味で世間知らずな人は、国内の公教育課程全体を知性と混同していて、そもそも道徳性を全人格的教育の目的と少しも思っていない。これは哲学を知らないこと、つまり何らかの学識の部分しか知らないことによっている。
更に、資本主義社会は人々を商人に、特に多数を占める労働者にしたてあげようとする同調圧力を中流以下に無意識に加えたがるが、これは教員自身が政府か企業の被雇用者であり、その自文化中心主義をもつことによっている。だが経営的進歩は差異化によるので、商人自体にも多様性が必要である。すなわち生徒を商人かそれ以外にするかを問わず、教育が既存の労働者一般の再生産過程を歯車的に繰り返すのは、単なる思考停止に過ぎない。市場への媚びとして生徒を労働者の家庭から好まれる就職予備校扱いしている私立学校の場合、余計そうである。多様な生徒を輩出する方がよりよく市場的だからだ。