2008年1月18日

文明の体系論

なぜ我々は生まれ来るか。我々が地球風土の形態である限り。
 政治・経済・学術は文明にとって等価であるだろう。そしてあらゆる人間の行為はこの域に含まれる。
 我々における最高善は個性の適性に叶う事であると云うべきだ。之を個性の善意志と呼びうる。カントやアリストテレスの理性至上主義を批判して、我々は和辻の風土論に則り最高善の個性を認め直す。それは理性に適う以外の人間的能力にも適合しうるだろう。
 例えば芸術家の技能が理性のみに還元しうるものとは言い切れず、それは科学者にとっても同様である。感情のない芸術は機械的ならざるを得ないし、computerには人間らしい詩を創作しづらい。又悟性的であるということは必ずしも理性的であることではない。そうでなければ医学における人体解剖の様な作業すら不可能になってしまうし、政治家は防衛戦争の様な国際衆度に中庸な行いすら不可能になって倫理的自律を失うだろう。
 芸術は感情の円熟を示す。理性や悟性は感情の為に予備訓練を提供するに留まる。あらゆる人間美とは社交性の洗練に帰着する。より福祉感情に叶うartや行為が我々にとって美的と見なされる。
 よって、我々には地球風の洗練を目指すのが専らだろう。経済の美は芸術敷衍の政治的な技能を意味する。我々は経済的労使の洗練を経ずして芸術美を普く社会化することはできない。
 政治が実践善であるということが学術的真の理論を活かす場を提供する。なぜなら、芸術美とはとある経済技能の理論上のmodelを表明しているものに過ぎない。経済行動が環境文明化への福祉感情の応用である以上、人間の全体は経済美を様々に分業しながら実現しようと働くもの。言い換えれば我々の最終目的は福祉なのだ。美的であるということは人間社交的・反利己搾取的という丈。
 あらゆる人間は感情の洗練においてのみ福祉への階段を上るだろう。福祉の反対概念を利己と定義すれば、我々の目的は利己性の脱構築という共生的行動傾向の究極に至る。宗教的信が教義化された哲学体系なら、我々は利己性を最低教育度を通じて破格しつつあるということ。教育は宗教の伝達でしかない。もし人間が哲学的であるならば彼らは教義の批判という立場で宗教に相反するだろう。人間はソクラテスでなければならない。
 科学大学に寄生する哲学者は彼らなりに科学教を再解釈できるだけで、その範囲において彼らは科学哲学者という宗教学categoryに属する。丁度、仏教徒に属した禅僧が宗教哲学者な如く、科学哲学は宗教解釈の批判的議論という性格を限界と為す。
 哲学は体系的な程それ自体、新たな科学範畴の新設。もし体系が完成に近づくとそれは宗教として固定化する。カント哲学が道徳神学の、フロイト哲学が心理学の、ソシュール哲学が言語学の、アリストテレス哲学が自然学の、本居哲学が国学の、和辻哲学が風土学の、福沢哲学が文明学の創設であった様に。科学の細分には限りなく、我々は我々が持ちうる悟性の限り、無限大に研究分野とそれに累わる知識を増進させることができる。