確かに前衛作家は誰にも理解されないけど、問題は「ただの理解されなさ」と、「芸術的進歩性」は必ずしも一致しないから、完全に自分ひとりでその両者を見分け、後者に全力を使わないと道を誤るということだ。
確かに芸術的進歩性が「正解」という判断自体が、非常に危うい橋の上にある。死後も美術史家に認められるか基本的に分からないわけで、一体、前衛芸術の担い手達がみているミーム上の「正解」は何なのかという問題は興味深い。文脈主義自体が時代遅れになったら、村上隆やハーストも忘却されるかも。
史家や後世に理解されるかどうか、二次市場化されるかどうか、死後に歴史的価値があるとみなされるかどうか、芸術的知能が対象にしているこれらの思慮はその世俗的な面だが、少なくとも最低でもこれらをクリアした上での、純粋芸術的なよしあしが問われるのだから、前衛性はただの最低限度基準だ。
一次市場での価値、売り上げ、収益は、純粋芸術の場合、主要な評価基準ではない。しかし商人は少なくとも一次市場を主要な舞台にしているので、そこでの評価を純粋芸術にもあてはめようとする傾向にある。これは自文化中心主義の一種、ただの商業主義だ。芸術知能は商業知能と必ずしも一致していない。
或る重要な作家の「正解」は、結果として後世が歴史化し、それが正解だったことにしていく。だが作家自身の前衛性の中で最初にその様式が見出された時、世界中の誰も正解だと言っていないので、確かに芸術知能のうち前衛的知能は、他の科学的、哲学的、その他の知能と同じで進歩性があるのは確かだ。或る作家の「正解」は、当人の間違いから生まれることもある。そもそもルネサンスの画家が今日の抽象芸術を見ても、「この下書きはなんだ?」と言っていた筈だ。つまり現代で正解なものは前世からみれば間違いなのだ。近代画家が染みや偶然性や落書きを正解にし始めたのは、意図的に間違えたからだ。
仮想体験の再確認の為に実体験が使われている。つまり、人類一般の知覚は視聴覚メディアに最適化されだしていて、実体験せずに「居ながらに名所を知る」「知ったつもり」になるポスト真実に慣れ始めている。
エンデは文化の大衆化に際し観光地の団体消費の目的に共通仮想体験があるといっている。現代の一般大衆にとって、ライブやインスタ映えスポット等への訪問も、おそらくこの再確認型消費・共通体験が目的になっている節があって、そもそも視聴覚芸術が再現的な時、やはり必然に現実の写しとしてこの消費体験を喚起させるものだったのではないか。現地の紹介写真や代替の風景画の様に。ベンヤミンのオーラの議論で複製物と本物の差異がなくなった、といわれて久しいのだろうけど、確かにフェルメールを見て絵葉書と色が違うと怒った客がいたらしいから、複製メディアを本物扱いする逆転現象は再確認型の消費と並行して進んでいる何かの認識変容現象に違いない。プラトンと違う世界だ。媒体を通じた認知が現実に先行し、複製芸術または芸術自体を通した現実解釈の方が、現実自体より本物になる。これは全体としてただの洗脳ではないか? プラトンは芸術は現実の模倣(今日でいう再現)に過ぎないといっていたが、模倣の方が現実感を持つと認められてしまうと、洗脳が可能になる。オタクが二次元の人格を、現実の人間以上に溺愛する。テレビ芸人として捏造された皇族像を崇拝し、現実の皇族の身も蓋もない下劣さを見なかったことにする。芸術の原罪は偶像崇拝の喚起にあるとすれば、やはり再現的芸術にはポスト真実による洗脳として、最初から致命的な問題があったのではないか。
現実感と現実は違う。現実感、臨場感を再現するARやVRの技術は、いずれも偶像崇拝の悪癖を延長させたものだ。だから再現芸術一般の持つ欠陥を何も変更できていない。純粋芸術が抽象芸術以後に辿ってきた再現性への否定を、ARもVRも何も履行できていない。つまり三流の芸術に過ぎない。リヒターが写真を引っかき、支持体を露わにする。それは写真の持つ再現性を否定する作為そのものの芸術性を強調してあらわす為だ。引っかき方と抽象画の文脈を重ねつつ、写真のもつ再現性も否定してみせる。フォンタナの画布の切り込みと似た意味で、再現芸術の限界と抽象芸術の意味を流用している。
再現性を否定しながら、しかも芸術自体の現実性をいかに表現するか。これが現代美術の中で絵画が探求していた課題だった。その二次元性を中間芸術と重ねて超平面と呼んだ村上隆の理論は、抽象表現主義やポップアート(大衆芸術)を琳派の装飾性と重ねたものだが、私の意見では現実感など絵に必要ない。絵の本質的機能は何らかの思想を伝えることだ。それは再現性によっては比喩にしかならない。抽象度の高い表現においては、どれほど高度で複雑な思想であっても、直接それを表現できる。カントが言っていた、小説のよう虚構を使う必要はなく、詩は理念を直接表現できると。抽象的な絵もこれと同じだ。まだ初心の芸術家は、つい再現的手段に頼りがちである。なぜなら彼らは抽象表現を論理的に理解する段階に進んでいないし、仮に薄々わかっていたとしてもその非再現的手法を公然と行う勇気がないのだ。気が狂ったと思われるかもしれないし、論理的に説明して抽象性を裏付けられないのだ。
実際、私が高度な抽象表現に一度は到達しながら、その後、流用や超平面その他の流行の理論に回帰していたのも、現代美術がモンドリアン以後迷走していると確信を持てず、そうと直感で気づいていたのに国際世間の流行を追うことを論理的学習と勘違いしていたからだ。論理は芸術にとって後任である。
抽象性の高い表現と、単純な表現は違う。単純さはそれ自体で一つの価値かもしれないが、偶像破壊の意味で再現性を否定することが絵画の基本なので(しかもこれを教えてくれる人は誰も居ない。先ず皆素人だからだ)、抽象性が高い表現は全て正しいことになる。複雑な抽象表現は思想自体を深化できる。
資本主義芸術は、大衆芸術だとか文脈主義だとかを流用し、金儲けと作品の芸術性を混同させようとする。村上隆やハーストがその代表者だろうが、彼らは金やダイヤモンドを使って装飾品の二次市場価格をあげようとするが、単なる偽装だ。芸術性自体の価値の方が高いことはいずれ明らかになるだけだ。全世界の美術館、或いは収集家は、最も重要な作品に最も高い価値を与える。これは芸術性自体の価値がもたらす必然的な選好であり、世界中の金やダイヤモンドを作品の質量と同じだけ集めても到底もたらしようがない希少価値である。その作品が複製的であってさえ、芸術性の価値は残る。例えばデジタルデータは無限に複製可能で、著作権が切れてから金銭的に無価値になる筈が、芸術性自体の価値があれば、その作品は未来に渡っても重要であり続ける。この為、複製すれば無限である筈のその作品には、印刷した物とか収録した物とかに或る価値が発生する。原データが代替できないからだ。