2019年4月21日

学歴などでの差別は恥ずべき文化

全ての関西地方の大学や個人がそうなのかは全然知らないが、私が「学歴差別」と呼ばれるだろうものをはじめて見聞きしたのは、関西地方の大学を出ていたり、関西地方で生まれ育った人たちからだった。
 彼ら一部の関西人は「学歴」という言葉で、或る人がどの学校に競争試験で入ったか、又その学校が世間でどう思われているかを気にしていて、しばしば入試偏差値などでその学校の格式を区別しつつ、或る人がその学校の入学者か卒業者でない場合、人格その他を完全に無視して人を差別していたのである。この種の学問や知識自体と全く関係なしに、「学校名」で誰かを先入観で差別するという考え方は、京大修士の或る女性も持っていたのだが、私の知るかぎり当然、知性の印になりえない。前提として皆が一律の学校教育を受けるわけでも目的が高偏差値の大学入学でもないし試験は単なる試験で知性全体の一部をはかるものにすぎないないからだ。それで別の、学歴差別を好む関西人(兵庫県出身で東北大学工学部を出たと物凄い大威張りをしていた或る男)にも知能多様性について教えてみたのだが、何一つ理解できないようでひたすら学歴差別を繰り返す。こういう人物は私の知る限り首都圏や東北圏出身者で、少なくとも一人も見たことがなかった。
 ところが、どういうわけか知らないが(偶然の一致なのか)、関西大学とか関西地方の大学とか、関西圏出身者が、私の接したかぎりでこういう学歴差別をしている人達が大変多くて、勿論それはただの差別だから単なる偏見からくる愚かさの一種だが、何らかの文化的背景が彼らにあるのではないかと思った。さらに彼らの一部を標本化し思考の内容を調べてみたところ、彼らの一人は「世間体」というべき概念で、他人志向の産物として、他人を見下す目的で学歴を使うのが当然だと考えているらしかった。つまりそこで彼らの中で価値をもっているのは差別する為の道具としての学歴であり、知識や学問ではない。
 関西地方は天皇が千年近く住んでいたのに加え、腐敗した受領政治がはびこり、いわゆる身分差別が長く続いていた。だから同和問題と呼ばれる差別に対する戦いがあるのは、東日本出身者の殆どはネットでしか見たことがないだろうが現実にある様だ。恐らく関西の差別文化と学歴差別は関連づけられている。それで関西地方出身の人達は「差別があって当然」と考えている節もあり、勿論それは少なくとも差別の文化自体が先ず周囲にみあたらない東日本からすれば理解しがたい思考習慣の差なのだが、この関西風の伝統的な差別文化に、学歴による差別が上書きされていると思われるのだ。
 Gordon Hodsonの2012年の論文 "Bright Minds and Dark Attitudes" で一般知能と差別的偏見の持ち易さには負の相関がある(いわば頭が悪いほど差別し易い)といわれているが、この「一般知能」が厳密に成立するかとは別に、少なくとも偏見を免れるには批判的思考が要る。
 身分差別の一種として皇室が残存しているのも確かだし、弥生民族や朝鮮半島からの移民として関西地方に定着した人々の中で、差別は身分制と関連づけられながら伝統文化になってきたのだろう。この思考習慣上の妄想は、京都にあっては自文化中心主義となり、関西圏では自称近畿の中華思想になっている。それで関西圏では京都大学を中心に、単に私が接した範囲の学歴差別主義者達(全員が関西圏の大学または関西出身の大卒の人々)の観察の限りでだが、学歴と差別がかなり密接なものとなっている。さも生まれつき違う身分かのよう、彼らが低学歴とみなした何者かを先入観で侮蔑して恥じないのだ。
 一方で、私が首都圏・東北圏で現にくらしてきたかぎり、明らかな学歴差別の様なものは基本的に一度も経験しなかった。私の親も家族も祖父母の代まで全員が大卒だが、彼らも多かれ少なかれ同じではないかと思われる。多分だが東日本にあっては、それ以外の学歴の人々も似た様なものではないだろうか。首都圏・東北圏では身分差別自体がまずほぼ消滅しているから、その様な過去があったということも行政で対策している人以外にとって全然身近ではない。かろうじて関西文化の名残である皇族が身分差別されているが、この人達にしたところでただの関西からの帰化人で、まだごっこやってるなという感じだ。首都圏・東北圏で生まれ育って生活してきた人達全てがそうなのかは分からないが、自分の経験上も、学歴がどうとかで他人を公然と罵倒だか侮蔑だかしている人を見たことも聞いたこともないし、仮にそんな人が公然といても「あいつは馬鹿だ」という感じで、逆に顰蹙を買うのではないだろうか?
 なぜこういう文化的な違いが関東と関西で生じているかは社会学的な分析が必要なので別の場所で考察するとして、私はウェブ上でしか関西出身者とか関西人自体と接した経験が余りなく、全く別の文化に触れ文化衝撃を受けたのに加え、そもそも差別を正当化して恥じない人がいることそのものが驚きだった。特に、「自分が有利な立場にたって、不利な立場の人を罵倒する」という、大卒の学歴差別主義者達のやっている業というのはそれ自体がとんでもなく卑怯な蛮行だし、もし知性が高いとしたら不利な人を助ける立場の者だと並の自覚がない上に、倫理的には下の下と呼べる振る舞いなので、愚劣というべきだ。天皇や公家の支配してきた関西地方に新渡戸武士道みたいな倫理道徳が欠落しているのは当然なのかもしれないが、ネットで実態が分かる以前に、東日本の人達はこの凄まじい文化差がある事実を知らなかったのではないだろうか? 少なくとも私は全く知らなかった。大卒がそれ以下を差別する関西の文化。
 東京や神奈川は東海道の末端だし、江戸時代の始まりから西との往来が激しく、東日本より関西地方との相関性が高い(東京や神奈川は、東日本より関西地方に似ている)というデータがある(東京都の類似都道府県神奈川県の類似都道府県)。関西の差別的風習はこの2箇所に入ってきている筈だ。このため、少なくとも東京や神奈川で、学歴差別的な目にあった経験を持つ人も多分いるのかもしれない。私が都内で暮らしたかぎりその様な経験は一度もなかったけど。
 いずれにしても企業や役所が初任給がどうとか形式的な経歴書に書かせる部分以外で、公然と身分差別を受けたなどありえないと思う。今後この企業や役所が経歴書で学歴云々を見て、形式的に採用を決めるのは、憲法上の法の下の平等に反するので、皇室制度も含め疑義に付されるべきだろう。何らかの能力と学校入学卒業歴に相関があるとは限らないのだから。そして関西地方の出身者とか関西地方在住者自身がこの私による客観的な記述を見て、自分達の属している身分差別が伝統の文化自体が実に劣悪な面を含んでいて、それがない、みたこともきいたこともない文化に比べて優秀だとは到底言いがたい自惚れに耽っているのを自覚した方がいいかもしれない。少なくとも私はその種の学歴差別主義者達の日常的な言動から、とんでもなく野蛮で卑しい考えの人達だと感じたが、当人達は文化環境に染まって思考習慣が堕落していると自覚できず、「差別の存在しない、差別は恥ずべき」「不利な人を助けて当然」な世界を想像できないらしく、説得は無意味だった。
 ある文化は無意識の前提を縛る。そして自文化の特殊性を自覚できるのは、異なる文化を学び取った人だけだ。もし東京・神奈川を除く東日本側からの客観的な批評・評価がなければ、関西人達の一部にいる学歴その他の差別主義者は自分が蛮行しているとは永遠に気づかず、恥も罪も感じなかった筈だ。